「And there's another Country I've heard of long ago, Most Dear to them that Love her, most Great to them that Know. We may not count her Armies. We may not see her King. Her Fortress is a ...」

 とぎれとぎれに、消え入りそうにかすれた声でその旋律は紡がれていた。
 相変わらず、感傷をさそう屋上の風が俺の頬をなでる――

(…………)

 いつかどこかで、これがなんなのかも知らずに、しかし間違いなく聴き覚えのある旋律。
 詩があるとは、知らなかった……
 両手をズボンのポケットに差して、浅く俯き、そしてあの無機質な瞳は――今は閉じられていて見ることはできない。
 本物の英語――日本人が習って身につけたものではない、明らかな生まれつきの発音でその詩は織り成される。
 いつまでも、俺が来たことなどまるで気にしていないようだった。
 絶対に気づいていないはずはないのに――

「... bounds increase; And her ways are ways of gentleness and all her paths are peace.」


 祈りのようにつぶやかれていた詩は、終わりのようだった。
 なんのための詩?悲しい旋律の……誰のための?
 いつもとは違う、この少年の一面を見た気がして、何も声をかけることができなかった。

 そう、何も――





Lake DEATH "Revenge Edition" Episode 7: PROTOTYPE
 




「13時過ぎに対策本部がたてられた。問題がある。」

 屋上の手すりにもたれて拓也がつぶやく。
 あの瞳で、だ。

「問題……?あれだけでかい騒ぎを起こせば対策本部もできるだろう?それ以外に何か?」

 警察の動きが本腰になるのはもともと当たり前のことだ。俺なりに気になるのは警察よりもマスコミだ。状況をよんで今回の仕事の依頼主をたたくかもしれない。拓也の言っているのはまた別の話のようだが。

「朝倉宗次という男を知っているか?」

 俺の質問には真っ向から答えずに、おそらくは初めに言った「問題」のことを言っているのだろう。しかし、残念ながらそのような名前は聞いたことがない。

「いや、知らない。誰だ?」

「その対策本部の責任者。階級は警部。殺人課出身だそうだ。」

「で?」

「ボスからの伝言だ。『やつは危険だ。十分注意しろ。』」

 ?
 危険?

「どういう意味だ?」

「詳しいことは知らない。ボスは面識があるらしいがな。とりあえず聞いたのは、朝倉は犯人を生かしておいたことがないということだ。意味がわかるな?」

 つまり、殺されるな、と言いたいのか……

「情報操作と警察への圧力は問題なく進んでいるんだろう?だったら一警部が勝手に動き回れるはずもないんじゃないか?」

 警察機構というのは、上からの指示が絶対だ。古くさい権力階層で成り立っている。勝手に動けばそれこそすぐに排除される。ある意味昔ながらの軍隊のようだ。

「いや、朝倉は特殊な存在のようだ。孤立した上で彼は安定した位置を保っている。おそらくは上層部の弱みを握っているのだろう。様々な方面に顔も利くらしい。警察という組織に入ってはいるが、どちらかといえばフリーランスに近い。殺しのな。警察上層部から依頼があるほど、ということだ。」

