赤い月















 気分はひたすら降下しているのが自分でもわかった。夜の寒さでもなくて、孤独でもなくて、完全に"なにか"を失ってしまったことを理解したからだった。それは多分思い出。舞と佐祐理と、そして自分とで気付いた時という思い出。理由はわかっていた。自分のわがままだと知っている。だが、もう振り向ける場所は失ってしまったのだと、後悔をするのだけは嫌だと思うからこそ、祐一は舞を探して夜を走った。
 息が荒くなっているのは走り過ぎたせいだろう。家を出てから二時間は探しただろうか。それこそ、商店街も駅前も、見知ったこの街のありとあらゆる場所を駆けずり回って、祐一は遂に舞を見つける。
 舞は、学校にいた。三人の始まった場所。閉ざされた門の前に、独り佇んで。

「舞」
「…祐一」

 途切れ荒らぶる息を無理矢理に落ちつかせて、舞の名を呼ぶ。無理矢理呼吸を落ちつかせたことで心臓が痛むが、祐一は耐える。
 舞は今まで泣いていたのだろうか、眼が真っ赤になっていた。
 舞にこんな思いをさせることだけは避けたかったはずだった。けれど、現実として今、祐一の目の前で舞は悲しみくれていた。なにをしているのだろうかと、自分でも思う。それでも祐一は舞の側に近づくと、そっと舞の頭を撫でる。

「…ゆう……うっ…うっ」

 祐一がいることで、舞は再び嗚咽を漏らす。舞の姿の痛ましさに、祐一は舞を引き寄せて抱き締めると、舞は耐え切れなくなったのか、声を上げて涙を流した。

「うぅぅ!あぁぁ!!」

 泣き続ける舞を、祐一は抱き締める。なるたけ強く。

「ゴメンな…」

 謝って許されるはずもないことはわかっている。それがわかっているからこそ、祐一は舞に謝った。
 これから、離れようとしている自分、離れさそうとしている自分に対して冷静に、そして残酷になるために。
 抱き締めた腕の力は、より強くなる。
 祐一の腕の中で暫くの間泣き続けた舞は、寒い夜に晒されたのと、泣き疲れたことでいつしか祐一の腕の中で眠っていた。
 既に時間は午前も三時近くをまわっていた。泣き疲れた舞を背負った祐一が向かった先は水瀬家だった。
 これから先、数日間は"別れるため"の準備をするだろうが、その場に舞を置きたいと祐一は思わなかった。最も舞がその場にいたいと思うこともわかっているが、祐一にはそれを受け入れられる自分がいないことがわかっていたから、水瀬の家に向かう。
 夜の道は、昔のことを思い出させた。舞と二人で夜の校舎に忍び込んで、その帰りに歩いた夜の通学路。どうしてか悲しかった。出来ることなら、こんな風にして思い出したくなかった過去が、自分を追って来る。震える喉が、涙を出したがっていたのが、余計に辛く感じた。高校の時、水瀬の家に住んでいた時にずっと使い続けた通い慣れた道を、今、舞を背負ったままで歩く。零れそうな涙を必至に押さえながら。
 いつしか水瀬家の玄関に辿り着くと、祐一は水瀬の玄関を叩く。強いノックが五、六回ほど鳴って、暫く経ってから奥の方から廊下を歩いて来る音が聞える。鍵を開ける音がしたと同時に、重かった玄関のドアが開く。

「あら、こんな時間にどうしたんですか?」

 そこにはいつもと変わらない様子の秋子がいた。祐一の様子がおかしいことに一瞬に気が付くが、それを意に介せずにいつも通りに。
 祐一の後ろに背負われている舞には涙の跡があったが、秋子はそれを見つけても、詳しい事は聞かずに「取り合えず上がって下さい」と祐一を家に入れる。
 祐一は上がってから直ぐに、舞をリビングのソファーに寝かせて、テーブルの方に向かう。そこには秋子が、熱い紅茶を淹れて、祐一を待っていた。

「どうぞ」

 一緒に住んでいた時と変わらない穏やかな表情で、秋子は祐一に紅茶を差し出す。

「すいません」

 と頭を下げてそれを受け取る。
 二人でテーブルで向かい合うが、秋子が何も聞かなければ、祐一も何も口にしない。深夜だったこともあって、部屋は静寂に包まれる。
 沈黙が数分間続くが、祐一が意を決したように秋子の方を見ると、秋子もそれを待っていたのか、祐一の瞳を確かめるようにして見る。

