二人の約束
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 その日、祐一は久しぶりに学校に来ていた。高校の3年、そして3学期の終わりともなると、受験や就職学校に来る機会はない。現に祐一も大学の合格発表も終わって、残す所卒業するだけとなった。今日学校を訪れたのは、卒業式のリハーサルがあったからだ。
 明るい時間の流れが学校に溢れている。卒業生の殆どが学校に来ていたせいもあって、皆が皆、久しぶりに会う顔や、卒業間近に訪れた3年生のモノ珍しさ的な感じで寄って来る後輩の姿があったりと、細々と、しかし活き活きとした風景が学校中のあちらこちらで見れた。

「名雪。一緒に帰るか?」

 体育館と教室を繋ぐ渡り廊下で、名雪の後姿を祐一は見付けると、声を掛ける。まだリハーサルは完全に終わっていないのだが、今は卒業生の退場練習で、クラス順に体育館を出る為に、早い番号だった祐一達のクラスは一番に出るなった。

「うん。良いよ」

 声の主が誰だか判ったのか、名雪は間髪入れずに祐一に了承の意を伝える。だが、少し様子が違う。

「香里はどうしたんだ?一緒じゃないのか?」

 名雪が一人だったのと、いつもは彼女の側にいる筈の香里が見えないことが気になったのか、祐一はキョロキョロと周りを見渡すと名雪に聞くと、名雪は祐一にも予想だにしない答えを返す。

「北川君と帰るって。そう言ってたよ」

 名雪の言葉に少し驚いて祐一は目を丸くするが、それでも直ぐに"いつも通り"に戻ると厭らしそうな目付きになって、遠くの誰かを眺めながら言う。

「ふ〜ん、北川のヤツもやるじゃないか」

 祐一の視線の先には、香里と潤が二人で歩いているのが目に入った。

「私は香里にビックリしたけどね」

 いつもだったら、そんなことを言う祐一を批難する名雪だったが、多分名雪もコレには驚いたのか、珍しく同調する。少しだけ名雪が寂しそうな視線を彼等に向ける。そう言うのがなんとなく苦手なのか、祐一は、自分の肩越しから二人を見ている名雪から視線をずらす。

「…だろうな。俺も驚いたよ」

 名雪の語調に合わせて祐一は呟く。彼なりの優しさでもあり、また別の視点から見ればそれは残酷なのかもしれないが。無論そうは言っても、驚いたのは本当のことだったのだ。数週間前にあった登校日の時にはそんな雰囲気を億尾にも見せなかったのだから。
 その後、卒業生の殆どを集めて行ったリハーサルも昼を前に終わり、今はホームルームも終わって、彼等も後は帰るだけになる。その日は、二人とも気を使って、香里と潤には声を掛けずに校門を出る。祐一が校門にさしかかった時、佐祐理に似た影を見付けて足を止める。彼女は学校帰りなのか、それともただ単に祐一を待って居たのか、校門を出てからちょっと歩いた歩道の脇に立っていた。

「佐祐理さん?」

 恐る恐ると言った声の祐一。

「あっ、祐一さん。それに名雪さんも…」

 祐一の声に気が付いた佐祐理はパッと表情を輝かせると、校門から溢れ出て来る生徒の波に逆らい、華奢な肩を揺らしながらながら、祐一達に近付いてくる。微妙に、いつもの佐祐理と違う感じがする。祐一はそう思ったが、その考えを忘れようと頭を振る。

「佐祐理さん。御久しぶりです」

 それ程会う機会がない名雪が、ぺこっと頭を下げて佐祐理に向かって挨拶をする。名雪はなんとなく苦手なのだろうか、余り人見知りをしない筈のその正確も、どこか佐祐理にだけは他人行儀になる。勿論、名雪もそんなつもりはないのだが、自然と佐祐理には遠慮してしまう部分があった。祐一もそれを何となく知っているのだが、別に言う必要はないと、そう思って気にすることを止める。

