「彼女が僕の事をどう思っているかを」


 「彼女に聞くしかない」









 どうか、そうでありませんように





              ◆ ◆ 3  奔流 ◆ ◆









 僕は彼女を呼び出したりはしなかった。


 二人きりになるチャンスをただひたすら待っていた。


 その時は意外と早くやってきた。夕暮れの学校からの帰り道だった。彼女の元来金色に

も赤にも見える髪が、沈みかけの太陽の光を浴びて更に眩しく光り輝いていた。


 公園を通りかかった時、僕は彼女に誘い掛けた。


「ちょっと、公園に寄っていかない?」


 彼女は何か言ったが、僕はよく覚えていない、極度の緊張で頭がぼーとしている状態だ

ったのだ。気づいた時はいつのまにか彼女と並んでブランコをこいでいた。




 僕は早鐘のように脈が打つのをこらえ、顔の熱さを意識しながら、彼女に切り出した。


「ねぇ…………あのさぁ……」


「なに?」




 彼女は僕の方を見て尋ねた。とたんに僕は怖じ気づいた。


 その時まで、僕は相手の行動に合わせた対応を取ることはあっても、一度だって自分か

ら意志を表明したことはなかったのだ。だから、


「……やっぱりいいや」


 と言葉を濁すしかなかった。


「なんなのよ、言いかけたのを途中で止めるなんて男らしくないわねぇ」


 そう言いながらも彼女は心配げに僕を見ている、ように思えた。それは、彼女のただの

優しさか、それとも…?


  <ナニカトクベツナイミガアルノ?>




 もう一日も不毛な解釈はしたくなかった。


 もはや、あと一日たりとも円環の中で「事実」の魍魎と競争できそうになかった。


 あるいは埋もれていった「事実」の魍魎たちの誘惑(それは既に怨嗟に取って替わって

いた)の声に負けたのかもしれない。後に僕はそう悟ることになる…。




 しかし、その時はとにかくひたすら高ぶっていただけだった。そして、彼女もそんな僕

の様子に気づいたのか、彼女にしては格別に気遣った様子で僕の言葉を促した。


「アンタ変よ?どうしたの?」


 僕はもはや一刻の猶予も無くなっていた。溢れるぎりぎり一杯にまで溜まって、表面張

力だけでもっていた水に、彼女は一滴の水を注いでしまった。




「好きなんだっ!!」


「…え?」


「君の事が好きなんだ。付き合って欲しい」


 その時の彼女の表情を実は思い出すことができない。


 一番ありそうなのはいきなり告白されて困惑した顔だったろう。あるいは「こんな奴に

告白されるなんて」と不満顔だったかもしれない。はたまた「まあ、こんな奴でも私に惚

れる点で、女の子を見るセンスは認めてあげてもいいわ、それにしても私って罪な女よね

ぇ」と少し誇らしげな顔だったかもしれない。


 いずれにしても、嬉しそうな表情をしていたとだけは思えない。


 否…思いたくない。






 ややあって彼女は言った。


 「どうして?」




 それは、何がきっかけで好きになったのか、とか、どうして自分なのか、とかそういう

事を尋ねる質問であったのだろう。




 運命の分水嶺というものがあるとしたら、まさにこの時がそれであった。あるいはそれ

は自意識過剰というものか?既にその前に答えは決していて(もちろん、彼女が僕を振る、

という答えにだ)、その上で単なる好奇心から質問したのかもしれない。


 いずれにしても僕はここで痛恨の失敗をした。

 あるいは会心の成功を。




 「アスカが僕の事を好きなんじゃないかと思って。」


 「…え?」


 それは、誰が相手でもそうなのかもしれないが、彼女に対しては特に、考えうる中でも

とりわけ最悪の発言だった。



 言った一瞬後にそのことに気がついた。


   まずい、今のはまずいよ!言い直さないと!


