帝都 騒然 ――心優しき反逆者の一族――

〜〜 第二話 〜〜


 国際港、横浜。
 文明開化の発信地。西洋に開かれた門。
 その港を見下ろす小高い丘の上に彼の屋敷はあった。
 元老・花小路伯爵。
 非公式超国家機関・賢人機関(「秘密組織」と言うべきなのかもしれないが、それにしては「知名度」が高すぎるので、「非公式機関」と表現させていただく)の幹部で、公的にも私的にも欧米と太いパイプを持ち、日本の影の外務大臣と囁かれる大物政治家も、あの太正維新騒動以来、高齢を理由に公式の場に姿を見せることがめっきりと減り、この横浜の私邸で過ごすことが増えている。

 もちろん、そんなものは表向きの話だ。

 帝国華撃団が三度重ねた奇跡の勝利は、霊子兵器の威力を内外の権力者にまざまざと見せつけた。魔の侵攻に対する不可欠の対抗手段であり、その反面、世界の軍事バランスを覆しかねない脅威でもある霊子兵器。その精華たる霊子甲冑と空中戦艦。それを、単に技術面に止まらず運用ノウハウを含めて実戦レベルで実用化した帝撃には、技術協力、人材派遣から装備凍結、部隊解散まで硬軟両極の圧力がかけられている。
 帝国華撃団の後見役を自ら任じる花小路は、こうした国の内外、列強諸国、超国家集団から帝撃を守る為に公職を半ば退く形を取っているのだ。砲弾ではなく言葉。兵器ではなく駆け引き。埋蔵されている鉄と燃料ではなく、培ってきた人脈と知識。その全てを使って、帝撃を利用しようとする、あるいは抹殺しようとする謀略を退ける。それが彼の自らに課した戦いであった。
 銃声も爆炎も生じない、でありながら容易に人の命を奪う「冷たい戦争」。前線も後方も無い戦場。花小路は、その戦場の只中に身を置いていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 この日も花小路は自宅で数人の客を迎え、数通の手紙をしたため、静かに流れる多忙な時間を過ごしていた。
 だが彼も、一日中「仕事」をしている訳ではない。彼が自らに課した静かな戦いは手に汗握る緊迫感こそ無いものの、ダモクレスの剣に等しいプレッシャーを与え続けるもの。一日中休む暇も無い生活を続けていれば、如何な彼といえど神経がもたない。
 今日の彼のスケジュール表は、午前中だけが黒く塗られており、午後は白紙のままだった。これは特に珍しいことではなく、午前と午後、中断を挿みながらかそうでないかの違いはあっても、半日働き、半日休み、時々議会と宮中に顔を出す。それが最近の彼の生活様式だった。
 そんな訳で、今日の午後は老妻とゆっくり過ごすのが彼の予定だった。――のだが。
 予定はやはり予定に過ぎない。予定は未定、という哀しい慣用句(?)もある。
 彼の「予定」は、無遠慮な来訪者に修正を迫られていた。

「随分久し振りだな、虎太郎君」
「急に押しかけて済まんな、伯爵。生憎、儂の家には電話などという便利な代物は無いのでな」
「電話が無くても君の場合不自由しないと思うがね…」

 ただ、救いは、押しかけてきた客が彼にとって旧友と呼べる人物であり、不快感をもたらす相手では無かったという事だろう。
 ソファーにゆったりと腰をおろした羽織袴姿の老人。現代の基準に照らして言えば小柄な方だが、彼の年代では平均的な体格だろう。

「二十年…ロシアと戦争を始めた時に会ったきりだから、もう二十二年になるのか……
 変わらないな、君は」

 そう、花小路の年代では中肉中背のその身体は、しかし、年齢に比べて驚くほど老いを感じさせない。若い、というのではなく、衰えが無いのだ。千年の時を重ねてなお生い茂る杉の巨木のように。

