昼過ぎの街は閑散として風が冷たかった。

都心に出て大通りに面した黒いビルの2階の喫茶店に入った。

入口には厚いじゅうたんが敷いてあり、中はアンティーク調のダークブラウンのインテリアで統一されていた。

ウェートレスのウェアは糊のきいた白いシャツと黒のタイトスカートで統一されていて、背筋を伸ばした姿が印象的だった。

私はちょっと高そうだなと頭の隅で考えながら、でもこういう折り目正しい店もたまにはいいものだと思った。

 

さっきのことがあってから綾波にはなんとなく声をかけにくかった。

それなのに綾波は何事もなかったかのようなすっきりした顔でスタスタと歩いた。

ベルベットの椅子に向かい合って座ってやっと正面から見つめることができた。

私はとりあえず質問した。

 

「ねえ、もう大丈夫なの?」

「なにが?」

「だってあんた、さっき...泣いてたじゃない」

「あれなら全然たいしたことはないのよ。心配したの?」

 

綾波の言い方はまるでクシャミでもしただけといった具合で私は拍子抜けした。

ウェイトレスがテーブルにやってきて注文をとりたそうに、お決まりになりましたでしょうか、と質問した。

私達はおすすめの紅茶はなにか尋ねて、ケーキセットで注文した。

しばらくして銀色の大きな盆にのせたケーキをもってきたので二人で適当なものを指差した。

昼を過ぎておなかが空いたので、ケーキはどれもおいしそうでちょっと楽しい気分になった。

綾波は窓の向こう側の交差点の方を横目で眺めていた。

私は同じ方向に視線を落として言った。

 

「ねえ、デパートの角に入ってるのティファニーよね」

「そうね」

「あそこにテラスでも出して何か食べられるようにすればいいのに。ティファニーで朝食を、ってね」

 

私はちょっといい気分にひたりながら言った。

喫茶店の中は普段見なれている大学の薄汚い風景と違うシックな雰囲気だった。

窓から見えるTiffanyやBvlgari やPradaや、きらびやかで豪華そうな都会の眺めは悪くはなかった。

シミ一つないキラキラしたガラスは見ていて気持ちがいいものだ。

綾波はじっと私を見つめて、ボソリと言った。

 

「今は昼よ」

「いいのよ、朝だろうが昼だろうが、夕食だろうが。楽しむ心を忘れてはいけないわ」

「誰もテファニーで朝食なんか食べないわよ。カポーティ読んだことないの? あれはタイトルだけ」

「...知ってるわよ、でも食べたいじゃん。で、昼間はお茶飲めるようにしてさ。店も少し気を利かせればいいのに」

「今の時期だと寒いわよ」

「春になってから行けばいいのよ」

 

私は頬杖をついて綾波を見つめながら言った。

綾波は口元を歪めて笑みを浮かべるとこちらを見つめながら言った。

 

「...あなたのそういうところ、素敵だわ、惣流さん」

「どういたしまして」

 

私達は笑った。

 

 


 

もう頬杖はつかない

第12話

 


 

 

真っ白なシャツに黒のタイトスカートのウェイトレスがゆっくりと近づいてきた。

髪を後ろにまとめて腰に金色のチェーンを短くたらして気取った歩き方だった。

ウェイトレスは音もたてずにそっとカップを置いた。

私は香りのいい紅茶を楽しみながら綾波に視線を戻して言った。

 

「あら、これマイセンじゃん。玉ねぎ模様ね」

「ここは紅茶もカップも良いもの使ってるから好きなの。高いからめったに来ないけど」

「ふうん、あんた意外と贅沢ねぇ」

「本当に価値のあるものだもの。ねえ惣流さん、価値って外からは絶対に見えないのよ。

 だから見かけだけを好む下らない人には本当の贅沢は判らない」

「じゃあ、あんたは判るの?」

「...そうかもしれないわね」

 

