maxfill's Original Short Novel - Never can't get it


隣合せのファンシーフリー
第四部

Fancy Free in diary life





第八章
働かざるもの、食うべからず




 ネットの世界も広い様で狭いのか、はたまたその逆なのかは分らない。だが、どちらかと言うと前者の方が近いのかもしれない。
 ある一定のコミュニティに属していれば、おのずとそれに関する情報が入ってくるのだろう。秀明としては、前から知っている世界とは言え、やはりその根の深さと言うものに思わず「はぁ…」と溜息を付いてしまう。
「どうしたんですか?秀明さん。」
 そんな秀明の溜息を聞いた柚希菜が、読んでいたファッション雑誌から目を上げて彼の方を見た。
「いや…まぁ、火の無い所に煙は立たないってな。」
「?」
 秀明が見ているモニターには、ダウンロードしている進捗状況のグラフがゆっくりと動いている。ソフトではなく、メーラーのウィンドウだ。
 他にアシを付けられない様にメールアドレスを転々とさせていたのだが、何処を経由してくるのかはわからないが、秀明宛へのメールが山の様に積もってたらしい。半分近くは宣伝用のダイレクトメールだったりするのだが、半分は秀明個人向けだ。
 そのメールの内容の殆どが「仕事依頼」だったりする。何の仕事と言えば、クラックを主とした情報収拾やらサーバへの侵入方法を教えて欲しい、と言った内容ばかりだ。
「一体誰から…」
聞き付けたのかは分らない。柚希菜に頼んで一つ一つ逆探知しても良いのだが、件数が多いしそんな暇は無かったりする。
 兎も角、その数々のメールが示している共通の事は、秀明が多数の会社のサーバをクラックしている事が何らかで漏れ、そこそこ有名な裏のクラッカーになっているらしい事だ。
「んー…益々犯罪者に近付いているじゃないか。」
尤も、書類偽造に銀行から無い筈の金を作りだし、存在しない人となって車を転売し、企業情報を正規以外のルートで仕入れている段階で十分犯罪者にはなっているのだ。
「15年、逃げ切れるかなぁ…」
 少なくとも、事が終ってから海外旅行に行ってバカンスを楽しむ、なんて事は出来ないだろう。空港に行った途端にお縄になってしまう。国内に居たら居たで、常に警察の目を誤魔化しながら生きていかなくてはならない。
「ジーサンになってから、と思ってたけど、今からでもどっかの山荘でひっそりと暮らすのも悪く無いかな…」
 既に世捨て人になってしまった自分に思わず苦笑してしまう。
「しかし…こりゃ凄いな…。」
 日本ではそんなに浸透してなかったと思っていたが、この件数の仕事依頼を見てしまうと、それは表だけの世界だと分る。結構裏では、皆必死になってクラック合戦をしている様だ。
…確かにこれだけ件数があれば、職に困る事は無いな。
 大学を出て、色々な企業に出願し、何度も何度も面接を受けては落ち、やっと見付けた企業に就職したものの、やはり目指した道とは違う仕事をしている毎日。
 ちょっとした切っ掛けで、まったく違う道を進み始めた今になって、裏を捲ってみればこれだけの仕事がある事に可笑しくなってしまう。
 真面目なだけじゃ生きていけない。
 自分が真面目な人間だとは思って無かったが、それでも真面目な部類の中には居たと自覚していた。だが、こうして見ると、そんな世界では、良く言われている様に線に引かれた生活でしかなかったのかもしれない。
「ま…片手間にでも仕事しないとな…。」
 ここに来るまでに宿泊費を始めとして、結構な金を使ってしまっている。巨額と思われた銀行口座の金額も、文字通り泡となって消えて行っている。
 ガードの堅い銀行のサーバをクラックして、アシを付けられるよりも、こういった仕事をして収入を得る方が、また容易いだろう。
「…と、言う訳だ。仕事する事にしよう。」
「はぁい。」
 どうやら、俺に構ってもらえずに暇を持て余していたらしい柚希菜は、嬉々としてベッドの上で作業をしている俺の正面に座った。
「私は何をすればいいですか?」
「クラック用のソフトを造るんだ。それを手伝って欲しい。」
 鞄の中からメモパットを取り出して、やや荒い字で簡単な仕様書を書いていく。
 何時もやっているクラックの作業を簡易化して、柚希菜が今迄やっていた事の一部を抜粋して、相手サーバのクラックの寸前まで行き付ける様にする。完全なクラックソフトを作ってしまうとネット全体が混乱してしまい、本来の自分の作業の邪魔になってしまうからだ。
 そしてソフト自体に使用期限を設け、それ以上の期間で使用しようとすれば、その端末自体のセキュリティを丸裸にしてしまう機能まで付ける。期限を延ばしたければ、入金の後に新しい修正パッチを入手しなければならない方式を採る。
 更にそのソフトに、密かに河崎重工とGE社のサーバのセキュリティを弱体化させるコードを忍ばせておく。そうすれば、もっと簡単に今の作業が進む筈だ。
「…と、こんな感じだ。どれくらいで出来そう?」
「ん〜…集中すれば4時間程度で出来ると思いますよ。」
 普通なら仕様を決めてから完成するまでに、ゆうに2ヶ月くらいは掛かるものだろう。そこは流石、彼女は最先端の技術の結晶であるとも言える。
「じゃ、サっとやっちゃおう。余り気の進まない仕事だからな。」
 そう言って、USB端子をノートに刺し込み、もう一方を柚希菜に差し出した。
 だが、彼女はその端末と俺の顔を、少し不満気な顔をして交互に見詰めている。
「どうした?」
「…おまじない。」
「へ?」
「集中出来るおまじない、してくれなきゃイヤです。」
 そう言って端子を手には取ったが、まだ自分の首筋には刺し込まない。その代りに、目を瞑ってその顔を俺に向けた。
 誰が見ている訳でも無いが、そんな展開に思わず赤面してしまう。それこそ、何時か読んだ漫画の様なお約束な展開だからだ。
「ゆ、柚希菜…あのな…」
「してくれなきゃ、仕事しません!」
 なかなかしてくれない俺に業を煮やしながらも、まだ目を瞑って顔を向けている柚希菜。眉だけを少し吊り上げて俺を責める。
 何とか説得して止めさせようと思ったが、この調子ではその言葉通りだろう。
 何度か鼻の頭を掻き、やがて諦めた様に柚希菜の肩に手を触れた。
 そんな雰囲気では無い時にキスをしようとする事が、こんなに恥かしく、また緊張するものだとは思わなかった。
 恐る恐る顔を近づけて、そして唇に軽く触れる。
 流石にこんな状況では長くは出来ない。直ぐに顔を離して、柚希菜に背を向けた。柚希菜としては、せめてあと少しだけ続けて欲しかったが、そんな珍しく照れている自分の姿で、許してやる事にしたらしい。
「あは。じゃ、頑張りますね!」
「あ、ああ…」
 背中の方から、ノートと柚希菜が接続された確認音を聞くと、鞄からサブノート端末を出して、自分の仕事を続けようとした。
 だが、意外にも今のキスに緊張してしまい、柚希菜とは逆にまったく集中出来なくなってしまった。
…ちくしょう…こんな筈じゃなかったのに…
 意外な自分の初心さに腹立たしくなってくる。
 クラックはソフトで十分だが、流石に情報提供の仕事となると手作業になる。幾つかのソフトを連動させて、必要なだけの情報を選り分ける作業には集中力が必要になるのだが、なかなか思う様に行かない。
 ふと、後ろを振り向くと、目を瞑って瞑想している様な柚希菜の姿が映る。約束通り、集中して作業をしているのだろう。モニターに表示される文字列のダンスがヒートアップしている。
 人にやれと偉そうな事を言っておきながら、自分は集中出来ずに居る事に、少し自戒の念が入ってくる。
…俺もちゃんとしないとな。
 ようやく、ある程度の集中力が戻ってきたのを確認すると、何時もの通り、モニターとキーボードに目と指を走らせて行く。
 耳にした事も無い小さな企業から、誰もが知っている大企業。どこかの財団やら宗教団体、そして政府や軍事関係と、様々な情報を欲しがっている連中が多い。
 そんな彼らが、その情報を得てから何をするのかは知った事では無いが、無差別に情報を垂れ流して、混乱させるのも正直後ろめたい気分でもある。ある程度集めた所で、多少の嘘も混ぜながら、依頼主に情報を渡して行く。
 何かの役に立つかもしれない、と最初は集めた情報をストックしようかとしていたが、それも直ぐに止めた。
 結局、真実なんて知った所で、自分には何にもならない。関係の無い事は、表立った情報だけで十分だからだ。
 だが、そんな中にも柚希菜に関わりのありそうなものは保存しておく。河崎重工もGE社も大企業だけに、その持っているネットワークも広大だ。何処に何を発注しているか分らない。
 この一つの会社にしてもそうだ。ホームページなどは3ページくらいで会社概要くらいしか乗せてない企業。それも有限会社で、地方の片隅で細々と生業としている町工場らしいが、それでも取引先の3つ向こうに河崎重工が居たりする。
…上手く出来てんだか、複雑に出来てんだか…。
 自分が前に勤めていた会社も、然程有名ではないが中堅クラスの会社ではあった。その会社さえも、網を伝わって行けば、GE社に到達してしまう。ネットワークとはいい得て妙でもある。
 兎も角、そんな作業を二人で黙って続けるのである。
 ホテル、可愛い女の子、ベッドの上で二人、と言った在りそうで無さ気なこんなシチュエーションでやる事と言ったら一つ…と言う訳でもない。人にはそれぞれ事情と言うものもあり、こんな俺達の様な場合もあるのだ。
 端から見ている連中が居れば「何やってんだか…」と呆れられるだろう。
 二人してベッドの上でクラック作業…俺自身だって呆れてしまう。

