―いつも迷っている 森は暗がりに包まれ 一歩先すら見えない

 

 明かりが少ないから 誰かここを照らしてくれと 俺はいつも叫んでいる

 

 答えるのは獣ばかりだ 奴らの瞳はよく輝くが そんな物じゃ足りはしない

 

 ここだけじゃないのは分かっているさ 木々が途切れれば 見慣れた海があるはず

 

 君はほのかに 地面を照らし出してくれ そうすれば不安じゃない

 

 その手を引いていくから 強く引いていくから きっと何とかなるさ

 

 太陽は出てないが 星の瞬きも少ないが 夜を飛ぶ鳥が進むべき先を示す

 

 だから迷うことはあっても 見失うことは もうないだろう

 

 

 

『 A bird is flying 』

 

 

 

[第一章]

(1)

 

 定刻通りにテープが回り始め、室内には軽やかな音色が満ちてゆく。英語の歌詞の端々にはノイズが混じる。ずっと前に録音してもらった時から、それは混じっていた。曲自体はもう二十年以上も前のものなのだ。今は気にもならない。

 瞼を開くとカーテンの向こうに置いてある観葉植物の影が見えた。差し込む薄明かりが意識を覚醒させてゆく。枕元の時計を手にする。

 午前6時31分。

 シーツを腕で払い、彼は身を起こす。軽くあくびをする。生暖かい空気が喉を通ってゆく。それで眠気が戻ってしまうが、構わず立ち上がる。浴室に入り洗面台で顔を洗っていると、さっそく彼女の姿が思い浮かんだ。多分、まだ寝ているだろう。

 朝食は昨夜の夕食の残りを中心にする。ただ御飯と味噌汁だけは新たに作る必要がある。彼女が文句を言うし、何よりもその二つには拘りがある。長年の習慣がそうさせていて、料理は今や数少ない趣味の一つにまでなっている。

 キッチンのテーブルに食事を用意すると再び時計を見る。時間だ。電話の子機を取り登録番号の二番を選択する。ベルが鳴り出す。九回目で繋がった。

 朝だと告げると、相手は不満そうな声でそれに答えた。もう一度確認してから電話を切る。キッチンに戻り、テレビをつけようとして思い直す。深夜、午前二時過ぎの行為の処理がまだだった。

 寝室に戻り、皺がよったシーツをまくり上げる。丸まったティッシュを取り去り屑籠に捨てた。もうその行為自体にはあまり罪悪感は湧かないが、顔をしかめてしまうのは抑えられない。

 テレビのスイッチを入れる。朝のニュース・ショー。第三新東京市で起こった誘拐事件の経過を女性キャスターが読み上げていた。画面には犠牲者の顔写真が映る。若い女だったが知らない顔だ。

 頬杖をついて気もなく画面を眺め続ける。小鳥の鳴き声と共に、廃品回収を告げるスピーカー音が外から聞こえる。

 十五分もすれば彼女はやって来る。青年は、それを待っている。

 

 チャイムもせずに玄関のドアが開かれる。鍵はかけたままだったが、彼女に対してはそれは意味がない。顔を向ける。憂鬱で不愉快そうな表情をして彼女は入ってきた。朝はいつもこうだから気にはならない。

「おはよう」

「…おはよう」

 欠伸をし、制服の短いスカートを揺らして、アスカはテーブルの前の席につく。頭の後ろで高く結ばれた栗色の髪。そのポニーテールの先は腰まで届いている。四年前のある時期から、普段はこの髪型だ。

 御飯と味噌汁をよそおい、彼女の前に置く。テーブルの上の献立をしばらく眺めてから、アスカは箸を手に取り両手を握りあわせて祈った。

 それが誰に捧げるものか、シンジは知っていたが、あえて確認するつもりもない。彼女に合わせてその人物の顔を思い浮かべる。あの曲を録音してくれた、気さくで飄々としていた人。彼の顔は笑顔しか、もう憶えてはいない。

