「我々の突然の非礼な振る舞いを、まずは最初にお詫びさせて頂く」
 

 
丁寧なのか慇懃無礼なのか、どうにも見当付けがたい日本語だった。
 

 
「先程までの経過と、この書類を御覧になればお分かりになると考えますが、我々はネルフ及び人類補完委員会に対するテロ行為を防ぐ事を目的として派遣されました」
 

 
見掛けは穏和そうな銀髪の紳士だが、目の光は冷静な軍人そのもので、静かに達観してるが故に輝きを抑えているようだった。
 

 
「間もなく…予定では20分後に碇総司令からの通信が届きます」
 

 
名前と経歴だけは知っていた。ドイツ軍人の間では今でも英雄扱いだし、奇跡と呼ばれた戦術や堅実な兵站確保は、表向き軍事組織ではないネルフの訓練にさえも影響を与えていた。
 

 
「…ところで、私の日本語は問題ありませんか?」
 
「と言いますと」
 
「いや、正直申しまして実用で喋るのは初めてなもので」
 
「特に問題はありません。必要ならば英語でもドイツ語でも構いません。私も葛城一尉も問題なく対応できますので」
 
「いやいや、これから話す内容はそちらにいらっしゃる皆様方にもご協力願いたい事が多分に含まれておりますので…」
 

 
正直、日本語で話す光景など想像も出来なかったし、それ以前に現役復帰していたとは思っても見なかった。
 

 
フランツ・バウアー
 

 
第二次中東内戦鎮圧時に多大な戦績を上げ、かつては『皇帝』とまで呼ばれた男だった。
 

 


 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

  

2015 tokyo-3

―― the dark children ――

mission 5 「Medugorje」

 

――――――――――――――――――――――――――――――

  

 


 

「あの、一つ聞いてもよろしいでしょうか」
 
 
 
照明を落としたブリーフィングルーム。
 
通常なら作戦展開を説明する際に使用される、各種プロジェクタ完備の施設だったが、全体の形は小さめの映画館か、大学の教室によく似ている。
 
画面と演壇の前に、傾斜を付けた床とそこに居並ぶ椅子と机のセットがある、アレだ。
 
その壇上でスポットライトに照らされたバウアーとその一党を、幹部職員とオペレーター達が闇の中から不安そうに見ている。
 
さしあたって様子を伺う質問役として、最前列にいたマヤが貧乏くじを引いたらしい。
 
私とリツコは、ちょうど御来賓の席に当たる脇の席で、全体の遣り取りを見通す位置にいた。

 
 
「無論、お答えできる限りなら何なりと」飄々と微笑んで答える銀髪のドイツ人は、老練な手品師のようだった。
 
「その、私達は何の為にここにいるのでしょうか?」
 
「そうですな…ここにいる皆様方の協力をもって我々が任務を果たさなければ、ネルフ自体の存続が危うい…と言えば納得して頂けますかな」
 
 
 
ついさっき見た映像がフラッシュバックしたのか、マヤは少し怯えた様子で引き下がった。
 
向こう側の代表はこのバウアーと、左手と額に包帯を巻いた『タカシ』、あれから殆ど口を開かなくなった『ニキータ』と『テレーズ』。
 
 
 
そして更に、飛び入りの形でもう一人新たな侵入者が加わっていた。
 
 
 
あの爆発の直後、隊員達が司令室の穴を閉じる寸前に、この少女が滑り込むように入ってきた。
 
どうやら予定よりかなり遅れた合流だったらしく、仲間達から盛大なブーイングを浴びせられていたが、負けじと喧嘩腰の罵声でやり返していた。
 
軽快で、飛ぶような足取りで階段を駆け上がり、平然とバウアーに敬礼して見せた、軍隊組織とはかけ離れた余裕ぶり。
 
しかし目の前に座っているその本人は、隣にいるニキータと比べてもどことなく落ち着かない様子で、小刻みに膝が震えているようにも見えた。
 
ニキータと同じ目出し帽から覗いている瞳は、絶えず辺りを見回して観察を繰り返している。
 
それが油断無く状況を確認している動作なのか、それとも単に視点が定まらないだけなのかは分からなかった。
 
 
 
「では、予定通りこちらは役者が揃いましたので、赤城博士、始めてよろしいですかな?」

「こちらも結構です」
 
 
 
聞くまでもない事を白々しく言う。
 
それにしても、リツコはどこまで彼等と関わり、知っているのか。
 
 

「まず、我々の組織としての任務もさることながら、ここにいる三名は殊に重要な任務を課せられている事を理解して頂きたい」
 
 
 
言葉と同時に、少年少女が姿勢良く起立する。
 
彼らに限らず、壇上の全員が特殊部隊にありがちな黒ベレー帽を小脇に抱えて持っていた。

その肩口と帽子には、国連軍の月桂樹の上に、何故か湾曲刀をあしらった記章が付いている。
 
覚えている限りでは、どこの部隊にもそんな奇妙な記章は使っていなかった。
 
 
 
「その為には、ここにいる皆様の協力が是非とも必要になるのですが…まあ、まず見て貰った方が分かり易いでしょう」
 
 
  
誇らしげな声に合わせて、二人の少女が目出し帽を脱ぐ。
 
彼等は本気で驚かすつもりだったのかもしれないが、中身に関しては寸分違わず予想通りだったので、むしろ拍子抜けしてしまった。
 
その内の一人は私とリツコ以外には面識のない人間だったが、三人中二人まで認識できた時点でバウアーの意図する所は理解できただろう。
 
 
 
「体格、声帯、外貌、全てを調整し、個体の戦闘能力も現段階において最大限の保証を置ける、完璧なダミーです」
 
 
 
完璧、と豪語するだけの事はあった。
 
日々共に暮らしている私は微妙な雰囲気のズレを感じるが、他の者にはまず判別できない程の『偽造度』と言える。
 
碇シンジ、綾波レイ、そしてまだここには来ていない、惣流・アスカ・ラングレー。
 
三人の姿を模した、中身の全く違う人間がここにいる。
 
 
 
「牧野タカシ。国連軍極東方面第二臨時特務師団、強羅防衛第一梯団所属、中尉」
 
「レオナ・クルーマン。同じく少尉」
 
「私はニキータ・シャフチェンコ。同じく中尉です。先程は驚かせて申し訳ありませんでした。伊吹マヤ二尉」
 
 
 
アスカの顔を模した金髪の『ニキータ』が、笑って敬礼してみせる。
 
本人を知る人間から見れば、どうにも不似合いな、繊細で優しげな仕草だった。
 
無論、それを言えばシンジ君役の『タカシ』など外見以外は全く正反対の人間にしか思えないが、最低限黙ってさえいれば、確かに疑念は抱かれないように見える。
 
問題は、最後に残った三人目の少女だった。
 
 
 
「ま、こんな余分な挨拶はいーからさ、さっさと話進めようよ。もう顔見ればアタシ達が何すんのかはすぐに分かるでしょ?つーかそれも分からない奴には最初から説明したって無駄ってゆーか?」
 
 
 
綾波レイは、私の知る限りでは他人との境界を決して踏み越えない、極端に内向的な人間だった。
 
ついこの前、些細だけど個人的には影響の大きかった騒動を起こしたシンジ君は、むしろその分、人との繋がりを強く求めている部分がある。
 
それに比べてレイは異常な程に他人の干渉を嫌い、当然干渉してくる事など考えられもしない存在だ。
 
 
 
だが、この銀髪の少女は…余りに違いすぎた。
 
 
 
「大体、自分の状況も分かっていない間抜けに何言っても無駄でしょ?いいから金だけ払って貰って、後はこっちに任せればいーのよ」
 
 
 
機関銃のようなドイツ語を一遍に浴びせられたが、ろくな内容でない事くらいは皆にも感じ取れたようだった。
 
リツコは眉一つも動かさずに、壇上の機関銃娘を見つめている。
 
 
 
「いい加減にしな、レオナ。お客様を粗末にしてどうするんだい」
 
 
 
一人、目出し帽のままでいるテレーズが、異常にドスの効いた声で『レオナ』を恫喝した。
 
迫力のせいもあるだろうが、彼女はこの大年増に対して顔が上がらないらしく、あれだけ激しかった罵声がピタリと止んだ。
 
バウアーが一つ咳払いをして、今度はドイツ訛の混じった英語で高らかに宣言した。
 
 
 
「我々、国連軍極東方面第二臨時特務師団は、国連本部並びに人類補完委員会の正式な依頼を受け、防衛任務に付く旨、ここに通達します」
 
 
 
そうして件の三人は、唐突に踵を合わせて敬礼し、いかにも大事そうに黒ベレー帽を被って見せた。
 
漆黒の軍服と帽子、そして記章に身を包んだ子供達は、顔こそチルドレンと同じだったが、今や規律と上下関係の泥沼に満ちた別世界の住人だった。
 
 
 
「この三名は、薬物や洗脳による意識改造は行っていない為、あくまで個体の性格は本体に依存しますが、作戦時には完璧な行動を取れるよう訓練を積んであります」
 
「それにしては、少しベースの自我が強すぎるように見受けられますが」
 
「前提としては、あくまでチルドレン関係者と必要最小限以上に交わらないレベルでの活動を想定してますので…」
  
「fuck off 単にあんたらがマヌケだから我慢できなかっただけよ」
 
 
 
リツコの難癖に、レオナは流暢な英語で言い返した。
 
ニキータの日本語も考えれば、この子供達は年齢の割に言語能力が非常に高い。才能だけで語れる次元ではないのかもしれないが。
 
 

「最低限の実働レベルをこの場で実証して貰わなければ、正式に契約を交わす事はできません」

「実証、と言いますと?」
 
「何でも構いません。全員の日本語での会話能力と、少なくとも人間の可聴領域において遜色のない声が無ければ…」
 
 
 
「勘違いしないで。ただあなたが理解していないから我慢できなかっただけ」
 
 
 
一瞬、皆が呆気に取られてレオナを見つめた。
 
内容はさっきとほぼ同じ憎まれ口だったが、その声は紛れもない、完全に綾波レイそのものだった。
 
 
 
「私達の任務は、本物の身代わりになって敵勢力を誘導、壊滅させる事…」
 
「なんたって、これからそこら中のテロ組織やらコマンドが、ここ目指して山ほど来るんだから」
 
「まだ、詳しい正体は分からないけど…危ないから僕達じゃないと相手はできないよ」
 
 
 
三人は背筋を伸ばして後ろ手を組み、それこそ台詞合わせか校歌詠唱のように淡々と言葉を垂れ流していく。
 
声色も口調も本物と遜色なく、ただ英会話の例文のような説明的な内容が極めて不自然で、それが自ずと作為的に感じられた。
 
子供ショーで司会のお姉さんを助ける為にヒーローの名前を呼べと言われる、あんな感覚だ。
 
 
 
「人の意志は脆いけど、絆があれば生きていけるから…」
 
「じゃあ何?他人と繋がっていれば考えなくてもいいっての?バッカじゃない!?」
 
「僕は…そういうのよく分からないよ」
 
「アンタはそれだから…」
 
「結構。実力の程は良く分かりました」
 
 
 
さすがに猿芝居に耐えられなくなったのか、リツコの方が先に音をあげた。
 
実際にこの三名が一堂に会した事はないから断定は難しいが、まず間違いなくこんな雰囲気になるのは想像に難くない。
 
それにしても、シンジ君達の性格指向性など、一体どこで調べたのか。そっちの方が余程危険に思えた。
 
 
 
「…マヤ」
 
「はい、何か」
 
「気持ちは分かるけど、いい加減に笑うのは止めなさい」
 
「え?私、笑ってなんてないですけど…」
 
 
 
確かに、さっきから堪えるような女の笑い声が聞こえてくる。それもごく近く、最前列の席から演壇までの範囲からだった。
 
だから賓客よろしく横から見ている私やリツコ自身でないのなら、残るのはマヤしかいないと思ったのだろう。
 
だが、違った。すぐ近くに候補はもう二人いて、犯人はその内の一人だった。
 
 
 
「あははははははははははは、ダメ!私、耐えらんない!コイツマジ電波入っているよー!!」
 
 
 
何と、レイの姿をしたレオナが、自分自身の演技に抱腹絶倒、息も出来ないくらいに笑い転げていた。
 
 
  
「『絆があれば生きていけるから』ってさーマジかよーちょっともー我慢できないってマジであははははは…」
 
 
 
驚くべきは、そういう内容をしっかりレイの声色に乗せた日本語で話している事だったが、いくらなんでも自分の言葉に笑いのツボを押さえられるのは異常だった。
 
洗脳も薬物もないと言うのならば、単に元から異常だったのではないか。そんな連想も否定できなかった。
 
 
 
「偽装の実力は認めますが、任務遂行に問題が無いという保証は?」
 
「…まあ、こんな彼女でも実戦となれば3日は平気でバンカーに籠もれます。安全な銃後にいる方がむしろ不安定になる傾向がありまして…」
 
「分かりました。どうせこれ以上の品質を持つ代替は用意できないでしょうし」
 
「残念ながら」
 
 
 
この辺りで、場の空気を引き戻す必要があった。
 
でなければ肝心のポイントが聞き出せないまま終わってしまいかねない。
 
ディベートの試験よろしく、なるべく相手の隙を突けるタイミングで立ち上がり、バウアー個人ではなく部屋全体に向けて声を出した。
 
 
 
「で、そろそろ本題に入らせて貰いたいんだけど」
 
「と、申しますと?」
 
「何の為にこんな面倒なカカシが必要になるのか、そこら辺を聞かせて欲しいわね」
 
「あの、それは、さっきみたいな破壊活動からシンジ君達を保護する為じゃないんですか?」
 
「何故、チルドレンに限ってこれほど高レベルな人材を配置するのか、その理由が見えないわ」
 
 
 
そこで好々爺を装っていたバウアーの笑顔が、底知れない不敵な笑みにすり替わった。
 
ようやく仕掛けた餌に食いついたとでも言いたげな、一種同族のよしみにも似た口元の歪み。
 
単一光源の照明に照らされて、アメコミかホラーのような深い陰影が気色悪い。
 
 
 
嫌な奴だ。予想以上に。
 
 
 
「無論、その点に関して詳しい説明を行う予定でした。もっとも、この件に関しては職員の方々を参加させるか否か、判断した上で聞いて頂きたいのですが…」
 
「それは…どういう意味かしら」
 
「言葉通りの意味です、作戦司令閣下。まずは後ろの方々の賛否を確認して頂きたい」
 
 
 
無意味な綱引きは避けたかったので、手っ取り早くその場の判断をマヤに一任する事にした。
 
手近にいて信用できる人間だった事もあるが、仮にこれからろくでもない現実を知らされるのならば、恐らく彼女が一番被害を受けるというのが一番の理由だった。
 
事の推移を察したマヤは、自分が職員達の代表として答える事に遠慮しながらも、yesの代わりに後ろの面子に振り向いて無言の確認を行った。
 
 
 
誰も、反対の素振りは見せなかった。
 
 
 
「結構。ではシャフチェンコ、資料を開いてくれないか」
 
「はい」
 
 
 
後ろ髪をポニーテールに束ねた上に黒ベレーをかぶったニキータが、プロジェクタにリンクしたノートPCを軽やかに叩いていく。
 
その表情は至って静かで、先程までの馬鹿げた寸劇の面影は全く残っていない。
 
良く見ると、髪の毛はアスカとは微妙に異なる本物のブロンドで、画面を見つめている姿などむしろリツコに似ている。
 
そのくせ、微妙にキータッチが滑らかに過ぎて、冷酷な専門職の香りを窺わせないのも奇妙だった。
 
スーツを着て秘書として机に座っていても通じるかも知れない。そういう雰囲気だ。
 
きっと、これがニキータ・シャフチェンコという、封じられた本来の自我の漏れ出た一面という事なのだろう。
 
 
 
「確認しますが、本当に御覧になるのですね?」
 
「あの、それってどういう…」
 
 
 
今更嫌な予感に苛まれたらしいマヤの言葉に、彼女はただ微笑むだけだった。
 
見ないなら話せない、そんなに軽薄な情報ではない。そんな意思表示なのかもしれない。
 
だが、ニキータはほんの少しだけ考えた後に、
 
 
 
「えーとですね…じゃあもう面倒なんで、どうぞ」
 
 
 
突き放すようにプロジェクタに映像を解放した。
 
それは湖の岸辺に漂着したらしい、女の腐乱死体だった。
 
 
 
「イヤッ!!」
 
 
 
顔が水を吸って膨れあがり、しかも半分骨が見えている状態で、一見してそれが女と判別できるのは、衣服が全て剥ぎ取られていたからだった。
 
半身が水に浸かっているが、明らかに五体満足と言うには身体の部品が不足しており、微かに残った顔の表情にもそれとなく苦悶の痕が見て取れた。
 
率直に言って、見て気分のいい映像ではなかった。マヤに見せるのを躊躇ったのもうなずける。
 
だが、目を逸らせる事のできない事実もあった。
 
 
 
「この、死体がかぶっている帽子は?」
 
「何故か、それだけ水にも濡れず綺麗なままで置かれていました」
 
 
 
この組織に所属する人間なら誰でも分かる、職員の証たるベージュのベレー帽。
 
ニキータの言う通り、死体の状況と比較して余りに差のある保存状態だった。
 
考えられる状況は、それだけわざわざ別に用意したのか、あるいは剥ぎ取った後に保存して置いたのか。
 
どちらにせよ意味するところは明確な「敵意」だ。
 
 
 
「発見された場所は、第二芦ノ湖の湖畔。情報は報道に流される前に保安諜報部が握りつぶしました」
 
「だ、誰なんですか?これ、ウチの職員なんでしょ?」
 
「所属する部門はあなた方よりかなり下で、重要な情報も所持してはおりませんでした。しかし、問題はこの死体を作った主の目的ですな」
 
 
 
今度はバウアーが、何やら汚らしい紙切れを無造作にプロジェクタ上に広げた。
 
どうやら新聞かチラシらしかったが、書いてある文字はミミズがのたくったようで、余り見覚えがない。
 
しかし、その中央に印刷されている写真は誰にでも分かった。
 
さっきの映像と全く同じ物が、あたかも勝利の証と言わんばかりの大文字文章の元に掲載されていたのだ。
 
即ち、こちら側の不幸がこの新聞上では一面扱いという事になる。
 
全員、ただ絶句するだけだった。
 
 
 
「まあ、お解りとは思いますが、この新聞はある組織の中で刊行されている物です…戦意高揚と情報伝達を目的とした機関誌として」
 
「どうしてこんな酷い事を!」
 
 
 
潔癖性のマヤは堪らず叫ぶが、理由はごく簡単に想像できた。
 
 
 
「つまり、こんなものを必要とする組織が、どこかに存在するという事ですか」
 
「どこかって、お前、ここで起きた事件を載せているんだから…それって…」
 
「もうすぐ近くに潜伏しているって事かよ」
 
 
 
段々事態を飲み込み始めた者達が、顔を青くして慌て出した。
 
先程の騒動はあくまでネルフという組織に対するテロとも受け取れたが、これは完全に個人を目標とした『犯行』だった。
 
気が付いたら、隣の仲間がいなくなり、こういう災難に巻き込まれている。
 
そんな現実がもうすぐ側まで近づいているという事だ。
 
 
 
「アンタ、この話知ってたの?」
 
「いいえ。初めてよ」
 
「その割にこの臨時師団とやらの後押しをしているのはどういう訳よ」
 
「後押ししているのは私じゃないわ。碇総司令と補完委員会とその他諸々という所。国内の企業も幾つか絡んでいるかしら」
 
「そこまで大きい話なら…まさか、戦自や日本政府にも話が通っているって事?」
 
「分かっているのなら、大人しく彼らの言う事に従った方が良いわ。私たちは使徒を相手にするので手一杯なんだから」
 
 
 
プロジェクタの光が消え、代わりに部屋全体の照明が回復する。
 
それで悪夢のような映像は消えたが、相変わらず目に見えない恐怖は職員達の意識を拘束し続けていた。
 
と言うより、バウアー一党がそうなるように操作したと見るのが正しいのかもしれない。
 
一々勿体ぶった上であんな物を見せられては、覚悟をしていても逆効果というものだ。
 
 
 
「現実の問題として、この第三東京市には、既に多数の妨害工作員が潜伏しています。それも、単一組織ではなく、様々な意図を持った複数の組織が入り乱れている可能性が高いです」
 
「そんな、私達は人類全体の為に死ぬ気で頑張っているのに!!」
 
「どんな理由で俺達を妨害しようって言うんだ!?」
 
「理由が何だろうと、これは完全なテロじゃないか!国連軍は、日本政府は何をしているんだ!」
 
 
 
逼迫した現実を受け入れられず、混乱した職員達は理屈を吐き出すばかりだった。
 
無理もない。今まで私達は、勝ち目が全くない怪物相手に死を覚悟して戦ってきて、それが正しく世界の為、人類の為と信じていたのだから。
 
それこそ、反抗する勢力など想定どころか夢にも思わなかったに違いない。
 
さっきの襲撃を受けるまで、私自身もそうだった。
 
でも、
 
  
 
「地球上の正義は、決して一つに統一できるものではない!!」
 
 
 
突然のバウアーの大喝に、乱れていた部屋の空気が完全に平定されてしまった。
 
ドイツ訛の簡単な英語は、それ故に意味を読みとるには好都合であり、かつ低音が太く響くせいか、無視する事など許さない野太い力を持っていた。
 
 
 
「彼等は自身で作り上げた大儀と理屈に従って牙を剥いている。言葉だけで分かり合う事など不可能だ。彼等にとって『使徒』は神の使いであり、我々こそ打倒すべき異教徒そのものにしか見えないのだ」
 
 
  
つまりは、そういう事なのだろう。
 
多少の誇張はあるかもしれないけど、間違ってはいない筈だ。
 
人類を一度滅ぼして、新たな世界を作るべきという月並みな発想に基づく組織がいたとして、
 
それを神の使いがやってくれるならば、これに勝る味方はいない。
 
 
 
