そう言えばあの山には登った事がある。
あれはいつの事だったろうと、シンジは自分の記憶を引き回してみた。
はっきりとした時間は思い出せない、ただ映像だけが雑然と頭の中に紛れている。
流れていく霧と冷たい風。遙か遠くに見渡せた街並み。
歩いても歩いても、その先に世界が開けていた。
またあそこに行こうとしても連れ戻されるだけだろう。
シンジの目の前には湖だけがあった。
山の向こうに消えようとする夕日に照らされて、次第に赤黒く染まる湖。
一つの街を呑み込んで、その僅かな残骸だけを見せしめにさらけ出している。
あの場所で一人生き残った自分に向けて、
血に染まった手を持つ自分に向けて、
水面の歪んだ電柱やもぎ取られたビルが長い長い影を伸ばしてくる。
夜になれば、何も見ないですむ。
シンジは湖の周りを一人でただ歩き回る。そうして夜が訪れるのを待つ。
波の音。
波が打ち寄せているのは砂浜ではなく、爆風によって切り取られたアスファルトの断面だった。
断面は堅く不規則で汚らしい筈なのに、音だけは優しく響いている。
シンジには、それが血に洗われる屍肉の破片のように見えた。
流れよ我が涙、と少年は言った
1
第十七使徒殲滅より三日後。
一人だけで乗るエレベーター。
保安諜報部の直轄になっている、第七層への直通搬送用。
災害時用の非常階段を除けば、独房層である第七層への通行手段はこの狭苦しい箱しか存在しない。
そしてその両方に、何重にもわたる厳重な使用制限が設けてある。
本来なら他にも保諜部の要員を最低三名は同伴させなければならない。
少なくとも一人だけで搭乗できる事などほとんどあり得なかった。
それを敢えて行ったのはそれなりの考えがあっての事だが、理由の半分は保諜部の人手不足という至極現実的なものだった。
彼等の仕事は他に幾らでもある。
保秘の為に不可欠な職員及び侵入者の監視と、行動の制限。
その為に実行されるあらゆる非合法的活動。
それらは職員達にとって畏怖の対象であり、また同時にその身と生活を保護してくれる大切な防壁のような存在だった。
作戦司令という現場本位の立場から見ればむしろ有り難い存在と言えるのかも知れない。
しかし彼女は彼等を憎悪し続ける自分を否定するつもりは毛頭なかった。
葛城ミサトはここにある全てのものを憎悪していた。
このネルフという組織を、そしてその存在意義とも言える『使徒』や『エヴァ』を。
同時に、それらに依存して生きている自分自身を。
理解しながら止むことなく続けてきた自分自身を。
しかしその憎悪の念に触れる度に、ごく端的な疑問が自然に出てくる。
なら、どうしてここにいるの?
はやくどこかへにげればいいのに
そして、そこで憎悪は空しさにすり替わる。
空しさは恐怖に替わろうとする。
思考が停滞し、踏み込もうとすると粘つく泥沼に足を捕らわれたような、ある漠然とした閉塞感がこみ上がってくる。
それで思考を投げ捨てようとする。
目の前にある火急の事態に身を投じて、身にまとわりついた思考を引き剥がす。
それはどうでもいい男と身を重ねる感覚と似ていた。
違うのは……違う点は、何かあるだろうか。曲がりなりにも仕事なのだから、これでも多少は有意義なのかもしれない。
では、それを止めたらどうなるのだろう。
そうしたとして、果たしてその時に自分は生きているのだろうかと思う。
全てが終わったら、自分達は残らず消されても不思議じゃない。あるいは既にその段階にいるのかも知れない。
でも、そんな状況が無かったとしても
自分にとってその先の時間が存在するのだろうか。
使徒を全て倒して、ここにある全てをさらけ出して、亡くすべき物を全て滅ぼして。
その次に何かがあるのか。
自分にするべき事があるのか。
どちらでも、いいんでしょう?
