ミサトからのTEL。

月に一度は顔を出せといういつもの催促だったけれど声に熱意はない。

私がサボり続けて諦めているせいかもしれないな、そう思った。

 

「たまには顔見せなさいよ」

「うん、今度行く」

「今度っていつなの?」

「わかんない。今すぐじゃなくてもいいじゃん」

「何言ってんの、決まりでしょ。うちの旦那もたまにはアスカに会いたいって言ってるわよ」

「加持さんが...。本当? 元気?」

「まあ死なないっしょ。なんか最近すれ違うこと多くてあんまり顔見てないけど。

なかなか家に寄り付かないのよ、いつもフラフラしてて」

「ミサトがいじめてるんじゃないの」

「あら、あたしはいつも優しいわよ。手作りの晩ご飯だって作ってあげてるのに」

「そのせいっしょ」

「ちょっとあんた、あたしに喧嘩売ってる?」

「まさか。まあ、ミサトに加持さんなんて、...なんとかに真珠ね」

「言ってくれるじゃないの。...こっちこそアスカ相手に男と女の微妙な機敏を説明してもねぇ。

あんたまだそういうの判んないのね」

 

ミサトはゲラゲラ笑う。

表面上は友好的な冗談ばかりの会話。

だけどその言葉を冗談と受け取れなかった私はイライラして言った。

 

「なんか偉そうじゃない? その言い方」

「じゃあ、アスカはあいつのことどう思う」

「少なくとも、あたしが今まで出会った人の中じゃ一番大人の男の人だった。

私をエヴァのパイロットだとか女の子だとかじゃなくて人間として扱ってくれたもの」

「それが騙されてるってやつよ。

あいつはホントはすごく真面目で不器用で、そんな自分が嫌だからお軽いフリしてるだけよ。

あんまり買いかぶらない方がいいわよ」

「それってまるっきりミサトのことじゃない。加持さんはもっと大人だよ」

 

私はふん、と冷笑的に答えた。

ミサトはちょっと慌てたような声で言った。

 

「...あ、あんたキツいこと言うわね。あたしが言いたいのは、ほら、男って女にはセックスと母親求めてるだけだし。

あんたが人間として扱われて嬉しかったっていう意味は判るけど、それって子供扱いされただけよ。

って、あたしもキツいこと言ってる?」

 

ミサトはまたゲラゲラ笑いながら、相変わらずデカイ声で喋り続ける。

ところで、シンちゃんはどうなのよ、下品な声で聞かれたけれど私は沈黙で答えた。

私は一呼吸おいて言った。

 

「じゃあ、ミサトはどうして加持さんと結婚したの? そんなに言うならさっさと別れなさいよ」

「学生時代別れたけどね。...まあ結局居心地いいのよ。

あまり簡単に人生に納得しちゃう人間って信用できないからさ。

...ところで、なんでこんな話になったんだっけ?」

「ミサトが加持さんの話振ったんでしょ。それとも今の話ってノロケなの?」

「今更新婚気分もないっしょ。まあ時にはこういう話もいいじゃないの。

とにかく気が向いたらこっちに顔だしてね。じゃあね」

「へーい」

 

結局このTELはなんだったんだろうと考えながら受話器を置いた。

最近のミサトからの電話は良く解らない。

それともミサト一流の人心掌握と管理の術なんだろうか。

意外とそうかもしれないなと想像しながら頭の片隅で加持さんの飾らない笑顔を思い出した。

 

 


 

もう頬杖はつかない

第10話

 


 

 

「惣流さん、それじゃあとよろしくね」

「は〜い。了解で〜す」

 

さて、さっそくこいつらに餌をやらなくちゃ、腕まくりをしてみる。

バイト先で私は留守番をすることになった。

お客は誰もこなかったけれど、その間に動物達の世話をする必要がある。

部屋は犬達の匂いでむせている。

ゴールデンレッドリバーやらポメラニアンやら、最初こそ可愛いかったけれど本当は駄々子で小憎たらしい連中だ。

世話をしてやろうというのに飛び掛かる。

 

「もう、アンタ達自分の立場わきまえなさいよ。一人じゃ生きられないイヌころのくせに。」

 

こんな面倒なものを飼う連中の気がしれないと苦笑いした。

ブツブツ言いながら餌をトレーに移すとますます催促して吠える。

ドッグフードは意外と重くて中腰になって餌をやるのは重労働だ。

 