「それにしても今日はどうしたの?言ってくれれば急いで来たのに」

 名雪の後ろから首を竦めるようにして、祐一が出て来ると佐祐理に尋ねる。

「いえ、佐祐理もついさっき授業が終わったんで、今から帰る所だったんです。けど、ちょうど祐一さんも午前中に終わるって聞いていたから、ここで待っていたんですよ」

 そう言って、佐祐理は二人の隣に来ると、そのまま三人で帰路に着くことになる。
 他愛ない会話が続く。大学の授業はどうだ、受験はこうだった等、三人で暫くの間話しながら歩いている内に、名雪は帰る方向が別になって、二人と向きを違える。

「じゃあ祐一。私はこれで」
「ん、秋子さんに宜しく言っといてくれよな」

 別れの言葉。名雪はそれを祐一の言葉として聞くだなんて思いもしなかった。それが今、目の前にあるからこそ驚くのだが。

「名雪さん、また…」

 佐祐理に言葉に、少しだけ疲れるモノを感じるも、名雪はそれを出さずに笑って言う。

「うん。じゃあね。佐祐理さんもまた今度」

 多分、名雪はなんとなくだが"判って"いたのだろう。曖昧でも、確かに判ることがあった。それは名雪だからこそわかったのかもしれない。長い間祐一を見続けて来たことは、微妙な変化でもわからせる。祐一も、何か感じていると。でも、名雪はそれを自分には関係のないことだと知っている。そして、それを言ってはいけないことも。
 名雪には見えた。確固たるように思えても、彼らが不安定な場所に立っていることを。
 そして二人に振り返ってから別れを告げると、名雪は自分の帰る場所へと向かう。それと同じく、祐一と佐祐理もまた、二人が変えるべき"家"へと続く長い坂へと向って行った。
 この時、既に三人は共同生活を始めていた。舞と佐祐理は卒業後、直ぐに一緒に暮らし始めたのだが、祐一だけは大学合格が共同生活の前提条件だった為に、二人から約一年遅れ、先月の末に大学合格が決まってから一緒に暮らし始めたのだった。

「結構待ったんじゃないですか?」
「そんなことないですよ。精々5分ぐらいでしょうし…」

 先程のことを言っているのか、坂を登りながら、祐一が校門で待っていた佐祐理に対して適当程度に気を使うのだが、佐祐理もそれを気にしてないと言った返事を返す。

「…なら良いんだけどさ」

 と、祐一は無難に答える。その後も二人して特別なことも無し、今日の夕飯は何にしようか、帰ったら部屋の掃除もしないと等、様々な会話をしながら長い坂を登って行く。

「でも久しぶりだな。佐祐理さんと一緒に帰るだなんてさ」

 三人で遊びに行った時以来だと、祐一は唐突に隣にいる佐祐理の方に振り返って言う。

「そうですね。でも、今は一緒に住んでるじゃないですか」

 そう言って嬉しそうに笑う佐祐理。

「…そうだった。忘れてたよ」

 それに、祐一がふざけて、二人して笑う。仲が良さそうに二人並んで歩いている姿は、普通に見れば恋人同士に見えなくもなかった。最も、坂を歩いている間に誰ともすれ違う事はなかったので、それを感じる者もいないのだろうが。
 勿論二人にそんな気持ちは微塵もないのだが、一緒にいる間は他愛無い雑談を続けて、二人して偶に笑いながら長い坂を登る。だがしかし、この長い坂に馴れていないのか、祐一は少し疲れたのか、登り始めた頃に比べると、歩幅が微妙に狭まっていた。

「祐一さん、ちょっと休みませんか?」

 佐祐理はそういう事には気が付き易い方だった。無理を強いる様子でもないのだが、祐一には佐祐理の言葉が絶対のように聞えて、佐祐理のことを一瞬、本当にお姉さんなんだなと思う。

「うん、そうさせて貰うよ。でももう直ぐだから大丈夫」
「そうですか?」

 渋々頷く佐祐理。しかし、祐一は少し息を切らせながら歩いていた。それから少し歩くと、坂の途中に小さな自動公園があったので、この坂に馴れていない祐一の事を考えてか、先程言った事も含めて佐祐理は祐一に休む事を提案した。流石になれない道に疲れたのか、祐一は自然にそれを受け入れる。ヘトヘトになりながらも、ベンチに腰を降ろすと、ふーっと一息吐くと背もたれもギリギリにもたれかかって空を見上げる。