 そんなこんなで数時間が経った。
 柚希菜は約束通り、きっかり4時間で作業を終らせてくれた。
「やっぱりどんなに効率化を図っても、これくらいの容量になっちゃいました。」
 やや出来の悪いテストを提出する様な顔で、柚希菜はモニターを俺の方へと向けた。
 そこに表示されている容量は5.7メガバイト。それでも俺自身が考えていたものよりは遥かに小さい。このコンパクトな内容で、数々のサーバをクラック出来、しかも使用制限等の機能を盛り込み、更に自分達が有利になるブラックボックスまで仕込む事が出来たのだ。上出来だろう。
 確かに、未だにNTTの動きが鈍く、精々384kbps回線の常時接続が安くなったとは言え、そこら辺が限界だ。光ケーブル回線はまだまだ先の話で留まっている現状だが、それでも5メガちょっとのソフトなら、ものの数分でダウンロード出来るだろう。
 それに流石と言うか、人間の専門家以上に効率化の計算が出来る柚希菜ならではで、しっかりとユーザーインターフェースの部分もしっかりしている。驚く程、簡単な操作と設定で、ソフトを動かす事が出来るのだ。
 簡単に動作チェックをしながら、柚希菜が説明してくれる。
「一応、わざと数ヶ所にバグを仕込んで在ります。滅多な事でぶつかる事はありませんが、特殊動作やリバースしようとすれば、そこに行く様にトラップしてあります。」
 こんなあどけない顔をした女の子から、こんなに濃い話が聞けるとは…時代も変わったものだ。
 思わずそう感嘆してしまう。
「うん、上出来、上出来!これだけやれば、十分だよ。」
 そう言いながら、柚希菜の頭を撫でてやる。
 彼女はまるで子犬の様に目を細め、少しだけ舌を出して喜んでいる。
 どうしてこの娘(こ)は、時偶こうして俺の心臓を跳ねあがらせる様な動作をするのだろう?
 この頭の中に世界最強のスーパーコンピューターが仕込まれているとは考え辛い。と言うよりは、嘘であって欲しいとは思うのだが…。
「さて、これを適当なサーバにアップして、飯でも食いに行くか。」
 俺はこのままだったら、ずっと頭を撫で続けてしまうかもしれないと思い、咳払いを一つしてから、手を離してそう言った。
 柚希菜は名残惜しそうの俺の手を見ているが、
「今日は何食べたい?」
 と聞くと表情は一転して子供の様な顔で、
「やっぱり中華!エビちり食べたい!」
 手を上げて喜ぶ。
 俺はそんな彼女の顔から、外に広がる風景に目を移した。
 既に日が落ち始めていて、見事な朱と青のグラデーションがコンビナート工場の向こうに広がっている。その手前に広がる、人賑やかな雑踏が見える横浜中華街。
 そこでエビちりなんぞを食うと、結構な金額になるだろうが、流石にそこまで生活がシビアになった訳じゃない。
「うし。じゃ行くぞ。」
「はぁい!」