『犬の、オマワリさん、困ってしまって、ワンワンワワ〜ン...』

 

鼻歌を歌いながら餌をやり終わった。

すぐにがっつくやつらもいたけれど、相変わらず吠え続けるやつもいる。

餌を取られないかと心配してるんだろうか。

 

「アンタ達ねぇ」 私は言った。

 

「大体、餌をくれる人に対して吠えるなんて失礼じゃないの。

普通ご飯食べる時は手を合わせていただきますって言ったり、お祈りしたりするでしょ。

感謝を忘れるなんて、ホント最低の人間なんだからね」

 

言い終わって、待てよ、こいつらは人間じゃなく、犬なんだ、そう気づいた。

もう一度、困ってしまってワンワン、ワワン、と鼻歌を歌った。

そして困っているのは犬のお巡りさんじゃなくて、私じゃないかと考えて独り笑いした。

 

ウィンドーガラスから見える外の景色は秋の色に溢れていた。

風はもう冷たい。

木々の葉は黄色くなっていた。

銀杏の実が地面に落ちて放つ臭い匂いも、なんだか晩秋を感じさせて嫌いじゃない。

時は止まることなく流れている。

時間を持て余したので、持ってきたノートパソコンで綾波へのメールの下書きをした。

ふと視線を上げた時に目の前のテーブルの上に置かれた電話が目にとまった。

普段あまり綺麗にしていないのか埃をかぶっている。

 

(ボタン押せば加持さんとこにつながるんだよな)

 

頭に加持さんの顔がよぎり、そして今朝のミサトの電話の声が蘇った。

『あんたまだそういうの判んないのね』

なんだか無性に気分が高ぶった。

深呼吸しながら、ティッシュで埃を丁寧に拭き取って、私は受話器を取り上げた。

 

 


 

 

その日は朝から気分が良かった。

アポイントが簡単に取れたからだ。

調査部というのはもっと仰々しいところだろうと想像して緊張したけれど、いざ電話してみるとあっけなくつながった。

名前を告げると加持さんはすぐに出てくれて、今度飯でも食おう、そう言ってくれた。

昼下がりの上り電車はガラガラに空いていて簡単に座ることが出来た。

ガラスに映る自分の顔はだらしなくニヤケていた。

私はちょっと意外な感じがした。

長い間、自分には加持さんに会う資格がないし相手にもされないだろうと思っていた。

だからもう会うことはないんだと考えていたし、それは私の心に重くのしかかっていた。

こんなに何気なく電話できるなんて。

やはり人間の気分なんて全然あてにならない。

 

第二新東京駅の北側は中央の大通りを境にして、片側がだだっ広い公園でもう片方が高層ビル群になっている。

駅のコンコースを抜けると地下道には人が満ちていた。

ホテルは五分くらい歩いたところにある高層ビルの中の一つだった。

玄関に入るとチョロチョロ流れる噴水の音がして心地よい雰囲気に包まれていた。

 

指定されたプールは最上階だった。

広いなと思った。

ウィークデーの夕方過ぎには客は誰もいない。

ピカピカに磨かれた大きな窓と大理石の壁、清潔で真っ白なタイルとカルキの匂い。

チャプチャプいう音がゆらぐようにフロアを満たしている。

ガラス張りの天井から差込む夕日が水面で反射している。

 

手持ち無沙汰になったので平泳ぎで泳いだ。

久しぶりに体を動かしたのであまり長い時間は泳げなかった。

顔を水面から出すと夕日の赤と水の青が交じり合っている。

くたくたになった体をチェアーに横たえた。

ガウンをあてて視線を外にやると窓から眺める第二新東京の街は薄暗い山に取り囲まれている。

下には蟻のように小さい車や人が群れていた。

 

「プチッ、プチッ」

 

心の中で声を出して、親指を窓の方に突き出して押しつぶす真似をしてみる。

本当に潰したら掃除の人は大変だな、とりとめのないことを考えたとき後ろから声が聞こえた。

 

「この街を眺めるには特等席さ、ここは」

 

なつかしい声だった。

振り向いて普段通りの表情を心がけながら答えた。

 

