秋日和

 

1.京都へ

 

時計の針が5時を回った。今日はこれであがれるはずだ。課長の方を見る。

課長はニヤリと笑ってうなずいてくれた。

「碇君、ご苦労さん。」

「はい。」

課長の言葉にすぐに反応すると、僕は鞄をまとめ始めた。まだ仕事をしてい

る同僚達は半ばうらやましそうに、また半ばからかい気味に、僕を見ている。

僕はそんな視線を無視することにして、帰り支度を急ぐ。

「それじゃお先に失礼します。」

みんなに軽く挨拶してから、部屋を出る。待ち合わせは5時30分に新アル

タ前だったから、環状モノレールで行けば十分に間に合う。しかし、はやる

気分を抑えるのはなかなか難しい。ついつい急ぎ足になってしまう。

「おっ、碇。今日はもうあがりか?。」

営業二課の高橋だった。同期の中では一番親しい奴だが、こいつに捕まると、

あちらこちらと引きずられて、最終的には午前様になるのが常だった。でも、

さすがに今日は捕まるわけにはいかない。

「う、うん。今日はちょっとね。」

高橋はニヤリと笑った。困った。またからかわれる。全部見透かされている。

「今日もだろ?。つれないな、碇は。いくら愛しの麗さんが待っているから

といって、同僚と飲みに行かないのはいけないねぇ。まぁ今日は勘弁してや

るけど。結婚記念日だもんな。で、どこに行くの?。いつものところ?。」

「い、いいじゃないか。べ、別にどこでも!。」

高橋はクックックと笑い、僕の肩をポンポン叩く。

「いやぁー、碇はほんとに正直だよな。」

僕は自分の顔が赤くなっていくのが分かった。高橋は腕を組んで大きくうな

ずく。

「いいねぇ、幸せ者は。で、どう麗さんと薫君の調子は?。」

「ああ、うん、二人とも元気だよ。」

「母子そろって、健康か。よしよし。また今度、薫君に何か持っていくよ。

もうそろそろ一歳だろ。」

「まだまだ先だよ。今7ヶ月だから。」

「へへへ、かわいい盛りだな。いいなぁ、ほんとにこの幸せ者が!。」

「た、高橋だって、早く嫁さんをもらえばいいじゃないか。」

「馬鹿言え、独身貴族はこれからが楽しいんだよ。何を好きこのんで、28

で棺桶の中に足をつっこむ?。まだ早いよ。もっとも、おまえの結婚式の時

にドイツからわざわざやって来た女の子なら別だけど。」

「明日香かい?。んー、やめた方がいいと思うよ。高橋には無理だよ。」

「おー、言ってくれるね。とりあえず紹介しろよ。無理かどうかはそれから

分かるさ。」

「まぁ、いいけどね。それよりも、」

僕は声のトーンを落として、彼の肩に手を掛ける。

「秋子ちゃんはどうするの?。」

高橋の顔がこわばる。形勢が逆転した。

「な、何で、おまえが知ってんだ?。」

「まぁ、その話はまた今度。でもお手つきは痛いと思うよ。」

僕はクックと笑い、呆然とする高橋を残して会社をでて、新湯沢駅に向かっ

た。 

*** 

新湯沢駅から環状モノレールに乗り込んだ僕に、座席に座っていた女の子が

突然声をあげた。

「碇君!?。」

それは、綾波麗だった。彼女は胸元に大きな白いレースのついた蒼いスーツ

を着ていた。そのスーツは相変わらず蒼い頭髪と赤い瞳によくあっていた。

「あ、綾波?」

 去年の四月に中堅商社のガイミックスに就職した僕は、大阪本社で1年間

研修を重ねた後に、この四月に第三新東京市支社勤務となった。苦い思いで

の多いこの地に戻ることは多少ためらいもあった。また浪人生活と大学生活

をあわせて六年間も関西にいたせいか、関西に愛着もあった。しかし、会社

の辞令である以上、拒むこともできないし、また知り合いが多いのを理由に

「これもまたよし」と思うことにしていた。また、職場の雰囲気も悪くなか

った。今日は金曜日ということもあり、新しい配属先になった経理課で歓迎

会をやってくれて、今はその帰りだった。

 しかし、第三新東京市勤務になってから、わずか一週間で、ここ7年も会

わなかった綾波に再会するとは思わなかった。彼女は何も言わない。しかし、

その赤い瞳が僕に何か話しかけるよう促していた。

「げ、元気だった。」

「....」

「ぐ、偶然だね、こんなとこで会うなんてさ。」

「....」

「エヴァを降りて以来だもんね、会うの。ああ、でも明日香から綾波がここ

にいるのは聞いてたよ。明日香は今、ドイツにいるんだけど。」

「....」

「あ、綾波はさぁ、今何しているの?。」

「....ネルフで働いているの。」

「へぇ、それじゃ律子さんか美里さんの仕事を手伝ってるの?。」

「いえ、今は碇司令の秘書として働いているの。」

一瞬、僕の眉があがる。しかし、すぐに平静を装う。

「へぇ、そうなんだ。それじゃ、父さんご機嫌だね。」

綾波は答えなかった。うつむくその無表情の顔が暗かった。モノレールが速

度を落とし、アナウンスが次の駅への到着を告げる。駅に着くと、綾波は立

ち上がり、僕の耳元でささやいた。

「明日、午後7時に新アルタ前で。」

そして、そのまま反対側のドアから降りた。僕は体をひねって、動き出すモ

ノレールの窓から綾波の後ろ姿を追いかけた。しかし、彼女の姿はすぐに雑

踏の中に消えた。

***

 新アルタは第三新東京市の待ち合わせのメッカだ。大スクリーンの下はま

さしく人混みの山で、なかなか前に進めない。時計はすでに35分を回った。

まずい、本格的にまずい。高橋なんかと廊下で馬鹿話してたのがまずかった。

麗は時間にきわめて几帳面だ。しかも怒らせると後が面倒だし。アンケート

調査のお姉さんや新興宗教のお兄さん達をかわしながら、ようやく麗が人の

