戸惑いも迷いも捨てて、今、この瞬間駆けよう!
BITE ON THE BULLET!




ヒンキイ・ディンキイ
パーリィ・ヴゥ
Hiroki Maki
広木真紀




−煉獄の章−




Leicester Sq. London WC U.K.
GMT 19 September 1996 23:48 P.M.

1996年 9月 午後11時48分
王都ロンドン 中央西部 レスター・スクエア


 チェロの低い音色が、星の見えないロンドンの夜空に微かな余韻を残して消えていく。だが、その旋律が齎した熱気だけは、決して消えることはなかった。弦の透明な振動がやがて完全に停止したとしても、聴衆たちがその感性で受け取めた振動は、決して消え去ることはない。
 生まれる前から聴き続けているオレでさえ、親父のチェロと母さんのギター、そして2人の歌を聴くと、体中が熱くなってくる。叫び出したくなるような、無性に駆け出したくなるような、どうにもたまらない圧倒的な高揚感。まるでドラッグで狂わされたみたいに。
 今のオレなら、できないことなんて何一つない。そう思わせる不思議な魔力を秘めたサウンド。。
 これが、1本のアコースティック・ギターとチェロから生み出されているだなんて、正直信じられない。
 オレもそれなりに作曲が出来たり、楽器を弾けたりするから尚のこと分かる。2人のパワーは、次元が違う。ことサウンドに関しては、違う世界の住人なのだ。
 聴衆たちも、オレと同じものを感じ取ったのだろう。辺りに再び夜の静寂が戻る。そして次の瞬間、静まり返っていた周囲から喝采の嵐が巻き起った。
 周囲に木霊する、怒涛のような喚声。鳴り止まないアンコール。

 国内のトップクラスが集うこのレスター・スクエアでも、これだけの喚声を湧かせる格と実力を持ったバスカーは、親父と母さんしかいない。……と言うより、かつてこんなバスカーは存在しなかったんじゃないかな。まあ、この世界の事は良く知らないんだけど。
 そんな2人は、其々の楽器を片手にゆっくりと立ち上がり、聴衆たちに微笑みかける。冷たい石畳の上に無造作に置かれた楽器ケースには、次々と投げ込まれる白い硬貨が、既に7角形の小山を作っていた。激戦区には、それだけ客が集まる。生き残りが難しいかわり、トップに上り詰めれば多くの聴衆を獲得できるわけだ。
 だがそれでも、バスカーに支払われるご祝儀(御捻り)の相場は、20ペンスや50ペンスだ。1ポンドが今のレートで大体170円だから、日本円にして平均50円程度か。このレスター・スクエアで100人集める親父たちにしたって、あまり稼ぎがいいとは言えない。1日この広場で楽器を弾き、歌い続けても1万。良い時でも2万円前後しか稼げないわけだ。
 それに加えて親父たちは、週に2度はインディーズが集う小さなライヴハウスで演奏するが、それにしたってそんなに大きな稼ぎとはならない。
 どこの国でも同じだが、サウンドだけで生活していけるバンドってのはホンの一握りだ。まさに、パレートの法則を地で行く世界。親父と母さんは、そんな所で生きている。
 是非はともかく、オレはその事実をそれなりに偉大なものとして認識していた。

「おーし。待たせたな、祐一。今日はこれで上がりだ」
 常連客やファンと軽いコミュニケーションと握手を交わすと、親父と母さんがオレに近寄ってくる。
 退院はできたものの、オレはまだ左手をぶら下げ、右手の人差し指も骨折したままだ。そんなわけで、一般聴衆の輪に入り込むこともできず、広場に置かれているベンチで遠目に両親の活躍を見守るほかなかったのである。
「お疲れ」オレは、親父にタオルを投げてやる。「稼ぎはどうよ?」
「フッフッフ。じじゃ〜ん! なんと、紙幣だけで50ポンドが1枚。20が2枚もあったぞう!(≒1万5千円)」
 親父の手には、クイーンの肖像が刷り込まれている紙幣が3枚。
「あらあら、それは凄いわね」
 今日は2人とも、何時になく思いっきり演れたらしい。客のノリも良かったしな。母さんが常時湛えている微笑も、通常の3割増で穏やかな気がする。
「さて、今日はこれで上がりだ。早く帰って惰眠貪ろうぜ」
「そうね。明日は久しぶりに完全なオフだから、ゆっくりできるし」
 親父と母さんは並んでパーキングに向かう。こっちでの仮住まいは、ロンドンからちょっと離れているため、両親はいつも楽器を詰めるワゴン車で移動している。
 ロンドンには公営の駐車場や路上パーキングなどの駐車スペースがあちこちにあるため、演奏中はそこに停めているわけだ。

