maxfill's Original Short Novel - Never can't get it



序章
当り前の様に唐突な出会い



何の変哲も無い毎日が続く…。
それが「日常」だと言う事は分っている。それが平穏である事も分っている。だけれども、何かしらの変化を求めるのは、やはり欲が深いのだろうか?
そんな自分みたいな平穏さえも得られない人々が居る事も理解しているつもりだ。だから、この平穏は有難いものであるのも分る。
サスペンスドラマみたいに、自分の身の回りで事件が起こったりすると面倒だし、巻き込まれるのもゴメンだ。SFみたいにいきなり別世界に飛ばされてもアタフタするだけだろうし。ましてや、いきなり巨大ロボットで戦えなんて言われても困ってしまう。
だから、この日常が一番いいんだろう…。そんな事は言われなくたって分っている。普通に生活出来るだけでも有難い事は分るんだ。
だが、余りにも平穏過ぎる。何の変化も無い毎日。
そりゃ、細かい事を挙げればいくらでも小さい変化はあるだろう。だが、流れとしては変わらない。
朝起きて、会社に出勤して仕事をする。定時を過ぎても大抵は帰れないが、それでも午後7時くらいにはその日の仕事が終り帰路に付く。同僚と飲みに行く時もあれば、素直に家に帰る事もある。
家に帰れば簡単に食事を済ませ、テレビを眺めながら布団の中に入る…。
本当に「何の変哲も無い一人暮らし」を満喫していると言っていい。
「どうした、悠木?そんな、しみったれた酒の飲み方して。何か悩み事かぁ?」
別にそんなに良い人でも無いが悪い人でもない。よくある普通の上司だ。課長も多分、平穏に毎日を過ごしている人だろう。奥さんが居て、そういえばもう今年で1歳になる子供も居たな…。
「課長ぉ、秀明の悩みなんて他愛も無い事ですよ、聞いても無駄無駄。」
そんなに酒も飲めないくせに呑みたがる同僚の溝井。コイツも悪い奴じゃないがいつも一言多い。だが、今自分が考えていた事は、溝井の言う通り他愛の無い事ではある。言い返すつもりもないから、軽く溝井を一瞥して、また視線を元に戻した。
「まぁいい、仕事の事で悩んでるならいつでも聞いてやるぞ。遠慮は要らんからな。」
親切で言ってくれているのは分らないでもない。だが、言った所でどうせ「聞くだけ」で終ってしまうのが毎度の事だ。中間管理職の性とでも言うのだろうか。
課長はそのままグラスを持って、席を回っていた。今日は、ここ四半期分の業績がこの課が優秀な数字をはじき出したので、会社からの支給金で皆で呑みに来ている。課は自分を入れて14人。課としてはそこそこ大きな部隊だろう。課長は一応面倒見が良い方なのだろうか、一通り皆に声を掛けている。
「いやぁ、今回は良く頑張ってくれた!」
「いえいえ、課長あってこそですよ。」
そんなお決まりの文句が耳に入ってくる。同じ事を言われれば俺も同じ答えを言うだろう。
別につまらない、とまでは思わない。だが面白い呑み会かといえばそうでもない。仕事連中で集まっていれば、会話なんて仕事の事が殆どだ。失敗談や回想が会話の根になっているだろう。趣味や付合ってる人の話もちらほらとは出るが、そんなのは他人には関係無い話だろうし、聞くほうも大して興味があるから聞いてる訳じゃないだろう。
「島田課長、そろそろ時間だそうですぅ。」
課の幹事の女の子がそう叫んだ。ここの宴会はどうやら2時間までらしい。
そう考えると、俺はずっとぼーっとしている間にもうそんな時間が経っている事に気付いた。これと言った会話を交した記憶が無い。好成績での宴会なのに、俺は一人で浮かない顔をしていたんだろう。
「おぉし!時間はまだ早い!もう一件行くか、カラオケ行くかにしよう!」
店を出るなり、そんな声が上がる。確かにまだ8時をちょっと過ぎたくらいだ。今日は珍しく6時で全員仕事が上がったので、なんだか長い夜に感じる。
「カラオケ、カラオケぇ〜!」
女子社員数人が黄色い声を上げる。
「うし!んじゃ、カラオケ行くぞぉ!」
「おお!」
どうやら多数決なんてのは関係無いらしい。その女子社員数人の意見がまかり通ってしまった様だ。他の社員も、そのノリで拳を挙げて意気揚揚とカラオケに向かう。
「済みません、課長。私は先に失礼させて貰います。後は皆で楽しんで下さい。」
流石にそこまで付合おうとは思わない。別にカラオケが嫌いな訳じゃないけど、今日はなんだか気分が乗らなかった。
「なんだ、悠木…用事でもあんのか?」
「ええ、まぁ…」
別に用事がある訳じゃないが、下手に「そういう訳じゃない」なんて言ったら強引に連れ去られるのは何時もの事だ。ここは誤解でも嘘でも適当に作っておくに越した事は無い。
「そうか、残念だな。じゃぁ、また明日、会社でな。」
「はい、じゃお先に失礼します。」
ノリの良い連中はもう50m先を団子になって歩いていた。課長は俺に別れを言うと、その団子の後ろを追い掛けて行く。
まぁ、他の連中に呼びとめられると面倒ではあるが、少し寂しい思いも確かにあったりする。
ここで未練を残しても仕方が無い。家に帰ってやる事なんてありはしないが、駅に向かう事にした。
四ッ谷に会社があると、自然と呑み会は新宿になる。渋谷も近いは近いのだが、電車の乗り換えもあるし、何より新宿の方が安い呑み屋が多い。不夜城とか殺伐とした雰囲気の小説や物語は多いけど、普通に歩き、普通に呑んでいる分には何の変哲も無い賑やかな繁華街だ。
コマ劇場よりやや置くに入った所で呑んでいたから、歌舞伎町を通って新宿駅に向かおうとした。だが、そんなに呑んでないつもりだったが、やや足がフラついている。
「あれ?…」
そんなに酒に弱いつもりじゃなかったが…。
だが、そのフラつきが酒の所為じゃないのが直ぐにわかった。動きもせず、ずっと同じ場所で座っていた為に足が痺れていたらしい。その痺れが酒の所為で鈍くなっていた…とするとやっぱり酒の所為だろうか?
どちらにしろ、無理して歩いて骨折なんてした日には格好がつかない。しかもコマ劇前の人通りの多い場所で、そんな恥ずかしい事にはなって欲しくないものだ。
近くの自販機からコーヒーを買って、目の前のロータリーに越し掛けて、痺れが無くなるのを待つ事にした。
ノートパソコンを入れた重い鞄を足元に置き、缶のプルタブを開けて一口すする。
テレクラの呼び込みの音、近くで弾いている路上ライブのギターの音、呑み過ぎたのか蹲りながら嗚咽を漏らしている男…。新宿らしい音と光景が広がっている。
彼らもああして微妙な変化の中の日常を送っているんだろう。テレクラに入ろうと、路上でギターを弾こうと、偶々飲みすぎて戻しているのも、普通の日常の1ページに過ぎない。明日になれば、また同じ様な一日が待っているに違い無い。
「平和…だねぇ…」
自分にも聞こえるかどうかの小さい声で呟く。飢餓や貧困、まだ終らない戦争が他の国ではあるんだろうけど、少なくとも日本の、ここ新宿は平和な光景を現している。
このまま暫く通りすがりの人を眺めながらゆっくりコーヒーを飲むのも悪くない、とは思うが呑んだ所為で少し身体がダルい。衝動的にベットが恋しくなったから、飲み掛けのコーヒーを一気に流し込んでその場を離れ様とした時。
とすん…。
いきなり俺の横に誰かが越し掛けた。
「…?」
別に混雑している訳じゃない。なのに態々俺の横にいきなり座るとは…。
気味が悪いので、俺はそれがどんな人かも見ようとせずに、そこを立ち去ろうとした。が、その人物はいきなり俺の腕を引っ張り、腕を組み始めた。その時初めて腕にある何かの感触で、それが女性だと判った。
「え?おい…」
男の悪い癖かもしれない。反射的にその人物の顔を見る。俺より少し若い…多分、二十歳すこし過ぎたあたりだろうか。顔は…割と好みに近い可愛い系の顔をしている。
強く文句を言ってやろうと思ったが、顔をみてその意気込みが半減してしまう。
「あの…何か?」
女は返事せずに、辺りをキョロキョロと見渡している。腕を組まれている所為で俺は立てずに居た。
「もしもし…?」
もう一度声を掛ける。するとその女はニッコリと笑って、もう一度俺の腕を強く引いた。
「ごめんねぇ、待たせちゃって…ちょっと込んでたから。」
「は…はい??」
無論、待ち合わせした覚えも無ければ、この女に覚えも無い。酔った勢いでナンパして一夜限りの、なんて経験も無い。
「いいから!このまま笑って私に話掛けて!」
笑った顔を崩さずに彼女は低く、けど強く俺にそう言った。
「一体、何…」
「いいから!今は私の言う通りにして下さいっ!!」
今度は笑い顔ではなく、もの凄く怒った顔を一瞬して俺の腕をまた強く抱きしめた。彼女の柔らかい感触が腕を伝って判る。
面倒な事にならなければいいが、と思いつつもその感触から逃れ様とは思わなかった所に自分の悲しさがある。事実、彼女の言うなりにしてしまった。
「名前は?」
「柚希菜といいます。貴方は?」
「秀明。…誰かに追われてるの?」
「後で説明します。…もっと恋人同士みたいな会話は無いのですか?」
「済まないね…経験が希薄でさ。」
多分、半分引き攣っているだろうけど笑顔には違い無い。俺は作り笑いをしながらも、なんとか会話を探した。
「んで、いつまでこうしてればいいの?」
「ん〜…それもそうね…。追っ手の姿も見えないから、どこか店に入りましょう。

