「ただいま!」
 自宅の扉を開けたアッシュは玄関で帰りを待っていた妻に優しく口づけをした。
 農作業で荒れた指先が妻の背に回される。服越しの体温がもどかしい、ほのかに伝わる体温は幸せを実感させる。
「いやねぇ。貴方ったら、マリアが見てるわよ」
 口では止めて起きながら、唇を離した後に妻が軽く口づけをする。それは不器用な二人が愛情を伝えるための小さな儀式だった。
 ふわり、と石鹸の香りがアッシュの鼻腔をくすぐる。
 結婚と恋愛は違う。全ての物が現実の上に成立していて、ひどく残酷で、それだけに幸せを見失ってしまいそうにもなる。生活は厳しく、日々の糧を得るための労働は時に神経をささくれ立たせるが、生まれたばかりの愛娘を見ると優しくなれた。夫婦二人で幸せな明日を夢見ることが出来る。
 二人は歳をとり、優れた能力を他人に見せることなく、孫の子どもを見る前には死んでしまうだろう。自分の血を、愛情を次の世代に残すことは二人にとって、全てに勝る価値を持つのかも知れない。
 マリアを抱きながら妻が聖母のように微笑む。
「マリアが喋れるようになったのよ」
 大戦を無事に生き延びたアッシュは辺境の村に小さな家を構えていた。
 排他的とも言える一面がある村だが、馴染むように努力した結果、三人は村人に受け入れられた。余所者には厳しいが、一度受け入れられれば家族も同然だった。
(幸せだ。幸せなんだ)
「貴方ったら何をボーっとしているの?」
「何でもないよ。幸せだなって、僕は幸せだって思っただけだよ」
「そうね。でも、私も幸せよ」
「ごめん、言い直すよ。僕らはとても幸せだね」
 向かい合い、二人は微笑みを交わす。
 取り合った手の温もりを永遠と信じられる。
 人を愛することを何よりも素晴らしいものだと実感できる。
『アッシュ!』
 何処かで聞いた声にアッシュは振り返るが、そこには開け放たれた扉があるだけだ。外に広がるのは辺境の景色だ。
「どうしたの?」
「誰かに呼ばれた気がしたんだ。けど、空耳だよね」
 アッシュは妻に微笑みかけた。
 妻の名前はアクタ。
 アッシュが心から愛する金髪、碧眼の女性。
 
「アッシュ! アッシュ!」
 叫ぶこと、それだけが今のマリアベルに出来る全てだった。
 喉が張り裂けそうになるほどの絶叫は彼女の持つ想いの全てであったが、それは何者にも影響を与えることがなかった。
 振り上げられた剣は狙い通り、アッシュの心臓を貫いていた。小刻みに起こる痙攣が生きているように錯覚させる。彼が生きようと望もうと、重要な器官が致命的な損傷を受ければ、死ぬ。それが現実だった。
「うるさいわね。貴方も殺すわよ!」
 苛立ちに顔を歪めながらブリュンヒルデはマリアベルの脇腹に蹴りを入れる。それだけでマリアベルは吹っ飛び、どす黒い血の塊を吐く。
「! ぐ」
「どうせ、痛みなんてないでしょ? 見苦しいから、痛がるフリは止めなさい!」
 荒い口調とは対照的にブリュンヒルデは冷めた瞳でマリアベルを見下ろしていた。マリアベルの憎悪の込められた視線とブリュンヒルデのそれが絡み合うが、それも一瞬のことだった。
「痛いのは、痛いのは体ではないのじゃ」
「あら、そう?」
 ブリュンヒルデはマリアベルの髪を掴み、尋常ではない膂力を持って引き上げる。マリアベルは動かない体で宙づりにされ、喘いだ。首に大部分の体重がかかり、骨がギシギシと軋み、耐えがたい吐き気に襲われる。
「じゃあ、何処が痛いのかしら? お姉さまに言ってご覧なさい」