流れの向こう岸に見えた。しかし、麗にはどこか寂しさが漂っていた。

「ごめん。ちょっと遅れちゃったね。」

「...かまわないわ。」

僕はちょっと驚いた。いつものなら、遅刻をしたら口をきいてくれないのに、

今日は簡単に許してくれた。しかも、表情も何かしら暗い。何かあったのだ

ろうか?。

「どうしたの?。何かあったの?。」

「なんでもないわ。」

「...ふうん、そうなんだ。」

彼女がいったん「なんでもない」と言った以上、絶対何も言わないことは経

験上知っていた。だから、僕は深追いするのはやめた。むしろ、彼女を明る

くする方向につとめた方がより賢明に思えた。

「その青色のドレス、とても素敵だね。」

「なにを言うのよ...。」

頬が軽く桃色に染まって、麗はうつむいた。こういう照れ屋のところは昔と

変わっていない。半分照れ隠しで、腕時計を見る。

「行きましょ。まだ映画には間に合うわ。」

僕たちは映画館の方に向けて、腕を組んで歩きはじめる。それにしても、今

日は麗の美しさを再確認せざるを得なかった。その肌の白さとのドレスの青

のコントラストが非常にはえているし、体型そのものも子供ひとりを出産し

たとはとても思えない。僕は麗にささやくように言う。

「ほんとによく似合っているよ。」

「そう、ありがとう。」

彼女はそう言って微笑んだ。しかし、その表情から暗さはぬけきれなかった。

 幸いにも映画の方は予告編をやっている間に入館できた。映画は非常によ

かった。ストーリーは、心を閉ざした女の子が、男の子の献身的な看病で意

識を回復するものの、現代医学では治療不可能な難病のために、はかない命

を散らしてしまうという悲劇的ロマンスだった。主人公の心の痛みもヒロイ

ンの悲しさも、また二人を見守りながら主人公に心を寄せる女の子のさみし

さもよく描かれていて好感を持てる作品だった。僕もつい涙がでてしまった

が、横目で麗を見ると、ぼろぼろ泣いていて、驚いた。麗は映画を見て泣く

タイプじゃない。それで聞いてみると、「他人事とは思えないから。」とい

う言葉が返ってきた。

 僕たちは映画館をでて、予約を取ってあるフランス料理店に足を向けた。

そこは僕が彼女と初めて二人だけで食事をしたところであり、また彼女にプ

ロポーズしたところでもあった。毎年そこで二人だけで食事をとることが僕

らの結婚記念日の過ごし方になっていた。まだ二度目だが、これをずっと続

けることが僕のささやかな夢の一つだった。

「あなた。」

食事を一通り済ませて、麗が真剣な目つきで僕に語りかけてきた。麗の顔つ

きはいつもシリアスそうに一見見えるが、実は必ずしもそうではない。普段

は割と柔和な表情を保っている。薫ができてからは特にそうだった。しかし

今の表情はかなり深刻な話を持ちかける時のものだった。待ち合わせの時か

ら引きずっていた問題に違いなかった。

「どうしたの、麗?。何かあったの?」

「今朝、電話があったの。赤木博士から。碇司令のことで。」

「父さんがどうしたのさ?。律子さんと籍でも入れの?。」

僕は嫌な予感を感じつつも、平静を装いながら、エスプレッソに口をつけた。

ネルフが解体されてから、父さんは引退して、京都で律子さんと暮らしてい

る。律子さん自身は引き手あまたで海外の大学からも誘いがあったらしいが、

父さんが晩年は思い出が多い京都で暮らすことを希望したために、今は京都

大学で研究を続けている。籍は入れていなかった。僕としては二人に籍を入

れてほしいと何度か律子さんに頼んだのだが、律子さんは頑として受け付け

なかった。僕が問いただしたときでさえも、「そうねぇ、まだおばあちゃん

と言われたくないしね。」と笑ってごまかしていた。しかし、どうも僕に気

兼ねしてのことらしい。実際は、夫婦として暮らしているのに。父さんにと

ってもはや家族と呼べる人は律子さんしかいないのに。事実、父さんにとっ

て僕は家族ではなかった。また僕にとってもそうだった。僕がネルフに呼ば

れる前からずっとそうだった。これからもそうだろう。

「今朝、入院したわ。脳溢血で倒れて。」

一瞬、頭が空白になった。倒れた?、あの人が?。N2爆雷でも死なないよ

うな人なのに?。

「10時頃に電話がうちにあったの。会社に連絡しようかとも思ったけど、

様態はとりあえず安定しているらしいし、もし万一の場合には赤木博士があ

なたの携帯に直接かけることになっていたから、今まで黙っていたの..。

ごめんなさい。」

僕はとりあえず一息ついて、カップをソーサーの上に置いた。しばらく第三

新東京市の夜景に目をやる。この店は元兵装ビルの最上階にあり、眺めがよ

かった。麗の視線は感じるが、考えがまとまらないうちは目を合わさない方

がいい。僕が落ち着かなければ、麗の動揺が更に大きくなる。ネクタイをす

こしゆるめる。そして、麗の方に向き直った。

「とりあえず今は大丈夫なんだね。」

「ええ。」

「だったらいいよ。何かあったら、律子さんが電話をくれるんでしょ。」

「ええ。」

そこで、僕はできる限りの微笑みを浮かべた。

「それじゃ、いまここで心配してもしょうがない。この場はこの場として楽

しもう。これから、ちょっとだけ『エルガー』にいかない?。」

少し考えてから、麗はうなずいた。

***

 僕は綾波と共に元兵装ビルの最上階にあるバー「エルガー」にいた。「エ

ルガー」の片隅では男性ピアニストと女性チェリストがシューマンの「Three

Fantasy Pieces」を演奏している。店内の薄暗い雰囲気に、綾波の黒いドレ

スがとけ込んでいる。少しでも、目をはずしてしまうと、彼女がそのまま消

