透明な時間
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 私のココロの渇きは、癒されるのだろうか

 私のネガイは、何処にあるのだろうか

 私のネガイは、何処に行くのだろうか

 私にはそれがわからない

 わからないから、私は何処にも行けない

 何処にも、行けない
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 その日、佐祐理はいつもより早く目を覚ました。ベッドの脇に置いてある時計を見ると6時。いつも起きている時間なら、カーテンの隙間から、陽光が漏れて来るのだが、外はまだ暗く、まだ誰も起きる時間ではなかった。それは無意識の出来事ではなく、仕事の為に起きたのだから、当然と言えば当然だった。
 佐祐理は寝起きはそんなに悪くない方で、起きては直ぐに目は冴えるが、部屋の空気が寒さで澄み渡っているのを知ると、少しだけ憂鬱になる。やはり北国の冬の寒さは、家屋であっても凍りつく程で、雨戸越し結露した水滴が無数に凍り付いている。何気に佐祐理は、それにはぁーと白い息を吐く。そんな息も、結露した水滴に飲まれるように凍りついた。
 今日はいつになく冷えると思うが、いつまでもベッドの中で丸くなっている訳にもいかず、朝の支度の為に起き上がってベットから出ると、フローリングの床に裸足の脚を置く。痺れるような床の冷たさは目が冴える程だが、別に苦痛でもなく、寧ろ心地良かった。
 寝巻きを脱いだその一瞬、寒さに震えるも、なるべく急いで着替え終えると、室内暖房を点けに佐祐理は部屋を出る。階段を降りて、洗面台の側の壁脇にある室内暖房のスイッチを点けると、そのまま佐祐理は洗面台の蛇口から水を出し手酌で水を溜めて顔を洗う。洗面台の前には当然鏡が置いてあるのだがだか、彼女はなるべく鏡を見ないようにしていた。
 洗面台の前に立つ時は殆どと言って言い程に、佐祐理は蛇口や、排水溝に流れ落ちる水から目を離さずに、洗面台を使っていたのだが、ちょっとした隙に鏡の中にいる自分の視線が絡んでしまう。数秒の間、自らと向かい合うのだが、佐祐理は自分自身に酷い苛立ちを感じる。そんな自分から目を逸らしたい半面、振り向きたい自分がいることも知るが、再び鏡から視線をずらす。
 濡れた手で手櫛を掴んで、髪の毛を掻き揚げると、腰まで伸びた長い髪の中腹辺りで指が絡まる。髪の毛の絡まるちょっとした痛みに佐祐理は顔を歪めるが、その痛みが自分の場所を教えてくれるのだと、佐祐理は思い、安堵する。
 洗面台から出ると佐祐理は台所へ向かう。既にそこには穂のかな暖が広がっていた。冷蔵庫を開けて、野菜ジュースをコップに一杯に並々と注ぐと、一気に飲み干すして一息吐いてから、テーブルに腰を置く。ふいと視線を誰もいないリビングに向ける。静かなそこは、彼女にとって、どこか落ちつかせるモノがあった。何故落ちつくのか、そしてそれが何であるのかを、佐祐理は薄々気が付いているのだが、無意識の内にそれを忘れようと、朝食の支度を始める。
 昨夜の内に御米を仕込んでおいた炊飯器が、炊きあがったことを知らせる電子音を鳴らす。佐祐理はその音に振り向くと、それに付属して付いているデジタルのタイマーを見る。すると『6:30』と緑色の光りで点滅していた。それを見て、今日が燃えるゴミの日だったのを思い出しすと、佐祐理は慌てて捨てるゴミの用意を始める。途中、台所の生ゴミを袋に入れる前に、一度スーパーのビーニルに一回入れてから移す。汚水が袋から漏れるの防ぐ為の二重の処理するが、わざわざそれをするのは、やはり近所の体面だろうか。
