いつものように彼はトウジと早めの昼食を食べた後、アスカのいる国立第二新東京病院に行く。それが彼の日課であり、唯一の自分でいられる時間。
「アスカ、入るよ。」
返事もなく静まり返った部屋に彼女はいた。それはあまりにも静かな世界で透き通った風が吹いていた。
部屋の中にシンジが入っても彼女の反応は何もなかった。そのことは昔のシンジには絶えられなかっただろうが、三年という月日が彼をそこまで強くしたのだろか、それとも弱くしたのだろうか、どちらにしても分かっていた。彼女がどうしてこんな風になってしまったのかと言うことを。
三年前、彼女が助けを求めていたのにも関わらず、手をさし伸ばす事の出来なかった、いや手をさし伸ばさなかった彼は滞った自分の欲望のはけ口としてあの時に動けない彼女の側で自慰をした。そのことに対する後悔の念、救う事のできなっかった彼女への忘がたい過去の真実。そして後から、知ってしまった本当の想い。今ここにいる、碇シンジと言う少年は自分自身も気がつかないうちに自らを『アスカ』という呪縛に縛られる事を望んでいた。
「アスカ、今日はね洞木さんとトウジがお見舞いに来てくれるんだって。だから早めにお昼を食べて、体を拭いて、二人が来たらちょっと外にでも散歩でも行こっか。」
「そうだ、折角来てくれるんだから今日はちょっとだけ、御化粧しよう。」
「ねっ、アスカ。」
焦点のない虚ろな瞳には何が移っているのだろうか。少年の話も耳に届いてはいないのだろう。それでも少年は話し続ける。
「それより今日のハンバーグは快心の出来なんだ。」
「アスカ。食べてみてよ。」
答えは返ってこない、それでもいいのだろう。それがいつもの事なのだから。
箸が乾いた唇にそっと近づくと、香いに反応してかアスカの小さい口は開かれる。最初の頃のアスカは流動食だった。そのため今のように御弁当作るような事はなかったのだがいつの頃からか、シンジはその時その時のアスカに合わせた食事を持ってくるようになり、今に至っている。最近になってやっとハンバーグのような比較的柔らかい固形物を食べさせることが出来るようになったらしい。
「どうかな、アスカ。今日のはいつもより美味しいだろ?」
シンジはいつも思う。ゆっくりと、この部屋だけは時間が止まったような世界にいつまでもいられたら・・・・・と。そのことについては間違っている。これは幸せとは違う。と彼は自分なりに気付いていたが、アスカが目覚める事を望みつつも、それを恐れ、そこから逃げる事を許している。
・・・・だが自分の弱さを受け入れる事の出来る今の彼は、何事にも立ち向かえる自由な意志を手に入れた。手に入れた強さの代償は余りにも大きかったが。
「あっ、もうそろそろ3時になる頃かな?」
「ちょっと待ってて。今、鏡を借りてくるから。」
・・・・・鏡。もう一人の自分との対峙。そして、偽りの心と真実の瞳の会合。彼は迷った。今のアスカには自分がどう写るのだろうか?鏡を使って良いのだろうか?シンジは恐れていた。アスカが、鏡の中の自分に耐えられるのどうかについて。アスカの前に置かれたあまり大きいとは言えない手鏡。それはいったい何を意味するのだろうか。
「どんな感じにするアスカ?」
少年の言葉は何も無かったように過ぎていった。
鏡の中のアスカと現実のアスカ、二人の目が合ったとき、全ての時は止まった。ゆっくりと戻ってくる時の中でアスカは、もう一人の自分が未だに心の奥底に閉じ込められている事に恐怖していた。捨てたはずの自分に涙していた。そう、鏡を前にしたときアスカの時は再び刻みはじめていた。
そして・・・・・少年の目にはスローモーションのように映った。
鏡の割れる音。
少年の驚きの瞳。
少女の手首から流れ落ちる赤い液体。
「嫌ぁーーーー!!」
少女の叫びと共に少年は彼女の手首のから流れる血を止めるため手を取った時、にアスカは叫んだ。
「もう嫌、誰もあたしに近づかないで!さわらないで!」
「ほっといてよ!出てってよ!」
「あんたは邪魔なのよ!もう死んでんのよ。もういらないのよ!」
「ママも、エヴァも、あんたもいらないのよ。」
シンジはアスカを助けようと必死だった。
アスカは少年の事に気が付いたのだろうか、アスカは言った。
「なによ、なんであんたがここにいるのよ?」
「どうしてあたしの側にいるのよ?」
「あんたもあたしの事、殺しに来たの?」
「ママと同じように!」
アスカの放った一言はシンジを凍らせた。
「なにを言ってるの?アスカ、僕には判らないよ。」
アスカは止まらない。
「笑いたければ笑いなさいよ。今のあたしは逆らいなんてしないわよ。」
「犯したっていいのよ。あんたあたしの事好きなんでしょ?」
「なにもしないわよ、好きにしなさいよ。」
「何とか言いなさいよ!」
「馬鹿にしてるの?それとも哀れんでるの?」
「何とか言いなさいって言ってんでしょ!」
シンジは泣きながらそう言った。
「じゃあ何があたしらしいって言うのよ?」
「もうあたしには何も残ってないわ、それで何が私らしいのよ?」
「もう、嫌よ。なんで生きてるのよ?死んだっていいのに。」
「殺してよ・・・・。」
「いますぐ殺してよ。ねぇ、殺してよシンジ。」
シンジは動けなかった。
「シンジ・・・ここから出ってよ。」
少年は何を思ったのだろうか。
・・・・少年は床に落ちている割れた鏡の破片を手にとっていた。