 流石にちょっと奮発し過ぎた、いや、食い過ぎたかもしれない。
 前々から思っていたのだが、柚希菜は良く食べる。下手をしたら良く食べる方の男よりも食っているのかもしれない。それで太らないのには理由があったりするのだが…。
 元々そんなに食が太い訳じゃない俺は、そんな柚希菜の食いっぷりを見ているだけで腹いっぱいなのだが、今日は何故か対抗意識が芽生え、何とか追い付きながら食おうとしたのが失敗だった。二人で3.5人前のコースは多過ぎる。
 それでも柚希菜にしてみれば、腹8分目あたりの様だ。
「はぁ、エビちり、やっぱり本場が一番だなぁ〜。」
 等と言いながら平然としている。因みに中華街とは言え、本場とは限らないのだが。
 柚希菜も元々は少食だったらしいが、今では平気で良く食べる。振り向けば何かを口にしている事すらもある。
 理由はやはりエネルギー補給らしい。
 生体が発生させる鼓動を発電原とし、熱効率を利用した運用等などが色々組み合わさっているらしく、それに必要な分の消費量が掛かっている様だ。つまり、身体に負担が掛かっている分、通常よりも多くエネルギーが必要らしい。それで良く食べる。
「でもね、美味しいものをいっぱい食べても太らないのは、ちょっと得した気分。」
 とは本人談。
 だが、そんな明るく言う彼女にも、半ば元に戻らない諦めの言葉も含まれていると思うと、やはり不憫に思ってしまう。
 確かに彼女が普通であれば、俺達は出会う事すら無かったかもしれない。彼女は彼女で、俺は俺で別々の生活を営んでいただろう。
 現実としては、彼女はこういう身の上になってしまい、俺と出会った。そして俺は彼女に因って、自分の意思によって今迄とは違う別な道を歩き始めた。
「なぁ、柚希菜…」
 食後の運動ついでに山下公園を歩きながらそんな事を考え、ふと口に出てしまいそうになる。
「言わなくてもいいです、秀明さん…。私は貴方が良かったんです。」
 半ばそうかと思っていたが、やはり読まれていたらしい。柚希菜も女の子だし、女の子はこういう所に鋭いとは良く聞いている。
 何度か疑問に思っていた「俺でいいのか?」と言う部分は、拭いきれなかった。偶々こうして今も一緒には居るが、出会った最初の頃の様に、俺が拒否しつづけていたら…他にもっと良い人が居たかもしれないという可能性だってあった筈だ。
 偶々今迄上手く行っているだけであって、俺自身にそんなに力がある訳じゃない。今後どうなるか分らないし、最悪のケースが待ち構えている事だってある。
「私はラッキーだと思いますよ?…だって…」
 俺が彼女の横顔を見ながら歩いていると、柚希菜はふと立ち止まって言い掛けた。目は俺ではなく、まっすぐ前を見ている。
「だって、私は今…」
 そこで言葉を止めて、ゆっくりと顔を落として行く。
「…柚希菜?」
「えへっ!やっぱり秀明さんには秘密!もっと私の事構ってくれたら教えてあげるぅ!」
 俺が心配顔で柚希菜を覗き込もうとした途端に、彼女は飛んでいる綿帽子の様に翻り、あっかんべをしながら逃げ始めた。
「あっ!待て!」
「追い付いても教えてあげませんからね〜!」
 日の陰りも無く、すっかり空は闇に染まり、イルミネーションや街頭に薄く照らされた公園の中を俺達は走り去る。
 ベンチに座って、他人とは別の世界と自分達の愛の形を確認し合うカップルの中を追い掛けっこをしている二人。果たしてどちらが恥かしいものだろうか…。