 ゴミの準備が出来るとそれを玄関に持って行く。しかし外は寒い為、厚手のカーディガンを取りに部屋に戻った。
 玄関のドアを開ける。冬の朝は遅く7時も前だとまだまだ薄暗い。街灯の明かりが陽光に薄れる程度だ。それは佐祐理にとって、なんら変わり栄えのない、日常的な朝の筈だったが、その日は少し違った。ゴミを捨てに行く途中。歩道の脇、電柱の脚に置かれたダンボール。そこには小さく蠢くモノがあった。しかし手には大きな荷物を持っていた為に、今はそれに構うことなく、佐祐理は指定のゴミ収集所へと向かう。
 ゴミを捨て、家に戻る途中。再びそれは視界に入って来た。気になった以上、佐祐理はそれを覗くと、そこには"案の定"なモノがいた。
 "案の定"とは、ダンボールの中では凍え死ぬ寸前の、生まれたばかりのだと思う子猫だった。子猫は3枚程のタオルに包まれていたのだが寒さに震えている。それは、捨てたであろう飼い主の半端な良心の為に、今だ死に切れず、寒さに凍えている姿だった。それが、佐祐理の視界に写る。数秒の間、佐祐理は子猫を凝視してたが、その内に、明らかに見て取れる程の嫌悪の表情を浮かべる。 結局、佐祐理はそのまま猫の入った箱を抱えるのだが、それを抱えて向かったのは、家とは逆の方向だった。
 猫は助からない、佐祐理はそう思っていた。それでも、もし舞が"案の定"を見つけたならば、確実に拾って来ると言うことも知っていた。
 もし、舞が子猫を連れて来て、子猫が助かればそれで良いのだが、それは有り得ない。素人目に見ても、確実に子猫は死ぬだろう。そして、それが死んだ時に、舞の哀しみの表情を自分は見なければならないと思うと、佐祐理はゾッとする。だからこそ、自分が見つけれて良かったと思った。佐祐理はそれを思って、先程の嫌悪から打って変って安堵の息を吐く。
 そのまま、子猫の入ったダンボールを抱えて歩くこと数分、細い路地の先に薄暗い空き地が見えて来る。
 佐祐理がそこに向かった理由は一つ。舞の通勤に使う道からその猫を遠ざけることだった。その為に、舞の目の付かない所を見繕っていたのだ。佐祐理から見て、舞が子猫を見つける可能性の一番低い場所。そこに子猫の入ったダンボールを再び一度捨て直す。結局、子猫に対する情を彼女は持ち合わせることはなかった。
 途中、佐祐理は幸運にも近所の誰とも擦れ違わなくて済んだ。猫を捨てに行く姿を、もしも見られていたりしたら、そこれそ一大事だったろうが、その心配はなかった。
 再び、拾って来たダンボールを捨てる直すと、佐祐理はそれに振り向きもしないで空き地を去る。その出口で、人が聞けば、それは悲壮な子猫の鳴き声が聞こえて来るのだが、佐祐理にとって、それは既になかったことになろうとしていた。子猫を捨てた時点。それで佐祐理は完結する。子猫の鳴き声など、彼女の耳には届かなかった。
 その時、子猫が鳴いている時に、佐祐理が思っていたのは、家に戻って手を洗うことだった。なるべくして舞に、猫の匂いを気付かれないように、と。
 家に帰ると佐祐理は直ぐに洗面台に行って、着いてしまった獣臭い嫌な匂いを落そうと、ごしごしと手が擦り切れるくらいに洗う。猫の匂いが完全に消えてなくなった時、佐祐理の中での今朝の出来事は、完全になかった事になった。
 佐祐理が洗面所から出た時、2階から降りて来る足音が聞えて来る。すると眠そうな顔をした舞が起きて来た。

