後部ドアを開けて準備しておいたダンボールを積み込んだ。

使い込まれてあちこちに疵がある白のバンはひどいガソリンの臭いがした。

ダンボール箱がザラザラと砂で汚れている。

どうしてこんなにたくさんあるんだっけ?

シンジはのんきに階段に腰掛けてジューズを飲んで一服していた。

 

「別に急がなくてもいいけどさ。一応明日の朝までには返さなくちゃならないからテキパキやんなさいよ」

「大丈夫、なんとかなるよ」

 

シンジは缶に口をつけたまま答えた。

少しは働けよ、と心の中で呟いた。

車に乗り込んだシンジがエンジンをかけると、軋むような音がして車体は大きく揺れた。

環状道路に出るにはアパートから商店街の細い道を抜けるのが近道だった。

一台すれ違うのがやっとの道の曲がり角で車の横腹が引っ掛かった。

 

「チッ」

 

シンジは舌打ちして、図体がでかいから運転しにくいよ、と独り言を言った。

私は一人暮らしを始めるために引越し先に荷物を運んでいる。

昼間は道路が混むので夜中に一気に運ぶことにした。

深夜のFMは気だるくスローなジャズを奏でていた。

レンタカーのバンのスピーカーは低音がちっとも聞こえなくて、乾いた安っぽい音がした。

環状道路は片側3車線ずつの広い道で、深夜営業のレストランやファーストフードが軒を連ねている。

道はガラガラで私達以外にはトラックをたまに見かける程度だった。

シンジはやたらとスピードを上げた。

エンジンが苦し気な音をたてた。

闇を照らす街灯の白い光とネオンの明かりが流れるように後方に去ってゆく。

私はエンジンの唸りを聞きながら、窓越しの景色を眺めた。

シンジは来週からオーストラリアに留学する。

オーストラリアはセカンド、サードの二つのインパクトを無傷でくぐり抜けた国だ。

必ずしも豊かではないけれど、勉強するには良い環境だよとシンジは言った。

 

「特に大学の場合はね。行政が安定してないとなかなか金が回らないらしいよ。

 今の日本みたいに国連と政府がいつも衝突してるようじゃ安定した研究なんてできっこないよ」

どうしてオーストラリアなの、と質問した私にシンジはそう説明した。

 

「例えば科研費ってあるだろ」

「なにそれ?」

「研究に必要な書籍なんかを買うお金だよ。国と国連が申請のフォーマットを配布するだろ。

 だけど本を頼んでから届くまで1年以上掛かるんだ。これじゃ届いたころには卒業してるよ」

「どうして? あたしがドイツの大学にいた頃はそんなこと聞かなかったわよ」

「子供の頃の話だろ。サードインパクトの後、国連と国の関係はどこもおかしくなってるからね。

 お互い仲悪いから、役人同士が何重にもチェックするんだ。

 日本は財政も政情も破綻してるから行政は国連に牛耳られてる。

 上の人の話を聞くとそういう話が無数にある。僕は無駄なことに時間を取られたくはない」

「だから留学?」

「そう。ドイツやアメリカの方が研究レベルは高いけど、どこも日本と同じでやりにくいみたいだよ。

 今は安定している国が一番だよ」

「そうなんだ」

「人生は短い。一番集中したい時に下らないことに捲き込まれたくない」

「そんなこと言っても要は中身でしょ」

「勿論ものの例えだよ。だけどそういう例えは時に本質をあらわすよ」

「考えてみたらサードインパクトのせいって、...あんた自業自得じゃない?」

「そうとも言うかもしれない。ほんとは他にもいろいろあるんだけどさ」

シンジは苦笑いして答えた。

 

(シンジとはどうせもう別れてこれっきりだしね。所詮あたしの人生に関係ない人間、か)

私は、まあどうでもいいことだなと聞き流した。

 

私達の車は信号が青になるのを待っている。

道路沿いの低い建物の向こうには高層ビル群のシルエットが黒くそびえていた。

あのビルだけが、山に囲まれて周囲と隔絶されたこの街が都会であることを自己主張している。

暗闇の空に混じって、ビルの赤いランプが脈打つようにゆっくりと点滅していた。

夜はゆっくりと呼吸していた。

あの街の光の下ではこんな夜更けでも騒いでいる人達がたくさんいるんだろうなとふと考えた。

信号が青に変わって、シンジはアクセルを踏んだ。

加速度で背もたれに押し付けられた。

 