「でも山ばっかりでつまらないです」

「しょうがないさ。山ばかりのこの街で生きて行くなら、自然と友達にならないとな」

「そんなこと言われても、あたし友達は選ぶことにしてますから」

「それはいい心がけだ。豊かな人生を送ろうと思ったら友人と食事だけは選んだ方がいいぞ」

 

加持さんはチェアーの横に立って外を眺めながら喋った。

そして私の方を見ると、久しぶりだな、と言った。

私は本当ですね、と答えて加持さんの横に立った。

 

「よく来るんですか?」

「たまに仕事をサボって骨休みにくるのさ。ズボラなのは相変わらずさ」

「ズボラだなんてウソ。でも加持さんらしいです、変ってないんですね」

「少し待っててくれ。ちょっと泳ぐからな」

 

加持さんは返事を待たずに羽織っていたシャツを脱いでテーブルに放り投げた。

クロールは決して優雅ではないけれど力強かった。

しぶきが小さな滴になってキラキラと周りに飛び散った。

私はチェアーから動かずに頬杖をついて眺め続けた。

 

「泳ぎ上手なんですね」

 

四往復して肩で息をしてタオルで顔を拭う加持さんに声を掛ける。

30代後半になるはずの背中は綺麗な逆三角形をしていた。

海で覚えたんですか、すごく力強いな、そう言うと加持さんは答えた。

 

「いや、子供の頃は海なんて行く暇なかったからな」

「すごく速いし、泳ぎ慣れてるって感じがします」

「アスカはもう泳がなくていいのか?」

「あたしはいいんです。普段使わない筋肉まで使うから急にやると立てなくなりそう」

「なんだ、随分ヤワになったじゃないか」

「いつまでもオテンバじゃないです。来月二十歳なんですよ」

「アスカが二十歳か。なんだか不思議だな」

「あたしがいつまでも十四歳だと思ってました?」

「相手に対する印象ってのは第一印象できまるものさ。今こうして会うまで、俺の中じゃアスカは永遠の十四歳だったよ」

「そうやって馬鹿にしてるとひどい目みますよ」

「馬鹿になんてしてない、アスカが素敵なレディーになったことは見た瞬間判ったさ。

どっちにしても、今のアスカ相手ならやけどするのも悪くないな」

「もう、...冗談は止めてください」

「さて、今日は大事な古い知り合いとの折角の機会だからな。つもる話でもしよう」

 

私は少し小首を傾げて大袈裟にならない程度に笑ってみた。

我ながら上手な笑みが出来たと思った。

そして不思議な気分になった。

加持さんを前にして私は一体どんな気分になって、どんな喋り方をするんだろうと心の奥で心配していた。

だけど今日の私の気分は安定しているし、冗談だって言える。

私はもう大丈夫なんだ、そう思った。

 

 


 

 

着替えた加持さんが案内してくれたのはホテルの中の和食の店だった。

竹で出来た門を潜ると着物の女性が案内してくれた。

中に入ると木の香りがする。

わずかに軋む板張りの廊下を暖かい色の明かりが照らしている。

柔らかで落ち着いた雰囲気だった。

通されたのは四畳半の狭い和室で、床の間にはススキが飾られている。

天井には和紙が貼られていた。

さえずる二匹のうぐいすが描かれて背後から淡い光で照らされていた。

 

「急に電話して驚きました?」

「ちょっとな。アスカの声は久しぶりだったから嬉しかったよ。元気にしてたか?」

「元チルドレンの話、ミサトさんから聞いてるんじゃないんですか?」

「最近はネルフじゃないからあまり教えてもらえないんだ。アスカがこの街にいるってことも初めて知ったよ」

「そうなんですか」

 

運ばれてきた切り子グラスに入った赤い食前酒を口に含む。

ほんのりしたアルコールと甘い果実味が美味しかった。

ミサトが加持さんが会いたがっているといったことはやっぱり嘘だった。

私はちょっと嫌な気分になったけれど顔には出さなかった。

 

「アスカは笑顔が綺麗になったな」

「そんなこと言われたの初めてです」

「そんなことないだろ。笑顔はイイ女の第一条件だからな」

「加持さんから言われるとすごく嬉しい」

 

