日常の果てにあるもの
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 私は、どうしてか懐かしかった

 こんな日を、知っていた

 どこか当たり前の、ふと気が付いた時の、そんな懐かしさ

 でも、気付いてはいけなかったのかもしれない

 私は、知ってしまった

 私は…

 私の…

 私の倖せは、どこですか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 佐祐理は仕事を終えて、坂を歩いていた。夕暮れ時。沈みかけの太陽が影を伸ばす。春も近付いたこの季節。暖かい陽射しが、雪深い北国の街を融かすように照らしていたせいもあって、耳を澄ますとあちらこちらから雪融け流れ、凍った氷雪の下を流れる雪融け水の音が聞こえてくる。冬の季節の終わりと共に、春の日は確実に近付いて来ているのが手に取るようにわかる。
 佐祐理は、この長く緩やかな蛇行の続く坂の上にある、自分達の家の方を見る。駅からここまででも、随分歩いたが、帰るべき場所はまだ遠くにある。歩き慣れたと言っても、もう少し歩かないといけないと思うと、やはり嫌気がさす。思うや否や、体に汗が蒸れる気色の悪さが走るがそれも紛らわそうと歩調を速めるが、朝は寒かったのでと、上着を何枚か重ねていたこともあり、少しだけ汗ばんだ体は不快感を与える。
 早く帰って休みたいと思う。やはりこの坂は長過ぎると、佐祐理は思った。

 祐一は、朝に干した洗濯物も仕舞い終り、何気無く、ベランダから広がる街を眺めていた。彼は、長い坂の上、小高い丘の上に建つ家のベランダから見る光景が好きだった。この家の利点はこれだけかもしれないと思える程、この場所から見える景色を愛していた。
 大学へ通った毎日に歩いた、長い坂をベランダから見下ろすと、下の方から見知った人影が見える。佐祐理だった。
 長い坂を、登ってくる彼女の姿は、何かを思わせるのだが、それが何だったか、祐一には判らなかった。
 ふいに、お茶の準備でもして佐祐理を向かえたら喜ぶかと思って、祐一は部屋に戻る。誰もいなくなったベランダは、夕日が落ちるのを待っていた。
 洗濯物が入った籠を抱えて階段を下る。トントンと乾いた音が響く。
 お茶の準備でも始めるかと、洗濯物を浴室に置いてから、祐一はリビングへと向かう。
 丁度準備を始めた時に、玄関から物音がした。

「ただいまー」

 声を掛けて佐祐理は玄関のドアを開ける。がらんとしている玄関は、佐祐理に答える術を持つはずもなく、答えることはない。ただ、何かを感じさせるモノがあった。色が、終わりを彩しているような、そんな匂いがする。気のせいではないと、佐祐理は知っている。

「おかえり」

 リビングの方から祐一の声がする。佐祐理にとっての家族。大切な家族が終わりの中にいることに、佐祐理は返す言葉を詰まらせる。今日は、今日だけは祐一に話しがある、佐祐理はそう思った。
 佐祐理は玄関から上がると、祐一がいるリビングへと向かう。一歩くごとに、木目の廊下が軋む音がする。別に古い家というわけでもないが、何時からか、聞えていた歪んだ音。佐祐理には、それが終わりの音に聞えた。
 
 

 二人とも何故かは、判らない。
 だが同じように、感じていた。
 絶対的な何か。
 それは3人が共に暮らし始めた頃から、決められているような、そんな感触がして、佐祐理は、祐一は、どこかしら安心感を感じている。
 ホンの数日前から、この家には、終わりの匂いが漂っていた。
 何故かは、判らない。
 ただ、新しい季節がそうさせるのか、それとも自分達が選んだのか。
 
 

「おかえり。佐祐理さん」
「はい。ただいま」
「ちょっと待ってて、もう直ぐ終わるから」

 振り向いて答える祐一に笑みを浮かべて、佐祐理は椅子に座る。
 ティーカップとお茶菓子をトレイに乗せて、祐一はいつも通りに声を掛けると、佐祐理の座っている正面の椅子に越し掛ける。

