maxfill's Original Short Novel - Never can't get it


隣合せのファンシーフリー
第三部

Fancy Free in diary life





第六章
穴を見つけて入る人々





千葉県浦安市にある行楽地と言えばこれだろう。東京ディズニーランド。
撹乱の為に一度は東京に戻り、再び神奈川へ。東京湾横断道路を通り、千葉入りして、ここ浦安へ。
最大級の遊園地とも言えるこの場所に、やはり俺の存在は浮くのだろう。
ベンチに座りノートパソコンを弄っている俺を、親子連れや若いカップルが不思議そうに見ながら歩き去って行く。
…放っといてくれ。
心の中でブツクサと文句を言いながらも、モニターと通行人の目線を交互に見ながら作業を続けて行く。
これはデートじゃない。単に身を潜める為の場所として選んだだけだ。連中もこんな人通りがある場所では銃を使う事は出来ないだろう。比較的法治国家である日本に住んでて少し良かったと思う。
まぁ、その為に高い税金を…そういえば俺はまだ戸籍残ってるんだよな?
今年の税金ってどうなるんだろ?会社にも正式な退職届出してないし、行方不明扱いになってるんだよな?
去年度の税金は納めている筈だから大丈夫だが、今年はまだ未納だ。警察も俺を守ってくれるんだろうか?
等と馬鹿馬鹿しい考えは止めないとならない。
今問題なのは、単に潜伏場所として此を選んだのに、デートと勘違いをしている連れが約一名居る事なのだ。何も問題は無いと思うし、一応成人している彼女だ。そうそう問題を起こす事は無いだろう。やや、世間知らずな所が気になるが。
今、彼女は隣に居ない。こういう場所、多分彼女は初めて来たのだろうかはしゃいでいるから、色々見て周っているのかもしれない。俺の隣でじっとしている程の忍耐力は持ち合わせて無いらしい。
守る方の身にもなって欲しい。
一応、きつく「半径100m以内から出るな」とは言ったものの、彼女の100mがどれくらいなのかを聞くのを忘れた。遠くへ行ってない事を祈ろう。
さっきから、チラチラと見える柚希菜の姿を確認しているから、今は大丈夫と言った所だ。
…女を守るって、神経使うな。
普通に付き合っていても使うものだ。彼女と自分の身の保証も守らなければならないのは大変である。自分が今、地に立っているのさえ綱渡り状態だ。正に、一寸先は闇である。
モニターに流れる文字と同じく、今や激変の中に身を置いてしまっているのだ。
そして当然の様に予想外の事も起こり得る。俺の予想なんて大した事が無い上に、一流大学出身のエリート集団が集まっている会社がする事は謎ばかりだ。
その中の予想外の一つとして、擬似転送メールアカウントを数個作ったのだが、何所で見つけ、どう探り当てたのかは知らないが、俺宛へのメールが舞い込んできている。
無論、その中には陽立や松上からのメールもあったのだが、それとは別に、匿名メールと誰とも知らない奴からも届いている。
世界各所のサーバを巡り、届いてくるメールは時差も大きくなってるのは仕方が無いが、アシを取られる事も少ない。万が一取られても大丈夫な様な設定にはしてあるのだが。
そんなメールを開いてみると、こんな内容が殆どだったりする。
『陽立と松上のサーバをクラックしたんだって?スゴイな!今度教えてくれよ!』
どうやら、本場のクラッカーやハッカー連中らしい。目敏い人と言うのは存在する様だ。
実際、俺が動いただけでネット上の一部は混乱しているらしい。様々な情報合戦が会社も個人も交えて乱戦となっている。
そんな中で俺のうわさを聞き付けたのも居るのだろう。態々、UG(Under Ground)系の掲示板に書き込みがあるだの、アンタの偽者が語ってるだのと報告してくれるメールさえある。
ネットと言う世界は、なかなか恐ろしい。
無論、その殆どのメールにはレスなんかしない。だが、中には貴重な情報を提供してくれる連中も居るので、そんな彼等には返事をしている。
何かの時に役に立つかもしれない。それに自ら進んでギブ・アンド・テイクを実行してくれているのだ。警戒しながらではあるが、そういった効率的でビジネスライクに出来る連中とは付き合っていた方が得になるだろう。
防衛庁の裏パスまでは教えてくれなかったが、侵入後の裏コマンドを教えてくれた奴には、正直驚いたが…。
そんな彼等の身元調査は出来ている。どんなに秘匿度を高く設定していても、柚希菜の前では捻られてしまう。まだ成長段階にあるネットワーク技術の限界と言う奴だろう。
大学・企業・フリーの一般人、中には外交員やら国家要員なんてのも居るから恐ろしい。彼等は属するそれぞれの場所から離れて行動している。趣味なのかもしれない。
ネットは広大だ。ネットは深遠だ。人の心はもっと計り知れない。
普通に過ごしていたら、こんな事は考えないだろうし、知る事も無かっただろう。
さて、そんな中でも不思議な事がある。唯一、一件だけ、柚希菜の手に掛かっても匿名の域から外れないメールが舞い込んでいるのだ。今はまだ一通だが。
俺以外にも完全匿名が出来るのが居るらしい。経由サーバも途中で切れていて、発信地探知が出来ないのだ。
更に驚きなのが、そのメールの内容だ。
頼んでも無いのに、柚希菜に関するデータが送られたのである。彼女の仕様の一部が書類として転送されてきたのだ。
…一体、何処の誰が何所から持ってきたんだ?
『国家及び社内最高機密:リーク発覚の場合銃殺』
といった紅い物騒な文字が各ページに書かれている、それこそ物騒な書類。
『Doris-System(Dynamic Organic Re-Active Intelligence Strategy System)プロジェクト CODE:021 仕様変更について』
続いたタイトルにはそう書いてある。
…ドリス。確かギリシャ神話に出てくるニンフがドリス(「贈る女」の意)だったな。
少ない知識の中から出て来たのがそれだ。どうも化学とか科学者にはギリシャ神話の信望者が多いのだろうか、ギリシャ名を付けたがるのが多い。
にしても「贈る女」なんて皮肉だろうか?
一体何を贈ってくれるんだろう。死か勝利か…少なくとも俺には「非日常」と言うの贈ってくれた。有難いのか迷惑なのかは分らない。
そんな事を思いながら先を読むと、どうやら柚希菜は戦闘用の中でも情報系の仕様になっているらしい。訳の分らない単語と文章の連続だが、改造デバイスは脳と左腕。どうやら彼女本人が言っていた事と一致した様だ。ますます現実味が増えてくる。
所々を見ると、やはり被験者は柚希菜だけじゃないのだろう。彼女のナンバーは21になっている。少なくとも21人は犠牲になり、後何番までそのナンバーがあるのかは分らない。
柚希菜が情報系となれば、戦闘系や指揮系と言うのもあるのだろう。
言わば、人がする戦争に「もっと効率の良いヒト」を導入すると言うのだろう。死んだ人間を強化させて、その死んだ経験を生かし、パワーアップを施すと言う、確かに効率的かもしれない。
SFや映画でしか見なかった話が現実となっていく。考えてみれば不思議では無いのだろう。
つい十数年前にはDVDだの高速CPUだのネットだの、そんなものが「日常」になるとは思えなかったのだから。未来は不安で満ちているのかもしれない。
…兵器か。でもヒトなんだよな。
軍事と科学、医学の専門用語が並ぶ書類の中には兵器としてしか描かれてないが、所々に添付されている写真を見ると、やはりヒトなのだ。
残念ながら脳を中心とした図解ばかりで、柚希菜の全裸写真は載ってない。
…惜しいな。
戦闘型ならばきっと載っている事だろう。尤も、女性型になっているかどうかは分らないが…。
「秀明さ〜ん!」
また馬鹿な考えへと移行しようとした時、彼女が大声を出して俺をその方向から引き留めた。どうも俺は集中力が無いらしい。
それにしても恥ずかしいから止めてくれ。
両手にソフトクリームを持ちながら、こっちへと走ってくる。これが普通のデートなら申し分無いだろう。だが、生憎逃走中の身。ソフトクリーム一つで心は和まない。
そして正に、一寸先は闇、なのだ。
はしゃいでる柚希菜はニコニコとしながら園内…俺から半径100m以内に限定…で周っている筈だが、こちらに来る彼女の顔は焦っていた。必死にこっちへ走ってくる。
その部分の感覚と言うのは、俺も流石に鋭くなってきたのだろう。彼女の後ろの雑踏の中から、スラックスとジャケットと言った普通の格好をした男が二人、追いかけてくる。
普通に見てれば分らないだろう。だが、遊園地に男二人は不自然だ。きっと彼等も渋々ながら入園してきたのだろう。
同情している暇は無い。俺はノートを畳み、リュックの中に放り込んで柚希菜の到着を待った。
…人が牧歌的に遊園地でクラック作業してる邪魔はして欲しく無いなぁ。
そう思う。彼等も命令が無ければ家族とここに来ているのかもしれないのに、同僚二人で俺達の追っかけだ。貧乏クジを引いたのだろう。
「秀明さん、あの人達っ!」
言わずとも分る。哀れな社員なのだ。
「柚希菜、いいからそれを棄て…いや、ちょっと待て。」
リュックを背負い、そのソフトクリームを柚希菜から渡して貰う。何に使うかはセオリー通りだ。
だが、やはり買ったものは勿体無い。貧乏性と言う奴だ。
彼らはまだ近くには来ない。
俺は一口だけ、そのソフトクリームを舐めて、感触の良い冷たさを口に含ませた。もう一つも柚希菜に向けると、彼女もクスっと笑い、可愛らしい舌をちょこっと出してクリームを舐めた。
…むぅ、やっぱりデートにすれば良かった。だからあの二人には馬に蹴られて貰おう。
「待て!」
男二人がそう叫ぶ。その言葉に従った人間と言うのは歴史上何人居る事だろう。
取り敢えず、適正距離になってきたので、馬の化身である真っ白なソフトクリームを二人に投げ付けた。
結果、ストライクゾーン。クリティカルヒットと言う奴だ。
ソフトクリームは相対性理論に則り、そこそこの威力で二人の顔面を「蹴った」のだ。
諺の実行。思い通りにヒットしたのも手伝い、俺は上機嫌。
「行くぞ。」
「はいっ!」
柚希菜の手を取り、その場を走り去る。彼女の手が暖かい。
残ったのは、不思議そうに見ながらもクスクスと通りすがりに笑われている哀れな男二人の叫び。
「待て、こらっ!!」