「はー、疲れた〜。しかしこの坂は長過ぎる気がするけど…舞も佐祐理さんも良く通うな。全く持って尊敬だな…」

 公園のベンチに座るや否や祐一は大きく息を吐く。

「そんなこと言っても、祐一さんだって直ぐに馴れますよ」

 佐祐理は、これから毎日使うであろう坂道に不満を連ねる祐一へ向かって、さらっとキツイ事を言う。それを聞いて祐一も嫌そうな顔をするが、フッと笑って誤魔化す。

「言われて見れば、それもそうだな。直ぐ馴れる…か…」
「そんなもんですよ。佐祐理だって最初は嫌で嫌で仕方なかったんですよ。もう少し良い所にすれば良かったって思ってましたし。でも、今じゃ馴れちゃいましたけどね。むっ」

 小さくガッツポーズを取って、祐一に満面の笑みで佐祐理は答える。そんな佐祐理を見て、プッと祐一は笑いを漏らすと、佐祐理もそれに合わせてアハハと笑う。そんな公園には二人の声だけが響く。
 二人が休んでいる公園は昼頃のせいもあるだろうが、とても静かだった。ただ、その静けさは、砂場に散らかったスコップやバケツ、滑り台に忘れられた人形等、そのどれをとっても子供達の喧騒の跡が見て取れる静けさだった。
 祐一は近くに在った自販機からジュースを買って来くると、暫くの間、二人して並んでベンチに座っていた。

「はい。ホットのコーヒーと冷たいジュースが在るけどどっちが良い?」

 意地が悪いそうな祐一の表情は悪戯好きの子供のそれに近く、祐一は両手掲げると、冷たいスポーツドリンクと、暖かいだろうコーヒーの缶を見せる。佐祐理もそれを判っていたのでこう答えた。

「じゃあ冷たい方を…」

 その言葉と共に、佐祐理に向かってホットのコーヒーがヒョイと投げられる。スポっと胸の中に飛び込んで来る缶を受け止める。

「ありがとうございます。ところで、これって奢りなんですか?」

 きっぱりと首を振って、ニヤっと祐一は笑う。

「まさか、後で120円の徴収さ」
「はぁ、祐一さんもケチですね〜」

 佐祐理の声と、二つのプルタプを空ける音が鳴る。ゴクゴクと音を立てて祐一はスポーツドリンクを一気に飲み干して行く。一息吐くと祐一は言った。

「何言ってるの、佐祐理さん。これでも俺達ってド貧乏なんだからさ、これから先、特にお金とかはシビアにならないとね」
「そうでした。でも、懐は寒くてもって、ね」
「そりゃそうだ」

 祐一が笑う。肩を竦めて佐祐理が微笑むと、風で乱れた前髪を整える。そんな二人がいる公園、そこは何も無い空虚な世界だった。
 彼等も含めて、映る物全てがニセモノで、存在する全ての事象が虚構となる世界。
 二人以外誰もいない公園の、砂場にそびえる城が、それを奇妙に表しているかのように見えた。

「…静かですね」
「……うん。凄く静かだ」

 佐祐理に答えた祐一が、先程に浮かべていた表情とは一転して目を細める。この瞬間、祐一は頃合を見たのだろう。それは"これから"の始まり。
 この日、祐一は佐祐理の雰囲気がいつもと違うのを感じていた。だからこそ佐祐理は校門の前で待っていたのだと、そう祐一は思った。そして祐一は言う。彼自身がいつからか感じていた"本当の佐祐理"を見る為に、そして本物の彼女を"試す"為に。

「………ねぇ、佐祐理さん。今日待ってたのってさ、やっぱり俺に話しがあるからなんでしょ?」
「えっ?」

 そんな祐一に対して佐祐理は一瞬驚くが、それも直ぐに立て直して先程には全く感じられなかった雰囲気を身に付けると、ふーと溜息を吐いてから彼女は祐一に向き直る。

「……やっぱり、祐一さんには判っちゃうんですか。これじゃあ誤魔化せませんね…」

 どことなく疲れ切った表情を見せる佐祐理の本音とでも言うのか、ホンの一瞬だけ祐一には見えた。彼女の本音が、彼女の本質とも言うべき片鱗。

「うん。なんとなくだけど判るよ。なんとなく、だけどね」

 そう言って、まるで誤魔化すかのように祐一は佐祐理に微笑む。佐祐理は一瞬だけそんな祐一に怯む。いつも見ていた祐一とは違ったのだ。今、彼女の目の前にいる祐一は。

「佐祐理さんの話って、多分舞のことでしょ?」
「はい。そうです」

 逆に、今度は佐祐理が見た。今まで一度も見たことのないような、冷徹な祐一の瞳。それはまるで鏡の中にいる自分を思い出させるような瞳だった。それは祐一の持つ鋭利な欠片。

