Original Novel - Never can't get it


隣合せのファンシーフリー
第六部

Fancy Free in diary life





第十一章
虎穴に入らんば、虎子を得ず






 その瞬間と言うものは、明確に覚える事がないと聞いたが、実際に体験したのは初めてだった。
 部分部分の瞬間的なイメージは頭の中によく浮かぶ。それも嘘の様にスローモーションだったりするのが、苦笑を誘う。
 一番目に焼き付いているのは、柚希菜のあの顔と声。意識がハッキリしつつある今でも、それは鮮明に脳裏を掠めていく。
「秀明さんっ!」
 涙。そして絶望にも似た声。
 同時に、その時自分が抱いたこの世で最初で最後かもしれない悔しさも思い出す。
「…」
 何時までも覚めぬ悪夢を見ている様で気分が悪くなった。俺は、ある程度の覚悟を決めてから目を薄っすらと開け始めた。そこが例え地獄と呼ばれている場所でも構わない、と。
 これもまた、幸いな事に健康だけが取り柄だった為に、実際自分に対して使われるとは思わなかった医療電子機器の音が小さく響いている。
 緑色のグラフの様な図形と数値。軽く首を捻りそれを見て、自分の状態が意外にも平常値の脈拍と血圧値を指し示している事に苦笑する。
 そして、ありきたりとも言える白い部屋。清潔さを感じさせつつも、微妙に威圧感がある部屋。静かな部屋に木霊する電子機器の音が、それを増長させている様にも思える。
 ここが何処か、ある程度は想像出来る。だが、辺りに人が居ないので確認のしようが無い。辺りを見渡しても、何かを指し示す様なものは無かった。
 俺はさらに覚悟を決め、ゆっくりと、痛みを耐える準備をしてから、体を起き上がらせた。
 だが、意外にも体中に走る激痛、と言うものは感じられなかった。思ったよりも健康体らしい。それでも念の為か、俺の左腕には栄養点滴らしいものが繋がっている。
「打ち身…くらいかな?」
 非常に違和感を感じさせる患者服を捲りながら、自分の体をチェックしてみる。所々に大きな痣があるくらいで、骨が折れてたりしている場所は無かった。精々、太腿と腕の数箇所に、軽く数針縫った跡があるくらいだ。
「頑丈だな…。健康に育ててくれた親に感謝しよう。」
 ひとりごちながらも、少し残念なのが鏡、またはそれに代わるものが無かった為に自分の顔の状態が分からない事だ。今の所何とも無いようだが、パンダや熊みたいに痣があったら笑われてしまうだろう。
 不思議と時間が経つにつれ、そんな事を考える余裕すら出てきた。
 少なくとも、ここは知っている様な場所ではあるし、天国やら地獄やらと呼ばれている場所では無い事が確実となったからだ。
「さて、どうしたもん…」
 更に独り言を繰り返そうとした時、圧縮空気の抜ける音が耳に届く。
「あら、起きてたのね。」
 医者だろうか。
 残念ながら天国では無いので“白衣の天使”とやらでは無い。偶にどこかで見掛ける様な、ブラウスとタイトスカートを履き、眼鏡を掛けた極々ありきたりの女性、である。
 ベタ…とも言えなくも無い。
 歳の頃は…、いや女性の年齢は分からない。肌が少し荒れていても、それが疲れの所為なのか、歳の所為なのかは分からない。折角維持している命を粗末にしたくは無いので、質問するのは諦める事にした。
「別に捕って食おうって訳じゃないわよ。もっとも、今後のあなたの行いによっては、折角取り戻した命を失いかねないわね。」
 まるで、他人事…いや、実際に他人事だろうが、そう言われてしまった。
「…大体、何で助かったんだ?」
 態々、捕まえておいて治療するのもおかしな話だ。今の俺を生かしておく理由が分からない。柚希菜さえ戻れば、連中はそれで良かった筈だ。
「さてね…私は暇つぶしにここまで来た技術者だから、よく知らないわ。」
 だが、彼女はそういいつつ、目配せで彼女の背中の方角にある監視カメラとマイクを指し、着ている白衣を少しはだけさせて、小さな文字の書いている紙切れを俺に見せた。
“助かったのは私のお陰よ、感謝しなさい。”
 お茶目のつもりか、ハートマークまで書かれている。
 俺がそれを怪訝そうな顔をしながら見ていると、素早く紙を捲った。
“詳しい事はまた後で。とりあえず柚希菜は無事。チャンスが来るまで、終始無言で通しなさい。”
 それを読み終わり彼女の顔を見上げたら、彼女は小さく頷いて白衣を元に戻した。
「さて、最期かもしれないから、自己紹介くらいしておくわね。私は、梶原悠子。柚希菜の開発責任者という人でなしな仕事をしている者よ。」
「俺は…」
「いいわ。無事生き残ったら聞いてあげる。じゃね。そろそろ仕事に戻るわ。」
 そう軽く言い放ち、俺に背を向けた。
「なんで俺に…?」
「言ったでしょ、単なる暇つぶしよ。」
 質問は別な意味だったのだが、流石に彼女も警戒しているのか上手くはぐらかした。これではぐらかしが無ければ罠の可能性もあったのだが。
 もっとも、可能性が薄くなっただけでゼロになった訳では無い。
 どちらにせよ、今は出来る事は無い筈だ。
 彼女が出て行く時に、一緒に押し出る事も可能だったが、ちらっと見えた屈強そうな監視員と、何よりもここが何処か分からない内に闇雲に動き回るのは危険すぎるからだ。
 それこそ、折角の命。せめて簡単な設備の構造くらいを把握してからでも遅くないだろう。問題は、把握するまでどうやって生き延びるか、だ。