「仕事、どうでした?」

 はい、と行って良い匂いを立てるティーカップを佐祐理に手渡す。ありがとうと答えて佐祐理も一口付けてから、言う。

「いいえ、何時も通りですよ。でも、今回で一段落ついたので、当分はお休みにすることにしました」
「…そう、ですか」

 だが、次に繋がる言葉は二人にはなかった。
 静寂が広がる。
 家の中には、誰もいない。

「祐一さん」

 佐祐理が唐突に言った。誰もいない、リビング。佐祐理の声は幽霊のような、まるで今の自分達のように、存在感のないような声で。

「…はい?」
「佐祐理が、昔に自殺未遂をしたことがあるのは知ってますよね」

 唐突な佐祐理の言葉に動揺を感じるが、敢えて平静を盛って祐一が言う。

「それがどうしたんですか」

 下を向いていた佐祐理が、ゆっくりと祐一の方に向き直るが、それを避けるように祐一はトレイに乗っているお茶菓子の封を空ける。ぱりっと音が鳴る。不似合いな擬音は、逆に二人の距離を狭めるかのように、二人の存在を際立たせる。

「今思うと、佐祐理はあの時、確かに恐かったんだと思います」
「恐かったって、何が」

 佐祐理の言葉から逃げる様に、祐一は顔を伏して言う。

「カッターナイフの刃です。恐かったのは、金属が佐祐理の体の中にあった瞬間、でしょうか」

 独り言の酔うに佐祐理が言った。祐一は顔を上げずに、紅茶を一口喉に流してから尋ねる。

「じゃあ、どうして恐かったの?」

 佐祐理の声は微かに震えていた。だが、それは死に対する恐怖にではなく、生きていることに対する恐怖だった。

「体の中に、確かに感じる冷たい感触。確実に感じる異質感。初めて感じたんですよ。人は特別なんだって…」

 佐祐理はそこで、深い溜息を吐いて椅子の背にに重さを掛けると、ぎしと音を立てる。

「…血が抜けて行く時に、死ぬのかなって思うより先に、佐祐理はその異質感の方が恐かったんです。無機質な存在に取り憑かれた瞬間に、生きてるって、初めて実感したんですよ。その時から、きっと、半分死んでいたんですよ。今も、ホントウに生きている実感がないんです。佐祐理は、そう思うんですけど、祐一さんは、どうですか?」

 そこまで言うと、佐祐理はニッコリと笑って祐一に言葉を向けた。

「良く覚えてないないな。そんな昔のこと…」

 祐一がそう答えると、再び静寂が訪れる。
 この時、佐祐理は祐一を見詰めていたが、祐一は一切佐祐理の方を見ることはない。

「祐一さんは、佐祐理に、いえワタシに何か言いたいことがあるんじゃないですか?」
「どうして、そう思うの?」
「なんとなく、です」
「別に、そんな大した話はありませんよ…」
「そう」

 言葉を探していた。何か言わなければならないと、佐祐理はそんな不条理な思いに駆られながら。

「おかわり、いる?」

 祐一が席を立って、佐祐理に問う。佐祐理はそんな祐一の反応を見て、どこか遠くで溜息を吐いた。

「はい、御願いします」

 だが、その時間は終わりではない。寧ろ始まりだった。
 二杯目の紅茶を淹れながら、祐一が唐突に言った。
 誰もいない、リビング。祐一の声が飲まれるような、深い場所で、まるで今の自分達のように、存在感のないような声で。