えてしまいそうな錯覚を覚える。

 彼女の頬は少しだけ紅潮していた。ブルーハワイがそそがれたグラスの縁

を指でなぞっている。僕はそんな彼女を横目で見ながら、グレン・モールド

をストレートでちびちび飲んでいた。

「ねぇ、碇君。私、嬉しかった。」

お酒のせいか、綾波はいつもよりも饒舌だった。

「だって、ほんとに来てくれるって思わなかったもの。」

 僕は何も答えずに、ウイスキーを少し口に含ませる。確かに昨日の彼女の

誘いを断ってもよかった。ただ、そうするための理由がなかった。また僕は、

7年前のキスの意味も知りたかった。そして、どうしてこの7年間連絡を取

ってくれなかったかも知りたかった。

「私ね、碇君にずっと会いたかった。」

彼女はグラスにひとくちつけた。そして、グラスをおいてから目を閉じて天

井を仰ぐ。

「...ただ、連絡をくれさえすればよかったんだよ。」

僕はグラスに残ったグレン・モールドを一気にあおる。喉が焼け付くような

感じがする。綾波はちょっと悲しそうな色を瞳に浮かべて、少しだけ首を振

る。

「できなかったの。」

僕はバーテンダーにグレン・モールドをもう一杯注文する。そして、綾波の

方に顔を向ける。僕と綾波の距離は30センチもなかった。

「...父さんの命令だったの?。」

綾波は少しうなずく。

「僕に会うなって?。」

この問いに対しては、彼女は首を横に振った。何となく腹だたしい気分にな

ってきた。僕は彼女の顔から遠ざかる。

「ふうん、父さんは綾波に誰にも連絡するなって命令したから、綾波は誰に

も連絡しなかったけど、僕に会うなって命令しなかったから、僕に会えるん

だね。」

 自分でも驚くほどの皮肉が込められていた。彼女は悲しそうに下を向く。

「ねぇ、綾波。それってやっぱり変だよ。昔からずっとそうだったけどさ。」

「...」

「ねぇ、綾波の本当の気持ちって、どこにあるの?」

「...」

 僕は自分が綾波を傷つけていることは知っていた。でも、あんな父親の言

うなりになる綾波に対して腹立たしさをとめることができなかった。下を向

いていた綾波の膝元に涙がこぼれ落ちた。それを見た瞬間、僕は不意に猛烈

な後悔に襲われた。

「ごめん。帰ろう、綾波。もう遅いしさ。」

カウンター席から立ち上がろうとした僕の右手の上に、綾波は両手をかぶせ

た。そして、涙を浮かべながらも、何とか笑おうとしている。それはずっと

昔に見た彼女の微笑みだった。昔の気持ちがよみがえるような気がした。

 僕は席に座り直した。そして、綾波の冷たい手を握った。ちょっとでも彼

女の手が暖かくなるように。店の曲はメンデルスゾーンの「Song without

Words in D」に変わっていた。 

***

 「エルガー」を出てから、僕たちが薫を引き取りに冬司の家に着くと11

時30分を過ぎていた。夜分遅かったので、早々と引き上げるつもりだった

が、冬司の「まぁええがな」という言葉にそのまま甘えることになった。冬

司は高校を卒業するとすぐに委員長と一緒になった。もう二人の子持ちだ。

冬司も昔と全然変わっていないが、委員長も負けず劣らず変わっていない。

ただ冬司の言によると、「あかん。前より口うるさぁなったわ。」とのこと

だが、子供が二人いて、しかもその子達が小学生となってはしょうがないこ

とだと思う。僕たちは台所のテーブルを囲んで、委員長が入れてくれたお茶

をすすっていた。目をリビングに移すと、毛布をかけられた薫がすやすやと

寝息をたてている。

「ほんと素敵よね。結婚記念日にビルの最上階でフランス料理。ねぇ、冬司。」

「何ゆうてんねん。わしらかて、今年は結婚記念日に家族でお好み焼き屋に

行ったやん。」

「何いってんのよ。月とスッポンじゃない。」

「アホ。あのな、香奈恵や珠恵を連れてフランス料理屋行けるか?。ジャー

ジでフランス料理屋行けるか?。」

「香奈恵と珠恵は碇君にお願いしたらいいじゃない。何ならこだまお姉ちゃ

んか望に来てもらってもいいじゃない。それにだいたいそこまでジャージに

こだわる方がおかしいわよ。」

僕も麗もうなずく。まったくその通りだ。

「ジャージを馬鹿にするんか、おまえ!。だいたいお好み焼きは大阪の誇り

やぞ。ガチガチに緊張して食べる洋もんのどこがうまいねん。」

「だみだ、こりゃ。」

委員長は今更ながらあきれかえり、冬司は照れ隠しかお茶を飲む。僕らとは

また違った雰囲気だが、とてもいい夫婦仲だということは分かる。僕らがこ

ういう会話をしたら、「そう。」「分かったわ。」「よかったわね。」で終

わるような気がする。

「まぁどこに行くかは別にして、香奈恵ちゃんと珠恵ちゃんは僕らが預かる

から、一度二人で遊びにでも行ったら?。なんなら、一週間ぐらい全然かま

わないよ。」

「ええ、私たちなら、かまわないわ。」

僕たちが口をそろえて言うと、二人は互いに見つめてちょっと赤くなり、気

まずそうにお茶を飲んだ。僕たちはお互いに目をやり、くすりと笑った。そ

のとき時計が12時を指した。

「ごめん、ちょっと長居しすぎたみたいだね。」

「帰るんか?」

「うん。明日も会社あるしね。」

「そうか、あとケーキありがとうな。香奈恵も珠恵も喜ぶわ。」

「いえいえ、こちらの方こそ薫がお世話になって。」

「ううん。二人とも弟ができたみたいって喜んでたから。またいつでも遊び

に来てね、碇君、綾波さん。」

「ええ、ありがとう。」

「じゃ、帰ろうか、麗。」

「ええ。」

 僕は薫を抱いて、玄関にむかった。そのとき、僕の携帯がなった。僕の居