 そう思うのだが、熱に浮かされた舌はますます僕の心とはかけ離れたことを喋っていく。

 まるで奔流 −あるいは濁流− に流されるように。


 でも、今冷静に考えてみると、恐らくそれは僕の当初の狙い通りの展開だったんじゃな

いだろうか?




 やがて、彼女が言った。




 「ご、御免、そう言えば今日用事有ったの忘れてた……行くね」


 そういって、彼女は走り去った。彼女の背中が遠ざかっていった。




 やるだけやった…そう思い、僕はほっと一息ついてマンションに帰ろうと歩き出した。


 帰途で考える。

 ─僕にしては上出来だ。だけど、きっと駄目だろうな。駄目かな。駄目だよ、きっと。

  ……答えを早く聞かせて欲しい。早く答えを聞かせてくれ。

  早く聞かせてくれよ、アスカ。ハヤクキカセテクレヨ、アスカ、ハヤクキカセテクレヨ、ハヤク、ハヤク、……─




 しかし、何かがおかしかった。決定的にずれていた。



 既に夕日は沈み、空は暗み始めていた。

 家路に向かう僕の影は、地面の限りない黒に混じりこみ、殆ど見分けが付かなかった。







 その夜、彼女はマンションに戻ってはこなかった。


 僕は彼女が帰ってくるまでは起きていようと思っていたのに、いつの間にか寝てしまっ

ていた。


 気がつくと夜が白み始めていた。時計は午前6時半を指していた。


 彼女はまだ帰ってきてはいなかった。その時僕が抱いた感情は、なぜか、一晩戻ってこ

ない彼女に対する心配ではなく、むしろ戻ってきて答えを聞かせてくれない彼女に対する

怒りもしくは焦り、というに近いものだった。




                    ☆






 次の日学校に行くと彼女は出席していた。今思い出すと彼女は少し腫れぼったい目をし

ていたかもしれない。でも、当時はそんなことに気付く余裕など無かった。


 数少ない友達は僕の事や彼女の事を見て心配してくれていたけど、僕は気取られるのが

いやで、何でもないように振る舞った。




 学校にいる間は彼女と接する機会が無かった。というよりも避けられていた。




 放課後も、彼女はさっさと校門から出ようとしていた。


 その様子を教室の窓から見た僕は焦って彼女を追った。

 ここで捕まえなければ今日もマンションには帰ってこないかもしれない。そうなれば彼

女の答えが聞けない。もうピリピリした昼を、ジリジリした夜を過ごすのはごめんだ…。

僕は、ゲーセンに行こうかお好み焼き屋に行こうかと僕の目の前の席で相談していた二人

の友人が、僕に話しかけるのにも構わず、廊下に走り出た。その時の僕には彼らにきちん

と対応する精神的余裕も時間的余裕も無かった。


 ダッシュで廊下を駆けぬけ、つんのめりそうになりながら階段を転げ降り、上履きを靴

箱にいれる手間も惜しくそのまま投げ捨て、走りながら外靴の後ろにかかとを入れ、彼女

を追った、追った、追った。その甲斐あって、彼女を学校から少し離れた場所でなんとか

捕まえることが出来た。


 僕は、息が整うのもそこそこに、彼女に言った。


「昨日の、答えを、聞かせて、くれないかな?」


 彼女は複雑な表情を浮かべていた
−笑おうとしてうまくいっていないような、悲しそう

な、怒ったような表情−


「どうしても言わなきゃ駄目?」


 だけど僕は、昨日の問いかけに対する彼女の答えを聞かずにはいられなかった。だから、

