大きな白い皿に盛られたパスタは顔を近づけるとトマトソース酸っぱい香りがして、赤唐辛子が目を刺激する。

ウェートレスは髪を赤く染めた20代半ばの女性で、元いたところに戻ると他の店員とペチャクチャと喋りだした。

どうにも空腹だ。

 

「あんた何か食べなくて良かった?。」

「僕?、僕はいいよ。それより眠い。」

「コーヒーでも飲めば良いのに。まだ時間だいぶあるでしょ。」

「ああ、そうか。」

 

シンジは面倒臭そうにウェイターに手をあげて呼びつけるとコーヒーを注文しようとする。

ウェイターがコーヒーには数種類あることを告げて答えを待つように黙り込むと、シンジは、普通のやつ、とボソリと言った。

ブレンドですね、とつけ加えたウェイターを尻目に、パスタを目の前にして油で明日の朝が気持ち悪いかもと一瞬後悔がよぎる。

 

「...アスカさ。」

「...何よ。」

「気にしてくれるなんて、優しいね。」

「別に。ちょっと気分が高揚してるだけでしょ。」

「浮かれてるの?。」

「...違うわよ。どうもない人間がどうかしてるわよ。」

 

さっきからお互い僅かに微笑んでいる。

こういう会話も悪くはないかもしれない。

深夜3時のファミリーレストラン。

やたらと明るい店内は深夜で気分がハイになった妙に馴れ馴れしい学生とカップルばかりだった。

国道の交差点の側にあるせいか深夜であるにも関わらずやたらと交通量が多く、行き交う車のヘッドライトが眩しい。

目が冴えて眠れなくなってお腹が空いたので、横で寝ていたシンジを無理矢理起こしてタクシーでやって来た。

シンジは睡眠不足で意識が朦朧としているのかうつらうつらと下を向いている。

 

既に途切れ途切れになりつつある記憶をもう一度最初からなぞってみた。

あっけないように終わった。

シンジのごつごつとした手が網膜に焼きついていて、締め付けられる感覚が手首に残っている。

何の抵抗もできなかった。

力のこもった手への恐怖と不安は、私を逆らうまでには突き動かさなかった。

ホテルの部屋に入った瞬間にキスされて舌を絡ませた時も、口を吸われながらもどかしげに一枚一枚服を脱がされた時も、そして初めて男を受け入れた激痛に体を強張らせた時も。

何の抵抗もせずにただ受け入れてされるがままになった。

やっぱりそうなのだ。

しょせん私は与えるよりも与えられる方が好きな人間なんだと思った。

 

 


 

もう頬杖はつかない

第4話

 


 

 

「...アスカってさ、...初めてだったんだね。」

「馬鹿にしてる?。」

 

下を向いたまま声を発したシンジは僅かに顔を上げて視線をこちらに向ける。

トロンとした眠そうな目。

寝癖がついた髪型がどこか間が抜けている。

 

「馬鹿になんかしてないよ。そんな意味じゃない。」

「それとも嬉しい?。」

「なんで?。」

「男って征服欲強いじゃない。」

「...女の独占欲より良いよ。」

「あんたの偏見じゃないの?。あたしは違うわよ。」

「そう、じゃあ謝る。」

「適当に謝んないでよ。」

 

シンジは眠たそうにふん反り返ってソファーの背もたれに寄りかかると、髪の毛が左右に分かれて広い額が丸出しになっている。

そういえばどこか女慣れしていた。

会話している内にうまくあしらわれている気がしてきて、馬鹿にされたようでムッときた。

 

「...あ〜あ、あんたなんかにあたしの大事なもの取られちゃうなんてね。人生判んないわ。」

「なんだよ、それ?。」

「よりにもよってあんたが相手なんてさ、想像もしなかったわよ。」

「...じゃあ誰だったら良かったんだよ?。」

「別に誰でも良かったわよ。」

「酷いだろ、その言い方。それともまだ加持さん?。」

「関係ないでしょ。」

 

