カラス 〜残酷な世界で〜
        第7話
 
 
 
 部屋数に限りがあるとしても、隠れる方にとってそれは有利に働く。追っ手は楽観的に考えて一人であり、一つ一つの部屋を確認するには時間がかかる。
 追っ手が不利かと言えば違う。
 なぜなら、同時に追われる側にとっても無視できない問題が存在するからだ。
 それは追っ手が部屋を確認する度に発見される可能性が高くなり、現状を打破するための選択肢が確実に失われることだった。
 決して忘れてはいけないこと、それは追っ手は戦いに関する様々な技術を有し、追われる側には期待できる武器も、技術もないと言う事実だった。
 つまり、状況は限りなく絶望的だった。
 
「……クルーガーを倒すしかないのじゃ」
 見つめ合うこと数十秒、マリアベルは静かな口調で自分の意見を口にした。
「理由はなんですか?」
 戦うよりも治安組織に保護を求めた方が安全である。王都の治安組織は飛び抜けて有能というわけではないが、無能でもない。そこそこ信頼に足るのは王都の犯罪発生率と検挙率が裏付けている。
「姉上とメイは今日は出かけると言っておったのじゃ……それに運良く外に逃げられたとしても……滅多に外に出ないわらわよりクルーガーの方が周りに顔が利くはずじゃ。だから、連れ戻されて殺されるのがオチじゃ」
 アッシュはブリュンヒルデとクルーガーがグルになり味方になりそうなメイを遠ざけていると言う可能性も考えたが、口にはしなかった。少なくとも、現状を打破するにはクルーガーをどうにかしなくてはならず、そこまで考える暇がなかったからだ。
「そうと決まれば手加減は無しじゃ! さあ、アッシュ……お主の魔法で辺りを灰燼に帰すが良い!」
 意味もなく胸を反らすマリアベルの前でアッシュはコメカミを人差し指で掻いた。意味は分からなかったが、非常に困っているような雰囲気を漂わせている。
「あの……すみません。魔法は使えないんです」
 その言葉にマリアベルの顔が見事に引きつった。
 当てが外れたどころか、最後の切り札にしていた武器が錆びて、屑鉄になっていたのを初めて知った剣士のような顔と言ったところだろうか。
 だが、二人を取り巻く状況は全く変わっていない。
 ただ、希望が絶望に転じて、さらに拍車が掛かっただけである。
「お主……前に治癒魔法を使ったであろう? 街を灰燼に帰すほどの威力でなくともクルーガーを始末出来るほどであれば良いのじゃ」
 藁にもすがる気持ちで聞き直してみるが、アッシュが首を横に振るのを見て、マリアベルの顔が更に引きつる。
「説明は省きますが、今の僕は『極度の興奮状態』にでもならない限り、魔法が使えないようにされているんです」
「きょ、極度の興奮状態じゃと?」
 思わず声を荒げるマリアベルの頬が朱に染まる。
「……し、仕方あるまい。わらわが一肌脱ぐしかあるまい」
 マリアベルは少しだけ前屈みになり、震える指先で白い寝間着の裾をつまむ。
 大きく深呼吸をするとマリアベルは裾を一気に胸の位置に引き上げた。
 一見華奢だが、猫科の動物のような脚の線が露わになる。子どもから大人に移り変わろうとしている体はある種の儚さを感じさせた。
 マリアベルは目をギュッと閉じていたが、アッシュの視線が足首から太股にゆっくりと移動するのが、何となく感じられた。
 寝間着がたわんでいるので腰までしか見えないが、背徳感を覚えるほど刺激的な光景だった。
 そして、今までとは別種の静けさが厨房を支配した。
「ど、どうじゃ?」
「……」
 躊躇いながらマリアベルは反応を確かめるが、アッシュはマリアベルを見つめたままだ。
「……何をしているんです?」
 羞恥に頬を染めるマリアベルにアッシュは抑揚のない声で言い放ち、一瞬の沈黙の後、マリアベルの顔が怒りで赤くなる。
 ほんの数秒で恥じらいが怒りに転化し、マリアベルは腫れている拳をアッシュの頬に叩き込んだ。何かの折れる鈍い音と同時にアッシュは血を撒き散らしながら吹っ飛び、近くにあった木箱に突っ込む。
「こここ、この愚か者めっ! 『何をしているんです? 』とはなんじゃ! わらわが悲壮な決意まで固めてやったというのに! 聞いておるのか?」
 マリアベルは怒鳴り散らすがアッシュは呻き声を上げるばかりだった。
 