「あ、舞、おはよう」
「…おはよう」

 普段通りの挨拶を交わす二人。これもまた、なんら変わりのない佐祐理の望んだ大切な日常、約束された日常だった。
 食卓には普通の朝食のメニューが並んでいた。ご飯と味噌汁、目玉焼きに千切りのキャベツ。
 舞は着替えて支度を終えるとリビングに入って来る。その直ぐ後に、祐一も2階も降りて来て三人がテーブルに集まる。テーブルには出来上がった朝食が置かれている。佐祐理は炊き上がって間もないご飯を膳いながら、自分が家族全員といた頃、その時に自分は、自分の家族達は一体どんな会話をしていたのだろうか、と考えていた。

「佐祐理はちょっと今日はお仕事で家を空けるんですけど、裕一さん。大丈夫ですか?」
「うん、一昨日に言ってた話の事でしょ。大丈夫。後のことは俺がやっときますから良いですよ」

 佐祐理が聞いて、祐一が答える。その隣では舞がご飯を丁寧に咀嚼しながら、二人の会話を、それほど興味も向けずに聞いていた。

「本当にすいません」
「いいって。それに社会人の佐祐理さんと違って、俺は暇な大学生なんだからそんなに気にしないでよ」
「…はい、そうします」

 祐一の姿を一瞬だけ一弥に重ねて見る。もし、弟が生きていたらこんな風に姉を助けてくれたのだろうか、と佐祐理は考える。
 しかしそれは一瞬だけで直ぐに彼女の頭の片隅に捨てられる。所詮は無駄な仮定だと知って。

「あ、そうだ。舞は何か欲しい物はある?」

 気を取り直して佐祐理が聞くと、舞は別に何もないと言う。らしいと言えばそれまでだが、舞の言葉にちょっとだけ佐祐理は肩を落すと、次に、祐一にも同じ事を聞く。

「うん、じゃああったらで良いんだけど…」

 と、祐一。今日、佐祐理の向かう目的の場所は彼等が住んでいる街よりも、もっと大きな都市にあった。だから、ここにはないモノも、街に出ればそれなりに揃えていることからの配慮が、今の佐祐理の言葉だった。それに応えて、祐一は佐祐理に欲しい物を告げる。そこらにあった紙に欲しいモノの名前を走り書きすると、それを渡す。受け取って佐祐理も祐一に、はい、と答えた。
 そうこうしている間に、緩やかな朝の時間も、ゆっくりと次ぎの時間へと動き始める。

「いってきます」
「いってらっしゃい」
「おう、気をつけて行けよ」

 玄関から舞が出て行く。祐一も佐祐理も二人ともそれを見送るとそれぞれに用意に戻る。
 舞の後姿を見送る佐祐理の脳裏に、ちらと今朝のことが思い出されて心配するが、何時も通りに、舞が向かった方向を見やると、それが杞憂に終わりそうなのを知って、佐祐理は自分のことに思考を移す。これから自分は仕事があるのだと。

「祐一さん、後片付けの方、御願いしますね」
「大丈夫。任しといて」

 佐祐理は出掛ける支度に、祐一は後片付けに。 
 朝食の後片付けを祐一に頼むと、そのまま佐祐理は化粧をするために部屋へ戻った。部屋に入って佐祐理は、選ぶ時間もお座成りに、これと言って派手過ぎず、また、地味過ぎず、いかにもな仕事用のスーツに着替えると、化粧台の前に座る。
 鏡の中、自分の目の前には、もう一人の自分がまるで見下ろすかのように座っている。苦笑しているようにも見えるのが、紛れもない自分なのだと、改めて知るのが、どこ馬鹿らしく思える。そんなモノだと、納得しているのか。
 佐祐理は余り化粧と言う化粧をしなかった。それは舞も同じで、二人とも化粧をしなくとも充分に美人であるのだが、化粧をしない理由が根本的に違っていた。舞が化粧をしない理由が、化粧品の細かい使い方知らないと言うのに対して、佐祐理が化粧を拒む理由は別にあった。佐祐理は鏡が好きじゃなかった。実際には、この答えの意味する所が微妙に違うのだが、それを厳密に言えば、今朝の事も含めて、佐祐理が好きではないのは、鏡ではなく、その鏡の中に写る自分が嫌いだった。
 佐祐理はさっと終わらせようと、ほんのりと甘く匂い立つ化粧水を軽く張り、薄紅色の口紅を乾燥し、冷風で少しだけ荒れた唇に重ねると、それだけで佐祐理の化粧は終わる。
 時計を見ると9時。そろそろ電車の時間に併せて、駅に歩いて行く時間の余裕がなくなる頃だったので佐祐理はコートを羽織ると、少し急いで玄関に向かう。靴箱からパンプス出して、それを履くと、玄関の扉を開ける。