 言いながら、ブリュンヒルデはマリアベルの慎ましやかな胸をまさぐり、爪を立てる。それだけで皮膚は破れ、ネグリジェが血に染まる。特に意味のある行動ではなかったが、ブリュンヒルデの嗜虐心はそれなりに満たされた。叫び声が聞こえれば更に良いが、ブリュンヒルデは感情的な問題に関しては無い物ねだりをしない主義だった。
「……痛いのは心じゃ。心が……痛い」
「どうせ、作り物の心よ。感じている痛みも所詮作り物でしかないわ」
 そう吐き捨て、ブリュンヒルデは手を離す。
「……作り物とは、どういうことじゃ」    
「貴方には関け」
「おっと、冥途の土産って奴だ。俺が教えてやるよ」
 ニヤニヤと笑いながらクルーガーがやってくる。剣からは血が滴っているが、それを拭おうともしなかった。
「てめぇは『カラス』ってバケモノの複製なんだよ」
 ブリュンヒルデはクルーガーの行動に顔をしかめたが、止めはしなかった。所詮、クルーガーの知っていることは大したものではない。
「『カラス』は大戦期に王国が作り出した生物兵器さ。魔法と肉体的なポテンシャルが異様に高い。それだけの存在だが、異常な回復力も伴って最強最悪の兵器になった。まぁ、王国にとっては守護者だ。けどな、王国の全ての者にとっての守護者じゃなかったのさ。そんなバケモノがいたら、軍を統率している奴らの地位を危うくするからな。だから、味方が殺しちまったのさ。で、てめえは『カラス』の複製なんだが、魔法は使えねえみてえだし、失敗作なんだよ」
「わらわは作られた人間なのか?」
「そうよ。粗悪な贋作と言ったレベルでしかないけどね」
 自分の存在が音を立てて崩れていく。
 『カラス』としての圧倒的な力もなく、作られた失敗作として処分される。
「アッシュ……お主を助けることすらも叶わなかったのじゃ」
 一筋の涙が頬を伝った。
(アッシュ、すまぬ)
「これが貴方の運命よ」
 
 
 虚無に沈んだアッシュの代わりに、それは活動を再開した。
 それはアッシュでありながら、アッシュではなかった。
 高度な魔法によって、切り離された意識の一部。
 それは自我の芽生えた本来の意識の代わりに造られた。
 それには何もなかったが、力があった。
 それに与えられた使命は『殺戮』と『服従』。
 比類なき守護者にして永遠の殺戮者。
 それを人はこう呼んだ……『カラス』と。
 
 視界の隅で何かが動き出したのを確認し、クルーガーは剣を構えた。
「アッシュ! 生きておったのか?」
「馬鹿いえ! 心臓を貫いたんだ!」
 マリアベルをクルーガーは怒鳴り散らしたが、彼自身生きているようにしか見えなかった。頭の中を幾つかの疑問が過ぎる。
(失血死していてもおかしくない傷で、どうして奴は動けた?)
(どうして、俺を殺すのに自殺まがいの方法を取った?)
 アッシュは……アッシュだったものは残された左手を天に伸ばした。
 その姿は中天に位置する月を掴もうとする動作にも見えたが、死者が死を拒んで足掻いているようにも見えた。
 血溜まりから鈍重な動作で立ち上がり、アッシュの体は変化を始めた。一瞬にして血は止まり、穴を盛り上がった肉が塞いでいく。右腕の切断された部分から骨と糸状の物が瞬く間に伸びて、新しい腕を構築する。変化はそれだけでは止まらなかった。身悶えした次の瞬間、ゴキゴキと背中の骨が軋み、肉を食い破り何かが現れる。
「何よ! 何なのよ! あれは!」
 ブリュンヒルデの困惑をよそにクルーガーは飛び出した。
 その変化は身体に負担を掛けるのか、アッシュは一歩も動こうとしない。背中から骨のようなものが伸びて枝分かれし、赤い繊維がそれを覆う。
「アッシュ! 逃げるのじゃ!」
 クルーガーは足を負傷しているとは思えない速度でアッシュに肉薄し、風の魔法を応用した神速の斬撃を見舞った。
 ガンッ!