だが、やはり闇は闇。見えないからこそ分らない。世の中の常なのだろう。
正面ゲートへ向かって走っていたのだが、人込みで溢れかえっているメインストリートの差掛る所で、正面にさっきと同じ雰囲気を纏った男女が二人。
「他にも居たか…」
「ゲートってここだけですよね?」
彼女の言う通りだ。強引に非常口を破ってもいいのだが、大きな騒ぎになりかねない。騒ぎになると不味いのは向こうも一緒だろうが、自分達もそうなのだ。
これだけちゃんと管理されている遊園地も珍しいが、今はそれが返って邪魔になってしまう。
取り敢えず、人でごった返しているワールドバザールの方へと逃げるしかないだろう。
「待て!」
やはり同じ声が聞こえてきた。男から女の声に変わっただけで言ってる事と目的は同じだ。
ある程度走り、人込みに紛れたと思ったらば、そこから走らない。ここで走ると返って目立ってしまう。
数ある店の中を用も無いのに転々と巡って行く。入っては紛れ、出ては別の店に入り紛れ込む。
柚希菜の空いた右手は顎に添えられ、なんだか物欲しそうに並んでる品々を見ているが、引っ張っている俺に引き摺られる様に歩いている。
…なんで危機感薄いんだよ…。
俺でさえ思うのだから相当のものだろう。
「ねぇ、秀明さん。あれ、可愛いの…」
「はいはい…いいから行くよ。」
…頼む、誰かこれを気楽なデートに変えてくれ…。
俺はブラックジーンズに紺のポロシャツ、柚希菜は淡いブルーのキュロットに薄いピンクのパーカー。デートにしては大人し目過ぎる。デートにするんなら、もう少しキメないとならないだろう。
「ちょっと退いて!」
後ろからさっきの女と思われる声がする。振り向くとそれが正解だと分った。その女の後ろからは、サングラスを掛けていても分るくらいに面倒臭そうな顔をした男が女の後を付いていた。
「ちょっと失礼…」
俺は小声でそう言いながら、目立たない様にその店を後にする。柚希菜は少し不満そうだ。
そこからはもうアドベンチャーランドに差掛る部分だ。
どうやら闇と言うのもしつこい性質らしい。
やはり正面から似た様な人物達がこちらに気付かないまま歩いてくる。大人のデートを装ってるのか、カジュアルスーツを綺麗に着こなしている男女だった。
それでもサングラスは必須らしい。女も男も似た様な物を掛けている。
「こっちだ。」
再び柚希菜の手を取って、早歩きでそこを去る。
センタープラザとファンタジーランドを経由して、運が良ければゲートをくぐれる筈だったが、やはりそこにも邪魔は居る。
一体何組配置されたのだろう。今迄確認しただけでも4組は居るのだ。
…どうしたもんかな。
この口癖は直らない。もう直そうとも思わなくなってきた。
なんとか周りを警戒しながら歩みを遅くし、考えなければならない。
困った時の柚希菜頼り。と、言うかもっと積極的に協力して欲しいのだが、どうやら天然系の要素がまぶしてあるらしく、それに気付かないのだろう。
なんとか、さっき読んだ仕様書を思いだし、柚希菜が情報系の処理をされている事を思い返す。
情報系ならある程度の分析も出来る筈だし、指揮系でなくても戦術や戦略の知識はある筈だろう。
一先ず聞くだけだ。
「柚希菜、この場合配置されてる人数と場所ってどうなる?」
「え?そうですねぇ…」
柚希菜はまるで夕食の買い物にでも来た様に、やはり人差し指を顎に当てて、小さく首を傾げた。
「この遊戯施設のエリアが8エリアに分かれてますので、最低でも8組。確実性を取るために遊撃隊が2組。出入り口に待機が1組で、合計11組…と言うのが無難でしょう。」
然程、間を置かずして柚希菜はあっさりと答えた。出て来た声は柚希菜そのものだが、言葉それ自体はかなり整然としており、納得できる要素が含まれている。
流石と言うか、最初からそれをして欲しいのに。
「突破するとしたら?」
「撹乱しつつ誘き寄せ、一定地点にそれらを誘導して脱出ルートを確保ですね。正面ゲートに配置されている組には隠匿行動を取るか、強行突破しかありません、ですぅ。」
軍事用語かどうか知らないが、堅苦しい言い方がヤケに違和感を感じる。だが、分り易くもあった。
「そーゆー事だな。良く出来ました。」
そう言って、俺は柚希菜の頭を撫でてやる。冗談のつもりだったのだが…。
「えへっ!」
柚希菜は子猫の様に目を瞑って、満面の笑みを漏らした。少しだけ出したピンク色の舌がやけに可愛らしい。
…馬鹿なっ!?
何故俺が赤面しないとならないんだ!
だが、確かに柚希菜の頭から手を引きたくは無かった。もう少しだけでも、その柔らかい髪を撫で、そんな可愛らしい彼女の顔を見て居たかった。
だが、追っ手が迫る。
…邪魔すんな!
本来の目的を半ば忘れがちになる事には、どうやら俺も人の事は言えないらしい。それでも、さっきまでの仕事として俺達を追いかける彼等に対する同情は、もはや邪魔の一言で消え去ってしまった。
「じゃ、行くぞ。引きつけながら撹乱か…言うは易し、だな。」
それでも何の策も無いままに進めるよりは、幾許かはマシだろう。
「待てっ!」
後ろから聞こえてくる別な声。
他の言葉を知らないのだろうか?