場所を探すように、鳴り続ける。僕と麗は顔を見合わせる。彼女の顔がこわ

ばっている。僕も自分の表情が硬くなっているのが分かった。麗はうなずき、

むずかり始めた薫を僕から受け取る。僕は背広の内ポケットから携帯をとり

だし、答えた。

「はい、碇です。」

『慎治君ね。私よ、律子。』

「はい。」

『多分、麗から聞いていると思うけど、あなたのお父様が倒れて、今入院し

ているの。すぐこっちに来れる?。』

「...そんなに具合が悪いんですか、あの人は?。」

『...容態が急変したの。今の状態じゃ、もうそんなに長くはないわ。』

 律子さんの声は冷静だった。少なくても冷静に振る舞おうとしているのが

分かった。僕は麗に「車に乗るように」と目配せをする。彼女はうなずき、

冬司達に頭を下げて玄関からでていった。一方、僕は律子さんに答える言葉

を知らなかった。

『今更、あの人に会いたくないというのはよく分かるわ。でもこれが最後の

機会になると思うの。この機会を逃すと、一生後悔することになるわよ。』

「...」

『慎治君!』

「...分かりました。明日、リニアで行きますよ。」

『...それじゃ間に合わないわ。』

「今から、車で来いと言うんですか?。京都まで?。そんな無茶な。」

『無茶は分かっているわ。でも、お願い。慎治君。』

「...考えておきます。」

受話器の向こうから、ため息が聞こえてきた。僕にもその意味は十分に分か

るが、しかし、だからといって「はい、そうですか」とは言いにくかった。

『一応場所を伝えておくわ。丸太町にある京大病院よ。分かるわよね?。』

「ええ。」

『そう。お願い。あの人のためにも、あなたのためにも。待ってるわ。』

 そこで電話は切れた。僕は接続が切れた自分の電話をじっと見つめる。父

さんが?。あの父さんがもうダメ?。あの人が?。

「慎治...」

冬司と委員長が心配そうに僕を見つめているのに気がついた。

「あ、あ、あの、い、いやちょっと父さんの具合が悪いっていう話で、いや、

た、多分、たいしたことはないんだろうけどね。ハハハハ。律子さんもけっ

こう大げさだからね。」

僕の言葉を聞いても、冬司は首を横に振るだけだった。委員長は口を手で覆

っている

「まぁ、明日リニアで京都まで様子を見に行くよ。」

「でも、むこうは今から車で来いと言ってるんでしょ?。そうだったら。」

「まぁ、そうだけど。でも今日は僕も麗も疲れているしね。」

「慎治、おまえなぁ、親が生きるか死ぬかっていう瀬戸際で、そんなことい

うか?。見損なうわ。」

僕は冬司たちから目をそらす。彼らには分かるはずのない話だった。

「...あの人とは血はつながっているかもしれない。でも家族じゃないん

だよ、はじめから。」

「そんな...」

「おまえ、何ゆうてんねん。おまえも人の親やろ。そやったら、親の気持ち

も分かるやろ。子供かわいない親なんか、どこにもおらへん。」

「そうよ、碇君。」

冬司と委員長は僕にあきれている。しかし、彼らは僕と父さんの関係なんか

知らないはずだ。父さんは普通の人じゃない。あの人は親子の情などは簡単

に捨てることのできる人だ。現にそうやってきたのだ。仮に僕に保護者とい

える人がいるとすれば、それは美里さんと加持さんぐらいのものだ。麗が玄

関に戻ってきた。僕と冬司の言い合いが聞こえたのかもしれない。

「どうだったの?」

「どうもこうもあらへんがな。慎治のおとん、だいぶ危ないって話しやなの

に、こいつのんきに朝にリニアで行くちゅうてんねん。」

麗は真剣な眼差しで僕の顔をのぞき込む。そして僕の気持ちを理解した上で、

それでも彼女は言う。

「いま行きましょう。」

「慎治、ぐたぐた言っとらんと、行って来い。死に水とれんかったら、おま

え、一生後悔すんぞ。」

「そうよ、碇君。行った方がいいわ。」

僕は冬司夫妻の言葉を聞きながら、麗の顔をじっと見つめていた。彼女は真

剣な顔つきで僕を見つめかえす。僕は目をそらす。しかし、その視線が追い

かけてくる。逃げ切れないなぁ。そんな思いになって、ため息一つついて彼

女に向きなおす。

「分かったよ。行こう。」

麗の顔がほころぶ。冬司も委員長もほっとしたような表情を見せた。それか

ら、僕たちは冬司達に挨拶をして、車に乗り込んだ。

「京都か...、遠いなぁ」と僕はひとり愚痴った。

***

 僕らは冬司の家から、いったん自宅に戻り数日分の着替えと喪服その他必

要なものを車に乗せ、あわただしく出かけた。箱根の第三新東京市から京都

まで、新東名経由でおよそ5、6時間というところだろう。だとすると、京

都に着くのはだいたい朝6時から7時頃というところか。

 僕はハンドルを握りながら、ちらりと助手席の麗を見る。彼女は静かに目

を閉じていた。どうも、物思いにふけているようだ。父さんとの思い出なの

かもしれない。確かに麗と父さんの関係は、僕と父さんとの関係よりもはる

かに親密だった。今回の件では彼女の方が僕よりも確実に衝撃を受けている。

今ではそうではないが、かつては彼女にとって父さんは世界との絆そのもの

だった。そのことを考えれば、今回の京都行きは、僕なんかよりも彼女にと

って意味がある。僕が結局、強行軍で京都行きを決意したのはそれが理由だ

った。彼女には父さんの死に水をとらせたい。それだけだった。

 また、父さんも死ぬ前に一度は彼女をみたいと思っているかもしれない。

案外、薫を一目見たいとも思っているのかもしれない。でも、僕のことはど

うでもいいだろう。ついでに、僕にとってもどうでもいい。あの人が死んで

も、僕には知り合いの人が死んだぐらいの意味しか持たないだろう。

