Heart of hearts
気付かないフリしてた





ヒンキイ・ディンキイ
パーリィ・ヴゥ
Hiroki Maki
広木真紀




−煉獄の章−





GMT 20 September 1996 04:16 A.M.

1996年 9月20日 深夜4時16分

起爆装置作動まで、あと――

00:28:44




“そろそろ、この物騒な倉庫から出るぞ。”

 それは、オレの中の希望が勝手に生み出した幻聴だったのだろうか。聞き間違え出なければ、オレの耳には親父がそう言ったように聞こえた。事実、聞こえたのであって欲しい。
 爆発までの残り時間は、既に30分を切っている。ナイフで鎖を壊そうにも、今からじゃ時間が掛かりすぎて間に合わないだろう。どう考えたところで、物理的にこの戒めを破って脱出するのは不可能に思える。だというのに、『倉庫から出るぞ』。いとも簡単に、親父はそう口走った。

「おい、親父。今――」
「よおし、祐一。とりあえず、その腕を吊ってる包帯をよこせ」
 オレの言葉を遮って、親父は言った。
「は?」
「だから、包帯を貸せと言っている」
 そう言いつつズイっと右腕を出して、それをヒラヒラと上下させる。

「いや、それよりも親父――」
「なんだドラ息子。ぐだぐだ言っとらんで、はやく包帯よこさんかい」
「アンタさっき、この倉庫から出るとか何とか口走らなかったか?」
「言ったぞ。そのために、お前の包帯がいるんだよ。よこせ」
 親父は説明するのももどかしいといった感じで、眉を顰めながら言う。何か妙案でも思いついたって言うのか?

「どういうことだ、説明しろよ。包帯なんて何に使うんだ? どうするつもりなんだ」
 噛み付くように詰め寄るオレに、親父は呆れ顔で嘆息して見せる。
「あのなぁ、祐一。あのデジタル表示が見えないか? もう30分切ってる。今から行動して、間に合うかも微妙な時間だ。お前に説明してイチイチ了解とってる暇はないんだ。死にたくなかったら、さっさとその包帯を解いてオレに遣せ」
 有無を言わせない口調に、オレは鼻白んだ。確かに親父の言うことは理に適っている。ここは議論するより、大人しく従っておく方が懸命だろう。こいつは基本的に馬鹿だが、計算はできる男だ。ここまで自信タップリに語っている以上、何らかの勝算があるのだろう。今は――それに賭けるしかない。

「分かったよ。……ホラ」
 オレは不承不承頷くと、苦労しながら左腕のギプスを吊っている白い三角巾を解き、親父に手渡した。
「よーし。こいつだ。生還のためには、コイツが必要なんだ」
 親父は布を受け取ると、眼前にそれを翳しニヤリと笑う。そしてそれをるように捻り、細い紐の様に変えていった。
「一体なんだっていうんだよ」
 思わず口をついて出るオレの質問には答えず、親父は黙々と作業を続ける。次に奴が見せた奇行は、自分の左腕に嵌め込まれている手枷を、限界まで肘の方(つまり腕の上)にズラし上げることだった。そして僅かにできた手首部分のスペースに、三角巾を捻って作った細くて長い紐をグルグルと幾重にも結びつける。

「祐一、片方を引っ張れ。限界までキツク、この紐をオレの腕に食い込ませるんだ」
「――何でだよ」意図が掴めず、再び問う。
「だ〜か〜ら、説明してる暇はないって言ってるだろう! 鳥かお前は。シッカリ記憶しとけ、このアホ。バカ。ボケ。エロダコ。ゴミ。チリ。ダスト。ドラ息子」
 この野郎。緊急事態だからって言いたい放題言ってくれる。ここから無事に出られたら、まずはコイツを殲滅するのが最初の仕事になりそうだ。
 だが結局、ここは奴の指示に従って作業を手伝うしかない。オレは親父の腕に結び付けられた紐の片側を握ると、渾身の力で引っ張った。もう片方の端は親父が右手で握っており、オレと反対方向に思いきり引っ張っている。結果、肌を切り裂くほど深く、紐は親父の手首に食い込んだ。あまりに強力に締めつけられてる為、血の循環が止まって手首から先が白くなっている。