「…秋子さん」
「はい」

 紅茶のカップを手に持ちながらも、祐一はそれには口を着けずに、秋子の方に向く。

「暫くの間、舞を御願いします」

 祐一は真剣な表情だった。秋子もそれがわかったからこそ、

「…わかりました」

 と祐一の言葉に目を瞑って、何も聞かずに了承の意を告げる。
 二人とも、この言葉以外には何も見つからなかったのか、その場では何も話す事は無かった。

「すいません。じゃあ、紅茶、ごちそうさまでした」

 結局、一口も口を付けることはなかったが、玄関で祐一は御礼の言葉を口にする。最も、それだって舞の事を含
めてなのだろう。祐一の表情は複雑なものだった。

「もう夜も遅いですから、気をつけて帰って下さいね」

 玄関から出て行こうとする祐一に向かって、秋子は言葉を付ける。やはり秋子は"何か"に気が付いているのだろう。
 しかし、彼女には何も言えなかった。それは彼らだけで決めることなのだろうと、秋子は気が付いているからこそ、言わなかった。
 しかし秋子の表情にも、陰りが見える。

「それから、舞の荷物とかは、明日にでも持って来ますから」

 祐一はそう言って頭を下げると、小走りで水瀬家から離れて行く。これから向かう場所は長い坂の上にある家だけだった。
 秋子は祐一の後姿を見送ると、小さな声で呟く。

「余り、無理しないで下さい。祐一さん…」


 坂の手前で、祐一はゆっくりと坂の上の方を見上げる。





 帰ろう。
 でも、どこへ。
 どこへ帰ろうか。
 家に帰ろう。
 家族が、佐祐理が待っているだろう家に帰ろうか。
 でも、それで良いのだろうか…





 祐一はとぼとぼと長い坂を歩いている時、後ろの方から消防車と救急車が、こんな時間に自分を追い抜いて行くのを見る。刹那、祐一の中を悪い予感が過ぎる。そして、それは絶対に当っていると思う核心があった。
 これから先も、きっと坂は長い。それがわかって、祐一は走り出した。舞を探すので体は疲れ切っていたにも関わらず、坂を駆け出す。何故、走るのか自分でもわからなかった。
 祐一は思う。あそこに住み始めてから、自分は何度この坂を上っただろうかと。春先とはいってもいまだ寒いこの季節の夜に、舞を探して散々駆けずり回って、そして再び、いつも思っていた忌わしいこの坂道を、何故自分が走らねばならぬのかと。





 彼女は死にたがっているはずだった。
 助ける必要はない。
 それに、彼女が死んだら俺は楽になれる。
 なのに、何故走るのか。

 息が切れて、苦しい。
 この坂はいつだってきつい。
 着いたところで、きっと間に会わない。
 それなのになぜ俺は走る。

 自分にとって、彼女は邪魔なはずだった。
 でも、どうして俺は走るのか。
 好意を抱いているからだろうか。
 まさか、そんなことは在る筈がない。
 誰が好き好んで、あんな女を。



 いや、俺も狂ってるのか。

 だからなのか…









どうして、俺はこんなに彼女が気になるんだろう











 白々と開けようとして行く空の下、坂を登り切った祐一の目の前には、白い煙を上げている自分が住んでいた家が見えた。
 震えが止まらなかった。余りのことに動けなって、野次馬と同じに呆然と遠巻きで炎が昇るのを見ていたのだが、消防車が放水を始めるのを見て、祐一は現実に帰る。そして消防士が玄関から出て来るのを見つけると、火事場を眺めている野次馬達を掻き分けて、祐一は大声で叫んだ。

「佐祐理さん!」

 その声の先には、斧を片手にしながら、佐祐理を抱えて煙の中から出て来る消防士が救急車に向かう姿があった。
 佐祐理が大怪我を負い、担架に乗せられて救急車に乗せられる所で、祐一は佐祐理の名を呼びながら駆け寄る。興味本意の者と思った祐一を、消防士が一端止めるが、「家族なんです」と祐一が言うと、手を離して救急車の中に祐一を招き入れる。
 救急車の中にある担架の上では佐祐理が横になっていた。
 余りに非現実的な光景だった。だが赤黒くなった火傷の痕から流れる血の色はは紛れもない現実だった。
 信じられなかった。彼女がここまで追い詰められていたことを知っていたにも関わらず、目の前にいる佐祐理の姿が。