「なんとなく、です。小さい頃にこんなことがあったんですけど、聞いてくれますか」
「はい」
「…なんでかな、今、急に思い出したんですけど…」
「なんですか?」

 佐祐理が尋ねると、祐一は語り始める。手には先ほど空けた菓子の袋。

「…犬、です。いや、狐だったかな?とにかく、狐を助けたことがあったんですよ。罠にかかって脚を怪我して、狐を、助けたんですよ」

 遠い目をして、祐一は続ける。

「どうして、あんなことをしたのか、今ではさっぱり判らないんです。それに、どうして今頃思い出したのかな…。本当に助けて上げたのか、それとも、助けたように思いたくて勝手な話を作っているのか…。なんとなく、なんとなくですけどね…」

 何故こんなことを話しているのか、それすらも判らずに、祐一は力無く笑う。

「…本当にあったんですか、それは夢だったんじゃないですか」

 詰まらない話を聞いているかのような表情で佐祐理は言った。新しく淹れた紅茶には、手を付けていない。

「夢、ですか。多分、そうでしょうね。なんだか変なことを言っちゃったみたいで。スイマセン」

 そこで祐一は、一旦、目を閉じる。
 結局、今、この家には、誰もいなかった。誰もいないのと同じだった。それを二人ともが知っているからこそ、祐一は言葉を紡ぐ。佐祐理と同じ想いで。

「ところで佐祐理さん。舞から離れたとして、一弥君のことは大丈夫なの?」

 作ったような笑いと共に、祐一は佐祐理に尋ねた。それは禁句。

「…その話、止めてくれませんか」

 佐祐理は勿論、祐一のソレに対して嫌な顔をする。その影には、憎悪が見え隠れし始めている。

「判りました。でも、俺は聞いておきたいと思ってたんですけどね」

 佐祐理の表情に対して、祐一は意に介せず続ける。無論、佐祐理の方が見ていない。

「大丈夫ですよ。佐祐理はあなたとは違いますから」

 佐祐理も祐一に対して調子を崩すことなく返す。なるべくにして、辛辣に、そして敵意を持ったそれで。

「良く言うよ」
「だったら、祐一さんはどうなんですか?その"あゆ"さんですけど…」

 すると佐祐理は、祐一に聞かれたことをそのままにして言った。その言葉に祐一は佐祐理の方を見る。色彩のない瞳を、佐祐理に向ける。

「…ダレです、その人」

 笑みが消えた祐一の答え。

「そう。なら良いんですよ。別に…」

 悲哀の篭った微笑みで、佐祐理は祐一から目を逸らす。
 カチャと、陶器のぶつかる音がする。ティーカップとソーサーが重なる音。

「ほんと、羨ましいですね。祐一さん、あなたが…」

 居心地の悪さを紅茶で流して、佐祐理は溜息交じりに続ける。

「俺の?どこが?」

 佐祐理の言葉に、祐一はティーカップを持った手を止めて、佐祐理を見る。佐祐理もまた、その視線を受け止めながら思う。どうしてこの人は、簡単に人を傷つけられるのだろうかと。

「だって、男の人ですもの。自由で、力で簡単に佐祐理を組み伏せるじゃないですか」

 カチャンと音をたてて、ソーサーごとテーブルの脇に寄せて佐祐理は言った。

「それを望んだのは佐祐理さんでしょ?」

 だが、祐一は佐祐理の言葉に興味なさげに答える。

「仕方無く、ですよ」
「自分が恐くなった?」

 ティーカップから少し口を離して祐一が優しい声色で言った。佐祐理は、その言葉に動きを止める。一瞬、声がかすれそうになるが、それを堪えて、なんとか声を出す。

「…あなたが、恐かったんですよ」
「自分を見たから?俺に、自分を重ねたら怖くなった?」

 そう言って,祐一は唇を歪める。 

「……やっぱり、あなたのこと、殺しておけば良かったんでしょうか」

 伏して佐祐理は答える。

「無理でしょ、佐祐理さんじゃ…」

 なるべく佐祐理を直視し無いように、瞼を伏せる。

「どうしてそう言い切れるんですか?」
「だって、佐祐理さんは俺を愛してるんだからさ」

 佐祐理は絶句する。祐一の怖さに。祐一の表情に。そして、次に祐一が浮かべるのは嘲笑するような笑い。佐祐理は、居たたまれずに席を立ちそうになりながらも、なんとか祐一から顔を背けることしか出来なかった。だが、佐祐理はそれでも続ける。想っていることを、祐一に告げるために。