シンジの顔色が僅かに変わって皮肉に口が歪む。

だけどやり込めたはずなのに、血が引くような気分で優越感を感じることが出来ない。

声が上ずっているようで嫌だ。

こいつはひょっとして知っているのだろうか?。

 

「僕が言うのも変だけど、誰でも良いなんて変だよ。」

「変?。自分を大切にしろって?。あんたが言う、こんなことしといて。」

「言ってないさ。ただその内自分で自分を許せなくなるかもしれない。その時に苦しむのは自分だってこと。」

「どういう意味。」

「人間の心ってさ、減ると思う。」

「減る?。」

「そう、すり減って段々と麻痺してくる。一度すり減ったら元には戻らないよ。」

「あんたいつから人に説教するようになった?。」

「ただ思ったことを言っただけだよ。」

「やることやっといて説教なんて止めてくれない。」

「...いいよ、忘れて。今言ったのは僕自身のことだよ。アスカはアスカで好きにすればいいさ。」

「あたしは自分で選んだのよ!。あんたからどうこう言われる筋合いないでしょ。それと勘違いしないでね。」

「なんだよ、勘違いって?。」

 

ウェーターがブレンドコーヒーを持って来た。

カチャリという音と共に、コーヒーはテーブルの上に置かれる。

砂糖もミルクも入れずに、シンジは白熱灯の光で薄赤く反射するカップに口をつける。

ゴクンという音を立てて飲み込むと、椅子にもたれながら左腕をテーブルの背の上に乗せのけ反っている。

不服そうに目を伏せるシンジを確認すると、フォークを舐め上げて残ったパスタをなんとなくスプンでかき集める。

 

 

4年前、サードインパクトの後収容された国連管轄の病院。

白い壁で囲まれたベッドしかない部屋。

青い空をゆっくり動く雲と、日本海側の波打つ青い海が唯一の動く景色。

見舞いに来てくれる人は誰もいなかった。

人に愛されたくて、愛されなくて、愛されない自分を正当化したくて、全てを拒絶した。

それが自分にとっての安らぎになると思っていたから。

 

だけど。

私の部屋の隣にいたのは同じようにLCLの海から蘇った葛城ミサトだということを直に知った。

毎日ある時間になると壁越しに聞こえて来た彼女の微かな喘ぎ声。

私でない女を愛していることを教える声を聞いて、無意識にまだその男に縋っているいる自分に気がついた。

ドイツにいた頃、唯一エヴァなしの自分に興味をもってくれた男。

気が狂いそうだった。

悟ったつもりになっていた自分が馬鹿のように思えた。

 

「...アスカ、...自分でなんとかしなきゃだめだ。」

 

廊下で待ち伏せた私に寂しそうな表情をした男が口にしたのはその言葉だけだった。

結局出来たことは、叫ぶこと、追いすがること、泣き喚くことだけだった。

諦めて必死に何も感じないようにしている自分いた。

 

アタシニハ、サイショカラ、ナニモナカッタンダ

 

何度も何度も一人ぼっちの高校生活で口の中で反芻した言葉が今でも心を縛りつける。

言い寄ってくる男達は本当の私を愛してくれるわけではない、何度も何度も心の中で言い聞かせた。

いらない人間。

 

 

「勘違いって何だよ?。」

「偉そうな態度やめてよ!。」

「偉そうになんてしてないだろ!。」

「あたしがあんたのこと好きだって勘違いするなって言ってるだけよ。」

「じゃあなんで抵抗しなかったんだよ。」

「なんか憂さを晴らしたかったのよ。あんた、本当はがっかりしてるでしょ。」

「いい加減にしろよ。」

「何よ、その態度。あんたってホントに最低。」

「アスカになんて何も期待してないよ。どうせ僕は最低だから。」

「なんだ、最低だって判ってるんだ。」

「ああ、判ってるさ!。悪い?。」

 

シンジは視線を横に逸らして自嘲気味に吐き捨てるように言った。

眉間に皺をよせて俯いている。

さっきまでの分かり合えた気分になっていた自分に腹が立つ。

だけどこいつも私と一緒でダメな人間だと考えると、昨日からシンジに感じていた不安が僅かにやわらいだ。

そう、こいつもきっとダメな人間なんだ。

 