「今日はありがと」

「当たり前だろ、これくらい」

「感謝してるわよ」

 

シンジは短く言った。

私も短く答えた。

 

私は不動産屋で新しいアパートを見つけて回った。

一週間足を棒にして探した甲斐があって、いい部屋が見つかった。

場所は学校の近くで、閑静な住宅街の一角だった。

白い外観の二階建てのこじんまりしたアパートだった。

フローリングのシンプルな部屋は窓が大きく開放的で気持ちがよさそうだった。

おまけに角部屋なので騒音になやまされることも少なそうだった。

ただ一つ築年数が6年経っていたけれど、それは気にしなければ特に問題ないことだった。

周囲には小さな川が流れてところどころ木々が残っていた。

耳をすますと小鳥の鳴声が聞こえた。

少し考えた末、自分が住みたいのはきっとこんな場所の、こんな部屋なのだろうと思った。

これなら誰にも煩わされることもなく自分の時間をゆっくりと持てるだろう。

 

この3往復目のドライブが済めば引越しは完了して、もうあのアパートに戻ることはない。

そして私の新しい生活が始まるのだ。

早いとこ終わらせたいな、心の中で呟いた。

 

 


 

もう頬杖はつかない

第17話

 


 

 

埃の匂いがした。

蛍光燈は暗闇に慣れた目には眩しかったけれど、部屋は全体に薄暗かった。

ベランダの窓ガラスに私とシンジがおぼろげに映っている。

真夜中の風景は墨を流したような色をしていた。

カーテンのない部屋の窓ガラスに、私は違和感を感じている。

まるで闇が蛍光灯の明かりを飲み込んでいるようだった。

ここはまだ誰も住んでいない部屋なのだ。

 

ダンボールを運び込むため、部屋と車の間を何度も行ったり来たりした。

どのダンボールも近くのスーパーのゴミ捨て場から拾ってきたものだった。

一緒に暮らし始めた頃は少なかった荷物も今ではダンボール20個以上に膨れ上がっていた。

階段を上るのは一苦労だった。

シンジは休んでばかりでちっとも働かない。

けんかするのは馬鹿馬鹿しいので、私は黙って自分で荷物を運んだ。

汗をかいた。

3月の夜はまだ肌寒くて、外に出た頬を撫でる風が冷たくて心地良かった。

夜空には街のあかりに負けずに健気に星が出ていた。

外灯とパチンコ屋のサーチライトのせいで空はぼんやりしていたけれど、私は北斗七星を見つけた。

部屋の中はたちまちダンボール箱で埋め尽くされた。

あらかじめマジックで中身を書いていたので仕分けは比較的簡単に終わらせることができた。

生活必需品の箱だけ開けて中身をキッチンの流しに並べた。

 

「ねえ、アスカ。覚えてる? いつか二人で展望台に登ったよね」

 

シンジは唐突に言った。

真っ黒な闇を写す窓ガラスを、シンジはじっと見詰めていた。

私は鬱陶しいので返事をしなかった。

 

「あの日はいい天気だったね。僕の人生で最高のピクニックだったような気がする。

 勿論そうは言っても僕は生まれてこの方そう何度もピクニックに行った訳じゃないけどね」

「...」

「覚えてる、アスカ? あの日僕は木陰で休みながら、アスカは将来どうするの?って聞いたんだ。

 アスカは、就職も結婚もしない、そして世界を旅して回りたいって言ったんだ。

 僕は本当にその言葉に驚いたんだよ」

「...」

「アスカは本当に僕とは違うんだなと思った。なんていうか、とても自然な生き方でうらやましいと思ったんだ。

 まるで今のままの自分で十分だって深く満ち足りているように思えた。

 僕はそれをうらやましいと思ったんだ。まるで昨日のことのように覚えているよ」

「...」

「今でもアスカはやっぱりそう思うの?」

「知らない、そんなのもう忘れた」

 

私はイライラして、できるだけそっけなく答えた。

そんなこと言ってる暇があればせめて雑巾がけでもしろよと心の中で思った。

 