私はちょっと照れてみせたけれど、ひょっとしたら本当に照れているのかもしれない。

杯を飲み干す加持さんを見て、不思議に思った。

普段、男の人から綺麗だとか美人だとか言われても全然嬉しくない。

確かに私は美人だけれど、それがあんたになんの関係がある、そう鬱陶しく感じる。

まるで美人であることが女の全ての価値であるかのように一方的に押しつける男は不愉快だ。

女を見たら取りあえず誉めておこうという心理なんて、しょせん自信のなさの裏返しに過ぎない。

卑屈と傲慢は紙一重だ。

私の価値は私が決めればいい、他の人間から決められるなんて真っ平だと思う。

だけど加持さんから誉められると、まるで明日の天気について話をするように自然な感じがする。

言葉が自分の中に染み込んでゆくようで心地いい。

 

戸が開いて桃色の着物の女性が、失礼いたします、と小さな声で言って入ってきた。

盆の上にはザルと赤絵の磁器の小皿が乗っていた。

テーブルの上に置かれたザルの中にはぽってりといた白い豆腐が入っていた。

生姜が入った小皿を引き寄せて箸でかき混ぜながら加持さんは言った。

 

「ここの豆腐料理はうまいぞ」

「ホントだ。すごく味がある」

「水が違うんだよ。豆腐は大豆と水」

「単純な食べ物なのに不思議。これだけで味があるんですね」

「豆腐も人間も同じさ。元が良くないとどんなに努力してもだめなんだよ」

「加持さんから見て、あたしは豆腐でいうとどの程度ですか?」

「そうだな...スーパーのパック売りかな? 絹ごしというより木綿ごしかな?」

「もう、...しりません」

「おい、冗談だよ。怒るなよ」

 

ジト目で加持さんを睨みつけた。

加持さんは手を合わせて謝ったので、それを見て私は笑った。

 

「実は俺、豆腐を自分でつくるんだぜ」

「え? 加持さんがですか?」

「そうさ、水は京都がいい。今でも時々汲みに行くんだ、仕事にかこつけてな」

「へぇ、どうして京都なんかに?」

「以前仕事で何度か行く機会があって見つけたのさ。

歴史が長い街だから食い物は洗練されてるよ。住んでる連中は人が悪いが」

「すごいなぁ。あたしも加持さん手作りのお豆腐食べてみたい。いいな、ミサトさん」

「いや、ミサトはな...。あんまりそういうの判らないんだ」

 

私達はドッと笑った。

頭の中でミサトが豆腐にソースをかけて食べているところを想像した。

そしてそれはすごくミサトらしい食べ方だと思った。

加持さんはちょっとまじめな顔になって私の目を見て言った。

 

「ミサトのとこには顔出してるか?」

「...はい。ミサトさんとの結婚生活、どうですか?」

「最近忙しくて話する暇もないくらいだよ。お互い仕事持ってるからな」

「ミサトさん、悲しがったりしません?」

「大丈夫だよ、殺しても死なない女房だ」

 

加持さんはウィンクして見せた。

それは奥さんに対する愛情と気安さに溢れていて、社会的にも精神的にも安定した男を感じさせた。

やっぱり加持さんなんだな、そう思った。

 

「そんな言い方じゃ、かわいそう」

「だけど本当は頑張り屋で、しかも何でも自分で背負い込んで我慢しようとする。そのくせ寂しがりやだからな」

「昔からですよね、ミサトさんのそういうところ」

「アスカにもそう見えたか? あれは学生の頃から全然変ってないんだよ。

まあ...あいつなりにこだわりがあるらしいがね。...アスカはやりたいこと見つかったか?」

「まだかもしれません。...ねえ、もし加持さんとミサトさんのやりたいことが逆だったらどうします?」

「ははは、難しい質問だな。...悪いけど俺はわがままだからな。自分のやりたいことをとるよ。

他人のために自分を犠牲にしたら結局は自分に帰ってきて全部を駄目にする」

「他人、ですか」

「夫婦ってのは一番身近な他人同士さ」

「それでミサトさんを傷つけても、ですか?」

「極論だな。もしどちらかを取れと言われたら俺は他人を不幸にしても自分のやりたいことをとるよ。

人間ってのはな、アスカ、わがままな生き物だぞ」

「加持さんは、じゃなくてですか?」

「そうかもな。だけど俺は確信犯になれない人間は結局は駄目だと思う」

 