 息を切らせながら戻ってきた俺達二人に、ホテルのフロントは怪訝な顔を向けてきたが、それを柔らかく無視して部屋に戻ってきた。
 少し汗を掻いてしまったから、直ぐにシャワーを浴びたい所だが、その後の動きも気になったので、一先ず端末を立ち上げる事にした。
 備え付けのソファーに座り、低いガラステーブルの上に端末を置いて電源を入れると、柚希菜も俺の隣にちょこんと座り込む。
「先にシャワー浴びてきたら?」
「……ぶぅ〜!」
 また不満気な顔をしている。
 構って欲しいのは十二分に分るのだが、出来れば俺の都合も考えて欲しいものだ。だが、それを言い出すと子供の喧嘩になってしまうので、俺は苦笑だけで返してしまう。
 彼女も彼女なりに分っているのか、俺がそんな顔をすると、黙って引いていく。
 それでも、まだシャワーには行かず、暫く俺の作業を眺めているつもりらしい。何気に擦り寄ってきて、俺の肩に顎を乗せてモニターを眺め始める。
…ちと、くすぐったい…。
 少し心の中で汗を流しながら、まずはソフトの販売の様子を見てみる事にした。
「へぇ…」
 ちょっと食事に出ただけの時間内で、結構な数がダウンロードされている。余りの反応の早さにやはり驚いてしまう。
 次に架空口座の入金を見てみると、やはりあっと言う間に金額が増えていた。これもやはりと言った感じで、ダウンロード数と金額は一致しない。入金してきたのは3割強と言った所だろうか。それでも、食って行くには十分な金額だし、柚希菜にエビちりをお代りさせても大丈夫だろう。
「次は、もう少し豪華にイタメシでも食べに行くか?」
「わぁい!」
 食べた後にも関わらず、柚希菜の食欲は旺盛だ。
 このまま無限にソフトをバラ蒔くのも問題があるので、1週間あたりのダウンロード数を制限させる様に設定し、また時間がかかるだろうメールチェックを始める事にした。
 その間にシャワーでも浴び様かと思ったが、3通目をクリックした所で動きが止ってしまう。






第九章
彼女のカレシの事情








 そのメールは一見すると単なるダイレクトメールだ。だが、最後の方の文字列が何やら文字化けしている内容だった。が、それに最初に気付いたのは柚希菜だった。
「秀明さん…それ、貴方宛てです。」
 そう彼女は言ったが、どう見ても通信エラーしているメールにしか見えないし、不特定多数に出しているメールが自分宛てに固定しているとは思えなかった。
「これ、私の固有コードなんです…。私しか読めない内容になってるんです。」
「固有コード?」
「私にはIDが二つ用意されていて、その二つを特殊な演算する事で固有コードとなります。固有コードは2メガビットのセキュリティーコードになっていて、事実上私しか読めないデータがあるんですが…これがそうなんです。」
 柚希菜は説明しながら、そのランダムにしか見えない文字列を読んでいる。怪訝な顔がより一層険しくなっていった。
「内容は?」
「河崎重工からです。内容は…彼等は取引したと言っています。」
「取引?」
「人質と…私の交換だそうです。明日の深夜、有明の倉庫街で交換、だそうです…。人質は…裕也…。」
「裕也…?」
「あ、私の…元彼氏です。望月裕也君…。」
 数瞬、柚希菜は顔を伏せて、再びこっちを見た時には、何やら言い辛かった事を言ってしまった様な苦笑を浮かべている。この娘にこんな顔は似合わない…。
 しかし、元彼氏なんてのを人質にするなんて、結構まどろっこしい事をしてくれるものだ。セオリーかどうかは知らないが、普通ならば家族を最初にターゲットとする筈だが。
「…柚希菜のご両親は?」
「…今、行方不明なんです…」
「あ…ゴメン…。」
「いえ!…秀明さんは、悪く無いです…」
 そう言いながらも、再び顔を伏せてしまった。さっきまでの甘えや笑顔がまるで嘘だった様にさえ思えてしまうくらに暗い顔だ。
 こんな彼女の顔もそうだが、俺自身、今更の様に彼女の事を余りにも知らな過ぎる。
 逃げるのに必死だったから、と言う言い訳もあるが、時間が全く無かった訳じゃない。確かに聞き辛い事ではあるが、知っておいた方が良い事でもある。
「ご両親も、これ絡み…かな?」
「多分…」
 多分この様子だと、文字通り消息を絶たれてしまったか、消されてしまったかどちらかだろう。考えたくは無いが、平気で人を改造するくらいなら、それくらい平気でやってしまうかもしれない。
 そんな彼等を相手に、今度は真っ向から取引をしなければならなくなった。一筋縄では行かないだろう。
 向こうがそういうつもりなら、こちらとしても考えなければならない。
 一番確実なのは…人道的では無いが、この取引をご破算にするのが確実だ。彼を放っておいて、自分達は逃げ続ける。自分達の安全度は確実に高いだろう。
 以前聞いた話によれば、形はどうあれ、彼は一度は彼女を見捨てている。事情を知らなかったかもしれないが、それのしっぺ返しという言い訳を作る事だって出来る。
 だが、後味の悪さも一番だろう。元彼氏すら「消息不明」になってしまたったら、彼女は天涯孤独の身だ。今もそう遠く無い位置には居るが…。
「ま、見捨てる…事ぁ出来んわな…」
 俺は頭をポリポリと掻きながら苦笑する。そんな俺を柚希菜は複雑な表情で見詰めていた。