 オレたちがいつも使っているのは、近辺にある普通の駐車スペースだ。
 あらかじめ、傍らに設置されているブルーのチケット販売機にコインを投入して、時間分のチケットを買う。そいつをワゴンのフロント・ウインドウに張りつけておくわけだ。ロンドンは意外と違法駐車の取り締まりなんかが厳しいからな。
 親父は母さんからキーを受け取ると、後部のトランクを開けて、まず楽器を積み込む。
「おい、ドラ息子。お前も手伝え」
「無茶言うな、アホ親父」
 普段はオレも手伝うこの作業だが、今は『左腕』と『左人差し指』を骨折しているためパス。
 大人しく親父の作業を見守ることにする。
 しかし――なんだな。小柄な子供なら、ケースに隠せてしまうかもしれない大きなチェロ、それから母さんのエレキ・ギターとアコースティック・ギター。他にもキーボードやラジカセなど、結構親父たちの荷物は嵩張るものが多い。
 乗員が3名であるにも関わらず、ワゴン車を用意しなければならないのはこのためだ。

 と、そんなことを考えながら、オンボロ・ワゴンをぼんやり眺めていると、地元の人間らしいスーツの男が、何か叫びながらこちらに駆け寄ってきた。勿論、彼らが操る言語はクイーン・イングリッシュと云われる純度100%の英語だ。生っ粋の日本男児であるオレには、キッチリ理解できない異国語である。
 確かに、頻繁にこっちに来るだけあって、レストランやチケット販売所での簡単なやりとりならできるようになったのも事実だが、それでもまだまだ日常会話には程遠いのがオレの英語力の現状だ。
 まあ、オレはまだ中学2年。英語を習い始めて1年強だからな。それも仕方あるまい。
 それはともかく、親父たちに駆け寄ってきたのは40代半ばと思われるビジネスマン風の男だった。日本人のように堅苦しいスーツで身を包み、ブロンドを短く刈り込んでいる。貧乏人でラフな人間が集まる夜のレスター・スクエアでは、些か浮いた恰好だ。
「なんだ……族のお礼参りか? 出入りか?」
「あらあら、どなたかしら」
 確かに2人ほど人気が出てくると、サインや握手を求めるファンたちが、こうしてワゴンまで押しかけてくるケースも度々出てくる。他にもプレゼントを持ってきてくれたり、仲良くなろうと積極的に話しかけてくる常連だっている。
 特に母さんは、長年この国でアコースティックの語り弾きをやってきた実績がある。『ミーンフィドラーの歌姫』なんて呼ばれて、一部に既に熱狂的なファンがついていたほどだ。
 彼女がバスカーに転向すると言った時、大勢のファンが嘆いたと言うからなぁ。そして、彼らは今でも母さんを追いかけて、このレスター・スクエアやライヴ・ハウスにやってきてくれる。50や20といった大枚をケースに投げ込んでくれるのは、いつも彼らなのだ。

