秋日和

 

2.追憶

 

 駐車場に車を止め、僕たちは病院の入り口に向かった。やはり大学病院の

せいか、朝も早い時間からたくさんの人たちが診察を受けに窓口にいた。そ

んな窓口では懐かしい人が僕らを待っていた。副司令だった。僕らの結婚式

以後会っていなかったが、もう70半ばであるのに、依然かくしゃくとしてい

て老いを感じさせない。緋色のネクタイに薄い灰色のスーツがよく似合って

いる。副司令もネルフ解体後は京都に移り、某女子大で教鞭をとっていた。

父さんと副司令と律子さん。この組み合わせはネルフの時からそうだったが、

よほど強固なものらしい。もっとも副司令も昔は京大の関係者だったらしい

から、京都に住むことは副司令にとっても自然なことなんだろう。副司令は

僕らを確認すると、心持ちか顔を和ませる。しかし、それにも関わらず、表

情の底にある暗さは隠しきれていなかった。副司令にとっても、父さんの危

篤はこたえているに違いなかった。

「よく来てくれたね、慎治君、麗。律子君もまってるよ。」

「あ、あの父さんと律子さんは?。」

副司令は顔を首を弱々しく横に振る。

「今までもっていたのが奇跡だよ。律子君もだいぶ疲れている。」

「そうですか...。」

僕らは長い廊下を何回も曲がり、階段を一度上がり、また長い廊下をすすみ、

また階段を上がった。むやみに複雑な構造だった。

「でも、どういう状況で?」

「律子君の話だと、トイレで倒れておったらしい。彼女が大学に行く前に、

倒れている碇を発見したのが不幸中の幸いだった。すぐにここに運んで、緊

急手術をしてもらったが...、しかし、手遅れだったらしい。何もできな

いまま、蓋をしたそうだ。しばらく様子を見ていたが、容態が昨晩深夜に悪

化してな。君たちが来るまで、何とかもたせていたんだが、医者の話だと、

もう意識の回復は見込みがないらしい。」

 麗の顔色はあまりよくない。僕は彼女の肩を抱きながら、副司令について

いく。ふと副司令が止まった。僕は副司令が止まったところが父さんの病室

だと知る。副司令はノックを二度たたき、そしてドアを開けた。そこにはい

ろんな機械に囲まれてベットで寝ている父さんと、その横でパイプ椅子に座

る律子さんがいた。

「ありがとう、慎治君。」

 律子さんの表情からは何も読めない。僕にも麗にも目をあわそうとしない。

律子さんの表情はいつにもまして冷たくて、まるで感情がすでに磨耗してい

るようだった。副司令が僕らに椅子を勧めるが、麗は座らずに父さんのベッ

ドに近づく。

「碇司令....。」

麗が父さんに呼びかける。しかし、ベッドで寝ている父さんからは何も反応

もなかった。ただ聞こえるのは、機械による強制的な呼吸音と心電図の電子

音だけだった。そのとき、薫が突然声をあげて泣き始めた。泣き声が病室に

響く。しかし、包帯を頭に巻いてベッドで寝ている父さんは身動きもしない。

口元につけられた呼吸器が、酸素を送りそして吐き出させる。その呼吸音と

機械の電子音、そして、薫の泣き声、それらが一体となってこの病室を支配

していた。

 麗は父さんのベッドから静かに離れ、薫を抱いたまま病室を出ていく。律

子さんは椅子にへたり込んだまま、静かに父さんを眺めている。僕は副司令

に目配せで律子さんのことをお願いして、病室を出た。

 麗は薫を抱いたまま、廊下の窓から空を眺めていた。その背中は僕すらも

拒絶しているように思えた。

「麗、大丈夫?」

彼女は僕に表情を見せないようにしながら、少しだけ振り向いて言う。

「ええ、でもこの子泣きやまないの。」

 おなかがへっているのかもしれない。ふとそう思って、そこで僕はハッと

した。薫用のボストンバックを車に置き忘れてきた。取りに行かなきゃ。僕

は病室のドアを開け、副司令に声をかける。

「副司令、ちょっと車に戻ってきます。」

副司令はうなずく。

「ああ、急いでな。」

 僕は再び複雑な廊下を歩いていく。出口はだいたい見当がついているもの

の、それでも迷いそうだった。廊下の壁にかけてある掲示板を見ながら前を

すすんでいく。

 僕の頭の中では、先ほどの律子さんの姿が映し出されていた。何も見えな

いようにしている。何も感じないようにしている。何かを必死でこらえよう

としている。僕は知らず知らず唇を咬んでいた。

 後部座席に置いてあったボストンバックをとって、僕はまた病院に戻る。

窓口で待っている人は更に増えている。落ち着かない顔をして座っている子

供達と、そんな子供達にいらついている母親達の他に、非常に明るい顔をし

て談笑する老人たちが多いのに気がついた。しかも副司令よりもお年をめさ

れている人が多い。病院は老人にとってサロンだという話を聞いたことがあ

る。まさにそうだな、と実感する。そんなサロンを求めに来ている老人達と

父さんをふと比べてしまう。父さんもこの人達と同じ年頃まで生きたら、病

院に友人を求めに来るのだろうか?。

 病院の待合室で隣に座っている知らない人とにこやかに談笑する父さん。

思わず苦笑いしてしまった。おそらくあの父さんのことだ。そんなことはし

ないだろう。少なくともここにいる老人達の気持ちは父さんには分からない

