目が覚めた。

薄ぼんやりと闇の中の白い天井が見えた。

時計の針の音がいやにはっきりと聞こえた。

あれ、違う、と思った。

そしてここが自分のアパートじゃなくて綾波の部屋だということを思い出した。

寝返りをうって見回しても綾波は布団にも窓のところにもいなかった。

 

(どこいったんだろう)

 

考えながら目をつぶろうとしたとき入り口からもれる光に気がついた。

トイレかなと考えて目をつぶったけれど綾波はいつまでたっても戻ってこなかった。

枕元の目覚ましはまだ3時だった。

布団にもぐると自分の布団とは違う匂いがした。

やっぱりこれは綾波の布団だ、考えるとなんだか気持ちが高ぶって眠れない気がした。

なぜなら私は初めてシンジ以外の他人と一緒の部屋で寝ている。

 

我慢ができなくなって静かに立ちあがってバスルームに忍び寄るとそっと中を覗いた。

暗闇になれた目には光がまぶしかった。

そこにはまるで銅像のようにじっと鏡に向かう白いスウェット姿の綾波がいた。

背筋を伸ばして両手を洗面台について鏡を覗きこんでいた。

 

(なにしてるんだろう)

 

綾波は鏡に向かってにっこりと微笑んだまま10秒たっても20秒たっても微動だにせず表情を崩さなかった。

その表情はまるで神様がつくった完璧な微笑みに見えた。

口元は優しいマリア様のようで、涼しい瞳は魅惑的な天使のようで、さらさらの髪は海のさざなみのようだった。

知らないうちに鳥肌がたっていた。

この表情を自分だけが知っていると思うとなんだか誇らしい気持ちになった。

だけどいつまでも眺めるうちに段々と綾波が私の知らない世界にいるような気がして気味が悪くなった。

私は気づかれないようにそっと布団に戻るともぐりこんだ。

なんだか見てはいけないものを見たような気がしたからだ。

目をつぶると時計の針の音だけが聞こえた。

 

 


 

もう頬杖はつかない

第13話

 


 

 

2021年の12月はなんだか忍び足のようにやってきた。

世の中はアフリカの飢饉や国連の選挙制度改革のニュースでやかましかった。

人々は時に変革を叫び、時に華やかだった20世紀を懐かしみ、思い出したようにデモを行ったりした。

街には焦燥と、回顧と、誰に対してか判らない不満と、そして捨てられたビラが満ちていた。

そしてそれは、私にはなんの関係もないと思えた。

 

私の周りは時計の針のように規則正しく何事もなく時が過ぎていった。

まるで物理の慣性の法則のように外力の働かない物体はひたすら一定の運動を続ける、といった具合だった。

みんながいつもと同じ日常を、いつもと同じ時間の尺度で、そしていつもと同じことの繰り返しで生きていた。

全てが静かで落ち着いていた。

空気は日一日と冷たくなるけれど、心はなんだか暖かな日だまりにいるような気分だった。

シンジは大学とアパートを往復しながら、下手な風景写真を撮ったり、宿題をやったり、本を読んだりしていた。

 

「あんたってホントに暇ね」

私はよく言った。

 

「暇は自分でつくるものだよ」

シンジは決まってそう答えて、コタツにくるまりながらコーヒーをすすってわき目もふらずに本のページをめくった。

会話はいつもそれでお終いだったけれど、私の気分はそれで落ち着いた。

 

私の日常は、下らない大学との往復と、ペットショップのバイトと、そして綾波とのお茶が全てだった。

綾波と飲むお茶の時間は私の日常に新しい満足と落着きを与えてくれた。

毎日のように昼過ぎに綾波のところに立ち寄って喫茶店で時間が許す限りとりとめのない話を続けた。

それは紅茶やハーブやティーカップのことだったり、ファッションやおいしいレストランや喫茶店のことだった。

綾波はそういう話題に詳しくて、私は感心しながらときには耳を傾け、ときには反論したりした。

私の心は段々と綾波に友情のようなものを感じ始めていた。

友情という言葉はあてにならない胡散臭いものだったけれど、綾波に当てはめると不思議な輝きを放った。

それはまるで新しい言葉を発見したような新鮮な喜びだった。

私は照れながら念を押すように何度も綾波に言った。

 

