講義には欠かさず出席している。

日本の大学の講義は退屈で下らないにも関わらず、だ。

黒板の前でしゃべり続ける講師は十年一日の決まりきったセリフと数式を毎日繰り返す。

何冊か本を探して後で図書館でめくれば中身なんてすぐに判るのだが、講義に出席していると意外と役に立つこともある。

規則正しい生活のペースメーカー。

高校のときは学校をサボりまくって失敗した時期があって今でも反省している。

授業の内容については何てことはないしテスト前に勉強しておけばそこそこの点は取れるのでは誰にも文句は言われなかったのだが、一度休み癖がつくと学校に行くのが極端に億劫になるのには正直参った。

アパートで一人になると変な考えばかりが頭に浮かぶ。

 

色々考えたが、結局単純な方法が一番だと判った。

毎日規則正しい生活をして周囲の流れに身を任せること、面倒なことを考える暇を作らないこと。

「忙しい」とは「心が亡びる」ことと誰か言ったが、むしろ本当に人を駄目にするのは「暇」過ぎることだと思う。

人間には適当に不自由が必要なのかもしれない。

 

そんなことを考えながら窓の無い薄暗い建物を出ると既に日が傾き始めて青かった空は西の方から僅かに赤みを帯びつつある。

セカンドインパクトとサードインパクトを生き延びたコンクリートの古くさくて汚い建物も、少しづつ色づき始めた銀杏と抜けるような空に囲まれると独特の風格を身につけて見える。

学生達は既に帰り道を急いでいて昼間活気に溢れていたキャンパスがもの寂しさを帯び始める。

周囲には人は殆どいない。

ただ遠くから響く鳥の鳴き声と長く伸びた講堂の影が今この瞬間こそが当たり前の日常だということを私に教えてくれる。

講義を続けて聴いて痛くなった背を伸ばして自分の体に意識を集中すると僅かに空腹を感じ始めていることに気がついた。

帰って食事を作るのは面倒だった。

何時ものように本でも読んで少し時間を潰してから、学食で夕飯を食べていこうと考えた。

 

 


 

もう頬杖はつかない

第3話

 


 

 

「ここ座っていい?。」

「...勝手に座れば。」

「一人?。」

「そうよ、悪い?。」

 

後ろから声を掛けてきたのはやはり彼だった。

なんとなくまた会うのではないか、そんな予感がしていた。

ドスンという音をたてて、シンジはベンチに座っている私の隣りに腰を下ろす。

雨と日光のせいでニスが剥げて黒ずんだ木製のベンチは僅かに軋むような音をたてた。

洗いざらしの少し色が落ちたベージュのシャツの上からこの間と同じブレザーを着込んでいるが、暖色系のシャツの色が少し冷え込んだ空気のなかで妙に浮いている。

私の方には顔を向けないで空を眺めている横顔を一瞥すると雨宿りの記憶が鮮明に蘇る。

二人きりの時間は何故か私を不安にさせた。

 

(何の用だろ。)

 

横目で確かめると、私は目の前の芝生に目を落とす。

少し枯れ始めた芝生はお世辞にも美しいとは言えなかったが、暗い教室の中で講義を聞き続けていた私にとってはそれでも自分を蘇らせてくれるような気がする。

特にシンジを避けようとは思わなかった。

が、かといって話をしたいとも思わない。

 

「...探したんだよ。あの時アスカと一緒にいたのが学内で見た顔だったからきっと一緒の学校なんだろうなって。」

「どうやって探したの。」

「学生課で聞いたんだ。この辺の教室で授業受けてると思ったから待ってた。」

「付け回してたわけね。」

「そうじゃないよ。」

 

お互いに空を見たまま交わす会話は淡々としている。

雲一つないと思っていた空には、夕方の冷え込みのせいか細い霞みのような雲が幾筋か漂い始めている。

教室の暖かく湿っぽい空気になれていた体が段々と外の冷たさに馴染んで指先が冷えて、ふと突っ込んだポケットの中の温かさが気持ち良かった。

シンジはこの間と同じように手をゆっくりとすり合せている。

 