「年甲斐もないとしょっちゅう孫娘に嫌味を言われておるよ。
 まあ、『老い』は『悔い』、人は後悔と共に年老いて行くものじゃからな。
 悔いる要の無い気ままな暮らしをしておる儂は、貴殿に比べれば老いることも少なかろうて」

 聞きようによっては随分と辛辣な台詞だが、とりあえずは苦笑いするしかない。

「それにしても、君が大神君の祖父だったとはな。考えてみれば、今日まで私は君の名前しか知らなかったのだな」
「素性が必要な付き合いではなかったじゃろ?儂が貴殿に力を貸したのも貴殿の人物を見込んでのこと。それ以上の関係ではなかったはずじゃ」

 人を食った笑いを浮かべる虎太郎に、花小路は苦笑を深める以外に無かった。

「確かに君は、何度頼んでも謝礼を受取ってはくれなかったからね…」
「儂にとっても修行のついでじゃったからな。昔からそう言っておるじゃろ?」
「今だから正直に言うがね。その言葉、最初に出会ってから何年も信じられなかったよ。
 なにしろ、君が未然に防いでくれた反乱や陰謀は両手の指でも収まりきれないからね。下手をすれば、第二の西南の役につながりかねないものも一つや二つではなかった……
 君にも、君のお孫さんにも、私は感謝しても感謝しきれないと思っているのだよ」
「一郎は役に立っておるかの?」

 形は問い掛けだが、実態は孫自慢だった、と思われる。
 何故なら、虎太郎の顔は答えを待たず満面の笑みを浮かべていたから。
 そして彼の期待は、当然裏切られはしない。

「君のお孫さんがいなければ、この帝都は既に地上から姿を消していただろう。
 私はずっと心苦しい思いをしているのだよ、虎太郎君。本来ならば私達は、国家を挙げて彼の武勲を称えなければならないのに。
 私達の作った帝国華撃団が秘密部隊であるばかりに、英雄を功績に相応しく遇する事が出来ずにいる……」
「一郎はそのような事を望んではおらんよ。
 あやつは英雄になりたいなどと望んではおらん。
 孫は、今でも十分満足しておるはずじゃよ。
 何故なら、護り抜けたという事実、それこそが一郎にとっての最高の勲章であり報酬なのじゃから」
「君達は……獅子の孫はやはり獅子ということか……」

 自分と孫に対する最高の賞賛。
 だが虎太郎は、しみじみと首を振る花小路に、笑って首を振った。

「伯爵、それは違う。儂と孫は同列などではない。
 もし儂が獅子ならば、孫は竜じゃよ」

 孫自慢故の謙遜にしては、いささか強く、真剣な口調だった。
 予想外の反応に、花小路は軽く目を瞠っていた。

「儂に宿命を覆すほどの力は無い。せいぜい、宿命に抗って見せるだけ。
 あれは、孫だから出来たことじゃよ。
 ……それも、あやつだけでは叶わなかったじゃろう。
 あの二人じゃったから、と思うのよ……」

 謎掛けのような物言いだったが、花小路にはそれが何を指しているのかすぐに分かった。
 余りにも苦い記憶と共に。

「伯爵、貴殿は変わったの」

 黙り込んでしまった花小路に、冗談というには少々重たい口調で話し掛ける虎太郎。

「すっかり老いてしまわれたな」
「…二十年も経てば人は老いるものだよ」
「それ程、後悔しておられるのか」

 溜息を吐く花小路。最初からこの程度の韜晦が通用する相手とは思っていなかったが、面と向かって問われると、やはり、かなりこたえる。

「最後に君と会った時、あの時は君の忠告の意味が、私にはよく分からなかった」

 その時の台詞が花小路の脳裏に甦る。
 虎太郎はこう言ったのだ。
 ――何があっても、魔神器を使ってはならない――と。
 当時はまだ、自分は魔神器のことを知らなかった。
 ロシアとの戦争が始まって、裏御三家最後の当主を戦場に送ることになった時に、自分は魔神器の存在を知らされたのだ。呪われた歴史を分かち合う者、忌まわしき歴史の、共犯者として――