「5時には始発が出るはずだから。」

「あと1時間以上もあるじゃん。」

「ゆっくり食べた方が良いよ。」

「判ってるわよ。そんなこと。」

 

シンジは喋りながら俯いたまま小さな声でそう言った。

眠りかけているようだった。

お腹は油っこいパスタで満たされてもたれ始めている。

食べ残しが冷えて汚らしく見える。

さっき舐め上げたフォークは店内の照明を反射して鈍い銀色に輝いていた。

 

 


 

 

何も無い週末が過ぎて、更に何も無い一週間があっという間に過ぎた。

ひょっとしたらまた顔を見るのではないかと思っていた碇シンジとは大学でも帰り道でも出会わない。

土曜の昼近く目を覚ますと、これといってする事がないいつもの自分を意識している。

ラジオのスイッチを足の指先で入れるとFMが流れ部屋はピアノの音で満たされる。

カーテンと窓を開けると涼しい空気と流れ込み、近所の野球場からアナウンスと金属バットの音が響いてくる。

またリトルリーグかなと覗くと、次の試合に出るのだろうか、両親と息子がお揃いのユニホームで通りをうろうろしている。

側の狭い路地を自転車と自動車がすれ違おうと手間取っている。

商店街に商品を納入する業者の車だろうか。

この界隈は日常の匂いに満ちている。

肉や魚の生臭い匂い、野菜の青臭い匂い、クリーニング屋の匂い、それは人々が営んでいる生活の匂い。

全てが流れていて、そして、私だけが静止している。

 

(なんでみんな幸せそうな顔してるんだろう。)

 

今日するべきことを考えてみる。

洗濯物、部屋の片付け、夕食の買い出し、読みかけの本は残り50ページ、見たいテレビなんて当然ない。

何ヶ月も繰り返している当たり前の週末。

 

(適当にぶらぶらするか)

 

パジャマを脱ぎ捨て、床に放っておいたグリーンのシャツにジーンズを履く。

皺のよったシャツは昨日の汗の匂いが染み付いている。

バスルームの鏡台で髪を濡らして適当に整える。

そろそろ表面が破け始めた汚れたスニーカー。

誰に会う訳でもないから、そう心の中で唱えてからドアを開け駅へと歩いた。

 

何時からこうなったんだろう。

高校の時、周りの男の子達から声を掛けられたが相手にしなかった。

誰も本当の私を見ていないから。

大学に入学してからも同じように言い寄られたが、昔と違うのは何度か断ると近寄る男は急に減った。

歳をとるにつれて人と人の距離は少しづつ遠くなってゆく。

本当の私なんて、本当に存在するんだろうか。

 

休日の電車に乗っている人は少なかった。

空いている車両は妙に天井がく、下らない煽り文句の吊り広告だけが自己主張している。

黒い肩掛け鞄を首からぶら下げた小学生、鼠色の背広の頭が少し薄い太り気味の中年と茶色の背広の髪をオールバックに撫でつけた目の細いサラリーマン。

取引先の社長が資材を準備する日取りがずれそうだと話している。

若い方がそれは無理だと叫ぶ声がきんきんとうるさく響いてくる。

別にそれで日本がどうなるわけでもないだろうに。

苛ついて進行方向の窓を見るともう終点のターミナル駅に到着する寸前だった。

結局全然読み進めなかった本を手元のバッグに押し込み立上がると、小学生が揺れ止まらない電車の中を器用に進行方向に進んでいく。

ドアから出ると風が吹き抜けて鳥肌がたった。

 

薄汚れたコンクリートの階段を降りて改札を出ると、まばらだった通行人が人波になっている。

左側の進行方向の人波に入れば楽なのだが、うまくいかなくて右隅を歩く。

段々と向かってくる人波が寄ってきて挟まれる。

赤いスーツに身を包み、大振りな金のイヤリングと鼈甲縁のサングラスをした小太りな中年女性。

後から白いワンピースを来た同年代の細身の女性と歩いている。

左によけようとした時、歩みを緩めないまま彼女はぶつかって来た。

 

