水の檻
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 左手首に一筋の赤い線が走る。
 赤い雫が、腕を伝ってゆく。
 それを冷静に、冷徹に、鏡の中に映るのを見つめるのは、きっと、自分で…。
 ははっ、痛いじゃないか…。
 乾いた笑いが、耳に届いて…。
 一筋の血流と、泥臭い血の匂いと共に、無感情な声が響く。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 カタカタと、一つの部屋からキーボードを叩く音が響く。それは佐祐理の部屋から漏れる音だった。
 佐祐理の仕事は先も語ったように、英語翻訳を生業にしている。無論それを選んだのは三人共が出払うことなく、せめて一人は家にいれるようにと、自分の、そして三人の都合に合わせて選んだものだった。それでも、自分の仕事を楽しんでやれる分にはそれ程苦にならないのか、佐祐理は今の仕事に満足していた。その中で、祐一は佐祐理の仕事場とも、膨大な書架に囲まれた書斎とも言って差し支えない彼女の部屋に共に篭って、もくもくとワープロのキーボードを叩いていた。今、佐祐理の部屋にはカタカタと祐一のタイプする音と、それに掻き消される程度の、細々とした佐祐理のペンを走らせる音が響く。その機械的な擬音を破って、祐一が声を上げる。

「佐祐理さん。こんなんで良いかな?」

 祐一は佐祐理が訳した文章をワープロで整理していた。有体に言えば、彼女の仕事の手伝いをしていたのだ。印刷した紙を佐祐理に手渡すと、掛けていた眼鏡を外して佐祐理はそれじっとを見る。整然と並んだ字列を見る限りでは、主だったミスはなさそうだった。
 佐祐理は、朝食を終えて舞を送り出してから、炊事・洗濯とその日の雑務を祐一に全て任せて、ひたすら英語と格闘していた。今回の彼女の仕事は、地元地方の観光用パンフレット製作で、それの外国人旅行者用の原文の作成だった。実際、それは翻訳ではないのだが、この手の仕事をしていると、偶にはこんな風に通訳的な仕事も入ってくるもので、それでも仕事として入ってくる以上は、それに私事を挟む訳にも行かず、今回の佐祐理は、4日程の間、馴れない仕事に悪戦苦闘していた。それも大詰めを迎えて、残るは細かいチェックとワープロによる清書のみとなっていて、その清書を、雑務を祐一が手伝うことにしたのだ。
 祐一に手渡された用紙に一通り目を通すと佐祐理は答える。

「…はい。良いと思います」
「よっし。順調順調、後少しだから、頑張ろう!」
「はい」

 そう言って祐一が佐祐理に目配せをする。

「でもそろそろ休憩にしましょう。御昼も食べてませんしね」

 佐祐理が祐一にそう答えると、少し疲れた肩を解して椅子から立ち上がる。祐一も背筋を伸ばすと、どっと疲れが襲ってきたのを感じた。それもその筈で、二人が部屋に篭ってから既に3時間は経とうとしていた。雑務をこなしてから来た祐一ですら、昼も忘れていたのだ。それだけ集中していたのだろう。二人はやっと昼食を採る事にした。
 ベッドの片隅で針を揺らす目覚まし時計を見ると、昼も終わり1時になる所だった。
 キッチンテーブルには朝食と殆ど代らないメニューがあった。食べ残されて既に冷め切ったトーストに、淹れ直したインスタントのコーヒー。二人とも無言でそれらを胃の中に流し込むように採る。ふいに祐一がテレビを付けると、そこには昼のバラエティー番組が、わざとらしい笑い声を上げているのが流れていた。佐祐理はそれに見向きもしないで、噛み砕いたトーストを咀嚼することの専念していた。
 遅目の昼食を終えて、二人は再び佐祐理の書斎へと向かう。二人とも、無駄なことは一切口にせずに、直ぐに中断した所から再開する。
 再開してから1時間程経って、佐祐理が口を開いた。

「祐一さん。佐祐理の方はこれで終わりです」

 そう言って佐祐理は日本語から訳された英字の羅列された原稿を祐一に手渡す。祐一もそれを受け取ると、今まで出来あがった分を佐祐理に渡して「じゃあこれのチェックをやっといて。俺もこれを打ち込んで終わりだからさ」と、祐一が言う。