 生理的に嫌い、という範疇まで行くと、極端ではあるだろうが同じ空気を吸うのも嫌になる。取敢えず、早く自分の視界から消え去ってくれる事を祈るだけだ。
「調子はどうかね?」
 無知、では無いが、彼はこの分野に関しては余り良く把握していない。彼が把握しているのは、全体スケジュールとそれに関連するプロジェクト管理、そして金銭面と自分の身の安全だろう。
 挨拶するまでも無く、また彼に顔を向ける事無く簡素に答える。
「今、調査を開始したばかりよ。」
 他の職員、香奈子も含めてうやうやしくとまでは行かないが、河田に挨拶をする。そんな中、悠子だけは自分の端末から目を離さずに黙々をキーを打ちつづける。
 互いに嫌いあっていると不思議な事に、その存在を否定するにも関わらず、何故か同一の場所に居ると余計に相手の存在が気になってしまう。
 河田も最初は無視しつづけようとも思ったが、悠子のそんな態度が理由も無く癇に障ったのだろう。ツカツカと歩み寄り、座っている悠子を上から見下す様に口を開いた。
「…許可も無く医療センターへ行ったそうだな?」
「そうね。」
 確かに許可が必要ではあったが、それは河田の許可では無く、他の担当部署の人間に申請すれば良い事ではある。だが、悠子の直接上司は河田だ。
「これでも私の計らいで、ある程度の自由を保障しているのだがね?…こういう事をされては、今後はその些細な自由すらも望めないぞ?」
「仕事で返してるつもりよ。」
「フン!…そうあって欲しいものだな。」
 きつい一瞥を残し、特にこの場所では他にやる事が無い河田は、やや大袈裟な足音を立てて開発室から出て行った。
「…そうね、河田取締役様々ね。色々な意味で感謝しているわ。倍にして返してあげましょう。」
 皮肉たっぷり、不敵な笑いも足されてやや大きな独り言を漏らす。当然、隣で作業をしている香奈子にも十分に聞こえた。
「…アハハ、ちょっと怖いですよ…。」
 やや冷や汗を掻いて香奈子は苦笑する。
「いいのよ。負のエネルギーは時として莫大な原動力になるのよ、昔から言うでしょ?」
「映画じゃあるまいし…」
「私がフォースやら超能力やらが使えたら、既にあの男は問答無用で首を絞められてるわ。」
「いえ、だからそれが怖いって…」
「まぁ、冗談はさておき、準備が終わったわ。始めましょうか…」
「了解。手順Fの22-21から始めます。」
 悠子と香奈子は、ほぼ同時にインカムを被り、今迄の気軽な表情から真面目な仕事顔に切り替える。だが、始める前に軽くインカムのスイッチを押し、これまで余り見せる事が無かった優しそうな笑顔でガラスで隔てた向こうがわを見た。
「心配しないで、柚希菜。今日はただの検査よ。」
『…………はい…』
 まるで死んでいる様に冷たい目。何も考えられず、何の希望すらも失ってしまったように、柚希菜は静かに返答した。
 悠子は他の職員には気づかれない様に、香奈子の方へ視線を移して軽く首を縦に振る。
「エラー発生。コネクションプロトコルに一部不具合があります。」
 男性職員の声がやや大きめに上がる。
「あら…またなのね。こっちで直しますからそのまま続行して下さい。」
「ですが…」
「直ぐ治るわよ。」
「あ、はい。」
 内心、冷や汗ものではある。余り長い事これを維持は出来ないので、可能な限り手短に済まさなければならない。
“柚希菜、意識できる?”
“…?……はい、ノイズ混じりですが…”
 意識に直接コネクションしても、やはり柚希菜は抑揚が無かった。
“長話は出来ないから手短に。彼、元気よ?…まだ捕らえられているけど。”
 その途端、それまで人形の様に座っているだけの柚希菜が、目を大きく開けて悠子の方へと向いた。
“こら、余り周りにバレるような事しないの。後で手伝ってあげるから、今は私に任せてくれる?”
“はい…はいっ!あの、あ、あの…私…”
“いいから、今は無表情で通しなさい。じゃ、切るわね。”
 そして小さくOKの合図を香奈子に出すと、柚希菜本体の記憶野意外のログを残し、ダミートラップを外した。
「はい、直したわよ。じゃ、チェック開始。」
「チェック作業開始します。全回線、アナライズ開始。S/N良好。開発室を一時的に自閉モードへ。」
 香奈子の号令と主に、他の職員もモニターへ向かい、一斉にキーを打ち始める。
…さて、やってやろうじゃないの。
 今迄の恨みもあるだろうが、どことなく子供心にこれから起こるであろう出来事に、悠子は心躍らせる。
 例え命が無くなっても、後悔しない様に…。