 ――ああ、『ミーン・フィドラー』っていうのは、結構有名なライヴ・ハウスのことだ。
 そこにはアコースティック・ルームという小さなホールがあって、母さんはそこでちょっとした顔役だったという。
 それとは別に、毎夜のようにジャズ・コンサートをやってるパブがこの国には星の数ほどあって、そんなパブの小さなステージでギターを弾きながら歌うのが、昔の母さんの仕事だった。元は、ジャズ系の人だったわけだな。
 母さんは秋子さんとそっくりなだけあって、息子のオレが言うのもなんだが結構な美人だし、地元の人間からすればエキゾチックな魅力もある。それに加えて、ギタリストとしてもヴォーカルとしても彼女は一流の腕を持っているわけで。
 歌姫と呼ばれ、パブに集う常連たちのアイドルとなるのも、まあ頷ける話ではあった。
「悪いけど、今夜のギグは終わったぜ。明日はオフだから明後日また来てくれ」
「いえいえ、そうではありません」
 やってきたスーツの男を完全にファンと断定した親父は、タオルで汗を拭いながら言う。
 だが、男は両手を振ってそれを否定した。
「あなた方の曲、聴かせていただきました。実に素晴らしい」
 スーツの男は、訝しげな表情を浮かべる両親に向かってにこやかに言った。流石のオレでも、この程度の英語は聞き取れる。もっとも、これ以上の長文になると厳しいが。
 まあ、でも、このオッサンの英語は聞き取りやすい。断片的にならなんとかなるかも。

「長年、色々なバスカーから新人を発掘してきたのですが、貴方たちのようなバスカーは初めてです。正直、震えが止まりませんでした。見てください、この腕。鳥肌が立ってるでしょう?」
 そう言って、男はスーツの腕を捲くって見せる。
「で、アンタ誰よ?」
 親父は、このスーツに大して興味を持っていないらしい。
「ああ、申し遅れました。私、こういうもので」
 そう言うと、スーツのブロンドは懐から名刺らしきものを取り出して、親父たちに差し出した。
「名刺とは、なにやら和風だな。この国ではそういう文化は無いんじゃなかったのか?」
 それを受け取るとり、胡散臭そうに親父は言うが、スーツは曖昧に微笑むだけだ。
「あらあら、U.K.最大手のレコード会社さんが、私たちに何のご用でしょう?」
 母さんのその言葉に、オレは驚いた。慌てて、彼女の持っている名刺を背後から覗き込む。分からない単語が幾つもあったが、確かにそこには某大手ブランドの名が刻まれている。……と言うことは!?
「率直に申しまして、貴方がたは我が社が抱えている数多のアーティストたちの頂点に立てる実力がある。世界に名乗りを挙げ、伝説を作れるだけの資格と風格を兼ね備えておられる。如何でしょう。そのメジャーと成功への旅路のお世話を、私にお任せいただけないでしょうか?」
 まあ、男が言った内容は(保障しかねるが)大体、こんな内容だったと思う。つまり、ウチでCDを出してみないか。メジャーデビューしてみないか、という誘いなわけだ。
 こいつは客観的に見ても、とてつもなく美味しい話。ビッグチャンスの到来だ。
 当然親父の反応は――

「はあ? ……なに言ってんの、あんた」
「え――?」
 親父のにべもない返答に、スーツの男は一瞬呆ける。
 彼は、親父と母さんがこの話に即座に食いついてくると、絶対的な確信を抱いていたのだろう。それはそうだ。メジャーデビューは、ストリート・ミュージシャンたちの思い描く夢であり理想だ。彼らは皆、例外なく店頭に自分のCDを並べ尽くすことを夢見て、日々路上やライヴハウスで演奏を続けている。
「……興味ねえな」親父は手をヒラヒラさせると、踵を返す。
「メジャーになって名前売りたいやつは他にゴマンといるよ。そいつら当たってくれ」
「え、いや、しかし――」
「ごめんなさいね。私たちは、あまりそういうお話に興味はないんです」
 母さんもニッコリ笑ってそう言うと、運転席に向かった。親父の運転技術はプロ級な筈だが、ワゴンを運転するのは何故かいつも彼女の仕事だ。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 ショックで硬直していたスーツの男は、漸く我に返って親父たちに縋り付く。
「なぜですか、絶好のチャンスですよ!? 我がレーベルからのメジャーデビューを約束されていると言うのに、それを蹴るだなんて正気の沙汰とは思えない! 収入だって、今とは比較にならない。富豪になれるチャンスなんですよ」
「はぁ……」親父は疲れたような、呆れたような溜息を吐く。そして面倒そうに口を開いた。
「あのなぁ。売れりゃあ良いってもんじゃないんだよ。大体、オレたちはビッグになりたいわけでも、金が欲しいわけでもないしな。人のサウンドを、勝手に商売道具にすんなよ、まったく。言っとくけどな、オレのチェロは、流行と共に忘れられる使い捨ての快楽じゃないんだぞ。その辺の、アイドル目指して営業スマイル研究してる奴らと一緒にするなよな。迷惑だぜ」
「しかし――!!」
「じゃあな、オッサン。オレは忙しいんだ」
 親父はスーツの声を無視して、助手席のドアに手をかける。その瞬間だった。

