シンジは放心した表情でブランコに腰掛けて暗い夜空を見上げていた。

この寒い時にこんなところでどうしたんだろう、声を掛けるべきかどうか考えながら見詰めた。

 

「アスカじゃないか。帰ってきたんだ」

 

気がついたシンジは目を見開いてゆっくりとした口調で言った。

 

「もう戻ってこないかと思った」

「どうしてそう思うの? あたしあんたに何かしたっけ?」

「だって最近アスカは僕と全然顔を合わそうとしないじゃないか。避けられてると思ってた」

「あたしは普通だよ」

 

シンジはそれには答えず夜空に視線を向けた。

横のブランコに座って時計を見ると既に10時を回っていた。

気温はすっかり下がって、私は寒くて震え始めていた。

 

「シンジ、寒いよ。帰ろう」

「アスカ」

「ん?」

 

シンジは私の右手をとって自分の方に引き寄せた。

手のひらと指先を広げて小指と薬指の先端をもみほぐし始めた。

シンジの手は冷えていたけれど冷え性の指にはそれでも十分に暖かく感じた。

 

「どうしたのよ?」

「ここ、神経のツボがあるんだ。気分が落ち着くんだって」

「そうなんだ」

「最近のアスカ、ちょっと普段と違うみたいだから」

「あたしは普通だって」

 

私はあきれた口調で言った。

だけど毎日は少しずつ動いている。

シンジには何も言っていないけれど、綾波と会ったり、バイトを始めたり、加持さんと会ったり、目まぐるしく動いている。

爪を横から圧迫されて、指先に痛いような気持ちよさを感じた。

 

「ねえ、アスカ。今日は星を見てたんだ」

「星?」

「そう、星。すごく綺麗だよ」

「随分ロマンチストじゃない。それとも天文学者にでもなりたくなったの?」

「昔第三新東京が使徒のせいで大停電したとき三人で星を見ただろ。

 あのときの夜空は吸い込まれるくらい広くて暗くて綺麗だった」

「そんなこともあったっけ。たしかファーストもいたかな」

「今でも思い出すんだ。今思えば泣きたいくらい綺麗な夜空だった。

 もしあの頃に戻れるなら、きっと僕は他に何もいらない。今はそう思う」

 

シンジは私の指をゆっくり揉み続けながら言った。

遠くからトラックのエンジンの音が聞こえた。

シンジは一方的に喋り続けた。

 

「ねえ、知ってる? 僕は昔から物事に感動なんてしない子供だったよ。

 みんなが楽しく騒いだり悲しんで泣いたりしても調子だけ合わせて冷静に観察ばかりしてた。

 僕にはやりたいことなんてなくて、よその世界のことみたいに感じてた。

 だから今は綺麗だとか素晴らしいとか思う自分を不思議に思う」

「そうなんだ」

 

私は笑って言った。

シンジが言っていることが随分センチに思えた。

 

「どうして変ったの?」

「...きっとアスカのせいだ」

「キザなこと言っても何にもでないわよ」

「そんな意味じゃない。別に誉めてるわけじゃよ」

「じゃあ何?」

「ねえアスカ、多分僕には何もないんだ。ホントに何もないんだ。

 綺麗なものを綺麗だと思えるようになったのはそう気がついてからだよ。

 だからきっと僕は嫉妬してるんだ」

「何に?」

「アスカに」

「なんであたしに? 訳わかんないこと言ってないでカルシウムとりなさいよ。

 そうだ、寒いからアパートに戻ってホットミルクでも飲もうよ」

 

シンジはそれには答えずに、表情を変えずに立ち上がった。

私もブランコに座っている間に冷えたお尻を手で押さえながら立ち上がった。

 

「大体僕にはなにもないなんて贅沢よ。あんた弐大のエリートでいらっしゃるんでしょ。

 どっちかっていうと、ファーストあたりが言いそうなセリフよね」

「ははは、綾波は確かによくそんなこと言ってたよ」

「そうなの? 仲よかったもんね、あんた達」

「...でも綾波は嘘つきだ。何にもないなんて嘘だよ」

「どうして?」

 

私の質問には答えずにもう一度、綾波は嘘つきだ、そう呟いた。

 