「あたしね、今から食事しようと思ってるの。悪いけど行くわ。」

 

すくと立ち上がりシンジを残して歩き出す。

会話を続けることがなんとなく面倒だった。

デコボコの敷石を埋め込んだ道は多少歩きにくい。

キャンパスの南端にある古びた建物の2階はカフェテリア方式の学食で夕食時間までやっていてそれなりの品揃えがある。

中に入ると外の涼しげな空気とは違ってムッとするような湿気と厨房の匂いがして人の営みを感じさせる。

今日のメニューを確認し、ポークジンジャーのプレートにパンとスープを見繕うと空いたテーブルを見つけて座り込んだ。

こういう食事というのは何ということもない、ただ空腹を満たすために物を腹に詰め込んでいるだけだが、人が生きて行くためにはそういう作業が必要なのだというのも事実なのだと思う。

 

(体を維持するために生きてるだけだな。)

 

そう思うとあまり美味くない食事がますます不味く感じて、胃の中にモノを押し込んでいる自分がまるでペキンダック用のアヒルになった気分になった。

 

「アスカ、座るよ。」

「ちょっと、あんたさっきから何の真似よ。」

 

何時の間にかシンジが目の前に立っている。

トレーにはジュースとフライドポテト、そしてサラダが一皿乗っているだけだった。

貧相な食事というよりは私の後を追ってくるために形だけプレートに食べ物を載せてきたとしか思えない。

怪訝に感じた。

 

「なんでここに座るのよ。」

「別にアスカ個人の席じゃないだろ。」

「じゃあ、あたしにいちいち断らないでよ。」

 

シンジは黙り込んだ。

私が睨みつけると、すこし視線を逸らしたがやがて何ごともなかったかのように口を開く。

 

「これ返そうと思って。」

「返す?...。なんだ、この間のハンカチ?。」

「一応ちゃんとクリーニングに出しといたから。」

「...だったら早く言いなさいよ。こんな所までついてくることないでしょ。」

「アスカが聞こうとしないからだよ。」

「まあいいわ。この間はありがとう。」

「...結局あれから風邪ひいて40℃の熱が出て一週間寝込んだ。病院で特大の注射打ってもらった。」

「馬鹿ね。ちゃんと拭いたの?。」

「汚しちゃ悪いと思ったから。」

「格好つけてるからよ。」

「...別にそんなつもりはないよ。」

「じゃあ、どんなつもり?。ホントあんたらしいわ。そういうマヌケなとこ。」

「...。」

「それとも注射が嫌だった?。」

「笑うことないだろ。」

 

一瞬間を置いて私は吹き出した。

本当にシンジが注射が嫌いなのかどうかは判らない。

ただ昔のように、人に気遣っているようでその実全くタイミングを外しているズレた喋り方が面白いと思った。

シンジは最初恥ずかしそうな照れ笑いを浮かべたが、私に笑われたことが気に入らなかったのか今度は嫌そうな顔をして横を向いたまま黙り込んだ。

 

「あはは、ゴメン、怒らないでよ。」

「別に怒ってないよ。」

 

結局笑ってしまったのは私の方だった。

その拍子にひょっとしてシンジの作戦かしらという考えが頭をよぎったが、そんな高等な細工をする奴でもないだろうと考え直す。

シンジは元の真顔に戻り、ポテトを1、2本つまみ始める。

食堂の中は夕食をとろうとする学生達で徐々に席が埋まっていく。

 

「4年生や院生ね。」

「大変そうだね。」

「あら、あたし達みたいにくだらない講義を我慢して聞いているより研究の方がずっと面白いはずよ。ドイツにいた頃やったことあるもの。」

「アスカって一度大学出てるんじゃなかったっけ。なんでもう一回大学に通おうと思ったの?。」

「さあね。...本当はね、もう一回やり直してみたかったのよ。エヴァ抜きの人生ってやつをね。」

 