キャ―――ッ!!
 夜闇を切り裂くように、うら若き乙女(邪悪な期待を多分に含む予想)の悲鳴が周囲に木霊する。
「次から次へと。……ったく、今度はなんだ。セリエAのスカウトか?」
 親父もオレも、スーツの男も一瞬動きを止めて、叫び声が上がった方に視線を向けた。耳を澄ますと、遠くから女性が何事かを必死で訴えかけているのが分かる。断片的に飛び込んできたのは、「bug」とか「robber」「snatcher」とかなんとか……。
 ――と、親父が声のした方に向かっていきなり走り出す。
「夏夜子、オレちょっと行ってくるわ。30分戻らないようだったら、先に帰っていてくれ」
「分かったわ。朝ご飯までには戻ってきてね」
 あっけにとられるスーツの男を余所に、母さんは穏やかな声音でそう応えた。
「親父、ラバーってなんだ!?」
 どうしようか逡巡したが、結局オレは親父の跡を追うことにした。
「お前は足手まといだ。戻れ、祐一!」
 確かに両手が使いものにならないオレが、何かの役に立てる確率は極めて低い。
 だが――

「やかましい!これも社会復帰の一環だ。……親父こそ、オレのリハビリの邪魔するなよ」
「フン。ガキが生意気言いやがって」
「で、ロバだかラバだかってなんだよ?」
「――多分、『ひったくり』だ」
 そして、大通りに出る。ヤジウマが周囲に群がっていることからも、被害者らしき女性は直ぐに見つかった。
 親父は、そのヤジウマと若い女性に素早く駆けよって、乱暴なイングリッシュで怒鳴りかける。
「どっちに行った!?」
「あっちです。路地に逃げ込んだわ」
 女性と何人かのヤジウマたちが、『シャフツベリー・アヴェニュー』の方を指差す。つまり、北だ。
「拙いな、中華街の方かよ」親父が唇を噛む。
「親父、急ごうぜ。潜り込まれたら見つけきれない」
 レスター・スクエアの北側には、中華街がある。あの煩雑としたエリアだ。それに、この辺はロンドンの大中心部。言わば『臍』だ。この時間帯でも結構人が多い。深夜の24時、辺りは当然暗い上に名物の霧で視界が利かない。風景に融け込まれたら、見つけ出すのは不可能と考えて良い。
「よし、行くぞ祐一」
「――おう!」
「お願い、取り戻して!」
 駆け出すオレたちの背に、被害者の女性の縋るような声が投げかけられた。








 ――オレと親父は足が速い。
 100メートルなら、親父は10秒台で走るし、オレは11秒台で駆けぬけることが出来る。勿論、これは身体の状態が良好な時に出した、各々の生涯ベストタイムだけどな。
 (ちなみに、4年後に再会することになる川澄舞は、同じ距離を5秒前後でカッ飛ぶことが可能だ。あいつの場合、走るという表現はあまり適当ではない。駆ける・走るではなく、「飛ぶ」だ。蛇足だが、同じく4年後に再会することになる陸上部の名雪は、短距離でのタイムは殆どオレと同じ。だが中距離から長距離になると、オレよりも随分と速くなる。オレは長距離を走るのが苦手なのだ)
「……見えた、あいつらだ!」
 身体1つ分先を走る親父が、ひったくり犯を視界に捉えたらしい。
 追跡を続ける内、オレたちは既に中華街に入っていたが、犯人は人気のない店の裏手を逃走している。
街灯がなくて薄暗く、その上、ゴミ袋や酒瓶のケースが所狭しと積み上げられているせいで、足場が悪く結構走りにくい。
 そんな悪路の中であるにも関わらず、奴らの全く足取りには迷いが無い。このことからも、連中が予め逃走用のルートを用意しているスリやひったくりの常習犯であることはほぼ確実だ。