この時、カラオケに付き合わなかったのが、どれだけ後悔した事だろう…。忘れたくても、忘れられない彼女との出会いになった…。






隣合せのファンシーフリー
Fancy Free in diary life





第一章
得てして突如やってくるモノの名は厄災


「人気が多くて、通りから見えない場所。」
彼女はここの周辺を知らないらしく、その注文をつけて俺に案内させた。
そのまま放って帰ろうとも思ったのだが、彼女が腕から離れない。仕方無しに店に案内する。
別に飲む訳でもないから、地上三階にある近くの喫茶店に入った。ここは何時も混んでいる。俺達二人が入った時もやはり混んでいた。
幸いな事に窓際は埋まっていて、一番奥の狭い二人掛けの小さなテーブルが空いていた。
「コーヒー。」
「私、ミルクティー。」
席に付く事でやっと俺の腕は開放された。少し心残りもあるが、出来るなら別のシチュエーションで感触を楽しみたいものだ。
「で、俺はこれを飲んだら帰っていいのかな?」
「ダメ…お願いだからもう少し付合って下さい。」
彼女は可愛い。だから何度も言いかかってるが、やはりもっと別の場面にして欲しいものだ。どうもさっきから嫌な予感しかしてこない。これなら、普通に逆ナンされた方がよっぽどマシだ。
頼んだ品物が来るまで彼女は辺りを見渡していたが、それが来て一口啜ったら落ち付いたのか、やっと俺の顔を見て話し掛けた。それも切羽詰った哀願する顔でだ。
「お願いがあるの。」
そのお願いとやらを聞いて、上手く持っていって一晩…なんてのも考えたけど、現実はそう甘くは無いだろう。この可愛さは勿体無いが、ここは何事も無く通り過ぎるのが一番だろう。
そう思った瞬間、自分が滑稽に思えた。さっきまで「何かしらの変化」なるものを望んでいた自分が、イザとなると今迄の平穏を壊されたくないと言う。まったくもって勝手だな、と自嘲した。
「…何笑ってるんです?」
「あ、いや…何でもない…。」
どうも顔に出てしまったらしい。俺はもう一度無表情に戻して彼女に言う。
「断る。」
「まだ何も言ってないです。」
「どうせロクでも無い事だ。俺を巻き込まないで欲しい。」
冷たいかもしれないが、俺は本心をそのまま言葉にした。何かしら理由があるだろうが、やっぱり面倒事は御免だ。こんな劇的な変化は物語の中だけでいい。
俺のその言葉を聞いた彼女は、そのまま俯いてしまった。やはり面倒な事なのだろう。俺はビールと缶コーヒーの複雑なカクテルで腹が膨れていたので、それ以上コーヒーを飲む理由も無い。二口飲んだだけで、伝票を手にしてその場を去ろうとした。
「ま、待って下さい!」
そのすがる様な目を見てしまったのが失敗だった。それにやや大きい彼女の声で、周りの客が俺達の事を横目で見ている。それでも、なんとかその場を去らないとと思いつつも、浮き掛けた腰は椅子に落ち着いてしまった。
「と、言われてもねぇ。」
周りの客の怪訝な目が疎ましい。多分、痴話喧嘩か何かと勘違いしているのだろう。冗談じゃない。彼女とは出会ってまだ数十分も経ってないのだ。
「他の奴じゃダメなのか?」
「ダメです。」
何を根拠にそう言うのかが判らないが、彼女は何か強い決心でもしたような目に変わって俺を見る。見れば見る程可愛い、いや俺好みと言った方が正確だろうか。
必死になっている彼女の裏には、何かしら面倒な事が起こっている事の反映だろうと思いつつも、少しだけ話を聞こうと考えを切り替えた。話をするだけなら巻き込まれないだろう。それにほんの少しの時間だけだ。事が起こる前に帰ればそれでいい。
「どうして新宿に?飲んでた最中か何か?」
「いいえ…違います。」
「どこに住んでるの?」
「どこにも…」
「親や兄弟は?」
「…分りません。」
「友達は?」
「分らないんです。」
俺はやっぱりこの場を立ち去るべきだったかもしれない。もうこの時点で面倒事は起こってしまっていた。
「もしかして…記憶喪失?」
記憶喪失がどういう事かは知っているが、その患者がどういう反応をするのかは知らない。少なくとも言葉は忘れてないし、さっき名前も言っていた。断片的な記憶喪失なんてのもあるのだろうが、専門家じゃないから良く分からない。
「…そう…かも…。」
記憶喪失だとしたら厄介だ。少なくとも、このまま警察か病院に連れて行かなくてはならないだろう。それで済めばいいのだが、警察も病院も記憶喪失の人間を保護する事はしないだろう。いくつか質問をして捜索手続きを取るだけが関の山かもしれない。
「じゃ、病院か警察に…」
それでも他に手立てが無い以上そう言うしかないだろう。
「それは駄目!彼らに見付かってしまう!!」
「彼らって?」
おかしい。只の記憶喪失なら追われる事も無いだろう。それに記憶の何かに引っ掛かるものを求めるのならば、その彼らを頼りにする筈だろうし。
「追われているのか?」
「…ここでは話せません…。」
またもや俯いてしまう彼女。それでも喉が乾いているのか、紅茶をニ三口啜っている。
まぁ、ここで話せないのなら聞いても無駄だろうし、何より聞いた所で力になってやろうという気が無いから聞くだけ無駄だ。
「ならどうしようも無いじゃないか…。」
最初は微かだった男の予感が「これはヤバい」という警告を大きく増していった。ここは早々に立ち去った方がいいだろう。それに、警察や病院に行くのが嫌なのなら…。
「もしかして…犯罪でも犯した?」
「ち、違います!」
まぁ本人が否定しても確証は得られない。俺に自白されても仕方ないしね。
「兎も角、俺は帰るよ。ここだったら人もそう減らないから見付かる事は無いかもね。それじゃ。」
冷たいと思われるかもしれないが、俺にも都合がある。もっとも、家に帰って何をする訳じゃないが面倒事は御免蒙りたい。俺は伝票をもう一度手にしてレジへと向かった。
顔を合せない様に、横目で元居た席をチラっと見てみる。
彼女は俯いたままそこに座っていた。諦めてくれたのだろうか?
多少、と言うよりは本能的に後ろ髪を引かれながらも、勘定を済ませて店を出た。