「あの戦争の時は使わずに済ませられたが、結局私は、あれを使ってしまったよ」

 それが一時凌ぎであり、歴史の繰り返しにしかならないと知りながら――

「あの時こそ、私は君に力を貸して欲しかった。いや、助けて欲しかった。
 何故、今、姿を見せてくれないのかと、正直、恨めしくも思ったよ……」
「儂が居っても結果は変わらんかったよ。
 儂には、宿命を覆すほどの力は無いのじゃから」
「……すまんな、身勝手な愚痴をこぼしてしまって……」
「おお、そのような事を気にする必要は全く無い。
 昔馴染みなどというものは、愚痴をこぼし合う為におるようなものじゃからな」
「なるほど……」

 辛辣な毒舌家でありながら飄々とした風情でどうしても怒りが湧いて来ない、憎めないところは昔のまま、いや、それ以上か。
 ずっと苦笑いをさせられ通しの花小路は、そんな懐かしさを伴う感慨を抱かずにいられなかった。
 もっとも――それも長くは続かなかったが。

「正直言うて、儂は維新にも帝国にも帝都にも特段の思い入れは持ち合わせておらぬ。儂が『仕事』をしておったのは、自分自身の技を磨く為よ。実戦の中でしか磨けぬ技もあるからの。
 そして降魔戦争のあの折、儂が貴殿の前に姿を見せなんだのは、もう修行の必要が無くなっておったからじゃ。あの時、儂自身の修行は既に終わっておった」
「……よく分からないな。それは、奥義を極めた、とかいう意味かね」
「いやいや、そうではない、伯爵。
 儂自身の、修行が終わっていたという意味じゃよ」
「君自身の?」
「そう、儂は既に自分自身の修行に時を割けぬ身となっておった。
 あの当時、儂の時間の全ては、一郎の修行の為にあった」
「そうだったのか……」
「一郎は儂の全てを注ぎ込み、一族の秘伝を尽くして育て上げた儂ら大神家の歴史の集大成じゃ。あやつの技量は儂の最も盛んであった頃を遥かに上回る。儂ら一族の追い求めてきた境地を極める者があるとすれば、それはあやつじゃろうて……
 儂には宿命を覆す力など無い。だが、あやつならば出来る。今は出来なくとも、きっと出来るようになる。
 だから、あの時役に立てなかった償いは一郎がきっと果たしてくれると、勝手に考えておるのじゃがのぅ……」
「償いなど、それこそとんでもない話だよ。
 私は君から一方的に助けてもらってばかりだ。君に要求できるものなど本来、何も無いのだから。償いをしなければならないのは私の方でこそあれ、決して君ではない。
 それは一郎君についても言える事だ。彼は、帝国軍人としての義務以上の働きをしてくれた。償いなど、彼に要求できるはずが無い」
「魔神器を破壊したことについても?」

 さらりと持出された話題は、花小路を完全に絶句させた。
 彼ほどの地位にある者でも、独断では答えられない問題だ。いや、魔神器の重要性を知る地位にあるからこそ、「問題無し」とはおいそれと答えられない。
 だが、答える事から逃げる訳にはいかなかった。少しでも躊躇いを見せれば、これ迄の彼の言葉が全て嘘となってしまう。それは目の前の旧友の信頼を損なう行為であり、もしかしたら無二の切り札を失う事につながる愚行かもしれないのだから。
 自分が何時の間にか追い詰められていたと、覚らずにはいられない。この古馴染みが決して飄々としているだけの変わり者ではなく、味方であっても油断できない曲者である事を花小路は迂闊にもようやく思い出していた。

「…もちろんだとも。いかに国家の為とはいえ、人柱の歴史など繰り返して良い筈は無い。いや、国家の為だからこそ、功に死で報いるような真似をしてはならない。
 国を治める為には大義が必要だ。そして道義を外れたところに大義はありえない」
「流石は花小路伯爵、儂の見込んだ御仁じゃ。天晴れなる見識とご覚悟、この大神虎太郎、感服仕った」