「特務部の人達も、頭の悪い上司に捕まってるみたいね。」
 ノート端末を小脇に抱えながら、悠子は一緒に歩いている香奈子に話し掛けた。彼女は同じ様に脇に書類を挟んで、塗ったばかりのマニキュアを息を吹きかけながら乾かしている。
「そんな事言うと、またシゲちゃんに怒られますよぉ?直接では無いでしょうけど、命令の発生源はシゲちゃんらしいですから。」
 自分からはオッサン、この娘からはシゲちゃん呼ばわりされてしまう河田取締役も少し哀れにも思うが、そう言われてしまっても仕方が無い奴だ、と悠子は考える。
「人質交換とは、また率の悪い事してるわよね。」
「前回も失敗してるのに、懲りないんですね…あの人。」
 尤も、悠子としては率の悪い事をして貰わなくては困る。自分からは「彼等」を支援する事が出来ない。何とか網を潜りながら準備だけは進め様としているのだが、やはりなかなか上手く行くものでは無い。それまでの時間稼ぎを何とかしなくてはならなかった。
「現場の人達には申し訳無いけど、少しは失敗から物事を習うと言う事を覚える良い切っ掛けかもしれないわね。」
「えぇ?無理ですよぉ。私ですら分る事なのに…テレビゲームも出来ない頭の堅いオジサン達には無理でしょう。」
 香奈子はあははと笑いながら答える。確かに彼女の言う通りかもしれない。
 幾ら最新鋭の技術を開発するチームを運営していても、それくらい単純な事が出来ないのも可笑しな話ではある。マイクロチップの開発者が、ビデオの予約が出来ないのと同じくらいだろう。
「貴女だったらどうする?」
「え〜っとぉ…No.25からNo.32までの内、試験運用に耐えられる実戦闘型3体を現場に配置して、命令系統はDorisでは無く、移動指揮車から米海軍の指揮官にやらせます。更に人的配置で3重包囲網を組んで…ヘリも一機、警備艦も二隻辺りに配置します。」
「何故、Dorisを使わないの?」
「Dorisの最終バージョンアップは柚希菜ちゃんのが最高ですし、同じシステムでは千日手になるでしょ?彼女は実践経験も他に比べて多いし…。ヒトの曖昧さを混ぜないと難しいと思います。」
「まぁ、確かに…でも、結構大規模になるわね。」
「上は柚希菜ちゃんの能力を過少評価していますよぉ。確かに珍しく民間人登用で、元普通の女の子って言っても彼女の元々の潜在能力の高さがありましたからね。」
「多分、仕様書をちゃんと読んでないんでしょ。お陰で削除しても気付かれなかったからね。」
 悠子はそう言いながら、空いている方の手を、グーからパーに開いた。
 その通りに仕様書からその部分の記述を丸々削除してしまった。それも初期段階での仕様書だったので、既に30以上ものバージョンアップをした今では、殆ど使われてない書類でもあった。
 だが、そうして仕様書の中から消えて行ったものは、全て悠子と香奈子で消してしまったものばかり。しかも基本でも応用でも、重要な部分があったりする。
「結構シビアな研究開発してるにも関わらず、アバウトですよねぇ〜。」
「何でも運用次第よ。使いきれないのは道具が馬鹿な訳じゃなく、使う方が馬鹿だって事ね。」
「あははぁ、悠子博士、きっつぅ!」
 そうは言っても、馬鹿とまでは思わないまでも、運用しきれてない企業体質と言うのがある。ここだけでなく、多分他の企業でもそうだが、ある一定以上の大きさになるとどうしても動きが鈍くなってしまう。一般的な部分は兎も角、特殊な部分があれば尚更だ。
 その部分を底力でカバーしているだけに過ぎない。だから、こうして若い男女二人に翻弄されてしまう事になってしまう。
「でも、予想値だと、そろそろ彼女も…」
「あ、そうですね。生体部品との兼ね合いも、まだ不確定な要素が大きいから何とも言えませんが…」
「処方箋、用意できる?」
「今やってます。間に合えばいいですケド…」
 香奈子は顎に指を乗せて考え込む様に歩いている。そんな彼女の顔に、悠子は何故だか表情が綻んでしまう。
 休みになれば、監視付きなのにも関わらず男の所に遊びに行ったり、その男すらも気付けば他の人に変わっているといった生活をしている彼女だが、芯の所ではこういった部分もある様だ。
 最初、柚希菜と香奈子の性格から考えて、殆ど相性は良くないだろうと悠子も思っていたが、意外にも香奈子は柚希菜の事を気に入ってるらしい。
 開発中、柚希菜が覚醒している短い時間には、出来るだけ香奈子は彼女に話し掛けていた。他愛の無い会話ではあったが、苦しげな表情をずっとしている柚希菜も、そんな時は表情が一瞬和らいでいた。
 そんな事もあり、悠子は香奈子に色々と手伝って貰っている。オーバーワークになっているにも関わらず、文句も言わずにこうして対処法なんかをやってくれている。それでも、彼氏の場所に遊びに行ける所なんかは、彼女の頭の良さと効率の良さがあるのだろう。
 下手したら、香奈子に任せた方が河田取締役が運営するよりも、もっと早くDorisプロジェクトは完成するかもしれない。尤も、香奈子には政治的な部分は無理だろうが…。
「兎に角、今回は彼に頑張って貰わないとね。」
「いいなぁ、柚希菜ちゃん…、素敵なナイト様が居て。私って、どうして恵まれないのかなぁ?」
「貴女は遊び過ぎよ。」
「アハ、やっぱり?」
 舌を出して笑っている香奈子に、ノートパソコンの角でその脇腹を突ついた。
「私も、もっと若い時に遊んでおけば良かったわぁ。」
「えぇ〜?悠子博士だったら、今でも十分イケますよぉ。大人の魅力がある分、私なんか羨ましいくらいなのにぃ。」
「流石に歳は騙せないわよ。いい加減、気力も無いし…」
「勿体無いなぁ…結構、博士の事、狙っている人多いですよ?何なら紹介しましょうか?」
「い、いえ…遠慮しておくわ…」



 何かに追われてしまうと、時間と言うものは極端に短くなってしまう。気が付けば、日付も変わり陽も落ちてしまった。
「うがぁ〜!結局何も考えて無いじゃないかぁっ!」
 俺は一人、ベッドの上で頭を掻き毟っている。何も勉強せずに、期末テストを迎えるよりもシビアな状況になっている。テストであれば、赤点取っても苦笑で済まされるが、今回はそうは行かない。
 柚希菜は、俺の隣で済まなそうに座り、俺のTシャツの袖をギュっと握っている。
…いや、柚希菜の所為じゃないが…
 とは思っても、口には出来ない。そう言ってしまうと彼女が余計自分の所為だと思い込んでしまうのが分っているからだ。
 兎に角、あと数時間後に迫っている期限の中で、最良の方法を考えなければならない。
 この際、綺麗事なんてのは言ってられないだろう。最悪、人を殺める事くらいは覚悟しておかなくてはならない。向こうだって、自分を殺す事を目的としている筈だ。
 殺さなければ、自分が殺される。
 こんな平和な日本では考えられない事だが、現実としてはそうだ。倫理云々と言う前に、そうした現実がブラ下がっている。俺は初めて、これが「戦い」なのだと感じ始めた。
 それに、極端な話、自分は既にアウトローとなっている存在だ。戸籍謄本やら住民票なんてのは、何の保証もしてくれない只の紙屑と化している。何らかの効力が残っているとしたら、犯罪者としての烙印が押されている書類になっているだけだろう。
「ま、必要最低限にはするが…」
 マシンガンを持って、大量虐殺をする訳でもない。自分が生き延びる為に最低限の事をするだけだ。
 少なくともそう言い聞かせなければ、恐ろしくてこのベッドから立ち上がる事すらも出来ないだろう。
 やはり彼を見捨てて…とは何度も頭の中を過って行くのだが、そう考える自分も嫌だ。また逆に、その自分の甘さが、ヤケに苦く感じてしまう。
…結局、中途半端なんだよな、俺って。
 もう一度、頭をポリポリと掻くと、なんとか覚悟をする勇気を搾り出す。
「よし、柚希菜。これから俺が言う事を覚えてくれ。」
「はいっ!」
 柚希菜は正座して、やたらと真面目な顔をして答えた。
…いや、そう力まれると、俺も緊張するから…。