「はい」

 その後、佐祐理から最後の原稿を受け取って30分。祐一の方も打ち終えてチェックを終え休んでいる佐祐理に印刷した用紙を渡そうと立ち上がる。自分の方にやって来る祐一を見咎めると、佐祐理は飲み掛けのコーヒーを祐一に差し出す。ありがとう、と言ってカップを受け取り、それとは逆に最後の清書原稿を佐祐理に渡す。

「ありがとうございます」

 佐祐理はその原稿の内容を確かめずに原書封筒に原稿を入れる。それを見て祐一はハッとなる。

「えっ、確認しなくて大丈夫なの?」

 と。

「はい、さっき見せて貰った時にもミスはありませんでしたから」

 信じてますから、と付加えて佐祐理が言う。

「なら良いんだけど、間違ってても知らないよ」

 少し不安そうな顔をして、どこか納得のいかない祐一は、渋々と言った感じで頷くが、ニコっと笑って佐祐理は応える。それを見て祐一は肩を竦めるも、佐祐理に対して笑みを返すと、フーと一息吐いてから祐一は佐祐理のベッドにドカっともたれ掛る。ちょっとだけ吐かれた様子の祐一を見て、テーブルの脇に置いてあるポットからお湯を出してインスタントコーヒーを淹れながら、佐祐理は首を傾げて言う。

「祐一さん。御疲れ様でした」
「うんん、佐祐理さんこそ御疲れ」

 佐祐理から差し出された受け取ったコーヒーをクイっと掲げながら、祐一も同じように答える。

「今日は本当にありがとう御座いました。祐一さんのお蔭で助かっちゃいました」

 どこか俯き、祐一からの視線を逸らすように、佐祐理は自分の分のコーヒーを淹れる。

「そんな、気にしないでよ。こっちだって好きでやってるんだしね。それに困っている佐祐理さんを助けることが出来てこっちも嬉しいんだからさ…」

 はにかみながら言っている祐一も、何故かそんな佐祐理から少し視線をずらし窓越しに外を見る。なんとなく、気まずい雰囲気が一瞬だけ流れる。しかし、佐祐理がそれを飲み込むように、しっかりとした口調で告げる。

「本当に祐一さんは優しいんですね」

 と、何処か縋るような声色で。

「…佐祐理さん」

 唐突な佐祐理に祐一は顔をしかめる。佐祐理の表情から、どう答えて良いのか、言葉が見付からなかった。

「でも、それに比べて佐祐理は…だから、私…」

 それ以上は告げず、佐祐理は祐一の隣に腰掛けるとそのまま彼の肩にもたれ掛る。佐祐理の息が肩に掛かるのを感じて、祐一は顔をしかめる。

「…止めて下さい」
「…ねぇ、祐一さん。私…」

 佐祐理が次の言葉を発しようとした時、困ったように祐一が声を荒げる。

「佐祐理さん!」

 祐一は佐祐理にそう言うと、コーヒーを机の上にドンと音を発てて叩きつけるように置く。しかし、佐祐理は止め様としないで言葉を紡ぎ続ける。
 
 

「祐一さん。私、貴方を愛してます。舞の次ぎにですけど…」
 
 

 佐祐理がそう言うと、苦しそうな表情をしながらも、そんな佐祐理に祐一は何も言わずに彼女に手を掛けてベッドに押し倒す。そのまま佐祐理を組み伏せ、鬱血する程に彼女の手首を握り締めて、佐祐理の唇を貪ると痛いくらいに舌を絡めた。組み伏した佐祐理の胸の膨らみが、自分に合わせて揺れているのを、祐一は冷たい目で見つめ、唇を離して佐祐理に答えた。
 
 

「俺も、佐祐理さんのこと、好きだよ。でも、舞の次ぎにだけどね」
 
 

 そう祐一は呟くと、佐祐理と視線が絡むが、あからさまに目を逸すと、再び体を重ようと佐祐理の上に覆い被さる。そんな祐一の横顔を佐祐理は冷静に、冷徹なまでの視線で見詰めて、そして彼女は思った。なんて心地良いのだろうかと。始めて祐一と寝た夜に、佐祐理はそう思った。裸で抱き合う心地良さと、暖かさ、人の温もり、肌触り、汗の匂い、そして心臓の音。相手の全てがそこにあることの心地良さが、抱き締めた腕の中の全てにあることの心地良さが、彼女はとても愛しく感じる。そしてそれと共に、それを失うかもしれない恐怖が、自分自身を現実に押し留めるのを、彼女は知っていた。