 時代がかった言葉遣いは、年齢を考えればそれ程不自然でもない。だが、台詞回しはやけに芝居がかっていて、本心から感心しているとは思えない。感心しているだけ、とは思われない。
 とは言うものの、悪意を持って皮肉っているという訳でもなく、取りあえず賞賛を向けられている事に間違いは無かったので、花小路としては曖昧に笑って頷くしか処方が無かった。

「道義に反するは国家の大義に反する事。その言葉、確と承りましたぞ」

 満面に皺を寄せて笑う虎太郎に、何やら重大な言質を取られたような気もしていたが、言を翻す事など、無論、出来るはずも無かった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「本当に、泊まっていかないのかね」
「おお、いかな儂とて、そこまで厚かましゅうはなれぬよ」
「それこそ、そのような遠慮は無用の間柄ではないか」
「いやいや、奥方のご苦労を慮ればその様な訳には行くまいて。それに、今日の所は帝都に連れを待たせておるのでな」
「ご家族かい?」
「ご明察じゃ。四、五日、一郎の住まいに邪魔しようと思うての」
「そうか……ならば、無理に引き止める訳にもいかないね。
 すぐに帰るのでなければ私も時間の都合がつく日もあると思う。次は帝都で会うとしようか」
「そうじゃな。その折は、是非酒の美味い店を紹介してくれ」
「はははっ、無論だよ。米田君も山口君も無類の酒好きだ。君とは話が合うと思うぞ」
「貴殿のご友人方じゃからな。さぞや類が友を呼んだのであろう」
「さしずめ君は『類』の第一号かな」
「はははは、これはしてやられたわい!
 ではこれ以上旗色の悪くなる前に退散いたすとしようか。
 奥方殿、お邪魔致し申した」

 最後まで飄々とした風情を崩さず背を向けて去って行く虎太郎の背中を見送りながら、花小路は得体の知れない不安がもたげるのを自覚していた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「ただ今戻りました♪………何かあったんですか?」

 ここのところ引っ張りだこで肉体的にも精神的にも働き過ぎの懸念もあるさくらだが、それでも毎日一日中仕事に飛び回っているという訳ではない。
 彼女の本分(表向き)は舞台女優。次の公演が最後の舞台となれば稽古を疎かにできないという言い分も十分説得力を持つ。
 結婚式を控えて、彼女自身の準備もある。

 と、いうのは、半分本当、半分口実。

 平和な日々の中とはいえ、魔の暗躍はいつ始まるか分からない。帝国華撃団の一員として(それももうすぐ引退だが)銀座本部を留守にばかりできないという公に出来ない事情を、そういう世間的な口実に包んで、過密な仕事の合間には可能な限り帝劇に戻れるようスケジュールを組んであった。
 無論、そんな事を抜きにしても、帝劇はさくらがこの帝都で最も心安らぐ――と言うには少し賑やかだが――「我が家」だ。彼女自身、忙しい中だからこそ、一時間でも三十分でも大帝国劇場で過ごす時間を大切にしていた。
 特に今日は大神が久し振りに帝劇を訪れると聞いて、過密スケジュールもなんのその、足取りも軽く自然に緩む表情を何とか引き締め帝劇に戻ってきたのだった。
 そんな彼女を出迎えたのは、比喩でなく命を懸けた日々と、情熱の全てを懸けた日々を、共に過ごしてきた仲間の――滅多に見せぬ虚脱した表情だった。
 呆気にとられたというか毒気を抜かれたというか、夜更かしの翌朝の起抜けにも似た感情の希薄な表情の中で、さくらに向けられた眼差しの中に揃って微かな同情の色が垣間見える。ウキウキ気分であった分、余計に、それが彼女の不安を掻き立てていた。
――所詮、杞憂に過ぎない事はすぐに分かるのだが。