プロが仕込んだ頭脳としての柚希菜。確かにかなり有効だろう。だが、実行するのは俺。つまりド素人のする事なのだ。
成功よりも失敗の確立の方が圧倒的に高いのは言うまでも無い。失敗は成功の母とは言うが、この場合は袋の鼠にされただけ、と言うのだろう。
「止まれ!」
2方向から来るサングラス連中。俺の思いが伝わったのか、言葉は変えたらしいが、やはりそれを聞き入れる事は出来ない。何を言われても一緒なのだが。
残る逃げ道は消去法。つまり俺達の後ろで長蛇の列となっているアトラクションの入口だ。
アトラクションの中に入っても、やはりそこは袋。行止りだろう。
それでも今ここで捕まるよりは、幾分かの活路は見出せる可能性も…まぁ少ないだろうがゼロじゃない。
「ごめんよっ!」
柚希菜の手を引っ張りながら、人込みを掻き分けて進んで行く俺達。割込みに当たる行為だが、そんな悠長な事は言ってられない。素直に並んでたら5秒もしないで捕まるのだ。
「おい!」
「ちょっと!」
「キャッ!」
「何だぁ!?」
様々な声を聞き流しながら、平和なデートや行楽を楽しんでいる連中の中を掻き分けていく。
「クソっ!」
「ちょっと退いて!」
サングラス4人が同じ様にして追いかけてくる。彼等も含め、俺達が通り過ぎた後の客は唖然としている事だろう。
そりゃそうだろう。非日常的なものが自分の直ぐ近くにあるのだから。
つい最近までは俺もその客の中の一人だった筈だ。日々生きる日常の中の一人。それが今じゃサングラスに追っかけられていると言う名誉の不幸を背負ったのだ。この客の中にだって、巻き込まれる人は居るのかもしれない。
長い緩やかな階段になっているアトラクションの待ち通路の頂上では、怪訝な顔をしたスタッフが丁寧な言葉で俺達の邪魔をする。可愛らしい制服を着たまだ若い女の子だ。
「困ります!ちゃんと並んで下さい!」
訓練に訓練を重ねたスタッフの対応は、花マルをあげたいくらいに慎重で丁寧だ。当然悪いのは自分なのだから、謝るのが筋なのだが、それどころでは無い。
「すみません!子供が中に迷い込んだんです!直ぐに戻ってきますから!」
彼女の肩を揺さぶりながらそう言い、制止も待たずして、カウントゲートを飛び越した。
「柚希菜、飛べっ!」
「はいっ!」
こんな時の為にキュロットを履かせていたのは正解だが、ちょっと惜しい気もする。並んでいるお父さん連中も同感に違いない。
「あ、ちょ、ちょっと!」
混乱してあたふたしているスタッフの彼女を無視して、薄暗い洞窟を模した通路を同じく人を掻き分けながら走って行く。
「こ、困ります!」
「奴らを追ってるんだ!ここを通せ!」
似たようなやりとりが背中に聞こえた。一人が押さえ込んでる間に少なくとも3人は来るだろう。
精巧な機械仕掛け、もはやロボットそのもののキャラクター達が色々と話し掛けている。普通にアトラクションを楽しんでいる時には耳を傾けるだろう。
『それはスプラッシュ・マウンテンと言う…』
年老いた梟のキャラクターがそう話している。このアトラクションは今だに人気を誇るだけあって、長い待ち通路が作られている。実際に人も多い。
そしてその待ち時間を退屈させない様に、こういった仕掛けが多々あるのだろう。
今の俺には雑音にしか聞こえない。ウォルト・ディズニーが聞いたら、それこそ滝の様な涙を流す事だろう。
何せ雰囲気作りの所為で、ここは結構足場が悪い。転ぶのを押さえるので必死だ。柚希菜を引っ張るのも重く感じる。
少しだけ降り返ると、その重さの原因の一部が分った。
彼女は片手を頬に充て、この薄暗い中でも分るくらいに頬を染めながら前を見ずに引っ張られているだけだった。
「おい!ちゃんと前見て走れ!」
転ばない様に腕を引っ張りながら彼女に怒鳴る。だが、彼女はそれを直そうとしない。
「子供…」
「え?」
何の事を言っているのかが分らない。
「子供って…あの…秀明さんと、その…私の?」
力が抜ける。そのお陰で前につんのめってしまった。
どうやら彼女は入口のスタッフに説得した言葉について言ってるらしい。
「いいから…今は逃げるんだよっ!」
「あの…まだちょっと、早いんじゃ…でも、嬉しい…かな?」
殆ど彼女の言葉は聞かず、少し縮まってしまった追っ手との距離を離すべく、強引に彼女の腕を引っ張った。
長い下り坂を何度も転びそうになりながらも走り、辿り付いたのはやはり行き止まり。
アトラクションへの乗り口だ。
「非常口は何所だ!?」
俺は叫びながら男のスタッフへ怒鳴り付ける。
「え、ええ?」
「非常時なんだ。非常口は何所だ!?」
「緊急時以外はお教え出来ませんので…」
やや慌てながらもマニュアルを厳守した言葉を返してくる。
「今が緊急なんだ!」
「ダメです、非常口はアトラクション全てに連動してるんです!今そこを開けたら混乱になってしまいます!」
他の客に気を使っているのか、やや小声で、それでも俺に言い聞かせる様に強く言った。やはり、ここのスタッフの教育は並大抵のものじゃないのだろう。
それに彼の言っている事が嘘だとも思えない。嘘を付く理由も無い。確かに、今ここで他の客も含めてのパニックになれば大騒ぎ所では済まないだろう。
「キャっ!」
「おい!」
「うわっ!」
追っ手が迫っている事を、客の一人一人が教えてくれている。
「仕方が無い、柚希菜、乗れ!」
客を強引に押し、空いている席に柚希菜を押し込む。隣で女のスタッフが唖然としていた。こんな強引な客は初めてなのだろう。
俺も一緒に乗ろうとも思ったが、最悪な事に手荷物がある。預ける訳にも行かないし、棄てる事もできない。一先ず、柚希菜だけ乗せて出口に向かうしかない。
柚希菜のベルトをロックし、俺はコンソールパネルを弄っているスタッフに詰め寄った。
「何をしている!早く出せ!」
「え?えぇ?」
「早く!」
理解出来ないまま、そのスタッフはロックと発進のシークェンスボタンを押した。
最初はのったりとして、流れる水に押されて動き始める大きな流木を模った乗り物。
「直ぐに迎えに行くから、捕まらずに待ってろ!」
「ひ、秀明さんっ!!」
「いいなっ!?」
「秀明さぁんっ!」
まるでドラマの空港での別れの様な場面が、呆気に取られているスタッフと客の前で醸し出される。赤面この上無い。
照れている隙も無く、追っ手は迫ってきている。
俺は後ろ手にリュックのサイドポケットからスタンガンを出した。中には奪った銃も偲ばせてあるが、いくらなんでもこんな場所で使うのも出すのも勇気が無い。
主電源を入れて、一度だけスイッチを押すと、青白いスパークが音と共に出て稼動可能な事を示した。
それを見たスタッフと客は俺を遠巻きにする様に離れていく。
俺の正面に現れた勇気あるものは、三人のサングラス。勇者である。
「彼女は何所だ?」
切らした息を整えながらもその中の一人が俺に言う。答えなんか決まっている。
「知らないね。」
うむ、決まった。これで俺もデパートの屋上で繰り広げられるヒーロー戦隊物の仲間入りが出来るかもしれない。
だが、ヒーローの必須条件は最後に必ず勝つこと。それが俺に出来るかどうかは、就職試験と言った所なのだろうか。
彼らはそれ以上問わず、予想通りに俺の身体に直接聞くらしい。初めてだから優しくして欲しいものだ。
そう考えながらも、やはり身体は臆病なのだろう。口程、いや心程も無く脚がガクガクと震えている。
屈強のサングラスを三人も一度に相手は無理だろう。ヤルしかないのだが…。
掴みかかろうと寄って来た三人に向かって、俺も駆け出した。
「うらぁあああっ!…っおろ?」
入れた気合は直ぐに抜けた。間抜とはこういう事を言うらしい。
走り出した所で不安定な足場に取られて、なんと見事に「コケ」たのだ。
運が良いんだな、と俺は改めて実感する。相手も俺がコケる事は予想出来なかったのだろう、当然だろうが。
コケた俺に脚を取られて、重なる様に転んでいく三人。ここまで来ると本当にギャグだ。まさかテレビじゃなくて現実で見れるとは思わなかった。
俺はなんとかスっと立ち上がり、その三人の背中にスタンガンを充てる。
小気味良い音と一瞬の閃光。
「ぐあっ!」
聞くからに痛そうな悲鳴を上げて、三人は無事気絶してくれた。
ヒーローの第一次選考試験にはどうやらギリギリ合格らしい。
「ごめん、後宜しく…。」
ポカンと口を開けた可愛いスタッフの女の子の肩をぽんと叩いて、俺はその場を後にした。こんな時じゃないと、セクハラは出来ないのだから。
柚希菜にバレたらなんか怒られそうだ。バレる心配は無いのだが…。
…ちゃんと無事に着いたかな?