「くそっ! また、はずれかよ!」
 クルーガーは吐き捨て、ドアを叩きつけるようにして閉めた。
 マリアベルを取り逃がすなど予想外だったが、更に予想外だったのは廊下が音を反響させていることだった。声は聞こえるが、場所が掴めない。クルーガーは戦争と戦闘のプロだったが、屋内戦のプロではないために反響した音の発生源を探ると言う技術を有していなかった。
「くそっ! ……あの野郎。傷口を押さえてたのかよ」
 追跡を更に困難にしているのは血が全く落ちていないことだった。即座に止血できない深さまで切り裂いたはずだったが、血が全く落ちていない。それこそ、失血死が出来るくらいに深く切り裂いたにも関わらずだ。
「致命傷でこそないが、動けるような傷じゃねぇんだぞ」
 更に吐き捨てるとクルーガーは追跡を続行した。
 背筋を這い上がる嫌な予感を無視したまま。
 
「折れたみたいですね」
 起きあがったアッシュの第一声が、これだった。
「自分の骨が折れたというのに何を言っておる!」
 鼻血をダラダラと流しながら微笑んでいる姿は不気味だが、マリアベルはアッシュの淡々とした口調に苛立った。
「僕の骨ではなくて、マリアベル様の方です」
「何を言っておる? わらわの骨は折れておらぬ。第一痛みがないのじゃから、確認せずとも」
「マリアベル様……」
 アッシュはマリアベルの手首をそっと掴み、目線の高さまで上げる。
 倍以上に腫れ上がった拳は何カ所も青黒い内出血が浮かび、人差し指と中指が奇妙な方向に曲がっていた。
「折れていないかも知れませんが、これだけ腫れていて痛みを感じない方が変です」
「じゃが……痛みは」
 マリアベルは腫れ上がった右の拳を見つめ、呆然とした。
「おかしいのじゃ」
 冷静に考えれば、自分の全てが不自然に感じられた。
 戦闘訓練もしたことのないマリアベルが並以下の体重とはいえ大人を担いで全力疾走できたことが、クルーガーの攻撃を頭に血が上っている状態で避けられたことの全てが本来あり得ないからだ。
「わらわは……」
「……マリアベル様、今はクルーガーさんを倒すことを先決しましょう」
 問題を先送りしているだけで何の解決にもならないが、マリアベルはアッシュに従った。
 だが、その行動の中には自分のことを知りたくないという気持ちが働いていた。
「分かったのじゃ……じゃが、どうするつもりじゃ? お主が魔法を使えないのでは勝負にもならぬ」
「大丈夫です。状況は変わりましたから」
 そう言いながら、アッシュは突っ込んだ箱の中から灰色の石を取りだした。
「これは何じゃ?」
「これが状況を打開する鍵です」
 マリアベルは信じられない思いで、その小さな石を見つめた。
 
 
 蒼い光を放つ月を背にして、男が立っている。
 白い肌に刻まれた傷の多くは刃物による傷だったが、醜く引きつった火傷の跡が見て取れた。その傷すらも彼に力強さと仄かな色気を添えていた。
「生きてやがったのか」
 クルーガーは信じられない思いで男を見つめた。
 何の取り柄もない男だった。
 意味もなく微笑み、意味もなく優しさを振りまいていた。
 その意味のないものが、全ての計画を頓挫させるとは思いも寄らなかった。
「貴方達が何を考えているかは知りません」
 アッシュの顔に微笑みはなかった。
 人としての存在すら、疑わせるほどに感情が浮かんでいない。
「知らなくて良いぜ。てめぇが知ったところで何一つできやしないんだからな」
 クルーガーはアッシュの実力を的確に判断していた。
 アッシュにはクルーガーを脅かす要素は何一つない。
 魔法でも使えれば多少は違うが、接近戦では役に立たないことも経験上クルーガーは知っていた。
「マリアベル様は僕が守る!」
 叫びとともにアッシュはクルーガーに突進した。
「甘いんだよ!」
 クルーガーは阿呆のように突っ込んでくるアッシュを難なくかわし、すれ違いざまに膝を鳩尾に叩き込む。吐瀉物を床に吐くアッシュの髪を強引に掴み、近くの戸棚に無造作に投げつける。
 戸棚のガラスは全て砕け、叩きつけられたアッシュの背中に破片が突き刺さった。突き刺さったガラスが肉の中で噛み合い、シャリシャリと音を立て、傷を内側から抉る。
「弱いな、弱すぎる。てめぇは自分すらも守れねぇんだよ」
「確かに僕は弱い」
 血にまみれながらアッシュは立ち上がる。
 足は震え、全身を苛む激痛は意志を挫けさせようとする。それでも、意識を手放さないのはマリアベルを守りたい、と言う強い意志があるからだ。
「はっ! 何をいってやが……」
 不意に感じた異臭にクルーガーは戦慄し、言葉を失った。
 嗅ぎ慣れたとまではいかないが、この大陸に住む殆どの人間が知っている匂いだった。
「……まさか。てめぇ! ガスを使ったな!」
 それはコンロに使われている燃料の臭いだった。
 これほど濃厚な臭いをクルーガーは嗅いだことがない。もっとも、ガスには即座に火を点けるのが常識なのだから当然といえた。
 厨房の隅にある水瓶から規則的に気泡が立ち、破裂していた。亀の中を覗き込むことが出来たならば灰色の石が大量に沈んでいるのが見えたはずだ。
「まともな手段で僕が貴方を……殺せるわけがありませんからね」
 口調は涼しげだった。
 一瞬だけ言い淀んだが、それは殺すことに抵抗があるのではなく、『殺す』と口にすることを躊躇ったように見えた。
 アッシュは怪我をしているとは思えない速さで窓へ走り、窓を突き破って飛び出す。
「逃が……!」
 入れ違いに瓶が投げ込まれた瞬間! クルーガー視界は炎で埋め尽くされた。
 