 殺しの、フリーランス……
 依頼主は警察……
 そして本人も警官……
 笑えないジョークだ。

「つまり、合法的な殺し屋ってことか?」

「法は許さない。黙認するのは警察だ。」

 拓也は意味にずれがあるのを許さない。誤認は後々重大なミスを生む、そう言っていた。日常会話には不要だとも思うが……

「同じことだ。下手すりゃ黙って殺される。その男、朝倉――か?どれくらい鼻が利くんだ?」

「さあな。俺も面識があるわけじゃない。いきなり撃ち殺されないよう十分警戒しておけとしか言えないな……」

 無責任な、とは思ったが、彼のせいではないので言葉にはならない。それに、その「撃ち殺される」対象には拓也も入っているのだから……

「ちっ、やっと、決心がつきはじめたっていうのに……」

 解決しないイライラというのか、精神的な重圧は独特の雰囲気で重く胃にのしかかる。
 そして、晴れない心境を舌打ちで表現した俺に、拓也は珍しく関心を寄せた。

「朝から事務所に寄ったそうだな。ボスから聞いたよ。」

「ああ……」

「殺しをやめるんだって?」

「ああ……」

「その姿勢は俺も賛成するね。おまえには、無理だ。」

「…………」

 無理。
 何が、とは言わないが、しかし言いたいことはわかる。
 俺には、もう無理なんだろう。「殺して」いくことが。

「はっきりと言われるのは結構ショックだが、まあそれも事実だな……もう俺には意欲的に人を殺すことができない。おまえみたいに無機質に殺っていくのも……そうじゃない人生に賭けてみようか、ってね……」

 そう。そうすべきだと、自分に思わせた。
 天秤に掛けて選んだわけじゃない。理想を求めたわけじゃない。もともとが「俺の人生はそうだった」と思い出しただけだ。
 何もない日常と、家族と、友達と……それがすべてだった。
 バカみたいに騒いで、くだらないことで殴り合って、休みは一日中ゲームなんかして……なんでもない、ただの子供だったんだ……
 だから、そうだったからこそ、どれだけ掛かっても……取り戻すべきだ――

「いいさ、思うようにやってくれ。今回の件は極力俺の方だけで何とかする。ただし――朝倉の動きにだけは注意しておけよ?『殺す』のは簡単だが『守る』のは至極難しいからな。」

 拓也はそう言って念をおした。
 わかってる。人を殺すことがどれだけ簡単かなど。
 だから立場が逆になったとき、どれだけ警戒しても足りないということも。

「ああ、自分の身くらいは何とかするさ。スリルこそ求めてないが、別にどうしても死にたくないとも思ってないからな……案外恐怖はない。まだ麻痺してんのかな、このあたり……」

 もしかしたら死が迫ったいるかもしれないのに、あまり緊張がない。
 やっぱり、俺は命の価値を見失ってる……
 取り戻さなければ。なんとしても――



 静かにすぎていく放課後の屋上で。
 それぞれの沈黙だけが未来を予言しているようだった。
 空に、もう太陽は見えなかった……







「――以上の観点から、実行犯は2名と推定される。爆薬や弾丸の種類、手口から見ても殺しの専門職に間違いない。早朝届いた声明文は捜査を混乱させるのが目的と思われるため、内容は参考程度にとどめておいて欲しい。おのおの、心当たりを探ってくれ。血液と指紋に関しては鑑識から上がりしだい報告する。以上だ。」

 あまり広くない、薄暗い部屋で、代表となり話を進めていたのは朝倉だった。
 たばこの煙と埃が息苦しい。

(茶番だな……我ながら……)

 つまり大勢で動くこと自体に彼は解決を見いだしていない。特に今回のような事件に関しては。

(そもそも、すでに圧力が掛かり始めている。ここに集まった連中には何もできんな……)

 ぞろぞろと部屋を出ていく刑事たちを見ながら、朝倉は冷ややかな視線を送った。彼らが有能、無能に関わらずすでに「使えない」資産であるということはよく理解できていたからだ。

「警部、お疲れさまです。」

 視線とは別の方から声が掛かる。見なくても誰かはわかった。

「全くだ。無益な仕事ほど疲れるものもない。」

 振り向きながらそうつぶやく。視線の先には予想通り北條が立っていた。
 彼は若く、情熱的だ。正直に、自分の下にいるべきではないと思う。
 荒削りだがそのセンスは十分な資質であるといえる。
 教えれば、何でも身につけるだろう。ただし、あまり汚い部分は見せられないだろうが……
 だからこそ、自分の下にいるべきではない――