「よーしよし。OK、上出来だ。ウム、完璧!」
 親父はそれを見て、満足そうに頷いている。もうここまで来るとサッパリ分からない。もしかすると、親父は気が狂ってしまったのではないかと、疑惑の念さえ浮上してくる。
「じゃあ、これが最後の作業だ」親父はオレに顔を向けて言う。
「――祐一、オレを殴れ」
「……はァ?」思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
 いつもなら『殴れ』と言われれば嬉々としてそれに従うところであるが、今は場合が場合だ。やはり、あまりの緊張状態で親父は神経がやられてしまったのではないだろうか。

「ホレ、どうした。早く殴れよ。何時ものお前なら言われなくても喜んでやるだろう」
「そりゃ……まぁ、そうかも知れないが……」
 逡巡しているオレに、親父は顔を寄せてくる。
「時間がないんだ。考えてる暇もねぇ。迷うくらいなら、取り合えず行動しろ」
 そう言われて、再びデジタル表示に目をやる。刻まれた数字は、『00:26:34』。もう、26分しかない――!?

「クッ、仕方ないな」
「ようやく分かったか」
 親父の気が狂っちまったのだとしても、思いっきり殴ればもしかするとショック療法で治るかもしれない。取り合えず、ここは奴が言うように殴ってみるのが1番だろう。
「オッケイ。お望み通り、力一杯殴ってやるぜ。後で文句言うなよ」
「オウ。さっさと来い」
 オレと親父は立ち上がった。そして少しの間合いを置いて互いに正面から向かい合う。
「いくぜぇッ!!」

 左腕は骨折しているから動かすのは無理。かと言って、右手も人差し指を折ってるから、パンチを繰り出すのは不可能だ。ここは右の掌底しょうていで妥協するしかないだろう。つまり、グーではなく掌の硬い部分で殴るわけだ。これだと手首を痛める心配もないから、安心だしな。
「死ねィ、親父ッ!!」
 殺してどうするという噂もあるが、今はそんなことを取り合っている暇はない。叫びと共に思いきり振りかぶり、そのままステップ・イン。慣性を利用して勢いを付ける。そして、腰の回転を使って更に上体を加速させ、肩から撃ち抜く様に――殴りつける!!

 左頬に突き刺さるようにして、掌底はヒットした。親父も上手くポイントをズラし、衝撃を最低限のものに抑えはしたが、効いている筈だ。180cmの屈強な身体が、オレの一撃でグラつく。
 ――それにしても、これに一体どんな意味があるというのだろう。問題はそこだ。親父を殴ることで、この絶体絶命の状況が打開されるとはとても思えない。ならば、親父は何を狙ってこんなことを提案したというのか。
 その答えは次の瞬間、予想もしなかった形で示された。
「祐一。1発は1発だ。悪く思うな――よッ!!」
「な……ッ!?」
 驚愕に目を見開くも、その時にはもう手遅れだ。

ドムッ!!

 油断していたオレのボディに、親父の渾身のボディ・ブローが埋め込まれる。キースの仲間たちに食らったパンチとは、比較にならない鋭さと重み。戦闘訓練を長年積み重ね、身体に最適軌道を覚え込ませた者だけが放てる突き。
 成長期を終えていない中学2年生、身長158cm、体重46キロのオレには堪らない。一瞬にして、意識が吹っ飛んでいった。
「グ……フ、ッ……! 親、父……?」
 まさか非行少年グループばかりではなく、実の父親にまで殴られた挙句、意識を奪われることになろうとは。まったく、世の中どうなってるんだか――。オレは、自分の生まれの不幸を呪った。

 そして、意識が暗転し、己の深層に埋没していく中、
「お前の目には、ちょっと刺激的すぎるだろう。ガキは大人しく寝てろ……」
 最後に、親父がそう呟いたのが聞こえたような気がした――。










GMT 20 September 1996 04:44 A.M.