「あんたと一緒にいるとね、友達って言葉がすごく輝いて見えるのよ。...なぁんて、ちょっと照れるね」

「さあ、わからないわ」

 

綾波は、けれど決まって微笑んで答えてくれた。

その答えは肯定でも否定でもなかったけれど、それはそれで私の気持ちは十分に落ち着いた。

まるで心だけがガラス張りの日だまりのテラスにいるような感じだった。

 

12月4日はすぐ目の前にやってこようとしていた。

私はついにその日、二十歳になる。

なんだか不思議な気持ちだった。

なぜなら私の二十歳の誕生日はきっととても空虚だと思っていたのに、人生は決して悪いものではなかったから。

全ては川の流れのように自然で、そして静かだった。

 

 


 

 

誕生日、シンジが街に出ようと誘ってくれたので出かけることにした。

頬にあたる風は冷たかったけれど日差しの暖かさのせいで爽やかな日だった。

街はあちこちでクリスマスの飾りつけが始まって浮ついた雰囲気だった。

連れていかれたのは、この間綾波とお茶を飲みながら眺めたティファニーだった。

プレゼント=ティファニー、安直な気もするけどシンジにしては上出来かな?、そんなことを考えた。

シンジはきらびやかな店内でしばらく居辛そうな表情をしていたけれど、やがて投げやりに言った。

 

「ねえアスカ、好きなもの選んだら良いよ」

「...見たててくれるために一緒に来たんじゃないの?」

「 ...でもこういうのは身につける人が選んだほうが的確だよ」

「信じられない。あんた何様?」

「苦手なんだ。僕にはよく良く判らないって判った」

「無知の知ね...哲学的でいかすわ」

 

私は指をパチンとならして皮肉を言った。

シンジは少しすまなそうな顔をした。

 

「そもそも大体どうしてこの店に入ったの」

「昨日...一人で見に来たらここのが良さそうだったから」

 

ぶっきらぼうに視線をそらしてシンジは言った。

それが照れ隠しだと気がついたら急におかしくなった。

早く選べよ、という顔をしているシンジを見ていると意地悪してやりたくなった。

 

「ねえこのネックレスさ、大きいダイヤが一つ入ってるのと、小さいのが3つ入ってるのと、

 クロスがついてるのと、シンジはどれがいいと思う?」

 

シンジはぶつぶつ言いながら真剣に考え込み始めたので思わず笑った。

やがてシンジは手を挙げて店員を呼ぶと、彼女にはどれが似合うでしょうか、と質問した。

私は慌ててそれを押しとどめて小さい石が3つついているやつを選んだ。

 

「それきっとアスカにすごく似合うよ。...すごく」

「バカね。だったら最初から選びなさいよ」

「だってアスカは綺麗だもの。計り知れないくらい素敵だよ」

「計り知れない、良い表現ね」

私達は笑った。

 

シンジは夕食はフランス料理のレストランを予約してあるといった。

時間があるので暇をつぶすためデパートの企画ものの美術館に足を運んだ。

印象派の絵がいくつか飾ってあったけれど、残りは殆どはどうでもいいオブジェだった。

シンジは突っ立ったままぼんやりと眺めていた。

私は綾波のことを思い出した。

それはとても素晴らしいアイディアに思えた。

もともとシンジと彼女は随分仲が良かった。

この機会に顔を合わせれば三人でつき合えるんじゃないか、そんな気がした。

電話をすると綾波が出たので、時間と場所を告げてとにかく来るようにと言った。

 

「夕食おごるわよ」

「どうしたの、珍しいわね? 普段はお茶だけなのに」

綾波は怪訝な声でたずねた。

 

「いいから来なさいよ。あんたが損することはないんだから」

私はそう言って電話を切った。

 

 

レストランは大通りから一歩裏に入った路地にある小さいけれどこぎれいな店だった。

冬の夕方は日が短かくてあたりはもう真っ暗だった。

レストランの入り口は赤いレンガ風の壁と緑の車寄せの屋根のコントラストが素敵だった。

シンジが名前を告げると私達は奥に案内された。

照明は殆ど真っ暗と言っていいくらい薄暗くて落ち着いた雰囲気だった。

テーブルごとに真中に透明なガラスで覆われたろうそくが置かれていて、ろうそくの炎が客の顔を照らしていた。

 