「それ、本物だよね?」
 俺に随行している数人の兵士。その内の横を歩いている一人に俺は話し掛ける。手に持っている日本国内では見掛ける事の無い鉄の塊を見ながらだ。
 その兵士は答えてくれない。終始無言無表情のまま、黙って俺を連れてゆく。それでも俺はその手に持っているものを見続けた。
 自分自身を含め、日本が表向きは平和の為か、こういった本物を見る事は少ない。だが、見れば見る程玩具メーカーの技術力が高いのか、市販されているモデルガンは限りなく本物に近いようだ。中に入っているであろう弾を除けば。
 モードチェンジ、弾奏の位置、トリガー…全て見覚えがある。有難い事にその兵士達が使っているのは、米軍のお下がりだろうか、M16A2などを使っている。
…ポピュラー過ぎるんでないかい?
 等とも考えるのだが、これでAKなんかを使っていたら逆に笑えるのかもしれない。
「入れ。」
 短い命令口調。勿論、こんな所で抵抗しても何の意味も無い。その言葉通りに従う。
 部屋に入ると、想像していた警察署にある様な取調室や、サディスティックな雰囲気充満の拷問室、といった感じでは無い。残念ながら、いや、嬉しい事に普通のオフィスの様だ。
 お偉いさんだろうか。大きな机の中に埋もれる様に、それらしい威厳を保った男が椅子に深々と座っている。
「招かれざる客だ。座る椅子は無い。」
 どうも歓迎されない様だ。当然ではあるだろう。
 この男、見掛けは普通のオジサンではある。クリスマスシーズンに繁華街で見かければ、三角帽子を被って千鳥足をしそうではある。だが、それとは別に、どの役職に付いているのかは分からないが、雰囲気と言うか空気が、なかなか締まっている。彼なりに修羅場を通り越して来たのかもしれない。
 取敢えず、周りに居る兵士を使える程の存在ではあるのだろう。有難くも、周りをがっちりガードなんかしてくれちゃっている。逃げる隙も無ければ、正直手に持っている物が怖い。
 そして尋問らしきものが始まる。
「名前は?」
「ロバート・ゼメキス。」
「年齢は?」
「設定上、推定40歳半ば。」
「職業は?」
「フリーの科学者。」
「…」
「昔、デロリアンでタイムマシーンを作った。ついでに小型原子炉も。」
 ちらっと隣の兵士を見てみる。さっきまでの無表情に余り変わりが無かったが、少し肩が震え、口元が緩んでいる。どうやらウケて居るらしい。有難い事だ。
 だが残念ながら、正面のこのオジサンには通用しなかったらしい。
「…悠木秀明、25歳、会社員、いや、正確には元会社員。つい最近まで、ネットベンチャーであるPSSの営業部門で就労。その前は、大手ゲーム会社光瑛でプログラマー。…で、現在は無職。」
「…なら聞くだけ野暮ってもんでしょう。」
「面白い男だ。」
 普通であれば、これだけ軽口を叩けば相手は怒り、兵士は俺に銃尻で叩きのめす、といったシチュエーションになるのだが、この男には余裕があるのだろうか。興味を持ったと言う感じで、深々と座っていた椅子から身を乗り出し、机に肘掛けた。
「ナンバー021の支援があったとは言え、ネット網を掻い潜り、我が社のサーバを攻撃した上、プロを雇ったにも関わらず、彼らの捜査網を潜り抜けたのは賞賛に値する。元プログラマーと営業の知識が役に立ったか?」
「…さぁ、どうでしょう。」
 相手に言われて気付くのも癪だが、確かにそうかもしれない。学校で習った知識よりは、確かに役には立った。芸は身を守るものである。
「さて、私もビジネスマンだ。君も頭が悪い訳では無い。取引と行こう。」
「…」
「命の保証。それに職も与える。給与も優遇してやろう、その技術を見込んでだ。社会保険、年金、住宅手当、家族手当、交通費も支給。」
 まぁ普通に聞けば悪い条件提示では無いだろう。これだけ騒ぎを起こしていれば、他の職にありつけはしないだろう。もっとも、どれだけ公になっているかは分からないだろうが、相手がやろうと思えば俺なんかは簡単に犯罪者にされるだろう。
 しかし、逆に考えればこれだけの優遇条件を提示すると言う事は、見返りも厳しいと言う事だ。相手も明言している通り、これは「ビジネス」なのだから。
「で?」
「…まぁ良い。君が提示するのは、ナンバー021のロック解除パスコードだ。」
「…」
…パスコード?
 と疑問には思ったが口には出さないで居た。何の事だがサッパリではあるが、実の所、今の俺には取引材料になるものがまったくと言って良いほど無い。だが、相手からそう言ってきてくれたのだ。ここは黙って見ているに限る。
「ゲームプログラマーにしては惜しい。一体どうやってRV(リバース・エンジニアリング)して、コアの部分に辿り着き、ロックを施したのか…じっくりと聞きたいのでね。」
「話すと長い。技術屋の日本語で無い日本語を聞く羽目になりますよ?」
「はは、確かにそうだな。だが、慣れているよ。」
 やはりオジサンには勝算でもあるのか、かなり余裕があるらしい。軽く笑いながらポケットから煙草を出してゆっくりと火を付ける。
「他社との競争もあるが、この分野では我が社はトップシェアと最高の技術力を誇っている。これでも私なりに努力して技術者を集め、クライアントの要求以上の物を造り上げている。優秀な技術者は多い方がいい。どんなものでも売るのは私の得意分野だからね。」
「成る程。営業の先輩としては尊敬します。」
 クライアントが誰かは明確じゃないが、こういった物騒な分野での営業は、ある意味不動産やら家を売る営業よりは厳しい世界だろう。言葉通り、営業の人としては尊敬に値するだろう。他は他だ。
 二・三度、オジサンは紫煙を空中に吐き捨てると、机の中から一枚の紙を出しこちら側に投げ捨てる。
「雇用契約書だ。承諾するならサインと拇印だ。印鑑を持っているなら、それでも良い。」
 俺はその契約書…結構な枚数だ…を拾い上げ、パラパラと捲ってみる。どうも法的文書には弱いが、これも営業の知識があるお陰か、ある程度の条項は分かるつもりだ。相変わらず、不可解な日本語ではあるが。
「条項内容を変更したい場合は?」
「初任給に関してだけ変更出来る。他は全て変更不可だ。」
 20日絞めの25日払い。大企業にしては優秀な支払条件。経理の合理化が進んでいるのだろうか。そう考えると前の会社の様に小さな会社で、25日締め15日払いと言うのは粗悪な条件だったのだろう。
 初任給も…流石に今迄の倍とまでは行かないが、普通に仕事していたら手には入らないであろう給料だ。しかもご丁寧にプラス歩合制、ボーナス年二回、昇給年1回まで付いている。流石大企業だ。
「今日日の就職浪人が見れば、ヨダレものですね。」
「はは、そうだな。だが、これはビジネスだ。要求したものを仕上げてくれれば、ちゃんと対価は払う。他の中小企業はいざ知らずだが。」
 確かにしっかりしている。普通であれば、履歴書と簡単な守秘義務契約書にサインするだけの雇用だが、こうしたちゃんとした雇用契約書を見るのは初めてだ。
 実際にやる仕事が何なのかは明確では無いが、心のどこかで揺らいでしまっている自分も居るのは正直な所。
 守秘義務項目も含まれているとは言え、多分監視されながらの生活。だが、それにも次第に慣れはじめ、そこそこお気に入りの女の子と社内恋愛、このオジサンかどうかは知らないが仲人となって無事結婚。子供も二人もうけて、そこそこ幸せな生活。そして子供を愛しながらも、いずれ巻き込むかもしれない戦争に向けて使用するであろう物騒な者を作っている両親。良心に際悩まされて…
…どっちにしろ、後々逃げるんじゃないかなぁ?
 等と一人想像してみる。
 答えは最初から決まっているのに、何を下らない事を考えているのだろう。
「さて、どうするね?余り時間は無いのだが。」
「申し訳無いが、少し考えさせてくれ。条項を読むのが大変だ。」
「ははは。まぁ良い。それもビジネスだ。」
「因みに、断ったら?」
「何を言っているのかね…安易に想像出来るだろう?」
「…ま、そうですね。」
 言葉にはしなかったが、オジサンはやや大袈裟な振る舞いで、拳をパっと開いて何かが散るのを表現した。チープな表現の仕方だが分かり易い。
「明日までは待つ。それ以降は受け付けない。こちらもプロジェクトのスケジュールと言うのがあるのでね。」
 それだけ言い、周りに居る兵士に目配せをして背を向けた。
「あ、最後に一つだけ…」
 俺は首だけ後ろを向けてもう一度呼び掛ける。
「何だ?」
「ボーナスとローンの計算がしたい。関数電卓を貸してくれませんかねぇ?ポケコンでもいいですが。」
 一瞬、オジサンの顔が素に戻る。だが、その後には苦笑した。多分、一体コイツは何を考えているんだ?とでも言いたいのだろう。
「…まぁいい。後で届けさせる。」


 で、届いたのは有難くもポケコンの方。技術屋さんが多いのかまだ使っている人も居るのだろう。次いでに届けてくれた兵士に頼んで、紙とシャーペン…
「あ、俺、筆圧強くてよく芯を折っちゃうんだ。芯の予備もくれないかな?」
 市販された芯の束が入ったケースごと貰う。
 そして改めて部屋の周りを見てみる。
 ここの施設には俺の様な者を放り込む場所が他に無いのか、元の医務室である。辺りを見渡せば小道具で一杯だ。
 だが、外には監視員が居るし、監視カメラもある。ここで脱走を図るのも難しい。
「さて、どうしたもんかねぇ…」
 独りごちながらも、取敢えずやる事をやらねばならない。期限は明日までしか無いのだから。
 監視カメラに見えない様に、設置されている内線電話のコードを抜き、ベッドのシーツの中に潜り込ませる。そして俺自身、シーツの中に潜り込んでフテ寝する格好になり、同じくカメラに背を向けて作業開始。
 ポケコンの外部端子にシャーペンの芯を端子一つ一つにくくりつけ、テープで固定。その先に内線電話の回線を繋げる。
 後は原始的ではあるが、旧世代になりつつある初期のプロトコルを入力し始める。
「そう考えると、技術の躍進って凄いなぁ…」
 本当に関心ものだ。
 だが、その技術の躍進と共に、記憶容量も膨大な数字に跳ね上がっている。果たしてこの米粒並のメモリしか持たないコイツに、どれだけの事が出来るか…。
「誰か手伝ってくれないかなぁ…」


