バスルームから出るとシンジはまだ食事の準備をしていなかった。

さっき冷奴くらいと言ったけれど、当然テーブルの上にそんなものはない。

ああ、この手抜き野郎め、そう思った。

 

「ど〜れ、今日の新聞は、と。」

「髪乾かさないと風邪ひくよ。」

「すぐ乾かすもん。」

「アスカのドライヤーって時間かかるんだからさ、早くしないといつまでたっても準備できないじゃない。」

「しょうがないじゃない、身だしなみなんだから。」

「だったらパンツとTシャツで歩くの止めたら?。」

「いいじゃん。サービスしてあげてんだから。」

 

振り向くと濡れた髪が顔にまとわりつく。

シャンプーの匂いは好きだ。

自分が新鮮になって重たくまとわりついていたものが洗い流されたような気がする。

シンジはまた本を読んでいる。

 

「あれ、留守電入ってない?。」

「え、ホントだ。気がつかなかった。」

「ミサトからかな?。」

「再生してみようか。」

 

シンジは立ち上がって電話に近づくと人差し指で再生ボタンを押した。

ピッ、という音で巻き戻しが始まり、ノイズまじりで聞き取りにくい再生音が流れ出す。

 

「午前9時58分です...」

 

無言のままぷつりとテープが止まった。

間違い電話かもしれない。

なんだかホッとする。

 

(やっぱりこの電話って邪魔だな。)

 

そんなことを考えた。

 


 

もう頬杖はつかない

第6話

 


 

 

「ねえ、今日はどこまで行くつもりなの?。」

「展望台。街が一望できるんだよ。夕日も綺麗だから。」

「夕日?。日が暮れちゃったら帰りはどうすんのよ。」

「バスがあるよ。」

「バスだったらゆっくり出ても間に合うじゃない。」

「行きは歩きだよ。」

「もう、また歩くの?。いい加減にしなさいよ。」

「いいじゃない、せっかくの土曜なんだから。」

 

シンジの言い方はまるで最初から決まっている当然のこと、といったふうだった。

最近はいつもこんな感じだ。

別に押付けがましいわけではないけれど、かといって人に確認を求めるわけでもない。

まるで二人の意見がぶつかることなんて最初からあるわけないだろ、といった感じ。

いつも納得するわけじゃない。

だけどジーンズを履きながら耳を澄ますと、平坦で抑揚がなくて優しかったおばあちゃんの声みたいに聞こえる。

 

着替えを済ませて外に出ると東に続く上り道を歩き始めた。

アパートの正面の道は山の方に繋がっている。

見上げるととりたてて高くはないけれど水蒸気の多い日本の気候のせいか取り巻く緑が少し紫がかって見える。

道が整備されているので頂上までバスが通っていて多分30分位であっという間に到着してしまう。

シンジのことだからそれじゃ物足りないとか、時間が潰れないとか考えたんだと思う。

 

潰す?。

 

そう、潰している。

休日は大した目的もなく二人でブラブラと歩くことが多い。

黙々と歩いていると、二人だけの世界にいるような気になる。

街にはたくさんの人がいるのに私達は二人きりみたいだ。

会話するわけでもなく周りの景色がゆっくりと流れるように後ろに流れて行くのを眺める。

道端の小さな花が、川の向こうに見える少しくすんだ青い空が、密集した町中の何気なく置かれた自転車が、ありふれた景色の美しさを二人で歩くようになって初めて知った。

 

広い背中を眺めながら後ろから歩いた。

肩幅があって白のニットが似合ってるなと思った。

規則正しく交互に足を動かすたびにシンジの体が小さく揺れて前に進んで行く。

まるで子供の頃持っていたオモチャの兵隊みたいだった。

もし背中にネジがついていたらきつく巻いてやるのに。

動きが早過ぎて突っかってやがて倒れてしまうかもしれない。

倒れてもジタバタ手足を動かしているところを想像した。

 

歩いていた車道が段々と細くなり、車がすぐそばを通り過ぎるため段々と歩きにくくなってきた。

排気ガスの匂いがする。

道が狭いので路肩にはみ出す。

草に覆われた未舗装部分はごつごつとした石が転がっていて足をとられる。

 

「段々空気悪くなってきたね。」

「こんな車道歩こうとするからよ。」

「じゃあ、脇道に入ろうよ、ほら。」

 