「そうですね、そうかもしれませんね。愛してるんだと思います。でも本当は、殺したいくらいに愛している、かもしれませんよ…」
「…それでも嬉しいよ」

 佐祐理が祐一に笑みを向けると、祐一もそれに答えるようにニコっと笑う。先程とは変わって、見た限りでは優しそうに。

「でも、祐一さんに抱かれるのは、もう、飽きました…」

 だから佐祐理は答える。偽りの笑みを、自分の中から消し去りたいと願いながら。

「なんです、昨日の夜も、俺の前に体を預けて、ですか?」

 けれど、祐一はそれすら許さない。何を今更、という顔で祐一は佐祐理を見下すように。

「でも、佐祐理を堕としたのは祐一さん。あなたじゃないですか…」
「快楽に身を委ね、逃げていることを誤魔化しながらも、かな?」
「それは祐一さんだけでしょ?ワタシは…」

 佐祐理は少しだけ詰まると、答えにならない答え方をする。消し去りたいと願う反面、祐一の温もりを失うことの畏れも抱えているから、佐祐理は言い切れなかった。佐祐理の横顔に影が差す。

「痛みを感じたいだけ?嘘でしょ。本当は恐いんだろ。無くなるのが、恐いんだろ?裏切られるのが怖いんでしょ」
「そう仕向けたのは、祐一さんです」

 佐祐理は力なく呟く。

「気付かせてあげたんだよ。暖かいだろ?ヒトは…死んだ人間と違ってさ」

 自分に言い聞かせるような、そんな言葉で祐一は言う。

「…そう言って誤魔化して、あゆさんの、そして舞の、二人の身代わりに私を使って?」
「言ったろ、舞以外になら俺は何物にもなるって。それに一弥の身代わりに俺を使ったじゃないか、佐祐理さんも」

 佐祐理の答えに、祐一は表情を緩めると嬉しそうに言った。

「そうでしたね」

 佐祐理も、そう言うと、笑みを浮かべるが、どこか苦痛を帯びた笑みだった。

「それにさ佐祐理さんだって悦んで舞の代りになってくれたじゃないか。どうだった?舞を独占できた気分にはなれたろ?俺を"抱いた"ことで、さ」

 それは非難ではなかった。

「祐一さん、どうして……」

 祐一の真意が掴みかねたのだろうか、佐祐理はどこか愕然とした面持ちでいる。

「俺の所為だって言いたいのかな?全部」

 どこを見ているのか、判らない笑みで。

「そうだろ?佐祐理さん?俺がお前を犯したのは紛れもないホントウじゃないか」

 その笑みは、佐祐理の琴線に触れる。現実感をなくしかけた、繰り返された言葉の中で、これだけは思っていた、大切ななにかが崩れる音が聞える。

「やめて下さい…」

 佐祐理の目の前には、祐一がいる。どうしようもないほど、暖かくて、でも、どうしようもないほどに憎いと想う、祐一がいる。

「それでも喜んでただろ?」
「止めて下さい」
「本当は嬉しかったんでしょ?」
「止めて下さい!」
「言って下さいよ、俺の所為…」
 
 

「そうよ!私のことも、舞のことも、あなたの所為よ!」」
 
 