だろう。たとえ仮になにかの用事で病院に来ざるを得ないとしても、ひとり

でムスッと座っているような気がする。

 そんな馬鹿馬鹿しいことを考えながら、父さんの病室に戻る。ドアをノッ

クして、中にはいると、律子さん達の他に医師がひとり、看護婦が二人いた。

僕を見ると、副司令は静かに言いった。 

「慎治君、末期の水をとりなさい。」

 副司令はすでに用意していた水の入った小皿と脱脂綿を僕に渡した。僕は

脱脂綿を絞り、父さんの口元にもっていき、少しぬらした。父さんの顔にも

唇にも血の気はまったくなかった。そして、脱脂綿を麗に渡す。彼女は僕に

まだむずかっている薫をゆだね、そして父さんの唇を脱脂綿でぬらす。それ

からゆっくりと父さんの管だらけになった腕をとり、その右手を自分の頬に

そっと寄せた。

「さようなら、碇司令。」

 麗は一言そうつぶやいて、父さんから離れた。律子さんに脱脂綿を渡す。

律子さんは父さんの唇を一ふき二ふきした。その表情はまったく何も表して

はいなかった。ただそれでも律子さんの肩が震えているような気がした。彼

女は「末期の水」をとると、静かに部屋を出ていった。

 僕は副司令を見て、うなずいた。副司令もうなずき返し、そして末期の水

をとる。

「碇、おまえが俺より先に逝くなんて思いもしなかったぞ。」

副司令は一言ボソッと呟き、医師に向かってうなずいた。

「ご臨終です。」

それは事務的でありながら同時に厳粛な宣言だった。こうして、父さんの決

して長くはない生涯の終わりを告げた。

***

 麗はボストンバックを片手に、おむつを替えるために薫を抱いて手洗いに

行った。彼女は泣かなかった。いつもと同じ風に、淡々と且つ冷静な表情で、

「私、薫のおむつを替えるから」と言って病室をでていった。彼女に続いて、

僕と副司令も後のことをそのお医者さんにお願いして、病室を出た。看護婦

さんが父さんの遺体を清めるためだった。

 律子さんは病室の真ん前に置いてある廊下のソファに座って呆然としてい

る。何か憑き物が落ちたかのようについさっきまでの緊張感もなかった。副

司令も何も喋らず彼女の横に座る。僕はといえばなんとなく廊下の窓から秋

の青空を眺めていた。

「慎治君、律子!。」

 声がしたほうを振り向くと、美里さんと加持さんがこちらに向かって廊下

を走ってきた。わざわざ福岡から来てくれたようだった。僕らの結婚式の時

と比べても、美里さんはだいぶふっくらとしていた。いかにも人のよいお

ばさんという感じだ。他方、加持さんは以前にまして痩せている。

 律子さんがソファからゆっくりと立ち上がった。美里さんはそんな律子さ

んを見つめ、優しくその肩を抱いた。律子さんが初めて泣いた。まるで声を

あげながら泣くことが恥ずかしいかのように、声を殺して泣いた。

「慎治君。碇司令は?。」

加持さんが僕に父さんの様子を聞く。僕は首を横に振りながら答えた。

「ついさっき、息を引き取りました。」

加持さんは思わず天井を仰ぐ。副司令が僕と加持さんの横に立つ。

「加持君。とりあえず、碇に挨拶をしてやってくれ。」

「はい。」

加持さんはそういって、美里さんに律子さんのことを目配せで頼んで、副司

令と共に病室にはいる。律子さんは美里さんの胸で泣き続ける。美里さんは

そんな律子さんの頭を優しくなでている。

 僕はそんな二人から離れ、階段の踊り場のあたりにあるソファに座り、携

帯で会社に電話していた。現在午前9時30分。会社はすでに始まっており、

いつもは無遅刻無欠席な僕が今日に限って、まだ会社に来ていないことを同

僚達は訝しがっているだろう。

「おはようございます。ガイミックス商事、経理部経理一課です。」

「あっ、おはようございます。碇ですが。」

「あら、碇さん?。珍しいですね。どうされたんですが?。」

後輩の山田嬢だった。周りがくすくす笑っているのが聞こえる。どうせ、昨

日の結婚記念日が念頭にあるんだろう。

「いや、ちょっとね。ごめん、中村課長をお願いします。」

「はい、少々お待ち下さい。」

短いメロディの後にすぐ課長がでてきた。

「はい、中村です。」

「おはようございます、課長。碇です。」

「おはよう。どうしたんだ碇君。君にしては珍しいな。」

「実はいま京都にいます。」

「ん?、そうか結婚記念日はわざわざ京都ですごしたのか?。それで今日は

遅刻なんだな。」

その声にはからかいが含んでいる。ちょっとムッとしたが、向こうは当然の

事ながら、どうして僕がここにいるのかは知らないんだ、と思って我慢した。

「いえ、そういう訳じゃなくて。たった今、父が息を引き取りました。」

電話の向こうが一瞬絶句するのが分かった。

「...そうか。すまなかった。お悔やみを申し上げます。」

「いえ、そんな。でも、ありがとうございます。それで課長、昨日の今日で

申しにくいんですが、しばらく忌引きを頂けますか?。」

「うん、分かった。初七日が終わるまではかまわないよ。」

「ありがとうございます。」

僕はソファに座ったまま誰とも知らず、頭を下げた。

「ところでだ、碇君。君のお父上は確か、元ネルフ総司令の碇厳堂氏だった