100m程先に見えた遊歩道と書かれた小道に連れ込まれた。

山肌は見渡す限り濃い緑の木々に覆われていて、湿った土の匂いがする。

最初は一本道を淡々と進む単純なルートだったけれど、遊歩道なんて酔狂なものを使う人間が減ったのか直ぐにけもの道になった。

シンジは道は知ってるから大丈夫だと言っている。

だけど、だったら手に握り締めた地図は一体何だろう。

およそ世の中にこんな簡単な山道で道に迷ってしまう方向音痴の男と一緒にいる女ほど惨めなものはないと思う。

 

「間違っていたら次の食事当番を代わってもらうわよ。」

「大丈夫だって。」

「その言葉、忘れるんじゃないわよ。」

 

思わずニヤリとした。

口に出すと気分が楽になって、いっそのこと変な所に出ないかな、なんて思う。

 

時間は段々と過ぎてゆく。

まあそれも良いかもしれない。

私達には別にこれといってしたいことがある訳でもないのだから。

 

しばらく歩くと中腹までたどり着いたみたいで林を抜けると視界が広がった。

山道は腰の高さまである草に囲まれて、くねくねと山頂の方に伸びている。

ふと後ろを振返ると私達が住んでいる街が小さくなって見下ろせる。

風が吹き抜けると汗に包まれている体が急にすっとして心地良い。

日はだいぶ傾いてきたが空はまだ青く、白く分厚い雲が眩しいくらいにコントラストがある。

 

ふと見るとシンジがいない。

後ろを振返ると、棒立ちになって下界の景色を眺めていた。

 

「もう、あんた早くしなさいよ。なにボケボケっとしてんのよ。」

「え、ああ。」

 

動く気配はない。

ああ、またいつものやつが始まったと半ば諦める。

きっと頭の中では景色をどんな構図でカメラに収めるか、ああでもない、こうでもないと考えているんだろう。

今日の場合だったら、きっと右の方に見えている山脈と市街地のビルをどんなバランスにしようとかそんなだろう。

しかも色々悩んでおいて、カメラに収めるのは5回に1回もない。

 

『本当に自分が納得できるものじゃないと写したくないから』

 

聞けば答えることは判っている。

だけど記念撮影みたいなありきたりの写真になるに決まっているんだからどうでもいいじゃないかと思う。

こいつにはそもそも美的感覚というものはあまりない。

つい手を腰にあてて見入ってしまう。

下手の横好きなんて早いとこ止めた方がいいと思う。

 

(早く終わんないかなぁ)

 

置いてけぼりにされたみたいでなんだか嫌になる。

しばらく待ってみようと深呼吸した。

1、2、3、4と、心の中で数を数えてみた。

木の匂いがする。

紅葉はまだ色づく気配はない。

シンジは微動だにしない。

このまま数え続けて夜になったらどうしようとふと頭に浮かんだ。

暗い夜道は何も見えないだろう。

転んで足を挫いて立てなくなったらシンジの責任だ。

その時こいつは私をほったらかしたことを後悔するんだ。

ざまあみろと思った。

でもシンジのことだからポカントした顔をして、どうしたの?、と聞くかもしれない。

それとも私を見失ったまま忘れて、家につくまで気がつかないかもしれない。

バカバカしくなって100までで数えるのをやめた。

 

「ほら、シンジ、先進むわよ。」

「うん。」

 

まるで気の抜けたコーラのような返事。

でもそれじゃ気の抜けたコーラに失礼かもしれない。

追いついてきたシンジのお尻を右手でパチンと叩いた。

 

 


 

 

段々と坂がきつくなってきた。

目の前を歩いているシンジの肩も時々息をきらしている。

こういう時なかなか休まないしペースを落としてもくれない。

足が痛い。

 

「少しは休ませなさいよ。疲れたわ。」

「ハハ、アスカもやわになったね。そこまで言うんじゃしょうがないか。」

「ふん、あんたこそ息あがってるわよ。」

 

周りは低い草ばかりで見渡すと空が広い。

30m程先の道端に、座るのに丁度よさそうな大きな石が転がっている。

よし、あそこで休憩、そう呟いて足を速めた。

ふと後ろから生温かい空気を感じて急にリュックが重くなる。

振返るとシンジがごそごそと水筒を漁って既に口に咥えていた。

 

「貰った!」

「こら!。ちょっとあんた待ちなさいよ。」

「先行ってるね。」

「自分だけ飲むつもり。きったない。」

 

悔しくなって追いかける。

デコボコした道に足を取られながら走ると、シンジも気がついたのか急に走り出した。

ダッシュして手を伸ばして白いニットを掴まえた。

引っ張られて仰け反りそうになるシンジを両手で抱きかかえるように捕まえて、拳固でお腹にグリグリを入れる。

 