シンジは口の中に入れようと持ち上げたポテトを一旦皿に戻すと、私の胸もとに目を逸らして一呼吸おいてぼそりと言った。

 

「やり直す?」

 

私は食事を続ける。

テラテラと油でひかるポークジンジャーは時間が経つうちに硬くなり、なかなか切れずに指先に力が入る。

口に入れると冷えたせいか少し塩辛く感じた。

 

「銀杏、色がついてきたね。」

「銀杏?。」

「そう、銀杏。」

「当たり前よ、もう秋だもの?。」

「綺麗だよ。今の時期に歩くと。」

「...暇ね、あんた。」

「歩くとね、いろんな景色が見えて来るんだ。当たり前の歩道も街中の公園も。普段電車で見慣れた景色も自分の足で歩きながら見まわすと全く別の景色に見える。」

「...。」

「街だって山だって、どこだって綺麗だよ。その代わり自分で探さなくちゃいけない。普段どうでも良く見える景色が美しいってことが判ると、今までどうでも良い生き方をしていたってことに気付くんだ。」

「あんたって変な奴ね。」

「何て言ったら良いんだろう、自分の足を使って自分の目で見た世界は僕だけの世界なんだ。世界がまだ美しいってことがわかるよ。」

「美しい?。」

「そう、美しいんだ。...当たり前の景色が僕の存在を許してくれるような、そんな気がしてくる。」

「あんたは誰かに許して欲しいの?。」

「誰かに?。そういう訳じゃないよ。」

 

少しだけなるほどな、と考えていた私にとって許すという言葉は少し奇異に感じた。

ちょっとだけ考えるとシンジはボソリと言った。

 

「...自分、に。」

「なにそれ?。」

 

シンジは私の問いには答えずに、頬杖をついて窓の外に目を向けて赤い空に映える銀杏の葉を眺めだすと暫く黙り込む。

その間に食事を平らげることにした。

長い間水につけられたせいか妙にカルキ臭いキャベツを頬張って呑み込み、更に口の中に残ったものをスープで流し込む。

コンソメスープは塩コショウが効き過ぎている。

退屈したのか、シンジが再び話しかけてくる。

 

「アスカは今充実してるの?。」

「充実してる女が夕方一人でご飯食べてると思う?。」

「思わない。」

「別に不幸じゃないのよ。ただ幸せとも違うわ。」

「...幸せって何?。」

 

真顔でそう聞くシンジは私の目を見詰める。

 

「知らないわよ。あんたの人生相談ならお断りよ。」

「別にそんなんじゃないよ。ただアスカは少し変ったように思ったから。」

「変ったのはアンタの方じゃない。」

「僕が?。...そうかもしれない。だけどアスカだってそうだよ。」

「誰だって子供のままじゃいられないわよ。」

「そうだね。誰だってそうかもしれない。」

 

シンジはフライドポテトをまとめて何本も摘まんで口に放り込むとむしゃむしゃと食べ始めた。

勢いよく咀嚼しながら、彼は窓の外に目をやる。

 

(食いっぷりばっかり男らしくなっちゃって。)

 

ふと自分の心の変化に気がつく。

人と食事を取ることは心を落ち着かせる効果があるのだろうか。

当たり前の日常は人を安心させるからだろうか。

それともこういうのもシンジが言う「景色」なのかな、そんなとりとめのないことを想像する。

 

油が指先にまとわりついたらしい。

テーブル上のナプキンを取ろうと手を伸ばして身を乗り出した彼の横顔は、やはり私が知らない男のものだった。

彼の声は低くなっていた。

太い首周り、そり残しがある髭、少し濃くなった眉、そして私より高い背。

もう昔の私達ではないという事実。

当たり前のことが私を何故か少しだけ切ない気持ちにさせた。

 