 そこはまるで、ドラマのロケーションに使われていても可笑しくないくらいに「モロ」な場所だった。もしかしたら、照明やらカメラが仕込んであるのかもしれない、と思わず疑ってしまう。
 向こうさんも、よく恥かしげも無く、こんな場所を選ぶものだと感心してしまうくらいだ。こういった危険な事のセオリーなのかもしれないが。
 人の気配が無い有明の倉庫街。そこに平成初期型の古いタイプのスポーツシビックを止めて、俺はフロントに腰を掛けて相手を待っている。
 ここでこうして煙草でも咥えながら待っていれば、もう少し画になるかもしれないが、生憎と俺は煙草が吸えない。しかも手に持っているのはコーヒーなんかではなく、レモンスカッシュの缶ジュースだ。格好付けるよりも、少し甘いものが飲みたい欲求に負けてしまった。下手をすれば、これが最後の飲み物になるかと思うと、格好よりも欲求を優先させてしまう。
…生き延びたら、コーヒーを飲もう。
 別にコーヒーの為に生き延びる訳じゃないが、取り敢えずはそう考える事にした。
 そんなこんなの下らない事に頭を働かせていると、これまたイカにもと言った黒塗りのセルシオが静かに滑り込んできた。
 向こうも警戒しているのか、俺よりもやや離れた場所にゆっくりと止める。エンジンは消さずに、フロントライトだけを消した。
 だが、人は出てこない。スモークが張られたサイドウィンドの中は窺い知る事が出来ないが、多分こっちを観察しているのだろう。
 俺は自分に余裕を持たせる為にも、少しお茶らけて見る。缶ジュースを持っている右手を挙げて、まるで友人を待っていたかの様に振舞った。
 逆の立場だったら「フザけた奴だ」と思うだろうが、そんな事には構ってられない。向こうの出方次第で考えなくてはならない事が山盛りだ。
 このまま過ごしても時間の無駄だろう。俺は腰掛けていたボンネットから少しだけ離れて、ジュースの缶を捨てた。そして、軽く両手を上げて、武装してない事を相手に示す。
 それでようやく向こうも警戒を少しだけ解いたのか、重々しい音を立てながら車から姿を表した。
 これもやはり想像通りの黒スーツに身を包んだ男数人。それに対して俺はジーンズにTシャツ、そしてその上にGジャンを羽織ったと言うラフな格好。よく見る情景だろう。
 それに遅れて、男一人に首筋を抑えられながら、どう見ても彼等の仲間では無いだろう男が降りてきた。多分、と言うかそいつが裕也と言う奴だろう。
 彼の所為で、とんだ事に蒔き込まれてしまったから、そのまま彼が黒スーツ連中にボコボコにされる姿を見るのも良いかもしれない、とは思ってみたものの、よくよく考えれば、彼もまた黒スーツを雇っている会社のやっている事に巻き込まれたに過ぎないのだろう。
 しょうがないから、少しだけ同情する事にした。
 一人が裕也の首根っこを捕まえている。二人はその裕也の前脇を固めている。そして残る一人が数歩前に出て来た。
 合計4人。だが、以前2人11チームの包囲網を潜り抜けた俺達の事を、流石に甘くは見てくれないだろう。姿は見えないが他にも居る筈だ。
 そう思い、ふと顔を動かさずに横を見てみれば、巧妙に隠れているのだろうが、何となく人の気配がする。手に持っているのは狙撃銃か何かに違い無いだろう。
 益々、コーヒーが飲める確率が減って行く。
 やがて、何も言わない俺に業を煮やしたのか、リーダー格らしき男が話し掛けてきた。
「21号はどうした?」
 とは多分柚希菜の事だろう。改造したとはいえ、人の事を道具扱いする呼び方に少しだけ腹が立ってくる。だが、そんな事を口論する場所では無い。
「アホか。連れて来る訳無いだろ?」
 震える足を何とか抑えながら、そう粋がって答える。連れて来ても来なくても、俺に対しての対応は代わらないだろう。少なくとも、平々凡々と生き長らえさせてはくれない筈だ。
 ならば、足掻くしか無い。
「ならば、彼が殺される姿を見ながら、自分にも振り掛かる事を眺めながら死ぬんだな。」
 一瞬怪訝な顔をした男だが、半ば予想していたのか、一瞬の間の後、そう答えた。
 そして、懐の中から銃を取り出して裕也の頭にその銃口を付き付けた。男は俺の顔を見ながら、これ見よがしに、ゆっくりと引鉄に指を掛けていく。
 ここで俺が命乞いをしたら、彼等はどう反応するのだろう?
 と、言うよりは、彼等はそれを期待しているに違いない。こんな仕事をしているとは言え、余計な手間は省きたい筈だ。
 半ば冗談で、それを実行してみようと考えていた所。
「や、止めてくれっ!俺は関係無いっ!殺さないでくれぇっ!」
 思わず素の顔で、裕也を見てしまった。この余りにも情けない顔が、余りにもこの場面にハマり過ぎていて、笑ってしまう寸前だ。