「なら丁度良かったのかな、俺も舞の事で佐祐理さんに話しがあったから…」

 佐祐理は少しだけ恐怖する。人選を誤ったのではないかと、舞の為の人材が間違いだったのではないか、そんな不安に恐怖する。だが、結果を決め付けるにはまだ早いと思い、再び祐一に向かい合う。
 この時の二人は、恋人同士には見え様も筈もなかった。寧ろ、腹の探り合いと言ってしまえる程の、冷静な雰囲気を作っていた。

「佐祐理さんから先にどうぞ…」

 ベンチに座りながら視線を落して、手に持ったジュースの空き缶を弄びながら。そんな祐一の手のひらは冷たくなって、冷たさに痛みを感じているにも関わらず、空き缶を投げ捨てると、今度は氷のように冷えているベンチの鉄骨をぎゅっと握る。

「じゃあ御言葉に甘えて、私から…」

 佐祐理は笑う。それは氷の微笑とも、ココロからの笑みにも見える。

「私達はこれから一緒に暮らします。けど、最初に祐一さんに聞いて置きたかったんです。祐一さんが舞をどう想っているのかを、祐一さんがこれからどうしたいのかを。聞かせて貰えますよね?」

 そこまで言うと彼女は再びニコっと笑みを作る。ここで作られた笑みは、ホンモノで、それは有無を言わさぬモノだった。だが、祐一はそれに堪えた様子も見せずにサラっと答えた。愛してますよ、と。

「舞を、ですよね?」
「もちろん」

 佐祐理もその答えを聞くと嬉しそうに言う。その笑顔を見て、それが偽りと知りながらも、祐一はつくづく良く笑う女性だと思った。

「そうですか、なら大丈夫です。じゃあ次に行きますけど、良いですか?」
「どうぞ」

 コクリと頷く。

「以前祐一さんに言った事がありますよね、私の弟のこと、私の過去のこと。一弥を殺した私のことを…」
「…」

 再び始る彼女の独白に祐一は耳を傾ける。聞き漏らす事のないように、しっかりと。

「私は…、未だにそれを引きずってます。そしてそれを舞に重ねているのも、自分で気が付いていますし、知っています。多分、祐一さんもそれがどんなことかは判ってくれますよね?」
「……はい。なんとなくですけど、佐祐理さんの言いたいこと、判ります」

 祐一の答えに満足したのか、頷くと佐祐理は続ける。

「それと先に言って置きますけど、私にとって必要な貴方は"私の為"にではないって事です。私が本当に必要とする祐一さんは、舞の幸せの為だけに存在してくれる、舞の幸せの為には死んでくれることさえ出来る祐一さんが欲しいんです」

 この時の佐祐理の横顔を、祐一は艶っぽく感じた。この時の佐祐理の表情に、祐一は深く女性を感じた。

「それともう一つだけ祐一さんが必要な理由があるんです。聞いてくださいね」
「…」

 佐祐理の言葉に無言で頷く。それが始まりの合図だったのか、彼女からは珍しく感情の抑制された冷厳な声。

「いつか、私は舞を殺してしまうかもしれない…」

 話している時の佐祐理は自虐的な笑みを浮かべながら、盲目的に舞の姿だけを自身の幻の中に見ていた。

「一弥の時と同じように、私は舞を…、私の大切な舞を殺してしまう時が来るかもしれません。だから、祐一さん、あなたが必要なんです」

 祐一も、佐祐理が見ている幻を確かに見た。佐祐理の描いている、幻影の舞は佐祐理に向かって笑っている。

「舞を殺してしまう前に、私を消して貰う為に…」

 自虐的な笑みから一転して、憂いを含めた瞳を祐一に向ける。
 
 