「あははは、く、くすぐったいから止めてよ。」

「この、バカシンジ!。勝手に人の水筒取ろうとするからでしょ。」

「いいじゃないか、後であげるよ。」

「そうじゃなくて、なんであんたが先なのよ。」

「怒らないでよ。ほら、間接キス。」

 

差し出された水筒を取り上げるように奪い取った。

前かがみになって苦しそうに笑っているシンジを見ていると自分まで笑い声になっていた。

胸にあたる目の前の広い背中が体温で熱いくらいだった。

息を切らして手の中からすり抜けたシンジはすぐそばまで近づいていた石に腰掛ける。

隣りに座った。

チュンチュンという甲高い鳥の鳴き声が、林野の中から聞こえてくる。

日陰に座って風に吹かれていると汗が乾いて気持ちが良い。

 

「ねえアスカ、僕にももっと水頂戴よ。」

「ダァメ、さっき意地悪した罰よ。」

「ケチ。」

 

ガブガブと水筒の水を飲む私を羨ましそうに見ている。

目が笑っていた。

汗の匂いがする。

突然シンジが聞いてきた。

 

「ねぇ、アスカはさ、将来どうするの?。」

「え?。なによ、突然」

「大学卒業したら?。」

「そうねぇ。」

 

少し考えてみた。

白い雲が青い空をぐんぐんと流れて行く。

リリリリと鳴く虫の声が聞こえる。

 

「あたしはね、就職も結婚もしないと思う。」

「どうして?。」

「一人で世界中を旅して回るのよ。ヨーロッパは今更だな。中国からインドに抜けて中東、アフリカ、そんでもって海を渡ってアメリカ行ってね。あたしってホントはアメリカ国籍だって知ってた?。赤ん坊の時以外住んでたことはないけど。」

「知らないけど。で、どうするの、世界中回って。」

「誰も今のあたしを知らない場所に行くのよ。そこでいろんな人に会うの。」

「うん、それで。」

「いろんな世界を見るのよ。」

「今だって学校と僕以外はみんな知らない人ばっかりだろ。何が違うんだよ。」

「...あんたってホント、ロマンってもんがないわね。」

「新しいものなんてどこにでもあるんじゃない。アスカが目の前見てないだけなんじゃないの。」

「あたしが言いたかったのはそういうことじゃないわよ。...多分ホントは就職するんだろうけどさ。」

 

(あたしはあたしのままでいたいだけなのよ。)

 

揚げ足をとられたみたいで嫌な気分になってシンジから視線をそらした。

時々話をしていて自分が損をしているような気になる。

 

「...なんであんたに説教されなくちゃいけないのよ。」

「え、怒ったの?。」

 

キョトンとした顔でシンジは答えた。

視線をそらして雲を見上げながら頭をカラッポにしようとした。

たっぷり3分は沈黙が続いた。

遠くの雲を見なが頭に浮かんだことを口に出す。

 

「12月で二十歳になるんだよ、あたし。」

「僕はもうなったよ。」

「知ってるわよ、あんたってジジイね。」

「なんだよ、半年しか違わないくせに。」

 

終わるんだなぁ、そう思った。

 

十代がもうすぐ終わる。

考えてみたら何もない十代だったような気がする。

エヴァの訓練をしている時は寝る間を惜しむほど必死だったけれど、そもそも本当にそんなことしたかったんだろうか。

その頃はきっと私でない何かに変りたかったんだと思う。

必死だった十四歳までと全部を放り出してしまった十四歳から。

今度は逆にあるがままの自分でいたいと思った。

 

きっと端からみていて嫌な子だったと思う。

世界の秘密なんて全部知っている気でいた。

今思えば我を忘れて何かを楽しんだ記憶なんて一つもない。

いつも妙に客観的だったことばかり思い出す。

だけど、もうすぐ少女じゃなくなる。

 

「あたし、もう大人になっちゃうってことじゃん。」

「なりたくないの?。」

「そうじゃないけどさ。」

「アスカって、大人の女って感じするよ。」

「そんなことない。」

「僕、アスカが羨ましいと思うことあるよ。」

「なにが。」

「綺麗だから。」

「へ?。...別になりたくてなったわけじゃないもん。」

「多分男ってさ、女の人みたいに相手を惹きつけるものって何も持ってないんだよ。」

「...そうかな?。そんなことないと思うけど。」

「何もないから好かれるよりも好きになることを選ぶしかないんだよ。僕に言わせたら女の人って贅沢だよ。」

「何それ、バッカみたい。」

 

(本当に欲しいものが手に入らない魅力なんて意味ないじゃん。)

 

加持さんのことを思い出して一瞬鼻白んだ。

綺麗と言われてほんの少しでも心がときめく自分が馬鹿みたいな気がする。

こういうときのシンジって鬱陶しいと思う。

 