「ごめん…」

 自らが起こした状況に対して落ち付いたのだろうか、祐一が言う。佐祐理は祐一の中で、ふっと彼から力が抜けるの感じる。

「いいえ、気にしないで下さい。少なくとも私は期待していたんですから…」

 佐祐理も祐一に対して申し訳なさそうに祐一に謝ると、今度は佐祐理の方から唇を重ねる。
 だから私は祐一に抱かれる事を望んだのかもしれないと、そんなことを考えながら佐祐理は祐一の中で情欲に溺れて行った。

 傍らで、祐一に背を向けながらぐっすりと眠っている佐祐理を後目に、彼は夕飯の支度をする為にそっと毛布を肌蹴て起き上がる。ふいと、ベッドの片隅にある小さな目覚し時計に目を向けると5時も半ばを過ぎた頃だった。
 ジンと左手首に痛みが走る。傷跡が残るそこは、祐一にとっては既に意味を成さない古い記憶だった。忘れたことだと、祐一は頭を振って、佐祐理を起こそうと声を掛ける。

「佐祐理さん、起きて」

 優しげな声色の祐一の言葉で佐祐理はゆっくり目を覚ました。彼女の白い背中が、祐一に方に向けられてる。

「…もう、そんな時間ですか?」

 目を擦りながら、薄手の毛布で胸を隠しながら佐祐理が起き上がる。

「うん。もうそんな時間」

 そう言って祐一は目覚し時計を親指で差す。佐祐理もそれを見て「ふぇー」と何時もの口癖の後に起き上がって、祐一の腕の中に潜り込んできた。そのまま祐一は佐祐理を抱きかかえると、その入り込んできた彼女の背中をなでる。佐祐理は目を細め、一瞬だが幸せに満ちた視線を祐一に絡める。それを見て祐一も佐祐理に微笑む。腕の中で微睡む佐祐理を見詰め、良い匂いがすると、祐一は思った。子供の頃に母に抱かれている時に感じるような、そんな優しい匂いだと。
 もう一度、佐祐理が祐一に寄り掛かろうとするが、祐一はそれをさっと避ける。バフッと佐祐理はそのままベッドに転がるのだが、祐一はそれを見て笑みを漏して言った。

「ほら、そろそろ起きないと。舞が帰って来ちゃうよ」
「そうですね、判っているんですけど…」

 未練がましいと、自分でも思いながら佐祐理は俯く。それを見て祐一は業と声を明るくして「なら、起きよう。いつまでもこうしている訳にはいかないしさ」と、言って祐一は、二人とも裸で毛布を一枚被っているだけの自分達の様子を指す。
 そこには何時もと何処か違う様子の佐祐理がいた。彼女は祐一との情事の後は、直ぐには戻れない。何時もの自分に。無論、祐一もそうなのだが、彼女程ではないので、どちらかと言えば祐一の方が先に立て直す。それが判ってるからこそ、祐一も明るくするのだろう。

「こんな所を舞に見つかったら怒られちゃうよ」

 ちょっとした冗談を飛ばし肩を竦めながら、祐一はベッドから飛び起きる。

「さて、俺は夕飯の準備を始めるから佐祐理さんも起きた起きた」

 しかし、その祐一の背中を見ながら佐祐理は、ぞっとする程冷たい声で呟いた。

「……舞は、怒りませんよ」

 その声を聞いた瞬間、祐一は一瞬止まる。だがそれも一瞬だけで、直ぐに下着を身に着けると、ベッドを降りて佐祐理の部屋から出て行く。ただ、その時に、祐一も小さな声で呟いた。

「そりゃそうだ。多分、気が付いているんだろうからな…」

 無論、佐祐理にも、その祐一の声は届いた。まるで、自分達、取り分け自らを批難するように彼は言うのだが、それも当然だと、佐祐理は思い祐一の背中を見送る。
 一人残された佐祐理は、側にある写真立てに映っている、弟の写真に一瞥すると、それを伏せると、祐一が出て行った後に遅れて、ドアの閉まる音が部屋に響く。