視線を下げたまま、すました顔で綾波は呟くとダークチェリーが乗ったババロアにフォークを入れた。

私は底が深いぶ厚いガラスのビンに入ったプリンにスプーンを差し込みながら答えた。

プリンはミルクとブランデーがきいていて、いつも買うコンビニのやつとは全然違った。

 

「聞いてて楽しいわね、その言い方。まあ昔からあんたは優等生っぽかったけどさ」

「だけどあなたにだって判るでしょ。わたし、あなたのはっきり言う正直なところ嫌いじゃない。

 あなたは自分に素直な人だもの」

「それどういう意味?」

「ほめてるつもりよ」

「そうかなぁ、損すること多いと思うけど。ジャパニーズスマイル勉強しときゃよかったわ」

 

私は笑って、大きく目を見開いて口元を引き上げて思いきり作り笑いをしてみた。

ほめる、という言葉に自分が照れていることに気がついた。

綾波は小首をかしげて微笑むとティーカップに口をつけた。

そして白地にコバルトブルーの模様のマイセンの皿にフォークを置いた。

カチンという音が聞こえた。

彼女の青白い髪は相変わらずサラサラしていてとても綺麗だった。

 

「ねえ、惣流さん。あなたって本当に変わらない。あなたの周りだけ時間が止まっているみたい。

 だけどそれって素敵なことだわ」

「あたしだって随分変わったわよ。良い方にか悪い方にかわからないけど」

「わたしが言っていることはそういうことじゃない。

 本物って見出す目が必要なの。マイセンを最初に作ったのは道楽好きの王様と錬金術師。

 最初に何かを作り出ことは人と同じものを求める人間には不可能だわ。

 人と同じであることに一生懸命な人間はいくらでもいるけれど、好きなものを好きといったり

 嫌いなものを嫌いと言える人間はそれだけで尊敬に値するものよ」

「綾波って、変なこと考えるのね」

「あなただって同じじゃない? 見ていてそう思うの。違うかしら」

「そうともいえるし、そうじゃないともいえるかもね。人間なんてそう簡単に割り切れるものじゃないでしょ」

「そういう言い方嫌いじゃないわ」

「光栄ね」

 

私はちょっと戸惑いながら答えた。

昼下がりの店内はのんびりとした雰囲気が漂っていて、綾波の不思議な話に妙に場の雰囲気が合う気がした。

 

「惣流さん」

「なによ?」

「あのティーカップセット欲しい」

 

綾波はため息をついてそう言いながら、両手でカップを持ち右手の人差し指で縁をなぞった。

そして壁の方に目を向けて頬杖をついてもう一度ため息をついた。

そこには小さな皿が飾ってあった。

 

「ねえ、信じられる? わたし今だに500円のマグカップしか持ってないの。本当はあれが欲しいのに」

「もう少し良いのを買えばいいじゃない」

「中途半端なものだったらいらない。わたしはあのカップが欲しい」

「高いの?」

「あなたが聞いたらきっと腹をたてるわ」

「じゃあ冷静に聞くことにするわ」

 

綾波は視線を上にそらして考える素振りを見せると、私に小声で値段を耳打ちした。

 

「バッカじゃないの! たかがコップでしょうが!」

 

私は大声でどなったので、周りの人がこちらを振り向いてクスクス笑った。

しまったと思ったがコップごときにそんな大金を払うのは馬鹿馬鹿しいともう一度心の中で思った。

綾波はそんな私を無視して一心に壁の方を見つめていた。

こんな可愛い綾波を初めて見て少し得した気分になった。

 

「今日はあたし結構嬉しいのよ。あんたが付き合ってくれて。なんか人と話がしたい気分でさ」

「...加持さん?」

「まあ、いろいろよ」

 

私は適当にあいづちを打った。

自分で打ったメールだったけれど、なんとなく楽しい気分になっていたのでその話はしたくなかった。

綾波はカップに口をつけながら返事を待っていた。

 