「じゃあ祐一さん。行ってきます」
「あ、ちょっと待って。佐祐理さん」

 佐祐理の肩越しに祐一が声を掛ける。

「はい?」
「駅まで送るよ」

 そう言って、祐一は車のカギを佐祐理見せる。

「いいえ、歩いて行く位の時間はまだありますから、今日は歩いて行きます」

 だが、佐祐理は祐一の言葉に、やんわりと断りの意志でもって告げる。

「いいの?」
「はい、今朝は歩いて行こうって決めていたので」

 別にそこまで決めていたこともないのだが、佐祐理がそう言うのであればと、祐一は頷くしかなかった。
 佐祐理が歩きたかった理由はそれ程大仰なモノでもないのだが、強いて言えば、佐祐理は季節の中で冬が一番好きだった。冬の冷厳さは見を引き締めるから嫌いじゃないと、その想いだけだったが、元来、舞意外に対する自分の行動、もしくは舞意外の他人に、余り関心を持たない佐祐理にとっては充分な理由だった。
 祐一に関しては、その間と言う所だろうか。

「わかった。滑って転ばないように気をつけて行ってね」
「祐一さん。そんなに心配しなくたって大丈夫ですよ」
「そう?佐祐理さんって結構おっちょこちょいだから心配でさ」
「もう、祐一さんったら!」

 ちょっとだけ睨むように祐一を見ると、ゴメンと2回繰り返して笑いながら、祐一。そんな軽い冗談を交えてから玄関から出ると、厳冬の、引き締り朝の匂いに満ちた風に身を晒す。その感触が佐祐理は嫌いじゃなかった。背筋をピンと伸ばし、少し早歩きで風を切りながら駅へと向かう。切れるように頬を霞める、風が心地良かった。
 ここ数日の佐祐理の仕事は、そこそこ売れたB級洋画の映画監督についてのモノで、本国で発行された彼のインタヴューが掲載された雑誌の、日本の洋画ファンに向けた翻訳だった。映画のことはそれ程知らないのだが、祐一の簡単な映画のアドバイス等もあって、それは意外と簡単に終わったのだが、今は完成したその原稿を、ここから列車に乗って30分、少しだけ離れた大きな街の出版社に持って行くのが今日の彼女の仕事だった。
 暫く歩いている内に、駅に着くと、朝のホームは喧騒に包まれていた。それは、ラッシュアワーから少しだけ遅い時間であっても、まだまだプラットホームは人に溢れていることを指している。
 ホームに入るも、列車が到着するまでの、10分間程度の待ち時間があったが、佐祐理は構内のベンチに座って目の前に流れる風景を眺めていた。
 対向の列車の到着を告げるアナウンスの後、直ぐに対向ホームに列車が入って来る。3両編成の列車からは、細々と人が降りて来る。朝なのに、一日に疲れたような表情をした人もいれば、楽しそうに会話をしている二人組もいる。色々な人が、様々な表情をしていた。それはサラリーマンかもしれないし、学生かもしれない。そしてその喧騒のひとコマに自分もいるのだと思うと、佐祐理は少しだけ高揚感を覚える。
 流れるような一枚絵を見ている内に、いつの間にか佐祐理のいるホームにも列車が入って来た。車内からは降り合わせるサラリーマン風の男が、冬で結露防止のために手動となっているドアを面倒臭そうに開けると、その後ろからも十数人と人が降りて来る。降り合わせの乗客らがいなくなってから、佐祐理も車内に足を進める。ドアも締まり、ふと車窓から後ろを覗くと、くたびれた背中が入れ替わり立ち変わりに足を止めて、売店で新聞を買ったり、栄養ドリンクを買って行く姿が見える。
 ゆっくりと列車はその光景から離れて行く。そこには確かに時間が流れていた。
 朝の、混んだ列車のドア越しに見える冬の空は、青く澄んでいた。