「でも、赦して貰えませんよ。ワタシタチ…きっと」

 佐祐理は、祐一が閉じたドアを眺めながら一人ごちてそのままベッドに倒れ込むと、脱ぎ散らかした下着をベッドの中に引っ張り込んで、そのまま下着を身に着けて起き上がる。すると、先ほど佐祐理の中で祐一が放ったものが下着を濡らす。それを佐祐理も感じてか、微妙な程に小さい苛立ちが広がろうとするのを感じるのだが、彼女はそれを押し殺し、そして体に付いただろう祐一の匂いを落す為に佐祐理はシャワーを浴びに風呂場へと向かった。
 新しい下着と着替えを片手に、階段を降りる。途中、着替えを終えた祐一とすれ違うが、何を語ることも、また視線が合うこともなく、二人は通り過ぎる。
 佐祐理が風呂場のドアを開けようと思った時「佐祐理さん」と、後ろの台所の方から顔を出し来た祐一の、何時もの優しい声で話し掛けられたのに気が付くと、佐祐理は振り返った。

「佐祐理さん。夕飯、何かリクエストある?」

 少し無理目な、それでも明るい声を上げて祐一が問う。

「そうですね。佐祐理は、祐一さんの作ったグラタンなんかが食べたいですね」

 佐祐理もそれに併せて、業とらしい声を上げて笑みを作る。佐祐理の答えに、祐一はちょっと考えた素振りを見せる。

「よし、判った。材料もあるだろうからそうするよ。ま、期待しててね」
「はい」

 祐一がにっこりと笑って台所へ振り返るのを彼女をは見送ると、風呂場のドアを開けて浴槽に湯を溜める。一端浴室から出て新しい下着をみだれ箱に放り込んで、脱いだ下着を洗濯機に捨ててスイッチを入れる。そのまま顔を上げると、鏡の中には疲れた表情を見せる自分がいて、佐祐理は思わず目を逸らす。嫌な女だと、自分の中から聞える声に耳を塞ぎながら。
 その後、しかたなしに鏡の前に立って乱れた髪の毛を櫛で丁寧に梳くと、無駄に濡れないように頭にタオル捲き、ゴンゴンと洗濯機の回る音を後目に佐祐理は再び浴室へと向かう。浴室は冬の寒さを残していて、素肌を晒した佐祐理はブルッと震える。湯船に熱い水を溜める為に勢い良く蛇口から湯が出ているが、まだ五分程しか溜まっておらず、湯の出所をシャワーに切替えて、お湯を洗面器に溜める。そのまま、佐祐理は洗面器に溜まった湯を白い肌に流す。ほんのりと赤みを帯びて白い肌が薄紅に染まると、浴室に広がる冷気に再びブルっと体を振るわせるとそのままシャワーを浴びる。佐祐理は流れるお湯と共に、祐一の匂いも体から落ちて行くのを感じた。そして先程の跡、祐一の放ったものが再び体の内側から流れ落ちるのを感じると、やり場のない怒りが込み上げて来る。それは誰に向けられるのかも判らない、暴力的な殺意。
 佐祐理は生理が止まっていた。生理が始まった頃には、弟の死の影と、そしてその残痕に至る数々の自殺未遂の為に、佐祐理は情緒不安定になっていた。彼女の生理が止まるのは当然のことだった。だから、最初、初めての生理があって以来、佐祐理は生理を経験していない。そしてまた、祐一に抱かれるようになってから、彼女はそれをより一層恥じていた。子供を生めない自分、女にも為り切れない自分に対して。
 シャワーの温度をゆっくりと下げて行く。どんどんと下がって行く水温は、既に水と言っても良い位の温度だった。その中で、佐祐理は寒さに自らを抱き締めながら、水音に声を誤魔化して涙と嗚咽を上げた。

 佐祐理が風呂場から上がると、祐一は台所で夕飯の準備に追われていた。かと言って忙しそうな様子でいるわけではない。順序良く、丁寧に積み重ねられている物事を消化して行く。殆ど出来あがっている夕飯のおかずを尻目に、佐祐理が来たことを確認すると、祐一は茶の用意をして急須と湯呑、ポットをテーブルに持って行くと、そのまま自分の一緒になって椅子に座る。