気が付くと、ミサトは静止したままの箱の中で天井を見上げていた。
天井に据え付けられた露骨な半球レンズカメラに自分の顔が湾曲して映っている。
そいつは不愛想に下界を見下ろしていた。
本当に醜い自分。
そう言えば、彼女は十七番目の使徒をまだ知らない。
存在や正体は知っていても、外見やその顛末はまだ知らないはずだった。
「片づいたの?」
彼女の開口一番の台詞に、ミサトはわざと少し間を開けて返事をした。
「ええ。でも最後の敵が控えているわ」
『使徒』が全て潰えた後の『敵』という概念が一瞬だけ部屋を支配し、やがてリツコの思考の中へと収まった。
それまで下を向いていた顔がゆっくりと光に晒されていく。
「確かな話なの?」
「多分ね、証拠はないわ。でも備えるには動機だけで十分でしょう」
「それで、私の釈放となるのね」
できればずっとここにいたい、とリツコが思っているのは勘で分かっていた。
「あなたの拘束は総司令の権限命令だけどこの際そんな事気にしちゃいられないわ。保諜部も作戦司令権限ギリギリで通してくれたの」
「出ても、あの人は許さないでしょう」
「行方不明よ…今は」
「…」
「副指令と一緒に南極に行ったきり、連絡が途絶えたままよ。これが一週間続いたら、それなりの対策を取らないとまずい事になるわ」
「対策?」
「自律防御よ。ネルフ全体の」
溜息が漏れた。
「もし私が嫌だ、と言ったら」
「…言うつもりなの?」
それならそれでいい、のかもしれない。
しかしリツコは自分で首を振った。
「私自身の意志は関係ないのね…もっとも、今更私が言えた事ではないでしょうけど」
「そうね」
ミサトは視線を落として床を見た。斜に伸びた光が独房の暗闇を綺麗に切り取っている。
どこかで見た事がある、と頭の中に一瞬の記憶が閃いて消えた。
「私達、今まで多くの人を利用してきたからね。お互い、これも天罰なのかも」
「天罰…ね」
「何?」
「ミサトが自分に向けてそんな事言うの、初めて聞いたわ」
リツコは自嘲気味に軽く笑うと、弱々しく立ち上がって眩しそうに目を細めた。
一瞬泣いているのかとミサトは思ったが、彼女の目には光が無く潤みさえ乏しかった。
「本当に、こんな時に限ってあの人は…」
そう言って歩こうとした途端によろけて床に膝をついた。
目眩を起こしたらしく手で顔を覆っているが、口元だけがひきつったように笑っている。
「情けないわよね、これくらいで…」
一人で起きあがる気配のないリツコに肩を貸して、引きずるように独房を出た。
「大丈夫よ…一人で歩けるわ」
「馬鹿言ってんじゃないわよ」
盗み見た彼女の監視報告には殆ど食事も摂っていないと書いてあったが、それは微かに浮き上がった肋骨の感触で確認できた。
無闇に長い回廊が夥しい独房の扉のせいで余計長く見えた。
「…ね、学生の時」
「ん?」
「酔いつぶれて、歩けなくなったミサトをいつも私がこんな感じでタクシーまで引っ張っていったっけ」
「そうだったっけ?」
開いたままのエレベーターの扉を潜り、後ろ手に扉固定解除のボタンを押した。
静かに扉が閉まってカウンターが音を立てて回り始める。
「飲んで暴れるのはいつもミサトで、私はその後ろで冷や冷やしていたわ」
一瞬、彼女を表に引きずり出した事を後悔した。
「で、今はこんな地の底で逆の立場よ。これでご満足?」
二人だけの密室で、初めてリツコが声を出して笑った。幽かな声だったが、いやに長く尾を引く笑いだった。
「ヤダ、そんなにおかしい?」
リツコはあと三日は休ませないと駄目だろう。
その間に自分にできる事はなんだろう。とりあえず必要なのは、ライフラインの確保と警備体制の強化。電力確保の目途も付けなければならない。
しかし、何にしてもマギとの関連づけと管制システムの確立が重要になる。
物理的な態勢を整えたとして、それが円滑に動き始めるには一体どれくらいかかるのか。
「大丈夫よ」
振り向いて見たリツコの目には既に光が宿っていた。
「少し休めば動けるわ。時間がないんでしょうけど、最低限の処置はマヤがやってくれている筈よ」
他人を値踏みする姿勢が段々露骨になっていく、と思う。リツコの事だから既に気取られているのだろう。
本当に疲れているのは自分かも知れない。
「…そうね。今の課題は電力と居住環境の確保だから、それはこちらで何とかするわ。出番はその後ね」
「分かったわ。…あと、」
