「碇さん...好きっ」
誰もいない昼下がりの会議室、彼女は白いブラウスのボタンを一つずつ外していく。 「わ、私を...好きにして下さい」 恥じらいに赤く頬を染め、うつむく姿。そのいじらしい姿に僕は打たれた。
「や、山岸さん・・・」 ごくりと唾を飲み込み、彼女の肩に手を掛ける。しかし彼女は僕の手からするりと逃げ出していた。 「や、山岸さん・・・」
ごくり、僕は再び唾を飲み込んだ。 「マ、マユミさん・・・」
そっとふれあう唇。僕の手はブラの下から直接彼女の胸に...
「シンジさん・・・」 熱のこもったその言葉は僕の理性を溶かしていく。いけないここは会社の会議室なのに...
「マユミさん、こんなになって」 僕の指使いに答えるように山岸さんの指も僕自身を捉える。 「あら、シンジも元気になっているじゃない」 へっ、突然変わった山岸さんの言葉遣いに、僕の頭は混乱に陥った。 「全く私たちじゃあピクリともしなくなった癖に」 そう言えば声も山岸さんとは違うような、それにさっきまでは会社の会議室だったのに今はどこかのホテルのような... 「ひょっとして...」 僕は抱き留めていた山岸さんの姿をおそるおそる見た。
「久しぶりねシンジ!」 「うっ・・・わぁ〜」
ドタン...ゆ、夢か...それにしても不吉な。 僕はこうして運命の一日を迎えることになったのです。 ボクの名前は碇シンジ。今年で25歳になる中堅のソフトメーカーに勤務するごく普通の男です。
まあ社会の荒波に揉まれながらも碇シンジ、頑張っています...
「おい、碇...聞いたか」 ちょうど長かった朝の会議が終わり、ゆっくりとお茶を飲んでいるとき、隣の永友が声を掛けてきた。
「おい、聞いてんのか!」
驚いた、こいつにしては珍しく情報が遅い。それにしても本当だろうか。今日発表になるって、今朝の会議でもそんな話は出ていなかった。 「おいおい、今日のことだろ。未だになんの話もないなんてがせじゃないのか。それにうちの会社ぐらいだったら簡単に揺るがすことが出来るぞ。大したことじゃないんじゃないか」 おいおい永友、何をニヤリと笑っているんだ。やめてくれよその笑い方。トラウマがあるんだ。 「まあ聞いて驚くな。俺の掴んだ話だと、社長があのネルフとのコネクションに成功したらしい。なんでもMAGIの拡張にネルフの人員が足りないそうなんだ。そこに上手く取り入ったと言うのが本当らしい...ん、どうした碇」 多分ボクの顔は真っ青で、盛大に冷や汗を流していたことだろう。足もがたがた震えている。失禁しなかっただけ良く保ったと言えるだろう。うちみたいな中小ソフト会社をネルフが相手にするはずがない。ならば考えられる理由はただ一つ...楽天の日々は終わったのか。 「・・・ど、どうして天下のネルフがう、うちなんかを。そんな話だったらもっと大手に行くんじゃないか。第一うちにそんな実績が無いだろう」
ボクは永友に関係ないと言いながらも『決して無関係でいられない』と諦め。自分のPCを立ち上げた。目的は簡単。ワープロを立ち上げて“辞表”を書くことだ。割と気に入っていた仕事なんだけど、こうとなったら仕方あるまい。“自由”を代償にすることは出来ないのだから。 「・・・ところで永友。白い封筒持ってるか」
体型の割に行動の素早い永友は、補助職の山岸さんに声を掛けた。ボクは白い封筒が届くまで、一心不乱にワープロを打ち続けた。 『一身上の都合を持ちまして、私、碇シンジは12月3日をもちまして退社させていただきたくお願い申しあげます....』 後は捺印するだけだと。 「おい、碇、封筒が届いたぞ。・・・ところでお前なんて物書いているんだ」
ああ、永友があきれている。まあ仕方が無いことだけど、ボクだって必死なんだ。 「ああそうか、短いつきあいだったな。部長の所にそれを持っていくのなら、中に入っているマユミちゃんの手紙は抜いて行くんだな」 慌てて封筒の中を確認すると、中には可愛い文字で書かれた『この前のお返事を聞かせて下さい』と言うマユミちゃんの手紙が入っていた。 「と、と、とにかく。ボクの意思は変わらないんだからな」
ボクは封筒をひったくるように掴むと、ちょうど入室してきた猿渡部長へと提出に行った。しかしそれが間違いだった。さっさと帰社して郵送すれば良かったのだ。それをしなかったのがボクの敗因だろう。 「おう、碇ちょうど良いところに来た。すぐ俺と一緒に社長室まで行ってくれ」
そう言って猿渡部長はボクの首根っこを持って社長室へと引きずっていった。なむ。