新宿から中央線で十分少し。中野はまだ下町の雰囲気が残っているが便利な街だ。俺の家は早稲田通りよりも北側にあるから、家賃も中野坂上周辺に比べれば安い。西武新宿線を使った方が家には近いのだが、終電が遅くまでやっている中央線を利用する事があるので、今では癖になってJRで帰って来る。
「ちょっと、惜しい事をしたかな?」
独白する。ナンパみたいな機用な事は出来ないのは分っているが、何かと話をつけて仲良く飲みに行ければという思いもあった。その先は…まぁ到底無理だろうから期待はしないが、日常にある「ちょっとした変化」を楽しむ事ぐらいは出来ただろう。
モールを通り越して、車が絶える事のない早稲田通りを渡り、静かな住宅街を抜ける。その一角に小さく立っている2階立てのアパートに辿り付いた。
もう2年も過ごすと引っ越そうと思う気も無くなる。狭いは狭いが、それでも一人暮しなら1DKで丁度良いだろう。
鍵を開けて見なれた自分の家に帰る。無言のまま、靴を投げ捨てる様に脱ぎ、少しだるくなった身体を部屋へと進める。
鞄を置いて服を適当に脱ぎ捨て、部屋着のスウェットにサッサと着替えた。
あとはTVを見るなりゲームをするなり、一人の時間だ。だが、今日は何もする気が起きず、そのままベットへと身を沈めた。
「このまま寝て、明日起きて、会社行って…また繰り返しか。」
さっきは変化を求めて、変化に出くわした。だが面倒は嫌なので逃げ出し、また家に帰ると繰り返しの毎日が嫌になる…ホント、我が侭な自分だな。
どうせ寝て起きれば、今日あった事なんて直ぐに忘れてしまうだろう。そう考えると、やっぱり惜しい気持ちがまた膨れ上がってくる。
「終ったものはしゃぁないっしょ。寝よ。」
睡魔が来るまでにはまだ時間が必要な様だが、電気を消してサッサとベットに入ろうと思った。立ち上がって電気を消そうをスイッチに手を伸ばした時。
殆ど利用された記憶が無い呼び鈴の音が部屋に響いた。
何かの勧誘か?…だとしたらなんとまぁ非常識な奴だろう。無視しようとしたが、ちょっと顔だけ見てこようと思い、忍び足で玄関に向かう。
居留守を使う為、足音を立てない様にゆっくり移動している最中にも2・3度ベルは鳴る。物音を立てない様にそぉっと覗き窓に顔を寄せた。
ベルを鳴らしつづける人影。
きっと俺はこれ以上無いくらい目を見開いた事だろう。慌ててチェーンロックを外し、ドアを勢いよく開けた。
「キャッ!」
そりゃ驚くだろう。これだけ予告も無くドアを開けたんだから。だが驚いたのは俺の方だ。
「おい、どしてここに!?追って来たのか?」
ドアの勢いに驚いてよろめいている彼女。そう、さっき分れたばかりの柚希菜とか言った女の子だ。
「あ、お、お願いです!聞いてください!!」
彼女はいきなり俺の胸倉を掴んで懇願してきた。その力の入り具合から尋常で無い事は分るが、はっきりいって迷惑この上無い。
「あ、あのさぁ…。」
「お、お願いです。…じゃないとここで叫びますよ?」
彼女の意地の悪さなのか、それともそれだけ切羽詰っているのか分らないが、半分以上脅迫じみた言葉を出してきた。
ここで面倒を起こされては堪らない。せっかく慣れた生活を送れる空間なのだ。俺は仕方無しに彼女を部屋に上げる事を、渋々ながら了承せざる得なかった。
彼女は部屋に上げるなり、もともと散らかっている俺の部屋を更に散らかす様に辺りを模索しはじめた。
「お、おい…。」
滅多に女の子を部屋に呼ぶ事は無いが、それでもその数少ない経験の中で、部屋に入るなり部屋中を荒す女の子は初めてだ。俺は唖然として彼女の行動を見ている他無い。
やがて気が済んだのか、彼女はご丁寧にも荒した部屋を片付けながら話し掛けてくる。俺は居場所を無くして、ベットの上で胡座をかいた。
「済みません…盗聴機とか監視カメラとかあるかもしれないと思ったので…。」
「と、盗聴機ぃ?」
他の国の話と間違えてるんじゃないだろうか。第一こんなしがない会社員の家に盗聴機を仕掛けた所で、何の役にも立たないだろうに。
「あの…話を聞いてくださいますか?」
彼女は済まなそうに俺の顔を見ながら聞いた。
もうこうなっては仕方が無いだろう。取り敢えず、その彼女の話を聞くしか無さそうだ。
「じゃ、飲み物持ってくるよ…。」
「あ、いえ…お構いなく。」
なんだかやっと普通の会話が出来た様な気分だ。と言っても半ば彼女が強引に部屋に上がり込んできたのだから、持て成す必要も無いといえば無い。まぁ茶と菓子は無いが、ジュースぐらいは出してやろうと思う。
「で、話って?」
小さなよくあるガラステーブルに向かい合っている俺と彼女。彼女はちょこんと正座をして少し俯いている。強引で荒いんだか、大人しくて礼儀正しいのかよく分からない。
この時俺は、初めて彼女をまじまじと見た。街で会って喫茶店に行くまでは俺は彼女を正視していない。だが、こうして自分の部屋に居る彼女を見ると、妙な違和感を感じられた。
セミロングの綺麗な黒髪。ややあどけなさを残しつつも、女性の魅力があるスッキリした顔立ち。細い首筋から綺麗な曲線を描いている細い身体。腕にまだ少し感触が残っている、多分豊満だろう胸。
俺にしてみれば合格点以上の女性だ。この不穏な雰囲気さえ無ければ、だが。
「あの…話せば長いし…どこから話せば…。」
自分で話を聞いてくれといいながら、戸惑っている彼女。おかしなものだ。
「最初から最後まで、順序良く話せば良いよ。どうせ、聞かなくちゃならないだろ?」
「あ、はい…済みません…。」
別に強く言ったつもりじゃなかったが言い方がマズかったのだろうか。彼女はシュンとなってしまった。
だが言い訳をするつもりもない。これからその長い話とやらに付合ってやるのだ。それくらいは言いたい所だ。
「私…サイボーグって言うんでしょうか…。」
「へ?」
出だしかこれだった。俺にしてみれば強烈なカウンターパンチを喰らった気分だ。笑いも出来なかったし怒鳴る気力も無い。俺はそのまま硬直したまま彼女の話しを聞いた。
彼女の話を要約するとこうだ。
河崎重工とGE(Gigatron Electronics)社の共同極秘プロジェクト。そのプロジェクトの詳細は知らないらしいが、その内容は現代医学とコンピューター技術を利用し、死者を蘇らせサイボーグとして強化するものらしい。
何に利用されるのかは不明だが、多分軍用目的か何かだろう。彼女はそのプロジェクトの試作品で「CODE:021」と呼ばれていた様だ。
意識・自我・全ての感覚があるにも関わらず、実験は冷酷にも繰り返され苦しい毎日が繰り返されていた。それに耐え切れず、彼女は脱走してきたらしい。殆ど奇跡での脱出だった。
その脱出をしてる間に、これも奇跡的だろうか。彼女は自分の身の上の一部を知る事が出来た。
「沢 柚希菜」と言う名と、自分が以前交通事故で死亡している事。そして今は23歳と言う事。住んでいた所や肉親の事までは分らなかったようだ。生前の記憶は殆ど無いらしい。
…ここまで聞くと、小説や漫画でゴロゴロしている様な話だ。こう現実で聞かされてもパッとしない。もしかして自分は担がれているんじゃないかとも疑ってしまう。
「ふぅん…じゃ、サイボーグって事は殆ど身体は機械なの?」
「いいえ、そこまで進歩はしてないんでしょう。ここと、ここだけに埋め込まれているだけみたいです。」
そう言って、彼女は自分の頭と左腕を指した。
とは聞いても、外見上何の変哲も無い。普通の人間とまったく同じだ。サーボモータの音でも聞こえてくれば幾分かは信用出来たりするんだろうが、まったく音もしないし、人間そのものだ。俺はずっと彼女を訝しげな目で見ている事だろう。
「…そ、そうですよね…。そんな事言われても信じられないでしょうね…。」
その通り。信じられる訳が無い。そこまで技術が進歩している訳でも無いし、ましてや死者を蘇らせるなんてゲームの世界じゃないんだから。まだ、未来からやってきたと言われた方がマシである。
「で、連れ戻されるから、追われているの?」
「そうです。両社のSS(シークレットサービス)の人達が私を追っています…。」
そりゃ、その話が本当なら追い掛けて捕まえるなり、抹殺するなりするだろうな。
そんな俺の考えが伝わった様に彼女は続けて言った。
「もうイヤです。二度も殺されるなんて御免だわ!!」
と、とうとう泣き出してしまった。
「お願いです!匿って下さい!!貴方しか居ないんです!」
泣かれても困るし、頼られても困る。可愛いとは思うけどそれだけだ。赤の他人だし、何より俺も交えて追われるのは御免だ。
「お願いです!何でもしますからっ!」
遂に出たな、その言葉が…。心の内で苦笑してしまう。
じゃ、大人しく帰れとか、一晩好きにさせろ、とか言ったら彼女はどんな反応を示すのだろうか?
試して見たい気持ちが膨れ上がってはくるが、自慢じゃないが度胸がそれを押えてしまう。何より、その彼女の話が本当かどうかも分らないのだ。
返答に困っている俺を見て彼女は俺に近付き、また胸倉を掴んだ。そして今度は顔を埋めて何度も同じ言葉を繰り返す。
「お願いします!助けて下さい!」
段々とそれが嗚咽交じりになり、泣いているのだろうか、だんだんと胸に湿ったものを感じられた。
法治国家日本。と、言っても殺人がまったく皆無では無い。河崎重工とGE社は、どちらも誰もが知っている巨大企業だ。本当に追われているならば命を狙われる可能性だってある。まだ二十も半ばしか生きてないのに殺されるのは御免だ。
それに友人や肉親に迷惑が掛かるとこれも面倒だ。俺一人で何が出来る訳でもないし、もしそんな友人とかに頼ったりしたら危険過ぎる。
「あのさぁ…何も出来ない俺よかさぁ、もっと他の…」
「駄目ですか!?」
埋めていた顔を上げて俺の顔を見る彼女。本当に泣いていたのだろう。目は赤くなり頬には流れた涙がまだある。
「…頼られてもなぁ…。」
流石にそんな顔は直視出来ない。俺は顔を背けてしまう。そもそも信用出来る話かどうかも分らないのに、何をどうすればいいと言うのだろう。
すると彼女は掴んでいた胸倉を離し、今度は勢いよく俺の首を絞めてきた。
「お、おぃ!」
女性の癖に随分と力強い。最後の方は声さえ出なく、ヒューヒューと空気が口から漏れるだけになった。
「もういいわ!連れ戻されるくらいなら、貴方を殺して私も死ぬっ!!」
泣きながら喚く彼女。
それでもやはり女の子だった。軽く突き飛ばしたら、簡単に俺から離す事が出来た。彼女は軽く尻餅をつく。
「の、のび太君かお前は!?」
「…のび太…君?」
「いや…知らないならいい。」

