「アスカァ?。あたし、元気してた?。」

「まあまあってとこね。」

 

やはり彼女からだった。

呼出しの電子音が妙に耳障りに聞こえる時は決まってそうだ。

ノイズ混じりの受話器から聞こえてくるのは相変わらず能天気な声だが、不思議と言葉の端々に艶があって女としての成熟を感じさせる。

葛城ミサト。

今は国連治安省の日本支部にいるらしい。

彼女のことだからきっとうまく立ち回っているのだろう。

あのズボラで本能だけで生きている酔いどれ女がそんな職についているのは皮肉のような気がするが。

 

正直言って私は彼女に引け目を感じている。

それは彼女の社会的身分、自身ありげな態度、そしてその他にも。

今の私は客観的には不幸ではないが、主観的にはお世辞にも満たされているとは言えないから。

ただ、苛立っている。

受話器を持つ手が何故か重い。

 

(早く終わらないかな、ミサトの話。)

 

「なんだか煮えきらないわね。花も恥じらう年頃の娘なんだから楽しそうにきゃぴきゃぴしなさいよ。」

「あんたは相変わらず楽しそうね。大体30越したオバサンがみっともないじゃないの。」

「なぁに言ってんの。30代ってのは女が一番成熟して綺麗に見える年頃なのよ。お酒だって寝かせた方が美味しいでしょうが。」

「あんた酒なら何だって良いんでしょ、とにかくあたしを一緒にしないででよ。」

「少しは遊びなさいよ、若い時は一度しか来ないんだから。」

「ああ、判ってるわよ、もう。」

 

(ホント、人が言って欲しくないことをズケズケ言う女ね。相変わらず。)

 

「そうそう、この間美味しいカクテル飲ませる店見つけてね。アスカの入学祝いやってなかったし、連れていってあげようか。」

「嫌よ。」

「ねぇん。つれないじゃない、アスカ」

 

今日はいつもにもまして甘えた声で話しかけくる。

嫌いではないのだ。

だがいかにも同情している態度が見え透いて気に入らない。

私はいつの間にか声を荒らげていたかもしれない。

 

「もう、いい加減にしてよ。」

「ねえ、あんたも色々考えはあるのは認めるわ。でもね、もう全部終わったことでしょ、そろそろ元気だしなさい。」

「うるさいわね。ちゃんと学校にも行ってるんだから、あんたからどうこう言われる筋合いないわよ。」

「じゃあ、なんでこっちに顔出さないの?。月に一度は顔見せる決まりでしょ。」

「いいじゃない。こうやって電話で話してるんだから。」

「キ・マ・リでしょ、アスカ。」

「私がちゃんとやってることは判ったでしょ。元チルドレンは異常なし、はいOKね。」

「ちょっと、アスカ!。」

「切るわよ。もううんざりよ!。」

「判ったわ。...でも最後に一つだけ。偽善的に聞こえるのなら許して欲しいけど昔一緒に闘った仲間として気になるのよ。私あなた達には酷いことばかりしたらから。」

「あんたの気持ちは判ってるわ...。ホントは感謝してるわよ。」

「...ねえ、アスカ。...あなたさえよければまた一緒に暮らしても...」

 

私は最後まで聞かずに電話を切った。

そんなことが出来る訳ないじゃないかと馬鹿馬鹿しい気持ちになる。

しかしどうしてよりにもよってこの女なのだろう。

 

「幸せ」な人。

どう言葉を尽くしても彼女とは判り合えないと思う。

言葉の通じない外人と話しをしているような気分。

 

だけどああも苛々していたのに、電話を切るとミサトが自分のことを子供だと笑っているのではないかと気になりだす。

もっとポジティブに笑顔で答えるべきだったのだろうか。

それとも相手を言い負かすまで食い下がってやり込めるべきだったのだろうか。

 

(どうして私が説教受けなくちゃいけないんだろ。)

 

言い負けたようで妙に悔しかった。

 

 


 

もう頬杖はつかない

第2話

 


 

 

クラスコンパは始まって既に1時間以上が過ぎて、酒に酔って大声を出し始めた連中の喧騒が耳に響く。

本当は乗り気ではなかったのだが幹事がしつこい奴で断ると一々理由を尋ねて来る。

皆を仕切らないと自分の価値が下がるとでも思っているらしいが、どうやらこの学校ではこの手の人間は珍しくないようだ。

畳敷きの部屋を一室占有して幾つかのテーブルに別れて皆が飲んでいる。

 