「はい、お茶」

 そう言って佐祐理の前に置かれた湯呑に、香りのいい緑茶が注がれる。

「ありがとうございます」

 そのまま二人は向かい合って茶を啜る。佐祐理の返事の後、沈黙が訪れる。二人ともそれを気にした様子も見せず、祐一はテレビのスイッチを点ける。風呂から上がったばかりで、佐祐理は水滴に濡れている髪の毛をタオルで丁寧に撫でている。今の彼らにとって、言葉は余りに無用なモノであった。
 途中で祐一はコンロの火を弱めたり強めたりと料理を見ながら茶を啜り、その内に10分くらい経った頃だろうか、何気に祐一がテレビを見ていた時に佐祐理が声を掛けた。

「祐一さん」
「…なに?佐祐理さん」

 祐一は佐祐理に振りかえる。

「佐祐理は…いえ、ワタシタチは、何時まで一緒に暮らせるんでしょうね?」

 佐祐理の、感情が含まれない声を聞いて一瞬瞳を見開くも、祐一は再びテレビに視線を戻す。それも、何事もなかったかのように。

「さぁ…俺にも判らないよ。佐祐理さんは?」
「佐祐理にも、判りません。ただ、この生活がどこまでも続いてくれれば良いかと、そう、思ってます」

 佐祐理も祐一と同じようにテレビに視線を向ける。ブラウン管の中では面白くもなんともないニュースが、平和な日常を語っている。

「…そう、だな。続けば良いな」

 テレビの方を向いたままで、祐一は答えた。だが、二人とも薄々だが感じていた。この生活はもう直ぐ終わると。『チーン』とオーブンがタイマーを終えて出来あがった事教える。祐一はそれを耳にすると、手袋をしてオーブンに向かう。今、ここで交わされた言葉の意味を考えない様に、誤魔化しながら。

「さてと、佐祐理さん。舞が帰ってくるまで後5分も無いから少し手伝ってよ」
「はい。判りました」

 佐祐理も立ち上がってテーブルに御皿を広げる。佐祐理が広げた御皿の上に祐一はオーブンから出来立てのグラタンを並べて行く。佐祐理もまた、誤魔化しながら。

 良くも悪くも祐一が作ったのは普通の家庭料理だった。大根の味噌汁、豚の生姜焼きにキャベツの千切り、茹でダコとわかめと白子の酢和え、そして焼き上がり具合がちょっと焦げ目なカニクリームグラタン。感激する程美味しい訳でもないが、不味い訳でもない。本当にどこかの家庭でも同じようなメニューが並んでいるだろう位に普通の料理だ。その用意も終えた頃、玄関のドアが開く音がする。舞も帰って来ようだ。

「ただいま」

 トントンと廊下から足音が近付いて来る。台所に入った時、舞の視界に入って来るその光景は、有り触れた日常、そして彼女の居場所が待っていた。

「「おかえりなさい」」

 寒かったと、呟きながらコートをハンガーに掛けて、舞はテーブルに着くと「はい」と、言って佐祐理からお茶を渡される。「ありがとう」と、舞も答えて熱いお茶をズズズと音を立てて喉に流す。舞も椅子に座ると、彼等三人の夕食が始まる。御互いに今日の出来事を伝え合う。何があっただの、今日はこうだったなど、本当に些細な事を、大事にしながら、この時間を温めながら彼等は言葉を交わす。

「祐一はどうだったの?」
「俺か?」

 舞は今日起ったことを事細かに話し終えると、今度は祐一に矛先を向ける。

「今日は別に大した事はなかったぞ」

 と祐一は言うが途中、あっと、声を上げると思い出したように口にする。

「あったあった。忘れてたよ。さっき連絡があったんだが、北川の就職先が決まったんだ。公務員らしいぞ」

 友人の就職が決まったとあって、嬉しそうに祐一は答える。
 同じ大学に通っているのか、祐一も北川や名雪との関係はそれなりに続いているらしく、舞も佐祐理も祐一を通じて何度か会っていた。既にこの時、祐一の就職先は決まっていた。だから、この時は時間が余っていて、バイトや佐祐理の仕事の手伝いなどをして過ごしていたのだ。

