小さい頃、私は正義の味方になりたかった。
あれは小学校に入って初めての授業参観日だったと思う。
担任の女教師は将来の夢というテーマで私達に絵を描かせた。
周りの女の子達が月並みに『およめさん』とか『がっこうのせんせい』なんていう絵を描いていた時に、自分だけは目地の荒い画用紙に『せいぎのみかた』という題名で、TVで見た仮面姿の正義の女の子を描いた。
最後に作文付きで絵を発表する事になり、私は胸を張って作文を読んだ。
「私は、大きくなったらお母さんを守る正義の味方になりたいです。
お母さんが悪い人に苛められたら、そいつらをやっつけて
お母さんを助けてあげます」
一瞬、教室がしんと静まり返った事を覚えている。
「葛城さんはお母さんが大好きなんですね」
女教師は適当な評価をでっち上げてその場をフォローしていたが、後ろからは父母達の微かな忍び笑いが聞こえていた。
母と言えば、どうする事もできずに下を向いて黙っていた。
結局は、私が他人の目を気にできるほど成長していなかっただけなのだが、その時は気まずさと共に釈然としない思いを抱いただけで、かと言って誰に話せる訳でもなく、誰もいない所で一人すねていた。
何故、母を守ると言ってはいけないのだろう。
事ある毎に自分の苦しみを口に出して、何かを期待するような目で私を見ていた母。
彼女は自分勝手な言い草を鵜呑みにする私を可愛がり、また私は私で調子に乗ってそんな自分に満足していた。
私が、母を支えている。
そして母の言葉を受け止める事で、間接的に父親をも助けているのだと。
参観日の帰り道、母は下を向いて歩く私に語りかけた。
「みっちゃん、今日書いてくれた絵なんだけどね」
叱られるのだろうと思い、心の中で首を竦めていた。
「お母さん、とっても嬉しかったの。みっちゃんがお母さんを守ってくれるって言ってくれて、嬉しかった」
顔を上げると、母は私ではなく前を見ながら話していた。
「でもね、他のみんなはそういう事を聞くと嫌がるから、なるべく他の人には話さないでね」
私はただ嬉しくて、二人だけの秘密を誰にも話さないと約束していた。
母と私だけの秘密、二人だけの共同戦線。
それは自分が一人前の大人として認められたという錯覚を与えてくれた。
しかし、母はずっと気付いていたのかも知れない。
父親に対する不満や悪口を受け止めた娘が、子供らしく正義の味方になって母を救いたいと考えるに至った幼稚な過程を。
もしそうだとすれば、母は私を味方に付けようと故意に仕込んでいた事になる。
自分を慰める為の人形、無根拠に父を憎む娘として。
私は、自分が頑張れば父も母も仲直りして元に戻ると思っていた。
いい子になれば、父は優しくしてくれるし両親の喧嘩もなくなる。
その為に母を助け、彼女の理想像に近づく努力をし、いつか父が家に戻る日を待ちわびていた。
しかし中学に入って、それが私だけの単なる思いこみに過ぎないという現実を知った。
そして私は母も父も嫌いになり、二人の子供という役割を放棄した。
流れよ我が涙、と少年は言った
2
第十七使徒殲滅より六日後。
家に帰るのは3日ぶりだった。
目の回るような忙しさにまみれていたせいか、時間感覚も余りハッキリとしなかった。
3日間と言うよりは72時間であり、昼も夜も判然としない。
大事なのは活動可能な時間であって、生活に縛られた時間区分は意味を成さない。
確かにそれは快感でもあったが、限度というものがある。
と言うよりも、単に自分の読みが甘かったのだ。
正直言って、ここまで全体の危機感が強まるとは思ってもいなかった。
最初は自分だけが大袈裟に騒いで笛を吹いても踊らない状態が続くと思っていたのに、どこからか『使徒』と自分達の存在関係にまつわる噂が流れていたらしく、『処理』される危機を口にしただけで職員達は積極的に行動を始めた。
本部主要部の電力と監視態勢の確立にきりをつけて、今まで秘匿していた現状を改めて組織全体に浸透させる為に、Bクラス以上の職員を集めて会議を開く。
この二つの仕事だけで丸々2日間が消えた。
それらが終わってからも各部門の連絡経路の確認や避難可能な職員の選別と、なんやかやと仕事が押し寄せては気が付かない内に自分の手を放れていて追いかけたりを繰り返した。
こじつけるように一段落つけてから衣類の替えを取りに行く口実を作り、おまけに保諜部の同伴まで妥協してようやく戻って来られたのだ。
雪崩れ込むように玄関をくぐると、途端に鉛のような疲労がのしかかってきた。
関節の節々が痛い。
それでなくても肌がべたついているのに、周りに釣られてつい吸ってしまった煙草のせいで仮面を被ったように顔が重い。
なりふり構わずに服を適当に脱ぎ散らかして、そのまま風呂場に入った。
玄関には自分の靴しかなかったから、どうせ誰にも見られはしない。
乾いた浴槽の中に立って、シャワーを全開で浴びようとした。
「熱っ!」
湯沸かし器の温度設定が間違っていた。
全身の肌を引っ掻くような熱い湯をまともに受けた。
頭皮が掻きむしられ、髪の毛が抗えない力で押し返される。
でもそれが心地良い。
ほったらかしになっていた風呂のかび臭い空気も、湯も張っていないのに焦って入った自分の迂闊さも気にならなかった。
溜まっていた澱が洗い流されるような清々しい熱さだった。
(
電話、取ってこないと)
一息ついて落ち着くと、外部との連絡手段が手近に無い事が気に障った。
携帯を取りに行く為に風呂場から出ると、今度は先の行動を想像できなかった自分に腹が立った。
