柔らかな日差しが春の訪れを告げていた。

ショーウィンドーの外に見える木々には徐々に緑がのぞき始めている。

通行人は暖かい気候のせいで心持ち薄着になって足取りも軽く見える。

買い物に出かける女性のピンク色のカーデガンが白いブラウスにまばゆく映えていた。

 

春の空気は人をドキドキさせる。

それは浮かれた気分だとかはやる気持ちとは全然違った言葉にしづらいものだと思う。

心の中に溜め込んで仕舞っておいた感情が春の風に吹かれて湧き出てくるのかもしれない。

人間には動物だった頃の記憶がどこかに残っていてに季節が巡ると突然働くのかな?、通りを眺めながらぼんやり想像した。

シンジは私を現実に引き戻すように後ろから抱きすくめた。

二人きりで薄暗いペットショップの店内にいる。

 

「アスカ、もっとお尻上げて」

「これくらい?」

 

ポケットに手を突っ込んだシンジがふらりとバイト先に現れたのは金曜日の午後だった。

あたりを見まわして人がいないことを確認すると、シンジは黙って私の下着を脱がせた。

言われたとおりにテーブルの端を掴んでお尻を突き上げる格好になった。

シンジは腰を抱えると後ろからペニスをあてがい、やがてゆっくり挿入した。

一匹の犬がキュィーンと鳴くと、他の犬達が同じように騒ぎ始め檻の中を行ったり来たりし始めた。

シンジの腰の動きに合わせて私は小さく声を漏らした。

薄暗い店内は蛍光燈が水槽の踊るように漂う熱帯魚を照らしていた。

赤と青と黄色と白と、色とりどりの小さな魚達。

シンジの腰の動きがペット達の鳴き声と調子を合わせるようにリズムをとった。

 

「アスカ、すごく良いよ。いきそうだよ」

「バカ...まだ...早いでしょ」

「冗談だよ。そんなにすぐにはいかないよ」

 

シンジはハァハァと声を上ずらせながら意地悪い口調で言った。

私はのけぞって徐々に大きな声を上げた。

シンジの腰の動きが速くなって音を立てて強くぶつかる。

その音はパンパンでもピチャピチャでもない言葉にしづらい音だった。

やがてシンジは動きを止めて、私を回転させて向かい合わせになって椅子に座った。

座位になったので今度は私が腰をグラインドをさせ、両腕でシンジを抱きしめた。

胸はゆったりと奥深く、もたれかかるのにちょうどよかった。

喉の奥から搾りだした私の声が動物の鳴き声のように聞こえた。

シンジはがっしりと腰を掴んで私をモノのように振りまわした。

しっかりしがみついて、シンジ!、シンジ!、と何度も叫んだ。

シンジは私の髪をかき上げて、耳に舌を入れながら囁いた。

 

「ねえ、アスカは本当は自分で考えて生きるのは嫌いなタイプだよね」

「何...言ってるの?」

「これは本当だよ。僕には判るんだ」

「違う」

「違わない。アスカは本当は誰かに甘えて生きていたいんだよ。気が強いアスカは本当はニセモノなんだ。

 本当のアスカは繊細で優しくて心が弱い女の子だもの」

「...嘘」

「自立なんて他人を信じられない人間の言い訳だよ。アスカはアスカのままでいいんだよ」

 

シンジは興奮してたかぶった口調で勝ち誇って喋ると乱暴に腰を打ちつけた。

バランスを崩しそうになりながら手を突っ張ってなんとか姿勢を保った。

歯を食いしばってシンジの動きに耐えた。

込み上げてくるものが限界に達して腕に力が入った瞬間、シンジは私を抱きすくめて言った。

 

「イッていいよ」

その瞬間私は開放されたように達した。

シンジもすぐに射精したらしく膣の中が熱くなった。

やがて私達はじっとして抱しめ合った。

乳房を手のひらで包み込むように触りながら、シンジは私の耳を優しく噛んで言った。

 

「ねえアスカ、誰だって一人で生きて行くなんて大変だし疲れるだけじゃないか。

 人間は本当は自由だとか自立なんて大嫌いなんだよ。きっとそれはすごく自然なことなんだよ」

「わかんない。面倒くさいこと言わないで...」

 