「いつか私を殺して貰う為に、祐一さん。貴方が必要なんです」
 
 

「だから私は、祐一さんが舞の側にいてくれて本当にホッとしてるんですよ」
 
 

「やっと舞の為に、安心して笑えるんですから」
 
 

 ゾッとする程の色艶を持ってして佐祐理は言う。そこに浮かぶのは…。

「でも、もしも、もしもですよ。祐一さんが、舞に仇成す事があるのならば、私は全力を持って貴方を排除しますから、そのつもりでいて下さいね」

 最後に、表面上は穏やかだが、内面では黒炎が燻っているのであろう、盲失的な佐祐理が、祐一に向かって通告する姿は、天使にも見えるし、悪魔のようにも写る。

「私の言いたい事はそれだけです…」

 佐祐理の独白。それを祐一は薄々感づいていた。だが、それを知ってしまった。彼女の口から。それは祐一にとっても、佐祐理にとっても必要なことだった。無論、舞の為に。
 祐一はそれに無言で頷くと今度は自分の番とばかりに、握っていたベンチの鉄骨を放すと、両手をズボンのポケットに突っ込んで、ベンチに深く腰掛けてから長い息を吐く。手をポケットに入れた事で、鉄に体温を盗られた指先に痛みを感じて祐一は顔を歪める。

「……佐祐理さんの言いたい事は判った。じゃあ次ぎに俺の番かな?」

 手の痛みを隠して、佐祐理とは打って変ってふざけた調子で祐一は言った。

「俺も、佐祐理さんにどうしても言っとく事があるんだ…」

 そう言うと祐一は佐祐理に向けて左手首を掲げる。

「コレを見て」

 そこには、横一線に刃物傷があった。
 だが、佐祐理はそれを見ても驚くような仕草を見せない。

「やっぱり、気が付いてたでしょ?」

 祐一が聞くと、佐祐理は「はい。とっくに…」と、すんなりと答える。そんな頷く佐祐理の左手首。そこにも祐一と同じように横一線の刃物傷があったのだから、気が付いて当然だったのかもしれない。無論、普通に暮らしている人がそれに気が付く方が不自然なのだが。

「この事だけど、佐祐理さんには話して置かないといけないんだ。長い話かもしれないけど聞いて欲しい」

 自らの左手首をじっと見詰めながら祐一は続ける。

「…まぁ、佐祐理さんじゃないけどさ、実は俺も人を殺してるんだ。小さい頃に…ね。そしてそれを、今、最近になって思い出したんだよ。まぁ最近って言っても一年前なんだけどね」

 遠くを懐かしむような、残恨とも残滓とも取れる微妙な表情。だが、この時に祐一は明らかに言った。佐祐理に対して"人殺し"と。

「その人、大好きだった女の子なんだけど、その子は"あゆ"って名前で…。会って直ぐに仲が良くなったんだけど、俺の所為で死んじゃったんだ。それも俺の目の前で。その時のショックが大きかったのかな、半年程忘れられなくて、テレビで見たのを真似して、いつの間にやら包丁でざっくり…。ホント、こんな自殺ごっこだなんて、今時のガキでもやらねぇな。しかも死ねなかったと来てる」

 冗談っぽく祐一は言うも、それを聞いている佐祐理は余り芳しい表情ではない。自分を責められている、そんな感じがするからだろう。

「その馬鹿話しも回りでは、これって図工の宿題の時に出来たらしいんだけどね。俺はそれで納得してるから、だから今の俺の話は、出来れば佐祐理さんの心中だけにして、聞かなかった事にして欲しい。まぁ、コレ以上は親にも秋子さんにも迷惑を掛けたく無いって言うのもあるしね…」

 親を思う表情と、自分を戒める表情をを交互に浮かべると、流石に疲れたのか、ふぅと一拍おいてから、自らを整えると、話しを戻そうか、と続ける。

「その後、無責任にも自分を守る為に、って言うのも可笑しいけど、俺はの事をその子忘れちゃってね…。俺は…あゆを殺したにも関わらず、記憶を消した後も、性懲りもなくこの街には来てたんだけど、そこで出会ったんだよ、一人の女の子と…」