 僕らが結婚してからは、一度も父さんには会ってはいない。だから、あの

人は自分の初孫を一度も抱いていない。僕にはあの人に薫を抱かせる気はさ

らさらなかったし、父さんもそんなことで連絡はしてこなかった。だから、

僕と父さんの間は全くの絶縁状態といえた。

 もっとも、律子さんには時々連絡をいれるし、年賀状の交換もしている(

律子さんへの年賀状は、大学の研究室宛にしているが)。彼女がこっちに来

たときには、必ずうちに寄ってくれるし、薫が生まれたときも、うちに祝い

に来てくれた。僕も関西に出張で行くときは、大学の研究室に寄るようにし

ている。でもいくら誘われても、彼女の家には絶対に行かなかった。行けば

父さんに会うのは当然だったし、それだけは僕は勘弁してもらいたかった。

考えて見れば、僕が父さんに最後にあったのは、麗と一緒に父さんの執務室

に行ったときだった。

***

 そのころ、ネルフは解体が決定されその最後の大詰め作業の時だった。僕

は麗を連れて、父さんの執務室を訪れた。執務室には夕日が射し込め、父さ

んの長い影が床に広がっていた。あいもかわらず手を組んで、そのサングラ

スからは表情がつかめなかった。

「父さん、僕らは今度結婚することになりました。それで、これが結婚式の

招待状です。」

僕はそういいながら、父さんの机の上に手紙を置いた。

「日取りは9月27日の日曜日です。来てくれますよね。」

そんなことは言いながら、僕じしんはあの人が僕のために来てくれるとはま

ったく思わなかった。ただ麗のために出席してもらいたいと思ったのも事実

だった。

「慎治、部屋の外で待ってろ。麗はここに残れ。」

返ってきた言葉はまずこれだった。麗に結婚をやめるように説得するつもり

なんだろうか?。僕はそんなことを思いながら、執務室を出ていった。廊下

には美里さんが待っていてくれた。

「どうだった、慎治君?。」

「さぁ、どうでしょうね。結婚をやめるよう麗を説得するつもりかもしれま

せん。」

「あちゃー。まずいわね。麗だったら従いかねないし。」

美里さんは頭を抱えた。僕らは美里さんと加持さんに立会人をお願いして、

人前結婚式にすることにしていた。僕も麗も形にはこだわっていなかった。

何なら市役所に結婚届を出して、それで終わりとしてもよかった。しかし、

一方で美里さんの強烈な説得もあって、他方で僕はすでに就職していたの

で、その手前、結婚式をあげることにした。しかし、形式にとらわれた場

合、身よりのない僕らにとっては、あまりおもしろくないことになりそう

だったので、それで、形式にとらわれない人前にしたのだ。

「で、でも慎治君。いくら碇司令でも、自分の子供の結婚は喜ぶわよ。し

かもそれが自分の大のお気に入りの麗となんだから。そりゃ、娘を嫁がせ

る父親みたいな気分かもしれないけど...。ひょっとして、それかな?。

うーん、花婿の父でありながら、花嫁の父でもあるとはこれいかに。」

「何、訳わかんないこと言ってるんですか。」

「はははは、いや、ごみん。ごみん。」

そのとき、執務室のドアが開いて、麗がでてきた。

「碇君、司令が呼んでる。」

「うん、分かった。でも、父さんにどんなこと言われたの。」

麗は首を横に振った。

「言えないことなの?。」

麗は力強く首を縦に振った。

「秘密だから。」

僕と美里さんは顔を見合わせる。美里さんの額に青筋が立ちはじめて、「あ

のくされ外道が」とかブツブツ言っている。美里さんの頭には、父さんと麗

とのかなり強烈な会話が浮かんでいるに違いない。

「まぁとりあえず、行ってみます。」

美里さんに苦笑しながら、麗と行き違いに僕が今度は執務室にはいる。父さ

んは先ほどの姿勢を崩さずに、黙っていた。何か考えているかもしれないが、

何も考えていないかもしれない。僕にとってはこの人は相変わらず謎だった。

「父さん、何?。」

父さんは、僕の顔を見ていない。多分僕の足下をにらみつけているんだろう。

しかし、突然顔を上げて言った。

「慎治、おまえには失望した。」

一瞬、頭が真っ白になった。それから血が逆流する感覚を覚えた。僕らの間

を沈黙が漂う。僕は息を整えながら、自分が冷静になるまで待った。

「どうしてだよ?。麗と結婚するから?。」

「そうだ。」

「結婚をやめろ、と言うの?。」

父さんは答えなかった。その沈黙を僕は「イエス」と捉えた。冷静になった

はずなのに、再び腹の底から怒りがこみ上げてくる。父さんは僕に嫉妬して

いるに違いない。この人にとっては、麗を奪った僕はもはや敵なのだ。いや、

最初からそうだったのかもしれない。少なくとも自分の言うことを聞く道具

でない限りは。

「...そうですか、父さんの言いたいことはよく分かりました。でも、僕

は麗と絶対に結婚しますからね。父さんの同意は求めません。ただ、それで

も一つだけお願いがあります。麗のためにも結婚式には出てくれますよね。」

父さんは即答をくれた。

「そんな茶番にでる気はない。すべて葛城君に任せてある。帰れ、私は忙し

い。」

僕はもう父さんと話をする気は全くなくなって、父さんに背を向けて部屋を

出ていこうとした。しかし、ドアのところで父さんが声をかけてきた。

「慎治、麗を不幸にしたら、絶対にゆるさん。」

「しませんよ。僕は父さんとは違いますから。」

それで僕と父さんの会話は終わった。 

***

「あなた?。」

助手席の麗が僕に話しかけてきた。僕も我を取り戻す。

「いや、なんでもないよ。」

「ここはどのあたり?」

「もうちょっとで、新浜松だね。」