呟くように「うん…」と言った。


 すると彼女は僕を引きずるように歩き出した。決して僕の方を見ようとはしなかった。




                    ☆






 彼女は僕を連れてマンションに戻った。そして、いきなり家捜しを始めた。


「ちょっと、なんで…」家捜しなんか、と僕は言おうとしたが、彼女は


「黙って」とぴしゃりと言うと、しばらく家の中をあちこち動き回っていた。しばらくし

て、手に何かたくさんのものを抱えて戻ってきた。


「それって……盗聴機?」


「そうよ…そぉれ!!」というが早いか、彼女は盗聴機を全て床に叩き付けた。その上で、

それらをぐちゃり、と踏みつぶした。僕は思わず尋ねた。


「でも…なんで?」


 彼女は盗聴機を踏みつけるのを止めずに言った。


「これからの話はどうしても聞かれたくなかったの…外は監視員が常時見張ってるから、

かえってココの方が聞かれずに済むってわけよ。まあ、ここだと仕掛けられてる盗聴機の

数は半端じゃないけど大体の位置は把握してたしね、その機能さえ殺しちゃえば聞かれる

心配はおおよそ無いわ……まあ盗聴機が死んだって事、向こうはどうせすぐ分かるだろう

けど、盗聴だけについて言えば元のレベルに今すぐ戻す事は出来ないはずよ……あーあ、

こんな事しちゃったら、これからは今までより厳重で巧妙な監視体制が引かれるだろうな…

でもま、今は良しとしなきゃね。」


「おみごと」思わず僕は呟いた。


 僕らは常に組織から監視されていた。任務に必要な資質を持った人間の少なさから考え

れば当然のことだ。僕自身も、監視員の存在を身をもって体験したことがあった。そして、

彼らからは逃れられないことを知った。


 しかし、彼女は判断力と行動力でそれらをうまく処理したのだ。もちろん、監視システ

ム自体が彼女の行動でこれっぽっちも揺らぐものではないことは分かってはいた。しかし、

彼女はシステムにダメージを与えるというよりはむしろそれらをいなすことで、自分に必

要な最低限の用件 −音声が外部に伝達されない− を満たしたのだ。僕は彼女の才に舌を

巻かずにはいられなかった。






「で」ひとしきり感嘆すると、用件を済ませるため、僕は彼女に水を向けた。


「うん…」途端に彼女の歯切れが悪くなる。


「昨日の返事を聞きたいんだけど」


彼女は大きく一息つくと、諦めたように話し始めた。


「………………やっぱり………付き合えないよ……………ゴメン」


 それを聞いた時僕は少しだけ、ほんの少しだけがっかりした。しかし、それ以上に心の

どこかで安堵していた。


 そう、僕は彼女と付き合わされなくていいことを心のどこかで願い、その願いが満たさ

れたのでホッとしていたのだ!!




 しかし、まだ終わりではなかった。僕にはやるべきことがまだ残っていたからだ。


「……そう…アスカは僕の事……好きなのかと思っていたから……それで」


「勘違いしないで、アンタのこと嫌いな訳じゃないの、だけど……」


 彼女は僕のそれ以上の発言を抑えるかのように、強い調子で話し始めたが、どんどん声

の大きさも調子も尻すぼみになっていく。

 彼女はありがたくも僕の事を慰めようとしてくれていたのだろう。

 

 だけど、違う、違うんだ、僕が聞きたかったのはそんな言葉じゃなかったんだ!!!!