「それはそうとさ、大体あんたはどうなのよ、将来。」

「僕?。僕は就職するよ。」

「へえ、あんた夢なんてあるの。」

「夢ってわけじゃないよ。多分ミサトさんとこ。」

「え、国際公務員って試験難しいんじゃない。みんな目の色変えて必死こいて勉強するっていうじゃない。」

「まあ、そうだけどさ。でも試験なんて出題傾向が判れば後は準備しておくだけだろ。」

「疲れない?、そういうの。」

「合格しないと死ぬってわけじゃないし。」

「なげやりであんたらしいわ。でもあんたそんなに頭良かったっけか。」

「さあ。でもこないだの試験で平均点91点だったよ。」

 

言葉に詰まった。

変に嫌みのない言い方が逆に癪にさわる。

弐大で進む学科は2年の前期までの平均点で決まる。

上昇志向で血眼になっている連中もいるし、最初から興味ない振りをしているやつらもいる。

でも人と比べて自分がどうかっていうことは、誰でも気になると思う。

だからこそシンジと一緒にいるときはわざと成績のことは聞かないようにしていた。

 

でも時々ノートを見せてもらったり、宿題のことを聞いたりしてなんとなく思っていた。

こいつは多分頭が良いと思う。

そうやって人と競争するのはもうやめたはずなのに、現実に自分が負けそうになると腹がたつ。

やっぱり弱い人間だ。

笑顔を作ってみる。

 

「すごいじゃん、それ。」

「なんか馬鹿にした言い方だね。」

「そんなことないわよ。普通取れないわよ、そんな点数。ねえ、シンジって悩み無いんじゃない?。」

「え?。」

「何よ、自慢していいのに。」

「...あのさ、最近思うんだけどさ、僕って昔からどうでも良いものは何でも手に入るような気がする。」

「どうでも良いもの?。」

「うん、エヴァの操縦とか、学校の勉強とか。あと、好きでない子に告白されたりとか。」

「...エヴァの話、嫌い。」

「ごめん。でもそれなのに本当に欲しいものっていつも僕から逃げてゆくんだ。」

「何よ、あんたが欲しいものって。」

「いろいろ。」

「なによ、まじめに聞いてるのに。」

「...さっき言ったよ。多分アスカには判らないよ。」

「みんなそうなんじゃないの。あんただけがそう思うわけじゃないでしょ。」

「...みんなって誰と誰だよ、言ってみなよ。」

「な、なによ怒んなくてもいいじゃない。」

 

怒っているみたいだった。

どうしてシンジは私を傷つける言葉を無神経に口にした挙句自分だけ怒ったりできるんだろう。

14歳の頃みたいにオドオドした子供だったらいっそのこと殴り飛ばしてやるのに。

でも喧嘩はしたくない。

喧嘩をすると人間はすごいエネルギーを使う。

何より自分に隠している感情やプライドまで総動員してしまうのが嫌だ。

自分の中にはどうしようもない下らない感情や考えが詰まっている。

頭の中でぐるぐる回っている人生の真理が、一度口にだすと子供の我侭みたいになるのは何故だろう。

やっぱりシンジが羨ましい。

私はもっと鈍い人間になりたい。

もう一度笑顔を作ってみた。

 

「ほら、もう行こうよ。体冷えてきたじゃん。」

「そうだね。」

 

シンジは笑顔で答えた。

立ち上がると、手をとって引っ張ってくれた。

時間が経ってすっかり冷えてた手にシンジの手のひらは暖かだった。

右手には地面に転がっていたドングリを拾って握りしめている。

シンジの後ろのポケットに右手ごと突っ込んだ。

走って逃げる。

 

「あ、アスカ、何入れたの。」

「あはは、バカね。ぼぅとしてるのが悪いのよ。」

 

シンジが笑いながら追いかけてくる。

笑いながら逃げた。

笑っているときは楽しい。

楽しいから笑うんじゃない、笑うから楽しいんだ。

昔シンジが言ったことを思い出した。

この言葉だけは本当だったなと思った。

 

 


 

 

日が傾いて空が赤くなりはじめている。

細い道を覆っていた木々がようやく途切れて第二新東京を見下ろす視野が開ける。

展望台の反対側は駐車場になっていて車で登ることができる。

家族連れやカップルが売店で思い思いにジュースやソフトクリームを買って食べている。

休日の幸せな風景。

私達が汗をかきながら登ってくるのを見て指をさして呆れているカップルもいる。

確かに周りから見れば酔狂な暇人に見えるかもしれない。

 

