Collector

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	 彼女が目を覚ましたのは、翌朝だった。

	 彼女は、ゆっくりと身を起こすとまわりを見回し、目の前にいる
	僕の姿を認め、「ここは……?」と、当然の疑問を口にした。

	「ここは僕の持ち家だよ。もっとも、父親からのもらい物だけれど
	ね」

	「あなた……」

	 視線は僕のほうを向いているが、その焦点は合っていない。まる
	で、宙に漂う何かを見るともなしに見ているようだった。

	「はじめまして、と言ったほうがいいのかな。僕は──」

	「どうして私、ここに……?」

	 彼女はまだ少し、覚醒時の意識混乱をきたしていた。無理もな
	い。やむをえなかったとはいえ、そうしてしまったことに、僕は自
	己嫌悪を感じた。

	「手荒な招待の仕方をしたことは、最初にお詫びしておかなければ
	いけなかったね」

	 僕がそう言うと、それまでの空ろだった彼女の視線が、徐々に焦
	点を結びはじめた。そして、その整った面立ちに険しい表情を浮か
	べ、僕が掛けてあげた毛布を胸元まで引き上げた。

	「どういうこと!?説明しなさいよ。あんた、あのとき私に道を尋
	ねて、その後……よくわからない。ここはどこ?あんた、いったい
	誰?どうして私、こんなところにいるの?一体、どういうことな
	の!?」

	 彼女は覚醒直後の放心を脱すると、今度は事態を把握できずに混
	乱をきたしてしまった。

	 この彼女の様子に、僕の心にさした後ろめたさの影はその色あい
	を増したが、どちらにせよもう後へは戻れないところまで、僕は進
	んでしまっていたのだ。

	 だから僕は、当初からの考えどおり、とりあえずの彼女の疑問に
	根気よく答えてあげることからはじめることにした。

	「君の疑問はもっともだ。ただ、それに一度に答えることは難しい
	から、順に話すことにするよ。……さっきも言ったように、ここは
	僕の持ち家だ。正確には、別荘、になるね。父からのもらい物さ。
	もっとも、その贈り主はもう、この世にはいないけれどね」

	「……」

	 彼女も、とりあえずは僕の言うことを聴くことにしたようだっ
	た。それが正解だ。僕は彼女に感謝しつつ、話を続けた。

	「さっき『はじめまして』と言ったけれど、実は一度、君とは会っ
	たことがあるんだ。近くの駅で。君は僕にぶつかって、『失礼』っ
	て言ったんだよ」

	「覚えて……ない」

	 彼女は、ごく短い時間、記憶の糸をたどる努力をし、それをすぐ
	に放棄した。

	「無理もないさ。ほんの一瞬の出来事だったしね。そういえば、あ
	の後電車に乗りそこなった君は、タクシーで大学に向かったようだ
	ね」

	 僕は、はじめて彼女に会ったときの、あのいきおいの良さを思い
	出して、微笑ましい気持ちになった。そう、あのときから僕
	は……。

	「それは覚えてるわ。あのとき、確かに誰かにぶつかったこと。そ
	の相手の顔も覚えてないけれど。それが……」

	「そう、僕だったんだ」

	「でも、だからって……どうして?」

	 この問いは、僕にしてみれば、愚問でしかなかった。

	「僕は君に興味を持った。そして、君に僕のことを知って欲しいと
	思った。だから招待した……それ以上の理由が必要かい?」

	 ──そう、男と女は、ロジックじゃない。

	 僕はそのとき、完全に確信犯の顔をしていたのだろう。

	 しばらくこちらを見ていた彼女は、追求の方向を変えてきた。

	「……こんなことして、ただで済むと思っているの?誘拐は罪が重
	いってことくらい、いまどき子供だって知っていることよ!それに
	私が帰らなかったら、すぐに家族が警察に届けるはず」