「何?」
「新しい服をちょうだい。それと、シャワーを浴びさせて」
「…すまないけど、入浴には監視がつくわ」
『監視』
あの映像が何の記憶なのか分かった。
部屋の、記憶だ。
「必要ないわ。ここで死んだら私、最後まであの人の思い通りになるもの」
リツコはミサトの肩に頭を預けて目を閉じていた。
独房に入る前、あの場所で匂っていた香水がまだ微かに残っていた。
「ミサト」
「ん?」
「…ありがとう」
「…まだ死にたくはないでしょう?その為に、できる事をしているだけ」
「ご立派」
「バカ」
私が理不尽な命令に幾度も耐えてきたのは、
ただ、あの部屋に入りたくなかったからなのかもしれない。
そこは第三新東京市という街の中でも『旧市街』と呼ばれていた地域だった。
市の成立以前から住んでいた地元住民の内、開発課の命令を無視して最後まで中心部に移転しなかった人々の生きていた場所でもある。
その建物のほとんどはセカンドインパクト以前の物で、トタン屋根や雨戸を備えた木造家屋も未だに残っていた。
当然、非常時にもそれらが地下に収容される事はなく、ただ住民避難用の地下通路が外れに設置されるだけで捨て置かれていた。
だが、再三にわたる使徒の攻撃は皮肉にも全て中心部に集中していた為に、これらの前世紀的な家屋はその度に不思議の生を拾う事になる。
そして、その内の幾つかは零号機の自爆からも逃れ得た。
第三新東京市は対使徒迎撃用都市として十全に機能し、使徒の殲滅と同時にその存在を消失して役目を終えたが、その結果として残されたのはこのような旧来の市街地跡と新しい湖だけだった。
シンジはその旧市街と湖の境界に立っていた。
目の前には湖の凪いだ水面が佇み、その周りには無数の打ち捨てられた家が並んでいる。
寸断された無数の電線が傾いた電柱から吊され、道の中央には誰かが書いたスプレー書きの落書きが残っていた。
『第三新東京市跡 2.0km』
その矢印の先は凪いだ湖面だった。
「ここ、前に来たことがある」
まだアスカも綾波も元気だった時に使っていた通学路だ。
いつだったか、街中の電気が切れた時に使っていた公衆電話があるはずだ。
あった。
根本から吹き飛ばされ、へし折れた支柱と配線管だけが残っていた。
目の前にあった駄菓子屋はその基礎すらもなくなっている。
日射しを受けて蒼く輝いていた木々も見当たらない。
「でも、ここは多分あの店だ」
湖との境界の丁度手前に残っているコンクリート外壁の建物。
この記憶が辛うじてシンジに場所の目星をつけさせていた。
かつて、ここには小さなCD屋があった。
特に大きなチェーン店でもなく、客の出入りも余り多くない、郊外にはよくある自営業の音楽ショップだった。
流行の音楽も少なく、店員は禿げた無口の中年男性一人だけ。それも店の奥でいつもコーヒーを飲んで新聞を読んでいた。
最初にシンジが見つけた時も入るのに一瞬の躊躇いがあった。
(入るだけで怒鳴られんじゃないだろうか)
しかし、店内に流れていたのはバッハの弦楽四重奏だった。
よく見ると品揃えもそのほとんどがクラシックで、流行の音楽はシングルだけが言い訳のように扉の側に並べてあるだけだった。
そして、新聞を読んでいる店員の背後には異常な量のLP盤が並んでいた。
棚に隙間なく詰まった何百というLPの背表紙。
その前で番人のように腰を据えている店員。
掛けられた声は予想通り不愛想なものだった。
「…クラシックなんか聞くのか」
一応チェロは弾けます、と答えると何も言わずにまた新聞を読み始めた。
CDはジャンルや楽器、作曲家に演奏家ときちんと区分けされていた。
そのくせ今時珍しく検索端末も置いていない。
仕方がないので一枚ずつ物色していると、いつの間にか音楽が換わっていた。
Violoncello solo Nr.1 G-dur,BWV.1007。
雑音の入り方で、CDではなくLP盤だと分かった。
店員を見ると相変わらずコーヒーを飲みながら新聞を見ている。
その文字は何処の物かは分からなかったが、日本語ではない事は確かだった。
それから一人でいる時にはこの店に通うようになった。
お互いに名前も知らなかったが、この店の中では音楽の話でやりとりをする事ができた。それで充分だったし、彼も同じだったと思う。
シンジのチェロの話をきちんと聞きながら、彼は本当はピアノが好きだと言ってサティやフォーレの夜想曲を掛けて見せた。