「またそんな……対策本部長なんてそうそう普通の警部が務まる仕事じゃないんですよ?もっと誇りを持ってくださいよ、もったいない。」

 そう言って北條は抗議する。まだまだ彼には権力機構に対するあこがれがあるようだ。
 そんな彼に、しかし朝倉は冷淡に返すだけだった。

「ふん。ただのスケープゴートだ。解決できなかったらつるし上げをくらう……何の得にもならない。」

「そんなもんなんですかねぇ……平の僕にはそのあたりはわかりかねます。早く一人前になりたいですよ。」

 そう言いながら北條は出ていく刑事たちを眺める。見知った上司、先輩も多い。
 朝倉にくっついていなければその中の一人なのだろうとふと思う。

「警部……どうして警部はほかの刑事たちのように一緒に行動しないんですか?その方が仕事の効率がいいし、問題も起きないでしょう?」

 絶対に、普通の感覚なら聞くべきではないことを、何となく口にできるのが彼のある意味強みかもしれない――朝倉はそう感じた。

「私に同僚がいないことに不審をもっているのか?」

「いえ、そんな……でも、そうですよね。警部ほどの実力があって成績を上げているなら、普通はおかしいと思います。」

「私には、一目ではわからない裏の人脈があるのさ。仲良しで仕事をしてれば結果が出せるわけじゃないんだ。毒を制すなら毒をもって、そう言うやつだ。今の地位も別に何かコネでたどり着いたわけじゃない。バカな上層部を押さえつけているうちに上がってきてしまっただけだ。」

「うーん、僕にはいっこうに……もしかして、『情報屋』とかいるんですか?」

 何となく警察の実体を見たような気がして、不安と期待に踊る北條。
 彼の想像はテレビドラマの域を抜けなかったが。

「行きつけのメシ屋じゃないんだ、そういうのは使わない。というより使えない。いないこともないがあまり役には立たないな。」

「なるほど。じゃあどうします?今回は?」

 部屋を出ながら、朝倉に質問する。
 同様に暗い警察の廊下で2人は並んで歩く。

「そうだな……心当たりを訪ねる。」

 北條の方は見ずに歩き続ける。彼の、考えているときの独特の視線――斜めに睨むようなそれはすれ違う警官たちを恐怖させた。
 北條はもうすっかりなれたようだったが。

「心当たり……って、もう何かつかんでるんですか!?」

「声が大きい。心当たりは心当たりだ。確信ではない。」

 ちょっとしたことで騒ぐ彼を側においておくのは煩雑ではあったが、朝倉なりに北條の若さは自分にはない魅力だと感じていた。

「でもつかんでるんでしょう?いつの間にか警部は捜査を進めてるんだから……ほかの刑事たちも言ってますよ、『朝倉警部は腕組みしながら目をつむって犯人を言い当てる』って。」

 どこで聞いた噂か、まるで学生の怪談のように話す北條に朝倉はすこしあきれた。

「ばかなことを……努力を知らない愚か者の言い訳さ。私がどれだけ思考を巡らして、歩いて回り、結果にたどり着いているのか知らないんだろう。」

「確かに、警部は現場主義ですからね。現場を見れないなら仕事はしないって聞いてます。」

「その通りだ。書類に何の意味がある。私は学者じゃない。犯人と同じ場所に立つことで知るんだ――その、心を。」

(…………)

 現場には、すべてがある――北條にもやっとその意味が伝わり始めた。

「プロファイリング、ってやつですか?」

「違うな……経験則だ。私の、人生の。」

 まだまだ感覚にずれはあった。

「…………」

 警察の受付を出て、表へ出ると昼下がりのどんよりした天気が彼らを歓迎していた。
 晴れでもない、曇りでもない。
 まるで今の気分を現しているようだった。

「で、どこへ行くんです?」

 北條は隣で空を見上げる朝倉に結論を求めた。
 その瞳には、何も映されてはいなかった――



「万屋探偵事務所だ。」







「なあ、あの詩って、なんていうんだ?」

 帰り道――というか、事務所による途中の道で、拓也にそう尋ねた。
 ずっと2人黙ったままだったが、何となく思い出して聞いてみた。

「詩?」

 拓也は珍しく俺の方を向いて――いつも答えるだけなら視線すら逸らさないが――聞き返した。

「屋上で歌ってたやつさ。あの英語の。なんか、聞いたことはあるんだけど、何なのかわからなくてちょっと頭から離れないんだ。」

 そう。知っているはずなのにその答えを知らない。
 思い出せないときもそうだが、確かに知っているものを言い表せないのは結構悔しくてしこりに残る。

「……知らない。残念ながら。いつもキーンが歌っていたから覚えてしまって……別に何かあるわけじゃないんだが。」

 ?