よな。」

課長の質問の意味が分からない。

「はぁ、それが?。」

「そうか...、葬儀など大変だと思うが、しっかりとな。何せ世界を救っ

た組織の最高責任者だ。世界中から偉い人たちがたくさん弔問にやってくる

と思うが、がんばれよ。」

 言われてみて初めて気がついた。確かに父さんはかつては世界で一番強い

権力を握っていた人だった。しかも、ノーベル平和賞まで受賞している。各

国の大使級の人はもちろん、元大統領だの元首相だのそういう人たちがやっ

てくる可能性は否定できなかった。思わずクラッときた。

「は、はぁ。」

「まぁそういうことだから、しっかりと。」

それで電話は切れた。これからのことを考えて、僕は頭を抱える。そこに副

司令と加持さんがやってきた。

「慎治君。いま副司令と話をしたんだが、葬儀・告別式など一切を俺と副司

令に任せてくれないか?。」 

僕は加持さんと副司令の顔を見つめる。渡りに船とはこのことだ。

「ええ、お願いいたします。」

二人は満足そうにうなずく。それからちょっと間をおいて、加持さんは続けた。

「それで君には喪主をお願いしたいんだが。」

「えっ?。そ、それは困ります。律子さんが喪主になるべきです。」

加持さんと副司令はお互いに見合って、肩をすくめた。

「そう言うとは思っていたが、これは律子君の意見でもある。碇と律子君は

籍は入れていないから、法的に言えば、律子君は内縁の妻にすぎず、碇の親

族は君と麗、そして薫君だけだ。その中で肉親として一番近いのは君という

ことになる。」

「そ、そんなぁ。」

思わず自分でも情けない言葉が口にでる。そんな僕を見て、加持さんはやれ

やれというふうに副司令の言葉をつけたす。

「なぁ、慎治君。リっちゃんは今すごく動揺している。そりゃリっちゃんの

ことだから、すぐにいつものリっちゃんに戻るとは思うけど、ここはやはり

君が厄介な仕事を担うべきだろう?。それに副司令の言うことも筋が通って

いると思うだろう?。とりあえず一番鬱陶しい仕事は俺達がやるから、心配

しなくてもいい。君はただ座って弔問客に挨拶すればいい。」

「はぁ」

「それに君が思っているような大げさな式は今すぐにはあげないだろうし。

たまたまつい最近、碇のうちに遊びに行ったときにな、つい冗談でどっちが

早く逝くかって話になって、碇は自分の場合には『大げさなことはするな』

と言っておった。私もその方が碇らしいと思う。どちらにせよ、碇の場合、

関係があるのはネルフがないいま、国連だけであって、国連もまぁ何か申し

出てくれるかもしれんが、それを受け入れるかどうかは君の胸一存の話しだ。

また仮にやるとしても、一ヶ月か二ヶ月先だ。だからとりあえず問題なのは

私人としての碇の葬儀・告別式だ。だから心配するにおよばんよ。誰が来て

も堂々としておればいい。」

「はぁ」

「それじゃ、慎治君。それでいいね。」

「はぁ」

もうどうにでもなれ、という気分だった。

「あと悪いんだが、明日香にだけは君から連絡してくれないか?。それから

うちのかみさんとリっちゃんを連れて、碇司令宅で待機していてくれ。元ネ

ルフ職員やら司令の個人的なつきあいのある人には俺達がやるから。」

 去り際に加持さんは明日香への連絡という一番面倒な仕事を僕に押しつけ

て行った。僕はため息一つついて、明日香に電話をかける。コールが鳴る。

しかし、明日香はでない。コールを10回まで数えて、切ろうとしたそのと

きにつながった。

『Hello.』

「もしもし、あっ、アスカ?。僕、シンジ。」

 向こうからの返事はない。

「もしもし、明日香?」

『あんた何考えてんのよ?。』

「へっ?」

『今何時だと思ってんの?。』

「朝10時前。」

『それは日本でしょ。こっちはまだ3時前よ。夜中の3時!。』

明日香の怒鳴り声がキンキンと電話を通じてくる。僕は思わず携帯を耳から

話した。そういえば、ドイツとの時差をすっかり忘れてた。

「...ごめん。」

『で、何なのよ?。ファーストでも死んだの?。』

縁起の悪いことを平気で言うのは、明日香らしい。

「いや、死んだのは父さん。今さっき、息をひきとった。」

返事が返ってこない。

「もしもし、明日香?」

『聞いてるわよ。それは残念だったわね。で、お葬式はいつ?。場所は?。』

「いや、まだ決まってない。でも、京都でやると思う。」

明日香のため息が聞こえた。

『...まったく、あんたって奴は。私みたいな遠方の人間には、全部決ま

ってから電話するのが筋でしょう。しかもこんな夜中に。』

確かに言うことは当たっている。

「ごめん。」

『いいわよ、もう。今日の飛行機でそっち行くから。空港は関空ね。迎えに

来なさいよ。』

「えっ?。いいよ、わざわざドイツから...。」

『何よ、来なくっていいというの?。じゃ、あんた、何で電話かけてきたの?。』

「そ、それは。」

『ああ、もう鬱陶しい。碇司令は、私にとっても関係あるんだし、それに人

手もいるでしょ?。かまわないわよ。』

「あ、ありがとう。」

『あとでまた電話するから。元気出しなさいよ。じゃ。』

「ありがとう。それじゃ。」