席につくとシンジはウェイターにコース料理を注文した。

それからしばらく私達はお互いに最近読んだ本の話をした。

私達はワインが運ばれてきたので乾杯をした。

 

「アスカ、誕生日おめでとう」

「ありがとう。なんだか不思議ね。二十歳の誕生日をあんたと過ごすことになるなんて」

「ねえ、もう人生の感慨に浸ってるの? まだ二十歳じゃないか」

 

シンジはこちらを見つめながら言うと足を組んだ。

そして視線をそらして頬杖をついてぼんやりすると、ゆっくりとした口調で言った。

 

「ねえアスカ、アスカにとって二十歳ってのはどんな感じ」

「...そうね、長かったも言えるし、短かったとも言えるわ」

「それじゃどっちか判らないよ」

「なんだかね、私は終わらない夏を過ごしてる感じがするのよ。

 14歳まではきっと私にとっては夏だったの。それから後は秋のはずだけど、ちっとも心が涼しくならない。

 みんな涼しそうな顔で秋を楽しんでるのにまだあたしだけ汗をかいてる感じ」

 

私は必死だった子供時代と、心を傷つけられた14歳と、そして退屈だった高校時代を思い出して言った。

そして今こうやって一緒にいるシンジはなんなんだろうと思った。

 

「シンジにとってはどうなの?」

「僕はね、もう終わってるんだ。僕の人生は一度14歳の時に終わったような気がするんだよ」

「そう。あの頃はお互い辛かったもの」

「そうじゃないさ。僕の言っている意味はそうじゃない。...判らない?」

「うん」

シンジが悪戯っぽい目で私を眺めながら質問したけれど、私は意味が判らずに返事をした。

 

「あの頃の僕にはなにもなかったから」

「あたしだってそうだわ」

「そんなことはないよ。アスカはあの頃からとても綺麗だし輝いていた。

 ねえアスカ、このことはアスカはもっと真剣に認識するべきだよ。僕には何も無かったんだよ。

 綺麗だってことはそれだけですばらしく価値があるじゃないか」

「あたしはあんたが考えてるほど幸せじゃなかったわ。綺麗な女イコール幸せなんて安直でしょ」

「そういうアスカの考え方は嫌いじゃないよ。

 理解されないならいっそのこと全然理解されない方がいいもの。中途半端は一番悪い」

 

シンジは言葉を切るとゆっくり深呼吸した。

そしてなにかを懐かしむような表情で目をつぶると何秒か間を置いて口を開いた。

 

「お互い理解できないなら、...むしろいっそのこと深く傷つけ合いたい」

「え?」

「深く深くえぐるように、...心を傷つけ合いたい。

 一人で傷つくのは嫌だけど、二人でならなんだか悪くない気がする」

「全く...。あんたの言ってることはあたしには全然わからないわ」

「そう...じゃあ聞いていい?」

「なに?」

「サードインパクトの後のこと覚えてる?

 どうしてあのとき僕が好きだって言ったこと受け入れてくれなかったの?」

 

シンジは私の目を見据えて言った。

私は、ははぁ、なるほどと思った。

今まであまり口に出さなかったけれど、シンジはあの時私にふられたことを根にもっているんだと思った。

だけどその口ぶりはこだわりや責めているのではなくて、むしろ昔を懐かしんでいる感じだった。

目元と口元が悪戯っぽく笑っていた。

 

「どうしてって...あんた根に持ってるの?」

「そうとも言えるし、そうじゃないとも言えるね。僕の中ではまだはっきりしない」

「だったらはっきりさせなさいよ。うっとうしいわ」

 

私は笑った。

相変わらず訳の判らないやつだ、そう思いながらワインを口に含んだ。

白ワインは甘めで酸味がなくて飲みやすかった。

会話が途切れると他の客たちの談笑する声とナイフとフォークのカチャカチャという音が聞こえた。

 

「ねえアスカ、前から今日言おうと思ってたんだけど...実は、僕はね...」

間を置いてシンジがあらたまった調子で言いかけたときテーブルの間を抜けて近づいてくる白い人影が見えた。

綾波はシンジの後ろから私達の席に近づいてきた。

 

「あら、いいタイミングじゃない」

「どういうこと? これ」

「あたしの誕生会。あんたも一緒よ」

「どうしてこの人がいるの?」

 