「そう。休憩とれないかしら。ミルクをつくりたいし。おむつも代えなきゃ。」

「ん?。そうだね。僕もおなかが空いてきたよ。」

もうしばらく行けば、サービス・エリアがあるはずだ。そこで休憩をとるこ

とにする。

「ねぇ、麗。」

「なに?。」

「僕らが父さんに結婚のこと言いに行ったとき、麗だけ残されたでしょ。そ

のときどんなこと言われたの?。」

麗は答えなかった。それが彼女の答えだと、僕は了承した。

 やがて、浜名湖のサービス・エリアが見えてきて、そこに車を進める。車

を止めると、麗は後部座席のチャイルド・シートで寝ていた薫を抱き、大き

なボストンバックをもって手洗いの方へ、僕はレストランの方に足をすすめ

た。

 僕はレストランに入り、コーヒーと肉うどんを注文した。変な取り合わせ

だが、別段気にしない。麗だったら、もっと変な取り合わせにしてもおかし

くはない。

 先に来たコーヒーをすすりながら、お手拭きで顔を拭く。自分がおじさん

になったという証拠だ。まぁいいや。もう30前なんだから。麗がやってき

た。ウェイトレスに、ミルク用のお湯とコーヒー、チョコレート・パフェを

注文する。ウェイトレスはマニュアル通りの受け答えをし、戻っていった。

「人形みたい。」と麗はぼそりと言い、僕は思わず笑ってしまった。

 肉うどんと麗のコーヒー、そして薫用のお湯がやってきた。僕は人形みた

いなウェイトレスにコーヒーのおかわりを注文すると、肉うどんを食べ始め

た。うまくもなく、まずくもない普通のうどんだった。麗はお湯にお冷やを

足しながら、人肌程度に冷まして、ミルクをつくる。それから、薫にミルク

を与えながら言った。

「さっきのことだけど。」

「えっ、なに?。ああ父さんが麗に何を言ったかってこと?。」

僕は肉うどんに集中していて、完全に忘れていた。麗はチョコレート・パフ

ェをウェイトレスから受け取ると、「ありがとう」と答えた。考えて見れば、

麗もだいぶ人当たりがよくなった。昔に比べると、雲底の違いだ。少なくと

も、今では「ありがとう」という言葉はごく普通に使えるようになった。そ

んな麗は薫にミルクを与えている。そして、僕に目をやる。

「ききたい?。」

「うん、そうだね。」

「碇司令はあの時、最初『本気か、麗』って言ったわ。私が『はい』って答

えると、『そうか』といって、黙ってしまったわ。しばらくして、私が『問

題がありますか?』と聞くと、『いや、ない』って。」

僕は集中していた肉うどんをちょっと置いて、麗の言葉に耳を傾ける。

「それで?」

「『しあわせにな』と言ったわ。それで終わり。」

思わず、目が点になってしまった。僕の時とずいぶん違う。

「でも、あの時、麗は確か『秘密だから』とか言ったよね。その会話のどこ

を秘密にしなきゃならなかったの?。」

「...でも、『ここでの会話は喋るな』って言われたの。」

そういって、麗は薫からほ乳瓶を離し、パフェを口に運びはじめた。訳が分

からなかった。そうだとすると、僕の父さんに対するあの時の言葉は、「花

嫁の父」としての言葉だったのだろうか?。それじゃ、僕との会話の意味は?。

すっかり肉うどんを食べる気がなくなってしまった。

 僕らは再び車に乗り込んだ。道路のランプが車内を照らしては、消えてい

く。まだ京都までの道のりは長い。僕はちらりと麗を見て、聞いた。

「ねぇ。」

「なに?。」

「どうしてさっき喋る気になったの?。今まで何度聞いても答えてくれなか

ったのに。」

麗はちょっと考えてから、答えた。

「あなたに碇司令を理解して欲しかったから。」

僕は眉をひそめる。

「それって、僕が父さんのことを誤解してるってこと?」

「そういう意味じゃないけど。でも、あなたの知っている碇司令は一面的だ

から。」

二の句がつげない。確かにそうだ。僕は父さんのことは何も知らない。昔は

知りたいと思ったが、あんな態度をとられ続けると、そんな気はなくなる。

そして、それが普通だと思う。だから、僕は父さんに興味をなくし、麗や律

子さんとの会話でも特別父さんのことは聞かなかった。でも、父さんが危篤

になった今、それは知るべきなのかもしれない。父さんがどんな人なのか、

何を考え、どんな生き方をしたのか。僕はネルフ司令としての父さんしか知

らなかった。

「じゃ、麗にとっては父さんはどんな人?。」

「優しい人。大きくて、理解のある人。信頼できる人。」

僕とは全く逆の評価だ。

「そういえば、僕が初めて麗の部屋に行った時のこと覚えてる?。」

「ええ、あなたが裸の私を押し倒したときのことね。」

「いや、あれは一種の事故だけど...。」

「事故、それは便利な言葉、言い訳の言葉。あの人もよく使ったわ。」

「い、いや、そのことじゃなくて、僕たちそれからネルフ本部に行ったよね。」

「ええ。それが?。」

「そのとき、ちょうど零号機の再始動実験の時で、僕が麗に『こわくない?』

ってきいたら、『あなた、碇司令の子供でしょ?』って答えて、僕が『あん

な奴、どうして信頼できるのさ』っていったら、僕の頬を叩いたよね。」

「ええ。」

「それは、父さんを馬鹿にされて悔しかったから?。」

「ええ、多分。」

「今でももし同じことを言ったら、叩く?。」

麗は少しうつむき、考え込む。そしてしばらくして答える。

「多分。」

「それは父さんが大事だから?。父さんを馬鹿にされて悔しいから?。」

「いいえ、違うわ。」

「じゃぁ、どうしてそうするの?」

「あなたにそんなことを言う人になって欲しくないから。」

僕は一瞬言葉につまる。