結局彼女は、帰る場所も無く頼れる人物も俺だけ、行く宛さえも無いらしい。
「ちょっと考えさせてくれ。」
俺はそう言って一旦話しを切った。そもそも彼女の話は本当に長く、俺のこの言葉を言った時には既に夜中の二時半を過ぎていた。流石に眠気も襲ってきている。
帰れ、とも言えずに仕方無しに彼女を泊める事にした。代えの服も寝間着も無いから、座椅子に毛布を掛けるだけで我慢して貰う。
彼女は疲れていたのか、電気を消すと数分も立たない内に寝息を立てた。「なんでもする」とは言ったものの、ちょっと無防備じゃないか?
だが、俺も眠いは眠い。彼女を襲いたい衝動もまったく無い訳じゃないが、度胸も無ければ今は気力も無い。また、明日は仕事もあるからとっととベットの中に潜りこんでしまおう。
「まったく…どーしたもんかねぇ…。」
布団を被ったら考える気力も無くなった。今になって疲れが一気に押し寄せてきたのも手伝い、考える間も無く深い眠りに落ちていった。


第二章
逃れられないベクトル




カーテンレールの軽い音の後に続く、眩い太陽の光、そして小鳥のさえずり。シーツを被っていても感じられる、包まれる様な暖かさ。
そして、必ず目を開ける前に感じられる毎朝の臭覚。こんがり焼けているトーストと煎れたてのコーヒーの香りだ。
「ほぉら、何時まで寝てるの?今日も気持ち良い朝よ…。」
この世で最も大切な声。その声が耳をくすぐると自然と目が開いてしまう。それに飛び込んでくる情景は、何度見ても飽きないものだ。
大きめのシャツ一枚だけのあられもない姿の彼女。太陽と同じくらいに眩しい彼女の笑顔と美しい体のラインが焼き付くように飛び込んでくる。
俺はいつもその姿を見ると、反射的に彼女をやさしき抱き寄せて、そしてキス。
「ほら、朝食はもう出来てるわよ。…それとも、その前に私を食べる?」
誘惑には弱い。出来たてのトーストも魅力だが、何時も選ぶのは後者の方だ。

…等と言うのは本当に夢の世界だ。現実にはありはしない。少なくとも俺には高望みな生活だろう。
いつもと同じ時間、同じ様に入ってくる普通の太陽、そして同じ天井。それこそ何の変哲も無い毎朝の情景だ。
俺は頭を掻きながらノソノソと布団から起き上がる。そこそこ寝たとは思うのだが、ちょっと寝不足気味だ。まだ頭が働き始めてくれない。と、言うよりはヤケに頭が重い。確かに夕べは酒を飲んではいたが、二日酔いになる程は飲んで無い筈だが。
そんな重い頭をなんとか持ち上げながら、ベットに越し掛ける。もう少し暖かい布団の中でまどろみたいのもあるが、時間の方が許してくれない。
起き上がると同時に寝ぼけ眼に入ったのは、座椅子と毛布だった。
そういえば、彼女を家に泊めたんだっけな…。
だが、その当の本人の姿が見えない。気配も感じられない。
段々と視界がはっきりするにつれ、自分の部屋が一変しているのに気付いた。
「な、なんじゃこりゃ!?」
部屋が荒されている。自分でもここまで荒さないくらいだし、昨日彼女が荒したよりも酷く荒れている。おまけにクロゼットや台所まで引っ掻き回した形跡があった。
「おいおいおい!…朝から勘弁してくれよぉ…。」
取り敢えず生理現象は待ってくれないので、ユニットのトイレで用を足す。無論、そこにも彼女の姿は無く、おまけに玄関の鍵も開けっぱなしだった。
「なんだ…新手の物取りだったのかぁ?」
泣くに泣けない状況とはこの事を言うのだろうか。取り敢えず、起こった事は仕方が無いし、嘆いていても何もならない。
何を盗られたのかはまだ分らないが、荒されたのは確かだから警察へと電話しようとした。だが、ご丁寧にも電話線が切られている。
「何もそこまでしなくたって…。」
仕方無しに携帯を探す事にした。だが、上着のポケットの中に入れておいた携帯が見付からない。一晩にして殆ど粗大ゴミの山と化した部屋の中を捜しても見付からなかった。
「…携帯は盗まれたのか。」
幸いと言うべきか、不可思議と言うべきか、財布の中身や通帳等は盗まれてなかった。どちらにしろ、これで生活はなんとかなるので、一安心だ。
そうこうしている内に、既に出勤の時間となっていた。電話がなければ会社に連絡も出来ない。
「しょうがない、一回会社に行って事情を説明するか…。」
荒れ果てた部屋の中からスーツと鞄を拾い、溜息を何度も吐きながら部屋を後にした。