脱衣籠の中には最後に脱いだ下着しか入っていない。
携帯電話どころか、バスタオルすら用意していなかったのだ。
替えのタオルはここにはない。多分、遠く離れた部屋のタンスの中だろう。
(
どうでもいいじゃないの)
濡れた足のまま、タオルを取りにフローリングの上を歩く。
いざやってみると、大した抵抗感もなく平気で床を濡らして行ける。
どうせ後で拭けばいい事だ。
洗い物の溜まった台所が見えたが、当分の間忘れる事にした。
(シンジ君も一人だけだとこんなもんか)
タンスの前で振り返ると、通った後のカーペットには湿った足跡が露骨に残されていた。
そんな些細な失敗に浮き立つ自分が、妙に空々しかった。
走ろう。
タオルを握り、風呂場に向かって駆けてみる。
万年床を飛び越えれば勢いを殺さずにフローリングの床に着地できる。
一瞬、滑って転ぶ自分の姿が脳裏に浮かんだ。
しかしそれは単なる想像でしかなく、現実は全くその正反対にある。
走っている限り、転ぶ事はない。
歩けば尚更バランスが崩れる。
立ち止まって振り返ると、知らない内に転んでいたりする。
だから今はこれでいい。
(
気を抜くと、すぐこれなんだから)
脱衣籠に携帯とタオルを放り込んで、やっとバスタブの半分まで達した湯に浸かった。
やけに湯気が濃いのは換気扇をつけ忘れていたからだろう。
行き場のない湯気が風呂場のそこかしこに張り付いていく。
そうして成長していく天井の水滴を見た時に思い出した。
「そういえば、帰ったらすぐ寝るんじゃなかったっけ?」
車の中ではハンドルを握るのも億劫だった筈なのに、今は精神だけが高ぶって眠れそうにもない。
どうせ本部に戻れば徹夜の連続で、また眠気が蘇ってくるに決まっている。
休まなければいけないと分かっていても、心はまだ走ろうとする。
「身体の方は眠いのにねぇ」
湯の中で手と足を動かして遊んでみる。
見えない波紋が自分の身体に返ってきた。
士官級の職員達に真相を話す時には相当な覚悟が必要だった。
『使徒殲滅の真の目的は人類の防衛ではなく、一握りの人々の個人的な欲求から来ている』
そして、目的を達成した今では私達の命すら危険にさらされる。
怪獣を相手にする特撮映画のようにはいかないという現実は既に浸透しているにせよ、これは民間企業で言えば組織ぐるみの横領であり、また自分達の命に関わっているからにはそれよりも遙かに悪質な裏切りと言えた。
公表したその場で私の指揮権が剥奪される可能性が高かったし、場合によっては即時組織分裂という事も考えられた。
しかし、彼らは数分のどよめきを経た後に冷静に答えた。
「私達は危険を省みず真相を公表した作戦指令を信頼します。今後の方針を明確にする為にも、正式に総司令代理として指揮を継続して頂きたい」
その時は自分の言い分が受け入れられた喜びと興奮の絶頂にいたので、何故彼らがそんなに物分かりが良かったのか考えもしなかった。
その後で日向君が耳打ちしてきた。
「どうやら、現状を示唆したような噂が下級職員の間に広まっていたようです。気の早い者は既に家族を外国に疎開させているらしいですね」
「例の、市街消滅の時に?」
「ええ。特にドイツ、イギリス、アメリカ等に集中しているようです」
主犯格まで特定しているのには正直恐れ入った。
しかし、『その懐に入れば安全』としか考えていない点を見ると、何が起きるのかまでは完全に把握できていないらしい。
もっともこれに関しては不明な点も多くて、私も職員会議の時には言及を見送った。
そもそも、『補完』とは何なのか。
加持君の残した情報にもそれを明言した記録は無かったし、彼自身の考えも推論の域を出ていない。
しかし主たる目的とイベントに必要なパーツは既に明らかだった。
人類を一つにする事。欠落した要素の補完。
その為に用意された使徒の殲滅とエヴァ。
だが、それらは漫然とネルフという組織に関わっているだけでも自ずと見えてくる部分でもある。
ネルフの職員達が何の考えも無しに漫然と働いていた訳はない。
回を重ねる毎に熾烈になっていく使徒との戦闘の果てに、彼等は独自の憶測を重ねてそれらの意味付けを成していったのだろう。
勿論、そこにはどこからか漏れだした情報が、やはり噂となって重ねられている筈だ。
その証拠に、『人類補完計画』という名前までもが、噂という衣を纏って密かに組織の下部にまで伝わっていた。
『補完』に関する疑問は、いつの間にか職員全体を巻き込んだ問題に発展していたのだ。
私はそんな事情も知らずに真相の公表を断行した訳だ。
職員達からすれば、この会議をきっかけに私やリツコ、更にはシンジ君やアスカ、レイまでもがやっとこっち側に来たという感覚になるのだろうか。
それまでの私達はあくまで噂の対象、萱の外、別世界人という認識だったらしい。
今更ながら空恐ろしい気もしたが、ともかくこれを契機に組織を改めて一枚岩にできたのは事実だった。
しかし、その上でこれからの対策を練るとなると別問題になる。
下士官級職員の間にはこんな噂も蔓延していた。
「何にしてもエヴァが動けない限り、俺達の命は風前の灯火だろ」
対使徒戦用の人型兵器が稼働したとしても対応しきれない事態だってあり得る。
それでもエヴァの存在がネルフという組織の柱である限り、その状態如何によってネルフ全体の活動効率も変わってくる。
あの餓鬼共は俺達を道連れにして死ぬつもりなのか。
この状況が理解できているのか?