1996年 9月20日 深夜4時44分
――ロンドン南西部 某所


 ……ォォオオオオン


 遠くから耳を劈くような爆音が轟いてくる。それは突風と熱を伴い、闇の泉に浸かりゆらゆらとその水面と共に揺れるオレを弄っていく。
 凄まじい衝撃だった。自分の髪がメドューサの頭のように、其々独立した意志と生命を持つ蛇にでも変ってしまったかの如く踊るように靡いているのが分かる。そしてそれは、オレの意識を自らの内なる世界の深淵から引き上げるに、充分過ぎる役割を果たした。

「……う……ぅ、ん……」
 ここ数ヶ月で何度目になるだろう。すっかりお馴染みとなってしまったプロセスを経て、オレは意識の手綱を漸く手繰り寄せることに成功した。ぼんやりとしていた視界が、曇りガラスをワイパーで拭うように急速に鮮明になっていく。
 酷い頭痛がした。キィ――ンという耳障りな音波が、耳の奥の方で喧しく鳴り続けている。オレの身体をモニタリングできるディスプレイがあったとしたら、それはきっと真っ赤な『ERROR』表示で埋め尽くされているに違いない。身体は勿論、頭の中までがグチグチャに掻き回された様に混乱している。それはもう、嵐にでもあったような有り様だ。自分がどうなっているのか、認識することさえ難しい。

「よう、ドラ息子。ようやくお目覚めか?」
 その聞き慣れた太い声は、驚くほど近くから聞こえてきた。そして、それを認識することで、オレはハッと完全覚醒する。不本意ではあるが、親父の声を聞くことで、自分が意識を失うまで『どんな状況』に陥っていたのかを漸く思い出したのだ。
 オレが良くやるTVゲームでたとえるなら、バックアップ・データのロード(読み込み)が終わって、前回途中で止めていたゲームを再開できる状態になったというところだろう。或いは、栞を挟んでいた読みかけの本を開き、これまでの粗筋を思い出した状態か。とにかく、記憶の糸と脳が繋がったわけだ。

「……ッ!?」
 オレはパッチリと目を開いた。そして、人間の感覚器の中で最も多くの情報量を入力できる視覚を頼り、忙しく現状認識に務めた。
 緩やかに上下する視線。爆発炎上している倉庫らしき残骸。夜の闇を煌煌と照らし出す、ハリネズミのような形をした巨大な炎。濛々と空に上っていく黒煙。

「ど、どうなったんだ!?」
「それより、意識が戻ったんなら降ろすぞ。いつまでも男を担ぎ上げておく趣味はない」
 オレの質問を無視し、親父は淡々と言った。その言葉と共に、視界がグルリと反転する。次いで、全身を襲う衝撃。今まで、馬上で揺られるような感覚を感じていたことから、親父の肩に荷物のように担がれていたことは分かっている。となると、オレはそこから放り出されたのだろう。
「いてて……。クッ、尾骨を打っちまったじゃないか」
 意志とは関係なく、目尻に涙が滲んでくる。オレは打ち付けた臀部を擦りつつ、親父に抗議の声を上げた。

「荷物じゃないんだぞ。壊れ物で、しかも生物なんだ。もうちょっと丁重に扱えよな」
「そうして欲しけりゃ、運搬料金をキチンと支払っておくことだな」
「着払いするつもりだったんだよ」
 ワイズクラックへらず口を返しながら、オレは改めて周囲を見回した。
 周囲は鬱蒼と茂る背の高い木々のシルエットで覆われている。頂点までスラリと鋭く尖った三角型は、剣山のようにも見える。少し不気味なほどだ。頭上を見上げれば、長閑な田舎特有の降るような満天の星空。そして、ささやかな光源を提供してくれる、無慈悲な夜の女王――月。ここが倉庫の内部に見えるなら、オレは眼科か精神病院に行く必要がある。