「と、言う事なんですよ、課長。」
「物盗りねぇ。」
俺は課長に簡単に説明した。彼女の事は説明が面倒になるので省いてしまった。それに、昨日の飲み会の途中で抜け出した理由の一つに誤解されるのも面倒だったからだ。
「そういう訳で警察行きたいし、時間も掛かるでしょうから、今日は休んでいいですか?」
「ん〜、でも今日は定例会議もあるからなぁ…。」
会社組織の惨い事よ…。人の家が荒されたにも関わらず、会議や営業と来たもんだ。人情なんてありゃしない。
「私が居なくても溝井が居ればフォロー出来るでしょう。問題無いと思いますが…。」
俺はこの時初めて、そこそこの規模の会社に勤めた事が正解だと知る。人の居ない職場だったりしたら、当の本人が居ないだけで大騒ぎになってしまうだろう。代りの人が居ればそれで問題無いのである。
「まぁ、仕方ない。早く終りそうだったら、また戻ってきてくれ。仕事は会議だけじゃないしな。」
「…分りました。」
無論、早く終った所で戻る筈も無い。そんな時間があったら、部屋の状態を戻す方が先決だ。そこまで会社に義理立てする給料は、まだ貰ってない。
「あのぉ、悠木さん。外線9番にお電話ですが…。」
課長が続けて何か言おうとした時に、事務の女性社員の声が割り込んできた。
「え?誰から?」
「沢さんって言う、女性の方からですよ。」
何やら意味有り気な笑いを含みながら大きな声で言う。物盗りにあったというのを半信半疑な課長には、更に胡散臭さが混じってしまった事だろう。変なタイミングだ。
「沢?…沢ねぇ…」
只でさえ女性の知り合いは大学卒業以来少ないのに、そんな苗字の女性に心当りはなかった。受話器を手にしながらも、9番のボタンを押すのを躊躇った。
「はい、悠木でございますが。」
営業先かもしれないので、余り得意でない営業声を使っての応対。だが、すぐにそれが無駄な努力という事を知らされる。
『あの…私です、昨晩の…』
控え目の小さな彼女の声だった。
「あ!お前!よくも…」
『ち、違います、私じゃ、私じゃないんです…』
と、否定されてもハイそうですか、とは行かないだろう。色々と文句も言いたい所だが、私用電話は控えなくてはならないし、何より変な誤解はされたくない。課長辺りに勘ぐられると、余計にややこしい事になりかねない。
彼女は、取り敢えず弁解したいので、山下公園の噴水の所で待ち合わせる事を俺に伝えると、電話を切った。
受話器を下ろすと同時に発信者番号を確認すると、何と俺の携帯の番号だった。少なくとも携帯は彼女が持っているらしい。
面倒が増えた。警察にも行かなくてはならないのに、彼女と待ち合わせの約束までしてしまった。まぁ、もっとも彼女は何か知っているだろうから聞き出すには丁度良いが、今から出掛けなくてはならない。
俺は鞄を拾い、大きな溜息を吐いてから、情けない顔で課長に言った。
「兎に角、行って来ます…。」
「とんだ災難だったな。」
俺のその顔を見て、少しは信用したのだろうか。苦笑しながら答えてくれた。

着替えを持ってないから当然だろうが、彼女は同じ服装だったので直ぐに見付ける事が出来た。
「済みません、済みません!」
彼女は俺を見付けるや否や、いきなり腕を組み始めてきた。そして俺の肩に何度も額をぶつけておじぎをしながら謝っている。器用なんだか不器用なんだか良く分からない。
兎に角立っていても仕方が無い。近くのベンチに腰を下ろして話を聞く事にした。
「貴方の部屋を荒したのは、多分GE社のSSだと思います。私は逃れる為に、ギリギリで部屋から出ました。お世話になったのに何も言わないままで済みません。」
「…でも、あんだけ荒されたのに物音一つしてないなんて…。普通だったら起きるよなぁ。」
今思うと、自分の熟睡が恨まれるくらいだ。
「それも多分…睡眠薬を打たれたんだと思います。今朝、頭が重くありませんでしたか?」
それは確かに。だけど、注射の跡なんて…と、今は皮膚の上からでもジェット注入出来る器具もあるんだっけな。
「で、何も盗んでないの?」
彼女は首を半分振りかけたが、それを途中で止めて、持っていた携帯電話を差し出してきた。
「ごめんなさい…連絡したかったので、これだけは…。」
その携帯を受け取り、年の為に発信履歴を見てみるが、どうやら掛けたのはさっきの会社への1本だけで、他は昨日自分で使ったのだけだった。
「で、俺は結局巻き込まれちゃった訳?」
「はい、済みません…たぶん、もう家も…」
「いえぇっ!?」

俺は彼女の手を引っ張り、自宅へと急いで帰った。
そこには…喧騒とした人だかり。消防車に救急車、そしてパトカーまでも狭い道路に犇めきあっていた。
「あのアパートの205号室から出火だってよ。幸い、死人は居ないみたいだな。」
「住人のヤツぁ悲惨だな。」
その住人は、そんな人事を言っている野次馬の後ろに居たりする。
「…」
俺はもう言葉も出ない。まさか自分の部屋をアパートごと燃やすなんて…。
やりようの無い怒りを彼女にぶつけようとしたが、姿が見えない。と思ったら、何時の間にか背中に隠れている。
その時、消防車に混じって「河崎都市ガス」のツナギを来た人達が数人アパートに入り込んでいった。
「あの人達SSです。逃げないと!」
その刹那、彼女は強引に俺の腕を掴み、走り出した。

彼女は何度も後ろを振り返りながら、曲がりくねった住宅街を抜け、結局走って隣の新中野の駅に辿り付いた。息を切らしながら彼女に引っ張られる俺。普段運動してなかったのが悔やまれた。
「お、おい、もういいだろう。」
流石に心臓も限界近くを訴えていた。二十もまだ半ばなのに、何時の間にやら俺の身体はオヤジ化が進んでいるようだ。
駅前の小さなロータリー、とも呼べないくらい小さな広場。携帯が普及している所為か余り使われていない公衆電話の横にあるガードに越し掛けて、やっと一息付けた。
その途端に、さっきの事を思い出して気分が暗くなった。
アパートが全焼。骨組だけになった姿になっていた。あれじゃぁ家財も何もかも残ってるものじゃないだろう。置いてあった実印や証書、通帳なんかも燃え尽きてしまっただろう。
「おいおい…夢であって欲しい時に限って現実なんだろなぁ…。」
流す涙も忘れてしまうくらいに空虚な気持ちだ。余りにも現実離れしすぎている。
「あの…済みません。」
彼女から出てくる言葉はそれしかなかった。
だが、彼女がいくら謝ったところで事態が改善される訳でもなく、元通りになる訳でもない。
「どーしてくれるんだよっ!」等と叫びたい所だが、そうも行かないだろう。どっちにしろ元になる訳でもない。
「あ〜あぁ…これからどうやって過ごせば…。」
残ったのは会社の書類とノートパソコンが入ったこの鞄だけ。生活に役立つ訳が無い。何より先立つモノがサイフに入っている分だけだ。
チラっと彼女の方を見る。彼女は済まなそうにしているだけで、何も言葉が出てこない様だ。
「…ねぇ、逃げるにしたって金が無ければ始まらないよ。持ってる?」
彼女は小さく首を振った。見たとおり、着のみそのままだけの様だ。
「どーしたもんかねぇ…。」
この上無い脱力感。何もする気が起きないどころか、もうどうなっても知らないという無責任さが頭の中を制圧していく。走りすぎて喉が乾いてきたが、手持ちも少ないだろうから我慢しないとならない。それを思うと更に無気力になってくる。缶コーヒー一つ買えなくなるとは…。
「あの…ノートパソコンとかお持ちですか?」
彼女は俺の前に立ち、控えめにそう聞いてきた。
「ああ、鞄にあるよ。」
「モデム付きですか?」
「ISDNのカードがある。」
「お借りしますね?」
メールでもチェックするつもりなんだろか。もうどうなっても何とも思わないから好きにしてくれ、と目で訴えながら、俺は小さく頷く。
彼女は鞄からノートパソコンを取り出し隣のグレー電話に入った。
「あの…それと10円も…」
「はいはい…」
公衆電話を使う事なんて無いから、テレカなんかも持って無かった。この時点で現金が出るのは少しばかり悔やまれたが、まぁ10円くらいならなんとかなるだろう。
彼女は10円受け取ると、それを電話機に投入してネットにつなぎ始めた。俺は横から覗き込む様にその画面を見るが、俺のアカウントでは無く、どうやら新規に作成したものだった。
「10円で繋がる時間なんて…何も出来ないだろ?」
「大丈夫です。」
そのままノートのキーボードを手馴れた手付きで操作して、直ぐに電話を切断した。その数秒後に公衆電話が呼び鈴を鳴らした。
「ああ、スティルコールバックね。どこに繋げたの?」
「後で説明しますね。それより、USBケーブルはありますか?」
「え?ああ…」
可愛い顔して、結構パソコンの事は詳しいのだろうか?
取り敢えず、俺は持ち歩いているケーブルを鞄の中から出して彼女の渡してやった。一体何をやるつもりなんだろう。
すると、彼女は髪を掻き揚げ、USBの一端をうなじと耳の後ろの間に突き刺した。
「って、おい!?」
「だから、言ったじゃないですか。改造されてるって…。脳の中にデバイスが埋め込んであるです。」
そう言いながらテキパキとUSBのもう片方を突き刺し、簡易LANを走らせた。その途端、何のデータが流れているのか分らないが、既に型遅れになっている俺のノートパソコンがクロックアップした以上に豪快に処理しはじめた。
数々のウィンドウが開いたり閉じたりしている。単に開いたりしているだけでなく、何かしらの処理をしているらしいが、目には分らないくらいのスピードだ。その間、彼女はキーに触れておらず、目を閉じている。
だが、十数秒もしないうちにゆっくりと目を開けて、俺の方を見た。
「取り敢えず、菱形銀行の神楽坂支店に1,000万円の架空口座を作りました。『飯田 茂』の名前です。これで足りますか?」
ぎこちない笑みを浮かべながらも平然と彼女はそれを口にした。
一千万円の架空口座…。と、言う事は今の一瞬で彼女は銀行のクローズドネットをクラックしたのか?
確かに並の人間には出来ない芸当だろう。
「ご、ごめん。ちょっと首見せてもらっていい?」
「え?あ…はい…。」
彼女はちょっと照れながらも、髪をもう一度掻き揚げて端子を見せてくれた。確かにUSB端子の様だが、傍目には痣くらいにしか見えない。
「でも、なんでUSBなの?随分と一般的な…。」
「詳しくは知りませんが、汎用性があるからいいそうです。」
でも、そうは言ってもなんだかチープに思えてしまう。頭の中には最新技術が使われていたとしても、だ。