「キーン?」

「……知り合いさ、古い。」

「友達……か?アメリカ人?」

 このあたりで言葉がずれる……『友達』と言わないあたりが、彼らしい。

「…………」

 拓也が、今の事務所に来る前にアメリカにいたことは知っている。
 そうボスから聞かされている。
 どう生きてきたのか、本人はもちろん、ボスも何も言わない。
 聞いても、話してくれるはずもない。彼が自らの過去を話したがるはずもないだろう。そんなことをする意味自体、彼にはないのだろうから。

「友達は……いなかったのか?」

 我ながら、バカなことを聞くものだ。
 この、隣を歩く少年は、俺の、俺たち普通の人間の感覚とはずいぶん異なる精神をもっているのに、どうしてかそれは『さみしい』と感じてしまう。彼が、今まで、そしてこれからもこんな生き方をしていくのかと思うとこんな俺でもかわいそうだと思う。

「…………」

 何も、言わない。
 言えないのか、言わないのか、それとも『言えないようにされている』のか……



 彼は、つまり理想的な暗殺者だった。いらないことはしゃべらない。任務を遂行する技術は最高。そして常に精神はどんな状況下でも安定している――こんな人間は、存在しない。してはいけない。
 神に、『絶対』に近すぎる――

「……言えないんだな。やっぱり、おまえは完璧だよ――人殺しとして。」

 俺も、拓也の方を向かずつぶやく。
 別に話してくれることを切に期待していたわけでもない。何となく、そうだろうと思って聞いただけのこと。
 そして、予想通りの答えだったということ。

「…………」

 彼は黙って歩き続ける。
 そのとなりを車が走りすぎていく。
 何でもない、薄暗い夕刻。街の景色。視界に入る人々――
 何でもない日常こそが、だからこそ人を感傷的にさせる。



「……常に、人は完璧を目指している。ずっとそうだし、今もそうだ。でも『俺たち』は完璧になる必要はなかった。限りなく近づくことが目的だった。『完璧に近づくこと』が俺たちに与えられた唯一の命題だった。たったひとつの、死ぬまで続く……」

 …………
 『俺たち』?

「俺たち、って?」

 聞き返す。
 それは、新しい発見だった。俺の、彼に対する。
 何なのか、漠然と彼の世界を見たようで、どうしても知りたくなる。

「…………」

 しかし何も言わない。
 また、車が通り過ぎていく。拓也はそれを横目で見やり、また視線を戻す。

「……もういない。残ったのは俺だけだ。」

 ?

「どういう意味だ?」

「……つまり、『俺みたいな』人間はもうほかにはいないってことさ。」

(…………)

 なぜ、彼がわざわざそんなことを言ったのか、そのときは話に流れなど全くないような感じがしたが、それは間違いで明らかな大きな流れが続いていたのだと、それを知るのはまだ後になる――

「そう。もういない。これからも、現れることはないだろう……」

 彼の視線の先には、俺の目に映る町並みがあったはずだ。
 しかし、おそらくは彼の瞳には映っていないだろう。その瞳には、この世界は映らない。死ぬまで続く命題があるだけだ。

 そう、死ぬまで続く――


To be continued.
 



 クラシックを聴きますか?
 残念ながら僕は最近は聴かなくなりました。そんな余裕がないというか。
 それと同時に感覚的にしかやりたいことを目指せないようになってきた自分に気づきます。
 僕は「大人」なんて欲しくなかった。子供のままでよかったんです。
 もっとゆとりを。もっと喜びを。もっと涙を。この手から滑り落ちていくすべてを取り戻したいんです。
 
July 10, 2000 - hujiki

( Back / Next / Room / Home / Mail )


inserted by FC2 system