 僕は、僕が求めている決定的な答えを彼女に出させるため、さらに言い募った。


「だけど、好きじゃないんだろ?」


「………………」


 彼女はうつむいていた。そんな彼女にお構いなしに、僕は自分の要求のみを彼女に突き

つけた。


「…好きじゃないんなら………嫌いってはっきり言ってくれよ!!」


「!!」




 彼女のからだが、びくっ、と跳ねた。そうして暫く止まったままだった。彼女がそのま

ま動き出さないのではないか、とふと不安に駆られる。しかし、やがて彼女は耳を澄まし

ても殆ど聞こえないぐらいの小さな声で呟いた。


「………そ…………らい………」


 僕は、待ち望んでいたものの到来を感じ取った。


「………嫌い………嫌いよ………」声が震えている。


「アンタなんか……わたしは、アンタなんか…」何かを耐えるような、かみ締めるような

口調。



 一瞬の静寂。



「大っ嫌い!!」


 何かを振り切るように、大きな声でアスカが叫ぶ。


 その頬には涙が後から後から流れていた。彼女は懸命に何かを耐えているようだったが、

唇の端がふるえ、ゆがみ、食いしばった歯の間からうなりともうめきともつかない声音が

漏れでた。崩壊のきざしが彼女全体を覆う。


 そして、水を満面湛えたダムが決壊するように、いきなり彼女は爆発した。


 外聞もなく泣き、喚き、体に触れる全ての物に怒りを炸裂させた。床を殴り、壁を蹴り、

花瓶を投げつけ、食器を全て棚から引きずり落とし、テレビのリモコンを叩き壊した。そ

の奔流はとめどもなく、いつ果てるともつかなかった。その時、彼女の怒りと悲しみの奔

流の中で、初めて僕は如何に自分が残酷なことを彼女に強要したか、ということに気がつ

いた。




 彼女はそこまで言うつもりはなかったのだろう。人を傷付ける、という時に、傷つけら

れる側は無論のことだが、傷つける側も痛みを感じるものだ。その痛みを感じる強さは感

性の鋭さに応じている。そして、彼女は知性のみでなく感性においてもとても…。


 しかし、一方、傷つけられた側のはずの僕はと言えば、さして痛みも感じていなかった。

切り口が鋭利なほど傷痕はふさぎやすい。まして、僕はこの答えを予想していたのだ。






 否。




 否。




 否。否。否。






 僕が彼女にこの答えを強要したのだ。「彼女は僕を好きではない」これこそがまさに僕

の欲しているものだったのだ。その答えを、その言葉を、彼女の口から発せられる日を、

僕はどんなにか待ちわびただろう!!!!


 今や隠すべくもなく僕は安堵の中にいた。これこそが予想された結末だ。予定調和だ!!


 いまや課題をほぼ片づけた僕は、残されたほんの少しの課題をクリアする為に必要な行

動に取り掛かりつつあった。すなわち、彼女を、そして自分を騙すことであった。


 僕はなるべく自分も沈痛な振りをしながら彼女を慰めにかかる。沈痛な振りは彼女を騙

す為でもあり、また、自分を騙す為でもあった。それは、僕にとってはもはやすべてが

「無事に終わった」あとの事後処理に過ぎなかった。


 僕の内面では、かつて踏み付けにした「事実」の魍魎達が僕を祝福していた。


  「そうさ、彼女はお前を好きじゃないのさ」


  「そうさ、かのじょはおまえをすきじゃないのさ」






 もはや、あの円環
−「好き」と「好きじゃない」のせめぎあいの中で「好き」の「真

実」を積み上げる作業− の中に戻る必要はない。


 もう魍魎
−「彼女はお前を好きじゃない」と責めてくる輩− に昼夜悩まされることは

ない。


 もう魍魎と、疑心と、競争する必要はなくなったんだ!!彼らの囁きは僕の安寧であり、

子守り歌なんだ!!






 かつて踏み付けにした「事実」が生き返り、復活を遂げる中で、僕が築いた心の中の

「真実」 −彼女は僕の事が好きだ− という名の牙城は脆くも崩れ去った。

 今度は、今まで「真実」を築き上げてきた「事実」が魍魎になる番だった。彼らの怨嗟

の声が響く − その声はつい先程まで踏み付けにされてきたが甦る事に成功した「事実」

があげる快哉の声

   −彼女はお前を好きじゃない♪好きじゃない♪−

にかき消されそうになりながらも僕の耳に届いた。


 「彼女はお前の事が好きだったのに、のに、のに、のにぃぃぃィィィィィ!!」


 その瞬間、なぜか僕は何かとんでもない間違いを、取り返しのつかない失敗を、しでか

したような、そんな思いに襲われた。






 だが、いずれにしても、すべては遅すぎた。


 僕は壊れたように泣く彼女を慰めようとしたが、すべてを拒絶するように彼女は泣いた。

泣き続けた。ずっと、ずっと、ずっと。





続く



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