兎に角、架空口座を作った所で、通帳とカードが無ければ現金に変えられない。俺は半信半疑のまま、簡単な銀行印を作り、カラーコピー機と画材を使い社員証を偽造する。後は上手く銀行員を誤魔化せば再発行手続きと言う形で口座から現金を引き出せるだろう。
法学部出身の俺としては大分心痛い。これだけで重罪を三つ以上も重ねてしまっている。情状酌量なんてない、実刑だけで3年以上はブチ困れるだろう…。
「ごめんなさい…。」
健気にも謝る彼女。助けてやろうという気持ちはまだ薄いが、こう何度も言われると仕方が無くなってくる。もうどうにでもなれ、という気持ちがそんな犯罪に後押しもしてくれた。有難くて涙が出そうだ。
確立なんてのはいつも五分五分のものだろう。その場で捕まれば、刑務所直行だ。それでも世の中は甘く出来ているのか、銀行員の女性が甘かったのか、すんなりと再発行の手続きはなされ、取り敢えず10万くらいの現金を下ろす事は出来た。通帳には「残高:990万円」の表示がある。嘘の金とは分っていながらも、少し嬉しく思う所に自分の小市民性があったりするんだろう。
現金が出来たら、次は本能を満たす為に食事。なんだかんだやっていたらもう午後も2時を過ぎている。いくら現金があったとしてもそこは小市民。そこらのファーストフードで十分だ。
「で、助けるのはいいけど、どうすんの?逃げるのもいいけど何所に?」
金が手に入れば仕事するのも馬鹿馬鹿しい。それに俺の自宅を平気で火事にするくらいだ。会社に行っても周りに迷惑を掛けるだけだろうし、もう顔も出せないだろう。連絡一本でも居れておこうかとも思ったが、それでアシがつくのもマズい。
そこまで考えて、やっぱりもう自分にも逃げる道しか残されていない事に気付かされて愕然とする。いや、性格にはもう一つの道…そう、彼女を河崎重工なりGE社なりに引き渡す手もあったりするんだが、それは「なんとなく」という理由で却下。
引き渡した所で今後の生活の保証がある訳でもない。もっとも、彼女と一緒に逃げても同じようだが…。
「はぁ〜…まいったねぇ…。」
危機感もへったくれもない。不思議な事に自分の身に降りかかっている現実なのにリアル感がまったくといって無い。
「ごめんなさい、本当に…私、何でもしますから…。」
だから、そう言われても困る。それに、何でもすると言って、銀行のサーバを平気でクラックしてもらわれても困ってしまうのはこっちの方だ。
現金を下ろしてしまった時点でもう手遅れなんだが、仕方が無い。
「で、何か考えはあるの?」
彼女は小さくふるふると首を振った。どうやら行き当たりバッタリらしい。それでよくここまで逃げてこれたもんだ。それこそ奇跡なんだろう。
仕方が無い。取り敢えず、無い頭をフル回転させてこれからの事を考えないとならないだろう。
取り敢えずは身を隠さないとならない。手っ取り早く海外へ行くのはいいが、ビザやパスポートは俺も彼女も持ってないから、偽造するにしても難しいし無理だろう。その道の人に頼めば作れるのだろうが、生憎とその手の知り合いも居ない。だから海外は無理だ。
そうなると国内で逃げ回るしかない。だが、河崎重工にしてもGE社にしても国内を探索するのは容易い事だろう。となれば、どこかの農村かもしくは人気の無い別荘地で部屋なり家なりを借りて隠れるのが手早いか…。
だが、相手もそう思い、そこらへんを物量作戦でしらみ潰しに探す可能性もある。
「と、なると木を隠すには森の中、人を隠すには都会かな…。」
独り言の様に呟く俺。何時の間にやら知能犯のように逃走ルートをマジメに考えている。その考え込んでいる俺の顔を、彼女は嬉々として見ていた。
「…ちゃんと考えてる?」
「はい、考えてますよ。」
鼻歌でも聞こえて着そうなくらい屈託の無い笑顔だ。確かに可愛い。だが、言葉とは裏腹にきっと何も考えてないだろう。…困ったもんだ。
一先ず、フェイクとして俺のそのまんまの免許証を使い、車をレンタルする。そして長野ないし福島かどちらかに高速を使って地方側へと逃げた様に見せ掛ける。適当な所で車を乗り捨て、電車で移動。これまた適当な所まで移動して、中古車を割高ないし、リベートを使って購入。そのまま東京へと下道で戻ってくれば、だいぶ時間稼ぎにはなるだろう。んで、秋葉原によって最新のノートパソコンとPIFAS対応のカードを買って、プリペイドPHSを購入。ついでに近くで画材とカラープリンタを買って、なんとか騙せる偽造免許証を作成。適当な偽名を使いながらホテルを点々とする。
「と、言った感じでどうかな?」
理想には程遠いが、無い頭使ってベターじゃないかなと思うルートがそれだ。どこまで上手く行くかは分らないけど、取り敢えずやるしかないだろう。
「はい!嬉しいです!」
子供の様にジュースを飲みながら嬉々とする彼女。やっぱり何も考えてないんだろう。出来れば、さっきの銀行の件の様にその技術を使って何とかして欲しいもんだが…。
「…その前に着替えだな。」
自分もそうだが、いくら彼女が可愛いといっても何日も着替えないのはマズいだろう。今迄だって、何日着替えずに、何日風呂に入ってないのかさえ分らない。少なくとも昨日は風呂にも入らず、着替えもしてないのは確かだ。
「そ、そうです、ね…。」
彼女は急に赤くなって俯いてしまう。ずいぶんウブな反応だが…やっぱり何日も着替えてないんだろうか。