僕はそう言って電話を切った。単に父さんの死亡を伝えるだけのつもりだっ

たのに、忙しい明日香にこっちに来させるかたちになって、悪い気がした。

麗が薫を抱いてやってきて、僕の横にそっと座る。彼女の顔はいつにもまし

て青白い。

「父さんとうとう死んじゃったね。」

「ええ。」

「悲しい?。」

「それがよく分からないの。あなたは?。」

僕は肩をすくめる。

「そうだね。あんまり感慨というのはないなぁ。何で言ったらいいのかな。

ああそうなの、って感じ。実感がわかないんだ。ただそれでも律子さんが

泣いているのを見るのはつらい。」

麗は答えない。ただうつむいている。

「それじゃ、律子さんのお宅に行こうか?。葬儀なんかの準備は加持さんと

副司令がやってくれるらしいから。」

「ええ。」

僕たちは父さんの病室まで戻った。廊下のソファには美里さんと律子さんが

まだ座っている。しかし、もう律子さんも泣いていなかった。とはいえ、立

ち直っているわけでもなく、ただ窓の向こう側を焦点の合わない目で眺めて

いた。僕らを見て、美里さんがにっこり笑った。

「ああ、慎治君。うちの甲斐性無しから話し聞いた?。」

「ええ。とりあえず僕らは律子さんのお宅で待っていればいいんですね。」

律子さんの目が一瞬もとに戻る。

「あと喪主の件もお願いね。」

「ええ、でも個人的には律子さんの方がふさわしいと思うんですけど。」

「それはできないわ。」

「法律の問題はともかく、律子さんは父さんの奥さんですよ。」

「あの人にとっての奥さんは、唯さんだけよ。」

 律子さんはボソリとつぶやいた。律子さんの言葉は僕の胸に突き刺さる。

誰も何も言えなかった。ただ、美里さんは不機嫌とも言えるし、哀れみとも

言える複雑な表情をした。律子さんは続ける。

「本当の話よ。」

そして、麗を見る。麗は青白い顔のまま黙っていた。美里さんはため息を一

つつき、僕にむかって言った。

「とりあえず、今は律子のお宅に行きましょう。」

「そうですね。」

 律子さんが立ち上がり、廊下を力無く歩いていく。そのあとを美里さんと

麗がついていく。僕はそんな三人の後をのんびりとついて行った。僕らは駐

車場に置いてある僕の車に乗り込む。

「律子さん、助手席でナビをして下さい。」

「ええ。」

 後部座席に美里さんと薫を抱いた麗が乗り込む。僕は黙って車を出した。

車中でも律子さんが「そのまま北をあがって」と言った以外は、誰も喋らな

かった。美里さんは不機嫌そうに窓から外を見ている。叡山電鉄の元田中の

遮断機で車が停まったとき、ただ一言だけボソリとつぶやいた。

「誰が最後まで司令に付き添ったのよ。」

律子さんは少し後ろに顔を向け、一言「ありがとう」と言った。

 律子さんのお宅は病院からはそれほど離れてなかった。北白川の閑静な住

宅街で、律子さんのお宅は平屋建てでちょっとした庭もついており、いかに

も京都らしい家だった。

「いいとこですね。」

「ええ、まぁね。それよりも、あがって頂戴。」

居間は結構広く、よく整えられた庭に面していた。

「わぁーすごいじゃないの、律子。ほんとにいい家よね。」

「ええ、美里。ちょっとここで待っていてくれる?。慎治君と麗に二人の泊

まる部屋を案内してくるから。」

 僕らは律子さんについて、八畳ほどの部屋まで来た。掛け軸なんかもかか

っていて、ちょっとした旅館のようだった。僕はカバンを部屋の隅に置いて、

庭を眺める。

「この部屋を使って頂戴。お手洗いとお風呂はこの廊下の奥にあるから。」

「すみません。いろいろ。」

「いいのよ。楽にして。今、お茶を入れるから。」

「ありがとうございます。でも、手伝いますよ。」

「いいわよ、気にしないで。今度うちに来たときには手伝ってもらうから。

居間で待っていて。」

そこに美里さんが来た。

「わー、ここもいい部屋ねぇ。うらやましいわ。うちはクリーニング屋だから

ね。こういう趣のある家ってあこがれるのねぇ。」

「そうかしら。うちには遊びに来てくれるような人は副司令ぐらいしかいな

かったから、この客間もあまり...。」

 律子さんはボソリとつぶやいた。僕は自分が責められているような気がし

た。美里さんは微妙に変化した僕たちの雰囲気を察してか、話題を替える。

「あっ、そうそうそれより、台所どこ?。お茶でもいれようと思って。」

「あっ、それなら」といいながら、律子さんは美里さんを台所まで案内する。

僕は麗に目配せする。彼女は僕に薫を渡し、二人の後を追いかける。そして、

薫を隣に寝かせて、僕は部屋にごろんと横になった。

 父さんがとうとう死んだか...。予想していたとおり、別段何も感じな

い。何となくボーとしてしまうが、悲しみというのは湧いてこなかった。何

となく自分がひどい人間のような気がしてきた。

「これで名実ともに、親なしっ子か...。」

ボソリとつぶやいてみる。でも、胸を震えるような感慨は湧かなかった。そ

れほど僕と父さんの関係は遠いというということか。

「ふわぁ。」

やはり徹夜で車を走らせたせいだろうか。あくびがたまらずに出る。眠気を

感じて、そのまま目を閉じた。