そんな事は他人に言われなくても分かっている。
シンジ君を、アスカをこちらの地平に戻さなくてはならない。
だがシンジ君とはあの日から顔も合わせていない。
するべき事が多くて家に戻らなかったせいもあるし、彼は家と病院の間を往復する事でいたずらに日常を潰していたのだから、本部で会う事すらままならなかったのだ。
優先的に解決するべき問題も山程あった。
そもそも、この先に何が起き得るのか。
とりあえず今一番恐ろしいのは内部崩壊。
それも組織内に潜入した他組織の潜入員――そんなものがいればだが――の手による扇動があった場合には手の施しようがない。
それとも、直接介入してくるのか。
どこかの軍事力を動かしてここを潰すくらい、彼等には造作もない事だろう。
「案外、こうやって焦らすのが手の内だったりしてね」
声に出しても誰かが答える訳でもない。
代わりに天井の水滴が額に落ちてきた。
「ああ、リツコ?あたし」
「ミサト?さっき帰ったばかりじゃないの」
「いいじゃない、別に」
「どこから掛けているのよ」
「風呂場」
「今日くらい休んでいたら?」
「あんたはずっと休んでいたからいいんでしょうけどね、ずっと動き回っていると休みが億劫になるのよ」
「心配しなくても何かあったら連絡するから、今日はもう寝なさい」
「そうしたくても気になって寝られないのよ」
「ミサトには他にも気にしなきゃならない事があるでしょう」
「それも含めて話をしたいの」
甘えているのは承知の上だった。
それでも今はリツコ以外にこんな話ができる相手もいない。
考えてみると、今の私は彼女としか対等に話せないのではないだろうか。
「そういう事なら、色々と気になっている事を話してもいいのかしら」
「どうぞどうぞ。赤城博士の御意見なら大歓迎だわ」
何を警戒しているのだろう、自分から電話したくせに。
「自律防御の手段なんだけど、本当に籠城以外に方法がないの」
「何よ、あんだけ話し合ってまだ足りないの?」
「援軍が来る訳でもないのに、こんな戦法が有効とは思えないのよ」
「動くにも攻撃する対象が見えてないし、他に手があるのなら聞かせて欲しいもんだわね。いっそ本部ごと引っ越しでもする?」
「仮に立て籠もるとしても、補給はどうするつもり」
「資金だけは無駄にプールされているから、民間方面でなんとかなるわ」
「無謀ね」
「承知の上よ」
「大体、そんなにしてまでここを守る必要があるのかしら」
やっぱり科学者ってこういうものなのだろうか。
この前の有様が全くの嘘のように思えた。
「どういう事、それ」
「本当にここを制圧するつもりなら、とっくに動きがあって当然よ」
「確かに、この空白状態を突いてくるとは思っていたんだけどね」
「もう少し状況を把握する必要があると思うわ」
「もう少しって、いつまでよ」
「…断定はできないけど、必要な情報が揃うまでは」
「情報の収集ならどっちにしても行うわ」
「でも自分の影に怯えているだけだったとしたら」
「怯えもしないでただ寝ているよりはましだと思うけど」
「…そうね」
リツコの溜息はいつも露骨な軽蔑と諦念を含んでいる。救いがたい、という思い。
それは相手や自分だけでなくそれらを内包した今の状況全体に向けられたもので、つまりはリツコ自身の手では如何ともしがたいというお手上げの印だった。
使徒相手でも彼女がこんな仕草を示したことはない。
そういう態度は学生時代に私と話をしている時だけのものだった。
「それで、次はなにを始めるつもりなの?」
「アスカの、快復」
向こうの端末を叩く音が止まった。
そのまま何の言葉も帰ってこない。
言葉を促すのも臆病になる程の時間が経ってから、呟くような声が聞こえた。
「それなら、今まで範疇になかった方法を使うしかないわね」
「何よそれ、ロボトミーでもするつもり?」
「似たようなものだけど、効果はあるはずよ」
冗談のつもりだったのが、あっけなく流された。
「…リツコ、まさか」
「何?」
「あれだけは使わない筈だったじゃないの」
「一般的に見れば、ごくありふれた手段よ。多分戻ってきたアスカ自身も使用には同意すると思うわ」
「そういう事言ってんじゃないわよ」
「分かっているわ。あなたの個人的な意見でしょ」
「だからそれは」