「我々は、人類の為に戦うネルフの皆様を、これらの脅威から保護する為にやって来ました。どうか、ご理解と協力の程をよろしくお願い致します」
 
 
 
誰が文案を書いたのか知らないが、恫喝と礼儀を順番に並べて見せる所と言い、妙に日本的で手慣れたプレゼンだった。
 
効果は覿面だったらしく、野合の衆と化していた職員達は一編に大人しくなってしまった。
 
 
 
「…質問を続けてよろしいでしょうか」
 
 
 
完全に沈黙してしまった皆を前に、これ以上黙っている訳にもいかなかった。
 
必要な情報を得るには、こちらから挑むしかない。
 
 
 
「無論です。ですが、あくまで答えられる範囲は限られていますので」
 
 
 
現状のままで押し切られれば、得体の知れない集団を強権力を付与したままで認めてしまう事になる。
 
上からの押し付けで常駐は認めるとしても、せめて正体を明らかにする必要はあった。
 
リツコが「向こう側」に準じているのならば、それをするのは私の仕事だ。
 
 
 
「その三名がチルドレンの影武者として機能するとして、敵勢力が彼等を目標としている確証は?」
 
「現在、ネルフ及び人類補完委員会を敵視し、破壊工作を図る組織は、最優先目標として正式にチルドレンとして登録されている三人の少年少女を挙げていますが…この点に関しては、既に可能性の段階を過ぎています。彼等が真っ先にチルドレンの資料を入手した形跡は確認済みですので」
 
「では、身代わりを立てるよりも、むしろ警備や監視を強化する方が先ではないですか?」
 
「そうできない環境を揃えたのはあなた方だと我々は認識していますが」
 
「どういう意味でしょうか」
 
「本来ならば、本部内に収容したまま外に出さずにおけば、何らの危険も無くチルドレンの防衛が実行できた筈です。それを敢えて通常の市民とほぼ同じ環境で生活させている事実は、危険回避よりもチルドレンの自由意志を重視している証拠と言えますな」
 
「…それは…シンジ君はあくまで一介の中学生であって…」
 
「無論、本人の意思は重要な要素であり、我々はあなた方の方針に注文を付ける気はありません。だからこそ、我々の仕事も発生する訳でありまして」
 
「…」
 
「チルドレンを通常の学生として生活させるのならば、是非とも我々の存在を受容して頂きたい。それがこの場にいる全員だけでなく、チルドレン自身の為にもなるのですからな」
 
 
 
釈然としない点も残ったが、この件に関しては概ね向こう側の言い分を飲まざるを得なかった。
 
仮に、テロの存在が全くの偽りだとしても、国家や企業体のレベルで同様のトラブルが発生する確率は高い。
 
それならばこういう対策はあるに越した事はないだろう。それは否定できない。
 
一番の問題は、それが得体の知れない武装集団によって統括される事だ。
 
主導権を握るのは我々、最低でもネルフ保安諜報部でなければならない。
 
そうでなければ、こちらのあずかり知らない所でどんな真似をされるか知れたものではないからだ。
 
 
 
「師団と言いましたが、具体的にはどの程度の戦力が導入されるのか明らかにして下さい」
 
「詳細は申し上げられませんが、人員としては現在の暫定段階としての152名から増員を図り、最終的に16000から20000までの規模を予定してます」
 
「人員の補充はどのような形で行われるのでしょうか」
 
「その点に関しても詳細は申し上げられませんが、我々と同じ立場の人間を厳重な調査を敢行した上で、導入する予定です」
 
 
 
つまり、この予定通りに進めば、タカシのような武力行使に抵抗のない『子供達』が、警備部人員の数倍まで膨れあがるという事になる。
 
 
 
「戦力としての装備は?」
 
「強襲迎撃部隊として先程御覧になったHIGH-MACSを中心に各種武装車両と、人的脅威の排除を目的とした対人装備を多数。詳細に関しては未定の分も含めて申し上げられません」
 
「それだけのものを一体何処に収容する予定なのですか?」
 
「我々は現在、ジオフロント建設工事の際に使用された縦坑やエレベーター、及び廃棄されたEVA用のカタパルトを流用しています…」
 
 
 
バウアーがニキータに頷き、彼女の細い指がキーの上を駆け回る。
 
演壇と席との狭間に設置されたCG投影機上に、ジオフロントとその周囲の工事坑を立体俯瞰する3Dモデルが現れた。
 
恐らくこれも、既存のジオフロント設計用俯瞰モデルを流用したのだろう。
 
 
 
「御覧のように、現在、ジオフロント外周を100m間隔で包囲する縦坑群と、それらを接続する円坑道が設置されています」
 
 
 
ジオフロントは、ちょうど地面に埋めた壺のような形で、地上に接する「口」に当たる部分から、最大半径約3kmに至る「胴」の部分を経て、最終的に底面で収束する事で地下空間を形成している。
 
本来、私達が知っているジオフロント全景は、その中にある施設に重点が置かれているばかりで、外周の地中など気に留めた事も無かった。
 
しかしこのモデルで見る限り、ジオフロントの壺は更に大きな桶状の「網」によって包まれている。
 
網の筋一つ一つは全て坑道で、網自体も大小の二重、ちょうどサイズの異なる洗面器を重ねた中に壺を据えた形になっていた。
 
だが、このモデルが正しい物なら、縮尺から考えても半径5km近くある円坑道がジオフロント周辺を包囲している事になる。
 
 
 
「これらはジオフロントの外殻を固定化する為に、地盤硬化用の薬液注入と、内壁用セグメントの挿入を行った施設の残りです。第三新東京市が稼働した時点でこれらは放棄されましたが、電気、水道、空調を初めとする各施設は未だに生きています」
 
 
 
立体モデルが局部拡大され、円坑道と縦坑の交差する部分が大写しになる。
 
縦坑にはトレーラーも載りそうなエレベーター、円坑道には恐らく全週をカバーしているであろう軌道モノレールが敷いてある。
 
これこそ、彼等の奇襲の起点となった廃棄済みのカタパルトに違いなかった。
 
 
 
「防衛の視点からすれば、これらの空間や施設が重大な空白となり得るのは、我々自身が実証して見せた通りです」
 
「だからと言って、無断で施設を利用し、襲撃をかける行為が許されるとでも?」
 
「許す?」
 
 
 
今度の声や表情は、露骨に侮蔑の色を表して隠さなかった。
 
こちらの心臓を鷲掴みにして、いつでも握りつぶせる状態まで持ってきたという、勝利の表情だった。
 
 
 
「そもそも許すなどと言う問題は語るべき価値すら無い」
 
「何ですって?」
 
「言うまでもないが、攻め来る敵は一々許可など求めてくる訳もない。この地に何ヶ月も陣取って拠点を構えているのならば、地形上の弱点くらいは把握するのが常識であり、しかもそれが一軍団を隠匿し得る程の空間ならば、万全の警備をしてしかるべきではないか」
 
「私達は地上とジオフロントを防衛対象にしているのであり、工事の際に遺棄された空間まで把握する義務は…」
 
「ですから、我々がそこをフォローするのです。異存存はありますまい?」
 
 
 
思い切り、机を叩いた。
 
 
 
「今の我々にとって、あなた方は単なる野蛮な武装集団でしかないわ!!」
 
 
 
そうとしか言いようのない様は惨めだったが、正しく職員達の気持ちを代弁した言葉を吐いた自信はあった。
 
どんな結果に至るにせよ、一度はぶつけなければ皆の気が済む筈もない。
 
 
 
「まあ…それは仕方ないですな。実際そうですから」
 
「実力は認められても、信用する事は不可能よ!」
 
「信用に関しては、時間と共に築き上げて貰うよりありません。いずれにせよこれは決定事項であり、気にくわないという理由では覆しようはありませんな」
 
 
 
強く叩き込めば軽くいなされ、隙を見せると即座に畳みかけてくる。
 
ディベートの基本だったが、こちらがそれを講じる前に先手を取ってくる。
 
何よりも実際に司令室制圧を許した現実が、揺るぎない立場の差を広げるばかりだった。
 
 
 
「奇襲は日本のお家芸と聞きましたが、受ける時の想定は疎かなようですな」
 
「!」
 
 
 
挑発に乗せられ、感情が抑えられなくなった、その瞬間。

突然、彼等の背後にあるスクリーンに巨大なノイズが走り、寸刻遅れて鼓膜を切り裂く鋭い砂嵐の音が響いた。
 
時間が経つにつれて、ノイズは正方形の画面に集約し、『SOUND ONLY』という文字を映し出す通信画面になった。
 
 
 
「今、碇総司令からの通信が繋がりました。回線が細いので音声のみの通信になります」
 
 
 
他国組織との会談でもしているのだろうか、軌道上や地球の裏側から緊急回線を繋ぐと良くこういう状況になる。
 
今回の事が、どこまで補完委員会や碇司令の思惑に沿っているのかはまだ分からない。
 
だが、彼等にとってはこの襲撃や迎撃が一種のテストに等しかった事は、リツコとの会話からも推測できる。
 
 
 
『…フランツ・バウアー大佐、任務の達成並びにアクシデントの収拾成功を確認した。期待以上の成果と評価している』
 
「ありがとうございます。少数の地上施設を損壊させた分に関しては、こちらから正式に賠償させて頂きます」
 
『いいだろう。今のネルフは人的脅威に対しては非常に脆弱な組織だ。君達の活躍に期待する』
 
「承知いたしました」
 
「お言葉ですが、総司令」
 
 
 
余計な事とは分かっていた。
 
しかし、一度は死を覚悟した身としてこのまま何も言わずに泣き寝入りなんて無理だった。
 
 
 
『葛城一尉、何か問題でも?』
 
「彼等は無断で施設を流用しただけでなく、零号機とパイロットを機能停止させ、一時的に司令室の機能も麻痺させました。私だけではなく、職員全員が死の脅威と直面しました」
 
『その点に関しては、葛城君、心配しなくても今回は君の責任は問わない』
 
 
 
想像以上に次元の離れた言葉。
 
これでもう、事態は私達の手をすり抜けて、武力を振りかざす余所者によって完全に掌握された。
 
 
 
『だが、現段階においては君達が彼等の存在に疑問を挟む権利は無い。今後、対人防御に関しては全面的に彼等の指示に従ってもらう』
 
 
 
無論、総司令は今の局面を予想していたに違いない。
 
その上での、この言葉。
 
要するに、全ての点で総司令は私達をハメた事になる。
 
リツコのみに計画の半分を教えた上で監視役に据え、後の帰趨は私達ではなく、この亡霊軍人とその一党に委ねたのだ。
 
 
 
『事の緊急性はチルドレンに限った話ではない…特に上級階級に属する女性職員には、より強固な防衛策を講じなければならない』
 
「承知しております。総司令がこちらに到着次第、正式に防衛立案を提出します」
 
『いいだろう…後はよろしく頼む』
 
 
 
それで回線は切れた。
 
 
 
何のことはない、私達よりもバウアーとの通信を必要としていたから、わざわざ細い緊急回線を繋げただけだった。
 
今、この場においては、私達こそが従属する立場にあるという事実。
 
しかし、どれだけ屈辱的であっても、事実から目を背ける事はできない。
 
私の次の仕事は、きっとその方向にある。
 
 
 
「さて…どこまで話しましたかな」
 
「我々を敵視する組織に関して、までです」
 
「そうでしたな。では、概要ではありますが彼等の正体を説明させて頂きます」
 
 
 
座り込んだ私に代わって、リツコが場を仕切り始めた。
 
どうせ逆らっても収穫がないのならば、穏便に済ませた方が良い。そういう局面になっていた。
 
 
 
「今から5年程前、中東においてセカンドインパクト以降燻っていた部族紛争が湾岸全体を巻き込む内戦に発展した事は覚えておられますかな?」
 
「第二次中東内戦ですね…確か、湾岸地域は比較的気候の変化が少なく、かつ石油資源の健在もあってその他の民族が集中、主導権を巡って戦った」
 
 
 
リツコは恐らく前もって仕込んだ知識を披露する形で、皆に解説しているつもりなのだろう。
 
だが、リツコ本人もそうかもしれないが、セカンドインパクト以降の他国の状況に疎い職員達には字面以上のイメージは浮かんでこない筈だ。
 
砂漠があって、ターバンを巻いた髭の男達が群れて銃を撃ち合う。そんな想像が関の山だろう。
 
でも、私はそこで起きた凄惨な内戦の実状を知っている。資料から得た数字と説明文の上で作り上げた、これもイメージに過ぎないのだけれど。
 
 
 
「部族というよりも、スンニ派とその他勢力が物理的な生き残りを賭けて争った宗教戦争と言った方が正しいでしょうな。本来、イスラム教徒はたとえ宗派が異なっていても争う事は滅多にないのですが…」
 
「セカンドインパクトが、そうさせる状況を作り上げた」
 
「そう考えるのが妥当でしょう。政治レベルで済ませていた争いが、そのまま生存競争に入れ替わった」
 
「しかし、内戦は国連軍の介入で収拾されて、欧米のアラブ系資本家や企業体を身元引受人にする形で各部族の生存勢力は国外追放され、残ったのは人のいない荒野のみと聞いていますが」
 
「そうです。それまでの間に民間人を含めて120万を越える人命が失われました。セカンドインパクトが過ぎ去った、気候の安定した状態からです」
 
 
 
ここまでくると知識の披露ですらなく、完全な癒着でしかなかった。
 
事前の打ち合わせとまでは行かないにしても、互いに言わんとする所は承知した上で、手持ちの材料を交互に小出しにしていく。
 
リツコの事だから、通常業務の合間に要点と関連情報のみをメールで内示しておけば、これくらいは容易い真似だろう。
 
 
 
何もゼーレや補完委員会の独善は今に始まった事じゃない。
 
でも、これは組織の必要悪というレベルで許容して良いものなのか。
 
 
 
「彼等…そう、正確にはイスラムとは最早何の関係もないあの武装集団は、宗教、金銭、怨恨、あらゆる根拠に基づいてネルフ及び人類補完委員会に対して明確な敵意を持っています」
 
「イスラムには関係ない?」
 
「少なくとも、現在のイスラム連合会議では完全に関係を否定しています。そういう意味で無関係と認識して頂きたい」
 
「では、何の為に襲撃を行うのか説明して下さい」
 
「単純に言えば、彼等は過激派として独自の教義を打ち立て、それに基づいて目標を定めてテロを仕掛けます。そして主流派から見捨てられた立場上、援助を与える勢力にはいかなる信条、性質であろうとも簡単に手を貸す」
 
 
 
つまりそれは、
 
 
 
「いわゆる民間軍事企業体として成り立つ組織と考えて差し支えありません」
 
 
 
遠回しな言い方を省けば、金次第で何でもする傭兵という事になる。
 
かつては部族と宗教の為に戦ってきた兵士達が戦争の終結と共にその役割を失い、糧と金、そして居場所を求めて世界中の戦場に赴く。
 
アフリカや中央アジア、最近では復興後の主導権争いの激しい中南米に進出し、元より解決の糸口の掴めない戦乱を更に混迷の中に導いていく。
 
しかもこの組織の場合は、その上に狂信的な行動原理が追加される。
 
 
 
「彼等は神の理想郷を構築する為に異教徒を残らず駆逐し、最終的には世界を一度灰燼に帰して再構築する事を目標にしています」
 
「ありきたりね」
 
「しかし、その『神の使い』が現実に現れた。これがいかに世界に衝撃を与えたかをあなた方は理解できていない」
 
「理解も何も、使徒はそんな存在じゃないですよ」
 
「彼等のフィルターを通せば、あのバケモノこそこの世に蔓延る悪と堕落を滅ぼす為に遣わされた神の申し子に見えるのです」
 
 
 
そして最後に咳払いをして、「これこそ正に、『使徒』ですな」と蛇足を加えた。
 
 
 
「で、でもここの防衛任務は戦略自衛隊や国連軍がいれば事足りるのでは…」
 
「確かに、相手が使徒やどこかの侵略軍ならばそれでも構いませんが」
 
「どういう意味ですか?」
 
「はっきり言ってしまえば、彼等は政治的には実在しない組織であり、またどこの国も公的には関わりを持たないのです」
 
「それはまさか…日本や国連が存在自体を認識していないと、そういう事ですか」
 
「日本に限定すれば、政府関係者の内でも知る人間はごく僅かでしょう。誰もが目を背け、それでていて一部国家においては拒絶できないままに居場所を与えざるを得ない。これでお解りになりますかな」
 
「その一部の国とは、具体的にどこなんです?」
 
「代表的な国は非常に明解です。あなた方ネルフと大きなパイプは持たず、かつ国力は地球上でも屈指の規模を保っている…」
 
 
 
「アメリカ合衆国!!」何人かの声が見事にハモった。
 
 
 
「と、想像するのは皆様にお任せします。その他のアラブ諸国も非公式ながら手を貸さざるを得ないという実状にあり、事態は非常に混迷を極めていると言えるでしょう」
 
「そんな、そんな事って…」
 
 
 
喋る時間が長びくにつれて、バウアーの日本語が流暢に転がるようになる。
 
通常はむしろ下手さが目立つところが逆に進化するというのは、最初の微妙に外れた言葉使いが偽装だった証拠だろう。
 
その偽装具合と、話の信頼性がどこまでシンクロしているか。
 
完全な嘘のみではないとしても、真実との境界線はどこなのか。
 
 
 
「我々共通の敵に関しては、以上でよろしいですかな?」
 
 
 
水を打ったような沈黙。
 
かなりの部分を既に知っている筈のリツコも、黙ってあらぬ方向を見つめていた。
 
不条理や非常識だとか、今となっては無意味な言葉を持ち出す者もいない。
 
総司令がダメ押しした時点で既に知れている事実を確認したに過ぎないが、それにしても余りに深刻な状況だった。
 
何よりそれが全く知らない間に忍び寄って来ていたのが最悪と言える。
 
本来ならば、自分達こそこの手の情報に接して然るべき立場にいると信じていたのだから。
 
 
 
「さてここで問題となるのは、あくまでも我々の存在は非公式とせざるを得ない事です。戦う相手が実在しないのならば、我々もまた同じとなるのですから」
 
「…それであんな強引な突入を仕掛けたんですか?」
 
「御理解頂けたようで何よりです。今の状態ならば、HIGH-MACS部隊を含めた侵入者はネルフの防衛部隊とエヴァによって撃退された形になります」
 
「それじゃいずれにしても、また報復が来るじゃないか」
 
「無論です。それも目的の内であり、我々の担う義務であります。もし、攻撃が一般市民に向けられればどうなるか。その点を重ねて御考慮頂き、ここにおられる方々においてご協力を願います」
 
 
 
再び言葉を切ったバウアーは、こちらの考察を促したいのか椅子に座って一息つく。
 
すると自然に職員達も鳩首会談を始め、バラけて座っていた連中も中央付近に集まって大きな人だかりができた。
 
聞こえてくる言葉は「危険」「防衛」「機密」「生命」「気色悪い」等々。いずれにせよ、敵意と警戒に満ちた言葉ばかりが目立つのは仕方なかった。
 
もっとも、そんな言葉を幾ら重ねた所で行き着く結論は余程のバカでない限り変わりはしない。
 
焦点は、如何にしてあの気色悪い集団を受け入れ、協力するか。それ以外に無かった。
 
 
 
「葛城さん」
 
 
 
日向君が集団から抜けて寄ってきた。
 
 
 
「どうするんですか。このまま受け入れても…」
 
「総司令がそうしろって言っているんだから、そうするしかないでしょ」
 
「それはそうですが」
 
「後はあなた達がどう考えるか。それだけよ」
 
「赤城博士も…」
 
 
 
やはり会談に加わらなかったリツコも、無言の返事で同意した。
 
元からそういう立場だったのだから当然なのだとしても、彼女なりに拘泥する部分はあるのかもしれない。
 
今になって、彼女の頬を叩いた事を少し後悔した。
 
 
 
「で、話はまとまったのかさ?」
 
 
 
何度見ても聞いても、レイの顔で悪態を吐くレオナの態度には慣れそうにもなかった。
 
壇上に続く階段の真ん中に腰掛け、自分の膝に頬杖をついて退屈そうにこちらを眺めている。
 
見上げながら見下しているのは故意なのか知れないが、その目は明らかに侮蔑の色に満ちていた。
 
 
 
「お前も一々客を馬鹿にする真似は止めにしないか」
 
「だってさ婆さん、話さなくたって結論は同じじゃん。こんなの」
 
「レオナ、静かにしてくれないか」
 
 
 
釘を刺したのはタカシだった。
 
 
 
「どうせムカついているのは別の事なんだろ。あいつらに当たるなよ」
 
「…分かったわよ。悪かった」
 
 
 
タカシはやにわに立ち上がると、バウアーのすぐ隣にまで駆け上がって来てこちらを睨んだ。
 
そうしてシンジ君の声でこちらに語りかけてきた。
 
 
 
「知るには試練が伴い、知らなければ命が危うい。我々の任務仕事はそういう領域をカバーする事です。地球人類にはネルフがあり、ネルフには我々がいます。ご決断下さい」
 
 
 
言っている内容は至極まともで、思ったより大人しい口調なのに、目つきは妙に冷たく平面的だった。
 
 
 
「お願い、します。どうか、お願いします」
 
 
 
更に彼は頭を丁寧に下げ、下げたまま45度の角度で固定する真似までして見せたが、それは尚更白々しく不気味に見えるだけった。
 
総司令が半ば強制している限り、私達がゴネる筋合いこそ無いのに、この卑屈とも言うべき奇妙な丁重さは何なのか。
 
 
 
だが、それでも職員達の感情に某かの影響を与えたらしく、
 
 
 
「…分かりました。我々も出来うる限りの協力は惜しみません」
 
 
 
全てを決するマヤの言葉が遂に引き出された。
 
これからマヤ達がするべき仕事はまだ明確ではないが、大体の察しはつく。
 
要は、偽装の補佐をする事になるのだろう。
 
あの物騒な三人組がシンジ君達の影武者として動く為の、だ。
 
 
 
「erheben!」
 
 
 