適当な返事を返してそれ以上の言葉を無視した。

いつのまにか大粒の汗をかいていた。

小さくなり始めたペニスが引きぬかれた。

シンジはテーブルの上のティッシュを手を伸ばして掴むと、ベタベタになった私の股間をぬぐった。

薄暗い店内のくすんだ天井を、私はおぼろげに見つめた。

 

 


 

もう頬杖はつかない

第16話

 


 

 

多分私はシンジの過去を聞いて深く混乱したのだと思う。

シンジにも綾波にも、二人の心に手が届かない暗闇があることを知ったからだ。

そして理由も判らずに二人に惹かれたことがとても自然で必然的だったように思えた。

綾波は私から遠く離れていってしまった。

シンジは側にいてくれたけれど、でもその心はあまりに遠かった。

私を好きだと言ったけれど、でも本当はその心は誰にも開かれていなかった。

ただ一つだけ明らかに私は理解していた。

シンジも綾波も、一人でもがいて、そして傷ついているのだ。

私は決してそれを軽蔑出来なかった。

10代の間ずっと探していたものを二人に感じて、きっと私も同じなのだと確信した。

抽象的な言葉は時に厳密さに欠けるけれど、それは共感と呼ばれていいものだと思った。

 

過去の話を聞いて私はシンジの本当の姿少しだけ近づいたように思う。

シンジは大きな優しさと、拒絶と、そして意地悪さとの混合だった。

日常のあらゆる瞬間に大っぴらに愛を囁いてくれるようになった。

それは時に、私の心をとろけさせるように甘く、そして切なかった。

そして体が交わっている時、確かにそこにいてもいい居場所を見つけたような気になって安心した。

だから私はシンジとの関係にどっぷりと溺れ、必要とされる快感に麻薬のように浸った。

肉体の快楽に浸って二人で馬鹿になること、それは時に人生の本質と言ってもいいように思えた。

けれど、私が油断した瞬間、シンジはまるで残酷な復讐みたいに氷のような視線で私を見つめた。

わざと私が嫌がることを言って悲しむのを眺めるのだ。

そして私が怒ると、シンジは私を睨みつけてまるっきり無視して一日も二日もふさぎ込んだ。

たぶんシンジは自分の過去を話したことに十分耐えられないのだろう、私はそう想像した。

そしてシンジ自身、自分の居場所と生きる意味について深く混乱しているのだ。

そんなシンジをどう扱ってよいのか判らずに私は戸惑い、そして悲しい気持ちにとらわれた。

私達はお互い、自分自身に対する咀嚼がまだ十分ではないのだろう。

けれど、と私は思う。

どうしてそんなシンジに私は惹かれているのだろう。

たぶん私とシンジには同じように欠けた部分があるのだ。

そしてお互い抱き合っている瞬間だけ、それを埋めることができるのだ。

ただ私達の欠けた部分はとても深くて暗くて、簡単に埋まらないことが私を混乱させるのだろう。

 

 

バイト先でのセックスは散々な結果で終わった。

シンジがズボンをずり上げていたちょうどその時店長は帰ってきた。

下半身素っ裸の男女を見て彼女はしばらく凍りついて、そして大声を上げた。

 

「あんたたち、パンツをはきなさい!」

 

彼女は落ち着かずにそわそわして、赤くなったり青くなったりして目のやり場に困っているようだった。

そりゃそうだな、私は冷静に頭の片隅で考えた。

誰だって自分の店に帰った途端、裸の男女がいたらきっと気が動転するに違いない。

シンジはやれやれといった表情で黙ったままゆっくり服を身につけた。

私達は押し黙って店をあとにした。

シンジはしばらく歩くと苦笑いして言った

 

「今度から周りに気をつけなくっちゃ」

「そもそもあんたは注意力が足りないのよ」

 

私は笑って答えた。

そしてバイトはそれっきりで辞めることにした。

未練はなかった。

週に何度か規則正しく犬達に餌を与え、床と檻を掃除するだけの単調な仕事にはすっかり飽きていた。

労働の中に喜びと真実があるというのは全くの嘘っぱちだ。

それはわずかのお金を得るための下らない労働の繰り返しに過ぎなかった。

私は生活に意味を与えない無駄な時間にうんざりして有意義なことだけに集中したいと思った。

 