「あらゆる手段を尽くすんじゃなかったの?」
「それ以外ならどんな手段でもいいから」
「もうそれ以外に選択肢は無いわ」
リツコは決して手を挙げたりしないし、机を叩くこともない。
ただ、こちらの目を見て正論をぶつける。それで十分だと知っているのだ。
今度は自分が溜息をつく番だった。
「…意識を戻したら、彼女の意志をちゃんと確認してちょうだい」
「もちろんよ」
いつの間にか湯はバスタブを乗り越えてだらしなく溢れ落ちていた。
携帯をその湯面に叩きつけようとして、ギリギリの所で自分を抑えた。
結局、私達のやっている事は何も変わっていない。
単に自分が使役する側に廻っただけだ。
初めに気付いた時には、それが花だとも思わなかった。
花壇の植え込みに隠れるように生えていて、特に目を引くような綺麗な花もなく、それだけならありふれた地味な雑草に見えた。
「ほら、ゴミ捨て場の隣にある花壇だよ。…そう言ってもアスカには分からないかな」
他の雑草と比べて目立っていたのは、その背の高さと妙に整った容姿だった。
「何て言えばいいんだろう、茎も葉も長くて、それでいて結構固いんだ。葉の先なんて鋭くて、うっかりすると指にささり刺さりそうなくらいなんだ」
うまく水分を確保できた物は意外と大きく成長して、やがてただの雑草から明らかに一線を画した姿になる。
そして、ひっそりと花を咲かせる。
頑なな緑の表皮を破って姿を現す花は、むしろ淡い紫色で初々しい。
シンジは燃えるゴミを捨てる時にそれを見つけた。
「アスカはいつもゴミ当番の時には文句ばかり言っていたけど、僕は本当は楽しみにしていたんだ。見る度に花が違った姿になっていくのが面白かったんだ」
もしアスカの意識があったならどう切り返すだろうか。
(へえ、じゃあこれから朝のゴミ捨ては全部シンジの仕事ね)
僕はどう答えるだろう。
(それとこれとは別じゃないか。大体、アスカはいつも家の仕事に文句ばかり言って)
(何オヤジ臭い事言ってんのよ、文句言ってもちゃんとやってんだからいいじゃない)
ベッドに寝たままのアスカは何も言わずに天井を見ている。
彼女の機嫌を教えてくれるのは機械の発する単純な電子ピッチ音と心拍数だけで、いつでも同じ鼓動を刻み続けて変わる事がない。
投薬も点滴だけなので他人がこの部屋に入る事もない。
だからシンジはたった一人で喋っている。
反応のない彼女の意識が、実は覚醒している事を信じて。
その視線はやつれたアスカの顔ではなく、いつもそこから少しばかり上にある宙に向けられていた。
「学校から帰ってきて見ると花はもうしぼんでいて、いつもと同じ姿になっていたんだ。でも次の朝にはまた咲いていたよ」
その内に習性みたいなものが分かってきた。
この花は夜や朝早くの闇の中でしか開かない。
人目を避けるように花びらを晒して、日の光があふれる頃になると葉と茎だけの姿になって光合成を始める。
その繰り返しで水と養分のある限り平気で生き続ける。
多分、本来は夏だけに咲く花なんだろう。
生態系が狂っても、この花は他と違う生き方で生き残っている。
それが羨ましいと思った。
「だって、他のみんなと違うのに、そうやってちゃんと生きているなんて凄いよ」
僕にはできなかった。
どうやって他人と接したらいいのか分からなかった。
普通にすればいいと言われても何がそうなのか理解できない。
だから何も言わないで笑ってみた。
そしたら誰も近寄らなくなった。
むしろ周りに迷惑を掛けてでも自分を押し通している人の方が打ち解けていた。
それに気付くのも遅かったし、真似できる訳もなかった。
「アスカもそうだよね。いつも自分のやりたい事をしっかり表に出していた」
羨ましかったんだ。
僕達以外の大抵の人はそんなアスカを白い目で見ていたのに、気にもしていなかった。
「あんたバカァ?他人がどう思おうと関係ないじゃない」
いつもそう言って肩で風を切って歩いていた。
もしかしたら、僕もアスカの側にいたらそうなれるかもしれない。
そうして二人で風を切って歩いていく。
アスカとならそうなれると思ったんだ。
でも、それが何だというのだろう。
何かもっと別の話をしたかったのに。
どうせこんな話をしたってアスカが喜ぶ筈もないのに。
僕は一体何を話したいんだろう?