「ねえ、人間の目はどうして前についてるか知ってる? 前に前に進むためなのよ。

 後ろばっかり見ててはいけないわ。今日はその話はやめましょう」

「今日はその話がしたかったんじゃないの?」

「さっきまではそう思ってたけど、気分が変わった」

「面白い人ね」

「そうかな? 綾波と話してるとなんだか落ち着くみたい。友達と飲む午後の紅茶っていいものよ」

 

私はちょっと照れながら言った。

綾波は少し考えて、そしてゆっくり微笑んで言った。

 

「ねえ惣流さん、あなたはメールよりもこうやって一緒に話してる方がずっと素敵だわ」

 

そばを銀色のトレイに水とおしぼりを持ったウェイトレスが風をきって通りすぎた。

後ろから新しい客らしい話声が聞こえてうるさかったけれど、綾波の言葉ははっきりと耳に残った。

白く透き通る肌と青白いさらさらした髪、そして赤い瞳を見て、やはり綾波は綺麗だと思った。

 

 


 

 

電車から降りたのは辛うじてホームに屋根がついている郊外の駅だった。

私が遊びに行っていいかと尋ねると、綾波は構わないと言った。

黒ずんだコンクリートの改札をくぐり抜けると周りは暗くなって寒々とした空気に包まれた。

駅前は小さなロータリーで閑散としていた。

白い服に身を包んだ綾波は夕闇の風景に溶け込むよう見えた。

彼女の腕や首筋の白さは透き通るように見えた。

 

「よかったの? 迷惑じゃなかった?」

「迷惑な人をわたしが連れて来ると思う?」

 

綾波は驚いたように言った。

昔の無愛想な綾波を思い出してそれもそうだなと考えた。

 

「確かにあんたって、嫌いな人間相手ならすげなく断りそうね」

 

日は落ちて夕闇は深かった。

駅前から伸びる小さな商店街は電灯がまばゆく照らしていた。

仕事帰りのサラリーマンが酒に酔ってコンビニのビニール袋を持ってふらふらと歩いていた。

100mほど歩くと路地は終わって住宅地に入った。

グレーの古びた4階建てのアパートが3棟並んで建っていた。

『ここは国連先端生物学研究所第二新東京支部の敷地です。許可無く入ると罰せられます』

プラスチックの薄汚れた白いプレートは子供の悪戯のせいか端がひび割れて今にも落ちそうだった。

遠くから夕食の匂いと子供の笑い声が聞こえてきた。

 

(生活の匂い、か)

 

懐かしいような、切ないような、そしてささやかな幸せを感じさせる匂いだった。

暗い階段を2階まで上って右に曲がり、廊下を歩いた所に綾波の部屋はあった。

左にトイレとバス、右に簡単なキッチンがあって奥は8畳の広さの部屋だった。

明かりをつけると白い壁紙と白いカーペットにこたつがしつらえてあった。

 

「ごめんなさい、散らかってるけど」

「あんたこんなに白ずくめにして、まるで北極みたいね」

 

私は綾波に勧められてシャワーをあびた。

貸してもらったスウェットを着こむと、交代で綾波がバスルームに入った。

手持ち無沙汰なので放り出してあったハーブや紅茶や磁器の本を読むことにした。

ページをめくっていると時間がたつのを忘れてしまい、気がつくと綾波が髪をふきながら私のことをじっと見つめていた。

その後、私達は紅茶を飲みながらTVを見て、とりとめのない話をした。

高校の頃のこと、今の生活、趣味のこと。

それはとりたてて大したことのない話だったけれど、何の気兼ねもいらない話だった。

話が尽きた頃に綾波は言った。

 

「惣流さん、賭けトランプしない?」

「賭け? 何を?」

「秘密」

「なによそれ、それじゃ賭けにならないじゃないの」

 