「また昨日の残り物なの?」

「早起きが辛いんだよ。模試が来週の月曜にあって遅くまで勉強している。こういう時にやっておかないと、休日でも君と出掛けられなくなるから」

「ふーん」

 気のない返事をして味噌汁をすする。音を立てる癖は、シンジの前では露骨になる。

 会話も少なく食事は進む。無理に必要なものでもないと、思えるようになってきたのは二人とも最近だ。きんぴらを摘み、シチューをすくい、緑茶を飲む。彼女は漬け物を残す。野菜を好まないわけではないが、これだけは口に合わないらしい。納豆も未だに全然駄目だ。以前それを忘れて出してしまった時には、一日中口を聞いてくれなかった。

 アスカの箸が止まり、テレビの方に顔を向けるのを見て、食器を流し台に持ってゆく。手早くスポンジで洗い、乾燥機に入れる。ニュース・ショーの最後に最近売れ出したロック・バンドがゲスト出演した。最新シングルのメロディに合わせて、彼女のたどたどしいハミングが流れてくる。

 歌が終わると、アスカは立ち上がり浴室に向かった。浴室の洗面台の棚には、彼女の歯ブラシと女性化粧品が置かれている。

「先、行ってるからね」

 ルージュを薄く塗っただけで化粧を済ませ、アスカは玄関に向かう。

「今日も頼むよ」

「分かってるわよ。早く着替えて来てよね」

 玄関が閉められ、階段を降りてゆく音がした。それを聞いて洗面台の前に立つ。

 鏡に映る彼の顔。幼さは既に抜けていたが、柔らかい眼差しがそれを補っていた。無造作に置いてある口紅。外でエンジンのアイドリング音が響き始める。

 ずいぶん前に一度だけ、彼女の口紅の先を舐めたことがある。不味かったのでそれ以来二度とやったことはない。唇についてしまったものとでは、味も感触も全然違うことをその時知った。

 もともと髪型などにはあまり凝らない彼は、身支度には時間がかからない。柴色のシャツの上に白のパーカーを羽織り、ジーンズを履く。ナップサックを手にして外に出る。

 階段の下で鮮やかな赤い400CCのバイクに跨り、アスカは待っていた。ヘルメットをシンジに渡す。自分は被らない。運転テクニックには絶対の自信を持っている。それにポニーテールでは被りようもない。

「早くあんたも免許取りなさいよ」

「バイク通学は禁止だから仕方ないよ」

「ホント、旧態依然な学校ね。うちは女子校だけど許可出たってのにさ」

 腰に腕が回されるのを確かめてアクセルを開く。滑るようにバイクは走り出す。大通りに出たところで赤信号に止められた。廃品回収車が冷蔵庫とテレビを乗せて、目の前を通り過ぎる。

「校則なんてどうにでも誤魔化せるでしょ?そういうところに律儀なのは変わらないんだから」

「卒業したら、すぐに取るよ」

 青信号に変わると再び二人の姿は速度に乗って流れ出す。

 視界には、いつものように輪郭がぼやけたビル群があった。

 

 放課後、部活を顔みせだけで早々に切り上げ、アスカは駐輪場へと向かった。色とりどりの自転車が並べられている。バイクは彼女の物だけだ。

 この高校は他校の生徒達からは、羨望と皮肉を込めてお嬢様学校などと呼ばれている。バイク通学を望む生徒などほとんどいない。そのため許可が下りるまでは時間がかかった。校則に禁止の条項が無かったから渋々許可された、それが本当のところだ。

 夕日の光を受けて輝くバイクを校門まで押してゆく。校庭のトラックでは、陸上部員たちが100メートル走のタイムをとっている。

 体育館の方から小柄な少女が駆け寄ってきた。よく知っている顔なので、アスカは足を止めた。

「惣流先輩!」

「そんなに慌ててどうしたの?」

 少女は黒い袴と白い羽織を着ていた。アスカが属している合気道部の一年後輩である。その頬が必要以上に赤い理由には察しがついている。しかしいつものように、それには気付かぬ振りをした。