私はこの頃高校を卒業して第弐東京大学に進学していた。

適当な話をしながら飲んでいたが、皆酔いが回るにつれて噂話や男の話になって段々どうでも良くなる。

ただでさえ狭い店の中で皆飲んだくれて既に最初の席は原形を止めていない。

大声で叫んでいる奴の声がうるさい。

 

「ねえ、私、惣流さんとはあんまり話したことないんだけどさ、...彼氏はいるんでしょ?。」

「いないわ、別に。」

「へぇ、惣流さんすごい美人なのに、どうして?。」

「そうよぉ。あ、ひょっとして特定の彼氏は作らない主義とか?。」

「違うわよ。」

 

クラスには若干の女の子がいる。

弐大というのはなんというのだろう、やはり私は特殊な環境だと思うのだ。

日本の最高学府。

そこに集まる学生は厳しい選抜を受けた連中ばかりだ。

だがその頭の良さというのは、そう、温室育ちのような感じがするというのだろうか。

別に彼らのことを勉強だけの人間というつもりは毛頭ない。

効率的かつ最適な方法で、自らを律して行動することができる人間。

運動も趣味も人一倍こなし、好奇心旺盛で常人以上に読書もすれば映画も見るし、情感が豊かで人の気持ちだって判る。

多少の欠点はあったとしても十分に有能な主体性を持った連中だと思う。

だけど彼らに対するこの馴染めない感覚は何なのだろう。

 

無垢、そして、自信。

彼らは自分で自分に失望すること、不安を感じることがないのだと思う。

そう、昔の自分にそっくりなのだ。

無邪気にエヴァのパイロットとして一番になろうとしていた頃の私に。

 

「馬鹿馬鹿しいだけよ。」

「へぇ、どうして?。」

「ひょっとして潔癖症?。」

「違うわよ。男ってさ、すぐ君のためにだとか、君を守りたいからとか見え透いた事いうでしょ。」

「はは〜ん、下心があるのが嫌な訳。体目当てなんだとか?」

「違うわよ。それってギブアンドテイクを求めてる訳じゃない?。俺が優しくしてやるからお前も俺のことだけ見ろって。自分の真心を武器にして相手を手に入れようってのが気に入らないのよ。要は自分に優しくして欲しいだけじゃないの。」

「...はあ。そ、そうかしら。」

「そうよ。自分を見て欲しいから優しさを人に押付けるのよ。」

「...。」

 

自分はと言えば表面的には控えめになったと思う。

その代わり、自分の気持ちなんて決して誰にも判るはずがないと頭から信じて生きている。

あの一連の使徒との戦いとサードインパクト、その後友達すら作る気にならず苛つきながらダラダラ過ごした高校時代がそうさせたのだと思う。

私はその間、生活上必要な最低限のこと以外誰とも口をきいていない。

自分が受けた苦しみはこの世の中で誰にも理解が出来ないと思っている。

涙はもう出ない。

今はただ、わけもなく沸き上がってくる苛々に対して何も感じないように努めている自分がいる。

だから今日の私は口が滑っているとしか考えられない。

酔っている。

そう考えると目の前が浮き上がるような感じがするし、周囲の喧騒はアルコールで遠くなった耳を更に聞こえにくくする。

 

「男なんて結局自分だけが可愛いのよ。」

「...でもそれってさ、女だってそうじゃない。優しさ求めるってそんなに変な事かしら?。」

「あたしがそうだって言いたいの?」

「ちょっと、そなこと言ってないでしょ。」

「そういうのは弱い人間のすることだって言ってるだけよ。」

「惣流さんは強い人間ってわけ?。」

「別に強くは無いわよ。ただ皆あからさまだから耐えられなくなるだけ。」

「人間不信?。完璧な人間なんていないんだから気にしたってしょうがないじゃないの?。考え過ぎなんじゃない?。」

「あたしはそんなややこしいこと考えないで良い男みたら単純に突き進んじゃうけどなぁ。」

「はは、あんた『好きになっちゃったんだから仕方ない』ってのが口癖だもんね。」

「アケミ、ちょっとひどいじゃない。あんたこそこの間さぁ、...」

 