綾波はクスリと笑って、メモを取り出して何かを書くと丁寧に折りたたんだ。

私が、何それ?、と聞いても口元に笑みを浮かべたまま説明してくれなかった。

 

「変なやつねぇ。ニヤニヤしてないで何か言いなさいよ」

「それは駄目。勝負が終わったら見せてあげる。わたしにとってもあなたにとってもきっとフェアな条件だから」

「どうしようっての?」

「負けたほうが勝ったほうにここに書いたものを差し出すの。簡単よ」

 

言い終わると綾波は一緒に取り出したカードをシャッフルしはじめた。

手さばきは決して器用でも慣れてもいなかったけれど、白く細い彼女の指が綺麗だった。

配られたカードを手にしてふと質問してみた。

 

「で、全部配ったけど何するの? まさかババ抜きって訳じゃないでしょうね」

「そうよ、ババ抜き」

「ちょ、ちょっと、二人でババ抜きなんて聞いたことないわよ」

「だってわたしそれしか知らないから」

 

綾波は眉一つ動かさずに答えた。

私はあきれて言った。

 

「ねえ、綾波さ、ババ抜きって大人数でやるからカードが合わなくて勝負になるんじゃない。

 二人でやったら引くカード引くカード全部合うに決まってるでしょ。

 最後のババを引き当てるかどうかだけの勝負なんて、一体なんなのよ」

「結果が出れば問題ないわ。勝負は単純なほうが面白いもの」

「言ってくれるじゃない」

 

ゲームは淡々と始まった。

手元のカードの中から同じ数字のものを捨てると手元のカードはあっという間になくなっていった。

機械的に進むゲームに飽き足らなくて私は質問した。

 

「ねえ、昔から不思議だったんだけどさ。綾波って一体どういう育ち方したの?」

「...」

「言いたくないならいいけど」

「たぶん...聞いても信じないもの」

「そんなことない。信じるよ、ちゃんと」

「わたし...本当は宇宙人なの。小さいときにUFOに乗って地球に来たの」

「は?」

「アンドロメダ星系の第5惑星。そこではみんながテレパシーが使えて争いごともなく優しい気持ちで暮らしてるの。

 黙っていてもお互いに分かり合える誰もが幸せな世界。信じる?」

「まぁ...ね」

「...冗談よ」

 

私はがっくりと力が抜けて、そして大笑いした。

綾波もクスリと笑った。

 

「あんた冗談のセンスないわねぇ。あたしまじめに聞いてるんだからちゃんと言ってよ」

「じゃあ今度は本当のこと言う。本当は私、マッドサイエンティストから作られたクローン人間なの。

 100人近い同じ遺伝子をもった姉妹がいて、わたしはそのなかの一人に過ぎないわ」

「...綾波、やめてよぉ」

「ごめんなさい。怒った?」

「まじめに聴いて損した」

「だって惣流さんからかうと面白いから」

「もういい」

「でも相手が惣流さんだから。こんな冗談今まで誰にも言ったことないから」

「そうなんだ」

「今はまだ言えないような気がする。でもいつかきっとちゃんと言うと思う」

 

綾波は済まなさそうな顔で私に、ごめんなさい、と言った。

私は、気にすることない、誰にだって言いたくないことはあるよ、と言った。

綾波は私のカードに手を伸ばした。

残ったカードは私が2枚、綾波が1枚になった。

 

「さあ、考えて引きなさいよ」

 

綾波は用心深くカードを見つめ、チラと私を見つめて右のカードを引いた。

 

「JOKER!」

 

私は叫んで笑うと、綾波は苦い顔をした。

綾波は口を尖らせて二枚のカードを後ろに隠してごそごそと混ぜて目の前に突き出した。

今度は私が用心深くカードを見つめた。

 

「これ!」

「...」

「やりぃ!」

「...」

 

綾波は無言で苦い顔をした。

私は喜んで綾波がテーブルの上に置いておいたメモを開いた。

メモには小さな字が書いてあった

 