 確かに彼にとっては不条理過ぎるし、殺される理由も無いだろう。だが、世の中と言うのはそんな感じで流れて行ってしまう。諦めて殺されるしかないだろう、と自分の事は一端棚に置いて考える。
 そのまま暫く様子を見てみようとも思ったが、流石に引鉄が引かれているのを見ると、相手も冗談では無い事が分る。
 出来れば、現実の世界で飛び散る血は見たく無い。
「待て!今連れて来るから殺すな!」
 裕也の失禁寸前の顔を見ながら、真面目な顔をして言うのはなかなか至難の業だ。もしかしたら、多少引き攣っていたかもしれない。
 幸いにもそれを冗談とは取られず、スーツ男の手はゆっくりと下がって行った。
「なら、早くしろ。時間の無駄だ。…下手な小細工は命取りになるからな?」
…下手で悪かったな。
 男の言葉に、内心舌打ちをする。
 渋々とした表情を作りながら、俺はポケットから携帯電話を取り出した。彼等が一瞬警戒し、俺の方へとその銃口を向けてきたが、取り出したものが携帯だと分ると、また裕也のこめかみに銃口を戻す。
「…柚希菜か?…ああ、今だ。来てくれ。」
 それだけを言い、携帯を切った。
「今来させるよ。」
 俺が肩を窄めてそう言うと、男は少し油断したのか、裕也から銃口を外した。
「最初からそうしろ。手間を掛けさせるな。」
 確かにこの圧倒的な有利な立場であれば、そうなってしまうだろう。何せ、俺は文字通り袋の鼠になっているのだ。
 言葉通りに柚希菜を渡した後は、裕也君とやらと俺は、解放されたと思った瞬間に、見事別世界への片道切符を仲良く購入する事が出来るだろう。
「済まないね。」
 俺は両手を挙げて、降参のポーズをし、苦笑しながらそう言った。
 それと同時。
 けたたましい、あの独特な腹に響くクラクションを鳴らしながら、俺の背後に巨大な物が迫ってくる。
「何っ!?」
 冷静を装っていたスーツ男達も、流石に驚きまでは隠せなかったらしい。
 俺は音を聞くと同時に、横へ飛び込みよろしく、後ろから迫るトレーラーを避けた。それと同時に俺がレンタルしたスポーツシビックは、トレーラに跳ねられ海へと落ちて行く。
「バ、バカがっ!狂ったか!?」
 スーツ男の声が辛うじて聞こえた。
 俺はそれをニヤけ顔で無視して、少しだけスピードの落ちたトレーラーに必死でしがみ付こうとするが、なかなか上手く行かない。
…映画じゃ、もっとスムーズに行くのにっ!?
 なかなか掴めずにヨロヨロしてしまったが、それでも辛くも開け放たれた助手席のドアを掴む事が出来た。そして、渾身の力を込めて、自分をトレーラーに引き上げる。
 想像では少しだけ余裕があった筈だが、乗り込むのに時間が掛かった所為か、バランスを調整している最中に、目標となる物が既に目の前に来ていた。
「チッ!掴まれぇっ!!」
 自分の鼓膜さえ破れるかと思うくらいに大声を張り出し、裕也の腕を強引に引っ張る。
「せいやぁあああああっ!!」
 多少の怪我くらいは我慢しろ。そう思い、助手席の中へ彼を放り投げると同時に俺も乗り込む。更に急いでドアを締めて、運転席の方へと移動した。
「よし、柚希菜!代れ!」
「はいっ!」
 彼の頭をシートに叩き付けると同時に、柚希菜も床に潜らせた。
 俺は慣れない大きなハンドルを、頭を下げながらなんとか操縦する。
 彼等も何が起こったのかようやく把握した様で、周りを固めていた狙撃班が、このトレーラー目掛けてマシンガンを乱射してきた。
 軽い発射音と共に、弾がトレーラーのボディに減り込んで行く独特の音が響いてくる。
 驚いた裕也は頭を上げて周りを見渡そうとしている。
「バカっ!死にたくなかったら頭下げてろっ!」
 ただでさえ重いハンドルを、なんとか片手で支えながら、隣で怯えているバカの頭をもう一度シートに叩き付けた。
 彼が蹲ったのを横目で確認し、またハンドルに手を戻す。そして皹が入ったサイドミラーを見ると、後ろから追い掛けてきたセルシオの姿が映っていた。
「柚希菜!今だっ!」
「はいっ!」
 柚希菜は予め言われていた通り、手に持っている無線機のボタンを押した。
 それと同時に大きな衝撃と音が響き、車内が大きく揺れる。
「くっ!」
 ハンドルを捕られ、海へ向かって進んで行くが、何とか強引にハンドルを切って、元の路線へと修正する。
 音と共に切り離された荷台が無くなった分、少しはハンドルも軽くなったのが幸いだった。
 切り離された荷台は、暫くは同じ様に走っていたが、直ぐにバランスを崩してけたたましい音を立てながら横転した。
 サイドミラーをもう一度見てみる。
 セルシオの姿は無い。銃撃の音も止んだ。
「…よ………っしゃぁああっ!」
 計算違いも多少あったが、上手く行った。少なくとも、邪魔な裕也を含め、柚希菜も俺も生き延びている。
「柚希菜っ!怪我は無いか!?」
「はいっ!大丈夫です!」
 少し煤けてしまっているが、彼女の笑顔がまた見れた。