突然、それまで黙っていたバウアーが立ち上がって号令をかけた。
 
好き勝手な姿勢で待機していた闇色の兵士達が、一斉に同じタイミングで起立してこちらに向き直る。
 
迫力のあまりに職員の中にも思わずつられて立ち上がってしまった者までいた。
 
 
 
「総員、敬礼」
 
 
 
続いて穏やかなタカシの号令に従い、全員がこちらに向かって敬礼を送る。
 
バウアー、ニキータ、テレーズ、それにあれだけ悪態吐いていたレオナまでが、神妙な態度で右腕を構えて見せる。
 
威張って見せたり脅したり、それでいて下げるべき時に頭を下げ、必要ならば牙を剥く。
 
彼等は砂漠の直中で、そういう生き方を会得してきたのかもしれない。
 
 
 
「皆様、御理解頂きありがとうございます。我々はこの大深度に籠もって人類のボランティアをこなすという点で運命共同体と言えます。互いの生命と任務の無事を守る為に、全力を尽くしましょう」
 
 
 
本物では想像もつかないような馬鹿丁寧な口調と笑顔。
 
ニキータの表情偽装技術は恐ろしく鍛え上げられたものだった。
 
余りに丁寧すぎて、アスカの影武者としては不適任を押したくなるくらいだった。
 
 
 
「最後に、一つ聞いてもいいかしら?」
 
 
 
安堵の溜息を漏らす日向君達を無視して、肝心の疑問をこのタイミングでぶつける事にした。
 
 
 
「何でしょうか」
 
「フランツ・バウアー大佐、中東内戦で軍事法廷にまで引き出され、国連軍から追放された貴方が、何故今ここにいるのですか?」
 
 
 
兵士達から冷たい視線が突き刺さってくるのではと思っていたが、思いの外に反応は緩かった。
 
それなりに弱味を突いた質問だったつもりが、拍子抜けする程の白けたものだったのかもしれない。
 
あるいは、それこそ最初からこの質問が飛んでくるのを待っていたのか。
 
 
 
「誰でも、人生には思わぬ転機が訪れるものです。時には、それが思いもしなかった所から来ることもある。それは貴方も同じではないですかな。葛城一尉」
 
「…」
 
「この国の言葉で言えば『浮かぶ瀬もあれ』でしたかな。人が争いを続ける限り、我々のような者には必ず居場所が用意されている。そういう事です」
 
「ネルフが、補完委員会があなた達の居場所を用意した、と?」
 
「御自由に想像して頂いて結構です。以上でよろしいですかな?」
 
 
 
私達の知らないどこかで、私達の存在を巡って巨大な勢力が蠢いている。
 
それは想像や勘に依って漠然とした形で意識はしていたものの、今日という日までは実感を伴ってはいなかった。
 
だが、この退役した老将が奇態な兵士達を伴って押し掛けてきた事実が、高い城壁に守られたこちら側からは伺えない、外の世界の逼迫した状況を雄弁に語っていた。
 
 
 
「結構です」
 
 
 
返事を返したのはバウアーに対してだったが、自分でも気がつかない内に、すぐ目の前にいるタカシの視線をまともに受け止めていた。
 
本物より挑戦的で、生気に溢れた瞳と眉。真正面から受け止めても全く物怖じせず、それでいて威嚇するでもなく静かにこちらを見つめている。
 
最初に銃を突きつけられた時とは違って、それは妙に誠実さに溢れる眼差しに見えた。
 
しかし、その瞳を見て心の底に沸いてくるのは、本物のシンジ君の時とは異なり、むしろ悪戯心にも似たサディズムだった。
 
 
 
「では早速ですが、指令を与えます」
 
「坑道内のスイープと安全確認は既に行っていますが…」
 
「非常事態は解決したと断定できる段階に達したので、避難命令を解除、第三新東京市を通常形態に戻します。一般人の目に触れる前に、奇襲に使用した兵器を撤収させて下さい」
 
「了解しました」
 
「形態復帰完了は12分後とします」
 
「12分!?」
 
「本物の使徒が来ないからには、今回の事態は表向き『誤報』としなければなりません。従って、可能な限り迅速に戻す必要があります。無論、この事態に対応できる備えはしてあるのでしょうね?」
 
 
 
これは意地悪でも何でもない、機密を保持しながら防衛目的の戦闘を行うならば当然の条件だった。
 
一般人を退避させた上でそれなりの規模で兵器を用いた戦闘を展開するには、結局、使徒の存在をちらつかせて街全体を戦闘態勢に移行させるしかない。
 
しかし、現実に使徒はいないのだから、長引けば自ずと第三者の疑念を生む事になる。
 
政府や戦自は最初から黙認しているのだろうから問題無いとしても、一般人や下級ネルフ職員を含む外野は騒ぎに付き合わされる分だけ敏感になる。
 
ネルフの敵はあくまで使徒であり、人類ではない。
 
この大前提を守る為の軍隊ならば、存在を気取られるような真似は許されない筈だった。
 
 
 
ところがタカシはニコニコ笑いながら、嬉しそうに問い返してきた。
 
 
 
「ところで、何故HIGH-MACSがまだ地上にあると?」
 
「そうでもしなきゃ、幾ら何でも地上からここまで来られる訳がないでしょう。私達が気絶している間にさっさと機体を隠して、どうせ搬入する準備まで整えているんじゃないの?」
 
 
 
朗らかに笑うと、タカシの顔は違和感の無い本物の笑顔になった。
 
それはほんの一瞬、まばたきする間もない短い時間の内に垣間見えた、シンジ君でも滅多に見せないあどけない少年の表情だった。
 
 
 
「分かりました。間に合わせて見せます」
 
 
 
そして、笑顔の事など綺麗に忘れたような、不敵で挑戦的な口調。
 
何を企んでいるのか知れないが、単に軍人に多く見られる攻撃的マゾヒストなのかもしれない。
 
困難な任務や命令によって、無駄な力が湧いてくるタイプだ。
 
 
 
「期待しています。幾らなのかは知りませんが報酬分の働きを見せるように」
 
 
 
退出の言葉も告げないまま、タカシは弾かれたように駆け出した。
 
そのまま地上に登り、けしかけられた犬のように回収に回るつもりだったのだろう。
 
だが、残りの二人がその後を追いかけ、部屋から出ていく寸前に捕まえた。
 
 
 
「ちょっとタカシ何言ってんのよ!!今、上にはあんたの機体が来ているのよ?」
 
「俺の?『カレン』が間に合ったのか?」
 
「あのね、どうやってレオナが『オオトリ』から来れたと思っているのよ」
 
「そーよ、この私が直々に乗って落ちてきたんだからね。回収ミスったら殺すわよ」
 
「分かったよ。ちゃんと自分で回収するから」
 
「失敗したらスクラップにするしかないんだからね!!」
 
「その時は俺も死ぬだけだって」
 
「他の機体は河本の爺さんに任せるんだよ!!」
 
 
 
縋り来る女達を振り切って、タカシは扉から外に飛び出す。
 
二人は尚も通路に向かって何か叫んでいるが、聞こえているとは本人達も思ってはいないだろう。
 
壇上のバウアーは苦笑いを浮かべて子供達を見守っているようだった。
 
 
 
「じゃ、私達も行くわよ」
 
「…あの、本当に12分で形態移行させるんですか?」
 
「実際に使徒がいないのなら、さっさと元に戻さないとそれだけ無駄な金がかかる事になるわ。総司令からお小言貰いたい?」
 
「いや、それは分かってますが…」
 
「つべこべ言わずに司令室まで戻るわよ!!」
 
 
 
言い出しっぺの責任として真っ先に飛び出た通路には、もうタカシの影は見えなかった。
 
牧野タカシという人間は、恐らく軍人として非常に優秀な「犬」なのだろう。
 
あの屈辱にまみれたフランツ・バウアーが戦いの場に戻ってきたのは、案外彼を含めた子供達の軍隊を見せびらかしたかっただけなのかもしれないと思った。
 
 
 

 *      *

 
 
 
使徒の役を演じた巨大な光塊は、既に遥かな高空に向けて飛び去っていった。
 
ロケットブースターを使った加速で、あれだけの巨大な質量を瞬く間に成層圏まで打ち上げる。
 
仮にも使徒を演ずる手前、ブルーパターンの偽装のみでは心許なく、従って挙動もそれらしくなければならない。
 
河本はつくづく自分があの中にいなくて良かったと思う。
 
 
 
「河本さん、電話はまだスかね?」
 
 
 
待機中の輸送キャリアの運転手が、三回目の確認に来た。
 
予定でもうすぐ下の連中から連絡が入り、その内容が成功ならば隠していた物を搬入し始めるが、仮に失敗した場合には即座に撤収しなければならない。
 
基本的には失敗の可能性はほぼセロだったが、だからといって用心を怠る訳にはいかない。
 
そんな事情を知る彼等が不安を抱くのも当然だった。
 
 
 
「まだだ。移動の際の手筈を確認しておけ」
 
「へえ。それがもうあらかた済んじまって。あとはもう待つだけでして」
 
「じゃあ大人しく待っているんだな」
 
「それしかないですかね」
 
 
 
そう言っているそばから黒電話が鳴り出した。
 
河本は即座に受話器をひったくり、黙って相手の話に耳を傾ける。
 
無精髭まで白く染まった壮年の運転手が、薄汚れたヤンキースの帽子を無意識に弄んでいた。
 
 
 
「…了解した。だが、警戒態勢を解除し…10分!?それは確かなのか」
 
 
 
それまで落ち着き無く見守っていた運転手が、河本の言葉を聞くのと同時に飛び出していった。
 
彼らの仕事は、ネルフが奇襲によって一時麻痺した隙に隠しておいたHIGH-MACSの収容。
 
計画全体の最後を締めくくる重要な仕事であり、無論段取りもほぼ完全に組み上がっていたが、一つ大きな不確定要素があった。
 
 
『使徒襲撃』が終了した後の、第三新東京市の機能復帰。
 
 
当然、本物の使徒が潜んでいる訳ではないのだから、一刻も早く警戒体制を解除し、元の姿に戻そうとする。
 
平和を取り戻した地上に這い出てくる一般人達の目にする情景が、エヴァと朽ちた使徒の死体ならば納得できるかも知れないが、それが重武装の二足歩行兵器とテロリスト達の死体ならば、これは大問題では済まされない。
 
第三新東京市の敵はあくまで使徒であり、人間ではない。
 
もしこの前提が嘘だと暴かれれば、ネルフとこの国は余計な国際問題をまた一つ抱え込む事になる。
 
それどころか存在意義さえ疑われる可能性も否定できないのだ。
 
 
『一般人及びネルフの下級職員も含めた情報規制ランク下位の人間には、決して姿を晒さない』
 
 
これは人類補完委員会との契約に含まれた約款の内、一番最初に書かれてある項目だった。
 
 
 
「10分だ!!別れて収容しないと追っつかねえ、非常用に割り振った収容口に向かって走れ!!」



河本の口にした10分という言葉は、間違いなくその為に残された貴重な制限時間であり、運転手達もその逼迫した状況は理解していた。
 
だからこそ、わざわざ移動用の50ccバイクまで用意して待機していたのだ。
 
 
 
「人使い荒いんじゃねえのか今回の雇い主は!」
 
「いいじゃねえか、他に行く先もないんだからよ」
 
 
 
彼等の目的地は、先程の巨大スタングレネード炸裂に乗じてHIGH-MACSを隠した旧市街の駐車場だった。
 
隠すと言っても特に複雑な仕掛けが講じてある訳ではなく、あらかじめ偽装した小型キャリアを駐車しておいたに過ぎない。
 
グレネード炸裂と同時に、ステファンやバウアーは零号機など目もくれず機体の隠匿に奔走し、身一つで地上搬入口から侵入した。
 
機体をキャリアに載せ、上から対暗視・赤外シートを被せるだけだったが、歩兵を出して捜索するのでも無い限り、まず露見はしない。
 
事実、今この瞬間までネルフは機体の所在を把握できずにいた。
 
 
 
「予定済みの機体は全て万全だが…そう、タカシの荷物はどうする…分かった。間に合わせるしかないな」
 
 
 
河本は黒電話を戻し、ヘッドセットの無線を掴んで外に飛び出した。
 
 
 
「D3-11から入るキャリアは、搬入口を開けっ放しにして降下しろ」
 
「えぇ?そのままで降りていいのかよ」
 
「後から人が来る。段取りはこちらに任せてもらって構わない」
 
「了ー解。これより降下する!!」
 
 
 
無線を通じて、地鳴りのようなエレベーターの駆動音が響いてくる。
 
奇襲開始の時に用いた初期型エヴァ射出用カタパルトとは異なる、低速度・高出力の完全な搬送用エレベーターだった。
 
そしてその側部にある人間用の高速エレベーターを使って、会合から息付く暇もなくタカシが地上に駆けつけていた。
 
 
 
「タカシ、聞こえるか?まだ交信可能な深度には達していないか?」
 
「…聞こえているよ…搬入口基準で…荷物はどこにあるの…」
 
「搬入口から北西へ1.5kmの斜面にめり込んでいる。起動できるのはお前だけだってのに、グラーフが投下をミスりやがった」
 
「大丈夫…間に合わせるから…」
 
 
 
ノイズ混じりのタカシの声が、時間と共にクリアになっていく。
 
戦闘態勢に移行した第三新東京市の電力配分ならば、まだ本格的に配電設備を復旧していない状態でも、人間用エレベーターには十分な出力が賄える。
 
今なら最大速度ならば3分以内で地上まで登れる筈だった。
 
だが、更にそこから7分以内で、アイドリングもしていない総重量32tの大荷物を地下に持ち込まなければならない。
 
少なくとも、これまで使用されてきた12式やヤークトパンターではまず不可能な真似事だった。
 
 
 
「着いたらすぐに二輪で出るから、入り口で待っていて」
 
「了解した。だが、失敗したら急いで山向こうに逃げろ」
 
「で、離れたら使徒の攻撃に見せかけて自爆するんだね?」
 
「そうだ」
 
 
 
河本が辿り着いたのは、中枢区画の中でも北西部に位置する搬入口D3-11。高さ10mを越える巨大なゲートだったが、普段は中枢のビルと同じく、地中に埋没して被害を避けていた。
 
これらは全てジオフロントの縦坑網に直結した地上搬入口で、言うまでもなくジオフロント建設工事の際には資材を載せた巨大なトレーラーが去来していた。
 
彼らの企みは、これをそのままHIGH-MACSの収容施設として利用しようというものである。
 
 
 
「今、残り深度50。そっちは大丈夫?」
 
「手動で扉を開けてある。そっちも内扉開けてエンジン回しておけ」 
 
 
 
ニキータが遠隔操作で手動に切り替えたエレベーターの内扉は、河本の言葉通りに完全に解放されていた。
 
電力保持を失ったスチール製の引き戸の向こうは、登山電車のように緩く斜行しているトンネルと、その中を自分に向かって駆け降りてくる猛烈な突風だった。
 
そのトンネルの果て、暗闇の向こうから小さな光点が少しずつ大きくなり、ある瞬間から突然爆発的に膨れあがる。
 
身を翻して隠れる河本の影が視界の端に躍った。
 
 
緩衝装置を切られた駆動系が、強烈な力で昇降筺をゲートに叩き付けた。
 
へし折れるような金属同士の激突音の直後に、空中で軽快なエンジン音が鳴り響く。
 
エレベーターをカタパルトの代わりにして、タカシが二輪に乗ったまま勢いに乗って空中に飛び出した。
 
 
 
「開閉スイッチの側で待っていてくれ!」
 
「10秒前に機体収容間に合わなかったら閉めるからな!!」
 
 
 
既に他の機体はキャリアに載せられ、地下深くに向かって潜行し始めていた。
 
この付近の地上に残っているのは、タカシと河本、そして件の『荷物』のみ。
 
タカシはあらかじめ説明を受けた通りのコースに沿って全力で走る。
 
2km足らずの距離とはいえ、巨大なビルが群立する中枢と、雑多な建物が密集している市街を短時間で通り抜ける過酷なルートを設定されていた。
 
しかし、タカシにとってはかつての戦場よりは遥かに楽な行程だった。
 
砂嵐が止むほんの少しの間、全速力で砂漠や市街地を駆け抜けていくような綱渡りは必要なかったからだ。
 
 
 
「見えたよ。カプセルが斜面にめり込んでいる」
 
「ハッチはレオナが開けたままだが、中に入ったらお前じゃなければ起動できん。アイドルにはしてあるから緊急起動で行け!」
 
「了解!」
 
 
 
鋼鉄に包まれた第三新東京市の中枢と、生活臭に満ちる市街地の狭間に、両者のいずれにも属さない空白地帯が点在している。
 
それらは用地買収や区画整理を済ませたものの、建設には向かない等の理由で結果的に放置された死んだ土地だった。
 
その内の一つ、雑草が生い茂る20m四方程の露出斜面。
 
ちょうど斜面に寄りかかる形で茶筒型のカプセルがめり込んでいる。
 
河本はミスと言っていたが、タカシはむしろ損傷を避ける為にこんな場所に投下して見せたグラーフ達の腕前に圧巻されていた。
 
二輪を捨て、観音開きの要領で大きく開いているカプセル側面に向かって走る。
 
容積一千リューベを越える胴体の中身は、衝撃吸収用フレームとコンプレッサー、電源装置に包まれた『荷物』だった。
 
 
 
「これが、新しい『カレン』…なのか」
 
 
 
ようやく昇り始めた朝日に照らされた機体は、通常の12式よりも全体的に一回り大きく、スマートさと頑健さのチョークポイントを綱渡りで保つような、微妙なスタイルに身を包んでいた。
 
特に、胴体と脚部のサイズはマイナーチェンジと言うには大袈裟な程に膨れあがり、そのせいで武装をマウントする為に重要な椀部が華奢に見えてしまうくらいだった。
 
タカシが新しい愛機に対して抱いた第一印象は決して良い物ではなかったが、今はそれをどうこう考える時間は無い。
 
先程までレオナが入っていたコクピットのハッチは、粗忽なのか気遣いからなのか開いたままで固定されていた。
 
後はそのまま滑り込めばいい。
 
ハッチの密閉音と共に、暗闇の中に静電ノイズと小さな黄緑の光の群が溢れる。
 
未起動と言っても完全に眠っているのではなく、電力供給とそれを賄う補助駆動系は生きているのだ。
 
 
 
<<とうじょうしゃノみもと、しょぞく、にんしょうこーどヲのべよ>>
 
「カレン、俺だ。時間がない。緊急起動モード移行」
 
 
 
間違いなくこの機体が本物の『カレン』ならば、今のタカシの言葉で即起動する筈だった。
 
だが、もし声紋認識が狂っていて主人を確認できなければ、設定に従って最低一時間はフリーズする事になる。
 
そうなれば、この場で爆破するしか選択肢がなくなる。
 
タカシは息を飲んで制御系の返答を待ったが、『カレン』は是も非も返そうとしない。
 
ふと気が付いて、タカシはシート横に固定されていた視界リンク型ヘッドギアをかぶった。
 
固定視点であるメインディスプレイと併用して用いられるHMD(ヘッドマウントディスプレイ)により、パイロットは仮想的ながらほぼ360度全天視界を確保できる。
 
それ以外にも複合式光アクティブスキャン機能によりパイロット個人の情報を獲得する認証機能も兼ねていた。
 
 
 
「網膜認識、最終更新から1年6ヶ月で想定しろ。急げ!!」
 
 
 
タカシの視界に半透明の光の渦が重なり、やがてそれは複雑に連結された点と線の奔流に姿を変えた。
 
網膜パターンが立体認識され、情報がホストに伝達された証の「accepted」が表示される。
 
 
 
<<…搭乗者確認。お帰りなさいタカシ。前回の搭乗から1年と182日14時間32分経過して…>>
 
「至急前方のゲートに進入する最速のコースを割り出せ。残り時間246秒」
 
<<直進してください。障害となる木造建築物は何の支障も無く…>>
 
「破壊物無しで想定」
 
<<では、この場より直接垂直上昇します。機動管制のみ戦闘モードに移行>>
 
「…何だって、垂直上昇?」
 
 
 
突然、カレンの胎内に地響きにも似た爆音が鳴り響いた。
 
全てのセンサーと管制系がアクティブになり、聞くだけで12式よりも巨大と分かるエンジンの咆吼が、コクピットの空気を振るわせる。
 
この機体は外見は多少鈍重にも見えるが、少なくとも中身は確かに改良されている。それだけはタカシも痛感せざるを得なかったが、それにしても垂直上昇など常識の範囲では考えられるものではなかった。
 
戦闘ヘリの進化形として、戦車並の装甲、ヘリの運動性能、加えて両者を凌ぐベトロニクスと武装力を目指して開発されたHIGH-MACSだったが、搭載できるエンジンと燃費の点から、どうしても無助走飛行やホバリングを可能とさせるだけの推力は得られなかったのだ。
 
 
 
<<カウント20で離陸します。目標搬入口より直線で560mの位置まで自動操縦です。以降の操作は前バージョンVW-1と同様です>>
 
「おい、本当にここから助走無しで飛べるのか?」
 
<<コンプレッサーは投下前より発動済みです。カウント開始、20・19…>>
 
「そういう問題じゃ…」
 
 
 
進行方向正面と各種環境表示を映すプラズマメインディスプレイ上に、着地地点の特定とコース設定を表示される。
 
コースはそのまま家屋群を飛び越える単純な進路を取っていたが、今までの機体ならAI丸ごとC整備対象になるような、異常な判断だった。
 
無謀と思いつつも、タカシは離陸と着陸後の自律走行に備えて自分自身の姿勢保持に取りかかった。
 
十数秒の間にできる事と言えば、せいぜいシートベルト固定と操縦桿の保持くらいだったが、それだけでも済ませておかなければこの密室の中で慣性によって身体を弄ばれてしまう。
 
淡々とカウントを取りながらも、カレンはその巨体を投下カプセルから引きずり出し、斜面のすぐ下に伸びる3車線道路上まで降りて直立姿勢を保持した。
 
カレンが飛べると言うなら、飛べると信じる。いずれにせよ今のタカシにはそれしか選択肢がなかった。
 
 
 