「ねえ、僕はもうあの頃と同じ気持ちで星を見ることはできないんだよ。

 絶対にあの頃の気持ちを思い出すことはできないんだ」

 

シンジは早足で歩き出した。

11月の夜道は寒々しくて、空は星に満ちていた。

 

 


 

もう頬杖はつかない

第11話

 


 

 

アパートにたどり着いて中に入るといつもの油とカビの臭いがした。

部屋の中は寒々としていたけれど風が吹かないだけで意外に暖かだった。

シンジは電話の留守電のランプが光っているのを見て、また間違い電話かなぁ、と言った。

 

「最近よく掛かってくるんだよ。取るとすぐ切れる」

 

シンジは首を捻りながらポストから取りだした郵便物を確認した。

何か届いていた?、と尋ねると、大学から僕宛てに来てるみたい、と返事をした。

授業料の督促状かなぁ、と言ってシンジは封も切らずに引き出しに封筒をしまった。

 

私は、あんたホットミルク飲む?、と聞いたけれど返事がなかったので作るのはやめることにした。

上着を放りだすと指がかじかんでいたので、すぐにバスルームに入ってシャワーを浴びた。

暖まった体をバスタオルで拭きながら鏡を見ると、ぼんやりとした目の女が鏡の中にいた。

これじゃ何かありましたと言わんばかりの顔だな、そう思いながらコットンに化粧水を吸わせて顔を叩いた。

部屋に入るとシンジは背中をまるめて先日出したばかりのコタツに入って授業のレポートを書いていた。

 

「もう遅いのに。明日でいいじゃん」

「今日できることは今日やっとかないと嫌なんだよ」

「暇ねぇ」

「アスカは精神的に向上心のない人間は馬鹿って言葉、聞いたことある?」

「どっかで聞いたセリフね。それって強迫観念の一種なんじゃないの?」

 

私は呆れて言った。

シンジは続けた。

 

「ねえ、アスカは昔は随分努力家だったじゃない。なんでそういうこと言うの?」

「だって一番になったからって良いことなんか無かったわよ。あたしの人生最大の後悔ね。

 あんたそんなふうに努力して空しく感じることない?」

「僕は別に一番になろうとしているわけじゃないから。

 人間はさ、アスカ、向上心がなくなったらお終いだよ。

 出来ないことと、出来なくてもいいと思い込むことは全然意味が違う。

 結果は第二で、なにより向上心の無い人間はくだらないんだ。

 そうじゃないと...僕は逃げ出しそうな気がするから」

「ふうん、偉そうなこと言ってるわりには相変わらず内罰的ね」

「そうでもないさ、これは誰にでも当てはまる正しいことだよ」

 

ニュースでは北アフリカの飢饉をきっかけに発生した暴動で国連が出動したことを伝えていた。

私はなんだか暗いなぁと思いながらあんたも風呂に入ったら、と言った。

シンジがバスルームに消えてふと綾波にメールを打ちたくなった。

私は紅茶を入れて膝掛けの毛布を取り出してノートパソコンの前に座った。

入れたばかりの紅茶をやけどしないようすすりながら今日のことをもう一度最初から思い出した。

長い一日だった。

そして寒々しい蛍光灯の明かりを見つめながら、やっぱり加持さんだったなぁ、そう思った。

 

加持さんはやっぱり加持さんだった。

私はありのままの自分をありのままに見てくれる人、そんな人が欲しい。

あんなに理解してくれそうなのに近づくと厚い壁を感じる。

諦めて遠ざかろうとするとやさしい笑顔を送ってくれる。

私を唯一理解してくれる人がいたらきっと加持さんだと思うけれど、そう思った瞬間に加持さんは絶対に私を理解しない。

ひょっとしたら神様がわざとやっているのかなぁ、そう思った。

 

そしてシンジの顔を思い出して考えるのを止めるた。

シンジはなんだか近すぎてよく判らない。

泥のようにベトベトまとわりつく感じがするけれど、いなければそれはそれで足りなくて肌寒い気がする。

私は立ち上がったばかりのノートパソコンの画面を見ながらキーを叩いた。

 

To: 綾波<ayanami@abi.ac.nerv>
Subject: 今日はちょっとしたことが...