 舞も佐祐理も出て行くと、一人祐一だけが残った家の中は、奇妙な程静かになる。大学が休みの日であっても、仕事が仕事なだけに、佐祐理はいつも家にいたし、祐一が家に一人でいることは滅多になかった。一人、家にいることに対し、祐一は少し寂しさを覚える。だが、佐祐理はいつも家にいることを思い出すと、祐一は、佐祐理が一人で家にいる時、どんなことを考えるのだろうかと、寂しくはないのかと、朝のワイドショーを興味なさ気に見ながら、そんなことを祐一は思った。
 テレビに飽きて、する事もないと思うと、祐一は偶には掃除でもしようと立ち上がる。
 最初に、頼まれていた台所の後片付けを終えると、次ぎには洗濯をするかと、水気を含んだ腕をそのままに台所を出る。みだれ箱の中には、三人の脱いだ衣服が入っていた。祐一はそれを手に取ると洗濯機の中に放り込む。実際、その中には佐祐理と舞の女物の下着も入っているのだが、馴れと言うのべきか、祐一は別段気にした様子もない。無論それに、佐祐理も舞も気にしないのだが。洗濯も最初は個別にやっていたのだが、水道代などが意外にかさんだりと、経済的な側面でそれは崩れる。当初は恥ずかしさも然る事ながら、周囲の目も気になっていたのだが、今ではそれもなくなったようだ。
 だが、祐一も含めての同居を始めて最初の3ヶ月は、近所でもやたらと評判になった。それもそうだ、同性同士、それを越えても男女二人の同棲ならまだしも、最初は女性二人の同棲だった筈が、時を置いてから男が一緒に住むと聞けば、周りがそれを知れば燻かしむ(いぶかしむ)のも仕方ないだろう。何かと物騒な世の中、男一人に女二人と聞けば、それは当然だった。無論、それには興味本意と言ったモノもあるのだろうが。だが、性格の良さと言うか、祐一も佐祐理もそう言ったモノに対して卑屈にならないで済む要素を持っていたり、また周囲にそれを認めさせるように努力した結果として、周りも自然と彼等の事を受け入れるようになった。 実質は、佐祐理と祐一の二人がコミュニケーションを取るのっであって、それに舞を一切出さなかったのだが。
 裏返ったシャツやズボンを戻してたりと、男性にしては珍しく、丁寧な物腰で一通りの事を終え、洗濯漕の中に洗剤を放り込み、蓋を閉じてスイッチを押す。ジャーと水の出る音を聞きながら、祐一は台所へと戻った。

 駅から歩いて10数分の場所が今日、この街に佐祐理が来た目的だった。
 白い細長の建物に入る。そこは、雑誌編集の下請けを主な仕事としている雑居ビルで、佐祐理はそこの契約社員だった。ビルに入ってからの佐祐理には一切の無駄はない。佐祐理の仕事を担当している編集者に会って原稿を渡す。それだけで終わるのだが、編集者は、喫茶店にでも行って仕事の話をしよう言うのだが、佐祐理はそれも断って、その場で次回の仕事の内容を聞く。
 その担当者、男性なのだが佐祐理に明ら様なアプローチを掛けて来るのだが、佐祐理は気付いているのかいないのか、その類の会話はするりするりと避けて、余り無駄な時間が過ぎる事なく、仕事の話しも終える。
 その後、担当者の男性に、昼を理由に再び誘われるも、それを丁寧に断ると、佐祐理はビルからさっと出て行く。
 佐祐理には彼に構っている暇などなかった。