 ロンドンは、ヨーロッパ内部で見るとそんなに治安の悪くない都市だが、やはり日本と比較しちゃいけない。スリやひったくりなんて日常茶飯事で起きるし、彼らは2〜3人でチームを作り、様々なコンビネーション(1人が何気なくカモに話しかけて注意を逸らしている内に、別の1人が盗む等)を使って犯罪を行なってくるから、非常に性質(タチ)が悪い。
 街中で鞄を傍らに置いてボーっと佇んでいると、気付いた時には鞄が忽然と消えていた――なんてどこにでもある話だ。こいつらも、そんな犯罪を日常的に行なっている若者グループの一員なのだろう。
 オレたちが追っているのは、2人組の青年。1人は緑のシャツにジーンズ、1人はフード付きのパーカーに黒のズボンを履いている。多分、オレより4〜5歳上。ハイスクールくらいの年頃と思われる男たちだ。
「くら〜っ、待てこのひったくり犯め!!
 いや、待てと言って待つ奴はいないだろうが、それでも待て!逃げたらフクロやで!!」
 何故か関西弁で相手を脅しつつ、親父はひったくり犯たちを猛追跡する。
 因みに、親父はチャキチャキの江戸っ子。U.K.を除けば、神奈川より西側に住んだ経験はない。

 ……まぁ、しかし何だな。
 我が父親ながら、恐ろしく足が速い。逃げ足なら、これが2割り増しになるというから、更に脅威だ。
 そんな快足オヤジに追われる側の青年たちは、若い女性からひったくった皮製の茶色いバッグを抱え、チラチラと後を振り返りながら必死の形相で走っている。
 だが、バケモノなみの肺活量と運動能力を誇る“バスカー芳樹”を降り切ることは容易でない。両者の距離は、みるみる縮まっていった。
 このままでは逃げきれないと判断したのだろう。男たちは、ある瞬間を切っ掛けに二手に分かれた。バッグを持ったジーンズはそのまま真っ直ぐに、対してパーカーの奴は、レストランの裏手から表通りに戻る路地を右に曲がっていく。
「祐一、罠かもしれん。オレはこのままバッグを持った奴を追う!」
「分かった。オレはパーカー男を追う」
 頷き合うと、オレたちも分散して追撃を続行することにした。
 親父が、そのまま風のように直進していくのを横目に、オレはパーカー少年の後を追って、路地に入る。
「ここまできて逃がすか!」
 今日は木曜日。平日だから、レストランは23時前後には全てシャッターを下ろす。その時間以降のチャイナ・タウンは、ゴースト・タウンにその姿を変える。まあ、これはちょっと誇張し過ぎかもしれないけどな。人が少なくなるのは事実だ。
 ご多分に漏れず、既に日付が変ろうとしている今日も、辺りは結構静まり返っていた。人通りも殆どない。まあ、表通りじゃなくて、中華街のレストラン店舗群の裏側だから当然だけど。
「ヤロウ、どこまで走るつもりだ……!?」
 腕を上手く振れないせいで、どうにもスピードに乗りきれないが、それでもパーカー男よりオレの方が足は速いようだ。
 それより、問題は体力だ。ずっと入院していたせいで、オレの体力はがた落ちしている。
 それに左腕を吊り下げ、右指も骨折しているせいで握り締めることもできない。
 この状態で、どうやってひったくり犯を捕まえるか――。これも問題だ。
 パーカー男は路地を矢鱈とジグザグに走り、方向オンチの気のあるオレには、既に現在地がどの辺りに位置するのか検討すらつかない。
 もし奴が、自分たちのグループのテリトリーに逃げ込んでいるのだとしたら、これは結構危険だ。
 どこに仲間が溜まっているが分かったものではないからだ。
 身体の状態からも、サッサと短期決戦で勝負を決めたほうが言い事は明白である。

「デンジャラス・親父パンチ!!」

ゴスッ!!