惣流です。

綾波、元気にしてましたか?
ホントは電話したい気もしたけど、シンジのやつに聞かれると嫌なのでやっぱりメールにしますね。

実は今日ちょっとした出来事がありました。
加持さんと食事をしてきたんです。
私はあの頃のことを思い出させるものはなんでも大嫌いなんですが、加持さんだけはやっぱり別みたいです。
不思議と精神的にも落ち着いて話ができました。

綾波は加持さんのこと覚えてます?
ひょっとしたらあまり面識なかったかもしれませんね。
もうだいぶ会ってなかったんですが、全然変わってなかったです。
当時の私にとってはあこがれの人だったんですよ。
一緒にプールで泳いだけれど仕事柄体も鍛えてるのか体がすごく引き締まっていました。
#うう、触ってみればよかったよ。

加持さんはやはり大人の男の人です。自分の道を行くって感じがします。
一緒に食事しながら昔のこと、これからのこと、趣味のこと、人生のこと、いろんな話をしました。
自分の考えを持った人はやはり話をしていて気持ちがいいものです。
私もしっかりしなくっちゃ、そう反省させられた気がします。
だけどミサトさんの話を聞いてる時にこんなことも言っていました。

「夫婦ってのは一番身近な他人同士さ」

なんだか加持さんらしい言葉だけれど、私はクール過ぎてちょっと違うな、なんて思ってしまいました。
私は人間は誰しもお互いが対等で自立した関係がいいと思います。
そしてお互いを尊敬できる関係が理想だと思うんです。
そうすれば、簡単に「他人」だなんて言わずにもっとお互い理解しあえるんじゃないでしょうか。
まあそんなこと言っても、実際のところ世の中にはろくな男がいません。

ところで綾波はこういうことについてどう思いますか?
昔は全然興味なさそうな感じでしたけど...もし嫌じゃなかったら今度はそんな話もしたいです。

ただ一つだけ残念だったのは、ちょっとした事件があったんです。
口止めされてるんで言えませんがかなりショックを受けています。
自分の中に溜めておくのはちょっと辛い感じです。

それでは今日はこの辺で。
ところでまたお茶でもしたいですね。
早速だけど明日かあさってあたりどうですか?


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惣流・アスカ・ラングレー
asuka@ie.t.u-tokyo2.ac.jp
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送信キーをクリックして、ノートパソコンを閉じると私はやることもないのでテレビを見ることにした。

11月の夜は寒かった。

私はテーブルの上にあごを乗せてぼんやりと画面を眺めた。

明日の天気は晴れ、気温が下がるらしい。

そういえば去年はろくに冬物を買ってないないと気がついた。

立ち上がって押入れを開けて洋服を入れ込んだケースを引っ掻き回した。

去年買ったダウンのジャケットも、ライトブラウンのハーフコートも、ましてや高校の頃の黒のダッフルコートも、どれも納得がいかなかった。

 

「今年は買わねばなぁ」

 

呟いて私は立ち上がった。

買わねば、買わねば、心の中で呟きながら放り出していたファッション雑誌を取り上げた。

今年のコートが並んでいる。

どのコートもそれなりに高そうだったけれど、形も色も悪くはなかった。

暗い色は飽きたから赤でも買うかなぁ、そう考えながらページをめくる。

どうせだったらもっとかわいいモデル使えばいいのに。

結局美人は何を着ても似合うし、そうじゃないやつは何をやっても駄目だ。

ファッション雑誌を読んだからといって人は誰でも魅力的になれるわけじゃない。

私は自分のために自分が好きな服を選びたいと思いながら、気に入ったコートを見つけたことに満足してページを閉じた。

 

立ち上がって少しだけ窓を開けると冷たい空気が入ってきた。

月が出ていた。

山肌の向こうには都心の高層ビルが赤いランプを光らせていた。

私はもう一度加持さんのことを考えてみた。

あの赤くピカピカ光っているビルのあたりで加持さんと会ったんだなぁ、そう考えると胸に何かがこみ上げてきた。

 

これが私の十代だったんだと思った。

それは長い長い時間だったような気もするし、あっという間だったような気もする。

必死で走ってきた気もするし、全然本気になれなかったような気もする。

みんなから愛されたような気もするし、誰からも愛されなかったような気もする。

 