「うぅ…こんな事してるから、博士はレズ、私は両刀って言われちゃうんですよぉ…」
 半分泣きながらの香奈子。
「あら?興味無いの?」
「やっぱり男性がいいです…」
 悠子の個室。薄暗くした部屋の中で二人ベッドの中。監視カメラを見ている人々に言わせればそのままだろう。
 だが、やっている事は別だ。もぞもぞと動くシーツの中には、監視員の想像とは違い、全裸の二人は居ない。Tシャツとショーツの姿ではあるが、している事はノート端末の相手。
「今日が修羅場よ。頑張って。」
「いよいよ、ですねぇ。」
「そう、いよいよ、よ…」
 さっきまでとは打って変わり、二人とも真面目な顔になり、必死にキーを叩いている。
 だが、暫くすると、
「あ、やっぱり…胸の大きな女の人見ると、ちょっと触ってみたいかなぁ、とか…思ったりしません?」
「貴女、素質あるわよ。」






第十二章
三十六計逃げるに如かず






 いくら切羽詰っていても、やはり体力の限界と言うのは訪れる。やはりポケコンでは限界があるので、予想よりも良い結果は得られずに居た。
 それでも何とか柚希菜の居場所らしい場所、要所要所のセキュリティ情報くらいは何とか手に入った。だが、後回しにした所為もあるのか、この部屋のロックが外せないでいる。
 また、肝心な柚希菜の居場所までのルート等、不明な点が余りにも多い。
 そして、時間は残り数時間くらいしか無い。
 そんな時に睡魔が来られても困る。もしかしたら、このまま目覚めないかもしれないのだ。
「…う〜む…最期に柚希菜を抱かせて、ってのはダメかな…」
 とうとうダメな考えまで口に上がってしまう始末。
…後は為せば成る、って考えるしか無いかなぁ…
 ずっとベッドの中に居る所為か、自動的にまどろみの中に意識が沈んでいく。
「父さん、母さん、友人達、そして世の中よ…おやすみなさい。」
 と、大きな欠伸の音と共に、圧搾空気の抜ける音がユニゾンする。
「あら、お休み中?悪戯しちゃおうかしら?」
 クスクスと笑う女の人。以前に一度見た人だが、その隣にもう一人居る。
「へぇ〜、柚希菜のカレシさんって…ふぅ〜ん。」
 どうやら俺を品定め中だ。
「何でしょうか?」
「本当は私達が先に助けて貰う予定だったのにね。順番が逆になったわ。」
「私達が助太刀します、ナイト様っ。」
 いきなり何を言い出すのかと驚き、俺は反射的に監視カメラの方へと向いた。稼動中のランプはまだ付いている。
「大丈夫よ。カメラは生きてるけど、監視室のモニターには30分のループ映像と音声が流れているわ。」
「けど、どうやって?」
 今度は香奈子、と呼ばれた女性が答える。
「何時の時代もどんなシステムにも、最大のセキュリティーホールがあるわ。」
「…?」
「男のスケベ心よ。」
 そう言いながら、彼女達二人はおもむろにシャツやスカートを肌蹴ていく。
「お、おい!?」
 思わず、神が最期に俺に与えたサービスか?とも思ってしまう。
「特別サービスよ。二度は見られないから今の内ね。」
「えー?私は柚希菜に内緒にしてくれるんなら、もう一度くらいいいわよ?」
 軽口を叩きながらでも止め様とはしない。
 だが、そんな彼女らの、胸元やら内腿の間とかから色々な物が出てくる。
 何かのパーツ、スプレー、無線機…よくもまぁ、これだけ服の中に忍ばせたものだ。
 後で失敗したと思ったのだが、この時、そんな物を見ていた所為で、肝心の彼女達の半裸姿を見る事が無かった。非常に惜しい。
 で、三人で仲良く…端から見れば見えるだろう…ベッドの上で、そのパーツを組み合わせて行く。驚いた事に、俺以外の二人は、そこそこ、それに関しては詳しいらしい。
「あ、紹介が遅れたわね。この子は芹沢香奈子。私の頼りになるアシスタントよ。」
「よろしくね、秀明さんっ。」
 この根っから明るそうな女性は、いちいち語尾にハートマークが付いている様な喋りをしてくる。だが別に感に触ると言う事は無く、逆に好感が持てる。多分、モテるのだろう。
「この子ね、男好きだから、貴方も気を付けた方がいいわ。」
「あ、ひっどー!」
 和気藹々…端から見れば、だが…と会話しながらでも、ベッドの上には2丁のグロッグが仕上がっている。そしてそれぞれの弾奏には弾が10発ずつ。
「弾数は少ないけど、何かの役には立つわ。あとこれ、催涙スプレーと催涙手投弾。あとは…」
 と、まだ胸元に残っていたのか、谷間から小瓶を取り出して、辺りをごそごそとし始める。
「あった。これ、噴射式注射機ね。この瓶の中身は、麻酔薬。牛一頭を瞬時に眠らせられるわ。」
 手馴れた仕草でそれをセットする。
「準備かんりょー!じゃ、行きますか。」
「あ、あぁ…ってちょっと待て!」
 俺の声に二人は止まる。
「何をするんだ?」
「決まってるじゃない、お姫様助けるんでしょ?昔からそう決まってるじゃない!」
 指を立て横に振りながら香奈子…だよな…は大袈裟に振舞う。
「…見返りは何だ?」
 こういう自分は余り好きでは無いが、自然と身を守る術と言うのが身に付いてしまったのだろう。こういう事は後で確認すると、恐ろしい目にあい勝ちだからな。
「今後の私達二人の保護。その見返りで貴方が柚希菜を助ける手助けをする。成功した後の彼女のメンテナンスもサービスするわ。悪いビジネスでは無いでしょう?」
 香奈子とはうってかわって、いやに真面目な顔で悠子は言う。そして手にしているグロックの銃口を自分のこめかみに充てて続けた。
「断るのなら、こうよ。」
…タチが悪い…。
 その銃口を自分に向けるなら兎も角、目の前で自殺されては夢見が悪い。だが逆に言えば、彼女達にはそれなりの覚悟が出来ているのだろう。
「…分かったよ…銃を下げてくれ。強引なんだな。」
「このクソ会社よりはマシよ。目的は一緒なんだから、損は無いでしょ?」
「確かに。」
「じゃ、始めるわよ。」


 こんな場合じゃないのは十二分に分かっているが、身体は正直だったりする。心臓の高鳴りが止まない。
「…そ、そんなんじゃ、バレちゃうわよ…もっと強引に…」
「ごめん、ちょっとドキドキしちゃって…、って貴女も暴れないとやりずらい…」
 互いに赤面しつつ、顔を背けてしまう。意外と自分も初心な事に驚きつつも、悠子のそんな仕草に驚きプラス萌え付きの相乗効果だ。
 そんな俺達を香奈子は半ば白い目で見ている。彼女は既に自分である程度服を破き、それなりの準備が終わっていた。余計だが、二人ともちゃんと着替えを用意している所が面白い。
「博士ぇ、秀明さんもぉ…イチャついてちゃ意味無いでしょ?」
「ご、ごめん…」「すまん」
「じゃ、カウント、始めますよ?…5、4…」