 トレーラーは適当に乗り捨て、何処にでもありそうな平成型のマークIIに乗り換え、彼の家とは逆方向の千葉県柏市へと移動した。まだ数日くらいは彼の家はマークされてるだろうし、こちらもアシが付く危険性がある。
 駅から少し離れた場所にある公園に車を止めて、皆を降ろした。
「暫くはお前にも家族にも危険があるだろうから、早い所引っ越せ。これがその金だ。ほんの数ヶ月だけでいいから、別の場所に行け。」
 俺はぶっきらぼうに、茶封筒へ入れた200万を手渡す。
「あ、あの…」
「何も言うな。早く忘れて、普通の生活に戻るんだな。」
 それだけ言い残し、俺は二人を残してとっとと自販機の前に行く。自分で決めた約束を果たす為だ。
 それにやはり、少し気を使ってしまう。二人ともお互いに話したい事もあるだろう。
 俺はコーヒーを自販機から取り出すと、公園の中に入り、二人から見えない場所にあるベンチに腰を降ろして、プルタブを引いた。
「…変に無糖よりも、やっぱり缶コーヒーは甘くなくちゃね。」
 すっかり乾いてしまった喉に、甘味の強いコーヒーを流し込んで行く。


「やっぱり…生きていたんだね…。」
 裕也は茶封筒を握りながら、見たいとは思いつつもなかなか視線を合わせる事が出来ずに、俯きながら小さく言った。
「…う、うん…」
 柚希菜も一瞬、裕也の顔を見たが、やはり見続ける事は出来ずに体ごと横を向いてしまう。
 そしてまた暫く沈黙が続く。
 柚希菜はちらっと自販機の方を見たが、秀明の姿はもう見えなくなっている。そして、自分達から見えない場所に居ると分ると、少し残念な、けど少し安心した様な複雑な心境に駈られる。
 やがて、沈黙に耐えきれなくなったのか、彼は何かを決意した様に柚希菜へと向き直る。
「ぼ、僕は今でもキミの事を…!」
 その言葉に、ハっと柚希菜は顔を上げたが、直ぐにまた顔を下げてしまう。
「…もう他の恋人さんが居るんでしょ?」
「…でも、キミが生きている事を知った今は…」
 裕也は茶封筒をポケットに強引に仕舞い込むと、柚希菜へと駆け寄った。だが、上げた手は彼女の肩に触れる事は無く、宙をさ迷ってしまう。
「いいのよ、もう…」
「僕は心から愛していたんだ!本当だ!信じてくれ!」
 柚希菜は一歩身を引くと、うつぶせた顔を上げて、苦笑地味た笑顔を彼に向ける。
「…うん…分ってる…。けど、もういいの…。私の事は忘れて…。私はもう死んだのだから…」
「柚希菜っ!」
「さよなら…“望月君”…」
 柚希菜はそう言って、その顔で手を「ばいばい」と振り始める。
 彼はもう一度何かお言おうと、身を乗り上げたが、そんな柚希菜の手を見て諦めてしまったかの様に肩を落とした。
「…さよなら…。」
 それ以上を言うのを止めて、裕也は項垂れたまま背を向け、歩き出す。
 曇った笑顔のまま、柚希菜は彼の姿が見えなくなるまで、ゆっくりと手を振りつづけた。
「さよなら…。」


「秀明さん、お待たせ!」
 出来るだけ明るく、おどける様に柚希菜は俺の前にぴょんと立った。だが、俺は笑顔になる事は出来ずに、一瞬だけ彼女を見ては、すぐに空になった缶コーヒーに目を戻してしまった。
 別に怒っている訳じゃない。ただ単に、さっきから拭いきれないもやもやした何かが心に突っ掛かり、気分が悪いだけだ。だが、結果として、彼女に少し冷たい態度をしてしまう。
 なかなか目線を合わせない俺を、柚希菜は暫く眺めていた。その表情を見る事は結局無かったが、多分曇った顔をしていただろう。
 やがて彼女は諦めた様に顔をうつ伏せると、ゆっくりと俺の隣に、少し間を空けて座った。
…いや、違うんだ…。
 そうは思っても、その言葉が口にまで上ってこない。別に彼女を責めている訳じゃないのだ。
 考えれば考える程、余計に彼女が見れなくなる。結果、それが俺に顔を背けさせ、余計に彼女を落ち込ませる様な事をしてしまう。
 出来れば、彼女から何か言ってくれれば…と沈黙が続く。
 自分に引け目を何故か感じてしまう分、やはりその沈黙を破ったのは俺だった。
「…良かったのか?」
 だが、出て来たのは気の利いた言葉では無く、余計な事に過ぎない言葉だった。
…チッ!俺ってば…。
「…」
 余計に柚希菜は黙ってしまう。彼女の方に振り向かなくても、微かな音が彼女を余計に俯かせてしまった事を告げてくれる。
「別に…彼と一緒に行っても良かったんだぜ?」
 何故か止らない。一体自分は何が言いたいのだろう?
 さっきからある蟠(わだかま)りが言葉を出す度に、余計に膨らんで行く。
「私は…」
 顔とは逆の方向の肩から、聞きたく無いと思っていた啜り泣く様な音が聞こえてきた。無理も無いだろうとは思いつつ、段々と自分に腹が立ってくる。
「私は、秀明さんに…貴方に守って貰いたいの…」
 搾り出す様な柚希菜の声。そして彼女は、少し離れたままの場所から手を伸ばし、俺のTシャツの裾を強く握ってきた。
「ダメ…かな?」
 俺は恐る恐る彼女の方を見た。
 涙を瞼に為、健気にも笑い顔をしてくれている。俺が顔を上げると、より一層彼女の拳に力が入り、俺を力無く引き寄せ様としていた。
…ゴメン、柚希菜。
 やっぱり言葉には出来ず、俺は吸い込まれる様に彼女のそんな顔を暫く眺め、気が付いてみれば、彼女を引き寄せてその頭に手を置いていた。
「いや、守るよ…俺が…」


















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この物語はフィクションです。
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