よもやSSの連中も、今頃俺達がデパートでお買い物をしているなんて考えて無いだろう。思わず苦笑が表情に出ていたらしい。通り掛かりの客が訝しげに俺の顔を覗いて行く。
彼女が自分用の服を選んでいる間、俺は売り場と売り場の間の通路でボーっと突っ立っている。3万円くらいを渡し、買物に行かせた。取り敢えずの数日間だけの着替えだけでいい。
「あのぉ、秀明さん?」
何やら彼女はモジモジとしながら、俺に声を掛けてくる。
「何かあったか?」
「いえ、ちょっと見て欲しいので…」
そう言うと手で俺を招いて、簡易更衣室の前まで連れてきた。
「ちょっと待ってて下さい。」
そう言って、彼女はカーテンを閉めて着替え始めたのだろう。その動作の衣擦れの音が、カーテン越しに聞こえてくる。
場所が場所だけにそれほどでも無いが、彼女が向こう側で着替えている様子を音だけで想像させられると、多少なりとも「隠されたモノへの劣情」が出てきてしまう。
そんな表情を表に出したら、それこそ店員やら他の客やらの視線が痛くなるだろう。なるべくイライラした雰囲気の顔を無理に出しながら、彼女を持った。
「あの…どうでしょう?」
彼女はゆっくりとカーテンを開けて、恥ずかしげに聞いてきた。
上はシンプルな黒いタートルネックのセーター。下はアイボリーと言うよりも白に近いタイトスカート。
シンプルではあるけれども、元が良いのか可憐さを持ちながらも、どことなく大人な雰囲気を醸し出していた。
「ん……あ〜……い、いいんじゃない?」
正直、女性のファッションには興味が無かった所為か、それが良いのか悪いのかは分らないが、彼女が着ているその格好は、確実に「良い」ものではあった。
だが、返事はそんなどうとでも採れるものしか口から出ない。
「そうですか!?じゃ、これにします!」
それでも彼女はその言葉が嬉しかったのか、嬉々として店員に言ってレジの方へと向かった。
「あ、念の為、動き易いスラックスかジーンズも買っておいてね。」
行きかけた彼女に俺はそう言う。彼女はその旨を店員に言い、似た様なコーディネイトの服を探しに行った。
俺はその彼女の姿を見送りながら、その場所から動かずに居た。
「…服装でこれほど変わるとは、ね…」
独り、口の中で呟く。
それにしてみれば、これもシチュエーションが違えば立派なデートじゃないのか?と考えて、また空しくなってくる。
「どう?この服…」
「うん、いいねぇ。一層魅力的だよ。」
なんて会話が成されるんだろうか?…。
そもそも俺の経験上、そういったデートらしいデートなんてのは余り記憶にない。精々、一緒に遊園地に行ったり映画を見たくらいだ。ショッピングなんて面倒だから付合った事も無ければ、誘われた事も無い。
最初にしたショッピングデートが彼女とはねぇ…。いや、そもそもデートじゃなくて、彼女の着替えを只単に買物してるだけだ。
そもそも追われる身でデートなんて出来る訳でも無い。
「済みません。お待たせしましたぁ。」
空しい思考のループから脱出させてくれたのは彼女の言葉だった。大きな手提げ袋を手にしながら、にこやかに話し掛けてくる。
…まぁ、いいか…。
この笑顔に騙されているとは知りつつも、それを受け入れてしまうのは男の悲しさなのだろうか。



第三章
背水の陣なら進むだけ





「そんな馬鹿な!」
と思ってみた所で、結果としてはそうなっている。有難いのやら悲しいのやら、世の中そんなに甘くていいのか?と疑問符無しでは考えられない。
俺が考えていた逃走ルートをそのまま実行して、なんと成功しているのだ。少なくとも今は追っ手の姿も無ければ警察に追われる事も無い。
無事に口止め料付きで中古車も購入出来たし、かなり苦労したものの下道で東京に戻ってくる事が出来た。そして適当な名前で宿泊が出来たこのビジネスホテルに今居る。
宿泊手続きの時、2部屋にしようかツインにしようか迷ったが、
「ツインでいい?」
「構いませんよ。」
と平然と言われたのでそうしてしまった。一緒に居た方が確かに安全なのだが、嫌じゃないのだろうか?
まぁ、ツインにしておけばホテル側に怪しまれる事も無いので良かったのだが。「何でもする」と言ったのだから責任は持てないよ、と心の中で呟きはした。
だが、そんな俺の心配も余所へ、彼女は部屋に入るなり、シャワーを浴びてとっとと自分のベットへ倒れ込んでしまった。車での長旅が疲れたのだろう。数分もしないのに、安らかな寝息が聞こえてきた。
分っているのか分ってないのか、こう無防備と言うか無警戒で居られると、こっちもソノ気が自然と失せる。
と、言うか正直俺も寝込みを襲うまでの体力が残されていない。
彼女は運転出来ない…まぁ当然だろうが…ので、俺が全部運転していた。途中数時間仮眠は取ったものの、やはり疲れは否めない。
俺もシャワーを浴びて、とっととベットに潜り込みたかったが、何故か彼女の寝顔を見た途端、睡魔が逃げ去ってしまった。
本当に安らかに眠っている。心なしか嬉しそうな顔をしながらだ。
車の中でも何度か眠っていた様だが、俺に気を使ってかウトウトするばかりだった。
俺に会う迄に何日間逃げ続けていたのかは分らないが、こんなにゆっくり寝てるのは久し振りなのだろう。
「けど、それだけ信用されてもねぇ…。」
ゆっくり寝れる程、信用してくれるのは有難い話しではあるかもしれないが…。やっぱり頼られても困ってしまう。
取り敢えず出来る所から、等と考えていたら睡魔が消え去ってしまったのだ。
逆に今は独りで集中出来る時間かもしれない。
さっき買って来たノートパソコンに、彼女が使える様に出来るLAN設定をして、携帯用プリンタと画材を駆使して偽造免許証を作る事にした。
「昼間だとバレ易いだろうけど、夜だったらなんとかなるだろう…。」
夜だったら免許証は懐中電灯の光に当てられるだけだから、色合いは十分騙せたりする。質感等はなんとか画材でフォロー。
大きな問題としては、パトカーにコンピュータが乗っている場合だ。免許番号を検索されると不味い。だから、この際、彼女に警視庁のデータベースも侵入して貰うつもりだ。
彼女を起こさない様に、部屋の電灯を暗くして、ルームライトだけで作業をする。
「…なんか、ホントに犯罪者みたいだな…。」
いや、事実犯罪を犯しているのだが…。
溜息と苦笑交じりの表情をしながら、作業を進めて行く。自分でも気付かなかったが、どうやら俺は、作業の合間にも彼女の寝顔を見ていたらしい。気付いたのは何度かそれをして、視線が彼女に固定されている時だった。
「俺だって、何処まで出来るもんか知らないぞ?」
寝ている彼女にボヤいても仕方が無いのは分ってる。