 出来るだけ、佐祐理を、そして自分を卑しめようと続ける祐一の言葉を遮る様に、佐祐理が叫ぶ。

「全部、全部!あなたの所為じゃない!」

 振り絞るように声を荒げながら、苦しそうに。本当に、哀しそうに。

「ここを!私を狂わしたのはあなたよ!」

 そして辛そうに。
 祐一は、そんな佐祐理を見詰める、ココロからの笑みを浮かべる。偽りでない、それだけは確かな笑みがあった。

「だったら、最初からそう言えば良かったんだ…」

 そう言って、祐一は体を乗り出して手を伸ばすと、そっと佐祐理の頬を撫でる。

「最初から、そう言ってくれれば良かったんだよ…」

 慈愛、そう言っても良い程の微笑を浮かべる。
 佐祐理は祐一の表情を見て、息を呑む。祐一の瞳をみた時、佐祐理は"言わされたこと"に気が付いたが、既に遅かった。もう、後戻りは出来ない所まで来てしまったのだ。もう、崩壊の音は聞えてしまったのだから。

「……祐一はどうなんですか?あなたの本当は、何処にあるんですか?」

 絞るような声で、佐祐理は尋ねる。だが、祐一は苦笑いを浮べ、首を振る。

「もう…ないよ。きっと」

 諦め切ったような、そんな声で祐一は言った。

「…嘘。あなたは、本当はどこかで…まだ」

 佐祐理は、固く悲哀の表情しか作れずにいたが、それを否定しようと、言葉を繋げる。だが祐一は、それを遮るように、しっかりとした重みのある声で佐祐理の言葉を掻き消した。

「…錯覚さ」

 佐祐理の瞳を見て、それを告げると、訴えるような視線に耐え切れず、祐一は逃れるように顔を横に向ける。

「…嘘ですよ、それは、嘘です。本当は同じ筈です。私と同じなんですよね。言って下さい」

 欠片もない望みを拾って佐祐理は言う。しかし、祐一は何も言わない。

「御願いですから答えて下さい。そんなの卑怯ですよ!」

 佐祐理は続ける。祐一の真実がどこにあるのか、それを知る為に。だが、祐一は答えない。いや、答えられる筈もない。
 ひょっとしたら、本当に何もないのかもしれないのだから。

「………嘘じゃないさ。なにもないよ」

 だから、祐一は同じ答えを返す。
 なにもない、と。

「…嘘、です…よ」

 そんな筈はない、と、俯き御加減で佐祐理は言う。
 すると、祐一は佐祐理に向き直って、ゆっくりと口を開いた。

「なら、言って上げましょうか?」

 祐一の言葉に反応するかのように、佐祐理は肩を振るわせる。

「何をですか?」

 恐る恐る佐祐理は顔を上げる。
 そんな佐祐理に笑い掛けて、祐一はゆっくりとした口調で答える。

「愛してるよ、佐祐理って」

 そんな祐一を見ると佐祐理は、諦めた表情を浮かべて、祐一に告げる。

「…本当に嘘吐きなんですね。祐一さんは」
「そう、嘘吐きだよ。俺は…」

 二人の前に置かれた紅茶は、既に冷めていた。そして、冷え切った紅茶と示し合わせるように、重い沈黙が訪れる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「祐一さん」
「なんです、佐祐理さん」
「春になったら別れませんか、私達…」
「…」

 再び訪れた沈黙は、佐祐理の言葉だった。

「俺が邪魔になった?」

 しかし最初にそれを破ったのは祐一。

「そうかもしれません。でも、それは佐祐理も同じですよね」

 そう言った佐祐理に、祐一は頷く。

「えぇ、同じですよ。でも、俺達は別れた方が良いと思います。多分、これ以上は、なんて言うのかな?『無理』のような気がする」

 佐祐理に答え、ふぅと一息吐くと祐一は続ける。

「丁度良いから佐祐理さんには言っておくよ。話があったんだ」

 まったく信じられないほどの笑顔を見せて、祐一は続ける。

「就職のことなんだけどね。俺さ、就職先は地元だって、前に二人には言ったんだけど、7月から東京の方に行くことになったんだ。だから、必然的に春からは二人とは離れ離れになっちゃうんだよね…」