『タカシ、残り4分。あの女本気よ、急いで!』
 
「カレンに言ってくれよ。前より自我が強くなってる。取り敢えず任せるしかない」
 
 
 
激しいノイズに乗ってきたニキータの声は、逼迫と言うよりも何故か極度の苛立ちを滲ませていた。
 
だが、もう全ては機械の人格に依託するばかりだった。
 
 
 
<<3・2・1、テイクオフ>>
 
 
 
振動緩衝機構を介しても尻が揺れる程の、巨大な推力だった。
 
以前の12式では絶対必要だった助走もジャンプ機構も全く使わずに、鈍重な機体が空へと吊られていく。
 
やがて朝日の輝きと、地面から突き出た高層ビルの影がディスプレイ上に映し出される。
 
眼下には、闇の中から光へと戻りつつある第三新東京市の全景があった。
 
それらの光景は、乾燥重量でも25tを越える物体が、2基のターボファンエンジンと折り畳み翼だけで空中に飛び上がっているという驚異的な事実の証でもあった。
 
タカシにとっては全くリアリティのない状況だったが、自分自身がその中心にいるからには信じる他に術がなかった。
 
 
 
「…凄いな。俺達、本当にホバリングしている」
 
<<地上建築物への被害回避のために50mまで上昇します>>
 
「着地後の燃料残量は?」
 
<<推定で通常戦闘平均12分です>>
 
「…まあ、そんなものだろうな」
 
 
 
元々、HIGH-MACSの兵器コンセプトは攻略及び被攻略ポイントにおいて迅速な作戦展開を行い、短時間で目的を達成する事にあった。
 
その為、通常モデルの12式も他兵器と比較しても最大出力による稼働時間は極端に短い。
 
無論、それに見合う性能が備わっているからこそ、兵器として成り立っているのだが、短時間で多機能な兵器を用いて成果を出す戦闘は、既存兵器とは異なる適性が必要になる。
 
この12式改は、その特徴を更に先鋭化させたモデルだった。
 
即ち、高性能高汎用性と引き替えに燃費と稼働時間を失っているのだ。
 
 
 
<<水平飛行へ移行。巡航速度96km/h>>
 
「もっと速くできるか?」
 
<<垂直離陸からの短距離飛行ではこれが限界です>>
 
「終端で失速しても着陸できれば良い。全力で行ってみてくれ」
 
<<了解>>
 
 
 
中空に浮かぶホバリング状態から、エンジンの傾斜、それに重力と翼による揚力の拮抗で前方へと飛行する。
 
ほんの1秒程緩い加速があり、それが終わった途端に100km/h近い速度で機体が前進を始める。
 
タカシの指示に従い、若干速い速度を出しつつも少しずつ高度を下げる進路を取っていたが、それでも傍目から見れば立派な飛行兵器の姿になっていた筈である。
 
翼面積と自重が釣り合うギリギリの速度をカレンが計算し、最後まで完全な失速に陥らない設定を構成していた。
 
 
 
『凄ぇ!!タカシマジ凄ぇよ!!』
 
『へぇホントに飛んでるじゃん、スゲー』
 
『おい、後で俺にも乗らせろよ!』
 
『できる訳ねーだろバーカ』
 
 
 
恐らくは観測カメラのテストを兼ねて様子を見ているのだろう、先行して地下に潜った連中が回線に介入して茶々を入れてきた。
 
他人事と思って勝手に騒いでいるが、タカシにとってはアポロの月着陸にも等しい緊張の連続だった。
 
確かに指示はしているが基本的に制御はカレン任せで、今のところ機体の挙動を感覚的に掴む事が困難極まりない。
 
万が一極端な失速でも起こしたら、今のタカシに収拾できる自信はなかった。
 
それでもHMDの数値表示と身体に伝わる慣性の感覚から、何とかして昔の機体との共通点を掴もうと躍起になっていた。
 
地上との肉眼距離を見損なっていたのはそのせいもあった。
 
 
 
<<高度-1.7。目標まで残り400m>>
 
『こちら河本、3分を切ったぞ。急げ!』
 
「こっちの姿は見えているだろ。着地したら速攻で突っ込むから自分の身体を気遣えよ」
 
『抜かせ』
 
 
 
最後の2秒は、ほとんど落下と変わりなかった。
 
機体の脚部が、通常より遥かに高い高度からの着地に辛うじて耐え、アブソーバーは想定外の運用に対する甲高い悲鳴を上げた。
 
だが、それでも着地即転回はこなせる。タカシの握る操縦桿にも特に大きな抵抗は発生しない。
 
想像以上に頑強な耐久性を持たせているのは確実だったが、あくまで実戦において運用する実験機とすれば、これはむしろ当然の仕様と言える。
 
 
しかし、バランスの悪さもまた実験機の証だった。
 
 
 
<<マニューバエラー105、後部荷重過剰>>
 
「自動制御の範囲で修正」
 
<<バランサー係数異常、現状では走行不可能です>>
 
「制御アルゴを旧バージョンに切り替えろ!」
 
<<間に合いません。緊急姿勢制御機構作動>>
 
 
 
無情な言葉と共に、人体で言う足裏である所の脚部接地面が宙に浮き、機体は背面から巨木が倒れるように傾斜していく。
 
背面には発電機を兼ねるエンジンと、全速時の制御にも用いられる水平翼が組み込まれてあり、転倒した場合には、当然自重で破壊してしまう事になる。
 
そうなればこのロボットはただの木偶の坊でしかない。
 
しかしそのような状況に備えて、背面部には緊急姿勢制御機構も組み込まれていた。
 
大袈裟な名前に反して、その正体は2基のエンジンの間に収納されている伸縮式の「棒」だったが、
 
 
 
<<転倒阻止。これより自律復帰を開始します>>
 
 
 
翼の下端が押しつぶされる寸前に、アクチュエーターと同じECSF機構によって40tまでの重量を支えられる「棒」が強化アスファルト面に突き刺さっていた。
 
機体の傾斜が止まり、続いて土木作業機並の緩慢なスピードで少しずつ反対方向へと戻り始める。
 
カプセルからここまでの挙動と比べるとこの復帰作業は非常に緩慢だったが、元々HIGH-MACSサイズの鋼鉄の塊をどうこうするにはこのレベルが本来の速度だった。
 
 
 
「復帰までの時間は」
 
<<完全復帰まで残り60秒>>
 
  
 
着地後の転回に抵抗がなかったのは、実際に地面との間に抵抗が生じなかった故であり、そうなれば遠心力と背面重量の作用で転倒する。
 
無論、それは高度50m以上という想定外の飛行によって起こった当然の事故で、テストとして見るならば一つの成果とも捉えられる事象だった。
 
だが、今は純然たる危機に他ならない。
 
それも誰も予想しない形で訪れた、最悪のアクシデントである。
 
最低限、機体だけは一般の目に晒さないという条件を守れなければ、タカシ達にこの地に留まる資格はない。
 
 
 
『残り84秒、タカシ!』河本に代わって慌てふためくニキータの声が強くなった。
 
「カレン、復帰後即目標に直進。スロットルは俺がやる。方向制御を依存」
 
<<了解>>
 
「ニキータ、この搬入口の構造と降下中のエレベーターの速度、耐久性、今載っている奴の位置、全部のデータをカレンに叩き込んでくれ」
 
『分かった。余った回線全部で一気に流し込むから』
 
「早ければ何でも良い!!」
 
 
 
同時に幾つもの指示を出しながら、タカシの手は操縦桿とコンソ−ルの両方を同時に操り、出力とバランサーの調整を即席で行う。
 
機体正面を映すディスプレイには未だに朝焼けの空しか見えなかったが、ヘッドギアをかぶった頭を傾ける事でHMD上に搬入口を捉え、位置と正確な距離を割り出した。
 
機体が立ち上がり、メインカメラが正面を向いてディスプレイの光景がHMDのそれと重なった瞬間が、勝負の時となる。
 
視界の隅に光る残り時間表示は、遂に70秒に達した。
 
タカシの脳裏にあの女−−縄張りを荒らされて怒りに震えている作戦司令−−が内心ほくそ笑む姿が浮かんだが、
 
 
 
それは決して敵対心に包まれたものではなかった。
 
 
 
「全速で搬入口に突っ込むからオッサンは隠れていろ!今エレベーターに載っているトレーラーにはどこでもいいから端に寄るように言ってくれ!」
 
『で、でもタカシ、その距離じゃ12式改の全速は停止できない…』
 
「止まらなくて良いんだ。俺が入ったらすぐに搬入口の扉を閉めてくれ。頼む」
 
 
 
起立復帰の過程を進めながらも、カレンは転倒直前に一旦切ったエンジンを再び点火し、出力を最大に向けて上昇させていた。
 
50m高度という無謀な飛行を強行したばかりの状況で、どれだけの燃料が使えるのかはタカシには判断できなかったが、頭の中に描いた目論見を実行すれば、少なくとも生きて帰る自信はあった。
 
唯一の問題は、この機体の耐久性や挙動のクセを完全に把握しきれなていない事だった。
 
生きて帰っても、この機体を壊してしまえば何の意味もなかった。
 
 
 
<<目標の構造把握確認。出力、バーナー許容範囲>>
 
 
 
既に機体は直立復帰し、ノズルは水平に向けられて高周波のジェット音と共に炎を溜め込んでいる。
 
折り畳み翼は完全に展開され、脚部はこれから訪れるであろう酷使に備えて、ただでさえ低く設定してある重心を更に低く構えていた。
 
残り時間は、26秒。
 
 
 
「残り10秒で即全速。翼は依存。坑内気流計算は想定Bで止めておけ」
 
<<了解>>
 
 
 
視界の端に、何棟もの高層ビルが次々と空に向かって伸びていく姿が見える。
 
既に戦闘態勢の解除は発令され、建造物の復帰がシェルターの開放に先立って始まっていた。
 
 
 
『まさか、そのまま降りるつもりなの、タカシ!?』
 
「今更何言っているんだ?だったらどうした」
 
『無理よ、もうトレイとの高度差が100mくらいあるのよ』
 
「ブッ壊れても辿り着ければ直せる。心配ない」
 
『そういう事じゃなくて…』
 
『タカシ、いっちゃえ!!』
 
 
 
ニキータの回線を奪って、レオナが酔っぱらいのような一方的な言葉を投げつけてきた。
 
 
 
『絶対にカレンちゃんをしっかり持って来るのよ!!それがマスターの責任ってもんだからね!』
 
『ちょっとレオナ、黙ってて』
 
『アタシが持ってきた荷物を無駄にするような真似したら承知しないわよー!!』
 
『分かったから、ちょっと…』
 
<<全速、5秒前、4、3、2、1>>
 
 
 
20t強の重力を振り切る推力が、制約のない水平方向へと放たれる。
 
タカシの身体が慣性という巨大なバットで叩かれ、緩和機構に身を委ねたコクピット全体が50cm程後方に動いた。
 
思わず操縦桿を握り締めた左手に、電撃のような痛みが走る。
 
ドラガンに貫かれた傷が開いて出血が始まったのは、見なくても分かった。
 
だが、今はそんな方向に気を取られている暇は無い。
 
空母の蒸気カタパルト並の加速を見せたカレンは、3秒にも満たない内に搬入口を通過し、タカシの気が付いた時にはもう地中へと続く穴が目の前に迫っていた。
 
 
 
「飛ぶぞ、カレン!!」
 
<<了解>>
 
 
 
そこからのタカシとカレンの連携は、実に見事と言うべき物だった。
 
まずタカシが脚部制動とエアブレーキを全開し、時間を掛けてようやく実現した全速力のエネルギーの大半を惜しげもなく捨て去った。
 
それと同時にカレンは水平翼のフラップを下ろし、更に出力の低下したエンジンのノズルを仰角−60に調整した。
 
これにより機体は全速から急激に速度を落とし、既にトレイのいないエレベーターの穴にさしかかる頃には、丁度斜行する縦坑の角度に合わせて自然落下するレベルにまで達していた。
 
 
 
そしてそのまま重力に従う形で、ジオフロントの闇に向かって落ちていった。
 
 
 
フラップを開いた翼の揚力と、深めに設定したノズルによって、本来鉛直真下に向かう重力はエレベーター坑と平行に斜めに落ちる力へと変化していた。
 
ただ斜めに落ちるだけならば簡単だが、シャトルのような微細な空中姿勢制御機構が組み込まれている訳でもない以上、軌道を制限された形で降下する事は非常な困難を伴う。
 
しかも飛行時に限定すれば、構造上HIGH-MACSは後退よりも前進する方向に力が作用しやすい。
 
一つ操作を誤って前に出過ぎた場合、後退して修正する事もできずに、エレベーター坑の内壁に衝突する結果となりかねなかった。
 
タカシはエンジンの仰角と出力を同時に操作して落下速度と角度を調整し、カレンは複雑な坑内の気流計算と、それを抑える為のフラップ挙動を司る役割を分担していた。
 
そうでもしなければ、HIGH-MACSという極端な指向性を持つ機体でここまで器用な飛行を行う事など不可能だった。
 
 
 
<<トレイまで残り高度72m。適性速度より50km/h過剰です>>
 
「後で帳尻を合わせる。着地のタイミングを逃さなければいい」
 
<<相対位置調整>>
 
 
 
細切れにエンジンを噴射しながら、予定した位置で着地するべく調整を続ける。
 
ニキータから送られたエレベーター抗の構造は、ちょうどピラミッドの斜抗のように途中で直径が2倍に膨れあがる構造をしていた。
 
元来、ジオフロントの外殻部において広範囲に薬剤による地盤強化工事を行う為に作られた坑道であり、それをそのまま底部基礎工事用のエレベーターに仕立て上げたのである。
 
地上から外側に向けて広がる坑道の傾斜は約15度で、それが平坦な地表部から伸ばせる限界であり、その延長線上にジオフロント全体を間接的に支える見えない基盤が広がっている。
 
坑道が途中から拡大しているのは、地下300m以下での水圧と脆弱な地質を克服するために、トンネル防護と薬剤注入の規模を拡大させた名残だった。
 
 
 
タカシとカレンは、最初からこの構造を利用するつもりでいた。
 
 
 
<<着地予定高度到達まで、残り20m>>
 
「ニキータ、下の連中に先に扉を開けさせておいてくれ」
 
『…了解…タカ…いで…』
 
 
 
通信領域ギリギリの電波は可聴限界に近い声しか届けなかったが、仮に聞こえなくとも彼女ならばこれから起きる事を察する筈だった。
 
もし当てが外れれば、例えタカシ達の挑戦が成功しても、肝心の締めで全てを無駄にする事になる。
 
 
 
<<坑道第三層到達。可動範囲が拡幅されます>>
 
「着陸、行くぞ!!」
 
 
 
可視光モニタでは殆ど確認できないが、膨れあがった空間に踊る気流が束縛の解放を告げた。
 
タカシはエンジンの出力を急速に絞って重力に身を任せ、機体を一気にエレベータートレイに接近させる。
 
それまで注意を払っていた相対的な位置や速度など一切忘れたかのような、暴挙に等しい操縦だった。
 
トレイの存在を確認した時点から下方に視点ロックしておいたサブカメラが、トレーラーの中で身を隠している運転手の姿を映していた。
 
着地する瞬間、コクピットが回転して対ショック体勢に移行した。
 
 
 
プレス機が鉄屑を圧搾する時と同じ、あらぬ方向へ捻じ曲げられた金属の悲鳴が鳴り響く。
 
 
 
だが、タカシは躊躇わずジャンプ機構のペダルを思い切り踏み込んだ。
 
100tを越える圧縮力が脚部と大腿部関節に集中するが、コンマ5秒程の拮抗の後に、12式改は再び闇の中へと飛翔した。
 
トレイをジャンプ台にして、拡幅によって産まれた新たな空間に躍り出たのである。
 
その下にあるのは、無限にも見える果てしない暗黒の井戸。
 
 
 
<<滑空開始。最終着地地点まで、残り657m>>
 
「翼を俺に渡せ。噴射のタイミングは任せる」
 
 
 
タカシは空中でエンジンの噴射を姿勢制御のみの最小限出力にまでカットし、その身を空力と重力の手にほぼ完全に委ねた。
 
ジャンプする事で一旦トレイより上に昇った機体は、瞬く間にトレイを追い越して落下し、その姿勢も心なしか前傾になって地底を見据える格好となる。
 
 
 
他の何かに例えるべくもなく、それは正に自由落下そのものだった。
 
 
 
高度計はエレベーターに突入した時点からマイナスに振れていたが、重力に抵抗しない事で減少速度も異常なレベルに達し、ディスプレイ上の目盛りを判別する事はおろか、数字の変遷を追うのもmm単位では眺めるだけで本能的な恐怖を呼び起こす。
 
更にシートに座るタカシは擬似的な無重力状態に陥り、ベルトによって固定はされていたものの、足元と内蔵が吊り上げられるような感覚に襲われた。
 
それでもタカシは傾斜に合わせて機体が滑空するように、フラップと翼角度を操作する。
 
荒くなる息を留められず、逆Gによって嫌でも上がる高揚感に身を包まれながらも、両手の操縦桿とペダルだけは間違いなく捌いていた。
 
 
 
<<警告、マスター心拍数の異常な増加を確認…>>
 
「ドラッグスタビライザーは使わない。身体系の警告は必要ない」
 
<<了解>>
 
 
 
薬剤強制投入の代わりに、押しつぶされそうな肺から一度だけ大きく息を吐き出し、強引に吸い込む。
 
地上で飛行した時には50m程度の着地で障害が発生した状況で、今度は一気に最深部まで降下し、少なくとも分解しない状態で着地させなければならない。
 
トレイを仲介して加速度を殺しても500mを越える高度は避けられず、しかも地上からの連続全力噴射によって、燃料は既に3割を切っていた。
 
ここから死なない程度に済ませるには、ギリギリまで噴射を控え、限界高度で一気に全力噴射する他にない。
 
そうなると、重量と噴射出力、そして脚部の耐久力を満たす完全な瞬間を掴むには、最終的な噴射のタイミングをカレンに一任するしかないのだ。
 
機体の性能を完全に把握してはいないタカシは、比較的旧機体と類似する空力制御に専念する。
 
 
 
<<警告、パイロットの身体的異常を確認>>
 
「警告はいらないって言っただろう!」
 
 
 
ヒステリックに叫び返した拍子に、左手の妙な感触に気付く。
 
片側だけ填めていたハンドガードの中が、ナメクジを握り潰したような陰湿な滑りに満ちていた。
 
外して確認しなくても、分かっていた。地上で開いたドラガンの傷跡が完全に開いたのだ。
 
 
 
「そっか…俺、怪我していたんだっけ…」
 
<<下降速度過剰。警告。下降速度過剰>>
 
 
 
カレンの声が聞こえていないのか、タカシは呆けたように見える筈もない傷を見つめ、無意識に叩き込まれている筈の機体操作も完全に怠っていた。
 
コンソールパネルや警告灯の光に照らされて、手首や操縦桿にまでこびりついた血の痕が見える。
 
指は細かく震えて、抑えが効かなかった。
 
思考停止というよりも、痙攣によって身体が停まっていると言った方が正しい状況だった。
 
 
 
<<…下降速度自動修正。揚力調整に不全>>
 
 
 
警告灯の数が増えても、タカシは何の反応も示さない。
 
エレベーター抗の傾斜は次第に深くなり、前進する猶予が無くなる分だけ、揚力に依存できる割合が減少していく。
 
高度計の数値表示が、鋭い警告音と共に黄色から赤に変わる。
 
気流の乱れが許容限界を越え、機体の振動が緩和機構にも抑えきれなくなった。
 
 
 
<<警告、機体挙動調整不全、警告>>
 
「…ああ、分かっているよ。カレン」
 
 
 
相変わらず返事は呆けていたが、手と足は嘘のように沈着に動いた。
 
まず、水平翼の傾斜とフラップ角を微妙に上げ、機体をより前傾させる事で坑道内の相対位置を調整する。
 
続いて最終目標となる地下搬入口の位置を確認し、侵入コースを設定、カレンに全力噴射時間を計算させる。
 
血塗れの左手でコンソールを叩いていく。指の震えは既に消えていた。
 
右側の操縦桿だけで方向舵とフラップの制御も行って、極度に激しい機体の振動も無くなった。
 
どれも無駄のない的確な対応だったが、意思というものが感じられない自動的な動きだった。
 
 
 
<<設定確認。全力噴射まで残り92秒。進路は現状維持>>
 
 
 
縦坑は最終階層に入り、微妙な傾斜も無くなって、あとは地底に向けて鉛直に伸びるだけとなっていた。
 
メインディスプレイには高速で擦過する壁面のみが映っている。
 
時速300kmを越える降下速度が具体的に見える瞬間だったが、タカシは怯みもせずに淡々と作業をこなしていく。
 
 
 
「カレン、状況確認」
 
<<翼傾斜角適正。全力噴射まで30秒。カウント開始>>
 
 
 
外から無線に飛び込んでくる雑音が次第に大きくなる。
 
内容は聞き取れないが、高音域のやたらに強い声はニキータに間違いなかった。
 
出口たる最深部搬入口の向こうで、こちらが飛び込む為の準備をしているのだろう。
 
周辺にある障害物を排除しなければ、突入の正否以前に大事な地上との連絡道が丸ごと潰れてしまい兼ねない。
 
本来ならばもっと早く準備をするべき所だったが、半ば試験のような形で短時間の収容を義務づけられたからには無理にでも片づけなければならない。
 
これから金を貰って「受注」するからには、この程度の事態は避けられないのが現実であり、一々言い訳する事など許されないからだ。
 
皆、それを分かっているから文句も言わない。
 
ただ迫りくる現実と仕事をちぎっては投げの勢いで潰していくしかないのだ。
 
 
 