シンジは毎日私の体を激しく求めた。

そしてときどきひどく乱暴に扱った。

ある時は誰もいない薄暗い映画館の中だったり、遊園地の乗り物の中だったり、公園のトイレだったりした。

勝手にショーツの中に手を入れてヴァギナとクリトリスをいじりまわした。

お尻を急に抱えて持ち上げたり、胸をきつくつかんだりした。

耳元でひどいことを囁いて私が顔をしかめるのを覗いてニヤリと笑ったりした。

体中をベタベタに愛撫して、髪の毛をグチャグチャにかき回して舌を吸った。

そして強い力で抱きすくめて、挿入すると激しく腰をうちつけて体をがむしゃらに求めた。

 

「まるで道具にされてるみたい」

私はシンジに囁いた。

 

「アスカは道具なんだ。道具のくせに偉そうなこと言うなよ」

シンジは興奮して耳元で押し殺すように言った。

 

「違う、あたしはそんなじゃない」

私は悲しくなって反論したけれど、そう言われてなぜかとても興奮した。

身も心もグチャグチャになってゆく自分を、私は冷静に眺めた。

夢中で両腕と両足でしがみついた。

心を開いてセックスすると面白いように何度も達することができた。

馬鹿みたいにヒイヒイ大声を出す自分の声が他人のもののように耳に響いた。

 

シンジが一番優しく、そして意地悪になるのは決まってセックスの後だった。

そっと濡れた股間をティッシュで拭き取ってくれたり、全身を優しく撫でてくれたりした。

耳元で何度も優しい言葉を囁いたり、乾いた肌にクリームを塗ってくれたり、肩を揉んでくれたりした。

そういう瞬間には、うっとりと雲の上にいる気分になれた。

 

「ねえシンジ、あたしのこと1万回好きだって言って」

「いいよ、もちろん」

シンジは、アスカが好き、と何度も耳元で繰り返して、いつも100回くらいで飽きてやめた。

 

「だって2秒に一回としても何時間もかかるじゃないか。

 それより僕は今まで心の中で100万回はそう言ったように思うよ、それで許してくれないかな」

私は笑って、まあ執行猶予ね、と言った。

けれどシンジはそんな冗談の後しばらくすると、なぜか遠くを見るような目をしてふさぎ込んだ。

 

私達は一日の殆どをアパートで二人きりで過ごした。

なにもすることがない時、お互い殆ど口をきかなかった。

それはちっとも私を不安にしなかったけれど、でも退屈だった。

 

「あたし何をしたらいいかなぁ?」

「暇だったら料理でもやったら?」

 

シンジが何気に言った言葉につい従った。

いざやってみると、私は自分でも滑稽なくらい料理に凝り始めた。

本屋に行って500ページある「お料理基本大百科」を買った。

新婚の主婦をターゲットにした可愛い奥さんへの憧れに満ちたアットホームな感じの本だった。

肉、魚、野菜、ご飯もの、パスタ、あらゆるメニューが揃っていた。

朝起きて朝食をつくり、片づけを終わらせて昼食をつくり、買い物をすませて夕食をつくった。

料理の素晴らしいところは、何も考えずに体を動かしていればいいことだった。

黙々と包丁を操り、フライパンの中の焼け具合に気をつかい、何かを作ることに熱中した。

シンジは誉めるでもなく黙って食べた。

私も黙って箸を動かした。

ときどき自分の手のひらに箸で何かを乗せて、食べなよ、と私に突き出した。

私は手のひらを掴んで言われたとおり舐めるように口に入れた。

やがてシンジは私の口を吸って口の中のに入れたものを咀嚼してまた私の口に戻した。

そしてその後は決まってうんと激しいセックスをした。

 

シンジは誰にも心を開いていない。

私に対しても、ということに少なからぬ悲しみを感じたけれど、それはまあ許される範囲だと考えた。

激しく必要とされること、私にはシンジしかいないこと、それは私の心のタガを緩くした。

私はシンジに対して心を完全に開いて、そしてそんな自分を時々冷静に観察した。

そしてきっと私達はなるようになったんだ、と今の状況を受け入れるよう努めた。

 

 


 

 