「あ、あのぉ……?」
「さくらさん、貴女も大変ですわねぇ……」
「あの、すみれさん…?」

 それは、揶揄ではなかった。しみじみと呟いたすみれの声の中に、彼女には珍しい素直な心遣いを感じて、さくらの不安はますます水位を上げる。

「アイリスはそんなこと無いと思うよ。良い人たちだよ、みんな。
 さくら、きっと大丈夫だからね」
「ア、アイリス……?」

 台詞の中身とは裏腹に、アイリスのキラキラ光る両の瞳は「ガンバレ、ガンバレ」と励ましを送ってきている。

「そうだな。良い人たちには違いない。
 頑張れよ、さくら!」
「カンナさん、一体それって……?」

 ますます困惑してしまったさくらに、カンナからのとどめの一撃。

「さくらさん、大神さんのご両親とお姉様がお見えになられていますよ」

 途方に暮れて視線を彷徨わせるさくらの疑問に答えたのは、たまたま通りかかった――のだろう、きっと――由里だった。

「えっ?、美鶴さんもいらしてるんですか?」

 さくらの口元が一瞬、微かに引きつったのを、四人は見逃さなかった。

「…さくらさん、わたくし、初めて貴女に同情致します。
 でも、幸せな結婚生活には障害がつきものだと昔から申します。これも天が貴女に与えた試練なのですわ、きっと……」
「昔からって……誰がそんな事を言ったのやら……」

 さくらの口から出てきた名前と隠し切れなかった表情の変化。
 その意味するところを彼女達はしっかり理解していた……

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「っくちゅん!」

[…早速誰か噂しているようだね](ボソ)
[…美鶴従姉さんはとにかく印象的な方ですから…](ボソボソ)
[…二人とも、あたしが風邪をひいたという発想は無いんですか](ボソボソボソ)

「少し冷えますか?石造りの建物は底冷えしますからな。
 かすみくん、暖房を入れてくれんか」
「はい、支配人」
「あっ、いえ、どうぞお構いなく」
「いえいえ、どうかご遠慮なさらずに。あるいはご存知かもしれませんが、当劇場は専用の蒸気機関を備えておりまして、廃熱利用で暖房費は只みたいなものなんですよ」
「科学というのは素晴らしいものですね。私どもは山奥暮らしで新しい物に触れる機会もほとんどありませんが、帝都の生活は随分便利になっているようですね」
「いやぁ〜、私みたいな年寄りにゃあ山奥の静かな生活の方が向いてるんじゃないかって思いますよ」
「まあ、閣下はまだまだとてもお若くていらっしゃるようにわたくしには見えますわ。そう思いませんこと、お母様」
「そうですね、美鶴さん。心身ともにとても溌剌としておいでで」
「いやぁ、お恥ずかしい。無駄に年を重ねるばかりで、中々枯淡の境地には至りません」

 一つお断りしておくと、決して筆者が言葉遣いを取り違えた訳ではない。
 米田との面会は千鳥が主となり美鶴が時々合いの手を入れる形で進められていたが、千鳥はともかく美鶴もまずは尋常な話し振りで、こうしていると元々の見栄えが良いだけに文句無く淑女、「貞淑な人妻」に見える。
――世間ではこういう振舞いを、「猫を被る」と言うのだが。

「それにしても大神に、あっ、いえ、失礼、一郎君にこんなお美しいお姉様がいらっしゃるとは全く存じませんでしたな。ご結婚なさっていらっしゃらなければ、是非うちの舞台に上がっていただきたいとお願いするところです」
「そんな……わたくしなど花組の皆さんに比べればまるで平凡な女ですから……」
「いやいや、そんなことはありませんぞ。なあ、かすみくんもそうは思わんか」
「本当に。とてもお美しくていらっしゃると思います」
「そんな、お恥ずかしいですわ」