綾波は表情を曇らせて横目でシンジを見ながら大きな溜息をついた。

振り向いたシンジは驚いた顔をしたけれど、やがて憮然とした表情に変わった。

 

「...ねえ、アスカ、どういうことだよ?」

「へへ、最近あたし彼女とよくお茶してたんだ。

 折角だから同窓会を兼ねてみんなで夕食でもと思って。びっくりしたでしょ」

 

私は近くのウェイターを呼ぶと料理を一人分追加するようにお願いした。

綾波はしばらく突っ立っていたけれど、ウェイターが椅子を引いて促したのでそこに座った。

だけどその座り方はいかにも嫌々そうで、うらめしそうにこちらを睨んでいた。

私はどうして綾波は怒っているんだろうと不思議に思いながら話を振った。

 

「こうやって三人で食べるの随分久しぶりじゃない?」

「空から落ちてくる使徒を倒してラーメンを食べに行って以来だよ」

「...その時は葛城さんもいたわ。だから正確には三人じゃない」

「アスカが言ったのはこの三人が顔を合わせて一緒に食事をするのはってことだよ。

 トータル何人だったかというのはたいした問題じゃない」

 

シンジはぶっきらぼうに答えた。

綾波はコップの水を口に含んで一呼吸おいて口を開いた。

 

「だったら最初からそう言うべきね」

「それが今この場で大きな問題ならね。僕達にとってはそうじゃない」

「そう、よかったわね」

 

綾波は無表情でシンジの言葉を静かに否定した。

それはまるで14歳のとき全てを拒絶していた頃の彼女のようだった。

私は最近の愛想のいい綾波との違いに驚きを感じた。

 

「あ、あのときはあんた肉食べられないってニンニクラーメンにしたんだっけね。そうじゃなかった?」

「そう。今でも嫌いよ、肉」

「フランス料理で大丈夫だったかな?」

「最近はちょっとなら食べられるわ。駄目なら残せばいい。問題ないわ」

「川の流れは同じでも流れている水は同じじゃない。

 人間は誰でも変わるさ、彼女だってちゃんとフランス料理を食べるようになるんだよ。

 それが時の流れってものだろ」

シンジは言った。綾波は呆れたような表情で私の方を見て質問した。

 

「惣流さんはこの人と一緒で楽しい?」

「楽しいっていうか...シンジとはもうだいぶ長く一緒にいるけど...」

「ねえ、僕とアスカはね、君が想像してるような関係じゃないんだよ」

「わたしはなにも想像なんてしてない」

「じゃあ...こう言ったらいいかな。僕らは心のどこかに大きな穴を抱えている。

 僕らはそのことを知っているからいたずらにお互いを深く求め合うことはしない。

 その代わり必要な時に必要なだけ癒し合う。むしろ助け合って生きているって感じだね。

 君が想像してるようなロマンチックな間柄じゃない」

「わたしはなにも想像してない」

綾波は口元を曲げながら言った。

 

「だったらどうしてそんな怖い顔をしてるの?」

シンジは睨むように言った。

シンジの表情は普段見ることがないくらい意地悪で悪意に満ちているように見えた。

なんだか嫌な雰囲気になって、私はこれはまずいことになったなと考えた。

 

ちょうど会話が途切れた頃、ウェイーターがスープを持ってきた。

真っ白な皿には淡い色のコンソメが注がれていた。

薄暗い明かりの下で私は静かにスプーンを口に運んだ。

テーブルには3人の人間がいるのに誰も口をきかなかった。

一人一人のスープをすする音だけがいやに耳についた。

仕方がないのでもう一度最近読んだ本の話を振ってみたけれど二人とも全然乗ってこなかった。

私は仕方なくスプーンの柄を指先で弄んでいたけれど、ウェイターは無慈悲にも皿を下げてしまった。

またしばらく気まずい沈黙が続いて、私はやれやれと思いながら次の料理が早く来ないかなと考えた。

口を開いたのはシンジだった。

 

「...言いたいことがあるんだったら、言ったらどうなの?」

シンジは視線を逸らしながら投げやりに言った。

 

「...ねえ碇君。わたしあの頃あなたと一緒で本当に本当に嬉しかったのよ」

だけど今度の綾波の喋り方はさっきまでとは違って何かを訴えるような口調だった。

まるで意を決したようといった具合だった。

 