夜になってシンジは突然外に出ようと言い出した。

いつのまにか着替えを終わらせて私にも準備をするように促した。

三月の夜空はまだ身のすくむような冷たい空気で満ちていた。

ブラウスの上からセータを着込んで更にコートを羽織った。

バスに乗りこんで二人掛けの後部座席に座った。

夜の路線バスは帰宅と逆方向のせいで誰も乗っていなかった。

ときどき対向車のヘッドライトと街灯が寂しげに後ろに流れていった。

シンジはコートで手を隠しながら私のスカートの中に手を入れた。

やがて手をゆっくりショーツの中に這わせて指を使った。

押しのけようとしたけれどシンジの力は意外に強かった。

 

(まったく、しょうがないなぁ)

 

シンジが頬を寄せた。

私達はじっと見詰め合って、そしてお互いの吐息が顔にかかった。

シンジのズボンの中に手を入れてペニスを触った。

それはとても硬くごつごつしていて、そしてかっかと熱かった。

 

「ねえ、熱くなってるよ」

「男だったら興奮したら誰だってこうなるんだよ」

「こんなのがいつも入ってくるんだなぁ」

 

シンジはそれには何も答えずに指を動かすことに集中した。

ねえ、と私は囁いた。

そしてこちらを向いたシンジと見詰め合って、唇の先でチュッとキスをした。

シンジが指先を膣の先端に入れて小刻みに動かし始めたので私は目をつぶった。

ちょろちょとした動きは私に小さなねずみが動き回っているところを想像させた。

手を上から強く握った。

私達は声を出さないよう気をつけながら、そうやってたっぷり十五分間はお互いをまさぐりあった。

 

停留所にバスが止まるとシンジは慌てて私の手を引いて出口から降りた。

そこは私達が通う大学の正門前だった。

運転手は私達を見てちょっとだけ怪訝そうな顔をしたけれど私達はそれを無視した。

吐く息は白くなって頬は冷気でチカチカした。

門はしまっていたけれど、脇の通用門は開いていたのでそこから中に入りこんだ。

構内はすっかり暗くなっていた。

遠くに講堂のシルエットがぼんやりと浮かんでいた。

通りには暗い街灯と三階建ての建物からの光が足元を照らしていた。

向こうから男の人の二人連れが歩いて来た。

片方は黒ぶちの眼鏡をかけた髪の短い三十歳くらいで、もう片方は髪の長い二十歳過ぎくらいだった。

お互いに敬語を使いながら高く細い声でぼそぼそと喋っていた。

二人はすれ違う瞬間こちらを横目でちらりと見て通り過ぎた。

周りは静かだった。

通りの両脇には2mくらいの高さの立て看板がずらりと並んでいた。

自分たちの政敵を激しく罵る赤や青や緑の大きな文字が走り書きしてあった。

足元には色とりどりの、汚く泥にまみれたビラが落ちていた。

 

「ねえアスカ、馬鹿みたいだよね。あの立て看板」

シンジは指差して言った。

 

「ああやって粉砕、粉砕って書いてあるけどさ、要は一体何を粉砕したいっていうんだろう。

 そもそも粉砕した後にやりたいことなんてあるのかな?」

「さあ? でもあたしたちには関係ないでしょ」

「ああやって自分が他人と違うってことを他人に見せないとアイデンティティが保てないんだよ」

「いいじゃん、そんなことどうだって」

「...なんだかときどき、無性に腹が立つんだよ」

 

シンジは急に立ち止まった。

何かを考えているようだった。

そしてあたりをキョロキョロ見まわして誰もいないことを確認して、突然立て看板を蹴り倒し始めた。

倒れた看板はスローモーションのようにゆっくりと倒れて、そして白い埃が舞い上がった。

土埃と木材の匂いがした。

シンジはとても冷静に見えた。

眉一つ動かさず、淡々と順番に蹴り倒した。

それはまるで精巧な機械仕掛けの人形が決められた動作を順にさばいてゆくように見えた。

 

「ばれてボコボコにされても知らないわよ」

「うちの学校って左翼と右翼がいて仲が悪いだろ。お互い勝手に疑いあって喧嘩になるから大丈夫だよ。ばれっこないよ」

 