 祐一は掃除を始める。洗濯物も干し終えると、一切の暇になると思って始めたのだ。普段、掃除は佐祐理の仕事だった。佐祐理の生業が、普段から家に篭っての仕事なだけに、掃除などの雑務一般を任されるのは当然とも言えるのだが、今日は佐祐理も出掛け、家にいるのは祐一ただ一人だった。
 祐一は、ほうきとはたきを両手に、リビング、茶の間、廊下に階段と、それらのゴミを全て玄関に集める。それは相当安直なのだが、いつも掃除をしているのが佐祐理なだけに、祐一が少し誇りを落した程度でも、それなりに奇麗になる。
 玄関に集められた塵を、ほうきで外に放る。外に出ると快晴で、家の前の長い坂には、珍しく暖かい陽射しに、凍った雪が融けたのか、雪融けの細い河が流れる。勿論、薄暗い室内から一転して、外の明るさ出たので、一瞬目が眩むのだが、その心地良さに祐一は、雪に濡れていない場所を見繕って、玄関の脇に腰を下ろし、少しの間休んでいた。
 箒も弄びながら、祐一は、今からでもバイトでも入ってくれればと思って空を見上げるが、空の余りの雄大さに、偶には暇過ぎるのも悪くはないかと考え直す。
 小休止を終えると再び家に戻って掃除を再会する。埃を掃った床に雑巾を掛ける。この時の祐一は、一心不乱と言っても良かったかもしれない。何も考えずに、ひたすらに掃除をしていた。それは、考える事への無意識の逃避だったのかもしれない。

 佐祐理はビルから出ると、次ぎに向かう場所へと足を向けた。その行き先は祐一達にも告げていない。そこは病院だった。
 佐祐理の父の知り合いが経営している病院。
 受付に保険証を提出してから佐祐理は内科の待合室にある、黒いビニール張りの長椅子に座って自分の名前を呼ばれるのを待っていた。
 時計を見ると、12時を回った頃で午前中の診察も殆ど終わり、待合室には佐祐理の他には誰もいなかった。そこで待つこと数分、佐祐理の受けた科の受付が「倉田さん」と名前を呼ぶ。「はい」と言って佐祐理は医師の待つ診察室へ、すぅと一礼してから入る。そこには丸椅子に白衣を着た、少し小太りで、優しそうな医師が座っていた。
 佐祐理と医師は、少しの間話しをするが、別段診察することもなく、再び一礼をすると佐祐理は診察室から出て行った。
 そこを出てから、長椅子に腰掛けて待つこと数分。再び呼び出されると、今度は白い薬袋を貰う。言われた金額を払うと、受付の女性は「お大事に」と言うが、佐祐理はその声を聞くと、まるでそこから逃げるようにして、外へ出て行った。
 病院から出て歩き始めた途端に、頬に冷たいものが走る。

「雪…?」

 それは雪だった。佐祐理は呟いて空を見上げる。どこからか流れて来たのだろうか、晴れた空に降る雪は、どこか奇妙で矛盾している。晴れた水色の空に、真綿のような白い雪。それを手の平で受け止めると、佐祐理は再び天を仰いだ。細々と落ちて来る雪は、空に捨てられた子供のようで、自分も捨てられるのではないかと、そんな不安に駆られると溜息を吐いた。
 その日、彼女が処方して貰ったのは睡眠薬だった。実際にそれは、個人で買うことは出来なくとも、医師、それも内科に行くと思ったよりも簡単に手に入る。
 同居を始めてから2年目、その頃からいつしか眠ることが難しくなって、佐祐理は睡眠薬に手を出した。最近はまた、薬の効果が薄れてきたように思う。以前医師にそれを告げると、簡単に少し強い睡眠薬をくれた。再び頼めば、更に強い薬をくれるのではないかと思う。
 晴れた空の下、小雪の舞う歩道を、背筋をピンと伸ばして歩く。適当に歩いて直ぐに、駅は見えて来る。途中、信号機で待っている時、少し上気した頬に、再び雪の粉が舞って冷気を誘う。けれど、雪は止んでいた。今のが最後の一粒だったのかもしれない。きっと積る前に止んでしまったのだろう。
 駅の構内に入る前。佐祐理は駅ビルで、祐一に頼まれたモノを探す。それは実際に自分達の街でも買える程度の雑誌だったが、暇潰しに佐祐理はそれを探した。それでも時間は余って、40分程の列車の待ち時間を、佐祐理は駅前の喫茶店で過ごすことにした。 入って直ぐにアルバイトらしいウェイトレスが注文を取りに来るが、メニューも見ない佐祐理はウェイトレスの、適当に進められた、今日のお勧めのそれに頷く。その待ち時間も僅かに、注文したモノが直ぐに来るのだが、紅茶を呑んだ以外、佐祐理はそれに手を付ける事もせず、時間が来ると同じに店を出る。
 喫茶店に入っても佐祐理は何もしないでいた。だが、それ普通になっている。家でもない時間、周りに知っている人の気配を感じずに、一人でいられる瞬間だった。
 本当に何も考えないで茶を啜る。
 それが、安心した時間だった。
 