 鉄を思い切りぶつけ合ったような甲高い音を発し、斬撃は受け止められた。その時にはもう変化は止まっていた。
「何だ? 何なんだよっ? これはっ!」
 それは一対の翼だった。夜の闇よりも深い色をした漆黒の翼、庭に充満していた薄闇までもが、それを忌避するかのように黒い翼がアッシュの背中から伸びていた。その翼と剣が接するか接しないかのところでクルーガーの剣は止められていた。
 それはアッシュと剣の放つ魔法が拮抗していることを示す物だった。
(こんなの……こんなもの)
「このバケモノが!」
 剣に填められた魔石が一際激しい光を放ち、アッシュの魔法を浸食する。
「止めなさい! クルーガー!」
「うるせぇっ! バケモノなんざ『カラス』だけで十分だ!」
 制止を振り切り、さらに魔石が輝きを増し、徐々にではあるが刃がアッシュへと近づく。
 アッシュはそれを黙ってみていた。
 彼にとって、体を切り刻まれることは意味がない。意識がある限り、魔法によって支配された世界は彼を生かし続けるからだ。
「……っ!」
 裂帛の気合いと共にクルーガーは剣を振り抜き、野獣のような笑みを浮かべる。半瞬遅れて生暖かい血が吹き出し、顔を染める。
「だから、止めれば良かったのよ。腕を見てみなさい」
 ブリュンヒルデの吐き捨てるような言葉に従い手元を見たクルーガーは悲鳴を上げた。その悲鳴は笛の音のような物でしかなかったが、今の彼にはどちらでも良かっただろう。 彼の両腕は肘の辺りから失われていた。
 反作用……その現象自体は過度に干渉された『世界』が元に戻ろうとする際に起きるとされている。クルーガーの腕は『世界』に食われたのだ。
 やや小振りな切り株を思わせる切断面から血が溢れ出していた。ある種の絶望と共に激痛が脳を直撃する。
「お、俺の腕が! チクショウっ! 俺の腕を」
 喚き散らすクルーガーの額に冷たい、華奢な手が触れる。それが誰の物かは考えるまでもなかった。
 アッシュは彼の額に手を当て、ゆっくりと意識を集中し始める。
「バケモノめ! 俺の腕を返せ! 返してくれ!」
 クルーガーは子どものように喚き散らしていた。今まで培ってきた騎士としての矜持も、守り続けてきた『正義』も全てが吹き飛んでいた。自分の命が次の瞬間にも消え去るような状況でこだわれるほど彼の『正義』は強固ではなかった。
「ブリュンヒルデ! 俺を助けろ!」
 叫びながら彼は失禁していた。垂れ流された液体が軍服を灰色に染め、きつめのアンモニア臭が漂う。
 クルーガーに触れている手から輝く緑色の粒子が放たれる。粒子は数を増やしながら、再びアッシュの手に集まり、
「……ヒィッ!」
 声がとぎれた時、彼の上半身は全て吹き飛び、魔法の余波が膝までを消滅させた。粒子が消え去った時、残された二本の足が置物のようにその場に立っていた。
 呪縛されたようにブリュンヒルデはクルーガーだったものとアッシュを見つめていた。
 神が造りだした至高の彫像、魂さえ揺さぶる魅力、それはあまりにも美しかった。
 アッシュはゆっくりとブリュンヒルデに向い、歩き始める。
 残り数歩と言った場所まで近づいたアッシュが取った行動は予想もつかない行動だった。彼は王に従う騎士のように片膝を地面に着き、ブリュンヒルデを見つめた。
「ユニット・アクタ……指示を請う」
 紡がれたのは声ではなく、音声と言うに相応しい物だった。人間らしさの欠片もない、それでいて、美しい音がブリュンヒルデの耳朶を打つ。
「私に与えられたのは『服従』と『破壊』……貴方の指示に従うことのみ」
「アッシュ……わらわのことを忘れたのか」