「公務員だ何て凄いじゃないですか。それじゃあ何か御祝いをしないといけませんね」

 佐祐理も、祐一の声に合わせて、自然に嬉しそうな声を上げる。

「あぁ。で、後は名雪だけなんだが、どうなるのかな」

 以前の同居人。従兄妹のことを思って、祐一がこぼす。

「良い所が見つかると良いですね」
「うん、そう思う」

 と、舞が答える。そんな何気ない会話の中、祐一は舞のご飯茶碗が空になっているのに気が付くと、「舞、おかわりはいるか?」 と、尋ねる。

「いる。おかわり」

 と、舞も自分のご飯茶碗を祐一に差し出す。それを受け取ると、差し出しだされたご飯茶碗に軽めに盛り付ける。

「舞、太りますよ〜」

 それを見て佐祐理は、いつもよりも多めの量を食べているのに、まだ食べるのか既に舞の3杯目のご飯に対して、何を思ったのか、軽い茶々を入れる。勿論、当の舞はその程度では気にもしない。逆に佐祐理に強烈な一撃を与える。

「大丈夫。佐祐理程じゃないし、それに私は重労働だから…」

 と。

「まい〜」

 怒った振りをする佐祐理。その横ではしてやったり顔の舞。そして、それを眺めながら祐一。
 そんな三人のひとときが流れる一つの部屋。

 そこはまるで…

 
 
 
 

「ねぇ、舞。今日は一緒に寝よっか?」

 夕飯も終えて、後片付けの皿拭きをしている佐祐理が突然そんなことを口に出した。

「佐祐理…?」

 はて、となみなみと茶の入った湯呑を口の寸前で止めて、首を傾げながら舞は彼女の名前を呟く。

「そうだ、だったら御布団を持って来て、祐一さんも一緒に川の字になって…」
「佐祐理、どうしたの?」

 佐祐理の突然の事に、舞は湯呑を置いて佐祐理に問い掛ける。

「ふぇ?別にどうもありませんよ。ただ一緒に寝たいな〜って思っただけですよ」

 しかし、舞に理由を聞かれた佐祐理自身も何故そんなことを言ったのかは判らなかった。ただ、なんとなく。自分でも本当にそう思っただけで、別段他意は無いと思っていた。
 
「私は良いけど。祐一は」
「なんだ、俺も良いのか?うん、構わないぞ」

 舞に頷いて答える祐一を佐祐理は見ると「だったらそうしましょう」と、言うや否や、佐祐理は押入れから布団を取り出す。それを見て祐一もそれを手伝う為立ち上がると、舞は寝床の確保に、茶の間の座布団や、ちゃぶ台の上を片付けてたりと、三人が三人でそれぞれ動き出す。きっかりと分けられた仕事をそれぞれが何を言わずともに。その内に、三つの布団と三つの枕が並べられる。そしてそれぞれが寝巻きに着替えて戻って来る。

「ふふ、舞と寝るのも久しぶりですね〜」

 嬉しそうに佐祐理が言う。

「うん、そうだけど…珍しい」
「え?」
「佐祐理がはしゃぐなんて…」

 舞がふと、佐祐理に疑問を投げかける。

「佐祐理さんも嬉しいんだよ。なっ?」
「はい」

 すると佐祐理をフォーローする形で祐一が答えると、佐祐理はそれに対して明朗に答え、場の雰囲気がわっと明るくなる。

「舞だってそうだろ?」

 今度は舞に聞き返す。

「嫌いじゃない」
「たく、相変わらず意地っ張りだな。お前は」
「もう、舞ったら」

 何時も通りの舞に、苦笑を漏らす祐一と佐祐理。

「祐一だってあんまり変わらないと思う」

 それを見てむっとする舞が祐一に口答えると、

「ふふん、舞にしては言うようになったじゃないか」

 舞を小突きながら祐一が言う。それを嫌そうに押しのける舞の姿を見ながら佐祐理は再び笑みを漏らす。
 暫く布団の上に座りながら話しをしていたのだが、舞が欠伸を漏らすと、それが合図になって三人とも布団に入る。