「わたしはあなたと一緒に歩いて、一緒に話をして、...愛し合えて初めて生きている意味が判ったの。

 だからあなたには感謝することはあっても恨むことなんて何もない。でもどうしてもわたしは知りたい。

 ...どうして突然わたしのこと嫌いになったの?」

「判らないの?」

「判らないわ」

「だからだよ。...君はなにも気づいてないもの。僕がどれだけ君を憎んでいるか。

 結局僕は僕達がお互いに相応しくないと気づいた。それじゃ理由になってない?」

「わたし、あなたこのとは全部受け入れることができるつもりだった。

 ...いつかあなたはわたしの笑顔を誉めてくれた。

 あれからわたしはその言葉だけを心の中で何度も何度も繰り返して、思い出して、生きてきたの」

「それがどうしたの?」

「...それだけよ」

「そう」

 

綾波は無表情のまま言葉を続けた。

そして寂しそうにうなだれた。

私は、ねえやめなさいよ、と言った。

その言葉は誰もいない暗闇の中に吸い込まれてしまった。

まるで私だけこの空間にいないかのように、二人は私を無視した。

 

「ねえ、わたしの気持ちは決して変わらない。それを覚えておいて欲しいの。

 わたしはあなたが誰を愛しても構わない。あなたを自分のものにしたいとも思わない。

 ただわたしがあなたを好きになった記憶を自分の大事なものとしてとっておきたいだけなの」

「ねえ、君は根本的な誤解をしてる。僕は君を好きじゃないんじゃない。憎んでるんだ。

 だからもうそんなことは考えないほうがいいよ」

「だから...どうして? あの頃はあんなに...好きだって言ってくれたのに」

「それは僕の心の中でまだ言えないことなんだ。気持ちが動かない限り...誰にも言わない」

「どうして? あなたは変わったわ」

「誰だって変わるさ。時の流れは綾波を愛を語る乙女に変えるのさ。

 まるで恋愛映画みたいにね。素敵だね、スポットライトとBGMが欲しいくらいだよ」

「...ひどい」

 

綾波はもう一度うつむいて今度は顔を上げることができなかった。

私はシンジと綾波の関係に驚いたけれど、それ以上にシンジの態度に憤りを覚えた。

シンジは席を立ってそんな綾波に近づいて目を覗きこんだ。

綾波が一瞬、なに、と小さく呟いたように聞こえた。

シンジは綾波の頬を両手で持ち上げると、彼女の唇を自分の唇でふさいだ。

私は何が起こったのか理解できなくてポカンとした。

シンジが唇を離すと綾波はショックを受けたらしく呆然とした表情をした。

陶然とした、怒りと悲しみと喜びと、そして彼女独特の完璧な美しさと繊細さが交じり合っていた。

けれど綾波の表情がわずかに笑みに変わった瞬間、シンジが口元を歪めてニヤリと笑った。

 

パチン!

 

乾いた音があたりに響いた。

綾波の右手がシンジの頬をするどく叩いた。

シンジはへへ、と小さく笑って、そして綾波を睨みつけた。

 

「ちょ、ちょっとあんた、一体なにやってんのよ!」

 

私が止めに入ろうと大声をあげたとき、既に綾波は席をたって早足でスタスタ去っていった。

シンジは後ろから、もう悪戯電話はやめてよね、と大きな声で言った。

綾波は何も答えないままドアの向こうに姿を消した。

シンジは椅子にふんぞり返って何事もなかったかのようにワインをあおった。

 

 


 

 

アパートに帰りついて急いでシャワーを浴びた。

体が疲れきって気分は深く沈んでいた。

やれやれ、今日は結局二十年間で最低の誕生日だったなと考えた。

そして今度会うとき綾波になんて言ったらいいのか考えると悲しくなった。

綾波はあっという間にいなくなったので、あれからシンジと一言も喋らないまま料理を食べた。

そしてできるだけ離れて歩いて顔を見ないようにしながらアパートに帰った。

考えてみると今日は結局何を食べたのかすら全然思い出せなかった。

それは鴨のテリーヌだったかもしれないし、牛フィレのハーブ風ソースだったかもしれない。

綾波を傷つけたシンジの冷酷さと、シンジとの関係を一言も説明してくれなかった綾波に

裏切られた気持ちでいっぱいで料理に対する注意力が不足していたからだ。

 