暗くなり、また明るくなる。その明るい場所にはさっきよりも妙に生き物くさい動きをするロボット達が、様々な物語の場面を繰り広げていた。
普通に来てたらもの凄く楽しい場所になったろう。
だが、この乗り物には他に誰一人として乗っておらず、柚希菜一人だけだった。隣に居て欲しい秀明さえも居ない。
「秀明さん…」
自分を守る為に残ってくれた。でも、今は寂しさが込み上げる。やはり隣に居て欲しい。
あんな出会いでなく、普通に出会いそしてこれが普通のデートだったら、どんに嬉しい事だろう。
そんな寂しく思っている柚希菜にも、動物達は何時もと同じ演技を繰り返している。
「あ、くまさんだ…」
…強さとは、どんな環境でもメゲ無い事なのだろう。

なかなか状況を把握してくれない柚希菜が居なくなり、幾分かは走り易くはなっているが、下り坂の逆は上り坂だ。
こんな事になるんだったら、普段から体力作りをしておけばよかったと後悔するが、後の祭りだ。
息を切らしながら、不思議そうに俺の事を見ている客を余所に、俺は来た道を戻って行く。
…お前らだって明日はどうなるか分らねぇんだぞ?
せめてもの愚痴を言いながら走って行くと、やがて自然の明りが見えてきた。
「さっきは、ゴメンよっ!」
気さくに片手を挙げて、さっき迷惑を掛けた女の子のスタッフに声を掛け、これも来た時と同じ様にゲートを飛び越した。
「え?あ…」
時間があれば、彼女が何を言いたかったのか聴きに戻る所だが、今はそれ所じゃない。
うろ覚えのアトラクション出口に向かって走って行く。そう言えば出口で待っているかもしれない、もう一人のサングラスお姉ちゃんの姿も何時の間にか消えている。応援でも呼びに行ったのだろうか。

段々と辺りも暗くなり、物語は佳境に迫ってきたのだろう。曲もマイナー調へと変わり、今迄の明るい雰囲気が変わっていった。
そして突然、乗り物は大きな衝撃音と共に、何かに突っ掛かった。
それも一瞬で終わり、ちょっとした振動を起こしながら引き上げられて行く様だ。薄暗い明りに照らされた大きなチェーンクレーンが引き上げているらしい。
壁の中では、ウサギのキャラクターが、煮詰まった大きな壷の上に逆さ釣りにされて喚いている。
おどろおどろしい曲が流れている。大人はそんな雰囲気や子供の様子を見て楽しむのだろう。そして子供はそんな物語の中にのめり込むのかもしれない。
いや、子供と柚希菜は、だ。
「あぁ〜、ウサギさん殺しちゃだめぇ〜!」
同乗者が居なかったのは幸いかもしれない。秀明も含めて。
そんな柚希菜の正面に段々と人工の明りでは無く、自然の青みが広がって行く。
空だ。抜ける様な綺麗な青みに白い雲が浮かんでいる。
「え?」
そう、そこから見えるのは空。画の様に綺麗な空だったが、それは現実の物。
「え?え?」
乗り物はその空に向かって引っ張られて行く。その先は水が発している轟音があるだけで、他には何も無い。
やがて両脇の壁は無くなり、自分の位置が把握出来る場所まで辿り付いた。
空、そして正面にはビルやら森やらの現実の風景が広がっている。そしてやや傾いた乗り物と同時に、園内の広い様子が少しだけ見れた。
「え?え?え?えぇっ!?」
カタン…と言う小さな音と共に、視野が一気に下へと振られた。
「ええええぇえええええっ!?」
見えるのは、このアトラクションを楽しみに待っている人々の長蛇の列。そして中心には大きな滝壷が口を開けて待っていた。
「きゃぁあああああああああぁああああああぁあぁぁぁぁ!!」
一寸先は闇である。柚希菜もそれを味わった。
ほんの一瞬だがシートに身体を押さえつけられて、三半規管はマヒし、自分の場所が分らなくなる。
脳に埋め込まれたデバイスから何か小煩く言ってきているのだが、今はそれ所では無い。
「ぁぁああああああああああああぁぁぁぁ!!」
ド………………っぽぉぱぁあああああんん…
流石に気を失うまでにはならなかったが、水平を取り戻しても何が起こったのかが理解出来なかった。
ぷかぷかと浮かぶ乗り物の上に、世の全てが理解出来ないといったぽかんとした柚希菜が座っている。
高くまで飛翔した水飛沫が柚希菜の服を少しだけ濡らしている。
「ほえ?」
どうやら自分が生きている事だけは認識したらしい。
そこまで呆けてしまったが為に、そんな自分の姿を見て走り出したサングラスを掛けた女性には気付かないままだった。

迂闊だったのか、いや、そんな訳は無い。
だが、追いかけて行った三人とは連絡が取れなくなっている。一体、何があったと言うのだろう?
どう見ても、一般人で女連れで、訓練を受けた大の男である三人を相手にして勝てる様な男には見えなかった。だが、現実として拿捕したとか逃したとも連絡が付かなくなったのだ。
なんとしてでも職務はこなさなくてはならない。
三人から連絡が途絶えたと言う事は、目標はもう既に移動しているだろう。彼も人数の確認ぐらいはしてるだろうから、入口で一人待っている事は分っている筈だ。
そんな時に入口で突っ立て居る程馬鹿では無い。彼らも必ず出口に向かっているはずだ。
そして、出口に向かっている最中に落ちてきたアトラクションライダーに柚希菜の姿を見付けたのだ。
どうやら彼女一人で、男の姿は無いらしい。それでも構わない。優先すべきは柚希菜の確保が最大なのだから。
彼よりも先回りし、アトラクション出口に行けば、必ず彼女を確保出来るだろう。出口は一つだけなのだから。
邪魔な人だかりを避けながらも、なんとか全速力でそこに辿り付くことが出来た。流石に焦りも交じり、息が切れ始めた。
それを整えながら、後は出てくるのを待つだけ。それにしてもこんなに苦労する任務とは考え付かなかった。何時の間にやら自分も読みが甘くなってるらしい。
「日本に居ると甘くなるわね…」
「そうだな。」
「!?」
自分の独白に答えが返ってくる筈が無い。
後ろ手を押さえられてしまったらしい。何と言う失態だろう!油断所の話しじゃない。
彼は苦笑した顔を向けて、腰の辺りに…多分この感触は銃かスタンガンだろう…を押し込んでいる。
「悪いね…」
彼は躊躇する事無く、引鉄を引いた。
身体に衝撃が走り、意識が薄れて行く。
目の前に浮かんだのは、ボーナスで彼氏と海外旅行に行っている自分の姿が、赤い“減棒”と言う文字に変換されていく様だった。