「今日も帰っちゃうんですか?最近、練習に出てくれませんね」

「もう三年生の出る幕じゃないでしょ?そうと分かれば、あたしだって貴重な時間を部活だけで費やすつもりないもの」

「でも、先輩に稽古つけてもらっいたがっている部員、たくさんいます」

「やめておくわ。前みたいに、蹴りとかまで教え込むなって、顧問のおばさんに怒られるの嫌だから」

 そう言って顔をしかめるアスカに、少女は顔をほころばせた。

 中学から高校に移っても、同年代の女性がアスカを見る目は変わっていない。憧れか、妬み。大概このどちらかだ。下級生には非常に人気がある。実際、ラブレターまがいの手紙を渡されたことも何度かあった。それを見せて自慢した時、シンジは複雑な表情をしていたが。

 バイクで通学し、武術の心得があり、一人暮らしで、ただでさえ派手な外見なのである。この校風ではやはり目立つ。

 二年生の時に他校の男子生徒に絡まれ、それを容赦なく叩きのめした事が広く噂になっていた。着替えの時には、全身のあちらこちらに残っている深い傷跡を当然目にされる。そのためなのだろう。少し危ない雰囲気の人だとも思われているようだ。そこがまた、この目の前の少女のように、彼女に惹き付けられる理由の一つとなっているようだ。

「でもホント、たまにはお願いしますね。先輩の指導、試合の時にちゃんといきてくるものですから」

「うーん、忙しいのよ。最近」

「先輩、成績なんていつもトップなんですから、志望校なんてどこでもオッケーじゃないですか」

「それは……、そうなんだけどさ」

 確かに国内の大学なら、どこであろうと余裕で入れる自信はある。だが彼女はまだそれに踏み切ってはいない。その理由があるからだ。

 アスカの表情は微妙に変化したが、それに気付くこともなく、少女はやや意地の悪い笑みを浮かべた。

「やっぱり、彼氏の事でですか?」

「彼氏?ああ、アイツの事ね」

「紹介してもらった時は驚きました。先輩だったらいても全然おかしくはないですけど」

「紹介って……。街で偶然出会って、無理矢理聞き出された記憶があるけど?」

「ま、まあ、それはそれとして。とっても優しそうな人でしたね」

「軟弱なのよ」

 それから少しだけ試合時の心得などを尋ねてから、少女は礼を言って体育館の方へ戻っていった。

 溜息をもらしてからハンドルを握り直しバイクを押す。自分の事に他人が深く立ち入ってくることは、やはり抵抗がある。ただ、その全てが悪意を持ってのものではない。既に彼女はそのことを理解していた。

 四年前に経験した精神崩壊の事があり、未だにカウンセリングを時々受けてはいる。だが今の少女のような人物に、必要以上の警戒心は抱かぬようになっていた。

 それは、シンジに対しても同じである。そうすることで見えてきたこと、逆に疑問も以前より増えたような気がする。そしてそれを避ける気はあまりない。

「彼氏、か」

 口元を緩めると、アスカはバイクのスターターを蹴った。

 

 第二新東京市・深志地区。十代の人々に特に人気の、活気ある地区だ。

 金曜日の夜。土日を控え、街は学生などで賑わっている。洋服店やアクセサリー店などが建ち並び、リディアと言う名のショッピング・センターの六階には、テレビの収録スタジオがある。そこは芸能人がよく現れる名所となっていた。週末にはインディーズ・バンドのライブが街頭で行われることもよくある。

「僕が、彼氏?」

「嬉しいでしょ」

「もちろん嬉しいさ。そうか、そんな風に見えたんだ」

 古風なアンティークで装飾された軽食店の店内には、オリーブ・オイルの匂いが微かに漂っている。ウインドウの向こうは既に暗がりに包まれていた。ネオンの光が皿の上のフォークに反射する。