 震えながらマリアベルは炎に包まれた厨房を見つめていた。
 アッシュが勝利の鍵と呼んだ石は珍しいものではなかった。
 普通は料理をする時に専用の容器に水と一緒に入れて使うコンロの燃料でしかない。
 投げ込まれた瓶も蒸留酒に細長い布を入れただけの即席の火炎瓶だ。
 何処にでもあるようなもので二人は明確な殺意を持ってクルーガーを殺した。仕方がなかったとは言え、マリアベルは自分が別の何かになってしまった気がして恐ろしかった。
(アッシュ……早く来るのじゃ)
 呼びかけに応えるように鈍重な動作で黒い影が近づいてくる。
「アッシュ!」
 炎に浮かび上がった影に向かいマリアベルは走り寄った。
 顔が確認できるほど近づいた途端、マリアベルは太股に鈍い衝撃を受けて転倒した。
「マリアベル様!」
「ヒッ!」
 アッシュの胸に倒れ込んだマリアベルは太股を見て、短い悲鳴を上げた。
 太股に長い矢が突き刺さっていた。
 痛みはなかったが、何も感じないことがマリアベルをより混乱させるには十分なものだった。
 
 
 楽観的に考えすぎた、と言うのがアッシュの考えたことの全てだった。
 数メートル先に二人の人物が立っていた。
 一人は月明かりに浮かび上がるブリュンヒルデ。
 もう一人は薄闇に溶け込むように存在しているメイだった。
 いつものエプロンドレスは着ていない。黒革を加工して作ったらしい戦闘服を着ていたが、微表情さも加わって殺人人形と言った風情だった。手には黒く塗装されたボウガン、腰に革の帯で長剣を携えていた。
「貴方がブリュンヒルデ様の配下とは思いませんでした」
 自分の迂闊さを呪いながら、アッシュは非難がましい口調で呟いた。
 考えてみれば、メイは不思議な……互いの共感を利用して好意を得るための、マリアベルと親交を強固にするように誘導する……発言をしていた。
 それが味方だと思いこませるための布石だったのなら、アッシュは騙されたことになる。 味方であるとも敵であるとも言わなかったのだから、メイ自身は何も感じていないだろう。
「それは貴方が馬鹿だっただけよ」
 ブリュンヒルデは口の端をわずかに歪めて微笑む。
 生理的な嫌悪感を掻き立てる微笑みだ。
 アッシュは当然のことながら微笑みを浮かべていなかった。
 そこにあるのは『怒り』。
 背中の皮膚が溶けるほどの火傷を負い、のたうち回っても不思議ではないほどの激痛の中で彼は二人を睨み付けていた。
「どうして、マリアベル様を裏切ったのですかっ? 姉妹なのでしょう? たった二人の!」
 心の中にあった黒くドロドロとしたものの全てを吐き出すようにアッシュは叫んだ。
 そこに自身が傷つけられた憤りはなかった。その叫びにはマリアベルを裏切ったことに対する怒りが込められていた。
「そんなモノと姉妹になったつもりはないわ。それに、その失敗作を始末するように命じたのは私だもの」
「貴方って人は……!」
 なんと叫ぼうとしたのかマリアベルには分からなかった。
 怒りの言葉かも知れない、力の限り罵ろうとしたのかも知れない。
 その言葉を紡ぐ前にアッシュは吹っ飛ばされていた。頭の上を通過する風が収まった頃、悪夢のような唐突さでボトリと切断された右腕がマリアベルの上に落ちた。
「アッシュ!」
 咄嗟にマリアベルは駆け寄ろうとしたが、動けなかった。矢の突き刺さった足が動かなかっただけではない。体全体が意思に従わないのだ。