「きゃぁああああああっ!」
 その大声に二人の兵士は肩をビクつかせる。何せ声がしたのが自分達の背中からだから余計だ。その振り向いた二人の中に香奈子が転がり込んでくる。
「あ、あの人が、い、いきなりっ!?」
 泣いている女性。破かれた服。二人が互いに目線を合わせると、状況証拠と二人の推論が一致したらしい。香奈子を一旦壁際に寄せると、二人は銃を構えて部屋の中に走っていく。
 その部屋の中では、二人の推論が正しかった事が証明出来る事が起きている。
 悠子が男に襲われていた。
「どっちにしろ殺されるんだっ!最期ぐらい楽しませろっ!」
 実は半分、正直な部分も入っていたりする。
「い、いやぁ〜!止めてぇっ!」
 実は半分、こういうのも悪くないかも、と考えていたりする。
 だが兵士にはそんな事は分からない。正義心が奮え上がる。
「何をしてるかっ!?」
 悠子に馬乗りになっている秀明の両脇に迅速に回り込み、悠子に乱暴を加えている腕を掴んだ。
「止めるなぁ!最期くらいヤらせろぉっ!」
 屈強の兵士に対抗する事は出来ないが、それでもある程度は抵抗出来る。自分を壊さない程度に、そして二人の兵士の動きを封じる事が出来る様に暴れた。
 その甲斐あってか、二人の兵士は秀明の腕を両腕で抑える。銃は床に落とされていた。
「ゴメンね、ご苦労様。」
 襲われていた筈の悠子の手に握られた冷たい感触が、片方の兵士の首筋に当たる。
「な!?」
 単語にすらならない音を発した後、一人倒れこんだ。
「働き過ぎは身体に毒よ。」
 もう一人も、相方が倒れるのを見ている隙に同じく打たれる。
「わぁ、すごーい!映画みたいっ!」
「…これは現実よ。」
 はしゃいでいる香奈子に、やれやれと肩を窄ませる悠子。端から見ていると妙なコンビではある。
 悠子は床に転がっている二丁のM16A2を拾い、一つを俺に手渡した。
「使い方、分かるかな?」
「あ、あぁ…一応…。」
「セフティーだけは注意してね。慣れてないと忘れがちよ。」
「貴女は?」
「素人よ。多分、私も忘れがちだろうから。」
 そして自分が持っていたグロックを香奈子に渡す。
「取敢えず、貴方は軍服に着替えて。柚希菜の所まで案内するわ。」


 それこそまるで、映画のセットの様な所だった。
 野太いケーブルの束、それも数多く。それらが複雑に絡み合いながら中央にひっそりと置かれたチューブに接続されている。冷却の為か、所々には霜さえも付いている。
 そのセンターチューブはやや斜めになっており、その中には何かしらの培養液か何かに浸されている…彼女が居た。
 何だかんだ言いつつ、首筋のUSB端子以外は人そのものだったが、こういう姿を見ると、彼女の言葉が本当だったのだと、今更ながらに実感してしまう。
 また、そんな彼女の姿が、妙艶…いや、陳腐な言い草だが美しくも思えた。
 全裸でその中に居る彼女。
 その綺麗な身体に付けられている数々の端子やらフラットケーブルやらが痛々しくも思える。
「これが現実よ。しかも彼女をこうしたのは私自身。理由は何であれ、許されざる事だわ。一生掛かっても購えない罪ね…」
 俺はそれに何も答えられない。
 この女性がそれをしなければ、柚希菜と俺は出会う事も無かっただろう。俺自身も何事も無く、あの繰り返される毎日を今だに送っているに違いない。今となってはどうでも良い事ではあるが。
 悠子の悩みには俺自身は何も出来ないだろう。優しい言葉を掛けたとしても、一時凌ぎにすらならず、余計に彼女を深みに追い込むだけになるかもしれない。
「…今はここから逃げる事だけだ。他は、生き残ってから考えればいいさ。」
「…そうね。」
 悠子は大きく溜息を吐きながらそう言うと、そのチューブ近くに設置されている端末に向かった。
「とこで…あのオッサンが言ってたパスコードって何だ?俺は知らないが?」
「嘘よ、偽の情報。ああ言っておかなければ、貴方は今この世界には存在しないわ。」
「あぁ…ありがとう、と言うべきかな?」
「礼は要らないわよ。契約の前金とでも思って。」
 そう言って軽く肩を竦めて見せる。その間も、俺の目から見ても驚くべきスピードでキーを打っていく。これが本場のプロの仕事振りらしい。
「香奈子、柚希菜が目覚めて暫くすれば、監視に見付かるわ。緊急システムの方、宜しくね。」
「了解。」
 軽く敬礼の真似をして、香奈子は隣にある集中管理室へと走っていった。
「さて、お目覚めよ…。感動の再会、ね。」
 悠子が言うのと同時に、コポコポと大きな音を立てながら、チューブから培養液が抜かれていく。それが全て無くなると、これもSF映画にある様に大きな空気の音を立てながらガラス面がスライドしていった。こういうのを見ると、映画のセットも結構忠実に作られているのかもしれないと思う。
 ガラス面が開けきると悠子はそれに掛けより、柚希菜に付けられている端子類を手際良く外していく。
「柚希菜、起きて。時間よ…。」
「システムモード変更、通常稼動へ。稼働率27.4%。自己診断プログラムによる結果、異常無し、全て正常値。」
 何時もとは違い、寝ぼけ眼で「ふぁ…おはよう…」と言うのでは無く、無表情で淡々とした言葉が柚希菜の口から並べられる。それが余計に痛々しさに拍車が掛かってしまう。
「コード77469、人格抑制オブジェクトを解除。常駐プログラムから解除せよ。」
「音声認識、梶原悠子開発主任、認識。コード77469確認。承認コードをどうぞ。」
「承認コードを入力せよ。コード:KHI-VSSX-0220289。」
「承認コードを認識:KHI-VSSX-0220289、確認。特殊コードです。マジックワード、どうぞ。」
「“これは世界の選択である”」
「承認。システム、再起動。」
 まるで、それこそSF映画のやり取りである。俺は呆けた顔でそのやり取りを見ているしかなかった。
 指示を受けた柚希菜はもう一度目を瞑って眠りに入る。その横に置いてある端末のモニターが、忙しなく動き始めた。
「馬鹿馬鹿しい、と思った?」
「い、いや…その…」
「いいのよ。でも、一番これが合理的ではあるのよ、無駄も多いけどね。」
 だがそれだけでは無いだろ?とは思ったものの、口には出せずに居た。彼女自身だけでは無く、他のスタッフにもその系が好きな人物が居るに違いない、とは確信出来る。
 そうこうしている内に、今度はゆっくりと柚希菜の目が開かれる。
「ふぁ…お、おはよ…う、ございます…ぅ…」
 悠子に見られたくなかったが、正直な所、目頭が熱い。この挨拶が聞けただけでも、俺の眠気と疲労は殆ど消え去ってしまった。
「おはよう、柚希菜。ナイト様がお見えよ?」
「ふ、ふぇ?…ひ…ひで…あきさん?」
「ああ、迎えに来たよ。」
「う…う…うわぁあああんっ!…って…きゃぁああああ!」
 両手を広げて、多分俺に抱きつこうとした柚希菜だが、その直後一瞬固まった後に、チューブに躓きながらも部屋の端へと走って行ってしまった。
「ゆ、柚希菜?」
 何事かが分からない俺は、柚希菜を受け止める為に踏ん張った足の力のやりどころが無いままに、その場で立ち尽くしてしまう。
「ふえぇええ…酷いよぉ、酷いよぉ!…大事な時まで取っておこうと思ったのにぃ…うわぁああっ!」
 何の事だかサッパリだが、隣に居る悠子は肩を竦めて少し呆れ顔をしていた。
「女心ね。私にも前にはあったけど…。」
 そう遠い目をしながら言われても、俺は困る。
 そこへ作業を終えたらしい加奈子が入ってきた。香奈子は何時の間にか着替えたのか、さっき奪った軍服になっており、自分の服を手に持っていた。
「ほらほら、私達は兎も角、乙女の着替えを見るもんじゃないわよ。…柚希菜ちゃん、多分体格似てるから、サイズ合うと思うけど。私のでゴメンね?」
「あうぅ…有難うございますぅ…」