多分私は判っている。

私は愛されなかったわけじゃない。

ママが死んだときは確かに悲しかったけれど、パパも二度目のママもそれなりに優しかった。

エヴァに乗ればみんなが誉めてくれた。

中学でも高校でも大学に入ってからも、男達は私に夢中だった。

きっと私より不幸な人間はいくらでもいる。

それなのになんだか幸せじゃないのはどうしてだろう。

 

多分私は判っている。

きっと私は誰も好きになれなかっただけなんだ。

 

『だったら自分から誰かを好きになればいい』

 

相談すれば誰もがきっとそう言うだろう。

はい、そうですか、おっしゃるとおりですね。

私は笑顔でそう答えて、そして心の中で舌を出すだろう。

思えば私は嫌な子供だったかもしれない。

大人は子供のことを無邪気だと思っている、そう見抜いたら無邪気な振りをする嫌な子供だったかもしれない。

 

私は急に本当に加持さんのことが好きだったのか判らなくなった。

これからもずっと、一生誰のことも好きになれないんじゃないか、そんな考えが頭をよぎった。

足元が崩れてゆくような錯覚を覚えて、急に叫びたい衝動にかられた。

私は背筋が寒くなるのを覚えて、そして手で顔を覆って小さな声で泣いた。

 

 

シンジがバスルームから出てきたときには私はすっかり落ち着いていた。

私は疲れて体の力が抜けきっていたので、今日はもう寝ようよと言った。

シンジは、別に待ってなくてもよかったのにと言いながら冷蔵庫からウーロン茶を出してコップに注いだ。

テレビを消すと部屋の中は歩く時の床が擦れる音とパジャマの衣擦れの音しかしなくて妙に耳に響いた。

私はベッドに入って布団を肩まで掛けて天井を見つめた。

埃でちょっとだけ黒ずんだいつもの白い天井だった。

使ったコップを水道で洗う音がキッチンから聞こえてくる。

これが私の生活なんだな、そう思いながら目をつぶっているとシンジがベッドの中に入ってきた。

 

シンジの体はポカポカと暖かで、どうせだったら先に布団を暖めさせておけばよかったなと後悔した。

横からは静かな息が聞こえてきて、それっきり掛け布団は動かなくなった。

それなのに私は疲れているのに眠れる気がしない。

どうやら自分の気持ちがまだ完全に落ち着いていないことに気がついて目をつぶったまま言った。

 

「シンジさ、今日あたし何があったか知ってる?」

「知る訳ないだろ」

「知りたい?」

「アスカが聞いてほしいんなら」

 

シンジは体も顔も動かさず興味なさそうな声でボソボソ小さな声で答えた。

私は少し間を空けて、同じように小さな声で話を続けた。

 

「今日加持さんと寝たんだ」

「...」

「加持さんとホテルで食事してね。部屋とってるって言われて...。逆らえなかったんだ」

 意外とたいしたことなかったよ。なんかあんまり感じなかったし。

 でもさすがは三十男は慣れてるわ。全部リードしてくれたし。

 いつの間にか気がつかないうちに服脱がされちゃった」

「ふぅん」

「ふぅん、って...それだけ?」

「...うん」

「嫌いになった? あたしのこと」

「別に」

 

シンジはそう言って横を向いた。

 

「ねえ、あんた本当にあたしのこと好きなの?」

「どうしたんだよ」

「何も感じないんだ。あたしが誰と寝ても」

「そんなことないさ。心臓ドキドキしてるよ」

「嘘。全然そんな素振りみせないじゃん。それとも心広いとこ見せたいわけ?」

「...アスカこそ何が言いたいんだよ」

「あんたあたしのこと好きだっていったじゃない。好きだったら好きなところもっと見せなさいよ」

「それってどんな?」

 

シンジは横目でこちらを見ながら答えた。

私は少し考えて言った。

 

「じゃあ三回回ってワンって言ってみなさいよ」

「それがアスカの好きのあかしなの?」

「違うわよ。だけどもし相手のことを好きならその人の言うことは絶対的な力を持ってないとおかしいでしょ。

 私がケーキが食べたいって言ったらケーキを買ってくるし、ホテルのスイートに泊まりたいっていったら

 バイトしてお金稼いで予約してくるし、三回回ってワンと言えっていったらそうするのよ。それが愛ってもんでしょ」

「なんだか無茶苦茶だね」

 

シンジは呆れ顔でそう言った。

 