流石にお国のデータベースは厄介らしい。目を瞑って困った顔をしながらも、彼女は静かにノートパソコンの前に座っている。
同じホテルに何日も泊まる訳には行かないので、移動移動の毎日にしないとならない。取り敢えず昨日のホテルはチェックアウトして、今は見晴らしの良いビルにある喫茶店に居る。
PHSでネットに接続し、彼女に今、警視庁のデータベースを改変して貰っている。
俺はコーヒーを啜りながら、彼女の返答を待っていた。
有難い事に、周りにはサボっている営業やらの人間がお茶をしながらも、ノートパソコンを開いている姿がある。今では外でノートを開きネットをする姿は珍しくも何とも無くなっている様だ。
その連中が仕事をしているのか、ネットで趣味のページを見ているのか、はたまたゲームなんかしているのかは分らない。だが、連中にしてみても、彼女が警視庁のデータベースに侵入しているなんてのは夢にも思わないだろう。
「…終りました。」
何時の間にか、彼女の額には薄っすらと汗が滲んでいた。それを軽く手拭い去り、大きく息を吐いた。
「上手く行った?」
いや、行ってもらわないと困るのだが。
「ええ、多分大丈夫です。管理者にも見付かってないでしょう。」
「そうか、やれやれだな。」
彼女は安心した表情になり、少し冷めてしまったホットココアを口にした。
「あ、そうそう…秀明さん。捜索願いが出てましたよ?」
「へ?」
「2件ありました。多分、会社の方からと…そして河崎重工からも出てました。」
「捜索…願いねぇ…。」
やれやれだ。もうこれで本格的に逃げ場は無くなってしまった訳だ。まぁ会社の連中が捜索願い出すのは分らんでも無いが…溜めていた仕事、結構あったからな。
河崎重工に捜索される心当たりなんて、彼女との関連以外には無い。これはいよいよ向こうも俺を含めて探索する事になったと言う事だろう。
「賞金とか出るんかな?」
「それは無いでしょう。」
冷たく答える彼女。些細な冗談くらい付合って欲しいものだ。柔らかな顔している癖に、結構冷たいものだ。
「で、実際どうする?逃げ回る手筈は出来たけど、一時的なものだ。死ぬまで逃げ回るなんて考えて無いよな?」
「…ええ、まぁ…」
「どうしたい?」
「元に戻す…なんて出来ないでしょうね…きっと。」
元に戻すと言う事は、一度事故で死んでるのだから、もう一度死ぬと言う事じゃ…等と言う不埒なツッコミは自分の中に仕舞い込んだ。多分、もう一度家族の元へ、と言うヤツだろう。
いくら技術が進んだ所で、死んだ人間に取り付けたものを外せば、やはり待つのは死だけだろう。生きたいのなら、やはり今の身体で我慢する他無いだろう。
「こんな身体じゃ、普通の生活と言うのも無理でしょうね…。」
「まぁ、な。大体、連中が追い掛けてくるだろうから。」
生きている限り、そういう事になるだろう。
このプロジェクトと言うのは、多分極秘裏に進められて、しかも巨大企業がやっている事だろうし、目的も軍用だろうから多大な金も掛かっているだろう。と、なれば、他の企業に彼女の情報を渡すとか…。
いや、そうなれば、その企業も彼女で色々と実験や解析をするだろう。企業が変わっただけでやる事は同じだ。
かと言って、彼女の事を一般公表して世論に訴える…?
やっぱり、放送媒体やマスコミなんてのは企業あってのモノダネ。圧力掛けられればダンマリしてしまう可能性もあるし、逆にこっちがマズイ状況に晒される可能性もある。
なら、今さっきクラックしたばかりの警察に頼むか?
それだけ大きなプロジェクトだ。国家権力すら巻き込んでいるのだろう。大体、米国企業も絡んでいるのだから、そう見て間違い無い。下手をしたらアメリカ合衆国すらも相手にしないとならなくなるだろう。薮蛇にはしたくない。
「うーん…逃げるったって、限界があるからなぁ…。」
「でも…秀明さんが一緒なら、なんとかなりそう…。」
少しはにかみながら言う彼女。言葉はとてつもなく嬉しい言葉なのだが、なんとなく違和感があって仕方が無い。
「巨大企業相手にするんだよ?なんとかなるじゃ…。」
「でも、秀明さんが一緒なら、何でも出来そう…。」
なら、一瞬にしてまったく見付からない場所に移動してくれ…等と非科学的な事を言っても仕方が無い。彼女はサイボーグかもしれないが、少なくともネコ型ロボットみたいに何でも出せたり出来たりする訳じゃないのだ。
「根本的になんとかしないと…。」
「私、秀明さんと一緒なら頑張れます。」
もしかして…いや、もしかしなくても、彼女は天然ボケなのだろうか?
殆ど会話になって無い…。
と、言う事は彼女を頼りに出来るのはネット上だけの事。これもサイボーグと言っても腕からミサイルを出したり、怪光線が目から出たりする訳じゃなさそうだ。左腕も人間と同じ様に動く、所謂義手だけの機能しか持ち合わせてない様だ。
しかもこの天然少女は考えてくれない。となると、考えるのは俺の仕事になるらしい…。
「済みません、ホットココア、お代りください。」
そんな俺の悩みも何とも感じ無いのだろうか、明るい顔でウェイトレスに追加注文をする彼女。
…根本的な対策ねぇ…。
これが普通の営業畑の事ならば、多少は理解出来るが、こと企業のプロジェクトとなると…。 結果から言えば、そのプロジェクト自体をご破算にするくらいだろう。
また、厄介なのが、それが単体の企業では無い事だ。片方の企業がもう片方のバックアップを常にしていると考えられる。片方だけ陥落させても意味が無い。
なら、共食いをさせるか?
それは難しい。俺はスパイでも何でも無いし、一昨日までは普通のサラリーマンだった。二つの企業に精通している訳でも無いし、知り合いすら居ない。操作は不可能だろう。
両方の企業を同時に潰すのも無理だろう。物理的だけでなく理論上無理に近い。何せ俺は一般市民なのだから。
そうなると、他勢力の介入でバランスを崩させる…くらいかな?
ある程度の情報を故意に漏らし、内部疑惑を起こさせて争いに火を点ける。それに外部圧力が掛かれば、少なくともプロジェクトは一時停止か封印にされる可能性も無きしもあらず。
だが、それをどうやってやるか、だ。
「ねぇ、秀明さん、お腹空きません?ここのクラッカーサンド、美味しそうですよ?」
「ああ、空いているなら頼んだら?」
半ば空返事で俺は答えた。彼女は一瞬不満げな顔をしながらも、通り掛かったウェイトレスに、更に追加注文をした。
俺はすっかり冷めてしまったコーヒーの映り込みを眺めながら考えを続けた。
実際、俺に出来る事は少ない。力技で殴り込んだ所で、多勢に無勢。そんなアホにはなりたくない。
となれば、マネーパワーで…と言っても俺にはそのルートが無い。
あとは知恵だけか…。知恵と言っても俺の知恵なんてたかが知れてるとは思うが…。
「お待たせしました。クラッカーサンドです。」
ウェイトレスが静かにその品をテーブルに置いた。
彼女は嬉しそうにそれを見て、早速その一つを手にして口に運んで行った。
クラッカーねぇ…。
彼女はネットを自由に出来る。そしてクラック。情報操作…。
安易だ…安易過ぎないか?
だが、最善とまでは言えないがベターかもしれない。それに直ぐに始める事が出来るとすれば、それくらいだろう。
「食べないんですか?美味しいですよ?」
何も考えてくれない彼女は嬉しそうにそう言ってくれる。
「そうだな、先ずは出来る所からだな。」
そう言って、俺はクラッカーを一つ手に取った。
事を単純化して見れば、「ヤクザから逃げてきた女を匿い、そのヤクザを潰す」と言った所だろうか。下手をしたら、ヤクザよりも怖い存在なのだろうが…命を狙われる点では変わりないだろう。
…命を狙われる、か…
ついさっきまでのサラリーマン生活が逆に信じられないくらいの状況になってしまった。
何も出来ない俺が、何かをしなくてはならない事になってしまったのだ。
「ねぇ、秀明さん。この『ソリティア』って何ですか?」
「ああ、それは簡単なカードゲームだよ。ヘルプにやり方が書いてある筈だ。」
「へ〜え…」
クラッカーを片手にゲームを立ち上げる彼女。普通に生活をしている女の子と変わり無い表情だ。
本当に彼女は危機感と言うのがあるのだろうか?
少なくとも、俺と出会った時には危機感一杯になっていた筈だ。まだあの時の顔は覚えている。
なのに、俺が一緒にいるとこうだ。安心しきっているのか、単に何とかして貰えると思っているのか。
彼女にしてみれば、これもゲーム感覚なんだろうか?
ゲームはリセットも出来るし、やり直しも利く。
だが、これは現実だ。命を奪われたからと言って、前のセーブポイントからやり直す事なんて出来ない。
もし、俺が居なくなって、彼女が連れ戻されたらどうなるんだろうか?
いや、そもそも俺はまだ死にたく無い。何故、死にたく無いのかは分らないが、死んでしまっては元も子も無いのだ。
とは言っても、切羽詰って考えた所で良策なんてのは出てこないだろう。ここはいっその事、ゲーム感覚で考えた方が気が楽かもしれない。
一度のミスも許されない、一生に一度だけのプレイ。
彼女を守る為に悪の巨大企業を叩き潰す無名のプレーヤー。ネットワークを駆使して、彼女を守りきれるか?
殆どアダルトゲームのノリである。
「ゲームかぁ…ゲームしては余りにもリアル過ぎるなぁ…」
俺は一気に冷めきったコーヒーを喉に流し込んだ。




To Be Continue...

メールはこちらへ。


maxfillさんの部屋に戻る/投稿小説の部屋に戻る
inserted by FC2 system