なんだか加持さんらしい答えだった。

だけどその割り切り方は私にはどこか違和感があった。

夫婦とは世界中でたった一人お互いを認め合う存在じゃないの?、そう漠然と考えた。

もし万が一結婚するなら、私のために全てを犠牲にしてくれる人じゃなければ嫌だ。

そうじゃなければ、最初から結婚なんかしない方がいい。

私はちょっとだけイライラして言った。

 

「加持さんのやりたいことって...何なんですか?」

「自分の中に引っかかっていることを、自分の目で見てみたい。なんかガキみたいだけどな」

「自分に興味があるってこと?」

「...自分に、か。なあ、アスカ、自己言及は矛盾する、って知ってるか?」

「聞いたことはあるような気がしますけど」

「集合論の基礎だよ。自分自身を要素に含む集合は矛盾する、ってやつだ。

『私は嘘をついている』という命題は真か偽か」

「どういうことですか?」

「命題を真と取れば、「嘘をついている」のも嘘だから、つまり本当のことを言ってる、これは矛盾だ。

もし命題が偽なら「私は嘘をつかない」から「正直者だ」ってことになる。でも正直者が偽の命題を言うのは矛盾だな。

だからどっちも矛盾で決められない。自分で自分のことを知ろうとすると必ずこんな具合になる。

それでも知りたがるのが男ってもんだけどな」

 

加持さんはそう言うと箸で刺し身を摘まんだ。

私は反論した。

 

「自分を知りたいのに男も女もないと思います。加持さん考え方が古いです」

「そうか。こりゃ悪かったな」

「大体加持さんがさっき言った『笑顔が綺麗だ』っていうのも女を馬鹿にしてます。

それじゃまるで笑うしか能がないみたい」

「すまん、怒ったか?」

「そうじゃないんです。あれは本当は嬉しかったんですけど。...あたし何いってるんでしょうね、ごめんなさい」

「いや、俺の言い方が悪かった。許してくれ。

だけどな、アスカ、そもそも、らしさ、ってのはフィクションだ。判っててわざと騙されるのが結局は大人なのさ。

...紳士ってのは紳士の振りをすることが必要だと心から信じることができる人間だ。

ま、あくまで偏見にもとづいた俺流の考えだけどな」

「加持さんの理屈は判りますけど...あたしそういう考えはあまり好きじゃないです。私は私のままでいたい」

 

加持さんはニコリと笑って、そして黙って箸をすすめた。

私は加持さんは自分を見ているんだなと気づいた。

もし私がミサトの立場にいたら...。

自分を一番に見てくれない愛情を注がれたとき、一体どんな気分がするんだろう。

なんだかちょっと空寒い気持ちになって俯いた。

 

 

突然携帯の呼び出し音がした。

加持さんは、一瞬怪訝そうな顔をしたけれど、急に厳しい顔つきになって電話に出た。

受話器からは男の人らしいの声が聞こえたけれど、何を言っているのか聞き取れなかった。

ただ最後に、やりますか?、という言葉が聞こえて、加持さんは「当然だ」と短く答えた。

 

「悪いが急に用が出来た。10分で戻るから待っていてくれないか?」

「いえ、忙しいんならあたし帰りますから」

「それには及ばんよ」

 

加持さんはそう言うと部屋から出ていった。

私は頭をのけ反らせて天井を見た。

天井の和紙に描かれたうぐいすが今にも鳴き出しそうに見えた。

淡い光は優しげで、心地よかった。

突然ドタドタと数人の人間が廊下を歩く音が聞こえた。

一体何が起きたんだろう?

立ち上がってこっそり戸から外を覗くと、黒服の男達が隣りの部屋に入ってゆく。

 

私は音を立てないように廊下に抜け出して、引き戸の隙間から中を覗いた。

髭をはやした、よれよれの茶色のスーツを着た男がしきりに助けてくれと哀願していた。

黒服は拳銃のような物を髭の男に向けていて、答えろ、と小さな声で言った。

 

プシュ!