 柚希菜の着替えも終わり、感動の再会をもう一度やり直し、とまでは流石に時間の余裕も無いらしい。
「うわぁ…可愛いですけど、ちょっとエッチな下着ですねぇ?」
「そうかしら?でも、彼も気に入ると思うわよ?」
 人の背中の方で、そんな気になる会話を交わしている暇があったらやり直しが出来たのでは、とは思ったが後の祭りだ。
 監視システムが気付いたのか、管理室のモニターが、小さな警告音と赤い表示を繰り返している。どうやら感づいた模様だ。
「敵さん達、来るな。」
「じゃ、始めましょう。香奈子?」
「はい。」
 そうすると彼女は、端末棚の端にある大きな赤いボタン、薄いアクリル板にカバーされているいかにも緊急用のそれを破り、強く押し込んだ。
 途端、小さな警報を掻き消す様に大音量の別の警報が鳴り響く。そして数々のモニターの表示が一斉に赤く替わった。
“侵入警報”
「って、態々なんで?」
「防御システムを逆に利用するのよ、ここの設備は結構頑丈でね。特にこういった研究関連設備がある部屋は、外部からの侵入に対して強固に守られているのよ、非戦闘員が集まるからね。だから、逆に作動させてしまえば、ここの警備員や戦闘員だって容易にここへは辿り着けないわ。」
 確かに納得。だが…
「それじゃ、自分達が袋の鼠だ。」
「だから、ここからは時間との勝負。王道中の王道、ダクトまでは閉鎖出来ないからね。向こうがそれに気付くまでに、ダクトを伝って出来るだけ遠くに逃げるのよ。」
「…確かに王道だな。」
 香奈子は用意周到だった。可愛い顔して抜け目が無いのは関心してしまう。あのオッサンの言う通り、ここには優秀な人が多いのかもしれない。
 天井近くにあるダクトを既にこじ開けて、少し心もとない細いロープがくくり付けてあった。床からは椅子を危なっかしく積み上げられているが、彼女はそれで作業したらしい。
「だが、ダクトの配置図とかは?」
「ここに生きた配置図が居るわよ、本領発揮ね、柚希菜。」
「はいっ!」
 確かに心強い。満面の笑みで答える柚希菜に、少しだけ懐かしさを感じてしまう。

 だが、敵もあながちバカでは無い。もっともバカ揃いでここまでのプロジェクトや設備を維持出来る筈が無い。
 柚希菜の失踪と併せて俺の逃走。並びに悠子と香奈子のデスクの上に置いたと言われている「お世話になりました」と書かれたメモのお陰で、敵の目標も直ぐに分かったらしい。
 敵も直ぐにダクトルートの閉鎖と捜索に乗り出した所為で、実際に移動した感覚よりもそんなに遠くへと逃げる事は出来なかった様だ。
 一先ず俺達はダクトルートを外れ、一般通路へと降り立つ。
「さて、現在位置は?」
「えっと…東6のC-37です。地上ルートまで、直線距離であと1.5kmあります。」
 柚希菜の答えにげんなりしてしまう。
「一体この設備は…そんなにバカデカいのか?」
 俺の呆れ顔に同意する様に、溜息混じりで悠子が答えた。
「1辺が2.7km四方の巨大海下施設。本社の巨艦主義の良い例ではあるわね。無論、一般公開はされないけど。」
「で、あと1.5kmあるって事は、まだ半分にも満たないって事か。」
 辺りの安全が確保されてるのか、香奈子は柚希菜と繋げたノート端末を片手にしながら答えてくれる。軍服を着ならがの彼女の真面目な顔は、なかなかに魅力的ではあった。男が靡くのも納得出来る。
「最短ルートは勿論、敵の制圧下です。迂回するしか無いけど、結構な距離ね。水平エレベータも無理だし…構内ビーグル奪うのが先決かしら?」
「構内ビーグル?」
「このバカデカい設備の中を歩く人は居ないわよ。」
「…確かに。で、その場所は?」
「えっと…最短では、同じ東6のC-50に駐車場があります。…けど、一部に敵の勢力が居ますねぇ。」
 どうも柚希菜が答えると緊迫感が薄れる。仕方が無い事だし、もう慣れてしまったが…。
 しかしこうなると、本当にゲームの感覚にならないとダメかもしれない。リセット・セーブ無しの余りにも危険なゲームではあるが。
「覚悟…決めるか…」
「そうね…」
 悠子と俺が同時にM16A2のセーフティを外す。軽快な金属音がして、初弾がセットされた。
 当然、トリガーに掛ける為の指が震える。
…覚悟、か…
 取敢えず、考えるよりは動くしか無い。さっき自分で言った通り、考えるのは後で出来るのだ。今はここから出る事だけをすればいい。
 同じ事を考えているのか、並んで走る悠子の表情も複雑だった。だが、俺とは違い、何かしらの決意の色がその瞳には伺える。何があったのかは知らないが、医務室でのやりとりも含め、彼女と香奈子にはそれなりの覚悟がある様だ。
 背中には、直ぐ後ろを付いてきている香奈子と柚希菜の足音が聞こえる。表情こそは見えないが、二人とも多分険しい表情をしているだろう。
「次の角を右へ。そのまま直進して、3つ目の角を左。更に2つ角を過ぎた辺りに敵影。」
 ナビゲートしてくれる柚希菜の言葉に戦慄が走る。
 いよいよ敵さんとのコンタクトだ。素直に通してくれる筈は無いだろう。
「…フルオートマシンガンだから、ある程度狙えば当たるわ。残弾数だけ気を付けて。」
「分かってる。」
 使わないに越した事は無いが、残弾数は多いに限る。残弾数を増やすには敵から奪うしか無い。敵から奪うには敵を倒さねばならない。単純な事だ。
 単純な事だが…。
「敵影、3!」
 俺は目を瞑った訳じゃない。確かに目は開いていた。だが、頭がそれを見るのを拒んでしまったのかもしれない…
「…この地域は制圧しました…」
 暗く冷たい柚希菜の言葉。
 意識が戻るようにハッとすると、目の前には倒れた人が3人。軍服を着ている3人だ。
 彼らは床に転がり、見慣れぬ大量の血液を床に広げていた。その腕や腹、胸にも数々の穴が空いている。留まる事無くその穴から血液が漏れ出している。
 理不尽な待遇を恨む様な目。それがまるで自分を呪っているかの様に見開かれ、こちらを見ている様だ。
 悠子と俺は二人して同じ様な顔でそれを見ている。
「死んでる…な。」
「そうね…私達が殺した。」
 誰にどっちの弾が当たったかは知らない。多分、二人とも闇雲に撃ったのもあり、どちらの弾も当たっているのかもしれない。狙っていた訳では無いから、余計にその死体は無残に銃弾の穴が所々に空いている。
「…手が汚れたな…」
「…今更ね。彼らを殺さなければ自分達が死ぬわ。ただそれだけ。税金を払えば、法によって守られる…そんなのは日本だけの幻想だわ…。」
「そうかも…しれないな。」
 確かに今更ではある。それに考えても仕方が無い事ばかりだ。彼らにも家族や友人が居て、生活があって…それを自分の身を守る為だけに殺した。だが、だからどうした…そうしなければ立場が逆になるだけ。
 殺人を擁護する訳じゃないが、身を守れなかったのは自分の不運でしか無いだろう。逆に俺が殺されたとしても、そう思うしか無い。
 結局、人も動物も、太古の昔から弱肉強食の自然法には逆らえないのかもしれない。
「…済まないな…」
 その言葉以外に思いつかない。俺は彼らから予備の弾奏を奪いながら、冷えていく体温の体に向かってそう呟く。
「さて、後悔は後でしよう。柚希菜、次は?」
「…私……私……」
 恐ろしさで震え上がってしまっている彼女。だが俺は優しい言葉が浮かばなかった。
「怖いのは我慢しろ。誰もお前の所為とは言わないし、お前の為じゃない。これは俺達の為にやっているだけだ、勘違いするな。」
「…」
 驚いた顔を柚希菜は俺に向けた。二人も同様な顔で俺を見たが、それを敢えて無視する。
「それとも、人を殺めた俺の手は、もう取れないか?」
 意地の悪い質問かもしれない。だがこれは、大事な事だ。柚希菜が首を縦に振ったとしても後戻りは出来ないが、終わった後に別れれば済むだけだ。空しさなんかは俺一人で抱えればいい…。
 柚希菜は少し泣きそうな顔をした後、大きく首を横に振った後、続けて大きく頷いた。
「…どっちなんだ?」
 半分分かっているものの、少し間が抜けてて呆れてしまった。
「あ…ぅぅ…」
 彼女は言葉が浮かばないのか、何度か口をぱくぱくさせた後、俺の服の裾を握ってきた。
「一緒に…行く…。」
 まるで取り残された子供の様だ。涙目の上目使いが余計にそんな印象を与えてくれる。
 俺は手についた血糊を軽く服で拭ってから、彼女の頭をクシャっと握った。
「じゃ、行くか。」
「はいっ!」
 下らない理由、と思われるかもしれないが、俺はこの笑みの為になら、何度でもトリガーを引ける気がした。
 責めるなら責めるがいい。俺は自分と、この人達を守るだけだ。
「…何泣いてるの、香奈子?」
「悠子博士…実は私、こういうのに弱いんです。」
「あら、ちょっと意外ね。」
「そういう博士だって、何を物欲しそうに見てるんですか?」
「浪漫と愛は、お金では手に入らないからね…」