「ねえアスカ。僕はね、本当にアスカのことが好きだったよ。本当だよ、これ」

シンジは独り言のように呟いて、そして黙り込んだ。

 

「そうなんだ」

私は適当に答えた。

ガラスに映ったシンジは目を閉じていた。

私は心の中でシンジに毒づきながらダンボールを抱え上げた。

遠くから聞こえる犬の鳴き声が妙に寂しかった。

 

「ありがとう、これで終わりだから」

「そう、じゃあ帰るよ。今日はもうこのまま寝るの?」

「うん、布団出せばすぐ寝れるから」

「そうだね」

 

シンジは言った。

そして後ろを向くと玄関まで歩いて、靴をはいた。

しゃがんで靴の紐を結ぶシンジの背中を見つめた。

これでやっとシンジともお別れだな。

長いのか短いのか判らない不思議な一年半だった。

そして今この瞬間に全く心が動かない自分を、私は冷静に観察していた。

 

「さよなら、シンジ」

「僕が留学するのとアスカから嫌われたのと、ちょうどタイミング良かったね」

「なによ、タイミングって」

「ドロドロした話にならなくって良かったってことだよ」

 

それは私が避けていた話題だった。

私は嫌な気分になって戸惑い気味に答えた。

 

「悪いけどあんたにはいろいろついてゆけない部分があるのよ。

 それは誰が悪いってことじゃないと思うんだけどね。結局あたし達の人生は別の道を進むってことよ」

「まあそうだね」

「でも...今までありがとね、シンジ。お礼を言うわ」

「ありがとう?...一体なにを感謝してるっていうの、アスカは?」

 

シンジはズボンのポケットに手を突っ込んでにこりと笑って言った。

玄関の戸にもたれて小首をかしげて私をじっと見つめた。

私に答えを促しているらしかった。

 

「あんたと一緒に暮らした一年半は私なりに勉強になったわよ。だからありがとうって言ったのよ。

 きっとあたし達お互いそれなりに成長したんじゃないかな」

「...」

「あたしはあんたと一緒に暮らして、一人でいるときよりいろんなことを経験することができた。

 でもあたし達はまだ未熟な部分があるのよ。そして今はお互いそれを克服できない。

 今はそれを一人でゆっくり成熟させる時間が必要なのよ」

「...」

「だから、バイバイだね、シンジ」

「...」

「あたしは少なくともあんたと憎み合って別れたくないのよ。そうじゃないとなんだか自分がみじめじゃないの。

 ものごとをポジティブに考えたい。今はそういう気分なの」

「...」

「ねえシンジ、最後は握手で別れよう」

 

私は右手を差し出した。

けれどシンジはなにも反応せずに私を見つめ続けた。

私は宙ぶらりんになった手を持て余しながら、シンジの言葉を待った。

 

「お前、いい気になるなよ」

シンジはとても静かな口調で言った。

 

「所詮顔だけの女だろ、お前は」

「な、なによ。突然」

「もしアスカが男だったら僕がアスカなんかと友達になったと思う? なるわけないじゃないか。

 アスカのどこにそんな人間的価値があるっていうんだよ」

「なに言い出すのよ」

「何がいろんなことを学んだ、だよ。いい気になるなよ。所詮顔だけの女のくせに」

「あたしはそんな薄っぺらな人間なんかじゃない」

「だって本当のことだろ」

「あたしはエヴァではたくさんの苦労をしたし、たくさんのことを学んだ。

 14歳で大学だって出たし、今は弐大にだって通ってる。あたしには能力があるし自分の考えだってある。

 あんたが知らない苦労だってずっとしてきたのよ。

 どうしてそんなくだらないことであたしという人間を決めつけようとするのよ!」

「弐大に通う人間なんて一学年3000人いるんだよ。アスカより頭がいい人間なんてここにはゴマンといる。

 ふたつのインパクトを苦労して生き抜いた人間だってたくさんいる。

 だけどそういう人間が僕の人生になにか感慨や影響を及ぼしたことは少ない。

 人間っていうのはさ、アスカ、そういうことで他人を必要とする訳じゃないんだよ」

 

シンジはじっと私を見つめ続けた。

そして私達の間には長い長い沈黙が流れた。

私は最後の最後になんてことだろうと嫌な気分になった。

 