「…佐祐理さん」

 佐祐理が生きていることを確認してから、祐一が心配そうに彼女の名前を呼んだ時、佐祐理はうっすらと目を開ける。

「…ゆ…いち…さん?」

 佐祐理は祐一の姿を認めると、安心したような表情を見せるが、彼女は目を閉じる。いつもの白い肌は、火傷で黒ずみ、灰で煤けていた。
 結局、祐一はそのまま傷ついた佐祐理と共に、救急車で病院に向かう。サイレンを鳴らして病院へと向かう救急車の中は、背中まで伸ばしていた彼女の髪が、焦げて放った異臭で包まれていた。
 佐祐理が意識を回復させることもないまま緊急治療室に入れられると同時に、祐一は震える声で水瀬家に連絡を入れる。
 その電話より数十分後、秋子に連れられた舞が病院に着く。
 佐祐理が治療を受けている手術室の前にいることが出来なかった祐一は病院の玄関で、二人を待っていた。
舞は玄関で祐一を見つけるや否や、祐一の肩を掴む。

「佐祐理は?」

 息を切らせながら、舞は祐一に、食って掛かるように尋ねる。

「大丈夫、らしい。どこも異常はないって。でも、ちょっと火傷が酷いらしくて、今は手術中だ…」

 面と向かって舞と顔を会わせ辛いのだろう、祐一はどことなくしかめ面をしながら応える。

「そう」

 それを聞いて、舞も安堵と不安をごちゃまぜにした様な、複雑表情をする。
 その後、秋子と祐一は佐祐理の入院手続きや、今後在るだろう鎮火された家の現場検証や事情聴取に備えての相談をしていた。
 秋子も帰り、舞は面会謝絶とされた佐祐理の病室の前にある長椅子に、独り座っていた。舞はその場所で既に何時間か座っていたのだが、どこからか良い匂いがしてきたので、その方向を向くと、そこには祐一が両手に水物の入ったカップを持って来ていた。

「ほら」

 そう言って祐一は舞に一つのカップを渡す。中にはココアが入っていて、甘い匂いが鼻を突いた。

「ありがとう」

 そう言って、舞はココアを受け取る。
 つい数時間前に家を飛び出して、そして学校で泣いて、目が冷めたら水瀬の家にいて、そして今は病院にいる。どうしてそうなったのだろうかと、舞はそんなことを考えながらココアを飲む。

「なぁ、舞」
「なに?」

 これからを舞が考えている時に、祐一が声をかける。

「俺達、もう一緒に住めないと思うんだ…」
「うん」

 祐一の言葉を聞いて、舞はキュっと手に持ったコップに力を込めると、キシキシとプラスティック製のカップが音を立てる。

「それで…。俺、佐祐理さんの側にいようと思うんだ」
「うん」

 どこかで判って居た答え。自分は捨てられるのだと、そんな考えが浮かぶ。

「お前はどう思う?」

 しかし、今目の前にいる祐一の顔は舞であっても見たくないほどに沈んだ表情だった。今まで一度として見たことのない祐一の表情を見てしまった舞は、自分が思っていた考えが一瞬にして吹き飛ぶ。

「祐一は、ここに残るんでしょ?」
「多分な…」

 祐一は、舞の言葉を寂しげにそれを認める。その姿は、まるで老人のようで舞は祐一を見るのが辛かった。

「だったら、それで良いんだと思う」

 しかし、舞はそれに対して、なるべく背筋を伸ばして答えようと、凛とした声で祐一に告げる。 

「私は、もう大丈夫だから…」

 きっと強がりなのだと、自分でも判った。先程まで泣いていたはずなのに、どうしてそんなことが出来るのと、舞はボンヤリと思った。

「そうか」
「だからね。祐一、今まで、ありがとう…」

 舞の言葉を聞いて、祐一は目を見開く。その先には自分が思っていた以上に成長した舞の姿があった。

「……あぁ」

 それで良い、それで良いと、祐一は声に出さないで舞の肩を抱いて引き寄せる。舞も祐一に抱かれながら、今度こそは涙を見せまいと、祐一の胸の中で小さく頷く。

「本当に送らなくても良いのか?」

 病院の玄関では、祐一と舞の二人だけがいた。それもそのはずで、朝もまだ早いこの時間は、誰も歩いていない。

「うん、大丈夫」

 既にゆっくりと上り始めた朝の光りが、オレンジ色に病棟を照らしていた。

「じゃあ"今日は"先に帰っててくれ」

 祐一の言葉に、舞は答える。迷いは見えない。

「わかった」

 舞はそう言って踵を返して、病院から出て行く。見えなくなるまで舞を見送った後、祐一も舞とは逆方向に向くと、佐祐理の入った病室に向かう。
 リノリウムに反響する靴音だけが見ていた、二人の別れは朝焼けに融けて行った。
 病室に入ると、そこには一つの景色が広がっていた。太陽の昇る場所とは逆。朝には影がさすこの窓からみれる光景。その光景は、日の光に当てられて、朝には似つかわしくないほどに、赤く染まった月が落ちるところだった。