「これは、一体」
 さっきの爆音と、数百メートル先で豪快に炎上しているのは、確かめるまでもなくオレたちが閉じ込められていた倉庫だろう。つまり、オレは親父に担がれてあそこを脱出し、見事生還を果たしたことになる。親父にもオレにも足はちゃんとついているから、幽霊なんて笑えないオチは無しだ。
「オレたち、助かったんだよな?」
 これが現実であることを祈りながら、オレは腰を突いたまま親父を見上げる。
「とりあえず、そう解釈していいんじゃないか。少なくとも、あのガキどもの言う『ゲーム』には勝利できたことになるだろう」
 親父は左手をポケットに突込み、右手で後頭を掻きながら興味なさそうに言った。

「でも、どうやって?」
 オレは今更ながら、自分の両の手を目の前に掲げて見る。左手にはギプス、そして右手には例の手枷が付いたままだ。鎖も途中で断ち切られた形跡はなく、その反対側には親父の左腕に嵌まっていた筈の手枷がついたままそこにある。
「どんなマジックを使いやがった。どうやったって、あの状態から抜け出すことは不可能だった筈だぜ?」
「そうか?」親父はオレと目を合わせず、とぼけたように言う。
「そうさ。物理的に不可能だった」

「――そうでもないさ」親父は笑う。
「現に、オレとお前はこうして此処に立っている。それが、何よりの証拠だろ?」
「それは……」
 確かに、それはその通りだ。現象が確認されていて、観測手段や認識に誤りがないのなら、たとえそれがどんなに不条理で非現実的なことであっても、それはつまり仮説や理論、考え方の方に間違いがあったということの証明だ。いくら信じられないような出来事でも、実際に起こってしまったなら、それを否定することはできない。

「じゃあ、一体どうやって……」
 そこで、オレの中途半端な笑みと言葉は凍りついた。そう。結論なんて、最初から1つしかない。そのことに漸く気付いたからだ。
 いや、オレは最初からそれに気付いていたに違いない。そうだ、その通りだ。認めろよ、祐一。お前は、倉庫の中で四苦八苦していた時から、既にそのことに気が付いていた。だが、考えないようにしていた。その結論を避けようと無意識に頭の中から締め出していた。怖かったから。そんなこと、考えたくもなかったから。そして何より、自分にできるわけないと思っていたから――。

 でもここまで来たならば、それを認めないわけにはいかない。親父とオレは、ここにいる。あの倉庫から脱出して、ここにいる。そして、今もオレの右腕には戒めの手枷が嵌め込まれたまま。鎖も手がつけられないまま繋がっている。その先には、親父の左手首につけられていた手枷。
 結論なんて、1つしかないじゃないか……。
 ドクン、と心臓が一拍やけに高鳴る。そしてそれを皮切に、早鐘のように鳴り出した。汗が背中を伝っていく。呼吸が崖を転がり落ちる石のように、加速度をつけて早まっていく。

 オレは鎖を引っ張り、親父の左腕に付いていた筈の手枷を手繰り寄せた。瞬間、ベッタリと油分を含んだ何が指先に纏わりつく。月光に翳し、その正体を確かめると――それは、鮮血だった。
 手枷は血に塗れていた。何処どこ彼処かしこも乾ききらない深紅に染まっていた。
 切れていない鎖。外れていない鍵。血塗れの手枷。左手首に、血が止まるほど堅く結びつけた包帯。気絶させられた、オレ。どんなに逃げても、結論は変らない。それどころか、確認すればする程にそれを示す確証は増えていく。

「親父……ポケットに入れてる手を出せよ」
 その声は、自分でも滑稽なほど震えていた。
 親父は何も言わない。何の感情も感じられない相貌でオレを静かに見下ろしている。
「親父、頼む。その左手を、ポケット、から……出して、オレに」
 息が詰まった。喉を掻き毟りたくなるほど、苦しい。
「オレに、見せてくれ」
 頼むから。後生だから。オレに、この目に、見せてくれ――