太陽が遠くの山の端に沈もうとしていてた。

真っ赤に膨れ上がった太陽。

今の季節は見なくなったけれど、第二新東京では夏の終わりには赤とんぼを見かける。

日本の子供達は夕焼け空に赤とんぼが飛んでいる歌を教わるとシンジが教えてくれた。

どんな曲かまでは教えてくれなかったけれど、その話を聞いてからは夕日を見るといつも赤とんぼを思い出す。

言葉って不思議だと思う。

同じ言葉がいくつもの意味と経験に裏打ちされていて、一人一人が違う意味で考えている。

 

「アスカ、喉乾かない?。」

「うん、乾いた。」

 

安っぽいプレハブ小屋にでかでかとソフトクリームと書かれた旗をくくりつけた売店。

出来てだいぶ経つんだろう、ペンキで塗りたくった白と黄色の外壁が薄汚れている。

シンジは売店で店員に向き合ったまま微動だにしないでたっぷり15秒は考え込んだ。

途中から数えはじめたから20秒はあったかもしれない。

店員が手持ち負沙汰にそわそわしている。

 

「グレープジュースください。」

「じゃあ、あたしはウーロン茶。」

 

先に私がジュースを受け取って、シンジがリュックから財布を取り出すのを眺めた。

グレープジュースを飲んでやった。

炭酸で舌が痺れる。

 

「あ、アスカ飲んじゃったの?。」

「なによ、少しくらい。」

「ずるい。」

「いいじゃん。ほら、間接キス。」

 

にやりとして言ってやったらジト目で睨まれた。

空いているベンチを探し出して腰を下ろした。

石のベンチからヒヤリとした感覚がお尻に伝わってくる。

足が棒のようだ。

急にホッとしたせいか体中の力が抜けて全身が疲労感に覆われてゆく。

隣に座るシンジもだらしなく両手をベンチの背に伸ばして浅く腰掛けると、上気した顔でぼんやりと正面の景色に見とれていた。

 

「綺麗だね。」

「うん。あんたにしちゃまともなとこに連れてきたわね。」

 

空は赤い色で塗りつぶされて周囲は全て同じ色に満たされていた。

木々の緑が空の赤と交じり合っている。

夕日の中の緑はにじんだような黒に見える。

浮かぶ雲の間からは幾筋かの光が天から地上に降ろされた梯子のように伸びている。

第二新東京の林立するビルは夕日を照り返してそこだけが光り輝くランプみたいに見えた。

夕焼が綺麗だった。

 

「昔第三新東京が消滅した時に見た空ってこんな色だった。始めてミサトさんと会った時も。」

 

何気なくシンジが言った。

何を考えてこんなことを言うんだろう。

人は誰も同じ空を見てきっと違うことを考えている。

でも私とシンジはほんの僅かだけそれを共有しているんだと思う。

それはすごく心強い気がするけれど、本当に僅かで取るに足りないような気もする。

そういえばシンジが初めてミサトに会ったときってどんなだったんだろう。

シンジもミサトも二人とも知っているけど、そう言われて考えるとシンジが別人みたいな気がした。

 

「あっ、...アスカはあの頃の話は嫌いだったよね、ごめん。」

「え、別に気にしてないよ。」

 

まじまじと顔を見詰める。

そうなんだ、あの頃のシンジはもうどこにもいないんだ、そう思った。

そしてあの頃の私ももうどこにもいない。

みんなそうだ。

時間は逆には進まない。

今の私はこの瞬間にしかいない。

 

見つめていることに気がついたみたいでシンジがキョトンとしてこちらを見た。

慌てて景色に目をやる。

腕を伸ばしてそっと手を重ねる。

体を傾け寄り添ってみた。

息を吸い込むと汗臭い匂いがした。

シンジが少し口元を緩めながら話し掛ける。

 

「僕に見とれてた?。」

「ば、バッカねぇ。考えごとしてたのよ。」

「ふうん。アスカも考えごとすることなんてあるんだ。」

「失礼ね。...なんとなくね。あたしもシンジも、みんな変っていくんだなって。」

「え、...。うん、もう5年だしね。誰だって変るよ。」

「...ねえ、シンジ。」

「何?。」

「何でもない。」

 

首を傾けて更ににもたれかかった。

本当は私は何をしたいんだろう。

ひょっとしたら幸せは直ぐ近くにあるのかもしれない。

でもそう考えるとすぐにそれは直ぐに逃げていくんじゃないかと思った。

だから今は考えるのをやめた。

 

もう一度手を強く握ってみた。

今感じるこの温かさだけは本物、だからこれでいいや、そう思った。

 

 


 

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