「――ッ!なんだ!?」
 突如、路地の向こうから鈍い打撃音と親父の声が聞こえてきたような気がしたが。
 と、死角になっていた建物の影から、マネキンの様に吹っ飛んでくるジーンズの少年。
 オレの前を逃げるパーカー男の行く手を遮るように、ジーンズ少年は地面に不時着した。
 そしてそのままゴロゴロと裏路地の薄汚れたアスファルトを転がり、レストランの裏手に積み上げてあるビールの空き瓶ケースに豪快に突っ込む。
 ガッシャーンという破滅音と共に、ヤツは動かなくなった。

「フッ。正義は勝つ!」
 そういって、変形のY字になった路地の向こうから現れたのは、紛れも無く親父だった。
 どうやら二手に分かれたヒッタクリ犯は、ここで合流する予定だったらしい。だが、結局オレも親父も振り切ることが出来ず、ここで追い詰められてしまったわけだ。
 チェック(王手)って奴だな。
 殴り飛ばされて昏倒する相方と、前方の退路を塞ぐ親父を交互に見やりながら、残されたパーカー男は動きを止めている。想定していなかった事態に、脳内の演算機構がフリーズを起こしたんだろう。
 オレにとっては絶好のチャンスだ。
 何せ、無防備な背中を曝しているわけだからな。両手の使えない状況を考えると、これを逃す手はない。
「好機到来!不意打ち・息子ドロップ・キック!!」
 オレは全力で奴との間合いを詰めると、気合1番、地を蹴って飛び上がる。
 そのまま両足を揃えて、渾身の力で奴の背中を突き刺すように蹴飛ばした。
 助走の勢いとオレの全体重、そしてインパクトの瞬間生じる打撃の威力と慣性がダイレクトにパーカー男を襲う。
「うーむ。我が息子ながら、なんと卑劣な奇襲攻撃か。アッパレ」
 親父が奇妙な感心の声を上げる。
 一方オレは、完全に不意を突かれたパーカー男が吹っ飛んでいくのを視界の端で捉えながら、どうやって着地をしようか悩んでいた。
 左腕を吊っているから、受身は右手でやるしかない。
 骨折している人差し指を慎重に保護しながら、オレは上手く着地の衝撃を殺すよう努めた。

「親父、バックは?」首尾良く着地を果たし、起き上がってズボンの裾を払いながら訊いた。
「ああ。確保した」そう言うと、親父はジーンズの男が抱えていた皮製の小さなバッグを掲げて見せる。
 ジーンズの男は身体ごとガラス瓶のケースに突っ込んで気絶しているし、パーカーの男もオレの渾身のドロップ・キックを食らってあえなくKOされちまったらしい。ひったくり犯のクセに、骨のない連中だ。背後から不意打ち食らわせた人間のセリフじゃないが……。
「で、どうする。この連中は?」
「どっちも昏倒してるみたいだからな。このまま放置して、あとは被害者の裁量に任せるさ。
 彼女が警察に突き出すつもりなら、そうさせればいいし。見逃してやるつもりなら、このまま放っておけば良い。裁く権利は、被害者にこそ帰属するわけだからな」
「うーむ。オレとしては、こいつらに何らかの天罰を下してやりたいところだが――」
 明らかに常習犯と思われる少年犯罪グループ。ちょっと気に食わないのも確かだが、何かやんごとならぬ事情があって、やむなく犯罪に手を染めざるを得なかったとかいう可能性もある。
 そう、たとえば――



 病院の小児病棟。窓際のベッドから、外の風景を寂しげに眺める病弱の妹。
 その視線の先には、無邪気にサッカーをして遊ぶ元気な子供たち。
 どの顔にも弾けんばかりの笑顔が輝いているが、彼の妹は病故に病室の外から出られない。
 ああ、私もお外で遊びたいな……。