「一体...何が言いたいのよ?」

「ねえ、僕がアスカを好きなのはアスカがとても綺麗だからだよ。それだけなんだ」

「あ、あんたって本当にくだらない! そういうことでしか人を見れないなんて。

 綺麗なだけの女だったら他にたくさんいるじゃない。しかもそういう女を騙して自分のものにしてきたんでしょう。

 だったら最初からあんたに都合がいい顔だけの馬鹿女を相手にしてればいいじゃないの」

「アスカは僕にとって特別なんだよ」

「だからあたしのどこが特別なのよ。あんたの言っていることは全然判らない」

「アスカには特別さは何もないよ。アスカは自分で思っているほど特別な人間じゃない。

 だけどそれでいいと思うよ。肩肘張らずに自然に生きなよ」

「...なに言ってるの? 全然意味が判らない」

「アスカは綺麗だよ」

 

シンジはにっこりと笑った。

その笑みはとても静かで落ち着いていた。

けれど私は怒りで胸がドキドキして心臓が破れそうだった。

 

「最低」

 

私ははき捨てるように言った。

シンジは明らかに私がつまらない女だと言いたいのだ。

やがてシンジは小さな声で、アスカは自然がいいよ、と言った。

そして去っていった。

私はドアを勢いよく閉めた。

そしてムシャクシャしたので足元に転がっていた花瓶をドアに投げつけた。

磁器の花瓶はカシャンという甲高い音を立てて勢いよく割れた。

それがシンジとの最後の別れだった。

せっかくの新しい生活の初日にケチがついて、私は無性に悔しかった。

 

 


 

 

春の風は人を浮き足立たせる。

四月は、穏やかで柔らかな空気と、舞い散る桜の花びらと、浮かれ騒ぐ新入生を一緒に連れてきた。

大学は新入生達の何かに対する期待に溢れていた。

キャンパスを歩くたびにそれを感じた。

彼らはここに何か価値があるものが待っていると考えているのだ。

だけど私はそれは違うと考えた。

世界のどこかかになにか素晴らしいものが待っているなんて、それは間違いだ。

それはただ場所と人間関係が変わるだけだ。

古いしがらみがなくなれば、新しいしがらみが口を開けて待っているのだ。

何か変わった気になって浮かれ騒いでも、やがて同じことを繰り返している自分に気づいて失望するのだ。

結局人間は自分が望むもの以上にはなれない。

そして私はそのことを、自ら傷つくことで時間をかけて学んだ。

私はシンジがいうようなくだらない人間じゃない。

 

私は大学に行く必要がないときはもっぱら川沿いを散歩した。

規則正しく体を動かすことで、私は自分を律することができた。

春の散歩は気持ちがいい。

咲き始めた色とりどりの花が川べりに無数に咲いていた。

むせるような草の香りが満ちていた。

桜の木の並木を見ながら、私は時々目をつむって歩いた。

空気の密度が濃い。

昼間はときどき汗ばむような気温になったけれど、私はそんな空気が好きだと思った。

ときどきシンジと一緒に歩いたことを思い出した。

そしてそんなことを思い出すなんて自分はどうかしていると考えた。

 

その日は目が覚めると時計の針は10時を回っていた。

出る予定にしていた二限の講義はとっくに間に合わない時間だった。

 

(まあ、いいか。今更焦ってもしょうがない)

 

目やにのついたまぶたをこすりながら、布団から抜け出した。

落ちてくる髪を掻きあげながら、ポットに紅茶の葉を入れてお湯を注いだ。

アールグレーは悪くない香りだった。

新聞を取ろうとポストのフタを開けると、そこには封筒が入っていた。

ふちを赤と青で交互にいろどられたエアメールにはローマ字で Shinji Ikari と書かれていた。

私は言いようのない気分になってテーブルの上に封筒を置いた。

そして食パンをトースターに入れて、洗面台で顔を洗った。

皿に焼きあがったパンを乗せて、マーガリンを塗って口に入れた。

のどにつっかえたので紅茶で流し込んだ。

テレビには朝のワイドショーの下らない芸能ゴシップが映し出されていた。

レポーターの興奮気味な喋り方にいらいらした。

目をつぶってゆっくりと10数えながら深呼吸をした。

 

(ひょっとしたら、シンジはあたしに謝ろうとしているのかな?)