 兵士は人であるために人間性を捨てきれない。戦場で行われる略奪も逃亡も人としての要素の一つだ。時に人間性は反逆をも招きかねない。それを起こさないためにはどうしたらよいか。『カラス』を造り出した者達は人間性を排除することで問題を解決した。特殊な魔法によって意識の一部を切り離し、それに体を支配させる。編み目を縫うように芽生えた自我は十重二十重の制御により、封印された。
 全てに裏切られたマリアベルとは対照的にブリュンヒルデは沸き上がる歓喜を押さえることが出来なかった。
「私は……失敗作ではないのね」
「はい……そこにいる娘は未熟で私を従わせる要素に欠いています」
「もう一度聞くわ。私は貴方の主なのよね? 失敗作ではないのよね」
「何度問われても答えは同じです」
 喜びに口の端を歪ませながらポツリとブリュンヒルデは呟き、その言葉にマリアベルが反応する。
「失敗作とはどういうことじゃ……姉上、まさか?」
 沸き上がってきた不安をうち消そうとするが、出来なかった。
 心臓が激しく脈打ち、視界がぶれる。
「そのまさか……よ。私も貴方と同じ存在から生み出された『カラス』なのよ」
 人間性の問題を解決すると同時に新たな問題が発生した。人間性を排除した存在は悩まない代わりに、単純な行動しか取れなくなった。それを解決したのが、別のユニットの創造だった。肉体を強化し、意志を可能な限り与えられたユニットは『カラス』を従わせる唯一の存在として造られた。そのユニットも『カラス』と名付けられた。
 
 
 窓の向こうには雪がちらついていた。
 十年前ならば、ガラスは一部の貴族にしか購入することが出来なかったが、今では辺境の村でも手に入れることが出来た。部屋が十分暖まっているため、ガラスを結露が覆っている。
「幸せよ……ね」
 二人用のベッドに横たわりながらアクタが呟く。小さな声は幸せとそれを失うことへの不安が入り交じった物だった。隣で寝ながらアッシュは妻の言葉を聞いていた。聞き流している振りをしながら、一つ一つの言葉を記憶する。
「でも、怖いわ。この幸せが奪われてしまいそうで」
 縁がないと諦めていた二人が、初めて掴んだ幸せがそこにある。
「今でも信じてるのよ。私たちを望んでくれる神様がいるって」
(アッシュ!)
 叫びが耳朶を打った。幻聴かも知れないが、それでも叫びは届いていた。
「どうしたのあなた?」
「……声が聞こえたんだ。誰かの、声が」
 
「まだ、死んでいないようね?」
 浅く呼吸を繰り返すマリアベルを見下ろしながら、ブリュンヒルデは呆れたように肩を竦めた。生物兵器としての特性なのか、常人ならば死に至るほどの傷を負いながらマリアベルは生きていた。
 『カラス』となったアッシュにブリュンヒルデが命令したのは単純なことだった。それは、出来るだけ苦しませて殺せ。その後、手加減された魔法がマリアベルの体を打ちのめした。本来の威力からすれば、掠った程度の威力なのかも知れないが、発生した高重力が骨を軋ませ、放たれた烈風が皮膚を切り裂き、紫の雷光が体を内部から灼いた。
 雷光に痛みを感じさせる効果があることを知ったブリュンヒルデは執拗に、それを繰り返させた。何度も叫び、『死』を強く意識したが、マリアベルは全身全霊で『生』にしがみついていた。
「どうせ偽物の命じゃない? 私達のように『カラス』としての価値もない。死んだ方が幸せよ」
 造られた命と心を手放し、苦痛から逃れる。今置かれている状態を考えれば、それは甘美な誘惑にも思えた。
「イヤじゃ……」
 何の感触もない地面に倒れながら、マリアベルはブリュンヒルデを睨み付けた。痛覚のみならず、全ての感覚が鈍くなりつつある。すでにマリアベルには自分がどのような状態なのかも分からない。