その旋律に身を任せると、彼の手は自然に音符を追って細かく動いた。
それでいて頑固にも自分はピアノが弾けないと言い張り、他人の演奏を聴いて偉そうに文句を言うだけだと呟いていた。
「一番卑怯な役回りだよ」
そして高価そうなスピーカーから信号変換したLP盤を流し、その雑音までデジタルで再現した仕事をこれだけは自慢気に話した。
ある時、何の拍子か奥扉の向こうに入れて貰った事がある。
「これ、何で回していると思う?」
そう言って見せてくれたのは、手回し式の蓄音機だった。
同じようなものは前にテレビで見た事はあったが、本来なら巨大なラッパが付いているはずの部分に、何かの電子機器と複雑な配線が仕掛けてあった。
その時は何となく、ケンスケの事を思い出した。
そのケンスケに彼の話をすると、『絶対にそんな事はできない』とやけに強硬に否定していた。大体、生のアナログで聞く物をわざわざデジタル化する意味がないと。
そういう意見を彼に述べると、まるで待ち構えていたかのように用意周到な反論を始めたが、シンジには言っている意味の半分も理解できなかった。
やがて彼も諦めたのか、それからは余り会話もしないで音楽を聴くだけのつき合いが続いた。
それからしばらくして、何本かのSDATメディアを彼に無理矢理買わされた。
彼はそれを『必ず利子を付けて返す』と言っていたが、
その三日後に寄ってみると、店は潰れていた。
隣の家では葬式が執り行われていた。
『…逃げ遅れたんですって』
『警報が出てから…も遅れてねぇ』
『すぐに逃げたって、いつ同じように…』
それだけ盗み聞いてシンジはその場を離れた。彼の本名さえ確かめなかった。
その前日にシンジは地上戦闘で使徒を撃退していた。
帰ってくると、机の上に例のSDATメディアが置いてあった。
ミサトさんの手紙と一緒に。
これはある人からの贈り物です。あなた宛に郵送されて来ました。
シンジ君には心当たりがある物だと思いますが、念の為に私が調べました。
何の異常もなかったので、改めてシンジ君に渡します。
メディアの中には彼自慢のLPコレクションが詰まっていた。
シンジが気に入っていたバイオリンのソロ。彼の好きだったピアノ協奏曲。
ちゃんと聞き始めたのは、カヲル君が死んでからだった。
それまではベッドの下にしまって眠らせていた。
店は窓ガラスもなく、中を覗いてみると陳列棚がことごとく引き倒されたままで放置されている。
誰かが品物目当てに荒らして行ったのは明らかだったが、目当ての品が無かったのか、荒らされている割に品物は余り減っていないようだった。
床にぶちまけられたCDの半分は中身ごと割られていたが、残りはそれほどひどい損傷もなかった。
シンジはそれを拾い上げ、整理順を無視してでたらめに陳列棚へ戻し始めた。
棚は爆風を受けて形を留めている物さえ少なかったが、最後まで詰めてみると無事なCDの方が使える棚の体積よりも少なかった。
壊れたCDは床に積み上げて無造作な塔に仕上げていく。
そうして床面を完全に露出させた頃には、夕日すら山の向こうに隠れていた。
芦ノ湖の周りでは既に航空表示の照明が火を灯していた。
(帰り道が暗くて判らないかも知れない)
ガラスのない窓の外には波音と光点だけの湖面が広がっている。
それを見ながらシンジは店主の残した遺産のSDATを聞いていた。
少しずつ冷たくなっていく空気と湿った埃の臭いが、叩きつけるようなピアノの音と共にシンジの感覚を縛り上げていく。
もうどうでもいい、と思う。
このまま帰れなくても誰かに連れ戻されても、今ここにいる自分は一人だけ。
どうせ誰も見てくれないし、見てくれた者も既にいない。
だったらここで一人でいる方がまだ良かった。
もう誰の声も聞きたくない。
床に寝そべると、大きくひび割れた天井が目に入った。
埃だらけの床に張り付いた背中が凍るように冷たい。
SDATの音量を上げて波の音さえ耳から追い出すと、眠るように目を瞑った。
静かに、それでいて激しく踊る夜想曲の旋律だけが意識を満たしていく。
(そういえば、僕はあの人を何と呼んでいたのだろう)
代名詞も固有名詞もない、ただの反射壁だったような気がする。
僕自身もそうだったのかもしれない。
それなら、今こうして一人でいてもあの時と何の変わりもない事になる。
人ではなく、音楽と会話していた時間。