笑い声が響き、私のせいで出来あがった気まずい空気はどこかに消し飛んだ。

コップに残ったビールを煽る。

薄くなった白い泡がグラスの内側を伝ってゆっくりと底に溜まっていく。

 

(こんな連中相手に言うんじゃなかった。)

 

そう、彼女達は屈託なく笑っている。

そして自分が馬鹿なことを考えているだけで、彼女達の言う事が正しいのではないかという気がする。

育ちの良さそうな朗らかな態度と、大人として下らない常識。

幾つかの欠点はあるのかもしれないが、彼女達は大した不安も不満も無く迷いのない人生を歩んでいるのだ。

 

勿論、己惚れている訳ではないが私は彼女達よりずっと美人だし頭だって良い。

だがどうしてこういつも自分に苛ついて仕方がないのだろうか。

ずっとそうなのだ。

自分の中にぽっかりと大きな穴を抱えながら生きている、そんな感覚が抜けない。

 

(喋り過ぎだな。)

 

ふらつきながら立ち上がる。

後から、きっと辛い経験があるのよ、という噛み殺した笑いが聞こえて来る。

良く考えてみればただのグチだったようにも思える。

 

(あんな奴等に。)

 

...後悔。

 

通路に出ようとしてわざと薄暗くされた通路を見ると、靴があちこちに乱暴に脱ぎ捨てられている。

殆どは男物の色とりどりのスニーカーと黒や茶の革靴だったが、女物のパンプスやヒールが幾つか紛れている。

どこかの安っぽい心理学本で見たセリフを思い出した。

 

『女性にとって、「靴」はプライドを表します』

 

あながち外れていないと思う。

私の黒のヒールは決して安物ではないが手入れも禄にしていないので埃と泥でうす汚れている。

ふらつく足取りでヒールを足でたぐり寄せると髪が目の前に垂れて鬱陶しい。

右手で片側に髪をまとめながら中腰になって足にはめ込む。

つま先を滑り込ませるとストッキングの表面を通じて冷たいゴワゴワした感じが足の裏に伝わる。

とりあえずここから離れたかった。

 

 


 

 

それはふと目に入った。

背の高い男。

 

既視感。

 

通路の突当りにほの見えた男の姿を見て私の脳裏に一瞬嫌なものがよぎったが、良くある気のせいだろうと考え直した。

わざと薄暗くされた店内は笑い声と団体客の拍手の音が遠くから聞こえて来る。

今日は普段より酔っているらしい。

今の自分は酔った自分なんだから信じてはいけないんだ、そんなことを考えながら重く感じる体を前に前に進める。

そして角をまがり目の前に男の顔が見えた時、私はさっきの既視感が気のせいでなかったことを知った。

一番見たくないと思っていた顔を見た私の中にムラムラと嫌悪感が沸き上がる。

 

「...アスカじゃないか。久しぶりだね。」

「なんでここにいるのよ、...あんたが。」

「そっちこそ。クラスの飲み会なんだけど。」

「あたしも。あんた、あたしのこと付け回してるんじゃないでしょうね。」

「別に、そんなことしないよ。」

 

碇シンジ。

 

私が睨みつけると、一瞬だけ少し驚いたような顔をしたがすぐに視線を宙に戻した。

落ち着いた態度は喧騒にまみれた店内では妙に浮き上がっている。

幻でも見ているような気持ちでこの背の高い男を眺めていた。

身長は180cm弱はありグリーンのシャツに紺のブレザー、茶色のスラックス。

こちらが声を掛けるとその言葉を飲み込むようにして、間を空けて考えるように語り掛ける話し方。

どこか私に対する無感情を装っているような気がした。

 

「そろそろ抜けようと思ってたんだけど、アスカもどう?。うるさいのは今でも苦手なんだ。」

「いいわよ。でもあたし真っ直ぐ帰るから。」

 

苦笑いしながらシンジは振返って歩き始める。

私は続いて店を出ることにした。

帰るキッカケができてホッとしている。

金はまだ払っていないが、支払いは、どうせあの幹事だから今度請求する時で良いだろう。

狭い階段を降りると店の前には別の学校の学生と思われる集団が群れている。

わめき散らす者、肩を組む者、酔って周りの人間に絡む者。

ネオンのけばけばしい明かりの下で見る人々は闇夜に溶け込んでどこかお祭り騒ぎのような感じを受ける。

シンジと並んで歩き始めてふと気付いた。

 