いや、そうじゃない。
僕が話したい事じゃなくて、アスカが聞きたい事を話さなきゃいけないんだ。
そうじゃないとアスカは聞いてくれない。
僕の考えなんてどうでもいいんだから。
でも、アスカは何を聞きたいんだろう?
パイプ椅子から離れて少しずつベッドに近づいていく。
確かに彼女はやつれてはいたが、母親から受け継いだという端正な顔立ちは未だに失われず残っていた。
その細くなった頬に手を差し伸べる。
「僕には、何ができるの?」
体温が、無かった。
生きてはいるのだからそんな事があるはずもない。しかし冷え切った彼女の頬は僕の掌に張り付いて、幽かな速さで体温を奪い取っていった。
このまま彼女の意識も暖められれば良いと思った。
「僕はどうすればいいんだよ、アスカ」
虚ろな彼女の瞳には自分の姿が映っていた。
綾波と同じ虚ろな瞳。
ただ相手の顔を映すだけで何も語らない。
まるで人形のようだった。
その髪をゆっくりと撫でてやる。
「ひっぱたいてよ。アスカ」
馴れ馴れしくするんじゃない、と手を振り払って僕を叩いて欲しい。
手を髪の毛から細いうなじへと移していく。
そんな事をしてもアスカに何の反応もない。
「お願いだよ、アスカ。でないと僕は」
僕はアスカを人形にしてしまう。
前にトウジに見せて貰った本に載っていた、人形。
性の道具として製造され、ただそれだけの為に扱われる人形。
使い古されれば忌まわしい物として捨てられる。
そんなんじゃない。僕はアスカを対等の存在として、
対等?
(あんたなんか、そもそも問題外なのよ。何考えてるのよ、バカ)
(少しでも可能性があるとでも思ってんの?)
(ねえ、シンジ。あの男まだ付き合えってうるさいのよ。先輩だからって調子に乗ってんのよ。
ホント、日本って前時代的よね。片想いなんて単なる公害じゃない)
(勝手にすれば?あたしは関係ないもの)
でもアスカは加持さんに片思いしていたじゃないか。
自分の事は棚に上げて他人を蔑んで、
結局自分の事しか考えていない。
「アスカは、結局何が欲しかったんだよ」
脆弱な寝間着の胸元が目に入った。
下着を着けていないのが生地の隆起で分かる。
心拍音のリズムに合わせてそれはゆっくりと上下していた。
壊せる。
今なら壊せる、そう思った。
<アスカは、結局何が欲しかったんだよ>
マイクを通した音声はまるで荒目の紙ヤスリで撫でられたように傷だらけだった。
画面の中の彼は後ろ向きになっていて表情を見る事はできない。
確かなのは、彼がベッドに寝ている彼女に異常な関心を持っている事だ。
「いいんですか?先輩」
「第三区画の電力供給系整備ならもう確認済みでしょう」
「違いますよ、シンジ君を止めないんですか?」
「…心配いらないわ」
「でも」
「マヤ、あの子にそこまでの度胸はないわよ。少なくとも今の所は」
「するかしないかという問題じゃないですよ!」
大体、無抵抗の女性に迫る行為自体が気に入らなかった。
彼の環境なら今までの間にも告白する機会は何度でもあった筈だ。
まだ若いのだから仮に振られたとしても何ということはない。
何故今になってこんな形で迫るのか、理解できなかった。
人はもっと綺麗に分かり合える筈なのに。
「私には我慢できません」
「他人の行為や嗜好を修正するのは簡単な事じゃないわ」
画面の中の彼は相変わらずアスカの頬に手を添えたまま動かない。
確かにそのまま手を下すような度胸はないのかもしれない。
それでも見ているだけで吐き気を催すような嫌悪感が沸いてくる事に変わりはなかった。
「だからこそ私達が手を下すの。できる限り望む形に近づける為にね」
「しかし、本人が自分の意志で変わらなければ同じ事じゃないですか」
「それができればこんな問題は最初から存在しないわ」
返事はできなかった。
「そろそろアスカを移送しましょう。医療スタッフとルートの確認をしておいて」
どちらにしても同じ事だ。
意識が無くてもあっても、僕の言葉はアスカには届かない。
僕という存在がアスカの嫌っている側面を思い出させるから。
それは僕が勝手にアスカの心の中に淀んだ泥濘のようなものがあると思い込んでいて、そこから導き出された一方的な結論でしかない。
だって、そうとしか思えなかったんだ。
アスカの昔の話はある程度知っていたし、普段のアスカが取っている態度が嘘の皮なのも分かっている。
本当は、彼女も僕と同じなんだ。
だからこんな形になっているアスカを助けられるのは僕しかいない。
「どうしてアスカは僕を嫌うんだよ」
答えは簡単だ。
僕という存在がアスカの嫌っている側面を思い出させるから。
「だから、だから、僕はアスカにもっと近づきたかったんだ」
手をうなじから胸元へと少しずつ下ろしていく。
硬い骨が指に当たってもその肌触りは優しくて、むしろ僕の指先を導いているようだった。
一番上のボタンにまで指が届いた。
「アスカ…」
その時、
布団の間から伸びる管に黄色い液体が走ったのを見た。
管の先には同じ色の液体が溜まった袋が付いていた。
意識はなくても排尿は生理現象として発生する。
別に不思議でもないし、変な事でもない。
それが起きるのを期待していたつもりもないのに、見てしまった自分が猛烈に恥ずかしかった。
恥ずかしさの元は、喜びだった。
生きているアスカを見る、という喜び。それと怖さが溢れてくる。
排尿を見るのがそんなに嬉しいのか?