***

僕はエヴァの前に立っていた。初号機の顔上から半分が見える。横を見ると

まだ痩せていた頃の美里さんが腕を組んで立っていた。

「よく来たな、慎治。」

その言葉でハッとし、僕は顔をあげた。そこには父さんがネルフの制服を着

て立っていた。

「どうして僕を呼んだの?。」

「必要だからだ。」

「これに乗れって言うの?。」

「そうだ。」

僕は父さんをにらみつける。

「父さん、使徒はもういないんだよ。エヴァもないんだよ。母さんももうい

ないんだよ。」

押し黙る父さん。父さんの横で、律子さんが悲しそうな顔をした。

 ネルフの司令塔にいた。僕は明日香と麗に挟まれて立っていた。美里さん

が「Sound Only」という言葉に向けて何か言い訳をしている。

「初号機パイロットはいるか?。」

「はい。」

「よくやったな、慎治。」

「何を今更...」

押し黙るSound Only。

 夕日の射し込む父さんの執務室。父さんはいつものように腕を顔の前に組

んでいる。僕は手錠をいくつもかけられている。

「何か言うことはあるか?」

「父さん、どうして僕を捨てたの?。」

父さんは答えない。母さんが悲しそうな顔をした。

電車の中。僕は麗の対面に座っている。麗は中学生の頃の姿だった。

「どうしてあんな事をしたの?。」

「父さんが許せなかったから。」

「碇君は理解しようとしたの?」

「理解しようとした。」

「どうして理解しようとしないの?。」

「理解しようとしたんだ!。」

「潔癖性はつらいわよ。自分が汚れたと感じるときに分かるわ。」

その言葉でハッとし、横を見ると律子さんが僕を見下ろしていた。

***

「ただいまぁ。」

加持さんの声が聞こえた。その声で僕はガバッと体を起こした。体にかけら

れていた毛布が落ちる。律子さんが玄関を開ける声が聞こえた。

「この度はご愁傷様で。」

「どうもありがとうございます。さぁ、どうぞお上がり下さい。」

僕は急いで玄関に向かった。そこには担架に乗せられ、白いシーツに包まれ

た父さんの遺体を運ぶ二人の礼服を着た人が律子さんの後をついてきていた。

「こちらです。奥から二番目の左の部屋です。布団はもうひいてありますの

で。」

その部屋ではすでに布団がひかれており、二人の人はそこに父さんの遺体を

静かに置いた。部屋の端で副司令と律子さんと加持さんが立ったままその様

子を眺めていた。律子さんは僕らに気づき、「慎治君。こっちに」と僕を手

招きして、父さんの足下に正座する。僕と麗も彼女に倣う。父さんを布団に

寝かした喪服を着た二人の男も僕らの前に正座する。

「こちら、故人の長男で今回喪主を務める碇慎治です。その隣は彼の妻の麗

です。私は赤木律子と申します。」

「これは、ご丁寧に。この度は本当にご愁傷様でした。しかし、お父様もこ

んな立派な息子さんに見送られてさぞご満足でしょう。」

 年輩の男は心にもない世辞を言う。きっと葬儀がある度に誰にでもそう言

っているんだろうなぁ、と思った。

「申し遅れました。私、公益社パレ・デュ・ラ・パの津久茂ともうします。

こちらは部下の叶野です。」

そう言いながら、男達は名刺を僕らに渡した。

「よろしくお願いいたします。」

律子さんが頭を下げるのに倣い、僕と麗も頭を下げた。男たちは早速枕飾り

を用意しはじめた。その手際はさすがによく、父さんの黄泉路への旅立ちの

準備は終わった。年輩の方が父さんの顔を白い布をかけ、父さんの布団の横

に屏風を立てる。そして、若い方の男が枕飾りを組み立てた。律子さんは父

さんのお椀にご飯を一膳盛って、その枕飾りに置いた。二人は作業を終える

と、またもとの位置に改めて座り直した。

「さぁ、これで一通りの準備は終わりました。後はまた明日の12時に参り

ます。」

「ありがとうございました。」

僕らは男達に頭を下げた。

「ところで、今回のご予算の方は、お世話役を務められている冬月様と加持

様からすでに伺っていますが、こちらでよろしいでしょうか。」

 そう言っては津久茂という男は紙を一枚僕に渡した。それを広げてみると、

いろいろ細かい数字が並んで、最期には一瞬ギョッとする数字が書いてあっ

た。僕はちょっと驚き、それを律子さんに見せる。律子さんはそれを見ても

平然として、「それで結構です」と言った。

 津久茂は満足そうにうなずき、「ありがとうございました」と頭を下げた。

二人は玄関まで行き、「何か御用がございましたなら、いつでもお電話下さ

い」と言って去っていった。僕らは二人を見送った後、居間の方に戻った。

「今何時ですか?。」

「4時よ。よく寝たわね。」

コロコロと美里さんが笑う。僕はため息をついて、麗の横に座る。

「お茶、いれるわ。」

彼女はそういって、急須と3人分の湯飲みを乗せて立ち上がった。

「あっそうそう、慎治君。枕経は今日の6時からだ。天台さんだったよな。」

「ええ、そのはずですけど。」

「あと、お通夜を明日の晩、お葬式を明後日にやるから。場所は、さっきの

人たちが言ってた通り、五条のパレ・デュ・ラ・パでだ。大人数になるから、

リッちゃん家じゃできないからな。」

麗がお盆に6人分のお茶とお茶菓子をのせて、戻ってきた。