「あ、ごめんなさい...。」

「ふん、...失礼ね。」

 

通り過ぎた瞬間、後ろからそんな小さな声が聞こえた。

急に激情が込み上げてきて後ろを振返った時、彼女はとっくに先に進んでいた。

いつの間にか拳を握りしめている。

ムキになるなんて馬鹿だと頭の片隅で言葉が浮かぶが、込み上げる苛立ちでかき消される。

そして憎々しげにささやく声がきこえた。

 

「まったく、最近の若い子ってみんなそう。人のことなんか気にしないんだから。」

 

(あたしは悪くないじゃない。)

 

急に心細くなる。

怒りが萎えて情けなさで気持ちが泥のように重く沈んでゆく。

 

私は...。

 

目の前には皺とシミだらけの白髪でやせ細った老人がゆっくりと歩いている。

すれ違いざまにほんの少しだけ体をぶつけてみた。

老人は小さく、うっ、と叫んだ。

とても小さくて、機械仕掛けのようにゆっくりだった。

そしてスローモーションの様に何事も無かったかのようにバランスを取り戻した。

 

その場に立ち止まった。

足が動かない。

唇をかみ締める。

唇のふやけた感覚、握り締めた手のひら、軋むような気持ち。

これが今の自分なんだ、そう思った。

 

 


 

 

黒く汚れた呼び鈴を人差し指で押すと乾いた電子音がする。

返事がないので何度か続けて押してみたが中は静まり返ったままだった。

青いペンキで塗り立てられたドアは隅の方に錆が出て埃が溜まっている。

夕方近くのアパートの廊下は通る人がいなくて雀の鳴き声だけが聞こえる。

セールスマンというのは毎日こんな面倒なことをやっているのかと思うと、つくづく学生で良かったと思う。

鍵を開ける音がしてドアが開いたのは、間違っても訪問販売の仕事はやめておこうと考えた時だった。

 

「...アスカ?。」

「もう、さっさと開けなさいよ。」

 

薄暗いドアの隙間から顔を出すシンジを無視してドアを思い切り開ける。

カレーの匂いがする。

憮然とした表情のシンジの横をすり抜けて勝手に上がり込む。

台所の奥にある6畳一間のワンルームはきちんと片付けられていたが、むしろ何も無いと言った方が正しいかもしれない。

外の明るさに慣れた目には、ベランダのバスタオルで光を遮られた部屋は薄暗く感じる。

 

「どうやって電話番号知ったの?。」

「ミサトに聞いたのよ。殺風景な部屋ね。」

「何しに来たんだよ。」

「別に。暇だったから。」

 

後ろから聞こえる声を適当にあしらいながら座り込んで、疲れた足を投げ出した。

靴で締め付けられていた足先が開放され、湿った靴下がヒヤリとして気持ち良い。

ベッドと冷蔵庫、テレビ、本棚、何が入っているか判らないキャビネット、壁に掛かったブレザー、それだけしかない部屋。

リモコンを拾い上げテレビの電源を入れる。

スピーカーから聞こえる笑い声で部屋の中が満たされる。

リモコンは埃にまみれて、ボタンの周りを指でなぞると埃がベタベタする。

 

「カレー作ってんでしょ。あたしにも頂戴よ。」

「一人分しかないよ。」

「ケチ。」

 

座り込んだ私をほったらかしにしてシンジは台所から答える。

耳を澄ますとテレビの音に紛れて包丁と換気扇の音が聞こえる。

部屋にはシンジが撮ったらしい引き伸ばされた写真が3枚壁に飾られている。

ピンク色の高原植物、見下ろした夕日の第二新東京、公園のスナップ。

どれも構図は悪くないがいかにも素人だなという感じがする。

 