 手の痛みは大きいが、それと比例して大きな音が部屋中に響く。叩かれたテーブルの上の小物は一斉にダンスを踊った。
「素人相手に何をやっておる!?こっちの損害が7とはどういう事だっ!?」
「は…も、申し訳ありません。」
 確かに河田の言う通りであったので、その指揮官らしき男は言葉通り申し訳が無かった。油断していた訳では無いが、素人相手にこれだけの損害が出るとは思わなかったのだ。
「げ、現在、侵入者の…」
「敵で良い。侵入された訳では無い。」
「はっ!現在、敵の進行ルートを逆算して、予想ルートに兵を再配置しております。」
「どうせ逃げるだけだ。それくらい直ぐに分かるだろう?」
「はっ!」
 河田は険しい顔を指揮官から外し、またモニターに向き直る。モニターには彼らの移動ルートと予想範囲内の地上までのルートが示されていた。
「だが…素人相手と言えども、彼らはナンバー021を使っている。戦術指揮のバージョンは、彼女が一番だ。侮ると損害が増える。」
「…」
「……稼動可能な、戦闘タイプが何体かあったな?」
「し、しかし…まだ試験段階ですし、梶原技術主任の稼動承認も未だ提出されて…」
「責任は私が持つ!あの女の承認も既に得られる訳が無いだろう!?」
「は、はっ!了解!」
 半ば賭けではあったが、河田の中には悠子が業と承認書類関係を遅らせているというものがあった。
 彼女の“ある程度”の自由を束縛しなかったのは、書類は遅れていても、スケジュールギリギリではあるが、それでも彼女は開発には間に合わせていた。複雑ではあるが、嬉しい事に結果は何時も上々である。
 逆に考えれば、それらも含めて彼女なりの引き伸ばし方法だったのかもしれない。
「今となっては…か…」
 それにもう少し早く気付いていれば、とは思うもののそれも今更だ。
「まぁ良い。データさえ残っていれば、他の技術者でもフォロー出来る範囲だ。最期の仕事として、その身を持って実地試験に参加して貰うしかない。」
 そう独りごちている河田に、指揮官がキーボードとマイクを差し出す。
「ベッドルームと接続しました。起動コードをどうぞ。」
「“プロジェクト総指揮、河田重成。コード:KHI00022。起動コード、総員:BTL-CC05。マジックワード、クールよりホット”!」