うちの会社は500人ほどの社員を抱えているので、社長室もそれなりの構えをしている。まあたったの500人とも言えるので社長の顔自体はいやっと言うほど見ている。でもさすがに入社して3年足らずのボクが、社長室に足を踏み入れることはなかった。 社長は2世で、若くして先代から会社を引き継いでいる。なかなかの辣腕で、この数年で会社の業績を急速に回復させていた。まだ30前の彼は、会社オーナーグループの中でも注目される存在と言うことだ。何よりいい男でしかも独身。オーナーグループでの注目より、女性達からの注目の方が根強いとも言われている。 「汎用部の猿渡です。碇を連れて参りました」 部長はそう言うと、返事も待たずにドアのノブをひねった。ドアが開かれたときには、ある意味予想通りの図式が展開されていた。 「今晩お食事でもどうですか」
来客の女性を押し倒さんばかりに社長は迫っていた。背が高く、筋肉質の社長の影に隠れてはいるが、時折見える赤みのかかった金髪が、いや漏れ聞こえてくる声ですでに分かっていたのだが、来客が誰であるかをボクに知らせてくれた。そろそろ社長を止めないと、うちの社も新しい社長を捜さなくてはならなくなる。ボクは肘で軽く部長をつついた。 「猿渡です。碇を連れて参りました」 さすがに居心地が悪くなったのか、部長もそう言って割って入った。少なくとも緊急で呼び出されたのだから、そんなことは話が終わってからゆっくりとやって欲しいとでも思ったのだろう。
『邪魔をしおって』と言う不機嫌さを隠しもせず、社長は渋々とその女性から離れた。その姿を見てボクは気づかれないぐらい小さく溜息を吐いた。少なくとも惨劇の証人にならなくて済んだのだ。
「紹介しよう、ネルフから見えた惣流アスカ・ラングレーさんだ。そしてこちらが汎用部の猿渡部長、碇担当です」 まだ不機嫌さを残した顔で社長は両者の紹介をした。しかしボクにはその声が、死刑を告げる看守の声のように聞こえていた。 「惣流アスカ・ラングレーです。よろしくお願いします」
「碇君どうした」 「私は先ほど辞表を提出したのですが」
逃げ場はないのか、出来れば顔を合わせる前に逃げ出したかった。 「碇です。よろしくお願いいたします」
そう言ってアスカはボクの手をぎゅっと握りしめた...握力がまた強くなっている。ボクは盛大に冷や汗を流すことしか出来なかった。 「挨拶が済んだことですし、仕事の話に移りましょうか...こら碇、どこへ行く」 さりげなく退出しようとしたのだが、社長に見とがめられてしまった。 「いえ、仕事の話であれば辞表を提出した社員には不要かと思いまして...」 その瞬間すっとアスカの瞳がすぼまったのにボクは気づいた。『お願いです社長。退職金なんて...いえ、今月の給料も返上しますからここから出して下さい...』もしその懇願が役に立つのなら、ボクは社長の足下に縋り付くことも躊躇わなかっただろう。いや靴だって舐めた。なにによりも剣呑なアスカの視線にボクは生命の危機を感じていたのだから。 『初号機の中のお母さん。先立つ不幸をお許し下さい。シンジは先に旅立ちます』 ボクの意識は数瞬の間、お花畑へと飛んでいた。 「そんな物は受理せん。就業規則にもあるだろう、退職は一ヶ月前に申告することとな」
出来まいとニヤリと笑う社長とアスカ。すでに入念な下準備がされていたのだろう。ボクが辞表を出すことも彼女には折り込み済みであったようだ。慎重な情報管制が引かれたのもこれが原因だろう。 ボクは力無く用意されたソファーに腰をかけた。 「では猿渡君、そんな物は不要だからそこのシュレッダーにでもかけてくれないか」 ああ、ボクの命をつなぐ一通の文書が...5分間の力作だったのに。その辞表は瞬く間に小さな紙の固まりへと変貌していた。 そこからは社長の独擅場だった。如何に社長が苦労してネルフに取り入ったか。如何にうちの技術力が高いか。そして如何に自分が成功してきたか。その長々とした説明が、誰に向けてのことかは容易に理解できる。 社長...そんな自慢をアスカにしてもむなしいだけですよ。彼女達のキャリアにとってあなたなんて屁みたいな物だ... まてよ 間違って、いや、あわよく社長にアスカを落として貰えば、いや落とすと言わなくても、つきまとって貰えば命だけでも助かるんじゃないか。そうだ、そうすれば... そこまで考えたところで、ボクは重大な考え落としに気が付いた。問題はアスカだけでは無かった。こんな大がかりな話はアスカの為だけであるわけがない。きっともう一人の為のことも考えられているに違いない...