 

脳裏にふとそんな考えが浮かんだけれど私はすぐにそれを打ち消した。

そもそも謝って来ても私がシンジを許すことはないだろう。

それは既にもうどうしようもないことなのだ。

テーブルの上の封筒を手にとって眺めた。

シンジから手紙をもらうなんて考えてみれば初めてのことだ。

封を開けると、なんの変哲もない罫線紙に手書きの几帳面な字がびっしりと埋まっていた。

それは確かにシンジの字だった。

私は紅茶を口に含みながら、手紙を読み始めた。

 

 

惣流・アスカ・ラングレー様


やっぱり僕は駄目みたいです。

日本から遠く離れた青く澄んだ空の下で、僕はそう思います。
ねえアスカ、あなたは覚えていますか?
僕等が初めて出会ったのはオーバーザレインボーという空母の上でした。
あの日の潮風の香りを、僕は今でも鮮烈に思い出します。
あれからもう6年以上経ちます。
まるで遥か昔のような気もするし、つい昨日のことのような気もします。

全ては夢のように儚げです。
思い出は遠きにありて思うもの、僕はときどきそう思います。
遠くにあるからこそ、今は失って嗅ぎ取ることのできないあの気持ちをなつかしく思うのです。
そして僕は、自分の気持ちをあなたにきちんと伝えたことがないことに気がつきました。
だから、アスカ。これはラブレターです。
どうか笑わないで下さい。
おそらくは僕が書く人生最初で最後のラブレターです。
そう思って読んでくれたら、僕はきっと嬉しいでしょう。

サードインパクトの後、僕はあなたの首を締め、そしてあなたへの恋を告白しました。
湧き上がるのは後悔と羞恥の念ばかりです。
あの頃の僕はまだ幼かった。
言い訳するわけではありませんが、僕はとても複雑な事情を抱えていたのです。
当時の僕は親しい人の生い立ちとネルフとの複雑な関係に巻き込まれて深く戸惑っていました。
そして人生でたった一人とも言える親友をエヴァのために亡くして悲しみ混乱していました。
あなたには詳しく話したことがありませんが、僕とネルフ、そしてエヴァとはとても根深い因縁があるのです。
そんな時、同じように悩み落ち込んでいるあなたを見て、僕は浅はかにもあなたを助けたいと思いました。
今にして思えば、あなたの胸で泣いて、共感してもらいたいという下心だったように思います。
幼さと無知は、時に残酷なまでに人を大胆にするものです。
それはとても甘美な欲求だったと、記憶の残滓を拾いながら、僕は思います。

赤い波が打ち寄せる砂浜で、僕はあなたの首を絞めて、そしてあなたへの想いを告白をしました。
そして僕は気がついたのです。
人は楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しいのです。
僕はあなたに想いを伝え、嫌われて、初めて自分の中の寂しさと空虚さに気がつきました。
口に出して初めて、僕は自分の気持ちを知ることになりました。
あなたに告白した後で、本当にあなたに恋焦がれている自分に気づき、そして戦慄しました。
赤く輝く海と、吸い込まれそうな闇と、きらめく星々を、救出されたUNのヘリから眺めて僕は恐怖しました。
あのサードインパクトでボロボロになったにも関わらず、世界は未だこんなにも美しい。
そして僕だけが薄汚れてちっぽけだった。
僕は愛される資格のない駄目な人間でした。
笑うかもしれませんが、その後の僕は本当の意味で孤独でした。
孤独という言葉を知っているのは世界でただ一人僕だけだという自負すら持っていました。
なぜならこの滑稽な悩みを笑ってくれる人すら、僕には誰もいなかった。

再会した時、僕達は十九歳で、やがて二十歳になりました。
世の中はもう分別があっていい年齢だというかもしれません。
けれど僕達はまだ成熟していた訳ではなかった。
僕達は決して相手に本当のことを言わない、嫌な人間同士だったと思います。
あなたと暮らした一年半は、静かな、しかし深くよどんだ時間でした。
僕はまたしてもあなたに傷を舐め合える弱さの匂いを嗅ぎ取りました。
そしてそれは僕に言葉にし難い一抹の期待感を抱かせました。
そもそも弱い人間は敏感な嗅覚で自分と同じ匂いがする人間を見分けるものなのです。