「確かに……わらわは造られた存在かも知れぬが……わらわの想いは、わらわだけのものじゃ。そして、わらわの命はアッシュが守ってくれたものじゃ……なのにわらわから死を望んではならぬ」
 言葉と共に血を吐き出しながらマリアベルはアッシュを見つめた。ブリュンヒルデの傍らに彼は立っていた。全身に刻まれた傷跡は『カラス』になると同時に消え、優しく撫でてくれた手は切り落とされた。微笑みを浮かべていた顔は能面のようになっていたが、マリアベルにとって彼はアッシュだった。
「彼の手で死ねるなら本望でしょ? 命令よ! 絞め殺しなさい」
 視界がぼやけ、耳に届く音は小さくなりつつあったが、マリアベルにはアッシュがのし掛かってきたのが分かった。
「アッシュ……わらわのことを……マリアベル・ブラウニングが存在していたことを忘れるでないぞ」
(わらわはお主のことを愛していたのかもしれぬ)
 気管が圧迫されるのをマリアベルは遠のく意識の中で感じていた。
 
(……お主のことを愛していた……)
「……そうか。そうだったんだ」
 アクタから離れた位置に立ち、アッシュは手を見つめていた。男のものと呼ぶには繊細すぎる手、だが、この手が幾千の人の命を奪い、同時にマリアベルの寂しさを癒した。
「どうしたの?」
 声を掛けてくるのは最愛の女性だった。
 だが、彼女は死んだ。
 逃亡中に……それは上層部に仕組まれた逃亡劇だったのかも知れないが……『カラス』部隊は砲弾と魔法により全滅したのだから。
 彼は……彼だけが生き延びた。
 創られた『カラス』達の中で彼だけが『特別』だったために、底なしの絶望と身を焦がすような憎悪と引き替えに生き延びた。
「何もないなんて、君の死から進まないための言い訳だったんだ。私は……いや、僕にはマリアベルがいた。マリアベルが僕のことを想ってくれた」
 過去を想うあまり、大切なことを彼は忘れていた。
 意地っ張りで、寂しがりやの少女が気づかない内に一人の青年の孤独を癒していたことを、彼女が自分を必要としていることを。
 互いに孤独を癒せるなら、それは幸せなのかも知れない。
 傷の舐め合いだったとしても、過去に縋り、今の自分を想ってくれる人を悲しませるより素晴らしいことなのだから。
 『幸せ』の世界が崩れていく。崩れた世界から滲みだしてきたのは『闇』。
 『闇』はアッシュの体にまとわりつき、さらに奥へと引きずり込もうとする。奇跡的な休止を取っていた魔法がアッシュとしての人格を消そうと発動する。
 指の間から砂が零れるように、消えゆく意識をアッシュは必死で留める。
「僕は……アッシュだ」
 『カラス』としての力では人の心を救えず、アッシュとしての力では大切な人を守れない。彼は、かつて自由を望んだ。失われた代償は遙かに大きく、アッシュとして生きた十年間に得た物は何者にも代え難い。
「マリアベル様……僕は貴方と共に生きたい」
 その名前は彼の想い、続く言葉は唯一の願い。
『私達を望んでくれる神様がいるって信じてる』
 届くことのない祈りを繰り返すのではなく、守護してくれる神を待ち続けることを止め、想いを守るために、唯一の願いを果たすために、彼は自分の意志で選択をした。
 
 
 マリアベルは混濁する意識の中で誰かに抱きしめられていることに気がついた。伝わる人の温もりと優しさから、マリアベルはそれが誰か瞬時に悟った。
 意識を浸食される不快さはなく、マリアベルはその人物と決して切れることのない絆を強く感じる。
「……アッシュ?」
 瞼を開くと吐息が感じられる距離にアッシュの顔があった。そこには春の木漏れ日のような温かさを感じさせる、孤独と絶望を払いのけるほど、優しい微笑みが浮かんでいた。