「はい、お茶。」

「ありがとう。あっ、そうだ。明日香がこっちに来るそうです。」

「えっ、わざわざドイツから?。弔電一本でかまわないのに。」

「僕もそう思うんですが、明日香は『かまわない』って言うんです。それに

彼女も父さんに関わりがあると言えば、確かにそうですし。」

「でもねぇ、あの明日香がねぇ。」

美里さんは感慨深げに言う。

「父さんと明日香ってあんまり関係がなさそうな気がするんですけど。」

「そうだな、まぁないな、俺の知る限り。君との関係だな、慎治君。明日香

がこっちに来るのは。」

「で、いつ来るって?。」

「今日の飛行機とか言っていましたから、明日には着くんじゃないでしょう

か。電話をくれるそうです。」

「ふうん。」

そう言いながら、美里さんは海苔巻きを口に入れる。

「じゃ、シンちゃん迎えに行かなきゃね。」

「そうなんですよ。まったく人使いが荒いんだから。」

僕は口をとがらせて、麗に向かってちょっと甘えた声を出す。

「ねぇ、一緒に行こうよ。」

「私、行かない。」

麗はお煎餅をかじりながら、僕を突き放す。

「えっ、どうしてさ?」

やっぱり、麗は明日香を嫌っているのかなという考えが一瞬頭をよぎる。

「朝早いから。」

そう言って、麗はまたお茶をズズッとすする。確かに彼女は低血圧で、いつ

も朝は僕より遅い。僕が会社に出る直前にようやくのそのそと布団から這い

出てくる。

「じゃぁ、昼すぎだったら?。」

「そのときはそのときね。」

そう言って、今度は海苔巻きに手を出す。

「さてと、晩御飯の準備でもしますか。」

美里さんはそう言いながら立った。僕と律子さんは顔を見合わせる。

「美里、かまわないわよ。私がやるから。」

「いいのいいの、律子。今晩ぐらい私がやるわよ。あんた楽にしていていい

わよ。」

「み、美里さん、僕がやりますよ。」

そう言いながら僕が立とうとすると、美里さんは僕を押し止める。

「いいのいいの、シンちゃんも楽にしてていいわ。あんた達、悲しみにくれ

る遺族なんだから、ちょっとは遠慮しときなさいよ。だいたい私の料理おい

しいのよ。うちの甲斐性無しもバカ息子達も喜んで食べるわよ。」

僕と律子さんの顔はますます渋くなる。加持さんは面白がって言う。

「大丈夫だよ、リッちゃん、慎治君。あいつの料理の腕あがっているから。」

それは加持さんの舌が鈍くなったからじゃ、と思ったそのとき、麗が立ち上

がった。

「かまわないわ。私が手伝うから。」

「ありがとう、麗。二人で極上の晩餐を作りましょ!。」

二人はそう言って台所に消えていった。僕は少し安堵するが、律子さんの表

情は更に険しくなっている。

「ねぇ、慎治くん。」

「はい。」

「麗の料理の腕前は...。」

「そんなに悪くはないですよ。」

「そう、それなら...。」

律子さんは少し安堵の表情を見せる。僕は最後の一枚のお煎餅に手を出しな

がら、律子さんに聞いた。

「律子さん。あ、あの父さんはここでどんな生活をしていたんですか?。」

「ん?。のんびりした隠居生活を送っていたわよ。いくつかの団体の理事は

務めていたけど、肩書きだけだったし、たいていは書斎で本を読んでたわ。

あと時々副司令が遊びに来てくれてたんで助かったわ。二人で将棋をしたり

碁を打ったりして。」

「そうですか。」

そこでいったん話が途切れた。僕は空の湯飲みに口をつけ、お茶を飲む振り

をする。

「律子さん。僕が父さんに薫を抱かさなかったこと怒ってますか?。」

彼女は首を横に振る。

「あれはあの人も悪いから。あなただけが悪い訳じゃないわ。私もあなた達

のことを何とかしたいと思ったんだけど、なかなかきっかけが掴めなくって。

薫ちゃんが生まれたときもあの人を誘ったんだけどね。あの人、あなたが絡

むと変に意固地になる癖があるし...。何とかしなきゃなぁ、と思ってた

折りに、あんなことになっちゃってねぇ。そのことは確かに悔いは残るけど、

決してあなただけのせいじゃない。むしろ責任の多くは私にあるわ。私があ

の人とあなたの関係を何とかできる立場だったのに。」

律子さんはそう言いながら、急須を僕の湯飲みに傾ける。僕は頭を少し下げ

た。少しだけ救われたような気がした。律子さんは少し息を吸い込んで、言

った。

「それで、私はあなたの誤解を解かなければいけないの。」

「誤解?。何ですか、それは?。」

「あの人は、あなた達の結婚には必ずしも反対じゃなかったの。」

僕の眉が歪んだ。

「そりゃ確かに多少は不愉快だったかもしれない。だって...。」

律子さんはそこで僕をじっと見つめた。それから、ため息を一息つく。

「よしましょ、こんな話は。ただね、あなた達の結婚式の時の話はしておく

必要があるわね。あの人、あなた達の結婚式の時に出張したでしょ。あれは

ヨーロッパでゼーレの残党が、しかもかなりの大物が捕まったからなの。そ

の処分に関して、あの人がどうしても行く必要があったの。だから、出席で

きなかったの。これは本当の話よ。」

 僕は黙って聞いていた。結婚の時の裏話は麗からも聞かされていたし、そ

れはきっと律子さんの言うとおりでもあるのだろう。