分からない。
何が怖いのだろう。生きているアスカが怖いのだろうか。
違う。
「そうだ、アスカにもあの花を見せてあげるよ」
苦し紛れなのは自分でも分かっていた。
「目が覚めた時に花があれば、きっと気分も落ち着くよ」
そう言って周りを探したが、普通は病室に置いてあるはずの花瓶が見当たらない。
自分以外には誰も見舞いには来ないのだから、これは当然だった。
そうして花瓶を買って来ようと病室の外に出てから、その売っている場所さえ残ってない事に気付いた。
「ごめんアスカ、すぐに何か見つけて来るから」
この際空き缶でも構わないと思っていたが、それさえも簡単には見つからなかった。
道路に落ちているのは殆ど使いものにならないし、人がいないからゴミ箱にも残っていない。
太陽だけが今までと変わりなく、いつまでも身体を照りつける。
風すら吹かない異様な暑さだった。
遠くに見える湖のきらめきがいっそ恨めしく思えた。
(なんでこんなに暑いんだろう)
その内に足はあのゴミだらけの岸辺に向かっていた。
あそこなら何か代わりがあるかもしれないという考えもあったが、もう本当は花の事なんかどうでもいいと思っていたのかもしれない。
一人になりたかった。
今は誰かの事を考えるだけで落ち着かなかった。
もうどこかに行ってしまったトウジやケンスケ。
自分の仕事に夢中になって話も聞いてくれないだろうミサトさん。
僕の理解できない存在になってしまった綾波。
顔のイメージさえ忘れたCD屋の店長。
カヲル君。
父さん。
考えたくないのに次から次へと顔が現れては消えていく。
もう、沢山だった。
知らない人でも顔を見るだけで吐き気を覚えそうだった。
でも、アスカには会いたい。
だからこうして岸辺を歩いているはずなのに、ただ歩く事自体が快感になっていく。
手段と目的が入れ替わろうとしている。
あんな恥ずかしい自分よりも、こうやって一人でいる自分の方がいい。
誰かと一緒にいる自分より、一人の自分がいい。
「帰らなきゃ」
これじゃ駄目だ、アスカに会えない。
立ち止まって、落ち着いて周りを見渡す。
陽炎の向こうで山が揺れていた。
「…帰らなきゃ」
逃げちゃ駄目だ。
そう言い聞かせてもアスカの側に行くのが怖い。
他の皆も怖い。
誰もが自分の事ばかり考えて相手にしてくれない。
でも僕だってそうだ。
だから、せめてアスカの側にはいなきゃいけない。
僕にはもう誰もいないのだから、アスカから逃げちゃいけない。
周りには花瓶どころか家具の一つもなく、ただもう壊れた建物の残骸がでたらめに散乱していた。
何の前触れもなく、身の凍るような恐怖を感じた。
逃げなきゃいけないのはここからだ。
思い切り地面を蹴って、外周道路に向かって走り出した。
ようやく見つけた自動販売機でジュースを買った。
中身を全部飲みきれなかったので道端に捨てて、真新しい空き缶を作る。
それからマンションまでは走って行った。
汗が吹き出てきても気にしなかった。
どうせ誰も見ていないし、今はアスカの為に走っているのだと思えば、苦しさも忘れられる。
相変わらず元気な花を掘り出して病院に着いた時にはもう一時間も経っていた。
戻ってきた病室にアスカの姿はなかった。
「…花瓶が欲しければ、ナースセンターに言えばいいのよ。シンジ君」
その代わりにカルテを片手に持ったリツコさんが待っていた。
ビールの代わりを探していると、台所の棚に埋もれたウイスキーの瓶を見つけた。
いつ自分がそんな物を手に入れたのかもはっきりしなかったが、それでも安手の日本酒や焼酎よりはましだった。
氷だけは溢れるほど冷蔵庫にあったので、とりあえずロックにして肴も無しに飲んでみる。
味を感じない。
そう思ったのは一瞬で、途端に極端なアルコールの刺激臭が喉から鼻まで貫いていく。
アルコールには慣れていた筈なのに、これだけは耐えられずに思わず咳き込んでしまう。
それとも、ただ単に歳を取っただけなのか。
「ただいま」
シンジ君が帰ってきたが、知らない振りをする事にした。
どうせ向こうから話す事もないだろう。
今はやっと訪れた眠気を大事にしたかった。
「ミサトさん、アスカが」
「え?」
「アスカが直るって、リツコさんが」
「リツコがどうしたって?」
「新しい治療をするって言ってどこかに連れていって」
「リツコが誰を連れていったのよ」
「だからリツコさんが僕にそう言ったんです」
「…嬉しいのは分かるけど、もう少し落ち着いて話して」
「…ごめんなさい」
そうか、考えてみればすぐに分かる事だった。
「それで、アスカが直る、とはっきり言ったのね」
「ええ、それでリツコさんが」
「それはもう分かったわよ」