 戦争と言うものは体験した事が無い。体験する事も無いだろう、とは思ってみたものの、これもある意味小さくはあるが戦争かもしれない。
 トリガーを引くと敵が倒れる。敵も黙っている訳で無く、こちらを狙ってトリガーを引いている。当然、弾は一直線上にあるものを狙ってくる。
 その直線上に俺が居れば、床に崩れるのは俺の方だろう。だが幸いなのか、これ以上無いくらい人生の幸運を使い果たしている最中なのか、弾が身体を掠めるだけで済んでいる。
 掠めるだけ、とは言っても無傷では無い。やはりそれなりの威力があるだけに、大きな傷は、皮膚だけでなく少しの肉も抉り取られている様だ。傷口がヤケに熱い。
 そんな傷を増やさない様に俺は必死にトリガーを引く。そしてまた、敵が倒れる。
 罪悪感などはもう薄れてしまった。逆に敵が倒れなければ不安になる。
 戦争と言うものはこういうものなのだろうか…慣れてしまうのが恐い。だが慣れなければ生き残れない。
 そんな人間性を否定しなければ、生き残れない。戦争とは理不尽なものだ…。
「制圧完了!…その部屋が駐車場です。…秀明さん、血が…」
「掠り傷だ、気にするな…」
 正直、強がりである。結構痛い。しかも歩くたびに疼く様に身体中に響いてきやがる。些細な事かもしれないし、何の足しにもならないかもしれないが、余計な心配をさせている暇は無い。
 香奈子の作業でロックを外すと、中にはそれなりに広いスペースと、そこに置かれた構内ビーグルとやらが置かれている。小さなジープの様なものだ。
「構内用だからスピードは出ないわ。バッテリー駆動式で、最大時速は25km/h。まぁ、歩くよりは早いわ、自転車並だけどね。」
 悠子が運転席に座り、後の二人は後部座席に。流れ弾が当たらない様に姿勢を低くさせた。で、俺が当然射撃手となるらしい。
「やはり戦闘は古来から男性の仕事みたいね、そもそも体格がそうなってるし。私より、貴方の方が命中率が高いそうよ。」
 何時の間にやら、戦況分析されていたらしい。香奈子の話では、そういう情報が戦術立案には非常に重要になるそうだ。
 悠子は電源を入れて動作チェックする。これまた運が良い事に、バッテリーはチャージされていた。
「さて、ルートは?」
「ちょっと待って下さい…状況が変わりました。敵は脱出ルートの全てを閉鎖。新規兵力として……大変!MA型が投入されてます!」
「何ですってぇ!」
 悠子と香奈子の声がハモった。
「MA−A型が4機、MA−S型が2機、ルートを逆進行してこちらに向かってきます!」
「ちょっと待て、MA型って何だ!?」
「MA型は地上戦闘用のDorisシステムよ。Dorisの資料は、一部だけど見てるわね?」
「あ、あぁ、まぁ…あのメールはあんたか…」
「今頃気付かないでよ…。その中でもMA−A型は通常陸戦用、MA−S型は特殊陸戦用よ。S型は特に暗殺にも使える様に特殊工作や狙撃も出来る仕様になってるわ。」
「…彼らも、元々は一般人?」
「いいえ、軍人よ。訓練中に事故とかで危篤になった兵士ね…。」
「じゃぁ、プロ中のプロって事…だよな?」
「そういう事になるわね。」
 げんなり、である。これまで倒してこれたのも、相手が普通の人間で、多分こちらが素人だと甘く見ていた所為と幸運のお陰でここまで来れた。だが、半分機械相手では容赦は無いだろう。幸運だけでは乗り切るのは難しいだろう。
「けど、MA型はまだ試験段階。稼動はすれど、仕様の6割までの実力が出るかどうか…バグとかもまだあるだろうし…」
 と香奈子が言ったとしても、余り慰めには成らない。彼らに比べたら俺達の兵力なんぞは、コンマ以下の少数点世界だろう。
「え、えっと…彼我戦力比、3417:1…です…。」
 柚希菜のダメ押しで決まりだ。今度こそ、袋の鼠かもしれない。
「か、数の問題じゃないわよ、戦術はっ!?」
「いや、数の問題だよ。地の利は同等、若しくは向こうが若干有利。こちらは別に特殊な兵器を持っている訳でも無い。移動力はせいぜいこのビーグルくらいで、敵さんだって持ってる。それを全て外したとしても、基本的に戦闘は数だよ。素人じゃないんだから、それくらいは知ってるでしょうに?」
「…分かってるわよ…」
 言ってみただけ、といいた気に悠子は不貞腐れた。別に俺もここまで言わなくても良かったのだが、興奮してしまったのだろう。
「まぁ、兎に角…敵さんはマニュアル通りの動きはすれど、って奴だ。少々荒っぽいが、戦術の枠に外れた事をする奇策を弄するか、トラップ仕掛けるか…だな。」
「トラップは難しいわね。機材と時間が必要よ?」
 意外にも悠子よりも落ち着いた香奈子が答える。
「トラップとまでは行かないけど、足止めくらいにはなるかも…でも、ある程度篭城出来る回線が存在する部屋が必要ね。」
「部屋は不味い。出入り口を抑えられたらお終いだ。」
「あのぉ〜…」
「じゃぁ、出入り口が複数存在している場所なら?」
「そうだな…だが、その場所を占拠した後に、1方を脱出用、他2方にトラップを仕掛けるまでの時間は?」
「ちょっと待って…10分あれば。」
「厳しいな…。途中で役に立ちそうな物が置いてある部屋とか無いかな?」
「あのですねぇ〜…」
「そうね…流石に武器庫とかは無いわ。後は…備品室があるけど…。」
「薬剤とか置いてある場所は無いか?」
「流石にそれは無いわね…研究に使う薬品はそれぞれの研究室にあるけど、出入り口が一つしか無いから危険よ。」
「ん〜、参ったな…だが、他に方法は無いか…」
「あのぉっ!!」
「何だ!?」「何よっ!?」
「うぁっ!?」
 香奈子と俺が同時に大きな声を出した所為か、少し柚希菜は涙ぐんで縮こまってしまった。
「あー…すまん、何だ?」
 恐る恐るといった感じで、柚希菜は香奈子と俺の顔を交互に見ながら小さい声を出した。
「いえ、あの…戦術の基本なんですが…それには条件があるんですけど…悠子博士?」
「何かしら?」
「MA型の情報伝達経路って仕上がってるのですか?」
「いいえ。まだ試験段階で独自回線は持ち得て無いわ。センターのサーバを無線経由で参照してる筈よ。」
「なら、指揮系統もサーバが?」
「そうなるわね…成る程。そういう事ね。」
「はい。頭叩けば、と言うやつです。これが最善かと…」
 確かに柚希菜の言には一理あるどころか、その通り基本中の基本でもあった。余りの彼我戦力比に失念してしまっていた。
「次いでにデータも全て消去して、プロジェクトをご破算、か…一気に最終目的って訳だ。」
 流石に向こうもプロジェクトの続行が出来なければ、それ以上戦闘をするのは私怨以外の何ものでも無くなるだろうし、何より損害が増えるばかりで利益が無い。
 本来であれば、プロジェクトをご破算にするのは、何も敵さんの懐の中でやるより安全な場所でしようかとも思ったが、逆に考えれば、これも一つのチャンスだ。面倒なプログラムを組むよりも物理的に破壊した方が確かに手っ取り早い。
「いいわね、それ。フフフ…私、乗ったわ。」
 運転席でステアリングに突っ伏していた悠子は、むっくりと起き上がると同時に、少し不気味な笑いをしている。
「…何か?」
「フフフ…一度やってみたかったのよ。科学者としての浪漫ね、貴方には分からないかもしれないけど。」
「…だから、何が?」
「自分で構築したシステムを全て破壊する…これこそ科学者に与えられた特権である浪漫ね。ウフ…精々派手に壊してあげましょう!」
 下手をしなくても、切羽詰った人の人格が変わってしまった、と思われても仕方が無いだろう。それか元々はこういう性格の持ち主か。
 だが、不思議な事に、香奈子も腕を組みながら大きく頷いている。科学者の浪漫、と言うのはあながち間違って無い様だ。
「浪漫、ねぇ…まぁやる事は一緒だ。因みに、聞いていいかい?」
「何かしら?」
「自爆装置って無いのか?」
「…考えつかなかったわ…。作っておけばよかった…」
 悠子は心底残念そうである。








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この物語はフィクションです。
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それらを含めた全ては、実存のものとは一切関係有りません。
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