ベッドの上に無造作に置かれていた新聞を取り寄せめくってみる。

サードインパクト後の資源分配をめぐって議論が続く国際会議。

捕まった殺人犯が少年だったことに対する評論家のもっともらしい解説。

第二新東京のふるさと自慢、森の植物を食する場合のハウツーもの。

どれもこれも下らない。

唯一私の気を引いたのはやたらとマスの多いクロスワードパズルだった。

台所からは鍋やらボールやらをガチャガチャといわせる音が終始響いている。

ポテトサラダの匂いがしたと思ったところで音が止んで、近くでドスンという音がしたので後ろを振り返った。

 

「...どうしたんだよ、今日は。」

「ちょっと、あんた聞きなさいよ。この間から欲しいと思ってた本があってさ、取り寄せ頼んどいたのよ。」

「...」

「そしたらさ、本屋が適当に注文したらしくて、あたしは最新刊頼むっていたのに全刊取り寄せてるのよ。」

「...ねえ、アスカ。」

「こんなのいらないっていったらさ、再版制度があった時代じゃないんだから全部買ってくれっていうのよ。馬鹿馬鹿しいったらありゃしないわよ。」

「...」

「おまけに今日は駅のコンコース歩いてたら変なババアがぶつかってくるしさ。」

「...」

「ホント、デブだしセンスないサングラスかけてるし、やたら態度だけでかくてさ。こっちから謝ってやったのに何も言わないのよ。」 

「どうしたんだよ。今日は」

「おまけに、失礼ね、なんていうのよ。あったま来るじゃない。」

「...」

「後ろから取っつかまえてやろうかと思ったわよ。あんなやつだったら口喧嘩したって絶対負けないしさ。」

「どうしたんだよ。今日は。」

「まあ、別に気にしてないからいいんだけどね。それでさ、その後暇だったからミサトに電話かけたらさぁ...」

「答えろよ!。今日はどうしったって聞いてるんだろ!。」

 

恐怖で体がビクリと震えた。

シンジの肩がワナワナと震えている。

睨みつける目にはなんの優しさもない、大きな体と太い腕だけが目に焼きつく。

まくしたてていた口が半開きになって声が出ない。

いつの間にかうつむいている。

 

「...怒鳴ってごめん。...答えてよ。」

「ひ、暇でぶらぶらしてる時にあんたのこと思い出しただけよ。...時間余りすぎちゃったから。」

「...なあ、誰でも良かったんだろ。何で僕のところに来るんだよ。」

「良いじゃない、何だって。」

「いい加減にしろよ!。どういうつもりなんだよ!。」

 

大声を出すシンジは瞬きもせずにこちらを睨み付けた。

真っ直ぐに顔を見ることができない。

テレビの笑い声が乾いて響いて聞こえる。

シンジは無造作にリモコンを取上げると電源を切った。

 

「僕の気持ちはどうなるんだって言ってるんだよ!。」

「あんたの気持ち?。」

「僕はもうアスカに振り回されるのは嫌なんだよ!。最低なんだろ、僕は!。」

「良いじゃないの、最低同士で...。」

「...。」

「あたしを怨んでるでしょ。あんたからなら裏切られても我慢できるからよ。最初から期待してないもの。」

「...。」

「何かに期待するの嫌なのよ、もう。」

「...。」

「気分良いでしょ、昔偉そうにあんたを振った女が今になって...」

「...アスカは馬鹿だ。」

 

吐き捨てるようにシンジは言った。

私達は黙り込んだ。

目が潤む。

顔を伏せた。

 

シンジと私、いったいどちらが馬鹿なんだろう。

エヴァなしで自分の価値を見出せなくなった自分。

加持さんに振り向いてもらえない自分。

いらない人間であることを当たり前だと思い込もうとした自分。

何もしたくないくせに、何も努力しないくせに、エースパイロットだったシンジ。

私に馬鹿な告白をしたシンジ。

今でも自分の価値を見つけられないシンジ。

しかしレストランで自嘲的なシンジはを見た瞬間、何故か安心したことを思い出した。

 

「アスカが悪いんだ。」

 