「それは無理だ」
 親父は言った。この夜に似合いの、静かで穏やかな声だった。
「このポケットには、左手なんて入ってないからな」
 ――そう。親父の左手は手首より先が失われていた。ポケットは最初から空だった。ただ、滴り落ちる鮮血を受け止めるだけだった。

「腕を……切ったのか……」
 親父は、何も言わない。
「あのナイフで、自分の左手を切り落としたのか?」
 親父は、何も応えない。
「全部分かってて、だから、オレを気絶させて……ナイフがあるのをギリギリまで隠してて……包帯で止血して……それで、自分の腕を切断したのか?」
「――帰るぞ、祐一。血が足りねェ。いい加減、ぶっ倒れそうだ」
 親父は力尽きたように座り込むオレの脇をすり抜け、ふら付く足取りで獣道を歩いていく。
「折角助かったのに、失血多量で死んだんじゃ何の意味もない」
「なんで……」

 だって、それじゃあ――
 左手がなかったら。
 あの左手を失ってしまったら。
 もう……

「もう、チェロ弾けねぇじゃねえか!!」

 そのオレの叫びに、踵を返して歩き出した親父の足がピタリと止まる。
 チェロにしろ、ギターにしろ、ピアノにしろ、左手がなくてはどうにもならない。右手よりむしろ、複雑で素早い熟練したフィンガリングが要求される左手のほうが、多くの楽器で重要視されるのは誰もが知っていること。まして、日本を代表するチェリストとして世界を相手にしていた親父には、レフトハンドを失うということはあらゆる意味で致命的な事実となる。

「……祐一。それは、お前には関係のないことだ」
 振り返らずに、親父は言った。
「行くぞ。もう、そんなには持たないんだよ、この身体。本当は親指だけにしとくつもりだったんだが、上手くいかなくてな。結局、手首ごと処理するハメになっちまった。おかげで計算狂って出血量が増えてるんだ。だから、オレはもうじき気を失う。それまでに、何とか999にコールしておかないと拙い」
「なんでだよ。言え! なんで、オレを助けた!? アンタ、チェロに命掛けてたんだろ。なんで、オレの腕を切り落とさなかった!? なんでオレを助けたりした!?」
 喉が張り裂ける程の大声で、親父の背に怒鳴りつける。そうしなければ、オレの中の何かが崩れ落ちてしまいそうだった。自分を保てなくなりそうだった。

「そんなことされて、オレが喜ぶとでも思ったのか! ヒロイズムだか自己犠牲だか知らねぇけど! そんなもん振りかざされて、助けられるなんざ迷惑なんだよ! オレはそんなこと頼んじゃいねぇぞ!!」
 その叫びに、親父は再び歩みを止める。そして烈火の如き怒りに目を吊り上げて、オレに走り寄って来た。

「ふざけんな!!」
 親父は、右手でオレの胸倉を掴み上げて怒鳴る。
「テメェを助けただと!? 自己犠牲? 英雄願望? 自惚れるな! 夏夜子ならいざ知らず、なんでオレがお前なんぞ助けなきゃならねェんだ!!」
 空を割るほどの怒号。世界に通用するチェリストであり、同時にヴォーカリストである親父の声は、ビリビリとオレの身体を震えさせた。まるで電撃に打たれたような衝撃が襲ってくる。
「ふざけたこと言ってんじゃねェ! いいか、これはオレのためだ。自分自身のためだ!! ああしなかったら、自分から逃げることになる。偽ることになる。自分で自分を卑下しなくちゃならなくなる。そう思ったからやっただけだ! オレは、オレを維持するためにやったんだ!! 祐一、テメェのためなんかじゃねェ! 自己犠牲じゃねェ、自分のためだけにやったんだ!!」

「自分のためだったら……」
 ここで何か怒鳴り返さなきゃ、オレは立ち直れなくなる。背負いきれないものを背負って、その重みに耐え切れなくなる。
「自分のためだったら、オレの腕を切れよ!!」
 オレは親父の胸倉を掴み返して、力一杯怒鳴った。
「たとえそうやって、助かったとしても。それで、チェロを続けられたとしても。そして、そのチェロでもし世界の頂点に立てたとしても――それはもう、オレじゃねえよ。それは、本物のオレじゃねえよ。そんなオレにならなきゃ手に入らないようなら、そんモノ犬にでもくれてやる」
 殺意にも似たものを感じさせるその目に、オレは全ての抵抗と言葉を失った。