 祐一の言葉に、佐祐理が少し驚いた顔をするも、直ぐに元に戻って答える。

「偶然ですね。佐祐理も実は、今日で仕事をクビになっちゃったんですよ」

 佐祐理の言葉に、祐一もまた、驚きを見せる。無論、佐祐理はそれを無視して話を続ける。

「だから、二人のヒモになっちゃおうかなって思ったんですけど、祐一さんもいなくなっちゃうんだったら、舞の稼ぎだけじゃ二人暮しなんて無理ですね。本音は、それでも良いんですよ、舞と二人っきりになれるんですから。でも、世の中そうもいきませんから」

 こともなげに、終わりを口にする佐祐理には、一片の悲しみは見えない。寧ろそれを面白そうに口にしている。けれど、祐一はその本当を知っている。いや、始めから判っていた。

「佐祐理さん、本当は辞めたんでしょ」
「やぱりわかっちゃいますか?」

 いたずらがばれてしまった時でも、反省をしない子供のような声で佐祐理が言った。

「でも、祐一さんだって東京の方に勤務先を希望したんじゃないですか?」
「バレバレですか?」
「バレバレです」

 佐祐理の、言葉に祐一は口惜しそうに言うが、その後には嬉しそうな顔を浮かべる。

「全く、考えることは同じですね」

 驚いた、と祐一は少し作ったように笑う。

「そんな、本当に偶然ですよ」

 佐祐理はそれに、所在無いような笑いで返す。
 二人して、それは本当に嬉しそうに笑い合う。
 哀しみのない、全くと言って良い程の陰りのない表情で、二人して笑う。
 そこは完全に、終わる世界。
 二人にとっての、完全な終末が訪れた瞬間でもあった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「舞にはどう言うんですか?」

「俺が言うか、それとも佐祐理さん?」

「それが一番辛いんですけれどね」

「それは俺も同じさ」

「私が言いましょうか」

「なんて?」

「別に『普通』ですよ」

「『普通』か。普通なんてあるのかな?」

「さぁ、あるんじゃないですか。『ワタシタチの普通』で良いんじゃないですか?」

「結局、いつだってそうだったよな…」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 

 雨の夜、舞が仕事を終えて帰って来て、二人はテーブルに座って舞を待っていた。
 静かな夕食の時間の始まりと、全てのおしまいは一つの空間が音を立てる。それは多分、割れれる音。
 舞がテーブルに座って、3人の夕食が始まる。他愛無い会話のやりとりと、佐祐理が作った暖かい夕飯。
 それは幸せな筈の時間。優しい時間のはず、だった。

「ねぇ…」

 ドレッシングをサラダにかける手を止めて、思い起こしたように二人に尋ねる。
 それは多分…。

「…最近、二人ともおかしい。何かあったの?」

 言い難そうに口篭もった二人を見ながら、聴かれたくないことを聴かれるだろう緊張感に、佐祐理も祐一も互いに目をを見開く。やっぱり、聡い舞は、いつだってそうだったと、こんな風に雰囲気を察してしまうと、寂しく思いながら。それでも、佐祐理はなんでもないように、穏やかな声で答える。

「突然どうしたの、舞?」
「なんだ?お前の方こそ何かあったのか?」

 話しを誤魔化そうと良い訳をするように、祐一も言い足す。けれど舞は一拍おいてから、口篭もる。

「…でも」

 繕った佐祐理と祐一の言葉に納得出来ずに、舞は本当に心配そうな表情をしていた。何かに気が付いて、それを打開しようとする瞳を二人に向けながら。だが祐一は、それを正面から受け止めることなど出来ず、落ち付かないが、それをどこか安堵しながら聞いている自分を見つけた。
 佐祐理は更に一拍おいてから、自分でも意外なほど落ちついた声で、そんなことないよ、と、言う。どう切り出そうかと思っていた。だが、舞がきっかけを作ってくれたことの寂しさが、何故か自分が落ちつく。