 

 3時も回った頃、余り良い手際と言えい掃除も殆ど終え、掃除に夢中で、昼を採るのを忘れていたのか、お腹が鳴る。多少は疲れていたが、背に腹は変えられず、遅い昼を採ろうと思い立ち台所に立った時だった。玄関に物音がした。
 思ったより早めに佐祐理が帰って来たのだ。もっと遅くなると思っていた祐一はそれにちょっと驚いた。

「ただいま〜」
「おかえり佐祐理さん。早かったね。買い物はしなかったの?」

 祐一は点けたばかりのコンロの火を落すと、佐祐理のいる玄関に向かうと、声を掛ける。

「別に欲しい物なんてありませんでしたから…。あ、それと頼まれもの…はい」

 そう言ってバッグの中から茶色い紙袋を祐一に差し出す。「ありがとう」と祐一は返すと佐祐理からそれを受け取る。佐祐理のもう片方の手には、夕飯の材料が入っているスーパーの袋がぶら下がっていた。それもついでに受け取ると祐一は言った。

「なんだ、電話をくれれば駅に迎えに行ったのに」
「別にそれほどって訳でもないから良いですよ」

 少しだけ場の悪そうな笑みで佐祐理が言うと「佐祐理さんもそんなに気を使わないで」と祐一。
 
「そうだ、佐祐理さん。俺これから昼なんだけど。一緒にお茶でもどう?」
「え、祐一さんもお昼がまだだったんですか?」
「え?佐祐理さんも?」

 佐祐理の答えに祐一が返すと、はい、と佐祐理が頷くので、二人で遅い昼食を取ることにした。
 二人して遅い昼。この時は、佐祐理も祐一も、他愛無い会話をして、普通の家族として何事もない穏やかに時間を過ごす。
 
 

「ただいま」
「お、早かったじゃないか」
「お帰りなさい。舞」

 それら少し時間が経ってから舞が帰って来る。佐祐理は言わなかったが、家が奇麗になっていたことに舞は酷く驚いた。

「奇麗になったけど…祐一?」
「…んだよ。悪いか?」

 心外だと言わんばかりに祐一。

「…そうは言ってない」
「偶には…ってヤツさ」
「ふーん」

 何処か納得していない舞に、祐一は「それなりに一生懸命にやったんだぞ」と言うと「そうですよ」と、それに頷く佐祐理。その表情は、どこか嬉しそうだった。
 
 
 
 

 今日の夕食は佐祐理が当番だったが、その日だけは三人で揃って準備する。
 幸せの日常。
 佐祐理の笑い声。
 舞の少しむくれた声。
 それをからかうような祐一の声。
 どこか空ろな、どこか愛しい三人の日常。

 淡々と過ぎて行く時間。
 受け止めることが当たり前で、それを深く考えないで、何事にも疑問を覚えないように。
 
 
 
 

 佐祐理は床に入る前に、白い錠剤を1杯の水と共に飲み込む。
 自らの日常を守る為の唯一の手段として。
 優しい時間に、縋る為に。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 私の最後の場所

 そこには、全てが溢れている

 流れて行く時間の残酷さも

 生きて行く為の優しさも

 輝きに満ちた園の片隅に

 ひっそりと眠るように…

 誰に知られることもなく
 
 

 でも、私達だけが見つけた
 
 

 私達の庭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  (つづく)
 
 



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