	 言いながら彼女は、その希望にすがるような表情になった。

	「僕が君の家族に脅迫状でも送っていたら、きっとそうなるだろう
	ね。もちろん、そんなことはしていないけれど。だとしたら、一人
	暮らしの娘に、一日連絡がとれないくらいで誘拐だと騒ぐ親は、そ
	んなにいないと思うよ。まして、そのご両親が外国に住んでいる、
	となればね」

	 彼女の言葉に虚勢と脅えを見てとった僕は、自分が残酷なもの言
	いをするのを、止められなかった。

	 彼女は、もう「なぜ?」とは問わなかった──言葉では。

	 僕は自分を見つめる、疑念に満ちた蒼いまなざしに答えるため
	に、言葉をつないだ。

	「君のことはいろいろと調べさせてもらったんだ。人を使ってね。
	だからご両親のことも知っている。……こう見えても僕は、いろい
	ろとコネクションを持っているし、それを十分に活用できるくらい
	に裕福なんだ。だから、君をここに招待したのも、もちろん、身の
	代金目的なんかじゃない」

	 彼女の瞳が疑惑から、再び困惑へとその色を変え、さらに数秒し
	て──僕の言葉を別の意味に理解したものか、それは嫌悪の色へと
	移っていった。

	「身体が、めあてなの……?」

	 口に出すのもおぞましそうに、彼女は僕から視線をそらした。

	「それならば、こんなに手の込んだことをすると思うかい?この部
	屋をよく見て欲しい。すべて君のためにあつらえたものだ」

	 そう。彼女のために、僕は父の残したこの別荘の一室に、思いつ
	く限りのものをそろえた。寝台、机、クローゼットには彼女のサイ
	ズの衣類と靴、オーディオ、彼女の好きな楽曲のCD、趣味で絵を
	描く彼女のための油彩の用具一式、本棚に画集、鏡台には彼女の使
	う化粧品──もちろんラベンダーの香水も含まれている──のたぐ
	いまで。

	 それらを、僕の視線を追って見回した彼女は、再びその海の深さ
	を持った蒼い瞳に、疑惑の色を浮かべた。

	「……私にここで暮らせ、ということ?」

	 答えるまでもなかった。

	 否定の言葉を期待する、すがるような彼女の表情を見て、僕は冷
	然としていたことだろう。

	「わからない!どうしてこんなことをするの?」

	「さっきも言ったとおり、君に、僕を理解して欲しかったからこう
	して招待したんだ。そのやり方が少し手荒だったことは、もう一度
	謝るよ」

	「……」

	「……とにかく、君にとっても今はいろいろなことがありすぎて、
	すぐには受け入れられないことは理解しているつもりだ。そうだ
	ね、少し休んで落ち着いたところでまた話をしよう。その間に僕
	は、朝食の用意でもしておくから」

	 それだけ言うと、僕は彼女に背を向けて、部屋の入り口に向かっ
	た。そして、ドアノブに手をかけたところで振りかえってみた。

	 彼女は最初と同じ姿勢で──ベッドから身を起こして壁に寄りか
	かり、肩まで引き上げた毛布に包まって僕を凝視していた。

	「言っておくけれど、ここは山の中だし周囲は僕の私有地だ。見て
	のとおり、この部屋には窓もないし──空調は完璧だけれどね──
	大きな声を出しても無意味だから。それから……悪いけれど、この
	ドアは、外から施錠させてもらうよ。本当は、大切なお客様にこん
	なことはしたくないんだけれどね」