 どこか自分のことではないように、まるで他人事とばかりにふざけて見せる祐一の姿は、それこそ繰り人形の如く哀れな姿にしか見えない、と佐祐理は思った。そして自分もそれと同じだと知ると、彼女の口元には自然と自虐的な笑みが漏れる。

「…舞」

 呟くように口を動かす佐祐理に、祐一は頷く。

「ホント、酷い話しだろ?無意識でその子の事を"あゆ"の代りにでもしてたんだろうな。そして更に酷い事に、俺はまた殺すことになるんだ。でも、舞と出会ってからの俺は幸せだったんだろうな」

 過去を懐かしむ、その顔は苦痛に歪む。

「もう、二度とヒトを好きにならないって、記憶を捨ててまで、あゆを捨ててまで想った筈なのに、俺は舞を好きになるんだ。好きになんかなっちゃいけないのに…ね。それでも結局、俺はまた裏切るんだ。前と同じ様に、何も知らない振りをして、彼女の声を無視したんだ…。彼女を"殺したんだよ"」

 苦しそうな表情のままで、祐一は蒼白の、自分達以外は誰もいない園内に視線を向ける。

「だからなんだよ。舞があんな風になっちゃったのは。佐祐理さんは知ってるだろ、あの不器用で、今直ぐにでも壊れてしまいそうな舞を…。俺が殺しちゃってからの、成長の止まってしまったた舞の姿を…」

 公園に一陣の風が吹く。それは二人には似合わない、暖かな春の兆しに色づいた風。だが、風も止むと祐一は再び口を開く。

「でも、それは俺の所為なんだ。だから、舞は一人で闘う派目になったんだよ、しかも自分自身とね」

 この時の祐一に浮かんだのは、自らの刃で傷付いた舞の姿だった。その彼女を見た時、彼女を抱き締めた時に、彼女自身の哀しみを感じてしまってから、祐一は心に決めた。どんなことをしても、彼女を守る、と。彼女が生きることに怯えぬように、彼女が一人で生きて行けるように、と。それは誰とも言う筈のない、決意だった。

「俺、思うんだけどね、もしも佐祐理さんが舞に会っていてくれなかったらって、そう思うとゾッとするんだ」

 再び吹いた風のせいで祐一は目を閉じる。その仕草は今を誤魔化す子供の姿が重なる。

「でも、私と舞が会って、本当に良かったんでしょうか?」

 佐祐理が、不意にそんな疑問を祐一にぶつけるが、祐一はそれに丁寧に答えた。

「あぁ、もし佐祐理さんがいなかったら、俺は舞と会う事もなかったかもしれない。償わなくちゃいけないことも、思い出さなかったかもしれない。だからその点では佐祐理さんに感謝してるし、一弥君には悪いけど、死んでて貰って良かったと思う。だってさ、佐祐理さん。もしも、一弥君が生きてたら、きっと舞に気が付くこともなかっただろうしね。そうだろ?」

 そこまで言うと、祐一は静かに瞼を開ける。すると、そこには射るような佐祐理の視線があった。

「そう、ですね」

 だがそれでも二人の瞳の色は同じで、見詰めるモノは同じ。
 二人の視線の先には、舞。

「…だから、今言って置くよ。俺と再会した時の舞はボロボロだったけど、それでも、生きてた。もし、佐祐理さんと舞が会っていなかったら、俺は舞に会えなかった。それに、佐祐理さんのお蔭で舞は生きていてくれたんだよ。だから佐祐理さん、ありがとう」
「…そんなことはありませんよ。私が自分の為にやっていることですから。でもその気持ちは受け取って置きます」
「うん、そうしてくれると嬉しいよ…」

 それは祐一のココロからの気持ちだった。そして、今や舞にしか向けられない気持ちが、ホンの少しだけ同類の佐祐理に向けられるが、それも一瞬で消え、再び祐一は舞を見詰める。