「ねえ、アスカ。...今から少し飲まない。迷惑かな。」

「え?。」

「すぐ近くの店知ってるから。」

「...良いわよ。この間世話になったし。」

「こうやって話ができるなんて不思議な気分なんだ。」

「そうね。あんたのこと顔も見たくないって思ってたけど。今日はあたし気分が良いかもしれない。」

 

確かに不思議な気分だった。

こうやってシンジと話していること。

嫌いではなかった。

だけど勿論楽しいというわけでもない。

強いて言えば昔の自分を知っている人間を目の前した郷愁。

そして人を避けてきた私。

私は誰かに話を聴いてもらいたかっただけなんだ、そう気づいた。

 

 


 

 

駅前から大通りに出る手前のビルの地下にあるショットバー。

決して高級な感じではなくて壁のペンキの塗り方は遠めに見てもムラがあって安っぽく見える。

ただ部屋の薄暗さと静かに光っている壁のネオンランプが外の世界から隔絶した雰囲気を味合わせてくれた。

店の奥のテーブルに向き合って座ると適当に飲み物を注文する。

 

「あんた、こんな店に出入りしてんの?」

「高校の時クラスの連中とたまにね。特に仲が良いって訳じゃないんだけどこの辺で時々飲んだりしてた。付き合いみたいなもんだって割り切ってたから。」

「ふうん。あんたも社交性を身につけたって訳ね。」

「...そんなんじゃないよ。」

 

さらさらとした髪の毛が淡い照明の下で光って見える。

上着を脱いだ彼のシャツの襟からうなじにかけて眺めると、太くてごつごつした感じがする。

触ったら固いのだろうか。

私は何時の間にかぼうっとしていたらしい、彼の問い掛けで初めて我に帰った。

 

「...アスカは高校の時はどうだったの。」

「あたしはね。まあ、普通だったな。」

「なんだよ、普通って。」

「まじめに勉強してたに決まってんじゃない。」

「へぇ、アスカが? いつも騒ぎを起こすために学校行ってると思ったけど。」

「偏見よ。」

 

本当は普通ではない、人を避けていた。

注文したシンジのジンライムと私のカクテル、つまみのチーズを持ってきた。

コトリという音が皿から聞こえ、チーズの酸っぱさが鼻をついた。

少しだけカクテルを口に含むと甘酸っぱい、そして重たいアルコールの味が口に広がる。

 

「あんたもうちょっと食べなくていいの?。」

「いいよ、今日は。面倒だから。」

「昔はやたら料理に凝ってたくせに。...シンジは高校ではどうだったの。飲み歩くなんて逞しくなったじゃない。」

「そんなことないよ。」

「どうして?」

 

シンジは少し俯いた。

視線を逸らした彼の表情を黙って見つめながら答えを待つと10秒程の沈黙が流れた。

大きく息を吸い込むようにして訥々と言葉を選んで彼は話し始めた。

 

「少しは変ったかもね。」

「かもねじゃなくて結構変ったわよ。なんか落ち着いたっていうか、ずうずうしくなったっていうか。」

「人と話をする時どきどきしなくなったよ。昔は人に嫌われるのが恐くていつも不安だった。でもあの時、生きるか死ぬかの体験をして判ったんだ、自分の価値なんて自分が決めることだから。」

「うん。」

「だから今は人と話をする時相手からどう思われるかを気にするのはやめた。大事なのは僕が何をしたいかだから。」

「...。」

「勉強も運動も、趣味にだって色々手は出したよ。意外とね、その気になって頑張れば人間なんとかなるよ。だけどやってるうちに何でこんな努力しなくちゃいけないか判らなくなってさ、結局最近はブラブラしてる。」