	 答えは、なかった。突き刺すような視線が、その代わりだった。

	 今は、それもやむをえまい。

	 僕は、ゆっくりと、ドアを閉めた。

	 鍵を掛ける音が、予想以上に、大く響いた。


	              *


	 一時間後。僕は食事を乗せたトレイを手に、再び彼女のもとを訪
	れた。

	 ドアを開けると彼女は、僕が部屋を出たときと同じ姿勢でこちら
	を見ていた。まさか、僕が戻るまでずっと同じ姿勢でいたわけでも
	ないだろうが。

	「ここから出して。……私を帰らせて」

	 彼女の、開口一番の言葉だった。彼女は、とても疲れているよう
	に、小さく見えた。

	「他の望みなら、できる限りかなえてあげたいけれど、それだけは
	だめだよ」

	 ベッド脇のテーブルに、トレイを載せて、僕は言った。

	「今帰してくれたら、あなたのしたこと、誰にも言わないから。あ
	なたを普通の友達として、家族や他の友達に紹介してもいい。そう
	やって、お互いを理解しはじめればいいじゃない」

	 彼女なりに考えた、交渉条件なのだろう。もちろん、提示内容が
	そのまま履行されると思うほど僕はお人好しじゃない。

	「おなかが空いただろう?食事はここにおくからね」

	 僕は、彼女の言ったことには、あえて何も答えなかった。なるべ
	くならば、彼女に対して否定的な言葉を使いたくなかったからだ。

	 彼女は、動かなかった。

	「人間、空腹だと気持ちが落ち込みやすいはずだからね。食べたほ
	うがいいと思うよ。……それとも、僕が見ていると食べずらいか
	な。それならば、外に出ているけれど」

	 彼女は、瞳の色そのままに、冷たいまなざしを僕に突きつけてい
	た。もう少し時間が必要なのかもしれない。

	 僕は、コーヒーカップから湯気が上がっているうちに、部屋を出
	ることにした。

	 食事を摂って、空腹がいえればまた、会話の糸口ぐらいは見つか
	るだろう。

	「後で、またくるから」

	 そう言い残して僕はドアへと向かった。

	 前回そうしたように、ノブに手を掛けたところで、彼女のほうを
	振り返ってみた。

	「待って!」

	 思いがけなく強い調子の彼女の言葉が、僕を引き止めた。

	「半熟にしてある?」

	 彼女は壁際を離れ、ベッドに腰掛けた姿勢で言った。

	 その言葉が、トレイの上のエッグスタンドをさしているというこ
	とを理解するのに、いくらかの時間を要した。

	「……いや。ごめん。固ゆでだったよ」

	 この状況で、朝食のメニューに注文がつくとは思いもよらなかっ
	たので、僕は少々面食らいながら答えた。

	「それに、トーストとバターなんてイヤ。焼き立てのクロワッサン
	にプルーベリージャムが食べたい」

	 彼女の突然のリクエストに、僕は少しの間、考えた。

	「それじゃ、明日の朝からは──」

	「今すぐ用意して!」

	 僕のゆるやかな提案をさえぎるように、彼女は強い調子で言っ
	た。

	 こんな状況で、こんなことにこだわるとは。加持の調査書に書い
	てあった以上に、強気でわがままなお嬢さんだ。

	 僕も、普段であれば、突然こんな事を言われたら、腹を立てた
	り、相手の気持ちをはかりかねて、疑問に思ったりしたかもしれな
	い。だが、このときは自分に対して、たとえわがままであっても、
	生の感情をぶつけてくれた彼女を、むしろ嬉しく思っていた。

	「わかったよ。近くの店に仕入れにいかなければいけないから、す
	ぐに、とはいかないけれど、なるべく待たせないようにするから」

	 僕は、ベッドサイドのテーブルの位置まで戻り、トレイを持ち上
	げると、ドアのほうへと向かった。

	 ──!