この子は嬉しいんだ。どんな形でもアスカが戻ってくるのが。
「どんな治療をするのか言っていた?」
「いえ…別に」
「そう」
リツコはまだ何も話していない。
アスカの治療が上手くいってから話すつもりだろう。
という事は、それからシンジ君にも施すつもりなのか。
「シンジ君、アスカはどんな感じだった?」
「…何も話さないんです。目は開いているのに、何を言っても」
「反応がないんでしょ」
「うん」
「どんな事話してみたの?」
「…」
「ああ、ごめんね。話したくないなら無理に聞かないから」
「その、花の話とか」
「花?」
正直言って意外な言葉だった。
今になって、シンジ君の持っている空き缶にやつれた植物が入っている事に気付いた。
「花って、それ?」
「今は咲いてないけど、暗くなると花が開くんです」
「ムラサキツユクサね」
「知ってるんですか?」
「そこの花壇からかっぱらってきたんでしょ」
「かっぱらったって…そんな」
「別にいいのよ。花屋なんてとっくに無くなっているし、店じゃそんなもの扱っていないでしょうから」
「…」
「そんなに気にしなくていいのよ、どうせ誰のものでもないんだから」
こんな冗談も受け流せない、弱い男。
「そんな事より、大事なのはシンジ君の気持ちでしょ」
「僕の?」
「そうよ、目を覚まして相手をしてくれなくてもちゃんと見舞っていたんだから。そうやって他人を思いやるのが一番大事じゃない」
「…そうですよね」
知った事じゃなかったけど、とりあえず励ましてやる。
「大丈夫よ、アスカだっていつか分かってくれるから。その気持ちを忘れないでね」
「…はい」
シンジ君の手から空き缶を受け取って、中に水道の水を注いだ。
彼の汗と草の青臭い香りが強く臭った。
「これは後で植木鉢に植えてさ、アスカが直ったら持って行けばいいじゃない」
「植木鉢、ですか?」
「ほら、そのほうが日持ちするでしょ」
「でも、植木鉢なんてここにありましたっけ?」
「…」
私が知っていて、彼の知らない事実が一つある。
この草は花瓶に入れるとまず3日ともたないのだ。
でもそれを指摘するのは少し躊躇いがあった。
「あ、でも湖に行けば拾えるかもしれない」
「そうよ、シンちゃん。冴えてるじゃない」
「土は花壇から貰ってくればいいんですね」
「あら、それってドロボーじゃないの」
「…気にしないって言ったのはミサトさんじゃないですか」
「そだっけ?」
「全く…」
首に組み付いて彼の頭をこじってやった。
「なーによ、その態度。その言葉の先を聞かせて欲しいもんだわね」
シンジ君は笑いながら手を剥がそうともがいた。
私も笑う。
お互いに大して力の入っていない無邪気なじゃれあいだった。
彼の身体からはツンとした汗ともつかない臭いがした。
「もう、ミサトさんってすぐに手を出すんだから」
「悪かったわね」
せっかくの眠気も覚めたけど、代わりに久しぶりの食欲が沸いてきた。
湯を浴びた時とはまた違う、へばり付いていた何かが剥がれ落ちるような清々しさを感じた。
「じゃあそのついでで悪いけど、ゴハン作ってくれない?最近ロクなもの食べてなくてさぁ」
「そのついでって、何のついでなんですか」
「ふふん、いいじゃないの何だって」
「全く…」
ブツブツと文句を言いながらシンジ君が冷蔵庫を開ける。
思った通り驚いた顔でこちらを見て言った。
「ミサトさん、食べる物がないよ」
「あら?そうだっけ。ゴメンね」
「ひどいよ、この先どうやって食べていくんですか」
「大丈夫よ、職員用にコンビニは逃がさないで確保してあるんだから」
「…ホントですか?」
「店員は泣いて働いているんでしょうね、給料高いと思うけど」
それでもシンジ君は何とか袋ラーメンやジャガイモなんかを見つけて、それなりに形になった食事を作り始めた。
私は包丁と湯の煮える音を聞きながらグラスを傾けている。
気が咎め無いと言えば嘘になるけど、なんだかんだ言ってシンジ君は久しぶりの台所にしっかりと居座って心地よい音を立てていた。
「ねえ、シンジ君」
「はい」
「どうして、アスカに花をあげようとしたの?」
「…何となく似てると思ったんです」
「花と、アスカが」
「うん」
「ふうん、そっか」
TVをつけると、驚くほど淡々とした調子でワイドショーを流していた。
ごくつまらない第二東京周辺や、日帰り旅行には見当違いなくらいに遠くにある名所を脈絡無く紹介する復興誇示の為の番組だ。
学生の頃に見た時と殆ど変わらない、相変わらず脳天気さしか伺えない代物だった
「この手の番組を扱うと国から金が出るのさ」
徹夜して明けた朝。
久しぶりに洗った洗濯物を干し終わって、加持君は窓の外を見ていた。