「久しぶりにしりとりでもするか?」

 唐突に祐一が言った。ちなみに、真ん中に舞、そして左右に佐祐理と祐一が並んでいた。

「そうですね。舞も忙しいし、最近はやってませんね」

 と、佐祐理。

「やる」

 乗り気で答えるのは舞。

「で、強くなったか?」
「うん。私は託児所のみんなとよくやるから…」

 仕事がちゃんと出来ているのだろう。託児所にいる時の自分を思い出して、それを嬉しそうに舞が言う。そしてそれを祐一も佐祐理も嬉しそうに見詰めている。それは二人にとっては最高に幸せなことだった。

「そうか、じゃあ楽しみだな」

 と、祐一が言う。本当に、嬉しそうに。

「じゃあ、ネタはなんでもアリな。じゃあ俺からだな。『舞』…ほら、舞『い』だ」
「ねぇ、それって良いの?」

 自分の名前を出されたことに、ちょっと疑問顔の舞が祐一を睨むが、それを気にせずに祐一は続ける。

「おう、オレは最初になんでもアリって言っただろうが…」

 屁理屈だと思いながらもそれを飲み込んで、素直には納得したようには見えないが、舞もそれに頷くとしりとりを続ける。

「じゃあ『いのしし』さん。佐祐理『し』」

 ・

 ・

 ・

 ・

 ・

 しりとりが始まって数分が経ち、40巡した頃だろうか。その流れが舞の所で止まる。なんだ、と思って祐一と佐祐理は二人して舞の顔を覗き込む。すると、すーっと寝息が立つのだが、祐一も佐祐理もそれを起こそうとはしなかった。しょうがないと言った表情の祐一。それを優しく見守る佐祐理。二人が目を合わせて御互いにクスっと笑う。

「「おやすみ、舞」」

 そして代りに二人ともが、おやすみと言った後、舞を起こさないようにそっと布団を出る。

 それぞれがコーヒーを片手に、テーブルに向かい合っていた。

「ねぇ、佐祐理さん」
「はい?」

 コーヒーを飲みながら、佐祐理からは明後日の方向を向きながらだった。

「舞はもう、一人でも大丈夫なんじゃないかな?」

 唐突に祐一は言う。

「…」

 しかし、佐祐理は答えなかった。いや、答えることが出来なかった。それは、今の言葉は、今まで築き上げて来たこの生活を崩す言葉だった。

「きっと、俺達はもう、いらないと思うんだ…」
「…」
「舞はもう、一人でもやって行けるよ」

 佐祐理はそれでも答えれない。

「だから…」

 それでも祐一は続けようとするが、佐祐理は、途中でそれを遮った。

「そうかもしれません。だとしたら、これ以上は舞の重荷になるかもしれませんね。私達が」

 自分を見ようとしない祐一を見詰めながら。

「あぁ、だからそうなる前に…ね」

 やっと答えた佐祐理に、祐一は苦虫を噛み潰したような顔で佐祐理に答えた。

「ねぇ、祐一さん。あの時の約束を、憶えてますか?」

 何処か遠くを眺めるような目付きで、そして瞳には祐一を写しながらも、どこか戸惑いの表情で持ってして佐祐理は言った。

「…忘れた事はないよ。その為に俺も佐祐理さんもここにいるんだろ?」

 その佐祐理の質問に、はっきりと祐一は答えた。どこか哀しげな憂いを秘めた言葉付きで。

「そう、そうですね…」

 祐一から視線を外した佐祐理も、どこか物憂げに、自らに言い聞かせる様に答えた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 優しい人が隣にいて
 奇麗な人も隣にいて
 そして私もここにいて
 全てが本当で
 全てが嘘で
 それはどんなに楽なのか
 それはどれだけ罪なのか

 私はそれに気が付きながらも
 それを見えない振りをする

 それに気が付くことはない
 私が気付くことはない

 そこは私の檻なのだから
 そこは私の場所なのだから
 そこに私は還るのだから
 

 深くて暗いココロの置き場
 優しく冷たい私の温床
 
 
 

 そこはまるで、水の檻
 
 
 
 

 誰も届かぬ、水の檻
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  (つづく)
 
 



ALICEさんの部屋に戻る/投稿小説の部屋に戻る
inserted by FC2 system