 

空気を圧縮するような音が響いて髭の男はうめき、そして手で抱え込んだ膝からは鮮血が流れ始めた。

プシュ!、という音とともに、再び男はうめき、今度は二の腕から鮮血が流れ始めた。

私は何がなんだか判らないまま恐ろしくなったので気づかれないように静かに部屋に戻った。

唐突に男の叫び声が聞こえてドスンという音と共に静かになった。

引きずるような音と足音が遠ざかり、やがて完全に静かになった。

加持さんは頭を掻きながら部屋に入ってきた。

 

「何があったんですか?」

「アスカは知る必要はない」

 

そう言ってニコリと笑ったけれど目は全然笑っていなかった。

袖口をみると赤いものが着いていた。

私の視線に気がつくと加持さんは袖口をまくった。

 

「アスカは何も見ていない。これは忠告だ、いいな」

「忠告?」

「アスカはもうただの民間人だからな。誰かが守ってくれる保証はない。俺も含めて、な」

 

加持さんは無表情にそう言ってさっきの続きを食べ始めた。

こんなことの後なのに、その態度はまるでトイレに行って手を洗った程度に自然だった。

私にはなんだかこの世界のものじゃないような違和感に満ちた光景に見えた。

 

「どうした? もう食わないのか?」

「これ以上食べられません」

「小食だな」

「加持さんは平気なんですか?」

「割り切れない人間にはこの仕事は無理だ」

「そういう割り切るとか、確信犯とか、私には理解できません。大体加持さんはさっき何を...」

「それ以上言わない方がアスカのためだ」

 

加持さんは私を睨んでそう言った。

表情はいつもの優しそうな加持さんだったけれど、その目は氷のように冷たかった。

私は黙って立ちあがって、部屋を出ようとして振返って言った。

 

「今日はお世話になりました」

 

加持さんは何も言わなかった。

結局私はそのまま部屋を後にした。

 

 

 


 

 

帰り道、体中から力が抜けて行くような感じがした。

街を歩く人々は誰もが平和な顔をしていた。

電車に乗って窓に映る自分の顔をぼんやり眺めた。

横で手すりにつかまるサラリーマンは酔っ払ってアルコールの臭いをプンプンさせて不愉快だった。

よう、外人さん、後ろから肩に手を掛けられた。

 

「俺は学生時代に留学してたから英語がベラベラなんだ。お話しましょう」

 

その男は、へん、と甲高い声で叫ぶとまくしたてた。

ろれつが回らなくて意味が良く分からなかったけれど、日本人は世界で一番優秀だ、そう言っているらしかった。

イライラした私はヨレヨレの背広と曲ったネクタイの男めがけて平手打ちを食らわせた。

パチン、という音がしてその男は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたが、やがて顔を真っ赤にしてわめき出した。

 

「セカンドインパクトで東京が沈んだのはアメリカの陰謀だ、俺は知ってるぞ」

 

ドイツで育った私にそんなことを言ってどうするんだろう、そう思ったけれど言わなかった。

そして今度は急に、お前といいうちの娘といいどうして俺を馬鹿にするんだ、そう叫んで涙ぐんだ。

私は最初あっけにとられたけれど、要は酔っ払いというのはこういうものなんだなと考え直して気にしないことにした。

しばらく相手をせずに放っておいたら、そいつは隣の車両に移っていった。

一部始終、誰もが見てみぬふりをしていた。

 

駅を出て商店街を抜けながら考えた。

この六年間、加持さんと会って話ができれば自分は救われるとなんとなく思っていた。

だけど実際に会って話をした加持さんは、十四歳の私の目に写った姿とはどこか違った。

加持さんは多分自分にしか興味がない人で、そして私も単なる他人の一人だ。

一度決めた方法論に従って、他人との距離を常に一定に保っているだけ。

自分を知るための情熱に比べたら、きっと他人との関係なんて手段に過ぎない。

だから加持さんはいつも迫らない爽やかな笑顔で笑えるんだ。

あのとき人間として扱われた感動の正体はそういうことだったんだな、何度も心の中で説明してみた。

 

袖口の血を思い出した。

急に胃の奥から酸っぱいものが込み上げてきて、私はその場で吐いた。

あれほど心地よかった加持さんの汗臭さも、男の人特有の脂っぽいさも、煙草の匂いも、全部気持ち悪く思えた。

結局変ったのは加持さんじゃなくて、自分なんだ、そう気がついた。

私は胃の中をすっかり空にして、そして再び歩き始めた。

 

公園の側を通りかかった。

街灯に照らされてブランコに座っている男がいた。

こんな時間に物好きなやつがいるもんだ、そう思った。

そして目を凝らして見ているうちに気がついた。

 

シンジだった。

 

 


 

to be continued

 


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