 その後ろに漆黒の翼が覗いていたが、彼は間違いなく、マリアベルのアッシュだった。
「本当にアッシュなのじゃな?」
 その言葉にアッシュは微笑みながら首肯する。
「何をしているの! さっさと失敗作を処分しなさい!」
 ヒステリックなブリュンヒルデの声にアッシュは顔を歪ませる。それは『カラス』としての意識を無理矢理押さえ込んでいるために起きた拒絶反応のような物だったが、アッシュはそれに耐える。
「そんなこと……出来るわけないじゃないですか」
 マリアベルを抱きかかえ、アッシュはブリュンヒルデと向かい合う。淡く緑色の輝きを放つ、粒子がアッシュとマリアベルの周りを舞う。時間を遡るようにマリアベルの傷が癒える。
「なら、私が殺してあげるわ!」
 メイの腕からボウガンを奪い取り、ブリュンヒルデがマリアベル目掛けて矢を射る。だが、その矢はマリアベルに届く前に威力を失い地面に落下する。
「な……!」
 一流と称される魔導師すら相当な負担を強いられる治癒魔法を使いながら、アッシュは他の魔法を使ったのだ。ブリュンヒルデは改めて、相手が常識外の化け物だと実感した。
「姉上……」
 マリアベルは弱々しい声を漏らす。
「姉上……わらわが邪魔ならば、わらわは姉上の前から永遠に姿を消すつもりじゃ。だから……」
 殺されかけても、いや、殺されたとしてもブリュンヒルデはマリアベルにとって唯一の姉だった。
「諦めたふりをしていても、わらわは姉上に愛して貰いたかったのじゃ。姉上がわらわのことを嫌うのなら、それで良いのじゃ……わらわがいなくなる」
 それは別離の言葉だった。
 マリアベルは姉を憎みきれなかった。
 そして、愛していた。
「いなくなる? いなくなるから……どうだってのよ!」
 ただ、その言葉はブリュンヒルデを激発させるだけだった。
 彼女にとって、望んだ全てのものを有しているマリアベルの言葉は憐れみにしか思えなかった。
 悲しいほどに心がすれ違っていた。
 一度途切れた絆が再び、結ばれることはない。
 歩み寄ることさえできない、そんな絶対的な拒絶があった。
「いなくなって……一生、貴方の影に怯えながら生きろとでも言うのっ?」
 ブリュンヒルデにとって、マリアベルは恐怖の対象でもあった。
 全く同じでありながら、自分にないものを全て持っている他人を認められなかった、受け容れられなかった。
「……あの人が新しい『私』を創ると言った時に、新しい『私』を創った時に殺しておけば良かった」
 糸が切れたようにブリュンヒルデの体から力が抜ける。
「……姉上?」
「……ふ、ふ、ふふふ、そうよ。やり直しは今からでも効くのよ! あの人がそうしたように!」
 透明な笑みを浮かべながらブリュンヒルデは中指につけていた指輪に意識を集中する。
 現れたのは無数の白い炎。
 それらはブリュンヒルデの周りを魚の群のように周回し、アッシュ達に向けて一斉に牙を剥いた。
 次々と襲いかかる炎から身を守るべく、マリアベルを抱えたままアッシュは漆黒の翼を羽ばたかせ宙に舞う。
「やり直しなんてできるわけないじゃないですか!」
 追尾してくる炎を次々とかわし、時には無効化させながらアッシュは叫んだが、ブリュンヒルデは狂ったように笑いながら次々と炎を生み出す。
「アッシュ、姉上を助けて欲しいのじゃ」
 その言葉にアッシュは頷くことができなかった。
 『カラス』の力は破壊するだけの力だ。
 手加減ができないほど、強大な力だった。
 何を言うべきか逡巡し、それが致命的な隙を作った。
 一発の炎がアッシュの翼を灼き、バランスを崩したのを切っ掛けとして無数の炎が襲いかかる。咄嗟にアッシュは魔法の無効化とマリアベルの周囲に防壁を張る。