 マリアベルは痛みを感じてはいないが、それだけだった。自覚がないだけで肉体は確実に損傷し、限界を迎えれば動かなくなる。その限界がマリアベルに訪れた。
「あら? 生きてたの?」
 ブリュンヒルデは凶行の犯人に向かって声を掛ける。
「……死ぬかと思ったぜ。流石にな」
 言いながらクルーガーは肩を竦めた。
 クルーガーにしてみれば、ブリュンヒルデが何を言おうと関係ないことだった。
「こんなこともあろうかと奥の手を最後まで取っておくのが兵法ってやつさ」
「兵法と言うより悪党の常套手段て気がするわね」
「保険もかけずに飛び込むのは新兵か、若い騎士だけさ。正義を守るためには仕方がないこともあるんだぜ」
「正義なんてものを主張しなければ、貴方のことが好きになれそうなのに残念だわ。それにしても、どうやれば炎の中から生還できるの?」
「簡単さ」
 剣にクルーガーは口づけする。
 柄の部分を宝石で装飾した、普通の剣である。一点豪華を狙ったにしては宝石は一つしかない。その宝石にしても色が濁っていて、宝石としての価値は皆無に近い。
「これには魔石が組み込んであってな。風系統の魔法しか使えないが使いようによっては命を守れる」
 魔石とは境界を曖昧にするために使われる宝石の総称だった。複数の魔法を使えるものは、反作用の起きる確率が高くなる。だが、範囲を限定すれば、反作用が起きにくくなる。
 彼は炎に巻かれる寸前に魔石を使い、作り出した風の防壁で身を守ったのだ。
 マリアベルとアッシュにとっては考えられる限り最悪の状況であることに変わりはなかった。
「奇跡の生還を遂げたところ悪いけど、まだ生きているみたいだから殺しなさい」
 『生きている』がアッシュを指していることは確実だったが、放って置いても死ぬくらいはブリュンヒルデにも分かっていた。
「分かってるさ」
 
 仰向けに倒れたままアッシュは動くことができなかった。
 背中の火傷が草に触れているが、大量に血を失ったせいか痛みはない。
 肺と気管を炎で炙られたために、呼吸が困難になりつつある。
 もう少しすれば死ねる。窒息して死ねないにしても、出血多量で死ぬのは遠い未来の出来事ではないように思えた。
 意識が徐々に世界から切り離され、虚無へと沈んでいく。完全に沈んだ時、死ぬとアッシュには何となく分かった。
「よう。放って置いても死ぬと思うけどな、止めは指させて貰うぜ」
「アッシュ! 逃げるのじゃ!」
「うるさいわね。いい加減にしないと貴方から殺すわよ」
(誰だろう?)
 意識が虚無と同化を始める。
 恐怖はない。
 人はそこから生まれて、そこへ帰るのだ。
 生きている間に背負った業を世界に置いて、何もかも捨てて、闇に沈む。
「失敗作も同じ所に送ってやるから、感謝しろよな?」
 見開いていていただけの瞳に影が映る。
 男は何かを振り上げ、その何かをアッシュに振り下ろした。
 虚しく胸骨がへし折れ、砕ける。
 大量の血液が心臓の刻む鼓動と同じように溢れ、止まり、溢れる。
「死んだな。じゃあな」
 彼は月を見ていた。
「アッシュ! アッシュ!」
 彼は誰かに呼ばれていた。
 彼は……彼と呼ばれた意識は急速に闇の中に沈んでいった。
 そこは人が帰るべき場所。
 永遠の静寂と、安らぎに満ちた、それだけの場所だった。
 そこでは誰も彼を傷つけない。
 彼を苛むものはない。
「アーーーーーッシュ!」
(誰の声なんだろう?)

(つづく)


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