ふと体に圧し掛かってくる重みに我に帰る。

緑色のシャツをもどかしそうにたくし上げるごつごつとした手。

腹部から素肌に触れる手はしっとりと冷たくてビクリと体が震えた。

視線を上げるとシンジの鼻息が顔に掛かる。

広い背中にゆっくりと手を回した。

 


 

 

直接肌で触れる掛け布団は湿っぽくてざらざらとした感じがする。

シンジの重み。

胸と腹部から体温が伝わってくる。

電車の中だと嫌でしょうがない男の汗の臭いが何故か心地いい。

耳にはまだベッドのギシギシという音が残っている。

足と足を絡ませると太ももの内側からもぬくもりが伝わる。

お互い後頭部を抱くように押さえながら頬を密着させると、普段意識しない耳たぶが意外に大きくて柔らかそうなのに気がついた。

 

「ねえ。」

「何?。」

「シンジは変わった?。」

「...言いたくない。」

「...どうして?。」

「僕は馬鹿で最低だから。」

「さっきの根に持ってる?。」

「そういう意味じゃないよ。前からそう思ってた。」

 

ボソボソとした響きが気持ちが良い。

まるで自分の声じゃないような感じがする。

 

「...あたし、さぁ。」

「何?。」

「誰かに受け入れて欲しくて堪らなくなる時がある。だけど恐くてしょうがない。」

「男?。」

「みんな。」

「...アスカが恐いのは自分が、じゃないの。」

「わかんない。」

「いいよ、誰だってわかんないよ。」

「シンジの体、暖かい。」

「...この間は、ごめん。」

「...うん。」

 

押し殺したような声。

キスをした。

 

「...暫くここにいさせて。」

 

何も答えてくれない。

 

「こういうのを転がり込むっていうのかな。」

「そうかもしれない。」

 

シンジはボソリと呟いた。

もう一度背中に手を回して強く抱きしめると、力を入れれば入れるほど切なくなる。

涙が流れて鳴咽を漏らすと後頭部を手の平で押え込まれた。

とても暖かな手の平。

既に日は沈みかけて僅かに差込む空の残光が唯一の明かりだった。

薄目で見回すと壁の写真の輪郭だけが辛うじて見分けられるが、どれがどの写真か思い出せない。

その日、夕闇は夜の闇よりずっと寂しいことを知った。

 

 


 

 

一緒に暮らし始めて一年になるシンジが目の前にいる。

 

「ねえ。」

「何?。」

「今日で一年目じゃん。こういう時ってプレゼントとかないの?。」

「あるわけないだろ。自分だって忘れてたくせに。」

「まあね。」

 

二人で笑った。

微かな笑い。

結局それから私とシンジの生活が始まった。

あの日のことは今でも良く覚えている。

結局長い長い時間、お互いの体を貪り続けた。

正確には体をではなくて体の温もりをかもしれない。

お互いただ都合が良いだけの存在、寂しい人間が自分を慰めるために相手を利用していただけ。

しかし今更ロマンチストになれない人間にとって、それはそれで現実の恋だと思っている。

恋?。

恋という言葉は適切なのだろうか。

だけど今更言葉の定義なんてどうでも良い。

 

「ねえ、あのときカレー焦がして大変だったんだよね。」

「そうだっけ。」

「なによ、もう忘れたの?。」

「覚えてるよ。焦げてないところかき集めて一緒に食べた。」

 

目の前のシンジは一年前のままだった。

ただ優しく微笑んでくれる。

考えてみれば私もあれから少しずつ笑うようになった。

ひょっとしたら他の人もそうなのだろうか。

人生なんてこんな簡単なものなのだろうか。

でもそれはそれで良いのかもしれない。

体を重ねている瞬間は確かに心は安らぐのだから。

 

長い間ずっと一人で考えて、自分が寂しい人間だと理解した。

そしてシンジと再会して、寂しさを忘れる方法を学んだ。

 

部屋に響く下らないテレビの音を空ろに聞きながら、私はぼんやりとそんなことを考えていた。

 

 


to be continued




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