シンジは再び私の手を引っ張りながら言った。

構内の真ん中にある林に囲まれた池にたどり着いた。

そこは昼間でもあまり人がこない20m四方の池で、数本の外灯があるだけの寂しい場所だった。

シンジがベンチを指差してあそこに座ろうと言ったので、私はそれに従った。

風で木々の葉がかすれる音が妙に耳についた。

池はあらゆるものを引きずり込みそうなほど暗く淀んでいた。

シンジが私の体を強く抱しめた。

そして私達はお互いの唇を激しく吸いあった。

 

「ねえ、アスカ目をつぶって」

「なに?」

シンジはポケットからハンカチを取り出して言った。

そして私の後頭部に手を回して強引に目隠しをした。

 

「ねえ、寒いよ」

「あったまる方法を教えるよ」

「なによ、一体?」

「ここでオナニーしてごらん」

 

私は驚いて固まったけれど、やがてシンジが勝手に指を突っ込んでかき回し始めた。

そのやり方はとても乱暴で痛かったので、私は自分でやるから止めるように言った。

仕方なく足を広げた。

シンジは足の開き方にいろいろうるさく注文をつけた。

そして自分の思い通りになると、アスカ、大好きだよ、世界で一番愛してるよ、と言った。

私はやれやれと思った。

 

「ねえ、あんた側にいなさいよ」

私はシンジに話し掛けたけれど、返事はなかった。

やがて足音が遠ざかっていった。

いったい何をやっているんだろう、私は自分が情けなくなった。

恥ずかしくて身の置き場がない気分に落ち込みながら、右の中指を小刻みに動かした。

冷たい風が頬を撫でた瞬間、私は急に不安になって聞いた。

 

「シンジ? どこにいるの?」

小さな声で聞いたけれど、返事は返ってこなかった。

池から漂うよどんだ匂いが私を段々苛立たせた。

まるで悪い夢のようだった。

いいかげんに股間が冷たくなって我慢ができなくなった頃、足音が静かに近づいてきた。

 

「...もうびっくりさせないでよ」

ほっとして言ったけれど、足音はなにも答えなかった。

私は体を硬くして返事を待った。

 

「なんだこいつ?」

小さく呟く声は低く押し殺した知らない男の声だった。

息が止まりそうになって血の気が急に引いた。

 

「シンジ、助けて!」

叫ぼうとした瞬間に私の上に体重がのしかかった。

シンジとは全然違う重苦しい体だった。

必死に抵抗しようとしたけれど、目隠しが邪魔をしてうまく押し返すことができない。

叫ぼうとしたけれど、恐ろしくて声が出なかった。

 

(あっちに行って、あっちに行って!)

手をバタバタさせて必死に抵抗した。

遠くからバタバタという駆け足が聞こえて急に近づいてきた。

 

ゴス!

 

鈍い音が聞こえて私に掛かっていた体重は開放された。

体を震わせながら死にそうな気分から僅かに立ち直った。

いつのまにか涙がにじんでいた。

 

ゴス!

ゴス!

 

鈍い音が続いていた。

目隠しを取って前をみると、黒いコートにダークグリーンのスラックスの男が胎児のように身を抱えて転がっていた。

シンジは大きく息を吸い込んで片足を後ろに引いて、男の腹部に鋭い蹴りを入れた。

 

「やめなよ、死んじゃうよ!」

叫んだけれど、それは小さな声にしかならなかった。

シンジは押し黙ってなにも答えなかった。

スローモーションのようにゆっくりと足を引いて、勢いをつけて、つま先で男の体に蹴りを入れ続けた。

それを機械仕掛けの人形のように何度も何度も正確な動作で繰り返した。

そのたびに男は小さく、ウッ、と叫んで身を固めたけれど、シンジは執拗に男を追って逃がさなかった。

シンジは無表情だったけれど、目は氷のように冷たかった。

 

「やめて...もうこんなのやめようよ。ねえ!」

大声で必死に叫んだ。

シンジはハッとした顔をして無言で男から離れた。

 

 

私達はバス停に行くため並んで構内を歩いた。

相変わらず静かで風と木々の葉がこすれる以外物音一つしなかった。

けれど私達の間には言葉にはならない不信の壁が漂っていた。

 

「もうすぐ春だね」

シンジは空を見上げながら呟いた。

 

「新入生がやってきたらここもうるさくなるんだろうな」

シンジはどこか上機嫌のように見えた。

 