「だから、許してあげて欲しいの。」

 僕は迷っていた。どう言えばいいのだろう。僕は律子さんに正直に言うべ

き何だろうか?。僕は父さんの死に悲しみを感じていないと。確かに裏話を

聞いた。しかしそれと同時に、父さんが僕にとって「他人」であったという

認識が深まる感じがしていた。いろいろな話を聞いたからと言って、それで

「はいそうでしたか。父さんはいい人だったんですね。」と済む話なんだろ

うか?。仮にそう思うとすると、僕と父さんの絆がなくなることを意味しな

いのだろうか?。僕は憎しみを感じないようにするために、父さんを他人と

して扱うことにした。でも、憎しみこそが僕と父さんの間の唯一の絆じゃな

かったのか。憎しみをかき消すこと、それは僕と父さんの関係を絶つことに

ならないか?。僕は律子さんに答えることができず、じっと湯飲みを見つめ

ていた。

 そんな僕を見て、律子さんはため息一つつき、台所に向かった。居間には

薫を抱く僕と副司令と加持さんが残った。

「慎治君。君に渡しておきたいものがある。ああ、それに麗もだ。」

副司令は加持さんに目配せする。その意味を理解した加持さんが立ち上がる。

「ああ、俺が呼んできますよ。」

加持さんが台所に行ってからすぐ、麗がエプロンをとりながら居間に入って

きて、僕の横に座る。副司令は自分のカバンを引き寄せ、その中から指輪の

ケースと三冊のアルバムを取り出した。

「これは碇から生前頼まれていたものだ。」

麗がケースを開けると、そこにはダイアモンドの指輪があった。

「唯さんの結婚指輪だそうだ。それと碇のアルバム三冊だ。」

アルバムを開けると、父さんと母さんの写真があった。どこかの旅行先でと

ったものだろう。背景は大きな滝で、二人は木製の手すりのすぐ前に並んで

写っていた。母さんは白いワンピースを着て、麦わら帽子をかぶっていた。

父さんは白のポロシャツに茶のコットンパンツをはいていた。眼鏡はかけて

いるものの、髭はまだ生やしていなかった。母さんは嬉しそうに、父さんは

苦笑いを浮かべていた。そのほかの写真も同じ旅行の時にとったのであろう、

あるものは母さん一人で、また別のものは父さん一人で写っていた。

「これを僕らに?。」

「ああ、碇もそれが本望だろう。」

本望?。ということは、父さんは僕らにこれらを渡すことは副司令に言って

いないということだろうか?。副司令はぼくの疑問に察したのか、理由らし

きものを述べる。

「君にも分かるとは思うが、律子君には渡せない。」

確かにそれはその通りだった。ただでさえ、律子さんは父さんとの関係で母

さんに引け目を感じている。しかし、副司令がボソリと言った次の言葉が引

っかかった。

「君たちが持つのが、一番いいんだ。」

どういう意味なんだろうか?。副司令はそう言うと、遠い目をして席を立っ

た。そんな副司令を見ると、これ以上は聞けないことが分かった。

 6時前になると、げっそりと痩せて、難しそうな顔をしたお坊さんがお弟

子を2人連れてやってきた。あとで知ったのだが、阿闍梨というかなりの高

僧だった。碇家との繋がりできてくれたらしい。阿闍梨は僕を見ると、難し

い顔を崩してにこやかに笑った。

「ほう、あなたが唯さんと厳堂さんの息子さんかい。厳堂さんの若い頃によ

う似ていらっしゃる。」

誉められているのかどうかよく分からない複雑な気分だった。

 枕経は比較的早く終わった。こういうお経が上げられるような場にはあま

り参加したことがなかったから、特にそう思ったのかもしれない。だいたい

碇家が天台さんだったと気づいたのも、加持さんが指摘してくれたからだっ

た。仮に加持さんが「カソリックだったよなあ」と言ったとしても、「そう

でしたよね」と答えていたに違いない。

 納棺では死装束を着た父さんに、愛用のサングラス・ネルフ総司令の制服

そして、なぜかは分からないが、ジップ・ディスクが添えられた。そして花

で父さんを飾り、蓋をした。阿闍梨は父さんに「大覚院殿救世厳安居士」と

いう大層な戒名をくれた。それから、阿闍梨は少しだけ碇家について語った。

碇家が京都では歴史のある家系であること。母さんが碇家の十何代目かの当

主であり、母さんと結婚した父さんはけっこう親戚ではつまはじきにされて

いたこと。結果、母さんまで碇家の中で浮いてしまし、当主の座を叔母に譲

らざるを得なくなったこと。しかし、その叔母もセカンド・インパクトで亡

くなってしまい、また母さんも初号機に取り込まれて以後、碇家は没落して

しまったこと。初めて聞く話ばかりだ。最後に阿闍梨は一言いって去った。

「世も世もなら、この子の世じゃったのに。」

そんな世の中は、僕の方からご免被りたかった。

*** 

「それじゃ、碇司令の冥福を祈って」

さすがの美里さんも「乾杯」の言葉は言えず、そのままグラスを上方に上げ

るだけにした。みんなビールを一気に飲んだ。居間にある大きな卓袱台には

刺身やらお総菜など、所狭しと並んでいた。なかなか豪勢な晩餐だった。

「あらあら、もう始まってるの?。」

律子さんが熱燗をお盆に乗せて持ってきた。

「ほらほら、律子も!」