	 次の瞬間、突然背中に強い衝撃を受けた僕は、トレイに両手をふ
	さがれていたこともあって、簡単にバランスを崩して、前のめりに
	転んだ。

	 当然、僕の手から放り出される格好になったトレイは、その上物
	を派手な音とともに床に投擲した。カップは割れ、その中身は絨毯
	に褐色の染みを広げた。

	 顔を上げた僕の目に、開け放たれた入り口のドアが映った。

	 ゆっくりと起き上がって振りかえると、彼女の姿はなかった。

	 僕は、転んだときに強く打った肘をさすりながら、ドアの外に出
	た。

	 薄暗い蛍光燈が、打ちっぱなしのコンクリートの床と壁を照らし
	出していた。

	 右手は掃除用具入れのロッカー。正面は、壁。左手には……階
	段。

	 狭い階段を上りきった踊り場に、重い鉄扉の施錠されたノブを、
	必死にガチャガチャと回している彼女がいた。

	 僕が上がってきたのを認めると、彼女は悪夢から逃れようとする
	ように後ずさり、すぐに背後の壁に背をはばまれ、そのままずるず
	ると床へと座り込んでしまった。

	「なんなのよ、一体……」

	 ひざを抱えて、僕のほうを見ようともしない。

	「ここはずいぶんと古い建物でね──」

	 僕は、彼女に語るともなしに、この建物の由来を話しはじめてい
	た。

	 ここは、第二次大戦前中、某元子爵だったか──良く覚えていな
	いが、そんな人物が別荘として建てたものだった。おそらくは防空
	壕代わりに、地下にこのような空間を用意していたものだろう。

	 その後時代はめぐって、僕の父がここを入手したときに、何十年
	も使われていなかったこの地下室を発見した、という経緯だ。父と
	しても、いずれ売り物とするときのことを考えたのだろう。とりあ
	えず施してあった基礎工事からすると、ワイン倉庫にでも改造しよ
	うとしていたようだった。

	 僕がここを手に入れたときには、まだ周囲をコンクリートで固め
	ただけの状態だったものを、今回こうして、彼女を招待するため
	に、再度手を入れて、今の状態に至る。

	「まるで、牢獄ね……。そして、私は囚人っていうところかしら」

	 薄暗い照明の元で、彼女は皮肉とも自嘲ともつかない引きつり
	を、片頬に浮かべた。

	「そうしていたいなら、しばらくは構わないけれど、この床は冷え
	るからね。部屋に戻ったほうがいいと思うよ。……僕は、絨毯の掃
	除をしているから」

	 彼女の言葉──囚人、という表現は、少なからず僕を悲しい気持
	ちにさせた。

	 そうじゃない。僕は君と理解し合える時間が欲しいだけなんだ!

	 喉まで出掛かったその言葉を、僕は口にできなかった。今の彼女
	にそれを言ったところで、理解してもらえるはずもないことは、明
	白だったから。


	              *


	 翌朝。僕は彼女からリクエストされたとおりの朝食メニューを手
	に、ドアを開けた。

	 彼女は目覚めて、髪を梳かしているところだった。

	「おはよう。よく眠れたかい?」

	 僕の問いかけに、鏡に向かい、僕に背を向けたままの彼女から、
	返事はなかった。

	 部屋の中央の机の上には、昨夜の夕食が手つかずでそのまま残っ
	ていた。

	「食事を摂らないのは感心しないね。昨日君が言ったとおりのもの
	をそろえたから、今朝はちゃんと食べて欲しい」

	 彼女はゆっくりと、こちらを向いた。

	 やつれの色を浮かべつつも、真剣なまなざしの彼女は、いまだ十
	分美しかった。

	「取り引きしましょう」

	「取り引き?」

	 彼女に見とれたせいもあって、僕は間抜けにオオム返してしまっ
	た。とっさに彼女の言う意味を、把握できなかったのだ。

	「私がいつまでここにいたらいいのか、期限を決めましょう。あな
	たが言うように、私にあなたのことを理解させたいのなら、その期
	限までに努力をして。もしそれで、できなかったとしたらおそらく
	一生かかっても、無理なことなんだわ。それはそれであなた自身の
	責任よ。どう?」

	 彼女が食事も摂らずに、昨日からずっと考えていたことは、これ
	だったのだろうか。僕が彼女をここに招待した理由を逆手にとっ
	て、最終的には僕の問題として突きつけてきた。