俺は倒れたサングラス姉ちゃんを壁際に寝かせた。職務とは言え、大変だなと人事ながら思う。
そして、彼女のジャケットをパンパンと叩きながら、有ると思われる通信機を見付けた。特殊に改造されたウォークマン型の小型通信機だ。
「ひ、秀明さんっ!」
そんな中、柚希菜が無事に姿を表した。何よりである。
両手を広げて感動の再会、と行きたい所だが、なんとか偶然も重なり4人を倒しただけだ。他にも予想され得る9組の追っ手が居る筈だし、この女が応援を頼んでいる可能性は大きい。
何よりも袋小路と同じこの場所から離れないとならないだろう。
俺は柚希菜の手を掴み、この日何度も言っている言葉をまた言わなくてはならない。
「行くぞ!」
「はいっ!」
走りながら、器用に片手で通信機をポケットに入れ、目立たない様になっているワイヤレスイヤホンを耳に付けた。
『ピ…!M3からM5へ。M7とM9に故障発生、修理に向かってくれ…。ピ…!。M5、10・4(テン・フォー)。ピ…!M3から全域へ。迷子の再捕捉、急げ。』
現実に聴くのは初めてだが、やはり暗号系を使うらしい。Mは追っ手を、迷子は俺達の事だろう。電波自体に暗号が掛かっていても、聴ける様になれば然程問題は無い。元一般人の俺でも分る。
『M6からM3へ。アドベンチャーからクリッターへ移動、予定03。』
と、言う事で逐一彼等は動きを報告してくれる。どうやらM3と言うのが司令塔らしい。なんとかそれを叩いてしまえば楽なのだろうが、逃げるのが再優先だ。メインゲートさえ突破できれば問題無い。
取り敢えず、彼等の網の目を潜ってゲートまで辿り付かないとならない。
「秀明さん、流石に喉が乾きましたね。」
走りながらも、なんと呑気な事を言ってくれるのだろう。
「俺もだ。後でキスして潤してくれ。」
呆れながらも口から滑った言葉がそんなのだった。俺も何かの影響を受けているのかもしれない。
「あ、あの…その…はい、後…で…」
照れながらも、握っている手に更に力が入ってくるのが分った。その温もりと感触が心地良い。
何よりも、照れている彼女が可愛い。
…俺ってば、こんな男だったっけかぁ?
世の中も分らなければ、自分の事すら分らなくなっている。


よくよく考えてみれば、俺は今日何人をリストラの対象にしてしまったのだろう。いや、リストラは会社に貢献する事だ。追っ手に掛かる緊急予算を更に消費させてしまったと言えるだろう。
それはそれで研究が遅れればそれでいい。迷惑被っているのはこちらの方なのだから。
それにしてみれば、今日は本当に奇跡の連続だったかもしれない。
“奇跡は起こしてこそ、本当の価値がある”
とは昔読んだ漫画だかアニメだかの誰かの台詞のうろ覚えだが、その通りかもしれない。だが、起こったのは奇跡では無く現実だ。俺は今此に居れる事をそう思いたい。
なんとか撹乱に成功し、ゲートに居たであろうチームを動かし、その隙に正面ゲートから堂々と帰る事が出来た。これまた幸いな事に車も無事だった。人は特定出来るが、車になると難しいのだろうか。
何せ登録変更もしてなければ、正式には陸運局の許可さえ取れてない車だ。古い他人のままのナンバープレートで探すのは苦労するだろう。
兎も角、その足でなんとか松戸にまで辿り付き、今日はそこで宿を取る事にした。そこはホテルじゃなくて本当に「宿」と言った感じだ。今時珍しい。
和風の宿と言ったら浴衣だ。柚希菜の浴衣姿はさぞかし可愛いだろう。
とは思っても、やはり制限はある。またここに踏み込まれたら対応出来なくなるので、それは敢無く却下。非常に残念である。
取り敢えず、汗を掻いたお世辞にも気持ち良いとは言えない服を、限りなく普段着に近い部屋着兼寝間着に着替える。専用の寝間着さえ無いのが哀しい。
「あの、あの…秀明…さん?」
何かモジモジしながら上目遣いで柚希菜は俺の正面に立った。
「ん?」
「あの、あの、あの…あの…今日も…お疲れ様でした。」
そう言って、戸惑いがちに俺の方へ顔を寄せて…軽いキスをした。
「あぅっ!」
柚希菜はそのまま紅い顔を伏せて、布団の中に潜り込んでしまった。どうでもいいが、そっちは俺が使おうと思ってた布団だ、柚希菜は向こう…。
逃げながら冗談で言った言葉を実行してくれたらしい。本当に可愛い女の子だ。今時二十歳も過ぎて…多分過ぎてるだろう…こんなに初心(うぶ)な女の子を望んでもなかなか見つかるものじゃない。
命の危険付きではあるが…。
それにしても「お疲れ様」と言うのもどうかと思う。まるでお勤めしてる様じゃないか?
何のお勤めかは、余り深く考えない方が好いだろう。何せ柚希菜は俺の布団にくるまっているのだから。
俺はリュックからノート端末を出して、今日の残りの、本来である「お勤め」をしなければならない。
その前に、汗を流しておかないとならないな。
…柚希菜、風呂から出るまでにはそこを退いてくれよ?