「そんなことないよ」

 自信に満ちた声だと、自分でも判るほどの声だった。そんな自分に心地良さを感じていることを意識しながら。

「…やっぱり、何だか変」

 納得できないと、舞が言う。けれど佐祐理も、祐一と同じような気持ちでいた。なんだか変だな、と。

「ねぇ、二人とも本当にどうしたの?何かあった?」

 舞が、そう言った瞬間。

「……止めましょう」

 佐祐理が、答える。再び、止めましょう、と答えて舞に微笑む。
 佐祐理は想う。愛情が溢れて来る。舞のことが本当に好きだと、愛していると、自分の中の舞への気持ちがはっきりと現れて来るのを感じる。
 おしまいのはじまり。

「もう良いですよね。ゆういちさん?」

 舞は、佐祐理が何を言ったのか、一瞬のことでは理解出来ずに呆然とした表情になる。けれどそれをどこか無視するように、佐祐理は祐一に尋ねる。だが祐一は、無言で応える。

「もう、家族ごっこもお終いにしましょう」
「…佐祐理?」

 いつもからは想像出来ない、冷たい表情の佐祐理に、舞は困惑する。更に真っ直ぐにみつめる佐祐理の表情は、いままで自分が見てきたものとは違い過ぎて、舞は怖くなって次の言葉が出て来なかった。

「舞。別れませんか?」

 一瞬、何を言っているのか舞には判らなかった。思考を麻痺させる佐祐理の言葉に、舞は混乱するばかりだった。

「何を言ってるの、佐祐理?それに、さっきからなんかおかしい…」
「別に、どうにしません。それよりも佐祐理は、お終いだってっていってるんですよ。」

 どうしようもない、そんな想いがありながら、表情ではうんざりとした浮かべながら。

「おし…まい?」

 振り絞った声が震えているのが自分でも判る。

「そう。お終い。私達の…ね…」

 そう言うと、佐祐理は何が可笑しいのか、クスっと笑う。

「嘘、でしょ?」

 けれど、佐祐理の言葉に、どこかぞっとしながらも舞は尋ねるが、求めていた答えは返っては来ない。

「本当のことですよ。私、もう飽きたんです…。この生活に。それとも舞、この言葉の意味がまだ判らない?」
「なに…を?」

 信じていた佐祐理から告げられる言葉の一つ一つが舞には信じられなかった。

「…仕方在りませんね。あんまり言いたくはなかったんですけど…」

 佐祐理は祐一の方を見るが、祐一は俯くばかりで、佐祐理に振り向かずに座っている。

「あなたが邪魔になったんです。舞…」
「嘘…」

 愕然とした舞の顔は、真っ青になる。信じられなかった。信じたくない言葉だった。自分が悪かったのだろうか、許しては貰えないのだろうか。様々な思考が過るが、判らないことだらけで、考えがまとまるはずもなかった。
 だが、佐祐理は続ける。

「祐一さんも、同じことを思っていると思うんですけど…」

 と。

「祐一?」

 佐祐理のことだけで頭が回らなかったのか、舞は祐一のことを思い出すと、祐一の方へ縋るような視線を送る。だが、祐一もまた、舞に何も何も答えずに、俯いたままだった。

「ほら、祐一さん。舞が待ってますよ。答えて上げて下さい。舞は"大切な御人形さん"の代りなんだって…ね」
「え?」

 信じられない、と佐祐理の方を振り向く。けれど、目の前には、嬉しそうに笑う佐祐理。もう一度祐一に縋るが、祐一は何も答えない。そんな祐一を見咎めて、佐祐理は勝ち誇ったように舞に告げる。

「ほら、ね。舞。彼も佐祐理と同じなんだよ。私も…」

 途中で佐祐理は言葉を詰まらせる。無理矢理に話を逸らすが、今の舞が気付けるはずもなかった。

「それに、知ってるんでしょ?佐祐理と祐一さんの関係」

 だから、舞は次に発した佐祐理の言葉を聞くと、目を見開く。

「判ってるんでしょ?」
「止めて…」

 弱々しく呟くように舞は言うが、佐祐理は止まらない。いや、もう、止まることが出来ない場所にまで来ていた。どこか、遠い所から自分を見詰める感触で、今の自分を支配しているようにすら感じる。