	 僕が彼女の提案を拒否したら、どうなるだろう。

	 彼女が、僕の持ちかけるすべてのことを拒絶するような事態だけ
	はなんとしても避けたかった。

	 そう考える僕に、反論の余地はなかった。このときばかりは、彼
	女の聡明さが恨めしかった。

	「わかったよ。僕も、永遠に君を拘束できるとは思っていない。僕
	の希望を言おう。二ヶ月。その間に、僕は君に理解してもらう努力
	をするよ」

	「冗談じゃないわ。長すぎる。よくて二週間、それが限度ね」

	「一ヵ月半」

	「三週間」

	「一ヵ月だ!これ以上の妥協はない」

	 僕は、少し苛立ちを覚えながら言った。

	「……わかったわ。一ヵ月ね」

	 少しの間の後、彼女は言った。おそらくは、彼女としても、交渉
	の余地として、そのくらいは見込んでいたのだろう。そんな感じの
	あきらめ、あるいは妥協、といった様子だった。

	「他にもいくつか要求があるわ。まず第一にお風呂。ここの簡易シ
	ャワーじゃ全然入った気にならない。それから第二に、一日一回は
	外の空気を吸わせて。完璧な空調だかなんだか知らないけど、ここ
	に一日閉じ込められていると、息が詰まっておかしくなりそう。第
	三に、両親に手紙を書かせて。心配させたまま、放ってはおけない
	から」

	 彼女の言うことは妥当なものだろう。何よりも僕にとっては、彼
	女がここにいることに同意してくれたことが喜びだった。だから、
	それと引き換えにに多少の要求が出たところで、聞き入れるつもり
	にはなっていたのだ。

	「わかったよ。用意をする」

	 僕の返事を聞くと、彼女は満足したようで、ようやく食事の席に
	着いた。

	 その後の食事風景は、若い女性にしては、少しがつがつしすぎな
	ような気もしたが、まあいい。食欲があるのは良いことだ。

	 僕はそんな彼女の姿を確認しながら部屋を出た。彼女のためにす
	ることはたくさんあった。まず、バスルームを磨いて、それから封
	筒と便箋を買いに出なければ……。


	 こんな田舎でエアメールの封筒を入手するのは、意外に手間がか
	かることだった。

	 もちろん、ただ入手すればよい、というだけならば話は簡単だ。

	 だがこの場合、万が一にもこれが元で彼女の居場所が知れること
	は避けなければならないのだ。

	 だから、僕は普段買い物をする地元の商店街は避け、隣町の百貨
	店まで足を伸ばした。全国にチェーンを持つ、こういったところで
	手に入る、大手文具メーカーの商品のほうが足がつきにくい。そう
	判断したためだ。

	 その他にも、不足していた細々とした日用品を補充したせいも
	あって、別荘に帰り着いたときには、予定していた昼時を二時間ほ
	ど過ぎてしまっていた。

	 僕は申し訳なく思いつつも、戻る途中で買い求めたできあいの食
	事を携えて、すぐさま彼女の元を訪れた。

	「すまない、遅くなった。昼時をずいぶんと過ぎてしまったね。と
	りあえず、ここに置くから」

	 彼女は、見るともなく、といった調子でページをめくっていた画
	集から顔を上げた。僕がテーブルに置いた食事には、何の関心もな
	いようであったた。

	「手紙は?」

	 必要最小限の用件以外、僕とは口をきく気もない。そう言わんば
	かりの聞き方だった。

	「ああ、用意したよ」

	 それでも、僕は素直に買い求めた封筒と便箋を彼女に渡した。

	「ふうん……」

	 僕が渡したそれらを、彼女はさしたる感慨もなさそうに、表裏と
	眺めた。

	「書く中身は君に任せるけれど、当然書いたものはあらためさせて
	もらうからね。そのつもりで頼むよ。……どこかに『友達のところ
	に世話になっている』とでもつけ加えておいてもらえるかな」