「でも、俺が舞に残した傷痕は大きかったんだ。そうだろ?再び出会って、でも、気が付いたら俺はまた舞を殺そうとしてたんだからな。だからなのかな、舞の事は世界で一番大切だし、大好きなんだけど、俺はどこかで舞を本気で愛せてないんだと思う。きっと、あゆと同じ様に、俺が殺しちゃうだろうから、かな?結局、自分に怯えてるんだよ。また、大切な人を殺しやしないか、ってね…。アハハ…これじゃあ佐祐理さんと同じだな…」

 そう言って、独り、哀しく笑ってみせる。それは祐一の残滓。佐祐理は見詰める。それが正しいのか、間違っているのかを。

「…それには同感ですね」

 そして佐祐理も同じに、視線を祐一に向ける。佐祐理にはその気持ちが痛いくらいに判った。それもその筈、まるで正面に鏡があるかのように、二人は同じなのだから。

「それで佐祐理さんに御願いがあるんだ。佐祐理さんが、絶対に舞を守ると言ってくれるなら、いつしか俺が再び舞を苦しめるような時が来るなら、その時に俺の事を止めて欲しい。なんなら殺したって構わない。その変わりに、俺は佐祐理さんが舞を苦しめるような事をした時に…」

 祐一は一息吐いてから空を見詰める。少しの時間が流れる。目に止まるのは、風に乗ってきた雲がゆっくりと広がる光景。魅入られるように、落ち着く風景だった。

 優しい時間の流れの後、祐一は佐祐理を見詰める。真摯に、そして懇願するかのように。

「佐祐理さん、俺が貴方の事を殺して上げるから…。俺になら安心して死んでくれるでしょ?」

 内容的には恐ろしいことを、平然と、そして無邪気に尋ねる祐一。それに対して佐祐理は凍り付くような微笑で持って、そんなことは絶対にしませんけどね、と、頷く。

「…祐一さんって、以外に危ない人ですね。平気で殺すだなんて…」
「だったら、それを言わせた佐祐理さんこそ狂ってるって」
「そうですか?」
「そうですよ」

 そう言って、祐一は肩を竦める。
 
 
 
 

「舞の幸せを守る。その為ならどんな犠牲も厭わない。その犠牲が佐祐理さんでも、俺でも、だ…」
 

「…私は舞を、彼女が幸せになってくれるなら、それだけで良いんです」
 

 そこにはあるのは、慈愛の二人。
 

「……それは俺も同じです、佐祐理さん」
 

「そうですね。きっと、舞を守る為だけに、私達はいるんですから」
 

「その為の、佐祐理さんであり、俺なんだから…」
 

 舞だけに向けられるのは、慈愛。
 
 
 
 

「しかし本当に、佐祐理さんは自己犠牲が過ぎるなぁ〜、弟さんも心配してるよ。『お姉ちゃん無理しないで』ってさ」
「ふふ、それだって祐一さん程じゃありませんよ。それに祐一さんだって同じかもしれませんよ」

 佐祐理はちらっと祐一に向くと言った。祐一もそんな佐祐理に向かい合うと、告げる。

「まさか、俺のソレは舞の為だけに発揮するんだからそうでもないさ」
「それなら私も同じですよ。もう一弥は死んでいるんですから…」
「そうか、そうだな…」

 祐一は肩を竦めて、佐祐理は口に手を当てて、そんな風に二人して笑う。
 空っぽの笑いを上げて、二人は笑う。

「「舞を守る」」

 その為だけに。
 
 

 この日、二人の約束…
 それが狂気の始まり…
 そして…
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「祐一さん、御願いですから舞の敵にはならないで下さいね」
 

「…佐祐理こそ」
 

「それはありませんよ。私は舞の為に生きてるんですから」
 

「だったら大丈夫さ。俺も同じだよ」
 

「なら、これから先、この約束が守られるならば、祐一さん。私達は良い家族になれますよ。きっと」
 

「そうですね。佐祐理さん…」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 二人には帰る庭が出来た。
 守るべき彼らの庭。
 そこは温床なのか、まだ判らないが、そこに舞がいるのなら、二人には充分だった。

「そろそろ帰りましょうか…」
「はい、きっと舞が待ってますよ」

 そして二人は、いつも通りの現実に、自分達に帰る。
 舞の為だけに、帰る。

 春の匂いを感じさせる一陣の風が、二人の前をを横切って行く。
 それは、始まりの風。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  (つづく)
 
 



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