「そうよ、愛ってのは無茶苦茶な犠牲が必要なのよ。少なくともあたしにとってはそうよ」

「犠牲を払うのが僕だけだなんてアスカらしいよ」

 

シンジは笑って、そしてすぐに思案顔になって言った。

 

「ねえ、でも僕が言った好きってのはきっとアスカが想像してるのと違う意味だよ」

 

シンジはそう言うとその場で立ち上がった。

そして私を見つめたあとでゆっくり回って、終わると、ワン、と言った。

その声は静かで深くて、なんだかいつまでも耳に残りそうに聞こえた。

シンジは足元に寄って、今度はその場にひざまづいて私の足首を握った。

手のひらからは温もりが伝わった。

 

「ねえ、アスカ。僕は自分の意志でアスカを好きだって言ったんだ。

 別にアスカの見返りを求めてるわけじゃなし、アスカの返事を聞きたいわけでもないよ」

 

シンジは身を屈めて、私の足の指を口に含んだ。

シンジの頭が深く沈み込み舌が動くたびに、右足の親指がぬめりとした感覚に包まれた。

くすぐったかったけれどそれ以上に私にはこの行動が不思議に思えた。

 

「ちょっと止めなさいよ。汚いわよ、足」

「バイキンくらいじゃ人間は死なないよ」

「そういう意味じゃないって。とにかくやめないさいよ」

 

シンジは口を離すとまた枕元に戻ってきた。

 

「ねえ、アスカ。僕はアスカのことが好きだ。でもそれは僕がそう自分で決めたことなんだ。

 後悔もしなければ、人がどう思うかも関係ない」

「あんた馬鹿? そんなこと言われて喜ぶ女いると思う? 単に自分を押しつけてるだけじゃないの」

「人を好きになるってことは、要は自分がどう思うかじゃないか。

 僕が好きだと思えば僕は確かにその人が好きなんだ。

 僕はアスカのことが好きなんだからそれでいいじゃないか」

「あんたってほんと馬鹿ね」

「ねえアスカ、...僕は今日は本当のことを言うよ。

 ...アスカは存在自体が傲慢なんだよ、僕にとっては」

 

私が無視するとシンジも黙り込んだ。

そしてしばらくして寝返りを打ちながら言った。

 

「僕は多分アスカが明日いなくたっても今までみたいに生きていける。

 そしてきっと自分でも驚くくらい当たり前にそれを受け入れることができる気がするんだ。

 だけど僕の人生にとってアスカの存在はすごく絶対的なものでそれはきっと仕方ないことなんだ。

 ねえ、アスカは僕自身の存在が霞んで消えてしまうくらいの重圧を僕に与えて、

 傲慢って言葉以外思いつかないような存在なのに、それなのに僕はアスカを受け入れてしまう。

 僕の言ってる意味判る?」

 

私は全然意味が判らなかった。

そしてシンジが大きく呼吸をするのが判った。

シンジは一気に喋ってしまおうとしているようだった。

 

「今日の星空はすごく綺麗だった。だけど僕はあれより綺麗な星空をたった一度だけ見たことがある。

 アスカは覚えてる? サードインパクトの後で一緒にUNのヘリの中で見た星空。

 世界には星しかないくらい輝いていた。

 僕はこの世界は本当に美しいと思った。そして自分だけが薄汚れてると思って泣いたんだよ」

 

私は馬鹿馬鹿しかったので返事をせずに、もう何も言わずに眠ることにした。

目をつぶると意外に早く暗闇が私の意識を包み込んでくれた。

今日という一日は、結局そうやって終わった。

 

 


 

 

約束の時間を15分過ぎて待ち合わせの講堂の前に到着した。

綾波は既にその場所で待っていた。

結局あの後連絡を取り合って、またお茶でも飲もうということになった。

私は授業が遅れたことを説明して詫びると、彼女は神妙な表情で頭を深く下げていった。

 

「惣流さん、今日はごちそうさまです」

「え?」

「1分100円として1500円ね。おいしいケーキセットの店知ってるから」

「え、何、それ?」

「だって遅れたじゃない」

「ゲッ、た、確かに遅れたけどさ...」

「じゃあ、決まり。今日は何食べようかな」

 

彼女は嬉しそうに笑った。

そして私もつられて笑った。

 