「祐一。オレはお前のような人間に、こう問いたいと思っていた」
 親父は静かに言った。
「お前達はこれまでの人生で、1度でも何かと戦ったことがあるか? 」
 思わず、オレは目を見開いた。1番触れられたくない何かを、無理やり暴かれたような衝撃を覚えたからだ。掌にジワリと汗が滲んでくる。
「お前には分からねェよ、祐一。なんかあったら、すぐ逃げ出す。3年前も、今も。お前は重いものを背負いそうになったら、直ぐに荷を捨てて逃げ出すやつさ。そんな奴に、オレが理解できるわけがない」

 興味を失ったように、親父はオレを突き放す。オレは糸の切られたマリオネットのように、ドサリと腰から崩れ落ちた。親父は踵を返し、そのフラつく足取りで遠ざかって行く。もう、その背に掛けられる言葉など何一つない。抜け殻のように呆然と坐り尽くしたまま、オレはそれを見送った。

 ――お前には分からねェよ、祐一。

 その言葉が、何故か耳から離れなかった。










to be continued...



あとがき


 もうお気付きの読者もいるでしょうが、筋電義手『ロマンサー』のモデル――これは、UK周辺に伝わるケルト神話の主神『ヌァザ』です。
 ヌァザ[Nuadha]は、銀の腕の至高なる王。ケルト神話の神々の王であり、最も人気のある神の一人でもあります。
(ちなみに、『DARC』『HEARTFUL BIND』などに出てくる超能力『クラウ・ソラス』は彼の持っている剣の名前から取ってます。Claimh Solaisで、光の剣という意味。トランプのスペードは、このクラウ・ソラスのシンボルであることは、意外に知られていません)
 ヌァザは、多くの場合、アーケツラーヴ[Airget-lamh]という称号を添えて呼ばれています。意味は『銀の腕』。そうです。彼の片腕は、銀で出来た義手なのです。
 ヌァザは戦で失った腕の代わりに、この銀の義手をつけるようになりました(腕を切り落としたのは、フィル・ヴォルウ族の闘士スレン。義手を作ったのは、医術師ディアン・ケト)。

 もう1つ、ロマンサーのイメージ・モデルとなったのは、『女神転生2』というコンピュータ・ゲーム。
 この主人公は、あるワナに嵌り左腕を失うのですが、義手をつけて復活します。で、その義手がまた、生身の腕より凄くて役に立つ。その上、格好良い! 悪魔を召還できる高性能のコンピュータを内蔵していたりして、「これなら生身の腕よりクールじゃん」と思わせる素敵なギミックとスペックを誇るのです。
 子供の頃、これを見てチョット衝撃を受けたものです。本物の義手がこんなに凄いなら、ハンデなんて怖くないよね?……と。

 まあ、拙作『HEARTFUL BIND』や『愛のブロックサイン』を読んだ人は分かると思いますが、ハンディを持った人間が、それを克服することで普通の人間よりも偉大な力を手に入れる――というのは、私の作品全部に通じるテーマです。
バリアフリーとか、福祉機器の開発とか。私はこういった問題に、好奇心と希望を持っています。
 転んでもただ起きない人間って、見ていて面白いですよね。

 蛇足:ヌァザは、イギリスでフルッズ[Lludd]やラッド[Lud]と呼ばれた王と同一視されています。イングランドの首都ロンドン[London]は、フルッズの名にあやかって付けられたそうです。
 今回の話の舞台をイングランドはロンドンに選んだ理由、わかりました?


←B A C K |  N E X T→

脱稿:2001/11/05 03:52:44

INDEX → 目次に戻ります
HOME → 著者のウェブサイト


I N D E X H O M E

inserted by FC2 system