『一番大切なもの』

 

私が質問しようとしたとき、綾波は立ち上って言った。

 

「もう寝ましょう」

「ねえ、これどういう意味?」

「書いてあるとおりよ」

「だから」

「深く考えちゃだめよ、冗談のつもりだったんだから。からかい損なったな」

 

私はやっぱり綾波は変わったやつだ、そう思った。

 

 


 

 

何時の間にか12時を過ぎたので寝ることにした。

電気を消すと部屋の中は真っ暗で、目が慣れると月明かりが綺麗だった。

空気はすっかり冷えていた。

布団の中に入って目をつぶったけれど目が冴えて眠れなかった。

ガサゴソいう音が窓のほうから聞こえた。

 

「なにやってんのよ」

「ごめんなさい、起こした?」

「ううん、あたしも眠れなかったから」

 

上半身を起こして綾波を見た。

月明かりが綾波を照らして薄暗い部屋の中で青白い髪が輝いていた。

 

「月、綺麗ね」

「別に月を見てるわけじゃないの。ただ眠れないだけ」

「そうなんだ」

「わたし夜は薬のまないと眠れないから。不眠症なの」

 

綾波は小さな声で言って膝を抱きかかえるように身を堅くした。

私は布団を抜け出して横に座って一緒に月を見た。

透き通るように淡い光を放つ月は冷たい空気のせいで表面の陰影までくっきり見えた。

 

「だったら飲めばいいのに」

「...わたしはね、心に一つ秘密がある。ねむりぐすりはうわごとをいうと申すから、それがこわくってなりません」

「なによそれ」

「昔読んだ本のセリフ。なんだか心に残ってて忘れられないの」

「別にいいわよ。寝言いっても」

 

綾波は答えなかったので、私が黙ると部屋の中は沈黙に包まれた。

遠くから車のエンジンの音が聞こえてきて、やがて静かになると時計の針の音だけが耳に響いた。

ラジオでもつけようかと言ったけれど、綾波は必要ないと答えた。

再び訪れた沈黙に耐えられずに私は言った。

 

「綾波は人を好きになったことってある?」

「...惣流さんは?」

「よく判らない。あたしの場合は加持さんだったけど。あの頃は子供だったから」

「今でも好き?」

「よくわかんない。好きってことが最近わかんない」

 

わたしはそう言ってひざ小僧の間に顔を埋めて綾波の方に体を寄せた。

綾波は肩に白いカーデガンをかけていた。

寒い部屋の中で彼女の体温がじわりと伝わってくるような気がした。

 

「わたし、これが好きってことかなって思ったことはある」

「へぇ、綾波が? どんな」

「たぶんわたしは誰の特別でもなかった。碇司令はわたしの特別だったけど、でもわたしは碇司令の特別じゃなかった。

 だからそれを知ったときとてもショックだった。やっぱりわたしじゃ駄目なんだ、すごく失望した」

「...」

「いつも心の中で考えたの。たぶんわたしは誰の特別にもなれない。

 そうはっきり判ったらつらいから、期待するのはやめよう、って」

「そうなんだ」

「でもわたしにも思い出はあるの」

「へえ、どんな?」

「高校のときクラスが一緒だった人。...帰り道で約束したわけでもないのによく一緒になって。

 その人は他の友達と一緒に歩いてるときもいつもわたしの方を振り向いて見てくれた。

 何度も何度も後ろを振返ってわたしを見てくれた。わたしが遅れたら立ち止まって待ってくれた。

 一緒に歩いてる人達じゃなくてわたしの方を見ててくれたの」

「つきあってたの?」

「そんなことはどうでもいいことだったの。その人は誰にも心を閉ざしていた感じがした。勿論わたしに対しても。

 でもその人がわたしを見つめていると思うと、わたしはなんだかすごく特別になれた気がしたのよ。

 今日わたしが泣いてしまったのは、その時のことを思い出したの。

 世の中には振り向いてわたしを見てくれる人がいるなんて、嬉しくて、そして...悲しくなったの」

「あんたも、そいつも、変なやつだったんだね」

 