だけどアスカ。あなたは覚えているでしょうか?
いつか展望台へピクニックに出かけましたね。
あれは良く晴れた秋の日のことだったと思います。
柔らかな日差しが心地よい日でした。
そして山の頂上から眺めた夕日と街の景色はとても素晴らしかった。
今でも瞼を閉じれば、昨日のことのように鮮明に思い出せます。
僕は途中の山道であなたに将来のことを質問しました。
あなたは就職も結婚もせずに世界を旅して回りたいと答えたと記憶しています。
ああ、この人は自足している、きっと一人で生きてゆける人なのだ、僕はそう感じ、そして傷ついたのです。
ねえアスカ。人が本当に深く傷つくのは、きっとどうでもいい、とても些細なことに対してなのです。

あなたは気がついていましたか?
僕はずっといらついていました。
思うにそれは、あなたへの嫉妬です。
僕はこれだけ深く絶望し、なにかを恐れて、一人でいる自分に打ち震えて生きているのに。
僕はあなたが自足していることを激しく妬みました。
ひょっとしたらあなたが美しい女性だからだろうか、僕はそう想像したりもしました。
けれど決してあなたを誉めていると思わないで下さい。
僕はあなたに対して、見た目だけでも愛されることを当然と思う少女の傲慢さを嗅ぎ取りました。
そして僕には本当になにもない。
ねえアスカ。本当に平明にものを見ることができるのは何も持たない人間だけです。
これは間違いのない真実だと思います。

だから僕はあなたの心が僕にもたれかるたびに、あなたを傷つけたい衝動を押さえることができなかった。
けれど、どうか誤解しないで下さい。
僕は決して偶然や過ちでそうしたと思わないで欲しいのです。
これは悪意です。
そして僕にとって、精一杯の、なけなしの悪意です。
僕はあなたが傷ついてくれることを願うのです。
あなたが僕と同じ痛みを感じてくれたらと祈るのです。
ねえアスカ。だからこれは本当に祈りです。
そして叫びのようなものだと思います。

思うに僕は、あの砂浜での出来事からずっと、心の中で頬杖をついてあなたの姿を追っていたように思うのです。
この手紙で僕が言いたいこと、それはつまるところあなたを愛しているということです。
けれど決して誤解しないでください。
僕は二十歳のあなたを目の当たりにしながら、十四歳のあなたの面影を心の中で追うことしかできないのです。
きっと望んで得られなかった恋だからでしょう。
そして自分が寂しい人間であることを生まれて初めて思い知った恋だったからでしょう。
ねえ、アスカ。僕は今でも同じところをぐるぐる回っているのです。
勉強したいから留学するというのは、多少の真実を含んでいるとはいえ、本質的には多分嘘です。
僕はあなたから逃げ出したかった。

こちらでは規則正しい生活をしているので健康状態は良好です。
朝は毎日7時に起きて体操をします。
朝食と夕食は殆どが自炊です。
スーパーには醤油や味噌も売っていて、食生活にも意外と困らないものだなとちょっとホッとしています。
昼間は大学に通い講義を受け、時間があれば図書館でレポートを書く生活です。
大学の図書館は二度のインパクトの影響が小さかったせいか、蔵書も豊富でなかなかのものです。
勉強するにはまあまあの環境で、効率もそれなりに上がっています。
総じて単調で時に退屈もしますが、健康的だし適度に知的刺激に満ちていて悪くはありません。
そういえば、この間マウンテンバイクを買いました。
週末にはレンタカーを借りてマンテンバイクごと載せて、あちこちに走りに出かけています。
地平線が見える空間というのはいいものです。


追伸
厚かましいお願いですが、出来れば綾波を元気づけてあげてもらえないでしょうか。
自ら望んで傷つけておきながら、変わってしまった綾波の姿を見ていて僕は悲しくなるのです。
僕を嘲笑って、そして軽蔑するのは一向に構いません。
けれどそもそも綾波は幸せになるべき人なのです。
そしてそれはあなたも同じです。
どうか幸せになってください。


碇シンジ

 

私は大きく深呼吸した。

そして手紙をクシャクシャに丸めて、ゴミ箱に叩きつけた。

 

 


 

to be continued

 


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