第七章
秀明の知らない世界







自分専用の大きな机がある。自分専用の大きな書類棚がある。自分専用の高性能端末が置いてある。ここは自分専用の部屋になっている。
全て会社の金で揃えられた品々だ。
普通なら、ここまでの待遇をして貰えるだけでも幸せな勤務生活が送れる事だろう。
だが、会社から用意されているのはこれだけでは無い。
自分の為に用意されたクローゼット、その中には自分の為に用意された衣服と下着、そして定刻になると運ばれてくる自分専用の食事。
ここまでなら納得できる。だが、奥にある自分専用のトイレ、そして自分専用のシャワールームまでもがあるのだ。
つまり外に出る必要性が無い。いや、外に出る事を禁止されているのだ。言葉で言うと「監禁」と言う物なのかもしれない。
住めば都、保証されている分安心出来るのだろうが、やらされているのは脅迫に基づいた強引な職務である。
余りそう多く見る事が無い、この部屋の外に張られているドアプレートには「Prof. Yuko Kajiwara」の文字がご大層に飾られている。厳重な電子ロックと監視員一人に因って。
悠子は一日に何度もこの状況を呪う。呪ってないとやりきれないのだ。
ここが法治国家たる日本の中だとは到底思えない。人権無視も甚だしい。
こんな事を裏でしている会社にも労働組合があるらしから、可笑しな話しではある。
何度目になるか分らない大きな溜息を吐いて、端末に繋がっているマウスを少しだけ動かしてやる。
リゾート地の写真を連続して出すスクリーンセイバーは消え、元の研究資料を出しているワープロソフトの画面になった。
『Doris-System プロジェクト:情報処理最適化アルゴリズムの一部オブジェクト更新作業』
その表題の上には紅く『国家及び社内最高機密:リーク発覚の場合銃殺』と書かれている。
「…私の場合、殺してもくれないのよね…。」
仕事以外での話しをする事も無く、偶に普通の会話をするのは嫌な連中ばかりなので、ここの所、富に独り言が多くなっているのは悠子も自覚していた。
「歳も取るわよね…。」
デスクの上に置いてある、部下の女性から貰ったスタンド型の可愛らしい鏡兼クリップボードを覗き込む。そこには疲れた顔をした自分が写っていた。
ついこの前誕生日を迎えたばかりなのに、30も半ばに差掛る年齢は酷く歳を重ねた様に思わせる。
スラックスに河崎重工が作っているバイクの画が書かれたトレーナーに白衣…悠子はこの会社自体は嫌いだが、生み出すバイクは好きだ…の姿から抜け出し、タイトスカートを履き、その平均よりもやや大きい形の崩れてない胸が目立つ服を着れば、街行く男の殆どが振り返るだろう。年齢よりは若く見られる筈だ。
規則正しい生活、規則正しい運動、規則正しい食事。それら全ては半ば強制的なのだが、そのお陰で歳を重ねても体型が崩れる事無く、また一段とバランスが良くなっている。
鏡に薄っすらと映っている小皺を除けば、だ。
死ぬ事さえ許されない強制だけの環境は、皺の数になって現れているのかもしれない。
離婚暦がある悠子。夫とは死別になってしまったが、今更愛情なんてものも出てこない。
だが、自分はやはり「女」なのであり、人並みの体型をしていれば人並みの欲情なんて邪魔なものもある。生活は安定していても、心まで満たしてくれる相手はこの建物の中には居ない。監視されているのもあり、自らその欲求を処理する事さえも侭ならないのだ。
ふと、思い出した様に机の中に入れてあった物を探し出し、キーボードの前にコロっと投げ出した。
超小型の機器制御専用チップ。元夫たる祐司の遺作になった物だ。今ではもう時代遅れになってしまい、使われる事は無くなってしまったが、基礎の部分はその技術が応用されている。
その主たる元夫、祐司。
「セックスだけは、上手かったわね…。」

30代に差掛ろうとしてる29歳の時。男女の関係も結婚と言う文字すらも、自分とは切り離された世界の出来事でしかなかった。
友人の結婚式に行って「おめでとう」とは口にするものの、何が目出度いのかが分らなかった。
今はそれよりも自分の研究を成就させる事で頭の中は詰っており、それなりに忙しない毎日を送るので精一杯だった。
『ですから、M2(マイクロマシン)技術と言いましても、分子構造の大きさの限度がありまして、極小の世界と言えども限度があります。それを克服する為には考え得る最適な効率化を図らなければなりません。この前提で私は…』
大きな講堂、少なくとも千人近くは入るだろうと思われる大きな会場の中を自分の声が駆け巡って行く。
別にそれ自体が好きな訳じゃないが、ステージの上に立ち、皆が自分の発表している事に興味を示してくれる事には、僅かながらも高揚感が沸きあがってくる。この瞬間は好きだった。
研究と発表の繰り返しではあったが、短調な生活では無い。毎日が変化に溢れた生き生きとした日々を送っていたのだ。
日本の大学は、やはり体裁や体制と言うのに拘っているらしく、悠子の年齢ではやはり助教授止まりが好い所だった。可笑しいのは、その上司に当たる教授よりも、悠子の方が修得している博士号が多かった事だろう。
マイクロマシンだけでなく、脳・神経医学分野に情報処理。様々な関連分野でもその頭角を表している。正に天才の名に相応しい活躍ぶりである。
その大きな業績や名声によって、悠子の「女」としての部分は心外にも隠されてしまった。たとえ、美人でスタイルが良くてもだ。「美しい大人の女性」の前に「天才博士」だった。
そんな彼女の前に激変と言う名の「異性」が現れた。それが祐司だった。
悠子もそれほど初心(うぶ)では無い。何人かの男性とも過去幾つか付き合い、ロストバージンも大学入学後に済ましてある。尤も、その数は同年代に比べれば非常に数少ないものではあるが。
祐司は然程好みの男性ではなかったが、それでもそんな業績や名声とは関係も無く、自分を「女性」として見てくれた。気さくに話しかけてくれ、下らない悩み等もにこやかな顔で聞いてくれた。
彼も専門とはちょっとずれるが、メカニカル・ロボテクスでの研究に従事しているらしい。同じ研究者としての馬もそこそこ合っていた。
「君の全てを包み込む事は出来ない。だが、君を暖かく家で迎える事は出来るよ。」
そんな祐司のプロポーズ。悠子は愛すると言う事はまだ分らないまでも、何となく居心地のよさそうな物だと言うのは理解した。
研究が一段落するまで子供は産まない事を条件に、悠子は祐司と結ばれる事になった。
幸せが身に染み込んできた。幸せだと思った。
悠子の父が経営しているコンピューターソフトウェアの会社である『K-MAX Softwere』の株も、新製品に因って上がり、順調な成長を示していた。
大学にも投資が降り、研究も捗る。そして言葉通り、祐司は家で暖かく迎えてくれたのだ。
“最初の内は”と言う限定付きで。
既に完成された基礎理論を応用へと結び付ける事が可能だと分り、研究の第二段階への道が明瞭になった時、上向きだったベクトルが、X軸の線対称となって方向転換されてしまう。
投資に因って大学でも一番と言われるくらい大きく育った研究室は、突然の投資打ち切りで閉鎖直前にまでなってしまう。
そして同時に父の会社『K-MAX Softwere』の株も大暴落。新製品にウィルスが偲び込んでいると言う失態まで重なっている。
父はなんとか会社を切り詰めながらも、悠子の研究を止めない様に資金を割り振っていたが、それも直ぐに破綻への道と繋がってしまった。
あらゆる融資を取り、最終的には借金としか言えないものまで手を伸ばし、最後に残ったのは空虚な事務所と使われなくなったパソコン、そして膨大な負債だけ。
父はその後3日間行方不明になり、有明埠頭の片隅で焼死体となって再度姿を表した。
近くにあったガソリンタンク。燃えたオイルライターが手に握られ、自殺と判別された。
そんな激変の中、悠子は駆けずりまわされる。それを手伝う様に同じくして駆けずり回っている筈の祐司は、実は六本木や銀座で豪遊をしていたらしい。自分がこんな目に遭っているにも関わらずだ。
完全に愛した訳じゃなかったが、少なくともこの人なら愛せるかもしれないと、悠子なりに努力していた答えがそれだ。
どう見ても他の女を抱いてきたとしか思えない祐司に、それらの努力は報われる事が無い事を知らされてしまう。
そしてその直ぐ後、祐司は飲酒に因る交通事故で父を追う様にして死亡した。
父に比べて、簡素な葬式。悠子は流す涙を持ち合わせていなかった。
残ったのは、父の負債と祐司が作ったマイクロチップ。そして黒服の債権取立の脅威だ。
落ち込んでいる悠子に、その黒服は撫でやにそして優しく対応してくれた。
出来るだけ利子を押さえながらも、全ての借金を一元化し、支払いをしやすい様にしてくれたのだ。
幸い、余り使わなかった貯金があり、幾許かは助かったのだが、それもあっと言う間で底を尽きる。個人の資産では会社の負債等をカバー出来うる筈も無い。
月も変わらない内に、悠子自身が食べる食事さえも用意出来ない状況になった。
「もう、担保も現金も限度額も無いわ…」
「いえ、最後の担保がありますよ。」
恐ろしさを感じさせながらも終始一貫して笑顔を絶やさない黒服は、にこやかに悠子の頭を指差した。
買ったばかりのマンションも家財道具も全て処理し、身一つで悠子は黒服の後を付いて行く。
彼から貰った名刺には『ギガトロン・サプライ』と書かれた金融会社の名刺。
行き付いた場所は此。
全てを知らされる。
元夫たる、祐司の給料振り込み元はGigatron Electronics社。父の会社の株が暴騰した時の大株主が河崎重工。
そして祐司はK-MAX Softwere社の情報を漏らし、新製品にウィルスを仕込んだ。河崎重工は一気に株を売りさばき、結果暴落。
祐司は混乱の隙を突いて、GE社の機密事項をリークしようとして失敗。暗殺されたらしい。彼の莫大な給料は元の鞘に収められた。もしかしたら悠子の父も同じく、自殺ではなく暗殺なのかもしれない。
膨大な借金は現実の物としてあるが、内情は略八百長。
例え借金が消え去っても、今の悠子には監視カメラと銃が向けられており、状況は変わってはくれない。