「ふうん、じゃあ充実してたわけね。意外とポジティブじゃない。」

「でもたどり着いた結果は幸せとは思えない。」

「無いものねだりなんじゃない。」

「それはアスカが僕のこと知らないからそう思うんだよ。。」

「...」

「悪かったよ、アスカは僕の事嫌いだったよね。」

「いいわよ、今日は。」

「高校では人と付合うのはあまり苦痛じゃなかった。だけど苦痛が無くなればなくなるほど好きも嫌いも無くなっていくんだ。ただ通り過ぎるだけだった。結局僕は自分にしか関心が持てない人間になってしまったような気がする。友達といえる人は結局できなかったな。」

「...そう。」

「はは..,、こんな話今まで誰にもしたことなかったんだんだけど。」

「ば、馬鹿ねぇ。。こんな辛気臭い話誰も聞きたがらないわよ。」

 

暗がりで見るシンジは私を真っ直ぐに見つめて話をしているのが印象的だった。

シンジの目は優しかったがその奥には、何と言ったらいいのか、人を拒絶するような寂しさがあったような気がする。

他人に受けいれられることを求めるオドオドした感じは無くなっていた。

一言一言を選ぶような話し振りと眼差しが印象的だった。

 

私はグラスに手を伸ばした。

薄暗い照明のせいで、明るいワインレッド色のカクテルとグラスがほんのりと輝いている。

柑橘系の酸っぱさが広がるにつれて鼻の奥がむず痒いような湿っぽさで覆われる。

泣きたくなった。

シンジの話に孤独と拒絶を感じたから。

何時の間にか自分を重ねていたのだと思う。

そして多分、自分のことを喋りたくなったから。

それともひょっとしたら、既に自分について話す適当な言葉を持っていないのが悲しかったのかも知れない。

 

「...あたしもあんたみたいにやりなおせたらな。」

「やり直す?。」

「そうよ。だってあんたそれが出来たんでしょ?。」

「そんな器用なことはできないよ。」

「どういう意味よ。」

「今の自分は、今までの自分の積み重ねでしかないじゃないか。やり直しなんて理屈上ありえないよ。」

「じゃああんたは変る可能性を否定するの。」

「そんな意味じゃないよ。」

「じゃあどんな意味よ。」

「今の自分は動かせない。自分のベースは何時だって今までの自分だよ。」

「それって受け身な考え方じゃない。」

「違うさ。人間性なんて経験の積分だよ。これからの積み重ねは選べるけど今までの積み重ねは選べない。受け入れるしかないよ。」

「偉そうね。」

「そんなことないよ。やればやったで納得できないことばかりだから。」

 

グラスを煽りながら、言い負かされているような気分になった。

何時の間にか見詰め合って話をしている。

 

「そういうアスカはどうなの?。」

「別に昔の自分を否定しようなんて思ってないわよ。ただゆっくり考えてみたかっただけ。」

「考えるって?。」

「自分の価値を。人と比べて自分の価値を値踏みするのはもう沢山。」

「値踏みって?。」

「人に勝てないから自分の価値がないなんておかしいじゃない。私は私だから、それでいいのよ。」

「...。」

「自分が自分であること、それで満足したいの。だから他人なんて関係ない。一人でなんだって出来るから。」

「じゃあ、アスカにとって自分の価値は?。」

「自分であることよ。」

「他人の価値は?。」

「そんなの関係ない。」

「アスカがいなくなったら、この世界の価値は?。」

「...ある訳ないじゃない。」

「そういうのを唯我論っていうんじゃないの。自分にこもり過ぎだと思う。」

「な、...なんですって!。じゃあ、あんたこそ自分のことだけ考えて適当なことやってたんでしょ。」

「...そんなんじゃ。...変なこと言ったね。でもアスカは自然がいいよ。自然にした方が結局は良いと思う。」

「なによ、自分はどうなのよ。」

「僕だって、それが良いと思う。だけど、...」

「だけど?。」

「...。」

 