午前中の授業には出席したので午後の授業は欠席することした。

コンピュータ実技なんてあとから家でやっても同じだったし、なにより狭い計算機センターに行くのに気が引けた。

晩秋の構内は閑散としていて寒々とした雰囲気が漂っている。

4月の頃構内に溢れかえっていた1年生達はすでに見当たらない。

学校にいるのは単位を取る必要に迫られた連中だけだった。

今構内にあふれているもの。

閑散とした広い道路、薄汚れた建物、銀杏の木、好き勝手に飛び回るカラスとスズメ、よどんだ空の色。

道行く人達はみんなポケットに手を突っ込んで歩いていた。

 

綾波は白のロングスカートにブラウンとクリーム色の斑模様のニット、上から白のハーフコートをまとっていた。

肌はまるでこの季節のためににあつらえたように綺麗な真っ白だった。

彼女はまるで一歩一歩を踏みしめるようにゆっくりゆっくり足を前に進めた。

私も同じ調子で彼女の横を歩いた。

 

正門を出て大学の構内を取り巻く歩道に出ると、街路樹の銀杏が道を覆っていて黄色いトンネルのようだった。

頭上と地面に落ちた黄色い葉が通る人まで同じ色に染めるように取り囲んでいる。

歩道には午後からの講義に出るのか大勢の学生達が学校に向い私達はむしろ流れに逆らう格好になった。

車道は車がひっきりなしに通って騒音がうるさかった。

 

「ねえ、惣流さんは銀杏は好き?」

 

ささやくような小さな声で彼女は言った。

見ると銀杏を目を細めて見上げていた。

 

「高校の頃もね、銀杏並木があったの。あの頃は気にしてなかったのに最近はよく思い出すわ」

「あんた高校はどこだったの」

「こっち、第二新東京よ。清野って知ってる?」

「うん、聞いたことはある」

「惣流さんはこの街好き?」

 

私は第二新東京に来てからのことを思い出そうとしたけれど、たいしたことは何も思い出せなかった。

駅の埃とコンクリートの混じった無機質な匂い

商店街の安っぽい油と醤油の匂い

教室のペンキとカビの匂い

そしてシンジと暮らすアパートの匂い

私が思い出したのは曇りの日の薄暗い日差しと、鼻の奥に残る匂いだけだった。

そう考えたら第三新東京にいたころは毎日がお祭りみたいに輝いていた。

だけどその輝きは私自身のものじゃなかったけれど。

 

「好きってわけじゃないわ。でも嫌いでもないの。ただべったりと平板な感じがする。

 夏の暑い日にクーラーの利いた部屋に一日閉じこもってる感じかな」

 

私はそう答えた。

綾波は私を一瞥してゆっくりと言葉を選ぶように言った。

 

「この街は全然たいしたところじゃないわ。ネルフもジオフロントもないただの普通の街。

 ただ人がたくさんいるだけ。この街の人口が百万人ならわたしはその百万分の一だもの」

 

彼女は立ち止まった。

そして何かを見つめるように言った。

 

「だけどわたしはこの街で、自分が生きているってことが判ったの。

 そう、...初めて知ったの。

 ねえ、信じられる? その百万分の一であることが素晴らしいってこと」

 

私は変なやつだなぁ、そう思ってゆっくり歩みを続けた。

振りかえると彼女は立ち尽くしていた。

5mほど離れてたたずむ白いハーフコートを着た綾波は黄色い銀杏の中で迷子になった小さな野ウサギのように見えた。

私はしょうがないなと思いながら立ち止まって彼女が歩き出すのを待った。

 

30秒ほどたって彼女は私が見つめていることに気がついたみたいだった。

やがて大きく目を見開いて驚いたような表情をした。

 

「惣流さんはどうして私のこと待ってくれるの?」

 

彼女は言った。

私はなんと言っていいか判らずに、彼女を見つめた。

私達はお互い見詰め合う形になって、人々は歩道を塞ぐ私達の間を通り抜けていった。

やがて彼女のから大粒の涙が溢れ出した。

その涙は離れて見ても判るくらい大きく丸くて、ポロポロという音が聞こえてくるような気がした。

私は訳が判らずに、ただ白いコートに身を包んだ綾波を見つめ続けた。

 

 


 

to be continued

 


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