「あ、あとさぁ、昔、明日香から聞いたんだけど、明日香が『あんた碇司令

が死ねと言ったら、死ぬんでしょ。』と聞いたら、『ええ、そうよ』って答

えたとか。本当?。」

「ええ。」

「...どうして?。どうして、そんなこと言えたのさ。」

「よく分からない。でも、あの時は私には何もなかったし、碇司令だけが信

頼できる人だった。」

「今でも、麗にとって父さんは信頼できる人なの?。」

「ええ、あなたの次に信頼できる人。」

「だから、僕に父さんを理解して欲しいの?。」

「ええ、そうよ。」

「でもね、麗。僕は父さんが嫌いだったし、今でも嫌いだよ。理解できるか

もしれないけど、理解できない可能性の方が大きいと思うよ。残念だけど。」

まっすぐ前方を見ていた麗がこちらを向いた。

「あなたが碇司令を嫌っているのは、よく知ってるわ。あなたには碇司令が

理解できないかもしれない。でも、」

麗はそう言って、一息おいた。

「でも、なに?」

「でも、あなたは碇司令によく似ている。」 

僕は麗に目を移した。麗の顔が道の明かりに照らされた瞬間、彼女の優しい

微笑みが僕には見えた。

 朝の5時過ぎに、小牧で新名阪に移る。ここからなら、京都までおよそ一

時間半ぐらいだろう。隣の麗は軽い寝息をたてている。その方がいい。おそ

らく京都に着いたら、かなりのストレスを感じることになるだろう。それま

で体力を温存する必要がある。

 僕にとって、父さんは一体どういう意味を持っていたのだろうか?。今ま

でなら、簡単に答はでた。嫌な奴。最低な父親。それで終わりだった。関わ

り合いになるのもいやだった。確かにエヴァに乗っていた頃は、父さんにほ

められたいと思ったのは事実だった。しかし、冬司の件以後、そんな気は失

せてしまったし、年をとるにつれ、その感が強くなった。でも、それが決定

的になってしまったのは、やはり麗との結婚式だったかもしれない。父さん

に捨てぜりふを吐きながらも、心のどこかで父さんに期待していたのかもし

れなかった。 

***

「それでは本日のメインイベント、婚姻届の捺印と指輪の交換を、やっても

らいましょう!。」

立会人兼司会者の美里さんは乗り乗りだ。アルコールが入っていることもあ

るが、心から僕と麗の結婚を喜んでくれている。周囲も美里さんにあわせて、

口笛を鳴らしてくれたりと盛んにもり立ててくれる。純白のウェディング・

ドレスを着た麗も、普段の冷静さからは想像ができないぐらい頬を赤くして、

緊張している。僕に関しては言う必要もない。印鑑を持つ手が震えてなかな

か押せない。そんな僕を見て、麗はにこりと笑い、自分の印鑑を左手に持ち

替え、僕の左手を握る。何となく落ち着く。そして同時に捺印。口笛と拍手

がまきおこり、健介のカメラが何度もフラッシュをたく。

「これが慎治君と麗の婚姻届よーん。」

マイク右手に美里さんが、僕らの婚姻届を持ってみんなに見せる。「ウォー」

という歓声。期せずして「ゆ・び・わ、ゆ・び・わ」とコールが入る。とん

どんテンポが速くなり、僕らをせかす。そんなみんなのかけ声に背を押され、

僕らはぎこちなく指輪を交換する。またもやあがる歓声と拍手。それから、

「キーース、ほら、キーース」とまたもやコールがかかる。僕と麗は顔を真

っ赤にしたまま、顔を近づけていき、そしてキス。みんなの拍手と共に、「

イヤーーン」という声に爆笑の渦が起こる。健介がたくフラッシュが目に痛

い。でも、ほんとに幸せな一瞬だった。

 そのあと、みんなにはやし立てられながらも、僕らはみんなに挨拶をし、

そしてそのまま立食パーティーに移った。僕と麗は一人一人に挨拶をしてい

く。その中には明日香がいたのは、僕にとっては非常な驚きだった。今日の

結婚式について彼女には連絡しなかったからだ。

「へロー!、慎治、優等生!。」

深紅のドレスを着て、出席者の中で一番輝いている彼女は、僕と別れてから、

より綺麗になっていた。僕はそんな明日香に、ひきずった笑顔をしながらも

挨拶する。

「き、来てくれたんだ。ありがとう。」

僕らは、僕が大学を卒業するときに別れた。明日香はドイツのマックス・プ

ランク研究所から専属研究員としてのオファーをもらっていて、僕はそれを

止めなかった。また、見送りにも行かなかった。そのことで後で委員長にこ

っぴどく叱られた。『どうして止めなかったの?。明日香、泣いてたわよ。

碇君が止めてくれないって。あの子、最後の最後までチェック・インしなか

ったんだから。碇君が止めに来てくれるって信じていて。』。でも、僕には

どうしようもなかった。彼女のキャリアを考えれば、それが最善だった。当

時は本気でそう考えていた。だから、僕もひとり自分の部屋で泣きながら、

我慢していた。ただ、今から考えれば、それは言い訳かもしれない。彼女に

疲れたというところが本音かもしれなかった。

「あったりまえよ。こんなおもしろいモノ見逃してどうすんのよ。だいたい、

あんたから招待状もらったら、断れるわけないじゃない。」

僕はハッとし、横目で麗を見る。彼女はあくまですましている。そして、明

日香に頭を下げた。

「来てくれて、ありがとう。」

「いーえ、どういたしまして。しかし、優等生も変わったわよね。」

「そう。よく分からない。」

「ま、私から慎治を奪ったんだから、その分ちゃんと幸せになってもらわな

きゃね。」

「ええ。そうするわ。」

麗に悪気が全くないのは、明日香もよく知っている。しかしそれでも、明日

香の顔はかなりひきつっていた。僕は黙っておくのが賢明だと判断する。そ

こに助け船が入った。美里さんだった。