美里さんは律子さんにグラスを強引に持たし、ビールを注ぐ。律子さんもグ

ラスを飲み干す。

「久しぶりだわ、ビール飲むの。」

律子さんがちょっとゆったりした表情を見せる。今朝の様子と比べると、だ

いぶ余裕が戻ってきたようだ。

「あの、副司令、加持さんどうもありがとうございます。」

加持さんはビールを飲みながら、左手を横に振る。副司令は、律子さんにお

酌をしてもらった熱燗をぐいっとあおる。

「いや、かまわんよ。碇に何かしてやれるのもこれで最後だからな。」

「あらっ、おいしい。信じられないわ。」

ジャガイモの煮っ転がしをつまんだ律子さんは驚嘆の声を上げる。美里さん

はビールを飲みながら、ニヤニヤしている。

「言ったでしょ。へへへへへ。まぁ下拵えしてくれたのは麗だけどね。麗の

手際がよくってびっくりしっちゃった。やっぱりシンちゃんの教育のおかげ

よね。」

僕はボールからサラダを自分の皿に移しながら言った。

「いや、そんなことはないですよ。麗にはもともと素質があったし。それよ

りも美里さんもちゃんと『お母さん』やっているんですね。」

「何よそれ。棘があるわね。」

そのとき僕の携帯が鳴った。僕はハンガーに掛けてある背広から携帯を取り

出す。

「はい、碇です。」

『へロー、シンジ。』

「ア、明日香?。今どこ。」

『フランクフルト。手短に言うわ。明日午前7時に関空に着く予定。ちゃん

と迎えに来なさいよ。私を待たせたら承知しないからね。』

「うん、分かったよ。」

「明日香から電話?。シンちゃん、かわってかわって。」

美里さんに電話を渡す。

「久しぶりね、明日香。元気?」

「ええ、こっちも元気よーん。えっ、もう切る?。そんなけち臭いことを。

バ、バカとは何よ、バカとは。仮にもこっちはあんたの元保護者且つ上司

よ。あっ、切れちゃった。」

「無様ね。」

律子さんの一言ににらみ返すことしかできない美里さん。僕は笑いをこらえ

きれなかった。

「リッちゃん、もうちょっとビールもらってもいいかなぁ。」

「おいおい加持君。君には私の家まで運転してもらうんだよ。」

「大丈夫ですよ、そんなに飲みはしませんから、これはカミさんのものです。

それよりまぁ副司令こそ、一杯どうぞ。」

「おいおい、頼むぞ。あとさっきも言ったが、『副司令』はやめてくれ。冬

月でいい。」

「まぁまぁ、副司令はやっぱり俺達にとっては『副司令』ですから。」

よく分からない理屈をこねながら、加持さんは副司令のお猪口にお酒を注ぐ。

そして僕にグラスを持たせながら、「まぁ慎治君も」と言ってビールを注ぐ。

それから僕がビール瓶を加持さんから奪い加持さんのグラスに注ぐ。そして

もう一本開けて、麗のグラスにも、美里さんのグラスにもビールを注いだ。 

「まぁ、明日の晩は碇司令をダシに同窓会だ。」

そういって、ニヤーと笑った。加持さんが単なる田舎のオヤジに見えた。

「ひどいわねぇ、加持君。あの人をダシだなんて。」

「なに、碇司令もニヤーと笑って喜んでくれるさ。自分の手塩にかけた部下

が一堂に会するんだから。」

「手塩にかけたと言うよりは、背後から無言で脅迫していたというべきね。」

「おいおい、葛城君、それじゃ、私もそうだったというのかね?。」

美里さんは小さくなり、一同爆笑した。

***

結局、今晩は9時ぐらいで散会ということになり、加持さんは副司令のとこ

ろに、美里さんは律子さんの部屋に泊まることになった。いま僕は麗と枕を

並べている。薫は彼女の左となりで眠っていた。あれからお風呂に入り、ゆ

っくりした。昼寝をしてしまったせいか、僕はそれほど眠くはない。現在晩

の11時半過ぎだった。麗に目をやると、彼女の赤い瞳と目があった。

「眠れないの?。」

「ええ。」

やはり昨日の今日の話だからな、と僕は思った。

僕は麗を引き寄せる。彼女の頭が僕の首のあたりにくる。リンスの香りがし

た。懐かしくて、気持ちのいい匂い。麗の匂いだった。彼女は無言のまま、

僕を見つめる。そして、僕の唇に軽くキスをする。そのとき誰かがすすり泣

く声が聞こえはじめた。それが律子さんのモノだと分かるのには、それほど

時間はかからなかった。。美里さんの律子さんを慰める声も聞こえた。

「律子さん、泣いているね。」

「ええ、悲しいのね。」

「君は?。」

麗は僕に覆い被さるような姿勢をとる。彼女の表情は変わらない。冷静ない

つもの麗。しかし、その赤い瞳から涙が一筋こぼれた。僕はその涙を人差し

指で捉える。彼女は静かに僕の胸にしがみつき、静かに泣いた。耳をすまさ

なければ聞こえないほどの小さな声で泣いた。僕は彼女の蒼い髪をできる限

り優しくなでた。天井の木目が人の泣き顔のように見える。木ですら泣くん

だったら、麗が泣くのは当たり前のことだ。でも、僕は泣けない。父さんの

死を喜んではいないが、他方で悲しいとも感じない。何も感じない。そんな

僕が自分で寂しかった。

 僕は麗の頭をなでながら、目を閉じた。眠りが僕を解放してくれる。今は

それでいい。僕はそう思うことにした。

 

【つづく】




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