 そして、秋。落葉の季節に、妹の病状が深刻化する。
 ゲッソリと頬がこけ、生気の見られない妹が兄に向かって震える手を力なく伸ばす。
 慌てて妹に駆け寄り、その手をギュッと握り締める兄。
 その兄を、潤んだ瞳で見詰めて妹はポツリと呟く。

「……ああ、死ぬ前にひったくり犯になったお兄ちゃんが見たい」

 その一言に、兄は決心する。
 お前のその願い、僕がきっと叶える!だから、頑張るんだぞ!!
 死んじゃダメだぞ!きっと良くなるからな!!
 そのためにも、僕はイングランド最高のひったくり犯にならねば!!
 ――この生涯、ひったくり道に見つけたり!
 我、悪鬼羅刹となりて……今宵、参る!!

ドンッ!!
(↑覚悟完了を演出する効果音)



「うっ、うう……」
 そうか、そんな事情があったのか。
 そうとは知らず、いきなり背後からドロップ・キックなんぞを食らわしちまうなんて――
 思わず目頭が熱くなる。涙なしには語れない話だ。フランダースの犬より感動した。
「辛かったべ。切なかったべ」
「……はぁ。お前、バカか?そんなわけがあるわけないだろう」
 親父は疲労したような顔で溜息を吐く。
「自分の妄想で何をいきなり号泣しとるか、この変態息子は」
「いやしかし、万が一ということもあるだろう?」
「万が一も金田一もあるか。大体、なんだその妹は。今わの際に、『死ぬ前にひったくり犯になったアニキが見たい』なんていう妹がどこの世界にいる」
「そりゃ、広い世界のどっかには、いる……わけないよな、やっぱ」
「当たり前だ」親父は呆れ顔で断言する。
 存在したらしたでそれは凄いかもしれないが、現実的に考えて、やはり話としてはあり得ないだろう。
「しかし、だとしたら、こいつらを見逃すのは善良な一般市民として拙いんじゃないのか?」
「だから、見逃すわけじゃない。被害者の裁量に任せると言ってるんだ。ことわざでも良く言うだろう、『二兎を追う者、アブハチとらず』!」
「はぁ?」
 意味が分からん。確かにウサギを追ってるなら、アブハチに興味は抱かないだろうが――

 まあ、しかしだ。あのドロップ・キックは、かなり良い感じで決まったからなぁ。
 会心の一撃とはあのことだ。おかげで、何だか気分がいいし。
 確かに、親父の言う通り被害者に裁きの程は任せておけばいいかもしれないな、うん。
「――じゃ、話も纏まったところで帰るぞ」踵を返しながら、親父が言った。
「今なら、まだ夏夜子か車で待ってくれているかもしれんしな」
「しかし、どうやって帰るんだよ?そもそも、ここは何処なんだ?
 オレはこのパーカー男を追って滅茶苦茶に走ってきたから、サッパリ分からないぞ」
 改めて周囲に視線を巡らせてみるも、やはり見覚えのある景色ではない。
 元々、土地鑑があると豪語できる程オレはこの街に慣れているわけじゃないんだ。
 ここに長年母さんでもあるまいし、夏休みや冬休みにちょくちょく遊びに来る程度のオレは、このロンドンにおいては基本的にストレンジャーなのだ。
「まあ、取り合えず表通りに出よう」
 親父は腕を組んで暫く考え込むと、徐に言った。
「中華街に出ちまえば標識があるから、ここがどの辺りかは直ぐに分かる。
 そこから何とかレスター・スクエアまで戻れるだろう。問題はな……、ッ!?」
 親父の言葉が唐突に途切れた。かわりに、その双眸が驚愕に大きく見開かれる。
「祐一、後ろだッ!!」



……え――っ?



バリン!!

その叫びに反応するより速く、後頭部で何かが弾けた。
目の前に一瞬、眩い閃光が走り――次いでその光が鮮血の深紅に反転する。
頭に割れるような、焼けるような激痛。
視界がグニャリと歪み、オレはその意識を手放した。






to be continued...
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2001/10/20 00:41:57

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