(こいつ、こんなに背高かったっけ。)

 

さっき顔を合わせた時も思ったのだが、並んで歩くといやでもそう感じてしまう。

自分は身長170cmと女性としては大きい方だと思っているがシンジの方が一段大きい。

自然見上げるようになってしまうのが少し悔しく感じられた。

シンジはどこを見ているか判らないような茫洋とした視線でゆっくりと歩いていた。

ポケットに突っ込んだ手が垣間見える。

ゴツゴツとした感じ。

何時の間にか私も彼も少しづつ大人になっている。

既に5分以上歩いているのに会話はない。

この男は何を考えているのだろう。

 

そういえば、昔シンジと並んで一緒に学校から帰ったことを思い出す。

あの頃の私にとって彼はただの同居人だった。

一緒に暮らした方が組織にとって都合がいいという理由。

ただ単にそこにいるだけの存在。

喜びも苦痛もない、そして不安もないただの同居人。

 

それは自分に対して意味付けをする必要のない子供時代の特権だったのかもしれない。

だけど意味とは何だろう。

人が存在するために意味が必要なのだろうか。

そして私を求めた碇シンジにとって、私はどんな意味を持っていたのだろう。

単に優しさが欲しくてたまたま側にいた私を求めたのだろうか。

 

丁度街灯の影になる横断歩道の信号待ちで立ち止まった。

そこだけ光が遮られた歩道は深い闇に呑み込まれて静まり返っている。

車も来ない。

信号の緑の点滅だけが眩い。

そして頬を撫でる風。

水の匂いがすることを一瞬不思議に思ったが、星の無い夜空を見上げると小さな光る粒が私の方にゆっくりと舞うように落ちて来る。

空から落ちて来る水滴はみるみるうちに大粒になり、私達の体を濡らし冷たい感覚に覆われる。

 

ポツ、ポツ...

 

「ねえ、そこの軒先に入ろう。」

「え、..うん。」

 

一瞬ぼぅとした私はシンジの言うことに従っていた。

ビルの入り口は雨宿りするには十分なスペースがあったが、人通りが少なく二人きりにならざるを得ない。

 

(そう言えば今日は夜から雨だって天気予報で言ってたっけ。)

 

悔しいとは思うが今更しょうがない。

段々とひどくなる一方でやむ気配のない雨を見ながら、水分を吸って崩れてゆく癖毛がどうにも気に入らなかった。

 

 


 

 

「体、冷えちゃうね。」

「うん。」

「雨が止むまで時間かかりそうだよ。」

 

もうかれこれ15分もこうしているが雨がやむ気配はない。

考えてみればどうして碇シンジと出会ったのだろう。

そう言えばさっき隣で飲んでいた連中は学校の構内で見かけたことがあるような気がする。

ひょっとして同じ学校?。

有りうる話だ。

この辺だってそう幾つも大学が有る訳ではないのだから。

シンジは階段に腰掛けて空を仰いでいる。

一緒になって見上げるとネオンの赤と青の交錯する怪しげな光の渦と、スポットライトに照らされた巨大な家電製品の広告が目に眩い。

空から落ちて来る無数の水滴が街の灯りでキラキラと輝いている。

 

大きく深呼吸すると水と湿った埃の匂いが鼻の奥に広がる。

斜め後にいるシンジは何を考えているのだろう。

通り過ぎる車と雨の音だけが篭もったように響き、まるで私一人がそこにいるような気にさせる。

目を閉じて静かに深呼吸を繰り返し、自分の頭の中のことだけに意識を集中しようとした。

 

 

(あんたが、サードチルドレン?)

 

(ちょっとでも越えたら死刑よ。)

 

(ねえ、したことないんでしょ、キス。)

 

(バカシンジのくせにいい加減な事言わないでよ。)

 

(あんたなんか消えてなくなればいいのよ!。)

 

 

そういえば私とこいつが出会い、そして別れ別れになったのは既に5年も前の事だ。

そっと振り向くと静かに佇んでいる彼と一瞬目が合うが、直ぐにお互い視線を逸らす。

いかにも手持ち無沙汰そうに遠くを見ながら手をゆっくりとさすっていた。

嫌悪感は沸いてこない。

その代わり黙り込んでいる彼に感じるのは何時の間にか見知らぬ男になってしまった彼への驚きと不安だった。

 