「春になったらお弁当もってまたピクニックに行きたいね」

「あたし大変だったんだからね!」

私は我慢できずに怒鳴った。

けれどシンジは何も答えなかったし、振り向くことすらしなかった。

 

「なんとか言いなさいよ! あたしがどれだけ恐かったと思ってるの!」

叫び声は空しく宙に消えた。

 

ニコニコしているシンジに無性に腹がたった。

たまらなく嫌な気分が胸に充満した。

私はシンジの本性を見たのだ。

そしてそこには入り込めない心の壁が分厚く存在するのだ。

シンジは冷笑的な言葉を吐いて、自分が危険を感じると暴力的に他人を拒絶する人間だった。

それは繊細さ、臆病さ、そして静かな拒絶、私がシンジの魅力だと感じていた部分と表裏一体だった。

けれどやがていつかは、今度は私がシンジの爪先で鋭利な蹴りを入れられるのだと想像して身震いした。

 

綾波のことを思い出した。

もしシンジが綾波にしたように私を残酷に傷つけたら?

そして私が綾波のようにシンジなしで生きられない依存で縛られたら?

弱い人間同士がもたれ合うのは本当に正しいことなのだろうかという問いが突然私を襲った。

そして弱く繊細なことは、正しいことでも真実でもないのだ、という考えがわき起こった。

依存していた自分自身が許せなかった。

理解して欲しくて心を開いた自分自身が許せなかった。

 

私はやはり誰にも負けないように一人で生きるべきだったのかもしれない。

けれどじゃあ一体私はどうしたら良かったというのだろう。

私はママが死んでからのこと、エヴァの訓練に明け暮れたこと、ネフルで使徒と戦ったこと、

誰とも口を利かずにただ必死に自分のことを考えた高校時代を思い出した。

私は十分に努力をしたし、十分に思慮深かったし、何より十分に経験したのだ。

それなのに、一体私は何をしたら良かったのだろう。

答えなんてないはずだった。

私は嫌な気分になった。

そして今のシンジに対する気持ちが名状しがたいものであることに気づいた。

春もピクニックもあったものか、いまいましく呟いた。

 

「...信じらんない」

私は言った。

喋るうちに段々声が大きくなっていった。

 

「一体あんたは何だっていうの! 冗談じゃないわよ! 一体何がピクニックなのよ。

 あんた馬鹿? 脳みそ腐ってんじゃないの!」

「やっつけたから大丈夫だよ」

「私はそんなことを言ってるんじゃない。あんたの傲慢さが鼻につくのよ!」

「僕は決して傲慢なんかじゃない。十分考えてやったことだよ」

シンジはすました顔で言った。

 

「だったら、...なおのこと信じられない。あんたは最低だわ」

「僕のせいにするなよ。自分だって喜んでやってたんだろ」

「だ、だってあんたがやれって言ったんじゃないの!」

「アスカがちゃんと抵抗しないのが悪いんだろ」

私は絶句した。

 

「大体それほど嫌がってるようには見えなかったよ。ホントは無理矢理されるの好きなんだろ」

シンジは面倒臭そう付け加えて、そして笑った。

私は理解した。

シンジは私のことを心の中で馬鹿にして、そして軽蔑しているのだ。

私は絶対に許せないと思った。

 

「...もういい」

「まあアスカがそう言うんなら。別にいいけど」

シンジは澄ました顔で答えた。

 

「俗物!」

私は叫んだ。

 

「あんたは...あんたは下劣な人間よ」

「ひょっとしたら、...アスカにとってはそうかもしれない」

 

それっきりシンジは答えなかった。

言い終わった瞬間、私の目から涙がとめどなく流れた。

もう全ては終わったんだ、そう確信した。

夜はすっかり更けて空気は刺すように冷たかった。

呼吸をするたびに白い息が目の前の視界を塞いだ。

体にまとわりつく空気中の粒子が、私をがんじがらめにした。

 

「あんたとはもう別れる。今度こそ本当に出ていく...」

「その必要はないよ」

シンジは言った。

 

「僕が出て行く。実はさ...来月から留学するんだよ。ずっと前から決めていたことだけど」

シンジはゆっくりと言葉を選ぶように言った。

そして、ピクニック行きたかったけどね、と付け加えるように呟いた。

 

 


 

to be continued

 


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