「ちょっと、ちょっと、何こんなところで昼メロやってんのよ。なによ明日

香、まだシンちゃんに気があるの?。」

明日香は真っ赤になって大声を上げる。

「な、何いってんのよ、美里。こんな優柔不断な奴、こっちが願い下げだわ。

ノシをつけて優等生にあげるわ。」

美里さんは左手を口にあてて、グフグフという嫌な笑い声を上げた。それを

見て明日香もよけい頭にきたのか、僕の悪口を続けざまに言う。そんな明日

香を見てニヤニヤしながらも、美里さんは無理やり僕と麗の手を引っ張る。

「ちょっち、ごめんね、明日香。シンちゃんとは後でまた話して。ほらほら、

シンちゃん、麗。こっちこっち。信じられない人が来てくれているわよ。」

「「えっ?!」」

僕と麗はハモる。父さんかもしれない。そんな期待がちょっとわき上がる。

しかし、その人は父さんではなかった。副司令だった。確かに「信じられな

い人」には違いないが...。

「慎治君、麗、結婚おめでとう。」

「あ、ありがとうございます。」

自分でもぎこちなさが分かる。この人が悪い訳じゃない。いや、むしろ僕と

麗の結婚を祝福してくれるだけでもありがたいじゃないか。そんなことは思

いながらも、やはり内心の落胆は隠しきれなかった。副司令もそれを見抜い

てか、苦笑いする。

「す、すみません。」

「いや、君が謝ることはないよ。ところで、これをよかったら受け取ってく

れないか?。」

それは一通の封筒だった。

「開けてもよろしいですか?」

「ああ、いいよ。」

僕がその封筒を開けると、そこにはパリ行きの往復航空券とパリの一流ホテ

ルの予約通知が入っていた。戸惑う僕に副司令はにっこり笑う。

「あ、あの本当によろしいんですか?。」

「ああ。もし差し支えなければ、嬉しいのだが。」

「差し支えなんて、そんな...。」

「私からのほんのささやかな贈り物だよ。君たちはあの困難な仕事をよくや

り遂げてくれたからね。まぁ、こんなものが罪滅ぼしになるとは思っていな

いが、しかし、それでも私は君たちに幸せになって欲しい。多分、ネルフ全

職員の願いでもあると思う。ところで、あとでその通知に書いてある旅行代

理店に電話して、君たちの都合のいい日を選んでくれたまえ。」

「あ、ありがとうございます。」

僕と麗は副司令に頭を下げた。副司令はこそばそうにしている。

「ところで、父さんは?。」

「ああ、碇か。あいつは今ジュネーブに行っているよ。」

「「ジュネーブ?」」

僕と美里さんがハモる。副司令は言い訳を続ける。

「いや、あいつもかなり来たがっていたんだが、どうしても国連ヨーロッパ

本部とつけなきゃならん話があってな。私が代わりに行きたかったんだが、

あいつでなきゃどうにもならんことで、しょうがなかったんだ。許してやっ

てくれ。」

僕は自分の顔がこわばるのが分かった。父さんには今日ジュネーブに行く予

定などなかった。前からそうだったし、また昨日にも美里さんに父さんのス

ケジュールを確認してもらって、父さんには今日は何の予定もないはずだっ

た。だいたいネルフ解体の最終局面で、政治レベルの問題はすでに片が付い

ているはずだった。仮に父さんが本当にジュネーブに行っているとしても、

それは単に茶話をしに行っているだけじゃないのか。

「それじゃ、年寄りはこれで退散するよ。慎治君、麗、幸せにな。」

僕らは去っていく副司令に頭を下げた。しかし、僕の怒りは沸点に達してい

た。僕のためじゃなくていい。でも、せめて麗のためにも今日は出席して欲

しかった。

「いやねー、シンちゃん。ハハハハハ。せっかくの晴れ舞台なんだから、そ

んな怖い顔をしないでよ。」

美里さんは顔をこわばらせながら、取り繕うとする。

「そうですね。最初から期待もしていませんでしたし。」

美里さんの顔が更にこわばる。僕はそれに気づいて、できる限りの微笑みを

浮かべる。

「そんなことよりも、今を大切にしないといけませんよね。みなさん、僕た

ちの結婚を祝いに来てくれているんだから。」

「そうよ、シンちゃん。そうでなきゃ。」

美里さんは心持ちほっとしたようだった。他方、麗に目を向けると、何か真

剣なおもむきで考え込んでいた。

***

「あなた?。」

「あっ、起きた?。」

「ここはどのあたり?。」

「もう京都だよ。」

僕らは新名神を降りて、今は市内を走っていた。鴨川沿いを走って、ちょう

ど七条をこえたところ。ここからなら、あと30分以内で病院に着く。

「そうなの。」

「よく眠れた?」

「ええ、ありがとう。」

「おなか減った?」

「いいえ。まだ大丈夫。それより...」

そう、麗には父さんのことが気がかりなのだ。

「大丈夫だよ。麗、大丈夫。だって、律子さんからは連絡が来てないしね。

そうだ、律子さんに連絡しなきゃ。律子さんに電話かけて。」

麗は後部座席に置いてある僕の背広から、携帯をとりだし、律子さんの番号

にかける。数回のコールが聞こえた。

「麗ですが。」

「はい、いま市内です。あなた、ここどこ?」

「五条。あと、父さんの病室を聞いて。」

「五条です。はい。碇司令の病室は?。」

「はい、分かりました。」

「はい。それじゃ」

そういって、麗は携帯を切った。

「入り口で待ってくれるそうよ。」

律子さんもつらい思いしてるんだろうなぁ。僕はそんなことを考えながら、

信号で車を止めた。太陽が雲一点ない青空を昇りつつある。現在朝6時すぎ。

今日もいい天気になりそうだ。

 

【つづく】 




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