 炎はアッシュの体を灼いたが、体を傷つけることはできなかった。
 いや、傷つく側から体が治癒していると言うべきだろうか。炎が体を傷つけるよりも、肉体が治癒する方が早いのだ。
 だが、ブリュンヒルデはその事実に気がつかない。
 ここぞとばかりに魔法を連続して放ち、
「私の前から永遠に消えてなくなれ!」
 世界が弾けた。
 
 
 地面に降り立つ。
 焼けこげた臭いのする地面、ブラウニング邸の庭に敷き詰められた芝の量からすれば大した量ではないが、そこには芝がなかった。
 その中心にブリュンヒルデはいた。
 上半身の右半分が焼けただれ、美しかった顔は目を向けられないほど悲惨な有様だった。
 金色の髪は焼けこげ、瞬間的に熱せられた右目は弾け、濁った液体だけがそこに右目が存在していたことを示していた。左目は白く濁っていた。弾けはしなかったものの瞼を押し上げるほどに膨れあがった、それは本来の役割を果たすことはないように思えた。
 右腕は肘の辺りでなくなっている。
 腕は魔法の反作用で世界に喰われたが、体は生み出した炎に灼かれたのだ。
 そのような状態でもブリュンヒルデは生きていた、死んでいなかったと言うべきかも知れないが。
「……姉上」
 蒼白を通り越して紙のように白くなったマリアベルが呟く。
 傷は既に癒えていた。 
 破けた寝間着から白く魅力的な肌がのぞいている。
「マリアベル様……見ないで」
 アッシュはマリアベルの顔を自分に向けさせ、背中から回した手で目を覆う。
「あ……あんたさえ……いなければ」
 微かに動く唇はそう言っているようにアッシュには見えた。
 ヒューヒューと笛のような音がブリュンヒルデの捲れあがった唇から漏れていた。肺機能が著しく低下している証だった。
「アッシュ、姉上を助けて、魔法で癒して欲しいのじゃ」
 今のアッシュにならば、ブリュンヒルデを完全に治癒するなど造作もない。
 だが、心情的にアッシュはブリュンヒルデを治癒させたくはなかった。
 助ければ、ブリュンヒルデはマリアベルを殺そうとするだろう。
「……」
 わずかな逡巡の後、アッシュの周囲に淡く輝く緑色の粒子が乱舞する。
 が、風を切り裂き、飛来した矢がブリュンヒルデの心臓を貫いた。
 ブリュンヒルデは大きく、大きく痙攣し、動かなくなった。
 それがブリュンヒルデの最期だった。
「あ、姉上」
 マリアベルの目が限界まで見開かれる。
「……メイさん」
 小さくアッシュは射手の名を呟いた。
 そこにはメイが立っていた。
 普段と変わらない無表情を顔に張り付けた彼女は笑っているようにも泣いているようにも見えた。
「……どうして? どうして、姉上を殺したのじゃ?」
「これで良いんです……ブリュンヒルデ様は破滅を望んでいましたから」
 激高するマリアベルに、どこか、悲しげにメイは言い返す。
 その言葉の意味をアッシュもマリアベルも理解することはできなかった。
 言葉に秘められた重みすら感じられなかった。
「狂って……狂ってしまうまで運命に向かい合う必要なんてなかったじゃないですか?」
 ブリュンヒルデの亡骸を抱きしめ、メイは遠くに逝ってしまった主に向かい語りかけた。 一筋の涙が頬を伝う。
「この世界中の全ての人が貴方を見なくても、愛さなくても……私だけは貴方の側にいたのに」
 その呟きが、どのような意味を持っていたのか。
 理解できるのはメイとブリュンヒルデだけなのだろう。 
 アッシュは何も言えず、マリアベルはアッシュに縋り付いて泣いた。
 三人の間を吹き抜けた風が細い悲鳴のような音を立てた……。

(つづく)


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