聞き慣れた車の音が外から聞こえたのは、それから二時間も経った頃だった。
言葉が出ないので、仕方なくカーラジオをつけた。
そこにある世界はいつでも明るい。場を明るくする為と言うよりも、その明るさを強請する為の基準線のようにも思える。
ここから下の者は人間ではないと。
しかしミサトは思い直してすぐにAMの国営放送に変えた。背後に何の雑音も流れない無機質なニュース。今はこれでいい。
「…あんな所で何していたの」
「別に」
ラジオの天気予報は明日の午後から雨が降ると言っている。
しかしこの辺りの気象は山に包囲されているせいか、予報もあまりあてにはならない。
事実、目の前のフロントグラスには既に幾つかの水滴が落ち始めていた。
「もう少しで降られる所だったわね」
「…はい」
今のミサトは会話の地雷を踏む事に躊躇は感じていない。沈黙には沈黙で答えて互いの領空を侵犯しないやり方も捨てている。
できる事なら、ひっぱたいてでもこの餓鬼の頭をこちらに振り向かせてやりたかった。
「リツコが釈放されたわ」
「…」
「これから何が起きるかは分からないけど、総司令もいないんだから状況が確認できるまでは用心しないと」
「はい」
「…それなら自分がするべき事も分かるでしょう?」
「はい」
ミサトは車を端に寄せて止めた。そのまま黙っている。
天気予報が終わったタイミングでラジオを消した。
そして一気に攻勢に出る。
「じゃ、あそこで何をしていたの?」
「ミサトさんには関係ないです」
「それは聞いてから私が決めるわ」
「ただ寝ていただけです」
「だったら、家で寝ていなさい」
返事はない。
「家が嫌なら別の所に行っても良いから、目の届く場所にして」
フロントグラスの上にワイパーの作った波紋が広がっていく。水滴もかなり大きいらしく、叩きつける音もかなり低くて重い。
本降りになれば外に出るだけでずぶ濡れになるだろう。
「…返事くらいしたらどうなの」
そこでようやくミサトはシンジの視線に気付いた。
視線と言ってもミサトが見たのはシンジの口元だけだった。
リツコと同じ口元だけの微笑み。
喋らないで歯が見えていないせいか、リツコのそれよりも穏やかで優しく見えた。
目が合ったと知るとシンジはそそくさと窓の外に顔を背けた。
「すみませんでした」
はっきりとして落ち着いた声だったが、生気は全く感じられなかった。
「分かったのなら、いいわ」
車を車線に戻してスピードを上げていく。目の前にも対向側にも誰もいない。
アスカが快復する望みはあるのだろうかと、ふと考えた。
死んじゃえ
もしくは回復する為の手だてが何かあるだろうか。リツコが動けるようになったら、担当医と一緒に検討しなければならない。
あんたはこの子も捨てた
レイはあのままで大丈夫だとしても、初号機の予備パイロットとしか使えない。シンクロ率を補填する手だてがないのなら、ダミープラグの使用も止むを得ないか。
自分で助けられると思っていたくせに
手に負えないから捨てちゃうんだ
最初にシンジが感じたのはつんのめるような衝撃だった。
それからすぐに横殴りの緩い動きが加わり、シートベルトに縛られた身体が乱暴に頭部を振り回す。
スピンしたという状況を理解するのにしばらく時間がかかった。
車は真横を向いて山側の路肩をヘッドライトで照らしていた。
窓から外を見るとシンジのすぐ側にまでガードレールが迫っていたが、車体には激突しなかったらしく、辛うじて一番大きい衝撃は受けずに済んでいた。
ただ、運転席には誰もいなかった。
開け放たれた扉の向こうから、嗚咽のような声が聞こえた。
シンジは扉を開けずに運転席を跨いで外に出た。
「来ないで!」
声を掛けようとする寸前に暗闇から声が響いた。
「…大丈夫だから。ちょっと気分が悪くなっただけ、すぐに戻るから」
「ミサトさん」
「戻りなさい。濡れるわよ」
「ミサトさん、もしかして」
ぷつ、と声が途絶えた。暗闇に互いの声が吸い取られたようだった。
「…違うわよ。そんな事ないから、余計な心配しないで」
戻ってきた声は少し笑いを含んでいた。
「でも」
「あたしは欲しかったけど、アイツが嫌がったから」
それで会話は終わりだった。
シンジはおとなしく車内灯の光に向かって歩き始めた。
ミサトは激しい雨の中で胃液を吐きながら、ここ最近は吐き出せる物すら口に入れていない事を思い出していた。