下手に牽制しあっているアスカを排除したら... 思わずぶるっと震えてしまった。 ボクはこの世の無常を呪った。ボクは平々凡々とした穏やかな生活を望んでいただけなのに。波瀾万丈な人生は10代でお釣りが来るほどしているはずだ。もう放って置いて欲しい。 「おいっ、碇聞いているのか」 猿渡部長からつつかれて、社長が不機嫌そうな声でボクを呼んでいるのに気が付いた。社内での立場も悪くなっていくのか...いっそ不始末でも起こして懲戒免職にして貰おうか...駄目だ。そんなことで逃がしてもらえるわけがない。この会社から逃げられたとしても、あの二人からは逃げられない。あの二人から逃げるには...二人から逃げるには... 「いい加減にしろ碇、話をちゃんと聞け」
社長の顔には、話を聞いていなかったぐらいでは浮かばない怒気が浮かんでいる。でも隣に座っているアスカの恐怖に比べればそんな物風が吹いたほどでもない... 社長はボクの顔を品定めでもするようにじろりと睨んだ。 「・・・まあ、いい。いいかこれは社長命令だ。今日一日惣流マネージャーのお供をするように。社に帰ってこんでもいい。ご機嫌を損ねないようにな。それから領収書はちゃんと貰っておけ。例えホテル代でも処理してやる」 最後のホテルと言うところで、社長の顔には苦虫をかみつぶした様な表情が浮かんだ。何故お前みたいな奴が、とでも思っているのだろう。しかしだ... い・ち・に・ち・・・・、お・と・も・・・・、ホ・テ・ル・・・・何それ、ボクに死ねっていうこと? 「だ、誰か同行していただけないでしょうか。それともどなたかに代わっていただくとか」
信じられない。社長が血涙を流している。でもね、その程度の血涙...ボクは涸れてしまっていますよ。 「はぁはぁ、良いか。惣流さんのご機嫌を損ねて見ろ。男として俺はお前を許しはしない。首だなんて生やさしい真似はせん。両足におもりをつけて芦ノ湖に沈めてやる...」
ううううっ、涙で前がかすんで見えないのは何故。ボクが何をしたというの。10年前にちょっと人類を救っただけじゃないか。なのに何でボクがこんな目に遭わなくてはいけないの。この世に神なんて...ちょっとまて...オーマイガッツ。ボクが戦ってきたのは神の使いだった。神様これも天罰でしょうか。お願いします。悔い改めますからお命ばかりはお助けを... ボクはアスカに引きずられるようにして社長室を後にした。扉が閉まった途端、大きな物音がした。きっと社長がクリスタルの灰皿をドアに投げつけでもしたのだろう。それなら扉が閉まる前にして欲しかった。そうすれば少なくともこの状態からだけでも逃れられたのに... ボクは社内を喜色満面のアスカによって引きずり回された。新任のマネージャーの挨拶だそうだ。・・・まて、新任、マネージャー...他のメンバーはどうなっているんだ。 「二人っきりに決まっているでしょ(ハート)」 ついにボクは真っ白に燃え尽きた。向こうではマユミちゃんが潤んだ瞳でボクを見つめている。こんなことなら据え膳を食っておくべきだった...でも、もう、遅い。マユミちゃんとは綺麗なお付き合いをなんて思ったのが馬鹿だったんだ。獣になって、ものにしておけば、そして結婚でもしておけば状況は変わっていたはずなんだ。 ボクはまだ彼女たちの恐ろしさに対する認識が甘かったようだ。 「さあ、挨拶もすんだし、行くわよシンジ」
会社の外に連れ出されるのと同時に、ボクは黒服に両脇を固められた。ぼそりと彼らが「お気の毒に」と呟いたのが聞こえてきた。だったら助けてくれても良いじゃないかぁ。 「「我々も命が惜しいのです」」 ボクは荒ぶる神への生贄か。 「「まあそんなものです」」 オーマイガッツ〜 ボクの叫びを残し、ネルフの公用車は町中を走り抜けていった。
おしまい
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中昭のコメント
トータスさんより50萬hit記念作品、投稿して頂きました。
ありがとうございます
かくて、楽天の日々は終わったわけでしな
MAGIにうぃるすを巻くほど・・・
というか、それだけの技術を拾得するほど5年前は地獄の日々だったのでしょうか
しかし社長の血涙の方に共感してしまいますが。
これから訪れる地獄の日々は語られるでしょうか。激希望。
マユミさんの捲土重来にも期待です。
みなさん、是非トータスさんに感想を書いて下さい。
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