 恥ずかしそうに目を伏せる仕草は身に纏う古風な雰囲気も相俟って昔ながらの日本美人そのもの。色事よりも荒事、の人生を歩んできた米田だが、僅かに細めた視線の先には忘れられない想い出が垣間見えていたのだろうか。
 帝国陸軍きっての知将。戦場の騙し合い、化かし合いには滅多に遅れをとることの無い米田だが、女性の素顔を見抜く目は持ち合わせていなかったようである。
 いや、男とは美女に騙されたがるもの。米田もやっぱり「男」だったということだろうか……

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 他愛も無い世間話ばかりしているようであっても、話すべき事柄はきちんと話し終えている。このあたり、大神の家族はただの非常識人ではない。――親が常識知らずでは大神のような常識人が育つはずも無いのだが。
 長男の結婚についての挨拶と世話になった事に対する御礼、そして仲人を他人に頼む事についての謝辞。こういう当たり前の儀礼ごとをこなしていけるからこそ、好き勝手に生きているようでも社会からはじき出されずに済むのである。
 一通り世間話で盛り上がり、頃合を見て席を立つ五人。
 米田も同じく立ち上がりながら、こういう場合の決り文句を社交辞令ではない笑顔で口にする。

「これからどうされるご予定ですか」
「山口閣下にもご挨拶したいと思いますし、帝都に出てくることも滅多にございませんので、四、五日、一郎の家に泊めてもらおうかと思っております」
「うーん……それではご不自由でしょう。一郎君はそれほど広い家を借りておりませんし、夜具の持ち合わせも余分があるとは思えません。
 どうです、ここにお泊りになっては。至れり尽せり、とまでは行かないかも知れませんが、ご不自由なく過ごしていただけるだけの部屋も設備もありますよ」
「ありがたいお申出ですが……そこまで甘えさせていただく訳には参りませんわ」
「いえいえ、宿泊費はこれ迄の一郎君の働きでお釣りが出ます。
 それに、さくらもその方が喜ぶでしょう。私はあの子の父親代わりみたいなものですからな。あの子が嬉しいなら私も嬉しいというものです」
「そうですか……あなた、どうされます?」
「そうだな……」
「……今日は、一郎君ももうすぐここに顔を見せる予定です。彼とご相談なさっては如何ですか?
 さくらもそろそろ戻っていると思いますよ」
「……ではとりあえず、一郎を待たせていただけますか?」
「良いですとも!
 かすみくん、皆さんをサロンへご案内してくれんか」
「はい」

 コンコン

 かすみが丁寧に頭を下げたその時、支配人室の扉が叩かれた。

「お話中申し訳ございません。
 支配人、お客様がお見えなのですが……」
「どうぞ、わたくしどもにはお構いにならないで下さいな。もう十分にお時間を頂戴致しましたので」

 口篭もる由里ににっこり笑いかける美鶴。
 見る者をホッとさせる笑顔は何処となく彼女の弟のそれに似ていて、由里は訳も無くドキドキしてしまう。

「で?一体誰が押しかけて来やがったんだ?」

 対照的に米田は余り機嫌が良いとは言えない。
 まだ大神一家が部屋に残っているのに由里が取り次ぎにやって来たということは、余程強引に、あるいはしつこく面会を迫られたのだろう。
 凡そ礼儀には大らかな米田であるが、来客中に割り込もうとするような自己中心的な輩には天邪鬼の性が首をもたげてしまうのだ。

「陸軍参謀府の岩井技術少佐と名乗っていらっしゃいますが……」
「参謀府の技術屋が…?」
「それでは米田様、お邪魔致しました」

 居心地悪そうにしている由里に、娘に良く似た笑顔を見せて、全く何も聞いていなかったような素振りで米田にお辞儀し、千鳥は一同を促した。
 慌てて、先導に立つかすみ。その後をぞろぞろと続く五人。
 入れ違いに、というよりすれ違いざまに、せかせかと支配人室に入り込む背広姿の神経質そうな男の姿をチラッと横目で捉えて、五人はそのまま何も無かったようにサロンへと向かった。

 

続く

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