『そこ、まだ邪魔だから早くどけて!だから、そっちに流れたらどうするつもりよ!』
 
「ニキータ、もういいから避難しろ。あと1分もない」
 
『タカシ!』
 
「消防の準備も頼む。最悪でも俺とカレンは生きて帰る」
 
『分かった…無理しないで』
 
 
 
ディスプレイのカウント表示が赤く染まり、残りが10秒を切った事を知らせる。
 
タカシは再び大きく息を吸い込み、吐くのと同時に両手の操縦桿を握りなおす。
 
左手の出血は完全に無視した。
 
ここからは、一つの躊躇が死に繋がる。
 
 
 
<<噴射、開始>>
 
 
 
タカシが最初にこの機体に乗ってから、今に至る短い間に二度の全力噴射を体験した。
 
だが、完全に垂直落下する状態での全力噴射は、恐らく設計したMDM社や戦自研の技術者達も想定していなかった事態に違いない。
 
まず、地上での最初の噴射で見事巨体を空に浮かせた筈のGE製エンジンが、あらん限りの炎を吐き出しても、何の抵抗も生み出せない。
 
音と振動は相変わらず壮大だったが、それに伴う実力は完全には発揮されなかった。
 
エンジンと共に揚力を創り出す筈の翼も、噴射以前と以後の差が目に見える程変わった訳でもなかった。
 
今においては、所詮それらも重力をできる限り殺す為の消耗手段に過ぎなかった。
 
拮抗と言うには余りに一方的な力の衝突が、これまで以上に激しい振動となってタカシとカレンを包んだ。
 
 
 
<<落下速度調整不全。揚力不足です>>
 
 
 
カクテルシェイカーに放り込まれたような縦揺れの中でもカレンの声は全く揺るがない。
 
タカシは舌を噛まないように口頭制御を使わずHOTASのみで操縦桿の操作でカレンに返事を送る。
 
噴射によって傾いた翼傾斜角を戻し、着地に備えて機体全体の重心バランスを前がかりに持っていく。
 
地上での着地は重心が明らかに後方へと向き過ぎていたが故に失敗した。
 
その修正は、今の所タカシが自分でフォローするしかないのだ。
 
 
 
『底部着地準備よろし。タカシ、聞いてる?』
 
<<最終着地点まで30秒>>
 
『…ねえ、返事してよ!!』
 
『今タカシが返事できる訳ないだろ。慌てるな』
 
『タカシ、間違って死んだら殺すわよ!』
 
『分かったからお前も黙っていろ!』
 
<<搬入口からのレーザー誘導確認。信頼度低と認識、アクセス破棄します>>
 
『来るぞ、総員退避!』
 
『いいね〜こういうの』
 
『ちゃんと降りないと罰金だぞテメー』
 
『HIGH-MACS一台分の罰金カモーン!!』
 
 
 
地の底を見据えていた定点視点カメラに、ごく小さな光の点が映る。
 
既にタカシは計器を無視して、機体の相対位置を表す仮想断面モニタとこの視点の映像だけをひたすら見比べていた。
 
ここまで来ると、前例や予測が無い以上は目測と勘で操縦するのが最善と彼は判断していた。
 
確かに、第5世代AIの落胤として新しく生まれ変わったカレンは、ここまで的確な計算と制御をもたらしてきた。
 
だが、それも想定された地形とあらかじめ入力された諸元あっての事であり、それ以上の仕事は業者が言う所の「範疇外」でしかない。
 
機械を正しく誘導するのは、結局人間の仕事だった。
 
自分の命は自分の責任で守る以外にない。
 
 
 
<<落下速度が過剰です。警告。落下速度過剰>>
 
 
 
だがタカシは落下の恐怖と引き換えに、前に進む推力を選んだ。
 
ほんの数メートル、HIGH-MACSの接地面で言うとつま先の半分程度の距離。
 
その距離を稼ぐタイミングが、タカシの脳裏に閃いた。
 
 
 
「降りる!!」
 
 
 
カレンが脚部の設定を変えるタイミングが、寸前で間に合った。
 
高さ20m、幅15mの地下最下層搬入口。
 
そこに機体を強引にねじ込む一瞬のチャンスを掴む。
 
 
 
<<接地点許容範囲。着地>>
 
 
 
本来ならばエレベータートレイと接続する僅かな張り出し部分が、辛うじて機体を引っ掛ける形になった。
 
脚部のアブソーバーとアンチアクチュエーターを伝って、接地の衝撃が機体全体に走る。
 
 
一斉に、コクピット中のありとあらゆる警告灯が赤い叫びを上げた。
 
 
タカシの身体がシートと固定ベルトの狭間で短く激しくバウンドする。
 
衝撃を吸収する為のシートや密着パッドなど何の役にも立たず、360度四方から押し寄せる見えない力に身体が弄ばれる。
 
それでもタカシは意地でも操縦桿を離さなかった。
 
振り回される頭部のHMDで垣間見る周辺の状況は、想像以上に雑然として直進以外の進行方向はまず望めない有様だった。
 
坑道最深部の全幅は広くてもせいぜい200m程度。
 
そのまま横切る形で直進しても、まず速度は殺しきれない。
 
だが止まらなければ、隔壁に正面衝突、爆発炎上という何とも明快な死に方をする事になる。
 
 
 
「全力制動、オールオート!」
 
 
 
完全に操縦を依存されても、今度はカレンも音声では返答を出さなかった。
 
ただ嵐のような振動に拍車をかける形で逆噴射とエアブレーキ、加えて車輪とエッジの両接地ブレーキを予告もなしに全開にしただけだった。
 
タカシは操縦桿から手を離し、両腕と縮めた足で頭部をブロックする胎児のような体勢を取る。
 
急停止時のムチウチ予防を含んだ対衝撃防御姿勢だったが、無論正面衝突まではその予測範囲に含まれていない。
 
最終的にはエアバッグと強制脱出装置でパイロットを守る仕掛けになってはいるが、最悪の事態という事はそれらも失われる可能性が高い場合を指す。
 
タカシから生命のタクトを委ねられたカレンは、周辺状況と加速度減殺のバランスを組み合わせた最良の選択肢を千分の一秒で弾き出し、実行した。
 
 
 
突然、機体がスピンするような急速転回を見せ、機体正面が進行方向の真横を向いた状態になった。
 
 
 
遠巻きに見守るニキータ達の目の前で、カレンの巨体が爆発的な白煙と火花にまみれて驀進していく。
 
自動車のスピンターンと同じ理屈で急制動と重心移動により機体を回転させ、接地面のエッジを垂直に利かせる事で摩擦力を獲得、短距離で急速停止させるノンオフィシャルな挙動だった。
 
それはおよそ戦闘装甲車両の類としては極めて異質な挙動で、運航システムによって制御されている点を除けば、およそ暴走と区別がつかなかった。
 
言うまでもなく制御には困難を伴う。極度の摩擦力が発生する時は逆に制動力が失われて制御不能に陥る危険性が高く、それが重量30tクラスで時速100km付近ともなれば発生するモーメントは想像を絶するレベルになる。
 
曲がりなりにも第四・第五世代の息がかかった人工知能を積んだHIGH-MACSだからこそ実現できる荒技だったが、それでも一つ間違えば転倒どころでは済まず、機体は良くて分解整備で、パイロットは高確率で重傷を負う。
 
まして今のカレンは未知数の機体であり、通常の運用はもとより、こんな規格外の挙動が成功する可能性は客観的に見て著しく低かった。
 
フォローできる要素があるとするならば、それは、
 
 
 
『タカシ、気合い!気合いで耐えろ〜』
 
 
 
ニキータの言葉は決して戯言ではなく、それ以外に成功要素は存在しなかった。
 
機体にかかる物理的な負荷を軽減する為には、システムとパイロットが可能な限り負担しなければならない。
 
即ち、機体保護を最優先させ、それ以外の保護対象を無視させる。
 
これで機体分解に匹敵する衝撃をも辛うじて吸収しえる…と祈るしかない。
 
当然、その跳ね返りはパイロットが負担する事になり、そこを凌ぐには結局「気合い」がものを言う。
 
 
 
そういう強引で型破りなマニューバがマニュアルに記してある訳もなく、全てタカシ達が自力で積み上げた経験の一端だった。
 
 
 
タカシの予想では、中東内戦が終わって機体を没収された時点でこの手の記録はカレンの中から抹消されている筈だった。
 
それが事もあろうにカレン自身が選択肢の一つとしてこのスピンブレーキを覚えていた。
 
となれば、この街に来る前に吹き込まれた「最優先で環境を揃える」というお膳立ては、あながち方便でもないのかもしれない。
 
だとすれば、意地でもこの着地は綺麗に成功させなければならない。
 
言わばこの機体こそがスポンサーからの無言の圧力そのものなのだから。
 
 
 
『こりゃダメだ、止まらないぞ!!』
 
『退避!退避!』
 
 
 
速度を殺し切れないカレンは、ちょうど人間が滑り込みをするような格好で、脚部のみを進行方向にスライドさせて滑走していく。
 
より重心を低くし、接地面のエッジを立てる事で摩擦力を更に増す挙動だった。
 
分かる人間ならば、スキーのスピンブレーキを連想した筈である。
 
雪の代わりに強化コンクリート、板はそのままHIGH-MACSの接地面、「足裏」のエッジが担う。
 
しかし、スキーならばごく普遍的なこの方法も、二足歩行兵器となると次元がまるで異なる。
 
ただでさえ危険な賭が、よりハイリスクなレベルに昇華する。
 
 
 
警告灯が二、三度だけ瞬いた直後に、コクピット内から全ての光が消えた。
 
 
 
完全な漆黒の中で、タカシの身体が左右から作用反作用力の嵐に圧迫され、自分が目を閉じているのか否かも自覚できない。
 
いかなる恐怖も、自覚できる限りはまだ浅いと言える。
 
見えない、把握できないというだけでその本質は何十倍にも膨れあがり、覚悟の鎧で固めた心を鷲掴みにして握りつぶす。
 
胃が締め付けられ、堪らず吐きそうになる。
 
しかし、前方どころか上下すら把握できない状況の中で、自らの吐瀉物が気管を塞ぎ固めるイメージが脳裏をよぎり、本能的に食道が縮んで閉まる。
 
確かにベルトで座席に繋ぎ止められている筈なのに、崖から放り出されたような喪失感しか感じない。
 
それは正に、母親に命を預けた無力な胎児の姿に他ならなかった。
 
 
 
<<逆加速度確保。停止プロセス開始>>
 
 
 
コクピット内の光と共に現実に帰ってきたカレンの声は、最初の落ち着きを取り戻していた。
 
無意識に閉じていた瞼を開けると、機体は予定通りに隔壁の手前2m程で進路変更し、それで事実上着陸は成功だった。
 
延々と続く坑道を余裕を持って巡航滑走し、後は通常のブレーキングで事足りた。
 
時間にして10分も経過していない、短く長い旅だった。
 
 
 
<<停止確認。システム損傷箇所確認開始。タカシ、お疲れさまでした>>
 
 
 
一瞬、接地面から煙でも噴いているかと錯覚したが、下を映したままの定点カメラでは何の変化も見えなかった。
 
いざ終わってみれば全ては事もなく収まり、カレンもタカシも目立った損傷も受けずに前人未踏の飛行を終えた。
 
ただ、警告灯の大合唱と点滅の嵐は消え去らず、それどころか時間が経つにつれて少しずつ増え始めていた。
 
 
 
「燃料、どれくらい残っている?」
 
<<巡航で約150秒分です>>
 
「残っているだけマシか…」
 
 
 
台車にポンプを乗せただけの即席の消火車両と共に、仲間達が背後から走り寄ってくる。
 
タカシの左手からは、相変わらず止めどなく血が流れ続けていた。



――――――――――――――――――――――――――――――

 
 
 
「で、それからどうなった?」
 
「別に。そのまま何事もなく流れていって、ヨロシクって事で終わり」
 
「ツマンねぇの」
 
「何よそれ」
 
「だってよ、俺だったらいきなり奇襲かけられた上に『今日からここは俺達が面倒見る』なんて言われたら絶対刺すね。死んでもいいから」
 
「相手がタカシとかフランツ爺さんでも?」
 
「いや、そんなの知らない奴からすれば単なるジジイと変なガキにしか見えないし」
 
「で、死んだら?」
 
「まあ…それはそれでしょうがないんじゃねーの?」
 
 
 
ジャックの発想は楽天的というよりも、一種自虐の混じった刹那主義に近い。
 
傭兵という職種では珍しくもない性格だったが、正直言って一緒に組んで仕事をするには遠慮したいタイプだった。
 
 
 
「あんたのお気楽さが羨ましいわよ」
 
「お前が?冗談言うなよ。石橋を叩いて人に渡らせる上に、その横で自分は誰も通らない道を歩く癖に」
 
「アンタがデタラメ過ぎなんでしょ、ジャック」レオナが後ろから茶々を入れてきた。
 
「…うるさいな、オメーと話してなんかいねーんだよ」
 
「いいじゃないの。どうせニキータはあんたみたいなハンパ者は相手にしないんだから」
 
「向こう行ってろよ、このヤク中雌豚」
 
 
 
ジオフロント外縁を巡る、円状の坑道。
 
蒸し暑い地上から遠く隔てられたこの空間では、むしろ乾燥した冷たい空気が身体を包み込んでいた。
 
ネルフとの話が非公式の内に終了し、正式にこの場を使える身分になったとはいえ、状況は潜伏していた頃と変わらず全機能の10%も回復していなかった。
 
即ち、非常灯に毛が生えた程度の局部用の照明と最低限の電源、そしてこれだけは膨大に余っていた地下水から精製した生活用水。
 
これより悪い条件は幾らでも経験してきたとはいえ、一スコードロンの半分6機のHIGH-MACSを秘密裏に搬入、奇襲させるという真似は公平に考えて無茶でしかなかった。
 
しかし、現実に作戦は成功した。
 
結局、『四の五の考えるより実行に移すしかない』というタカシの結論が、そのまま結果に結びついた形になった。
 
結果的にまたしても手柄を取られた形になったステファンは相変わらず愚痴たっぷりだったらしい。
 
 
 
「ちょっと、何すんのよ冷たいわね。水は大事に使いなさいよ!!」
 
「さっきまで頭から水浴びしていたのは誰だよ」
 
「だってさ、こんな贅沢な真似そうそうできるもんじゃないしー」
 
「このクソ寒い中でかよ」
 
「悪かったわね、一回やってみたかったのよ!」
 
「だから死ぬ程浴びせてやるよ!!」
 
「やったわねこの素人童貞!!」
 
「だとテメェ!!」
 
 
 
ホースの水をかけ合うレオナとジャック。
 
何故か、この二人は相性が良い。
 
似た者同士は反発する事が多いのだけど、この二人の場合はちょうど傷の舐め合いのような作用が働いて、距離的にも申し分ないレベルを保っているのかもしれない。
 
 
 
「で、ニキータ。タカシの様子は?」
 
 
 
そんな二人など目にも映らないらしいゲルトは、手押しカートに山積みされた携帯食料を手に取って弄っていた。
 
 
 
「うん…手と額の傷はLCLリンゲルですぐに塞いだけど…」
 
「ドラガンのが効いたか」
 
「だって、あんなの私達だって全然予想してなかったし、第一、残留組が寝返ったなんて情報なかったから」
 
「家族が人質じゃ情報流出も望めない、か。いずれにしても全部敵に回った訳じゃないだろ。欧州やアフリカに渡った手合いも相当いるだろうし」
 
「ね、ゲルト。第一陣のクリーニングは大丈夫なの?」
 
「…」
 
「…」
 
「…チャールズ爺さんと、愉快な仲間達を信じようぜ」
 
「何かあったらすぐ知らせてね…」
 
「そうするよ」
 
 
 
敷設工事の時に残されたままの、坑道用警報ベルのけたたましい音が響き渡る。
 
もう少し近代的な設備があって然るべきだったが、この手の施設は堅実で分かりやすく、頑丈なもの優先して設置される傾向にあった。
 
今、地上から荷物を降ろしてる巨大なエレベーターも、駆動部分こそリニアとモーターの併用だけど、それ以外は通常の車両用エレベーターを巨大化しただけの代物だった。
 
これから1週間、ここを通して大量の荷物が届く事になる。
 
整備班もこんな物を整備する余裕も知識もないだろうけど、とにかく早急に体制を整えなければならない今は、動く限り酷使して、時間を稼ぐしかない。
 
 
 
「そろそろ開くぞ…歓迎の用意!!」
 
 
 
ロックランプが点灯し、ゆっくりと二重式のハッチが開く。
 
暑い外気と轟音と共に、『UN』のマークが入ったトレーラーが姿を現した。
 
ゆっくりと歩速程度で進むトレーラーのカーゴを、両側から仲間達がこぞって叩き始める。
 
口笛と歓声、そして拳と蹴りの歓待だった。
 
 
 
「搬入ポジションOK!開けろ!」
 
 
 
カーゴ最後尾の扉がゆっくり開いた、途端に内側から勢いよく押し開けられた。
 
 
雪崩のように中から出てくる、子供達。
 
 
場所や地域こそ異なるが、私達と同じ過酷な戦場を生き抜いた、まだ顔も知らない「戦友」だった。
 
 
 
「良く来たな!!」
 
「もう大丈夫だ!!」
 
「オラァ、水だ!!腹壊すくらい飲め!!」
 
 
 
レオナとジャックが、あらかじめ用意した消火用放水ホースを極小威力で噴射する。
 
複数のトレーラーから搬出された何百人という子供達が、我先にと水流の方へと駆け寄っていく。

この子供達は、ネルフや国連軍の荷物として世界中から『空輸』され、生命を維持できる最低限の条件下で密閉されたまま、ここまでやって来たのだ。
 
水を飲んでも吸収できない程衰弱はしていなかったが、飢えと乾きに苛まれていた事に変わりはない。
 
カーゴの中から漂う、垢と糞尿の混じった匂い。その空間だけが、かつて私達のいた世界と同じ空気に占められている。
 
仲間達の放った水流は、その忌まわしい空気を過去へを洗い流し、未来への道を開く奔流だった。
 
 
 
「携帯食料で悪いが、いくらでもあるぞ。食ってくれ!!」
 
「寒いなんて贅沢な事言うな!!水浴びろ!!服を脱げ!!」
 
「オラオラ、向こうじゃ一生かかっても飲めないくらいの水だぜ!!」
 
 
 
JJとゲルトがブロック型レーションをバラ蒔く。
 
歓喜の声。
 
国籍も経歴もバラバラで、基本言語も民族も違う。
 
英語が出来るならまだいいが、中には喋れない者もいる。
 
当然、私やレオナのような女性もいるし、それすら外見では判別できないくらいの幼い子供まで紛れていた。
 
だが、この場においては誰もが同じ行動を取る。
 
服を脱ぐ。
 
頭から水を被る。
 
焦って上手く開けられないレーションパックを歯で引きちぎり、一気に一本丸ごと口に押し込む。
 
それから笑って、自分の言葉で叫ぶ。
 
上っ面の意味など無い。心からの叫び。
 
強いて言うならば、その意味は、自由。
 
 
 
世界各地に散らばったする『少年傭兵』の仲間達を迎える、これが第一陣だった。
 
 
 
「飯食って飲んでクソしたら、風呂入ってすぐ眠れよ!やる事はいくらでもあるんだからな!」
 
 
 
相変わらず傲慢さを押し出して憚らないステファンの声も、今や隠しようのない喜びに溢れている。
 
この現実、目の前にある信じがたい光景は、自分達の力でもぎ取った、紛れもない勝利。
 
自分の運命に対する勝利。
 
のしかかる圧倒的な力を更に凌ぐ力で押し退け、数え切れない程の罠を見抜いてたどり着いたこれが結果だった。
 
 
 
「馬鹿野郎!!こんな所でションベンするな!便所が用意してあるからそっちに行けよ…そっちだ…」
 
 
 
カンターは耐えきれずに泣き出した。泣きながら遮二無二ホースの口を宛もなく振り回していた。
 
見ていられなくなり、その手から放水ホースをもぎ取って、傷つけないよう適度に威力を弛めた水流を子供達に向ける。

カンターは、そのまま立ちつくしたまま泣いていた。
 
一番遅れてカーゴから出てきた少女が、水流に顔を突っ込んで渇きを癒す。
 
ボロボロに痛んだドレッドヘアをした少女の顔は、水流から出ても少し歪んだままだった。
 
 
間違いなく、梅毒だった。
 
 
 
「着いたのか…上手くいったんだね」
 
 
 
『カレン』との突入で痛めた左腕を包帯で釣ったタカシが、複数のクーラーボックを載せたカートを片手に立っていた。
 
手酷く出血していた額の傷は、今は絆創膏が貼ってあるだけだった。
 
 
 
「スポーツドリンクだ。水ばっかりじゃ必要な栄養足りないから、飲ませてやってくれ」
 
 
 
クーラーボックスの中身は、氷の中に埋められたペットボトルの山だった。
 
タカシが一体こんな物をいつどこで手に入れたのか全く見当が付かなかったが、この時の為にあらかじめ用意していたのは間違いなかった。
 
梅毒の少女が真っ先に氷ごとボトルを取り出すと、目敏い子供達が続いて群がってくる。
 
タカシは次々とクーラーボックスを開放し、後は子供達の好きにさせた。
 
 
 
「どっちにしても、あれじゃ腹冷えて体に悪いんじゃないの?」
 
「やっぱりそうかな?」
 
「当たり前じゃないの。まあ、別に死にはしないでしょうけど」
 
「…ごめん」
 
「私に謝ってどうするのよ」
 
「ごめん」
 
 
 
らしくないタカシの態度に、一瞬、碇シンジ役の実地練習でもしているのかと考えた。
 
第一、仲間とはいえ他人に施しをするなど、彼女の中の牧野タカシ像からほど遠い行為に感じた。
 
 
 
「ね、それマジでやってるの?」
 
「マジって…別に冗談は言っていない」
 
「いやそうじゃなくて」
 
「何だよ。何が言いたいのかはっきりしてくれないか」
 
「…ううん、いい。何でもない」
 
「…そうか」
 
 
 