それでいて昨日の夜からつけっぱなしにしているTVの方には見向きもしない。
「復興不可能な場所からできるだけ目を背けさせて、これから役に立つ事だけ見せようとしているんだよ」
別にそれを責めている様子もなく、窓の外を見ながら空に向けて話すように、何もかも突き放した感じで言葉を紡ぎだしていた。
そういう彼の横顔は講義の最中でも布団の中でも同じだった。
考えてみれば、あの頃にはもう彼の興味は私の手の届かない場所に向けられていたのかもしれない。
私はそういう彼の澄ました顔をいつか一発殴ってやろうと企んでいたが、
そうする前に自分から逃げ出した。
「…シンジ君は」
「え?」
「やっぱりアスカに戻ってきてもらいたいんだ」
「…うん」
あの時、加持君にどうしても言えなかった事。
「それなら、あなたも同じじゃない」
見せたくない物を隠して、自分に都合のいいものだけ表に出す。
そうして生きていくのが当然だとしても、更にそういう自分を他人にさらけ出す事で矛盾を抱えていく。
もう一人の自分をさらして自分を保つという矛盾。
『解ってくれる』という思い込みで干渉できる他人。
そんなものが恋しいと思えるのは年寄りか餓鬼のどちらかしかない。
この子は、そして私はどっちなんだろう。
「ミサトさん、お醤油あります?」シンジ君が台所からお盆を持って来た。
「何作ったの…やだ、ジャガイモとベーコンじゃまるで酒の肴じゃない」
「だって、仕方ないじゃないですか」
実際、それは冷蔵庫に残っていた品々から可能性を最大限に引き出した最高の料理だった。
正直言って、久々の食欲に押されてすぐにでも手をつけたかった。
「もう、その上でラーメンなんか食べたら確実に便秘になるわよ」
「…そういう事言うなら僕だけで食べますから」
「やだ。冗談じゃない、冗談。せっかくシンジ君が作ってくれたんだもの、ありがたく、いただきます」
湯上がりに酒を飲んでからラーメンを食べる。
胃が煮えるように熱くなり、そこから体中に暖かさが広がっていく。
慣れない熱さに口の皮が剥がれていくけど、気にならなかった。
他人の作った物は何故こんなに旨いのだろう。
「これでもう冷蔵庫は空なの?」
「後は卵くらいしかないです」
「じゃ、もう買い物に行かないとね」
「でも、外は危ないんじゃないですか」
「何言ってんのよ、あれだけ好き勝手に歩き回っていたくせに」
「…」
「ねえ、シンジ君」
「はい」
「アスカが元に戻ったら、また三人で暮らしたい?」
「…分からないんです」
「分からないって?」
「アスカが本当にここで僕達と暮らしたいのかと思うと、分からなくなるんです」
「それでも戻って来て欲しいんだ」
「話したいんです。アスカがいなかった時に何があったのか。それで僕にとってアスカがどんなに大事なのかが解ったって」
彼が言っているのはすべからく自分勝手な理屈だった。
自分から逃げ出した人間を薬を使って強引に引き戻し、望み通りにするなど残酷を通り越して滑稽な話だ。
でも、それを批判する資格も止める権利も今の私にはない。
「…そう、それなら良かったわ」
「良かったって、何がですか?」
「何でもないわ、仕事の話よ。それよりこれってお代わりあるの?」
「一人分ぐらいは残ってます」
「ゴメン!食器は私が洗うから譲ってよ」
「いいですよ、僕はもう食べられないですから」
食器を持ってシンジ君が台所へ戻っていく。
何となく、その後ろ姿が前より大きくなった気もする。
アスカが戻ってくる事で彼の快復が成されるのなら、確かにリツコの方針が正しいのだろう。
そこまで彼女が考えて動いているのなら、私からは何も言う事はないと思う。
ただ、そうして戻ってきたアスカを私が受け入れられるのかは別だ。
アスカが薬物による治療を受け入れて以前より進歩する道を選んだとしたら、彼女の意志は尊重しなければならない。
しかし、その時にはもう彼女をこの家に置く事はできないだろう。
もっとも、アスカが自分で出て行きたがるかもしれない。
そうしたらシンジ君にも話さなければならないだろう。
アスカがそれまで彼女の一番嫌っていた物になっていくという事実を。
「あと、そこに置いてあるウイスキーの瓶も取ってきてくれない?」
「ミサトさん、飲み過ぎですよ」
「いいじゃないの、今日ぐらい健全ないつもの日々に浸らせてよ」
「健全?」
「そ。働いた後に風呂に入って飲んで寝る。これが人間の健全な日々のルーチンでしょ」
「…食器、洗っておきます」
せめて今は、シンジ君が戻ってきた事を一歩前進として受け入れるしかなかった。
かつて両親を捨て、それを後悔し続ける出来損ないの母親として。