そしてシンジは遠くを見るように目を逸らすと再び黙り込んだ。

久しぶりに人と話しをして軽くなった心は再び混乱を始めていた。

期待、拒絶、焦燥、逡巡。

さっき食堂を出る時、ひょっとしたらシンジは私を理解してくれるかもしれないという期待が頭をかすめていたのだと今になって理解した。

それは幻想だということが痛いほど判る。

シンジは私と同じものを背負っていると思う。

そしてその重みを共有できる方法があるような気がするのに、一方でそれは絶望的に思える。

どうにもならない倦怠感と苛立ちが再び私を襲った。

彼の言うことはその通りだなと思う一方で、ならば一体シンジは何なのだろうと思う。

 

「あれから僕は他人を知ろうとした。だけど...結局自分や他人を傷付けるばかりだった。」

「人間なんてそんなものじゃない?」

「...また、アスカを傷つけても?」

「...あたし、を?。」

「...。」

「もうあたしは傷つかない。だって、あたしは...。」

「...。」

「あたしも変わった。昔みたいに他人に興味を持てない。他人に傷つけられるまで深く付き合う勇気がないから。...さっき普通って言ったの、,,,あれね、本当は嘘。」

「え?。」

「普通なんて言えるほどうまくやってないもの。人間が嫌いなのよ、今は。」

「ごめん、...変な話になっちゃったね。」

「い、いちいち気にしないでよ。」

 

誤魔化すように目を逸らしながら、少しぶっきらぼうに私は言った。

涙声になり始めていた。

崩れ落ちそうな自分とそれを嘲笑している自分、頭の中に二人の人間がいた。

シンジは戸惑うような顔をしていたが、やがて僅かに微笑んで私の目を見つめた。

 

「笑いなさいよ。」

「笑うわけないよ。」

 

グラスの底に残ったアルコールに目を移した。

やっと絞りだした言葉、そんな気がした。

 

 


 

 

支払いを割り勘にすることに決めて階段を上って行くと空気はかなり冷えていた。

既に人はまばらで静かになった夜の通りに響く足音は私にシンジと二人きりでいることを意識させる。

 

「少し歩こうよ。」

「...うん。」

「僕はアスカのこと笑ってなんかいない。怒らないで欲しいけど、アスカの気持ち判る...。」

「あんたが?。」

「...怒った。」

「いいえ。...きっとあんたじゃないと言えない言葉だと思うから。」

「...そんなこと、ないと思う。」

「あんた、意外に優しいわね。」

「僕が?。...僕は優しくなんかないよ。」

「相変わらず内罰的ね。」

 

鼻を啜り上げながら無理矢理笑う私と対照的に、シンジは何時の間にか苦虫を噛み潰したような顔をしている。

 

「違うよ。今の僕はアスカの知らない部分だってあるよ。アスカを傷つけることだってするかもしれない。」

「それは誰だって...。」

「昔の僕はただ寂しかったから他人を求めた。でもその後自分の中に何かを求めようとした。それは結局間違いだったと思う。だから今何を求めたら良いか判らない。」

「シンジが何を言っているのか私には判らないわ。...でも、あたしだって自分のことが判らない。気が付いてみたら自分の中は空っぽだった。だからといって人に何を求めていいかも判らない。判らないことだらけなのよ。」

 

シンジは一瞬歩みを緩めると私の目を見つめる。

私も歩みを止めた。

心は何の言葉も紡ぎだしてくれない。

ただシンジの次の言葉を待っている自分がいる。

シンジの瞳の中には金髪の女が佇んでいて、まるで知らない人間のように見えた。

 

その時。

突然掴まれた右手が痺れるように痛かった。

大きくごつごつとしたシンジの手は抗うことができない力で私を引っ張っていった。

シンジは歩みを速めながら目の前の派手なネオンの建物に向かう。

彼の後頭部だけがぼんやりと揺れて見える。

スロー再生のように景色がゆっくり動く。

簡単なことなんだ、そんな考えが浮かぶ。

頭の中が段々と白く濁って行く一方で、自分がまだ冷静なのが妙に可笑しかった。

 

 


第4話を読む


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