「考えてみれば、回りくどいやり方ね。一体幾ら金を使ったのかしら…」
思い出した所で涙は既に枯れている。
手の上で転がしている祐司の遺産。そして父の遺産たる莫大な借金の化身である、この部屋と研究所。
「転がれば、転がるものね…人生って。」
平均寿命から考えれば、まだ先はある人生だが、悠子にとっての「活きる」人生は殆ど終わりを迎えてしまったらしい。
友人も居らず、愛する人も居らず、情熱が薄れた研究だけ。少なくとも情熱さえ残っていれば大学時代と同じ様に過ごせるかもしれないのに。
今では自分を裏切り続けた元夫の温もりさえも恋しい。
「博士だの天才だの言われても…結局バカよね、私…。」
抽斗の中にチップを放り込み、再びスクリーンセイバーの画面の戻ってしまっていた端末を、元に戻した。
『リーク発覚の場合銃殺』の文字が目に映る。
「暴れたら…殺してくれるかしら?」
またもや、大きな溜息を吐いて、端末をスリープモードにし、悠子は重々しく腰を椅子から引き上げた。


「ニューロンシンセサイズの状態はどう?」
悠子は大きな研究室に入るなり、挨拶もせずに若い女性のオペレータに問い合わせた。
「良好です。0.0045%と若干の誤差は生じてますが、予想範囲内で収まってます。」
髪を茶色く染め、ピンクの口紅が軽薄そうな女性だが、職務は至って真面目だ。外に出れば、その真面目さが裏返しになるのかもしれないが。
「そう…。No.26のM2定着率はどう?」
「こちらは予定よりも進行が遅くなりました。拒否反応が出始めましたので、その排除に少し苦労しているみたいです。」
「困ったわね。これじゃ、あの煩いオヤジにまたドヤされるわ。」
オペレータの女性…名札には『芹沢 香奈子』と書かれている…は、笑うのを必死の押さえながら、悠子とは逆の方向へチラっと目線を送った。
その先ではわざとらしく咳をするやや小太りの中年男性が高級そうなスーツを着て立っていた。
「あら、居たの?アンタ…」
アンタと言われた河田は、怒り心頭の顔をしながらもその表情だけで押さえる。確かに既にオヤジと呼ばれる年齢ではあるが、立場としては悠子よりも上であり、直属の上司なのだ。
彼なりに苦労して上り詰めた取締役の座に座って尚、部下にぞんざいに扱われるのに耐えられる筈も無いだろう。
それでも彼は、自分は温情家だと言い聞かせ、なんとか体裁を整えるのに必死になった。
「君が来る前から居たよ。フン…予定より遅れるのは困るからな。」
きつい一瞥を悠子に流しながら、吐き棄てる様に言う。彼の温情の限界がそれだろう。
彼の目線が別のオペレーターのモニターに移ったのを確認して、悠子は香奈子へ耳打ちする様に小声で話した。
「芹沢さん、あの男に“このプロジェクトの全予算をやるから抱かせろ”って言われたらどうする?」
「えぇ〜?…どんなにお金積まれても、あの人だけはイヤですね…。」
「私も同感よ。」
クスクスと笑う二人の声は、幸いな事に機器の作動音に紛れ、彼の耳には届かなかった。もし、届いていたら、彼が言った予定が、自らの所為に因って更に遅れた事だろう。双方にとって良い結果となった。
彼は今、その別なオペレータから色々と説明を聞いている。悠子も彼が自分に矛先を向けなければ居ないも同然だった。何時もと同じ様に作業を進める。
作業と言っても予め出している指示を監視するだけ。近くのコーヒーサーバから2杯分のコーヒを抽出し、香奈子の後ろで立っているだけだ。
「はい、これ。…それで、その彼氏はどうしたの?」
「あ、有難う御座います。…えっと、煩いんですよね、シテる最中。ずっと“愛してる愛してる”ってばっかりで。」
香奈子はコーヒーを受け取ると一口熱そうに啜り、自分専用の、車に付けるドリンクホルダーを改造したものに預けると、モニターを見ながら悠子と会話を続ける。
何か変化があれば、数ある操作パネルで対応し、何かしらの要求があれば、端末にコマンドを打ち込む。頻繁な作業では無いので、悠子と会話をしてコーヒーを飲みながらでも余裕に出来る作業だ。彼女が有能な分、余裕の幅も大きい。
「あら、可愛いじゃない、そういうの。…あ、そこ、ゆらぎが少ないわ。」
「え〜?イヤですよぉ。愛してるって言ってても腰振ってるだけじゃないですかぁ。結局はやりたい言い訳を口にしてるとしか思えなくて。…はい。電圧、コンマ0035落します。」
「でも、言われないよりはマシよ?…No.24の処理状況は?」
「それはそうですケドぉ…子供みたいだし、なんだか私の事まで考える余裕なさそうで。…あ、今朝終わったみたいです。」
「どういう意味?…欠番が多くなってきたわね、サンプルとして保存しときたいけど。」
「早いんです、彼…。で、終わった後、直ぐに寝ちゃうの。数回もしない内に…。…No.20までの完全破棄って本当ですか?」
「あらら、淡白ね。若いのに。…ええ、危険なのよ。仕方なし、ね。」
「そうなんです。優しいんですけど…なんかそれだけって気が最近して。…気が進みませんね、“処理”だなんて…。」
「おい!ちゃんと仕事しろっ!」
二人の会話の邪魔をして怒鳴ったのは彼しか居ない。怒気をふんだんに含ませた顔をこちらに向けていた。
悠子と香奈子は同時に逆の壁に向かって思いっきり舌を出した。もう少しで「べぇ〜!」と言う声が出たかもしれない。
「煩いオヤジね、本当に。言われなくてもしてるわよ。いい?将来ああいう男になる様な奴だけは止めなさいね?」
「ええ、そう言う意味では、ここも良い経験です。」
悠子は口には出さないが、自分を死の淵のギリギリで押さえてくれる人がここに居る事に、温もりを感じる。
彼女の積極的と言うか、耀さに心救われるのだ。重々しい過去があったとしても。
…生きていればチャンスは何所かにあるのよ、柚希菜…。
「そうだ。悠子博士?」
香奈子は悠子の事をそう呼んでいる。博士という冠詞が付いてはいるものの、名前で呼ぶ所に彼女が悠子を敬愛している事が示されているのだろう。
「ん?何?」
「今度“陸”に上がったら、ハーバーランドに行きませんか?美味しいパスタとケーキのお店が新しく出来たんですよ。」
「そうねぇ。でも私よりも黒服のお姉さん方が喜びそうね。」
「あはは、そうですね。」

悠子と香奈子、そして河田が居る大きな研究室。そして悠子も香奈子も居住している区域。他にも多々ある研究室。それらは全て地下に埋められていた。その地下も海中よりも下にある場所。
然程多いとは言えない休憩施設や運動施設には人工の明りに交じり、自然の太陽光がファイバーを通り注がれる場所がある。
太陽光、水、電気、下水、ガス…それら全てのライフラインは海を挟み地上から…。
陸と陸とを繋げる巨大な橋。明石海峡大橋に繋がっている。
淡路島と本州を結ぶ貴重な交通要路としての大橋は、地下に潜んでいる巨大なジオフロントの生命線の役割を果たしている。
大橋の建築は折半されているが、本州側の建設は河崎重工が担当していた。