ぼんやりパソコンを立ち上げると一通のメールが届いていることに気がついた。

差出し人を見た瞬間、私は慌ててクリックした。

 

To: 惣流・アスカ・ラングレー<asuka@ie.t.u-tokyo2.ac.jp>
Subject: 今日はごめんなさい

惣流さんへ。綾波です。今日はごめんなさい。
私が碇君に変なことを言ったせいで折角のあなたの誕生日を台無しにしてしまいました。
本当に悪かったと思っています。許してくださいと言うのは厚かましいようにも思います。
だけど他にお詫びの言葉もありません。
だから言います。どうか許してください。

私と碇君の関係については今日のことであなたにも判ったことと思います。
それを今更隠し立てしたり誤魔化したりするつもりはありません。
だけど一つだけお願いです。勘違いをしないで欲しいのです。

私が最初あなたに近づいたのは、確かに碇君を近くに感じたいとと思ったからです。
だけどその後あなたとの関係は私にとって全く予定外のことでした。
あなたが私に友情を感じたと言ってくれた時は本当に嬉しかった。
私もあなたに同じような気持ちを感じています。それは本当です。
信じてください。あなたと過ごした時間は私の中でとても美しく輝いています。
これは本当のことです。...信じてくれますよね?

だけど...その前に私はもう一度自分に対してケリをつけたいんです。
今日の夜、そちらに行きます。行って自分の気持ちをはっきりさせます。
申し訳無いのですが、ドアの鍵をあけておいてください。
夜遅くなるかもしれません。まだ気持ちが落ち着かないんです。
そして、このことは碇君には決して言わないでください。
もし言うと碇君は私を避けるような気がします。


追記
この間のトランプのこと覚えていますか?
実は最初から私にはあげることができる大事なものなんてなかったんです。
あるとしたら...思い出くらいでしょうか。
私はズルをしましたね。ごめんなさい。

綾波レイ(e-mail :ayanami@abi.ac.nerv)

 

 

目が覚めると明け方の4時だった。

結局綾波は来なかったので眠ってしまった。

耳を澄ますとバスルームから水の流れる音が聞こえてきた。

消したはずの明かりがなぜかついていた。

中を覗くと脱衣カゴには白のニットとスカートが丁寧にたたんであったけれど、それは私のものではなかった。

誰のだろう、なんとなく心臓がどきどきした。

換気扇の低いうなりがやたらと耳に響いた。

 

ドアを勢いよく開けた。

バスタブからは出しっぱなしのお湯があふれ薄い赤みを帯びていた。

まるで天井の照明がルビー色の光を吸い込んで部屋を照らしているようだった。

真っ白な肌の女性が顔を仰向けにして湯船にもたれかかるように漬かっていた。

青白い髪は赤く染まったお湯を吸ってまだら模様に染まっていた。

左手の手首からは血が滴って、鉄のような酸っぱい匂いが充満していた。

 

この間見た鳥肌が立つくらい綺麗な綾波を思い出した。

そしてなぜか14歳の頃の無愛想な綾波を思い出した。

 

(どうして...)

 

言葉が浮かんだ瞬間裏切られた気持ちが心の中に広がって、体の力が抜けていった。

後ろからシンジの声がして我に帰った。

 

「どうしたんだよ、これは!」

「綾波が...大変なの...」

「見たらわかるじゃないか、そんなこと!」

 

シンジは怒鳴ると綾波の手をとって脈を調べた。

まだ大丈夫みたいだ、そう呟いてシンジは私を押しのけるようにバスルームから出ていった。

遠くで電話のボタンを押す音がして、すぐ来てくださいという大声が聞こえた。

 

「アスカ、いつまでもぼうっとしてないで手伝って!」

 

シンジはそう言って私を睨むと綾波の体を抱え上げてベッドに運んでバスタオルでくるんだ。

私は、判ってるわよそんなこと、と言ったつもりだったけれど声になったかどうかよく判らなかった。

換気扇の音が耳に響いた。

足の指にまとわりつく濡れた感じと首の汗が気持ち悪いと思った。

やがて救急車がやって来たけれど、けたたましいサイレンの音が永遠の時間のように思えた。

 

 


 

to be continued

 


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