	 僕の言葉を無視するように、彼女は封を切った便箋にさらさらと
	ペンをはしらせはじめた。

	 数分して、彼女は僕に書きあがった便箋をよこした。

	 母親に当てた、当たり障りのない伝言メモのような文面だった。

	『思い立って、旅に出ています。一月ほどマンションを開けます
	が、心配しないで下さい。今は大学の友達の実家にお世話になって
	います……』

	 要約すると、そんな内容だった。

	 僕はそれだけ確認すると、彼女が差し出した、既に表書きの書い
	てある封筒に、その便箋をきれいに折りたたんでしまおうとした。

	 指先の抜けていないドライビンググラブをしたままだったので、
	これには若干骨が折れた。だが、便箋に彼女以外の指紋を残すわけ
	にはいかなかった。だから僕は、いらつく気持ちを押えて慎重にそ
	の作業をこなした。

	 もたつく手元に注がれる視線が気になってふと横を見ると、心持
	ち不自然に、彼女が目をそらした。

	 その仕草に腑に落ちないものを感じつつ、僕は今度はグラブを外
	して――いくらなんでも封筒は、不特定多数の指紋がついていても
	問題ないだろうと確信していたからだ――封筒の口を水で濡らして
	貼ろうと洗面台のほうへ向かいかけた。

	「!」

	 そのとき僕の指先は、グラブの上からではわからなかった、明ら
	かに便箋のものとは異なる厚みを感じとった。

	 封筒から先ほどの便箋を抜き出しのぞきこむと、その奥に、小さ
	く折りたたんだ紙切れが仕込んであるのがわかった。

	 抜き出して広げてみた。

	 僕の知らない国の言葉だったが、内容は十分想像がついた。

	「これはどういうことかな?」

	「……」

	 彼女の返事はなかった。答えようも無かったのだろう。

	 僕は無言でそのメモと、便箋、封筒をびりびりに破いて床に捨て
	た。

	 言葉にできない怒りを押さえることができなかった。

	 僕はそのまま部屋を後にした。

	 戸口で振り返ることすらしなかった。

	 後ろ手で思い切りドアを閉める直前、彼女の嗚咽が聞こえてきた
	ような気がしたが、僕自身の手でたたきつけたその音にかき消され
	て、よくはわからなかった。

	 振り返り、ドアノブに手を掛けて数秒その場に立ち尽くしたが、
	それを再び開けることが、そのときの僕にはできなかった。


	              *


	 夕方になって、自分でも冷静さをとり戻せたと思った僕は、よう
	やく彼女の部屋を訪れる決心をつけた。

	 ドアを開けると、彼女は絵を描いていた。モデルは、鏡に映った
	彼女自身。

	 僕はしばらく、その姿と、描かれつつある作品をを眺めていた。

	 絵の中の彼女は、くらい瞳をしていた。

	「何か用?夕食には少し早いみたいだけれど」

	 彼女の背中が、言った。

	 その声は、描きかけのキャンバスが発したようにも思えた。

	「バスルームの準備ができたから、よければ、と思って」

	「……わかったわ。今支度をするから」

	 先ほどのとげとげしさを、幾分弱めて彼女は言った。

	 そして、スモック代わりに羽織っていたダンガリーシャツを脱ぐ
	と、準備をはじめた。

	「もしかしたらまた、気分を壊してしまうかもしれないけれど、こ
	れを着けてもらうことにするよ」

	 僕は、鈍く光る手錠を、彼女の目前にぶら下げた。

	「ここは構造上、屋敷とは別になっているのでね。そちらに行くに
	はいったん外を経由しなければならないんだ。僕としてもリスクを
	犯すことは避けたいのでね、悪いけれど」