その六百数十キロ東。名を呼ばれた人物はむくっと布団から起き上がった。
「ほぇ?」
柚希菜は目をゴシゴシと擦りながら、枕上の時計を寝ぼけ眼のまま見た。
『02:37-AM』
随分と中途半端な時間に目が醒めてしまった。起き上げた体をもう一度横にしようかとも思ったが、暫くそのままで呆けっとしたままどこを見るわけでも無く居る。
「ふぁぅ…」
小さな欠伸が出て、また少しだけ意識がはっきりとしてきた。
同時に隣で寝返りをうった秀明の寝顔が、自分の方に向けられる。
秀明は、逃げている時の凛々しい顔では無く、そこからは想像も付かない程だらしなく口を開けて寝ていた。
柚希菜はもぞもぞと自分の布団から這い出て、秀明の方へと顔を近づけた。
「あは、秀明さんっ。」
だらしないその寝顔に、人差し指をぷにぷにと指し込む。
「んが…」
いびきなのか返事なのか分らない音が秀明の口から漏れた。
柚希菜は何度もその感触の良い弾力を味わっていたが、流石に疲れた秀明を起こしては不味いと思い、指を引っ込めた。それでもやはり、物足りなさが募る。
「秀明さん…」
今迄普通だった胸に熱が篭る。鼓動もさっきよりも早くなってきた。
眠気は覚めてきているのに、何故か身体が勝手に動いてしまう。何時の間にか秀明の顔が間近に迫っていた。
すやすやと眠る秀明の寝息が顔に掛かる。その暖かさに、更に自分の身体に熱が篭っていく感じ。いや、余計に熱を出しているのは自分自身なのかもしれない。
「秀明…さん…」
触れる唇。開けられた秀明の口を塞ぐ事は出来ず、その下唇に自分のそれを啄ばむ様にそっと付けた。
やや乾いていたその唇を、自分の熱で徐々に潤いが増して行く。
離して付け、濡らしては離す。何度もそれを繰り返した。
「ん…んっ…」
秀明の寝息が少し乱れたのと同時に、柚希菜は咄嗟に口を離した。気付かれるのがとても恥ずかしい。
幸いな事に秀明は熟睡中であり、柚希菜の事には気付かない様だ。直ぐに寝息は元のリズムに戻って行く。
柚希菜が濡らした下唇を何度か閉じ、そしてまた口を開けたまま寝ている秀明。
何が物足りないのか自分でも分らないままにもじもじしている柚希菜は、意を決した様に自分の布団から這い出て、隣の秀明の布団へ潜り込んだ。
頭ごと布団に入り、秀明の胸の中に顔を埋める。
そこは暗闇。だが、闇の恐怖は無く、秀明の暖かさに満ちた心地よい闇だ。
「秀明さん、暖かいですぅ…」
満面の笑みを漏らしながら胸の中にある顔をぐりぐりと擦り付ける。手は顔の下に添え、部屋着兼寝間着である秀明のスウェットを小さく掴んでいる。
自分でも大胆な事してるとは分っていても、それを止められない。トクトクと高鳴っている心臓の鼓動が何故か心地良い物に思える。
「秀明さん、だぁい好き…」
自分と同じボディシャンプーの匂いの中にも、秀明の匂いがある。自分にはそれが分り、こうして間近でそれを感じる事が出来る。自分以外では許されない、柚希菜の特権だった。
「…う…んがっ…」
途切れ途切れの秀明のいびき。そしてもぞっと動いたと思ったら、秀明の腕が柚希菜の背中に廻された。
「あ…あぅっ!」
その温もりと感触に思わず声が漏れてしまう。たったそれだけの事で十二分に感じてしまえる自分が恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。
「秀明…さん…」
更に服を強く握り、火照った顔を秀明に寄せる。
心地良い温もり。温もりが自分を包んでくれている。守ってくれている。
「あったかいです…」
それ以上何も考えられない温もりは、柚希菜をゆっくりと夢の世界へと優しく誘ってくれる。
「すき…」


…馬鹿なっ!?
起きるとそこは驚愕の世界。そうとしか言えない。
どうやら世の中は謎で満ちているらしい。
驚きながらも、まだ寝惚けている頭をフル回転させ、なんとか答えを見付けようと努力する。
昨日は疲れていたが、前程ボケては居なかった筈だ。和風の宿にはダブルもツインも無い。部屋に入れば、ちゃんと布団は二組並んでいた筈だ。そして、今居る此も、二人で過ごす為の部屋には違い無い。
ちゃんと布団は二組ある。それは今でも変わらない。
だが、そのもう一つの布団に柚希菜の姿が無いのだ。本来ならそこで寝ている筈の姿である。
では、何所に行ったのか?
考えるまでも無く、身体の感触と言う奴がそれをまざまざと脳に伝えてくれている。
答え、自分の腕の中。
…何故だっ!?
寝る前の記憶はまだ残っている。確かに風呂に入り作業を終えた後、自分一人でこの布団に入り、疲れた体を癒すべく就寝した筈なのだ。
だが、現実として腕の中に居るのは、柚希菜。
安らかな寝息を立てながら、俺の胸の中で寝ている。しかも可愛らしい顔で。
こんな事は再び繰り返される予定は無かったのだ。
男性特有の生理現象。しかし、今はそれに拍車を掛ける場面が目の前に展開されている。
柚希菜の背中に廻されて動けない腕がぷるぷると震える。
…お!?…んっ…グっ!…んがぁあああっ!
口はそう模るが、声までは出ない。心の葛藤は音となって具現化する一歩手前で押さえられる。
結局、腕に入った力は抜ける事無く、柚希菜をゆっくりと抱きしめ始めた。
…あぁっ!俺って奴ぁっ!…でも気持ちいい…
不思議と動揺していた心に静寂が満ちていく。
柚希菜の穂のかな髪の匂い。サラサラとした感触。
俺はゆっくりと顔を近づけて、その小さな頭にキスをした。
「柚希菜…」
思わず目が細くなる。イヤらしい顔になってないだろうか?俺は…。
「んぅ…ひで…あき、さん……」
瞬間、身体が震えてしまう。
少しだけ体を離し、彼女の顔を覗き込むが、そこには目を閉じたまま笑っている柚希菜の顔があった。
どうやら寝言らしい。暫く眺めていたが、変化する事は無かった。
もう一度だけ、柚希菜の頭にキスをして、俺の服を掴んでいる手をゆっくり離させてから、俺は彼女から離れた。
ゆっくり息を吐いて、そして一気に吸う。朝の準備体操では無いが、心を落ち付かせる為だ。
そして柚希菜に背を向け、スウェットパンツの中を恐る恐る覗き込む。
「やぁ」
と言う様な声が聞こえて来そうな彼がこちらを向いていた。彼は元気になっているだけで、そこら辺を散らかす様な悪戯はしてないらしい。
一先ず安心出来たので、ぱちんっと言う音と共に、彼とは別れを告げた。
そして邪気を晴らす為に、リュックの中をガサゴソとタオルを捜して風呂場へ直行。
熱湯かと思われる程の湯をシャワーから捻り出して、元々熱い自分の身体を更に熱して行く。
「うおおぉぉぉ!邪気よ去れぇっ!」
柚希菜を起こさない様に声を上げながら、「彼」が通常休止状態になるのを待った。
…こんな事を日課にはしたくない。








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この物語はフィクションです。
物語中に登場する国家・場所・団体・企業・個人等、
それらを含めた全ては、実存のものとは一切関係有りません。
それらについてお問合せの無い様、お願いします。
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