「佐祐理は昨日だって、一昨日だって祐一さんに抱かれてたんですよ」
「止めて…」
「もうずっと前からです。もう、何度も、何度も。舞がいない日の殆どは、祐一さんと一緒だったんです」
「止めて!!」

 舞の叫びが、三人の、いや、終わろうとしているリビングに響き渡る。

「舞…。佐祐理は、あなたに祐一さんを渡すつもりはないんです。だから…」
「佐祐理さん。止めて下さい」

 佐祐理がそう言った所で、祐一がやっと口を挟むが、佐祐理は続ける。固い意志と、空回りを続ける言葉でもって。

「いいえ、止めない。だって、それが"舞の為"なんですもの。それに、折角舞から貰った贈り物なんですよ。今更返して上げる訳にも行きませんよ。祐一さん、あなたは私のモノなんですよね?」

 祐一に向かって、その確証の確認を取るように、佐祐理は言う。

「…さゆ…り?」

 嘘だと、そう言ってくれるのを待つように、舞は佐祐理を見る。

「どうしますか?佐祐理から奪い返しますか?それとも諦めますか?」

 しかし、舞に向けられたのは、想像している以上の残酷な言葉だった。一瞬にして瞳には涙が溢れて来るが、佐祐理は舞に向かって意図的に笑みを浮かべてみせる。舞に見せ付けるように、いやらしい笑みを。舞も、それを見ると、椅子を飛ばすようにして立ち上がり、部屋から飛び出て行く。その衝撃で、テーブルの上にあったモノは散乱し、床には数枚の皿が落ちる。ガシャンと音を立てながら皿が落ちて割れる光景は、まるで酷いドラマを見ているようで、佐祐理には言葉がなかった。

 舞が出てから数分が経つ頃、佐祐理は席を立つとそれを片付け始める。何事もなかったかのように、穏やかな仕草で。そして、冷徹な瞳のままで。色の抜け切った灰色の部屋には、カチャカチャと割れた陶器の重なる音が響くだけだった。
 佐祐理が片付け終えるのを見てから、祐一はゆっくりと立ち上がり、玄関へと向かう。靴紐を縛る為に、玄関にしゃがみ込むと同時に、自分の横を影が通り過ぎる。佐祐理だった。
 彼女が、玄関に立ちはだかる。

「退いてくれ…」

 靴の紐を縛り終えて立ち上がった祐一は、低い声で佐祐理に告げる。
 しかし、それに動じもせずに佐祐理は口を開いて告げる。

「あなたに舞を追う資格はあるんですか?」

 と。そして、佐祐理を退かして、玄関のドアノブを握った祐一の腕を、佐祐理は捕まえる。祐一はゆっくりと視線をずらして佐祐理の顔を見る。視線が絡む。その拍子に、腕に込められた佐祐理の力が一層強くなる。捕まれた祐一の腕は、信じられないくらいの力で握り締められている。腕に立てられた佐祐理の爪からは、血が滲む程だった。しかし、祐一はその痛みにも顔を崩すことはなかった。
 それ以上に、二人の表情は哀しみ溢れていたから。
 
 
 
 
 
 
 

 止めることの出来なかった哀しみに…。
 自らで終えてしまった哀しみに…。
 自らで捨ててしまった哀しみに…。
 どうしようもない、哀しみに…。
 時は凍る。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 変わっていく

 記憶も、存在も、そして二人の意味も

 そして、ゆっくりと進む一つの未来に馳せる愛おしさ

 今日という日は、一日しかないけど、その全てが、惜しみなく溢れている

 誰もがそれを、知っている

 当たり前のように、記憶から消えて

 未来に繋がって行く

 それでも覚えているから、ヒトは未来を懐かしいと感じるのだ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  (つづく)
 
 



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