	 彼女は一瞬、信じられないものを見る目をして僕を凝視した。だ
	が、すぐにあきらめの表情をして、僕の前に両手をそろえて差し出
	した。

	「もちろん外に出たときに、新鮮な空気を吸いたい、という君の要
	求はかなえられるよ」

	 僕は、彼女の片手にその金属の輪をまわすと、そのまま彼女の背
	後に回った。

	「もう片方の手を出して」

	「背中で留めるの?本当の囚人みたい」

	 彼女は、嫌悪感のこもった声で言った。

	「すまないと思っている。でももし、走って逃げようなんて考えら
	れると、僕としても厄介なのでね。こうしておけば、その気にもな
	らないだろう?」

	「……」

	 彼女の答えは、なかった。

	 そのまま僕と彼女は、部屋を出て、短い階段を上った。

	 重く錆をふいた鉄扉を押し開けると、夕暮れ時の空気が、乾いた
	晩秋の木々の香りを、辺りに漂わせていた。

	 僕は彼女の後ろから、その肩を軽く押すようにして行き先を促し
	た。

	「もうひとつだけ言っておくよ。僕は腕力に自信がないから、もし
	君が屋敷に入るまでにおかしなそぶりをしたら、迷わずこれを、使
	わせてもらうからね」

	 僕はポケットから黒い握りのついた機具をとり出すと、あえてス
	イッチを入れて見せた。

	 その先端からほとばしる、高電圧の青白い火花は、彼女の心胆を
	寒からしめるには、十分すぎるほどの威力を発揮したようだ。無理
	もない。大の男でさえ、数秒で昏倒させることが可能な衝撃を、彼
	女は一度体験しているのだから。

	 脅えの表情を浮かべる彼女に、僕は微笑んだ。

	「恐がる必要はないだろう?素直に従ってさえいてくれるなら、何
	もしないのだから」


	 地下室の扉は、ちょうど屋敷の裏手に位置していたので、僕と彼
	女は、そのまま建物を半周する形になった。

	 その間、彼女は抵抗しなかった。その代わりそれから後、バス
	ルームの入り口まで、僕の問いかけに一切答えようともしなかっ
	た。

	 屋敷──別荘の入り口を入ると、二階まで吹き抜けの玄関ホー
	ル、その奥の扉を介して食堂、食堂の扉の手前から向かって左手が
	二階への階段、という造りだ。

	 玄関ホールに入って、入り口を施錠すると、僕は彼女の戒めを解
	いて、二階へとうながした。

	「ここの造りは見てのとおりだよ。某元子爵は相当な西洋かぶれの
	人だったようだね。一階はほとんど人が集まるための空間だから
	ね。来客用のバスルームはこっちなんだ」

	 僕は先に立って階段を上がり、上り切った正面に近い扉へと、大
	切なお客様を案内した。

	「どうぞ、ごゆっくり。必要と思われるものは、中に用意してある
	つもりだから。それから一応、僕はここで待たせてらうからね」

	 二回の通路は、階段を上りきったところから、内側に手すりを巡
	らせるようにして、屋敷を半周している。僕は、その通路に用意し
	た椅子に掛けると、バスルームの中に消える彼女の背を見届けた。

	 彼女が中に入ってすぐ、バスルームのドアノブが数回、空回りす
	る音が聞こえた。僕はそれで、もうひとつ言っておくことがあった
	ことを思い出した。

	「君のプライバシーを侵害するつもりはないんだけれどね、そこに
	立てこもられたりするのは困るから、内側からは施錠できないよう
	に細工させてもらったよ。それから、入り口横の棚に入浴に要るも
	のは並べてあるから自由に使ってよ。……危ないものはとり除いて
	あるから、探すだけ無駄だけれどね」

	 彼女が何かをつぶやいたような気もしたが、続いて聞こえてきた
	水音に、すぐにかき消されてしまった。

	 まあいい。中の窓も、にわか作りではあるが、固定してしまって
	いることだし、彼女も変な気は起こさないだろう。


	 ──!

	 十五分ほどして、バスタブに湯をはる音が途切れたころに、屋敷
	のドアノッカーが二度、鈍く響き渡るのが聞こえた。





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