私はできるだけ優しい声でそっと呟いたけれど、綾波はそれには答えずにじっと月を見た。

お尻をずらしてもう少し綾波に近寄った。

肩が触れ合って体温が伝わった。

綾波は横目で私を見て呟いた。

 

「碇君とはこういう話しないの?」

「しないこともないけどね。なんていうかさ、あたしとシンジの関係はすごく微妙なのよ。

 たぶん他の下らない連中とは違うってことをお互いに理解してるの。

 そしてお互い好きだとかそういう感情は超越してるって感じがあって、それがいいところだったのよ。

 でもシンジは最近なんか違うんだよね」

「あなた達は恋人なの、友達なの?」

「どっちでもないのよ。そんな言葉ではくくれない関係だったのよ、今までは」

「でも、碇君とは、...するんでしょ」

「するよ。シンジしたがるし。男の人ってそういうのしょうがないじゃない。

 ...それにあたしも時々したくなるし。

 でも本質的にそういうのじゃないって感じなんだな。結局自分の中でもやもやしてるのよ。

 だから加持さんと話をしたらそれがよくなると思ったんだけど。

 なんか話しても通じ合うものがないんだよね。それがショックだった」

「それはあなたが変わったからよ」

「あんた、あたしは変わってないって前に言ったじゃない」

「それは意味が違うわ。人間の中身なんて誰だって何も変わらない。

 ただ使っただけ心は磨り減って、そうなる前の自分を懐かしく思うようになるの。

 私は後ろばかり見てるけど、あなたはちゃんと前を見てる。だから変わらないと思っただけ」

 

私はそうかなぁ、と呟いた。

そしてそれきり綾波は黙り込んだ。

私も言葉が出てこなくて黙り込んだ。

ただ時計の針の音だけが耳に響いて、綾波の肩から温かみが伝わった。

私は諦めて布団に戻って目をつぶった。

綾波は身じろぎもせずに月を眺めて、物音ひとつしない部屋には私一人しかいないみたいだった。

今日はもう寝ようと思って最後に綾波に声をかけた。

 

「ねえ、綾波」

「...なに?」

「あたし今日、あんたと一緒で楽しかったよ」

「そう、...嬉しいわ」

「あたし友達って言葉今までまじめに考えたことも実感したこともなかったんだ。

 でも今日みたいな感じだったらそういうのも悪くない気がする」

「...」

「今日、あたしが友達と飲む紅茶、って言ったときあんた笑って聞いてくれたね。

 あれ、すごく嬉しかった。本当は馬鹿にされたらどうしようって思ってた。...ありがとね」

「...」

「...あんたいいやつだね、綾波」

「わたしも惣流さんのこと好きよ」

「ありがとう」

「あなたってきっと幸せになるべき人だわ。私と一緒で少し頑固そうだから他の人には理解されないかもしれないけど。

 でもあなたの場合はきっと幸せになれるし、なるべきだわ。わたしそう思う」

「それはお互い様なんじゃないの? それよりあんた、前にメールで幸せなんて言葉軽々しく

 使うべきじゃないとかなんとか言ってたじゃない」

「あれはわたしの場合だけ。あなたは気づいてないでしょうけど、わたしにとってあなたはとても眩しい存在なの。

 正直に言うけど、わたしはあなたに憧れてるのよ。これ本当よ」

「そんなこと...。まあ、せいぜいお互い下らない生き方はしたくないよね」

「あなたのそういう言い方、素敵よ」

 

綾波はクスリと笑って、囁くように言った。

私は、どういたしまして、と答えて、そして布団をかぶった。

 

 


 

to be continued

 


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