 朝から祐一は佐祐理に付いていた。佐祐理がこの病院に入ってから既に三日。祐一は佐祐理が入院して以来、ずっと彼女の寝顔を見続けていたのだが、この日、佐祐理を診た医者が検診が終わって帰ろうとする時に祐一に声をかける。
 彼女と共に、家族として一緒に病院に入って来たと言う祐一に、今の状況を伝えようと思い、後から来るように言付けるのだった。
 祐一は暫くして先程の医師の部屋に向かう。ノックの後に、軽い挨拶と御辞儀をしてから入室した祐一を待っていたものは、厳しい視線を向ける医師だった。
 最初に、一通り現在の佐祐理の容態を教える。火傷によって皮膚の一部を移植したこと。それが比較的軽度のものだということ。しかし、最後の部分で言い難そうになるのを見てなにごとかと、神妙になった祐一が恐る恐る、

「何か、あったんですか?」

 と尋ねると、医師は重そうに口を開く。

「彼女、妊娠してます」

 彼の言葉を聞いた途端に、祐一の時間は凍り付く。

「三ヶ月です」

 一瞬、医師の言った言葉に祐一は耳を疑うが、医師のはっきりとした口調が、祐一に現実感を与える。

「妊娠、ですか」

 祐一は聞き返すと、医師はその経過を伝える。

「うん。彼女、睡眠薬を飲んでいたようだけど、吐かせた後に一通りの検査したんだ。これは定例通りの検査なんだよ。けど、その時にちょっとな…」

 佐祐理の妊娠が現実にあることのなのだと、祐一はすんなりと認めることを直ぐには出来そうもなかった。それもそのはずだった。佐祐理に生理が来ないことも知っていたし、佐祐理とは普通であれば妊娠してしまうような関係を何度として持っていたのだから。
 医師は落ちつかず、呆然とした様子の祐一を見ると、最近の若い連中はこれだからと、祐一らもそれらに部類する連中と思って見ていた。

「…あの、先生。ちょっと聞いて良いですか?」

 祐一があからさまに疑問を持った声で問う。

「なにか?」
「その、彼女は生理が今までなかったんです。最初の一回だけだって…。俺もそうだと知っていたから。それに、こんなことは始めてなんです…」

 医師も祐一の言葉を聞いて驚くのだが、ふむ、と考えてから言う。

「…そういうこともあるらしいとは知っているが、彼女、不妊症だったのかい?」
「はい」

 回転椅子に深く腰掛けるようにして、医師は顎に手を当てる。

「確かに、それらしい節はあるかもしれないな。今回、彼女が運ばれて来た火事のこともそうだけど、少し情緒不安定気味だったのかもしれないな。睡眠薬を使っているのもそうだが、君はそれを知っていたのか?」
「いえ、睡眠薬を使っていたのは知りませんでした…」

 少し責められたように思って、祐一は伏す。

「生理ってのはね、良くあることなんだが、本人の潜在的な意志に左右される部分もあるんだ。妊娠、あるいは子供に対して絶対的な不信を持っていたりする場合がそうなんだが、彼女の場合も多分だけど精神的なものだろう。けれどね、逆に子供が欲しいと強く願っら…。偶にそういうことがあるんだよ。止まっちゃうこともあれば、突然戻ることもある」

 医師は一端止まる。そこは言い難いことだった。

「それを聞いて可哀想だとは思うんだけどね。彼女の容態が実際問題として妊娠に耐えられる状況じゃないんだ。このままだと多分流産することになるし、母体の方も相当弱っているから、仮に生むことが出来たとしても、それ相応のリスクがあるんだ。だから堕胎することを進めるけど…」

 ただ、佐祐理が妊娠していると言う事実が、どこか滑稽な気がするのと同時に、妙な安心感があるのを祐一は
感じて、そのふたつの奇妙な違和感に迷っていた。
 それからも、医師は言葉を続けるのだが、それらは余り祐一の耳には入って来なかった。





























続く



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