それが本当に抜き身の態度だと分かって、ニキータは少し笑った。
 
タカシもつられて笑い出し、汚臭と大量の水にまみれたバカ騒ぎの最中で誰にも見えないように二人で丁寧に笑った。
 
気が付くと、クーラーボックスの中身は氷の一欠片もない、完全な空になっていた。
 
 
 
「タ〜カ〜シィ〜」
 
 
 
水撒きに飽きたらしいレオナが、後ろからタカシに抱きついてきた。
 
銀髪と仮面のような白い顔は、ニキータが見てきた彼女の本来の顔とは比べ物にならない程の美形で、馬鹿笑いしながら抱きつく様は、女から見ても背筋が震えるような色気を感じる。
 
本人がどこまでそれを把握しているかは分からなかったが、それを利用する気は満々らしい。
 
 
 
「やったじゃん!あんな無茶苦茶な降下なんて誰にも出来ないよ」
 
「カレンが頑丈で利口だったんだよ」
 
「最後の着地はタカシが自分でやったんでしょ?偉い偉い!!」
 
 
 
ちょうど父親の背中におぶさるようにしがみついたレオナを、タカシはそのまま片腕で背負って歩いてみせる。
 
娘たるレオナはその気になってタカシの首根っこに腕を回していた。
 
同い年で身長差も無い二人だったが、こういう光景を見ると兄妹か親子に見えなくもない。
 
もっともこれは雰囲気というより、人間関係の役割が既に決まっているだけに過ぎなかった。
 
 
 
「シャバ、あんたなんかもうタカシの名前呼びまくりで本気でテンパってたじゃない」
 
「…予想できない事が多すぎたから、混乱しただけよ」
 
 
 
ニキータは周りに誰もいない事を確認しながら、咎めるようにレオナの側に近寄って囁いた。
 
 
 
「その名前で呼ぶの止めなさいよ」
 
「大丈夫だって。この騒ぎの中じゃ聞こえないよ」
 
「あたし達三人の他には言わないって約束じゃない!」
 
 
 
レオナは自分でタカシの背中から降りて、まるでペットを撫でるような手つきで軽くニキータの頭を叩いてみせる。
 
 
 
「まあまあ、そんなに怒りなさんな。それより、タカシに話しがあるんでしょ?」
 
 
 
それだけ言い残して、レオナは仲間達の狂乱の中に走って戻っていった。
 
まるで、ニキータの背中を押す為だけに茶々を入れに来たような、そんなタイミングだった。
 
 
 
「全く、何にも変わらないんだから…」
 
「あれだけ顔形が変わっても中身が変わらないんだから、大したもんだよ」
 
「そういうもんなの?」
 
「で、何だよ。話って」
 
 
 
二台目のトレーラーから新たな子供達が降ろされ、再び大きな歓声があがる。
 
カンターやステファンも今度は落ち着きを取り戻したのか、大声を出しながらも子供達を一カ所に集めて水と食料の洗礼を与えていた。
 
そんな光景に目を向けて、ニキータはなかなか口を開こうとしない。
 
 
 
「いいから話してみてよ」
 
「…ドラガンさ、最後に自分から側溝に飛び込んだでしょ」
 
「うん」
 
「あれ…私が場所を教えたの」
 
「…」
 
「固有周波数の回線を、昔の数値のまま使っていたから…向こうから小声で聞いてきたの。爆発しても被害を最小限にできる場所を」
 
「それであんな早く決断できたんだ」
 
「私、一瞬どうしようか迷って…でも他にどうしようもないと思って、とっさにあの側溝を教えたのよ」
 
「大体、そんな感じだとは思っていた」
 
「え?」
 
「いや、走っていく前にニキータによろしくって言っていたから。あれは照明を点けた礼だけじゃなかったんだよ。きっと」
 
「…」
 
「具体的に、教えたのはどういうタイミングだった?」
 
「タカシが組み合ってチャンバラしている最中」
 
「それなら、色々と外の事情を喋ってくれたのも礼の内に入っているのかもしれないね」
 
 
 
露骨に表に出さないにせよ、タカシはもっと落ち込んでいるものとニキータは思っていた。
 
ドラガンの名前を出すだけで会話が膠着してしまう事も覚悟していたのに、むしろ遙か昔の思い出を掘り出すように、静かに話している。
 
しかし、それが擬態なのか、それとも二日の間隔の内に落ちついた結果なのかが分からない。
 
ニキータとしては迂闊に調子を合わせるのも躊躇われたし、何より自身が未だにドラガンを死地に追いやったという罪悪感に囚われていた。
 
 
 
「…ドラガンは、ああするしかなかったんだ」
 
「え?」
 
「ここまで来て無事に逃げられる訳もないし、自爆できなければ無駄死にになる。自分だけ死んで丸く収めるには、あそこしかなかったんだ」
 
「でも、あの人は望んで死ぬような人じゃなかった。どんなに苦しくてもあきらめないで生きる事だけを追いかけていたのに」
 
「自分の命と引き替えにできる存在が、見つかったんだよ」
 
「本当に家族の為に死んだっていうの?」
 
「いや、本当にそれが家族なのかは分からないけどさ」
 
 
 
タカシは喋りながら散らかったクーラーボックスを片づけ始めた。
 
 
 
「もし気にしているんなら、そう思って忘れるしかないよ。他にどうしようもないし」
 
「そんな事命令される筋合いは無いんだけど」
 
「…気に障ったら謝るよ。でも、嘘でもそう考えないと俺は堪らなくなるから」
 
「私は、そんなに弱くない」
 
 
 
調子に乗って言わずもがなな事まで口走ってしまったが、今更取り消す訳にもいかない。
 
果たしてタカシは寂しそうに笑うと、カートを引っ張ってあらぬ方へと去ろうとする。
 
今度はニキータが堪らなくなってタカシの左腕を掴んで止める。
 
 
 
「…まだ、直りきっていないんだ。勘弁してよ」
 
「私だって、死んで欲しいって望んで教えたんじゃないわ!」
 
「分かってるよ。だったらそれでいいじゃないか」
 
「良くないわよ!」
 
 
 
彼女自身も、自分の言動が理不尽なものだと自覚してはいた。それが、単なる甘えである事も。
 
ただ、タカシは怒りも笑いもしないでニキータの顔を見つめ、それから右手で身体を引き寄せて抱きしめた。
 
 
ニキータは無言で泣いた。
 
 
三台目のトレーラーが降りてきたお陰で、二人の様を見て冷やかす者も、余計な言葉を挟む邪魔者も来なかった。
 
 
 
「ごめん、私理屈では全部分かっているのに、我慢できなかった…」
 
「大丈夫だよ。きっとドラガンは喜んでいるよ」

「知ったような事言わないで」
 
 
 
言葉に反してニキータはタカシの身体から離れようとしない。
 
タカシの耳には本当に押し殺したような小さい嗚咽だけが聞こえた。
 
 
 
「でも、ありがとう」
 
 
 
その言葉を聞いて、タカシは自分から身体を引き離した。
 
ニキータは少し物足りなそうな表情だったが、タカシの背後に見覚えのある顔を見て態度が改まった。
 
 
 
「二人とも、そういうのは場所を選ばないと後でモメるぜ」
 
「ボビー爺さん…いつ戻ったの?」
 
「おいおい、誰があのガキ共を連れてきたと思っているんだ?」
 
 
 
肉付きの薄い細身の長身に国連軍の野戦服。
 
嫌味ではなく、見事に綺麗に禿げ上がった頭を右手で軽く撫でる。
 
バウアーやグラーフと同じ「保護者」の一人であるボビー・チャールズは、かつてSASで海外工作をしていた経験を生かし、各地で仲間達を『斡旋』する任務を負っていた。
 
建前はどうあれ、それは孤児と人材の確保に他ならなかった。
 
 
 
「比較的手早く引っ張って来れそうな健康な奴1000人程連れてきた。落ち着いたら教育してやらんとな」
 
「健康って、あれでも?」ニキータの脳裏には、顔の崩れた少女の姿が残っていた。
 
「ん?とりあえず、五体は揃っているのを連れてきた筈だが」
 
「持病の確認はしたんですよね?」
 
「ああ、病気は薬で治せるから大丈夫だ。整形もルートさえ確保すればこの国なら問題ないだろうしな」
 
 
 
それでフォローは終わりだった。
 
だが、確かにあの程度で済んでいるならまだ良い方と考えるしかない現実がある。
 
むしろ発病して悪化した後に治療できる事など、地球全体の規模で考えても奇跡に近い。
 
発病するような環境にいる者には医者は無縁で、逆に医者の揃っている環境ではほとんど発病しないか、したとしてもすぐに治療できるからだ。
 
 
 
「それで、今すぐ使えそうな仲間は見つかったんですか?」
 
「…それが、昔の傭兵補充のルートやらアフリカ辺りを当たったんだが…」
 
「信じないんだろ?」
 
 
 
それまで黙っていたタカシが冷淡に言葉を突きつけてきた。
 
チャールズは鋭い視線を受け流すように首を傾げて困った表情を見せるだけだった。
 
 
 
「爺さん、外の奴らはこの国が楽園だって言っても信じなかったんだろ?」
 
「まあ、結果的にはそういう事になるかなぁ」
 
「それって、結局ダメだったの?」
 
「いや、人材はいるにはいるんだが、何というか…タカシの言うように、こちらの提示する条件が通じないんだ。これが」
 
「でも金ならそれなりに用意できるんじゃなかったっけ」
 
「いやいや、やはり限界はある。それよりも俺が思うに、怪しすぎるのが問題だな」
 
「怪しい?」
 
「戦う相手はいいとして、護る御主人様の得体が知れないのが良くない。国連はともかくネルフってのはな」
 
「ふーん…それをどうにかするのも目的なのに」
 
「おいおい、それを言って誘える訳もないだろ」
 
 
 
チャールズは大袈裟に辺りを憚る仕草を見せたが、ここで機密を聞かれたとしてもどうという事はない筈だった。
 
少なくとも今のところは。
 
 
 
「昔のように遠くの情報が一瞬で伝わる世界じゃない。学者の話じゃ地球人口の三割は、未だにセカンドインパクトの詳細どころか存在すら知らないなんて言われてるんだからな」
 
「昔ったって、私達だってよくは覚えていない頃の話でしょ」
 
「たった15年だぞ、15年。それだけの間に全部失って、ほんの少しだけ取り戻して、残ったのが広大な戦場と僅かなパラダイスなんてSFにもなりゃしないじゃないか」
 
「…」
 
「それでこっち側に引っ張り上げてやろうとしても、てんで話になりゃしない。地球の状況を一から説明して、それからようやく使徒だのネルフだの言えるんだからな」
 
「半分も話を聞かない内に帰っちゃうでしょうね」
 
「どうでもいいさ。ここでのお祭り騒ぎが裏で広まれば、嫌でも注目は集まる」
 
 
 
一人で結論を出して、タカシはさっさと坑道を奥に向かって歩いていく。
 
 
 
「どこ行くの」
 
「地上の偵察だよ。爺さん、もうメンツは集まっているんだろ?」
 
「ん?ああ、予定通りだ。お前はその怪我でいけるのか」
 
「LCLリンゲルってのは凄いよ。骨折でもない限り、三日で大方治るんだら…」
 
 
 
そうしてお祭り騒ぎの喧噪を振り切るように走り出した。
 
 
 
「偵察って」
 
「地上の地形調査さ。大体は国連からの資料で掴んではいるが、奴らはバンカーの設置場所まで見ている訳じゃないからな」
 
「みんなもう準備しているの?」
 
「向こうの騒ぎに参加していないメンツから一個中隊程、な。専門分野毎に2、3人揃えて最適の場所を探るって寸法さ」
 
「そうだったの…全然聞いてなかった」
 
「お前も来るか?」
 
「え?」
 
「狙撃と侵入の面から検討するべき所はかなりある。人手は多い方がいいからな」
 
「…うん、行く!」
 
「じゃ、支給された国連軍の服に着替えて14:00までにD-6の真下に集合だ」
 
「ありがとう!」
 
 
 
放たれた小鳥のような素早さで、ニキータもタカシと同じく奥にむかって駆け出していく。
 
その方向にはかつての現場管理事務所を改造した仮設の隊員宿舎があった。
 
 
 
「世話の焼ける女だな、全く」
 
 
 
一人残ったチャールズは、無意識の内にまた頭を軽く撫でて呟いた。
 
エレベーター前では相変わらず新入りを歓迎する馬鹿騒ぎが続いている。
 
迎える方も迎えられる方も、我を忘れてはしゃいでいた。
 
 
 
「しかし、こんなガキ共を担ぎ出して俺達もな…」
 
 
 
かつて多くのグルカ兵を戦場に送り込んだ自分の事を棚に上げ、チャールズは現在の不実を嘆いて見せた。
 
 
 

 *      *

 
 
 
「で、どうなの?」
 
「国連及びネルフにおける正式な申請受諾は確認しました」
 
「申請上での規模や活動範囲は、三日前に彼等が説明した通りの内容です」
 
「現在までに搬入された機材や貨物にも偽装や異常は認められません」
 
「…その点に関しては、実際に自分の目で確認しない限り断定はできないわね」
 
「少なくとも搬入量は申請した分と同じです。それだけ異常に多いって事ですけど」
 
「一日当り2000t?」
 
「入ってきたトレーラーの積載量だけならほぼその通りです」
 
 
 
テロ騒ぎ改め『誤報騒動』から三日が過ぎた。
 
地上の市街地を元に戻し、正式に誤報として政府や公報課に発表した後、作戦司令室では下級職員も含めた外部には内密に、様々な情報を収拾し続けていた。
 
それは唐突に出現した武装集団に対する不信感もあったが、何よりも彼等からもたらされた危険極まりない情報に関する警戒心によるものだった。
 
 
 
ネルフを攻撃対象とした、大規模なテロ組織の存在。
 
 
 
本来ならば外部とも連携した上で、もっと大々的に調査するべき問題だったが、むしろ逆にこちら側からの情報漏洩を警戒するべきなのが実状だった。
 
彼等の話が真実ならば、保安諜報部の目が届きにくい下級職員クラスには既に組織の手が伸びている可能性もある。
 
何よりも、実際にその姿を見せられた上に、写真のみとは言え犠牲者の姿まで晒されたのは無視できない現実だった。
 
 
 
「それと、ここ三ヶ月間における不審な経緯を経て退職を含む組織離脱となった職員は総数で25名、その中で全く消息が掴めないのは3名です」
 
「それ、どこから拾ってきた情報?」
 
「保安諜報部のデータベースです」
 
「つまり、保諜部は状況を知っていて黙っていたって事?」
 
「どうせ、聞かれなかったから言わなかったと返されるのがオチね。突っつくのはダメよ、ミサト」
 
 
 
リツコがどこまで今回の裏側を知っていたのかは分からない。
 
いずれにせよ、平気で身内を騙すような形で策を巡らすやり口を見せられたせいで、司令室内における信頼を著しく失ってしまった。
 
そういう状況だと、この場を取り仕切るミサトとしては、却って失われた彼女の信頼を取り戻す事に邁進する必要に立たされる。
 
一番の弟子であるところのマヤを除けば、今の所リツコの話に対応するのはミサトの仕事になってしまっていた。
 
 
 
「突っつくにしたって、どうせ只で言う連中じゃないわよ」
 
「マギの実力で獲ってくる分には問題はないわ。それで向こうも文句言わせなければ良いのよ」
 
「できるの?」
 
「当たり前よ」
 
「じゃ、それは任せるわ。ところで、連中が提出した資料が偽造ではない、という証拠はあるの?」
 
「残念ですが、デジタルデータ化されてない情報をこの場で検証する事は不可能ですね」
 
 
 
無論、存在すら定かでないテロ組織が内部で刊行する新聞など控えている筈もない。
 
 
 
「一応、新聞紙や印字用のインクは鑑定にかけましたが…」
 
「どうせ、『理論上では本物』っていう結果が出たんでしょ」
 
「そうです。全て中東やその近辺で手に入れ易い原材料で構成されてます。しかしこの結果は同時に偽造も簡単にできるという証明でもあります」
 
 
 
結局、全てミサトの予想通りの結果だった。
 
可能性は否定できないが、全面的に信用するには足りない証拠。
 
いずれ真相が明らかになるかもしれないが、その頃にはあの物騒な子供達も何食わぬ顔で居座っている可能性が高い。
 
いくら御上が許したとは言え、そのまま手放しで受け入れる事などできない集団。
 
彼等の出自を知るミサトにとっては、それが特務師団に対する揺るぎない評価だった。
 
 
 
「悔しいけど、あの写真に映っている被害者の特定しか道がないか」
 
「でも、そんなに急がなくても…どうせ追い出すのは無理なんですから」
 
「日向君、あの機体に関する情報はもう集まったんでしょ」
 
「あ、はい。それはすぐに見つかりました」
 
 
 
今は五人しかいない司令室の巨大投影スクリーン上に、複数のウィンドウが展開される。
 
一番目立つのは三日前には影でしか確認できなかった画像で、明度調整とエッジ処理が施されたお陰で、今では明確に有翼の人型兵器が映し出されていた。
 
小さな頭部と比べて巨大な胴体、バランスもスマートと言うには程遠いもので、一見した限りは不格好なプラモデルを連想させる。
 
改めて見ると、最初の印象よりも太めで鈍重そうな印象を与える機体だった。
 
更に開発元が配布したと思しき、大砲を撃ったり荒野を駆けるいかにも兵器の広報向きな画像が加えられ、最後には簡単な三面図にスペック表までがあった。
 
表の一番上に記された型番はMDM-VW-1で、通称と言うべきコールサインはHIGH-MACS。
 
『想定し得る全状況に対応可能な奇跡の兵器』と大袈裟なテロップが躍っている。
 
正式なロールアウトは2012年になっていた。
 
 
 
「これは日本とアメリカの軍事企業が合併して出来た企業統合体MDMが、陸戦兵器の新規分野開拓の為に開発した二足歩行兵器です」
 
「MDM…三菱とマクダネルダグラスのくっついた、あれか」
 
「ああ、当時はセカンドインパクト後初の大規模合併って事で、今でもかなりの分野で相当記録が残っている」
 
「でもそれって、確か2005年頃の話ですよね?」
 
「そう、まだ各地で紛争や小競り合いが続いていた時期で、MDM社は臆面無くそれらに資本を投下してかなりの利益を上げたらしい」
 
「それが今じゃ立派に民生産業の看板を掲げて、靴下からN2兵器まで面倒見る総合企業か」
 
「災害で物理的に弱ったあらゆる分野の企業を吸収した結果だね」
 
「そんな事はどうでもいいから、話を続けてくれないかしら」
 
 
 
ミサトは自分でも、この件に関わる時は露骨に不機嫌になる事をよく分かっていたし、あえてそれを隠そうともしなかった。
 
あの司令室襲撃はそれだけ重大な事件だったし、そこに起因する全ての事象は、例え味方と言われても易々と受容する訳にはいかない異物だった。
 
それを部下達に伝える事に、どんな躊躇もありはしなかった。
 
 
 
「…すみません。で、この機体はどうも20世紀末から極秘に開発をしていた拠点攻略・防御用途兵器の一つで、当初は無人の偵察機や無限軌道型攻撃機を想定していたらしいです」
 
「それがこんなケレン味丸出しの機体になったのか」
 
「搭載重量と防御力を保持しつつ、飛行性能を実現する画期的なコンセプトと、MDM側では自画自賛しているみたいですね」
 
「冗談みたいなデザインだよなぁ」
 
 
 
スペック表を見ると、乾燥重量でも15t、総武装時には20tを越える鉄の塊である。
 
それを格納式の水平翼と、背部に付けた剥き出しのエンジンによって空に浮かせるという発想は、画期的と言うよりも大胆さに満ちたものだった。
 
 
 
「問題は、何故正式に国連軍の外様なり嘱託なりという形で穏便に来なかったのか。何故、国連軍と同じ規格の兵器を持ち込まないのか」
 
「それと、そもそもシンジ君達の防衛目的とは言え、あんな奇妙な形態の部隊を派遣した理由がはっきりしていませんね」
 
「それを絶対に突き止める。本当に自分達の身を守りたいなら、自分で状況を掴む事が大切よ」
 
 
 
そう言ってミサトは自らストレージメモリを取り出して端末に突き刺した。
 
メモリから注入されたデータが日向の用意した画像を一掃し、代わりに明らかに機密色の強い暗視撮影画像や、形式がネルフのそれと異なる英語の文書が展開される。
 
その中心に、巨大なドーム状の物体を映した衛星写真があった。
 
 
 
「結論から言うけど、彼等は中東内戦に参加した『少年傭兵』で、今世紀初の核スキャンダルを起こした張本人よ」
 
「核、ですか?N2じゃなくて?」
 
「あのフランツ・バウアーはその責任を負わされて軍事法廷にかけられて、処刑までは至らなかったけど永久に軍事関係から追放された、言わば消え去った老兵ね」
 
 
 
驚愕しているのか、はたまた事の重要性が理解できないだけなのか、日向・青葉・伊吹の3人は押し黙って資料に目を向けていた。
 
相変わらずリツコは全てを知っているかのような余裕を見せながらミサト達を俯瞰している。
 
 
 
「こんな連中が来たって事は、何かがネルフや補完委員会の背後で動いているのよ。それを見つけ出して抑えない限り、事の全容は掴めないわ」
 
「でも、仮にそんな規模の話だとしたら、結局手の出しようがないって事ですよね?」
 
「実際に手を出すかどうかは、分かってから判断しても遅くはないわ。知っていて損は絶対にない筈よ」
 
 
 
それでは余りにリスクが大きすぎる、という至極当然の言葉は出てこなかった。
 
ミサトがこの件に関して異常に執着しているのは誰が見ても明らかだったし、これ以上言葉を重ねても撤回するような人間ではない事も皆分かっていた。
 
そもそも、これは上層部の認めた歴とした防衛戦力なのだから、受け入れる事自体は自然な成り行きでもあった。
 
一人、殺気に溢れた目つきで画面を睨むミサトは、そのまま仲間達の輪から遠ざかりつつあった。
 
日向だけが不安そうにその背中を見ていたが、彼女がそれを知る由もなかった。
 
 
 