「もういい、あたしやっぱり帰るわ。駅まで走る。」

 

返事をする隙を与えないように、そしてシンジをわざと視界に入れずにそのまま走りだした。

しょせんヒールを履いたままでは大したスピードでは走れない。

どしゃ降りの雨が頭を強く打つ。

水浸しになった歩道は足を前に出すたびに水が撥ねてストッキングに水の感覚が纏わりつく。

 

バシャ、バシャ、バシャ

 

街灯に照らされた薄汚れた白いガードレールはぶつけられてあちこちひん曲がって、 ペンキが剥げた部分が雨に濡れてぬらぬらと輝いている。

濃紺の傘をさしたカップルが寄り添って歩いている。

男の方はブラウンのスーツに身を包み女を抱き寄せるように密着していて、甘えるような女の声が微かに私の耳にも届く。

何ごともない街を私駆け抜けると雨をかき分ける靴の音だけが耳に響く。

まるで子供の頃に雨の日にわざと濡れながら走って帰った時のようだったが、その時感じた喜びは沸いてこない。

 

バシャ、バシャ、バシャ

バシャ、バシャ、バシャ

 

「ちょっと待ってよ、アスカ!。」

「な、何よ!。」

「ほら!。」

 

後ろから声が聞こえると頭の上にブレザーが被さった。

 

「濡れるだろ。もうちょっと走れば地下道の入り口があるから!。」

「判ってるわよ!。」

 

雨の音で声が消えそうになるので、何時の間にか二人とも大声になっている。

思いきり走るのなんて久しぶりで心臓がドキドキしている。

段々と苦しくなる呼吸を我慢しながら走り続けると明るく照らされた地下道の入口の階段に到着した。

肩で息をしながら改札に向かうと同じように雨に降られて帰りを急ぎだした人々がいる。

シャッターの閉まった地下街は風が吹きぬけて濡れている体を冷やしてゆく。

シンジは歩きながら、びしょ濡れになったブレザーを軽く絞って水気を切ろうとしている。

切符売り場は幸い空いていた。

 

「あんたどっちの方向。あたし外回りだけど。」

「僕は内回り。」

「...あんたさ。」

「ん、何?。」

「さっきはサンキューね。上着貸してくれて。」

「良いよ別に。」

 

目を見開いてシンジは言うが、私には彼が表情を殺そうとしているように見えた。

結局シンジが私に無関心を装っているだけなのか、それとも本当に既に私のことを何とも思っていないのか、どちらなのか判断できない。

改札の周りはさっきの雨を受けた傘の滴でビショビショになり靴の泥で黒く汚れている。

早足で自動改札に切符を差込み、歩みを止めることなく後ろ手に切符を抜き取る。

ホームの階段は帰りを急ぐ人の波で溢れていた。

 

「ほら、拭きなさいよ。」

「ありがとう。僕が勝手に追いかけたのに。」

「...シンジさ。」

「ん?」

「あんた優しいわね、意外と。」

「優しい?。」

 

ハンカチを差し出すとシンジは私の手をじっと見つめながら左手で受け取った。

私はふと、最近口論以外で気持ちを人に伝えたことがないことに気がついた。

どうしてこんな言葉が出たのか、きっと雨の中を大声で話ながら走ったからだと思う。

人間は大声を出すと脳内物質が分泌されて開放的な気分になるから。

なんということもない物理現象で私の人格と脳内物質は別物だと心の中で言い聞かせる。

 

(さっさと帰ろう。)

 

シンジは立ち止まりハンカチで雨に濡れた頭を押さえたままポカンとした顔をしている。

そして目を見開くと、こちらを見ながら笑みを浮かべて言った。

 

「僕が?。どうしてそう思うの?」

 

既に向きを変えて歩き始めていた私は言葉を微かに耳に残しつつ彼から遠ざかった。

良く聞き取れなくて判らなかった言葉を頭の中で再生してみると、それは意味を持ち始める。

そしてシンジの笑みに僅かに寂しげな表情混じっているような気がした。

 

私が雑踏を振返った時、既に彼の姿は見えなかった。

階段には酔ったサラリーマンが座り込み、うなだれて酒臭さが充満している。

夜のホームは薄暗く、帰る場所のある人々のだらしない姿は私の神経をますます苛立たせた。

 

 

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