 *      *

 
 
 
セカンドインパクトから15年。
 
 
 
全世界が赤く染まったあの日を今でも夢に見る事がある。
 
正確に言えば、いち早くシェルターに詰め込まれた我々は事が起きた前後の様子をリアルで見た経験はない。
 
だからイメージとして残っているのはシェルターから出た瞬間に目にした赤い空と、納まってから観測・調査に赴いた南極の光景だけだった。
 
だが、こうして神の視点から見下ろす大地の姿は、完全とは言えずとも元の蒼い生命力を取り戻しつつある。
 
これだけの地軸移動や大気・海流の大変動も、惑星全体のレベルで言えば思春期の体調変化程度のものなのかもしれない。
 
 
 
「要するに、我々の想像した以上に地球と人類の生命力は強靱だったという事だ」
 
 
 
遅れて展望ブースにやってきた碇が見透かしたように呟く。
 
今更同意するまでもないありふれた一般論だが、それが全ての集約であり、また唯一の救いでもあった。
 
そう、あれだけの破壊が為されたにも関わらず、我々は多くの物を失いつつも生き続けている。
 
例え、それが半ば人為的に引き起こされた災害であったとしても、これは黒幕たる連中にとっても想像外の状況だったに違いない。
 
 
 
「例の子供達は、無事橋頭堡を確保したそうだ。既に保安諜報部との連携も確認して活動を開始したと報告が来た」
 
「予定に例外は付き物だとしても、抑えきれない力が生まれたのはゼーレの責任だ。今回の件は丁度良い薬になる」
 
「自分達以外の人間を見下す癖が強すぎるのだ。あの老人達は」
 
 
 
あの闇から這い出てきた子供達は、時代の流れに隠れて増殖し、沈黙の内に包囲していた敵を払いのける防壁と成り得るのか。
 
使徒よりも狡猾で、目的も手段もネルフから言えば理不尽極まりない勢力に対抗するには、同じ力を持つ番犬を飼っておく他に手段はないが、それが成功するという保証はどこにもないのだ。
 
 
 
「異教徒とは言え、神の力が欲しいとなればその正体が何であっても構わないのは同じだな」
 
「冬月、地上に降りれば我々も狙われるという事実を忘れるな」
 
 
 
生き延びた人間達は僅かな復興期間を経た後に、何事もなかったかのように再び闘争と潰し合いの日々を繰り返すようになった。
 
いや、むしろ生存に適する地域が限定された分だけ争乱はより過激さを増したと言って良いだろうか。
 
その惨禍から這い上がった、乃至は元から有していた力を温存した国が新たな先進国となり、それはそのままゼーレの組織に反映されている。
 
そして日本は…生き延びはしたものの、今度は使徒と、そして人間達の争いの舞台になろうとしている。
 
国が存在しているだけでも僥倖と言える時代とは言え、未来や希望という概念が年を経る毎に薄れていくのを止められない。
 
碇が腹に抱いている企みを全て肯定する訳ではないが、地球と人類の関係は一度大規模なレベルで考え直す時期にあるのかもしれない。
 
 
 
「これはこれは、お二方はここから見る地球は初めてですかな?」
 
 
 
電離層に肉薄する成層圏上限高度を飛ぶ閉鎖空間であるにも関わらず、この男からは強い葉巻の臭いがした。
 
ヨハン・グラーフ。
 
この巨大な滞空プラットホームを即座に制御し得た能力は見事と言えたが、前評判に違わない自我の強い男だった。
 
 
 
「宇宙とはまた違った趣があるな。空を支配する優越感を感じる」
 
「御希望とあらば、私が副官で総司令がここの頭目でも構いませんがね」
 
 
 
一瞬、グラーフの顔を睨んでしまったが、本人は他意のない素振りで焦茶と蒼のコントラストに満ちた地表を見つめているだけだった。
 
 
 
「契約するまでに待遇に関しては相応の時間をかけて話し合った筈だが」
 
「待遇に不満がある訳じゃないですがね…いや最高責任者というのはどうにも腰が落ち着かないもんで」
 
 
 
滞空プラットホームの発想自体は旧世紀の後半に生み出されはしていたが、実現するだけの技術と必需性が追いつくには50年以上の年月を要した。
 
大気圏の上限高度を半永久的に飛行し、衛星軌道への中継基地として機能する巨大飛行機というコンセプトだった。
 
だが、それ自体が運動・攻撃性能を備えた制圧兵器に成り代わる場合、その意味合いは全く異なるものになる。
 
 
 
「バックアップさえ万全ならば『鳳』一機で地球上の任意の場所を攻撃可能だ。移動コストと目標指定の精密性が荒い事を踏まえても、最高の兵器だ。それでも不服かね」
 
「冬月副司令、いくらデカくても所詮一機ではたかが知れたもんです。マスカーで隠れてはいるものの、地上から狙い撃ちされれば手もなく落ちますから」
 
「ではどうするべきだと言うのかね?」
 
「攻撃フェイズに関しては、本艦はできる限り高度を上げて高々度からの索敵・管制および攻撃に専念し、実働チームの援護をするべきでしょう」
 
「それは当初の予定通りではないのかね」
 
「その上で、本艦から発進させる実行機を更に増やし、1分隊4機として最低3分隊運用可能とする。それだけしなければ有効な地上援護は期待できません」
 
「最低でも現在の二倍かね。そう簡単にはできない相談だ」
 
「ならば、逆に本艦を完全に攻撃任務に集中させ、実行機はその補助に当たる。データリンクが完璧でも、それを有効に生かすにはやはり物理的な距離を縮めなければ」
 
「…結局、君自身が現場から離れた事が不満なのだろう」
 
 
 
単なる勘だったが、グラーフが言い募る意見の端々を集めると、その結論は「俺を現場に戻せ」にしかならない。
 
果たしてグラーフは悪戯を見つけられた子供のような表情で笑い、軽く首を振った。
 
 
 
「まあ、正直に言うと寂しいですわ。私はバウアーほど器用じゃないもんで」
 
「つまり、戦力の増強が必要なのだな」
 
 
 
グラーフとの話を黙って聞いていた碇が、端的に要点だけを突いて来た。
 
 
 
「その点は請け合います。パイロットも今のままで稼働したら回転率が高すぎる。ただでさえ特殊な環境なんですから」
 
「善処しよう。『鳳』の低空攻撃使用も含めてだ」
 
「…ありがとうございます。但し、この前のようなサーカスは二度と御免ですが」
 
「ああ、あれは大した曲芸だった」
 
「全くですわ。次やったら機体がバラバラになっても不思議じゃないですから」
 
「覚えておこう」
 
 
 
鳳の電磁波変調偽装機構『マスカー』の実行試験と奇襲作戦の両立という常識外れな真似事を成功させたのは、間違いなく彼等『ウイングド・デス』の実力の真価だった。
 
第三案段階のEVA専用輸送試験機を改良した巨大輸送機が、新たな生命を吹き込まれようとしていた。
 
 
 

 *      *

 
 
 
セカンドインパクトによって被害を受けた国家は地球上に無数に存在するが、逆に新たな生命を吹き込まれた例も顕在した。
 
それは必ずしも災厄を逃れ得るというパターンだけではなく、一度は壊滅的な打撃を受けながらも、何らかの資本や政治力を持って再び蘇る、いわゆる『災害太り』に近いものまである。
 
 
前者の代表が東トルキスタン共和国であり、後者のそれがミクロネシアイスラム共同体だった。
 
 
元々新疆ウイグル自治区と呼ばれていた東トルキスタンはウイグル族を抑圧して管理していた中国の属州だったが、その中国がセカンドインパクトによって沿岸部の主要都市の大半を失い、次いで発生した政治・軍事勢力同士の抗争による国家分裂につけ込む形で、晴れて独立の契機を掴み取った。
 
言うまでもなく、中央アジアを中心としたユーラシア中央部は洪水等の被害が最も軽微だった地域であり、更に災厄が起きる寸前まで新たなエネルギー源泉として注目されていた程の地下資源の宝庫だった事も手伝い、2010年には新世紀において最も発展した最も地域の一つとなった。
 
だが、その背後には旧世紀時代の中国による弾圧と、これに対する激しい独立への渇望があった。
 
ウイグル族の一部は自由と富を求めて諸外国へ亡命し、来るべき独立に向けて着々と準備を続けていたのである。
 
そして図らずもセカンドインパクトによってそれは成し遂げられ、埋蔵されていた地下資源を元に今や発展著しい途上脱出組の一つになろうとしていた。
 
たが、亡命ウイグル人だけの力ではここまで極端な成長は成し遂げられる筈もない。
 
 
そこには東南アジアのイスラム国家による、大陸進出の意志が隠れていた。
 
 
インドネシアやマレーシアを中心とした東南アジアのイスラム教国家群は、諸島国家というその地理的条件から、真っ先にセカンドインパクトの被害を受けた国となった。
 
一般市民の6割以上が海面上昇による洪水で失われ、辛うじて生き残った人々も支援が受けられないままに一週間も経たずに次々と倒れ、ようやく国連とイスラム原理主義支援団体が救助に駆け付けた時には実に全国民の8割強が失われる惨憺たる結果となった。
 
しかし、華僑を始めとする実力者達は、「偶然にも」新疆ウイグル自治区に新設パイプラインの視察に出ていて難を逃れた。
 
当時からこの偶然には様々な憶測が囁かれていたが、混乱と依り縋るべき支配者に対する打算が働き、真実が追求される事はなかった。
 
確かな事は、この時を境にして海と広大な大陸を挟んだ両国家が強い結束で結ばれ、更にそれは過酷な環境に適応する社会を保持するイスラム本来の性質を目覚めさせ、世界レベルでのイスラム教徒の連合化に拍車をかけたという結果だけだった。
 
 
 
<先遣隊は全滅しました。内部潜入まで確認しましたが、それ以降は不確実な情報のみです>
 
<その前に逃亡した傭兵は>
 
<確保後、処理しました>
 
<結構。適切な処置だ>
 
 
 
テリムが眺めている海はその地形が大きく変貌しながらも、多少緯度経度が変化した挙げ句に、結局元の蒼い色を取り戻したミクロネシアの大海原だった。
 
島々の大地から文字通り潮が引き、ネットワーク網を筆頭にインドネシアの復興が始まったのが5年前である。
 
東トルキスタンに籠もっていた国民が回帰し、国としての体裁が取り敢えず整いつつあるが、旧世紀と同じく水資源の問題や変動した土地の権利問題等に直面し、順調とは言い難い。
 
彼が居座るプレハブ建ての事務所は、その困難な状況の中で真っ先に特区指定を受けた港湾地区にあった。

かつては山の中腹にある台地だった場所が都合良く海面ギリギリで残り、ここを復興の起点とするべく港と発電所が設置され、まとめて特区として外資を投入、急速な発展を遂げた。

そして5年経った今、デタラメに作り上げたプレハブの事務所群が半ばスラムのように海沿いに固まっていた。
 
それらは改築されていないにも関わらず島内最大の電力供給とネット網を持ち、その気になればすぐにでも事業を立ち上げる基盤が残っていた。
 
今、画面の中で綴られているチャットもテリムの構築したサーバ上で展開されているものであり、基本的にログデータはここ以外の場には残されない仕掛けだった。
 
 
 
<内部潜入以降の成果に関しては現在調査中ですが、今のところ正式に襲撃を認めている気配はありません>
 
<奴ら、あくまで『使徒』の攻撃と言い張って侵入された事実は隠し通すつもりらしいですね>
 
<それは別に構わない。まだそんなに表に出ては困る>
 
<しかし、それでは殉教者達の死の意味が無いはないか>
 
<何を言う。彼等は偉大なるアラーに殉じたのだ。それ以外の意味はない>
 
<その通りだ>
 
<偉大なる神の他には我々が知っていればそれで良い事だ。異教徒共に知らしめる時が来たならば、神が導いて下さる>
 
 
 
テリムが何を言わなくても、チャット上では勝手に意見と情報の交換が繰り広げられ、モメそうなタイミングには毎度長老役が出てきて収めてくれる。
 
互いに顔が見えない、いや、だからこそ率直で効率の良い情報伝達が成される。
 
これはどんな文化圏でもネットというフィルターを通せば等しく発生する共通の法則だった。
 
実際の運営は、その上澄みを上手く攫って操れば基本的に問題はない。
 
正しく世界規模の宗教組織運営という点においては、全く無駄のないシステムと言えた。
 
 
 
<それにしても、あのネルフに対人防衛能力があるとは思えないのだが>
 
<保安部と名乗る諜報組織がある。対策はそれなりに講じてあるのは想定済みではないか>
 
<我々のみならず、機動兵器まで使う勢力が退かれたという話が信じられるか?>
 
<『機動兵器を使う武力組織』の話は信憑性に欠けると、今まで散々話し合って来たではないか>
 
<あの臆病者の逃げ口上に決まっている。大体、そんなものが実用化されている訳がなかろう>
 
<二足歩行で空も飛べる、か。馬鹿馬鹿しい>
 
 
 
そこでテリムはキーを叩いて介入を始める。
 
 
 
<噂に過ぎないが、次世代の汎用兵器としてそんな兵器があると聞いた事がある>
 
<次世代?アメリカの兵器か?>
 
<そこまでは知らないが、中東で既に投入されていたという話もある>
 
<私は聞いた事がないな>
 
<いずれにしても、我々以外の勢力が紛れ込んでいるのは間違いないだろう>
 
<また状況が不明確になったか>
 
<いや、重要なのは日々の訓練と信仰心だ。それさえ忘れなければいかなる敵も問題ではない>
 
<そうだ!恐れていては何も変わらない>
 
<奴等に神の鉄槌を喰らわせろ!>
 
<これからも各部署とも連絡を密に…>
 
 
 
確かに信仰心と執念は大事な要素だった。戦って生き残る事が前提のイスラムでは殊に大事だ。
 
しかし仲間の大方はいかなる問題もその二つで解決しようとする。
 
引っ張る方としては堪ったものではない。
 
今回の無謀な計画もそういう流れの中で、いつの間にか決定された行動だった。
 
元々、傭兵と自爆志願者を組ませてバックアップも無しに突っ込ませるという発想自体が間違っている。
 
参加者が増える前に何とか流れを変えて武力偵察を兼ねた特攻隊として落ち着けたのだ。
 
 
 
「テリム、そこら辺にしておかないと、奴等に飲み込まれるよ」
 
 
 
水桶を両手に持ったメツが苦しそうに階段を上ってくる。
 
言うまでもなく、窓から見える海水はいくらあってもそのままで飲めるものではない。
 
それなりのエネルギーを使って真水化しなければならず、メツは今日の配給の分を貰ってきたのだ。
 
もっとも島の南側半分の漁場を諦める代わりに建造された原発によって電力は豊富に生み出され、そこから生まれる水や電気は優先的に島民に与えられるから何ほどの苦労もなかった。
 
物理的な贅沢を望まない限り、この島では平安な暮らしが保証されている。
 
テリムやメツのような極質素なイスラム教徒にとっては、ハーレムより恵まれていると言えた。
 
 
 
「いや、また後先考えないで好き勝手言っている奴がいるからさ…」
 
「どうせ銃撃つ事しかしらない筋肉バカなんだよ。ネットの中くらい好きに言わせておかないとリアルで暴れるんだから」
 
「そうはいかないさ。次はしっかり計画立てないと続けるにしてもスポンサーが降りるかもしれない」
 
「やっぱり怒ってるのかなぁ」
 
 
 
サーバの近くを水桶が通るとテリムは一瞬神経質になる。
 
高価なマシンでもなく、割と豊富な電力とネット回線だけが売りのこの島ではパーツも割と楽に入手可能だが、このマシンが止まれば同時に組織の連絡網も停滞する。
 
東トルキスタンを中心に世界中に散らばる同士を結ぶ基盤を失う訳にはいかなかった。
 
 
 
「ちゃんと体制整えたらさ、まずそのオンボロを替えようよ」メツは水瓶に桶の中身を注ぐ。むしろサーバを扱う時よりも丁寧で無駄のない手つきだった。
 
「断る」
 
「いい加減遅すぎるって。大体、中身が増やせなくてどれだけ外付けで誤魔化しているんだよ」
 
「余計な小細工しないでチャットするだけならこれで何の問題もないだろ」
 
「スポンサーの中にいるんじゃないの?そういうの扱っている会社」
 
「そりゃ有るさ。だが資金以外にやり取りするのは拙すぎる」
 
「いいじゃん、そいつはそいつで置いといて追加で速いの入れようよ」
 
「そのうちな」
 
 
 
メツは限られた条件で作戦を立案する能力は優れていたが、その分抑制の効かない性格をしていた。
 
自分の好きに扱えるマシンを手に入れたら、どんな行動を起こすのか予想が付かなかった。
 
それでもテリムはメツの言うように、それなりの準備が整い次第新しいPCを用意するつもりでいた。
 
シミュレーションと情報収集をメツ自身にやらせる事は有益に違いなく、要はそういうマシンを組んで押しつければ良いだけの話だった。
 
 
 
「ところで、例の家族の身柄押さえた傭兵覚えているか」
 
「ん?ああ、引き替えにネルフに突っ込ませた奴だろ」
 
「どうも自爆に辛うじて成功したのはそいつらしい」
 
「へえ、そんなの良く分かったな」
 
「確実じゃないが、サードトウキョウに潜ってる奴等からの話だとそうらしい」
 
「じゃー契約守った事になるよな」
 
「そうだな」
 
「どうするんだよ?異教徒で、しかも死人相手の契約ならアッラーも見逃すかもしれないよ」
 
「…どうするかねぇ。もうどっちでもいいんだけど」
 
「じゃ解放しようか?」
 
「好きにすれば」
 
 
 
実の所、二人共こんな無謀な計画が上手くいくとは全く考えていなかった。
 
少なくとも、例の機動兵器や巨大爆撃機を駆使する別勢力が出現しなければ、ジオフロントに侵入することすらおぼつかなかった事は間違いない。
 
その脳内予定を違った方向に修正したドラガンに対する感情は、脳味噌筋肉達への面当てを裏切られた現実と同時に、間違いなく敵にダメージを与えた成果によって複雑なものになっていた。
 
 
 
「悪い奴じゃなかったな、あいつ」
 
「だったっけ?」
 
「ああいうの、こっちにも一人くらいいないとまとまらないんだよな。宗教に毒されるとなかなか難しいあの手の人材は出てこないし」
 
「じゃーあれだ。いっその事イスラム教徒の同士として殉死したって事で収めるのはどうよ」
 
「…メツ、お前って」
 
「何だよ」
 
「本当に思いつきは冴えるよな。冷静に考えない方が良いっぽい」
 
「はぁ!?」
 
 
 
テリムは既にチャット画面に向かって集中していた。
 
先程の入力とは異なるHNで長々と捏造した情報を書き込み、それを既成事実化していく。
 
予想通り、画面を隔てた向こうにいる仲間達はその気になって騒ぎ始めた。
 
言い草も方向性もごく予想した通りだった。
 
 
 
「おー来た来た。疑いもせずにまあ良く食い付いてくるもんだよね」
 
「お前もあんまり調子に乗んじゃねーよ」
 
 
 
第三新東京の地下に潜む子供達とほぼ同世代の二人を端緒とした、いわば草の根のテロチャットルーム。
 
世界を結ぶ負の感情のネットワークは、未だその全貌を見せるには至らないが、少しずつ、確実にその規模を広げつつあった。
 
 
 

――――――――――――――――――――――――――――――



 
牧野は未だに鰹出汁の匂いに慣れる事ができない。
 
 
幼少期から思春期を通過する時期を砂漠で過ごした牧野と仲間達にとっては、そもそも魚を食べる経験自体が希薄であり、ましてや魚の乾物からスープの素を捻り出す時点で想像の域を越えていた。
 
魚と言えばレーションの缶詰に入っている油漬けか水煮という発想しか浮かばない。
 
その時点で独特の匂いなど消失しているのだから、魚と匂いという二つに接点がないのだ。
 
 
 
「何してる。置いてある奴から入れておけ」
 
 
 
河本は一人台所で甲斐甲斐しく包丁を鳴らしている。
 
永遠に灯がともる事のない空っぽの掘り炬燵の上には、コトコト震えるコンロと土鍋が鎮座していた。
 
既に削り節と昆布は鍋の中で放漫に泳ぎ始めている頃であり、用意された鱈やつみれを投入する時期は完全に逸している。
 
最終的に全てが揃って煮えてしまえば大した差は無いにせよ、鍋料理のイメージすら湧かない牧野には酷な作業となっていた。
 
 
 
「構わないから全部入れていい。順番も気にするな」
 
「う、うん。分かった」
 
 
 
蓋を開けると鍋の中は噴火口となって沸き立ち、そこに皿に盛られた具を一気に放り込む。
 
全てが入った事だけを確認すると、中も見ないで即座に蓋を閉めた。
 
 
 
「おい、あまり乱暴に扱うな」
 
「うるさいな、蓋が熱かったんだよ」
 
 
 
あの奇襲劇から二週間。
 
最小限と言うにも憚られる戦力でどうにか押し掛け行事を成し遂げ、強引に存在意義を認めさせ、どうにか居座る為の既成事実を作り出す事に成功した。
 
後は一気に物資を大量投入して体勢を整えて、改めて正式に所属を明らかにするだけだった。
 
今日は、その橋頭堡となる重要な施設が完成する日であり、それで何故か河本は牧野と共に地上のアジトに籠もったのである。
 
河本のアジト兼自宅には、地下基地仮起動の時期に合わせてあらかじめ様々な通信手段や設備が導入されていた。
 
即ち坑道へ通じる直通連絡路であり、デジタル回線を備えた奇態な黒電話だった。
 
それらは古風というより時代遅れな内装のレコード店という環境に埋もれ、外見ではとてもそれと判別できない形で偽装されていた。
 
その「秘密道具」の一つ、一見骨董品にも見えるダイヤル式のテレビには、その真下の茶棚内に隠したスイッチによって制御できる監視モニタになっていた。
 
今、まさにその画面には地底世界の光景が映し出されていた。
 
 
 
「繋がったんだ、メインの坑道に」
 
「ああ、テレーズ婆さんが無理してくれたからな」
 
「ターレットの組み立てやっているのにそんな真似させて大丈夫なのかよ」
 
「現にもうすぐ完成する所だ。ならば問題はないだろう」
 
 
 
確かに、画面の中では巨大なバウムクーヘンの一欠片のようなレールが組み込まれ、円形の坑道を丸ごと貫通する完全形のバウムクーヘンが完成しようとしていた。
 
この既設モノレールをベースにした輸送システム「ターレット」の最後の溶接が終わったのは昨日の夜遅くで、それから制御系起動に漕ぎ着けるまで8時間、ターレットの上を走る搬送用トレイ「パケット」が到着したのがその直後で、これもまた組み上げたばかりの坑内クレーンを使ってターレットに実装させるのに4時間。これでも奇跡のような早さと言えた。
 
奇襲の一週間前から整備班の面子は地下深くに引き籠もり、僅かな睡眠と溢れるほどの水を摂りながらHIGH-MACSの組み立てを行い、そのまま通しでここまで走り続けてきたのだ。
 
 
 
「案外、あの婆さん出来映えを見せたくて無理にこっちを繋いだのかもしれんな」
 
「そうかなぁ?」
 
「だとしたら、可愛いところもあるじゃないか」
 
「必要だからやっただけだろ」
 
 
 
各地からあぶれていた人材を拾ってきてはピストン輸送を繰り返し、ようやく初期の目標人数に達する所まで来た。
 
その間、基幹システムに対するマギからの侵入を含めてネルフ側からの攻撃的な接触が何度かあったらしいが、いずれも想定済みのレベルでしかなかった。
 
手段が何であるにせよ正式な決定に基づいた攻撃ではないのだからこれは当然だったし、それが所詮軽いジャブ程度の牽制でしかないのはみんな分かっている。
 
そういう対応を予想した上での挑発だったのだから、大人しくしている方が居心地が悪いというものだった。
 
いずれにせよ、様々な紆余曲折を経てネルフ全体を包囲しつつ防護する、最大の防壁がようやく稼働する事になる。
 
それがどんな意味を担っているのか、守られるべき檻の中の人々は未だ理解していない。
 
 
 
「ところでさ、この記事の外人の死体って」
 
「何だ」
 
「アンタが解放したあの傭兵だろ?」
 
「そうらしいな」
 
 
 
牧野が読んでいる新聞の地元欄の、更に片隅にあるスペースに顔の潰された死体の記事が載っていた。
 
使徒やら何やらで騒動が起きる度に死人が定期的に生産されるので人死に自体は珍しくもなかったが、明確に殺人と分かる死体はやはりそうそう出てくるものではなく、従ってそれなりに微妙な扱いの記事となって姿を現す。
 
そこに書かれている死体の詳細は、明らかにあの金髪の哀れな傭兵を示していた。
 
 
 
「これで奴等がこの街に入り込んでいる明確な証拠になるよね」
 
「ふん、しかもド素人の臭いがする。死体の始末の一つもできないとは裏にいる連中も頭を抱えているだろうな」
 
「見殺しにしたのはアンタだろ」
 
 
 
箸と椀を鍋の側に置き、河本は再び台所に戻っていく。
 
 
 
「別に見殺しちゃいない。生き残るチャンスは与えた。お前達と同じようにな」 
 
 
 
無茶な話だった。報告書を見る限り、恐らく彼が取ったであろう仲間への報告という方法を除けば、可能な選択肢は極限られている。
 
つまり寝返るか街を脱出してサバイバルするしかないのだ。
 
サバイバルと言っても周囲は密林でも砂漠でもないから生きるだけならどうにかなるかもしれないが、少なくとも港湾都市にでもたどり着かなければ居場所がない。
 
可哀想な傭兵の判断力の無さを責めるよりも、事実上死に追いやった河本の対応が問題と言えた。
 
無論、捉えた捕虜、しかも正規軍ではないゲリラの捕虜をどう扱った所で問題も何もありはしないのだが。
 
 
 
「だからさ、コイツが街中で死ぬかどうかで状況を判断したかったんでしょ?」
 
「…まあ、結果的にはそうなったながな」
 
「仮にコイツが土下座して助けてくれって言ったら、どうしていた?」
 
 
 
台所で仕込んでいた第二弾の鍋の具が大皿に載ってやってきた。
 
皿を持っている河本は妙に神妙な面持ちで、座ると同時にまじまじと牧野の顔を見つめた。
 
 
 
「気分が乗ったら助けたかもしれん。だが、それがお前に何の関係があるんだ?」
 
「別に。訊いてみただけさ」
 
 
 
炬燵を挟んで座る二人は、お揃いの湯飲みで緑茶を飲みながら恭しく向かい合う形になった。
 
掘り炬燵の座り方を知らず、慣れない正座で座る牧野はつま先を細かく動かしていたが、それでも何故か止めようとしない。
 
牧野が拾ってきた柱時計が、三時の鐘を鳴らした。
 
真夏の鍋が蒸し暑さをより際だたせて、二人の間を隔てていた。
 
 
 
「…さっきはお前達と同じと言ったが、その先にある物は全く違う。勘違いするな」
 
「そうかい」
 
「そうだ。お前達の前には未来がある。奴の前には無かったし、自力で開こうともしなかった。それだけだ」
 
 
 
テレビの中から大きな歓声が上がり、定点カメラの視点が動き出したパケットの姿を映しだす。
 
ジオフロントを周回する主坑道をそのまま巡るレールの「ターレット」と、その上を走る輸送ユニットの「パケット」。
 
この施設が完成した事で、牧野達の基地は本格的に稼働を開始する。
 
ここからは整備班や工作担当抜きでも、あらゆる機材や部材を運搬可能となる。
 
そしてそれはジオフロント外周を完全にカバーする巨大な輸送網の完成を意味していた。
 
 
 
「まあ、とりあえず乾杯と行こうじゃないか」
 
 
 
どこに隠していたのか、河本は日本酒の五合瓶を取り出して卓上に置いた。
 
残った茶を一気に飲み干し、まずは空になった自分の湯飲みになみなみと注ぐ。
 
画面の中から整備士達と思しき小さな歓声が上がり、そこを中心にして少しずつ歓声の輪が仲間達に広がっていくのが見えた。
 
 
 
「さて、何に乾杯といくか」
 
「知るかよ」
 
「正式に新しい住処が出来たんだ。もっと喜んだらどうだ」
 
「別に。そんな実感ないし」
 
「…まあ仕方ないだろうがな、だがどんなに辛くても喜ぶべき時には嘘でも喜んでおけ。でないと損するぞ」
 
「そんなものかな」
 
「そんなものだ。生きていて心から喜べる時なんざ数える程しかないんだからな」
 
 
 
突然、鼓膜から内耳までまとめて揺さぶるような大音量のハウリング音がスピーカーから流れた。
 
面食らって河本が音量を下げようとした拍子に騒音が収まり、替わって聞き慣れた声がマイクテストを始めた。
 
それがバウアーの声と分かった仲間達は、何も言わない内に姿勢を正して管制室の方に向き直った。
 
牧野と河本もテレビの音量を上げて様子を伺う。
 
 
 
『総員注目、作業中の者は続けながら聞いて欲しい。こちらはフラムバルガ総司令、フランツ・バウアーである』
 
「俺達の名前って正式に昔に戻ったの?」
 
「らしいな」
 
「らしいなって…」
 
「ネルフに出した書類には書いてなかったのか?」
 
「全然」
 
『たった今、整備班の尽力によって主軸となる輸送システムが稼働を開始した。これによって我々が負うべき防衛任務の中枢を担うHIGH-MACSの運用がほぼ完全に可能となる。これをもって、事実上この基地自体が稼働状態に入ったと断言できるだろう』
 
「今搬入してある機体、1スコードロン分あるのか」
 
「一応あるけどサブの機体が足りない。カレンもまだ修理調整が終わってないし」
 
「資金が確保できるまでは自転車操業か…仕方あるまい」
 
「仕方あるまい、で済ますなよ。カレンなんか実戦投入型試作機だからって、予備パーツもろくに無いんだから」
 
「逆に言えば、お前じゃなければ任せられないという事だ」
 
「知らないよそんなの。慣らしが終わる前に敵が来たら全壊覚悟で出るしかないよ」
 
「それしかないなら、そうすればいい事だ」
 
 
 
結局、専属歩兵にはHIGH-MACS乗りの思考など理解して貰える筈もなく、牧野は諦めて話を打ち切った。
 
 
 
『諸君のようなセカンドインパクトによって生み出された戦災孤児は世界中に存在し、多くは奴隷同然の扱いを受け、二十歳を迎える間もなく死んでいくのが現実である。これを救済する具体的な力は、遺憾ながら現実には存在しない』
 
 
 
仲間達は咳一つ漏らさずに聞いている。
 
いつの間にか鍋はまた軽い音を立て始める。
 
 
 
『だが、今我々は自らの手で、その力を手に入れた』
 
 
 
ここで微かな叫び声が幾つか上がり、やがて同調する声が不規則なペースでそこら中に広がっていく。
 
坑道の中は管制室付近を除いては僅かな照明しか設置されておらず、巨大な暗闇の空間で黒ずくめの集団が声を上げる様は異様な迫力を秘めていた。
 
だが、それは闇に潜んでこの地を掌握しようとする、彼等全員の意志を代弁する物だった。
 
 
 
『この地は、神々と運命に見捨てられた我々が手に入れた最後の楽園である。そして人類全体の希望でもあるのだ。かつて諸君を虐げた戦争屋達に、狂気の暴発を許してはならないのだ』
 
 
 
バラバラだった叫びが一つになり、巨大な歓声となって歓声が響き渡る。
 
 
直径50m強の中央坑道全体が揺れるような、轟音と形容するべき巨大な意志の塊が空間を満たして奔った。
 
本来ならば私語など到底許される筈もない状況にも関わらず、囁きと叫声のリズムが衰えるどころか次第に加速されていく。
 
バウアーはそんな子供達を窘めようともしなかった。
 
誰よりも彼自身がそのリズムを欲していたのである。
 
 
 
『蛇口を捻るが良い。水が出る!そのまま浄化しないで飲める水だ!
 地上に登るが良い。穏やかな空気だ!燦々と輝く太陽と、優しい雨が諸君を包むだろう!
 街に赴くが良い。人々の歓声と享楽が諸君を待っている!
 信じよ!今、我々は正に楽園の直中にあり、それを奪わんとする蛮族から守護する役目を担っている。
 勝利の暁には、これまでの苦難を補って余りある至福を手に入れるであろう!』
 
 
 
「…なんか、無責任すぎない?」
 
「ああ見えて、バウアーは調子に乗ると止まらんタイプだ。自分でも知っている。だが今はあれでいいんだ」
 
「十字軍の遠征じゃあるまいし」
 
「何、似たようなもんだ。所詮この戦いも宗教から離れられない宿命にある」
 
「ついでに金もでしょ」
 
「当たり前だ」
 
 
 
河本の言った様に、教祖じみたバウアーの言動によって場は最高潮の盛り上がりに達しようとしていた。
 
曲がりなりにも記念すべきこの日に、無理矢理河本が自分をこの家に引きずり出した理由が、何となく牧野には分かった気がした。
 
あくまで弟子は自分の手元に置き、異常な熱気に晒さないよう気を配っているつもりなのだ。
 
牧野は少し裏切られた感じがしたが、憤るより単純に残念に思うだけだった。
 
こんな茶番で判断を誤る程の馬鹿だと思われているのか。
 
 
 
「タカシ、ドラガンのナイフを出せ」
 
「え?」
 
「とぼけなくても良い。どうせ持ってきているんだろう。早く出せ」
 
 
 
何の証拠も根拠もない上に極めて断定的な口調だったが、実際に持ち出している牧野にはぐうの音も出なかった。
 
傍らに置いてあったザックの中から、かつて牧野自身の身体を切り裂いたドラガンのSOGナイフを取り出す。
 
ナイフと言うには巨大な30cm強の刀身が、窮屈そうに安物のナイロンザックの背に納まっていた。
 
無論、一般偽装用の衣装の上に装着できる大きさではないし、わざわざザックに収納してまで持ち歩く必要などない代物だった。
 
 
 
「で、これをどうするの?」
 
「ここに置け」
 
 
 
ここ、とは牧野と河本の中間、牧野から見て左手にあたる誰もいない席の事だった。
 
テレビから見れば丁度正面の位置になる。
 
誰もいない筈なのに、きちんと鍋の取り皿と茶碗が用意されていた。
 
 
 
「死んだ人間は二度と戻らないが、その記憶は失ってはならん。その為の儀式だ」
 
 
 
伏せられた食器の前に、厳かにブレードが供えられる。
 
掘り炬燵と鍋、木造の家屋にダイヤルテレビという郷愁を誘う空間の中で、殺人という目的の為に余計な要素を削ぎ落とした軍用ブレードは異様な存在感を放っていた。
 
 
 
『これより、我々は忌まわしき過去と決別し、新たな時代を切り開いていく為に、この基地の名称を我々の手によって正式に制定する』
 
 
 
バウアーはライブのボーカルよろしくマイクを握りながら階段を駆け下り、今朝方から恭しく暗幕を被せてあった壁の前まで歩いて来た。
 
そこにはこの穴蔵の名前がやや大袈裟に刻み込まれているプレートが埋め込んである。
 
既に作業班からそこまでの話は漏れ聞こえていたが、それがどんな名前なのかまでは最期まで聞き出せなかった。
 
聞き出せないというより名前の意味する所がよく分からなかったらしい、とは実際にヒューミントを試みたゲルトとステファンの言葉だった。
 
 
 
「偽りの聖地、だ」
 
「何だって?」
 
「名前の意味だ。奴はここに来ると決まってからずっとそう言っていた」
 
 
 
子供達の期待感が最高潮一歩手前で留まり続ける中、むしろ厳粛な表情を崩さないバウアーはゆっくりと幕を外した。
 
スポットライトに光る銀色のプレート上に、国連の月桂樹マークに従う形でその名が記されていた。
 
 
『Medugorje』

 
最初に牧野が抱いた感想は、「この文字列をどう発音するのか分からない」だった。
 
 
 
『今日よりこの地の名前は「メジュゴリエ」。ヒトが造りし偽りの聖地。これこそ我々とこの街に相応しい名である!!』
 
 
 
どこまで意味が分かっているのかは不明だったが、例えどんな名が記されていたとしても同じ反応だったに違いない。
 
子供達は、爆発した。
 
この前まで水と食料がまともにあるだけで大喜びしていた孤児。
 
怯えながらも銃を握っていつしか本物の兵士となってここに流れ着いた孤児。
 
逃げるよりも戦う事を望み徹底的に訓練された生粋の少年傭兵達。
 
 
担った役割は様々だったが、今この場においては全員が同じ想いを抱いている筈だった。
 
 
 
「…寂しくないか」
 
「は?」
 
「あの場に皆と共にいられない事が寂しくないか」
 
「…俺をここに連れてきたのはアンタだろ」
 
「そうだ」
 
「じゃあ聞くなよ」
 
「そうか。悪かった」
 
 
 
河本はテレビのダイヤルをガチガチ回してチャンネルスワップを始めた。
 
普段なら昼のワイドショーやソープドラマの断片が映る所だが、コントロールボックスに直結した状態だと主坑道の各所に設けた監視カメラの映像が入れ替わりに映った。
 
円形の坑道12分割の区域に配置されたメインカメラ12カ所をフォローするだけの映像だったが、どの映像も人数に差があるだけで等しく盛り上がっていた。
 
これだけの集団が騒げば、いかに分厚い隔壁と地盤に遮られていてもネルフ本部もこの騒音を観測するかもしれない。
 
となれば、あの女もさぞかし苦虫を噛んだような顔をしているに違いない。
 
 
 
「やはり嬉しいだろうが」
 
「何が」
 
「顔が笑っていたぞ」
 
「ああ…違う事を考えていただけだよ。この騒ぎとは全然関係ない」
 
 
 
むきになって否定する牧野をよそに、河本は再び別の湯飲みに酒を注ぎ、それをドラガンの席に供えた。
 
 
 
「さあ、祝杯だ」
 
 
 
微かな歌声が聞こえる。
 
ざわめきと歓声の間に生まれた幾つかの歌声が、不揃いのテンポとリズムで人波の中を伝わっていく。
 
最初に歌っていた声の主はジャックかもしれないと牧野は思ったが、それを確かめる間もなく歌声は細い糸が束ねられ、更に編み上げられるように寄り集まり、一つの巨大な意志そのものとして発現した。
 
チャンネルを回すと中央搬入口前から始まった歌の伝播が円周をなぞって奔る様が良く分かった。
 
現時点で約6500人、ちょっとしたライブの観客に匹敵する人間がジオフロントを包囲する形で同じ歌を歌っていた。
 
 
 
we are the champions
 
 
 
皆で廻し見している旧世紀のフットボールDVDの中で、優勝したチームが最期に歌う奴だった。
 
 
 
「ねえ、それ俺にもくれよ」
 
「鍋なら自分で取って食えばいい…まさか、この日本酒の事か?」
 
「いや、良く知らないけど。アルコールでしょ?」
 
「バカ言うな。未成年に酒なんぞ飲ませられるか。お前は茶で十分だ」
 
「はぁ?それどこの法律だよ?大体ドラガンだって確か18だろ」
 
「死んだ人間はレギュレーションフリーだ。もう成長も老化もしないのだからな」
 
「…どういう理屈だよ」
 
 
 
テレビに内蔵されている貧相なスピーカーは、密閉空間に響く仲間達の声に圧倒され完全に音割れしていた。
 
集団の中心、あるいは端で暴れ回り飛び跳ねる人影を見ると大体誰なのかが想像できる。
 
恐らくこの歌の中心にいるのはジャックとカンターで、それを端から眺めている太目と細身の人影はゲルトとルンバルトに違いなかった。
 
居住区に引っ込んでいるのかニキータとレオナらしい人影は見あたらず、ステファンは自分で望んで斥候組として地上に出てきている筈だった。
 
祭りの中心とその周辺には、それぞれの場所に相応しい人物が配置され円滑に機能していた。
 
 
 
「箸の使い方は分かるな?」
 
「覚えたよ。心配しなくても食べるって」
 
 
 
では、自分は河本に連れ出されなければどこに居ただろうか。
 
あのバカ騒ぎの中に身を投じる事ができたか。
 
でなければ、騒ぎを尻目に地上で黙々と働くか、自分の部屋に引っ込んでいるか。そのどちらかに属していただろうか。
 
何となく、牧野にはどれも自分には相応しくない気がしていた。
 
今こうして鍋から出る湯気を眺める自分は、何者なのか。
 
自分達の居場所が見つかった筈なのに心から喜べない自分は、何者なのか。
 
 
箸を使って鱈の切り身を取って見る。
 
 
白身の魚肉に黒い皮がへばり付き、薄い虹色の照りが映る姿は、馴染みがないにしても旨そうに見える。
 
だが、もしかするとこれを食べても味を感じられないのではないかと牧野は思った。
 
傍らに鎮座するドラガンのブレードに目をやる。
 
最期に会った時、自分にとって最も大事な物は家族だ、と言っていた。
 
その家族の為に喜んで死んだドラガンは、そうする事で自分の望みが叶ったのだろうか。
 
彼の命と引き替えに現れた火柱は、その美しさ以外の意味があったのか。
 
 
 
「俺が心配しているのはな、タカシ」
 
 
 
湯飲みの酒を飲み干した河本は、すぐさま二杯目に移ろうとしていた。
 
 
 
「これでお前の気力が無くなるんじゃないかと思っているんだ」
 
「俺が?どうして?」
 
「…理由はない。そんな気がしただけだ」
 
「ちょっと待ってよ、そんな言い草って、」
 
「だがあそこにいる奴等とお前は戦う理由が違うだろう?」
 
「…」
 
 
 
傍目からもそう見えるという事実に牧野は軽いショックを受けた。
 
 
 
「その事自体は別に構わん。お前の勝手だ。だが、今の俺達は戦わなければ飯も食えない奴隷の一種でしかない事は忘れるな」
 
「結局、それが言いたかったから呼んだのかよ」
 
「三割くらいはな」
 
 
 
仲間達の為、という青臭い言葉を心から言える訳でない。
 
自分で認めたくない理由はあるが、それを口に出すと全てが終わる気がした。
 
今にして考えると、ドラガンに言った言葉もただ彼を生かしたいが為に作り上げた虚構の台詞のように思えてならない。
 
確かに、ここには何でもある。水、太陽、空気、緑、街、人、動物、山、谷、そして敵も。
 
しかし、ここは本当に楽園足り得るのか。
 
道行く人々が気怠い表情をしているのは何故なのか。
 
特に、自分が身代わりとなる少年の顔。
 
これほど恵まれた環境にいながら、何故常に満たされない顔で居るのか。
 
 
 
「あまり考えるな。人生ってのは、限りある時間を楽しんだ奴の勝ちなんだ。努力も苦難もみんなその為の肥にすぎないんだからな」
 
「それはもう聞き飽きた」
 
 
 
切り身を口に入れると、何とも言えない芳醇な香りと味が広がった。
 
出汁によって魚の味が濃くなるというよりも、引き出されるような感じが初めてでも分かる。
 
 
 
「…旨いね。これ」
 
「当たり前だ」
 
 
 
確かに生きている内にこういう物を食べずに死んでいった仲間達は不幸だと思った。
 
しかし、果たしてドラガンもその範疇に入れるべき死に方だったのか、牧野には最期まで分からなかった。
 
 
 
『敗者達に何も与えられない。何故なら我々こそが勝者だから…』
 
 
 
子供達と老人の歌声が蝉時雨に重なって湯気を揺らしていた。




――――――――――――――――――――――――――――――




to be continued

queen / we are the champions


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