 後ろの席の男女は、先日公開されたアクション映画の事を話している。そのフランス映画のヒロインは擲弾筒を手で構え、警察官を吹き飛ばす。主人公はそんな彼女に惚れるのだ。

「部活辞めちゃうのか。君は全国大会で準優勝したほどなのに、何だかもったいないな」

「蹴りが禁止だとか制約が多くて退屈。それに三年生の子、もう誰も来ないからね」

「そうだろうな」

 既に12月。先週にはアスカの誕生日があり、シンジはバイク整備のための新しい工具一式を贈った。装飾品などより遙かに嬉しいと、喜んでくれた。アスカは月に一度は自分でバイクの点検をしている。去年手に入れたそれに、彼女は深い愛情を注いでいる。

 進学希望の高校三年生なら、受験のことで頭を悩ませていてもおかしくない時期だ。アスカにはその様子がない。十代の初期に母国の大学を卒業しているのだから、無理もない。

「進路の事、もう決めたのかい?」

 ぬるいコーヒーをすすりながら、アスカは外の通りを見ていた。ブルーの瞳に街明かりが映り込む。答えるまで少し間が開く。

「進学するわ。多分ね」

「どこに?」

「まだ、決めてないわよ」

 素っ気ない口調にそれ以上聞くのをやめる。半年程前からアスカが今後の事で悩んでいることに、シンジは気がついていた。家族の下に戻るという選択肢は、まず無いことは分かっている。しかし彼女には、日本に無理に居なければならない理由はもう無いはずだ。

 あるとしたらそれは、多分一つだけだろう。

 コーヒーを飲み終わるのを確かめて、書店で買った参考書を手に取り立ち上がる。会計を済ませる彼の背中を、アスカはじっと見ていた。

 外に出ると、通りの真ん中で顔を真っ白に染めた男がパントマイムを披露していた。アスカは目を輝かせて見物人に混じる。シンジの腕を軽く握っている。彼は微笑みながらそれに任せていた。

 パントマイムの男が、そんな二人に笑いかける。白い手袋が宙を舞う。

 その額には、微かに汗が浮かんでいる。

 

 二人がそれぞれ住むマンションとアパートは、深志地区からバイクで三十分とかからない島内地区にある。住宅街のややはずれ、緑の多い公園の横に、アスカの住むマンションはあった。クリーム色の外壁。落ち着いた雰囲気の建物だ。

「寄ってく?」

「いいのかな」

「はあ?ここに来るの、あんた初めて?」

 街灯の下を蛾が飛び回っている。季節は未だに戻ってはいない。

 エレベータに入る。七階のボタンを押してから、彼女は振り向く。

「変なこと、しないでよね」

「しないよ」

「あ、そっ」

 エレベータが動き出す。壁に押しつける。少しつま先立ちになり、彼女は唇を合わせる。頭半分ほど、今はシンジの方が背は高い。

 腰に腕が回るが、エレベータは七階に到着してしまう。アスカは身を離し歩き出す。シンジも、それに続く。

 自室のドアの前で立ち止まる。学生鞄からカードを取り出して、保安装置のスリットに入れる。軽い電子音と共に鍵が開く。中に入る二人。

 高校生の独り住まいにしてはずいぶん広いが、このくらいの贅沢を出来る貯金は充分にある。かつて命をかけて戦った報酬としては、高いとは言えない。

 アスカはキッチンに向かう。居間のテーブルの前にシンジは座る。壁にはスペインにある作りかけの大きな教会が写った、写真パネルが飾ってある。天に向かい、槍のような尖塔が建ち並んでいる。

 ティーカップを二つ持ってきて向かいに座る。彼女の右手首には時計が巻かれたままだ。人前では滅多に外そうとはしない。湯気の昇るカップを手にして、二人は口に運んだ。やや舌に痺れる熱さだった。

 アスカが紅茶に息を吹きかけ、熱を冷ましながら言った。

「来週、あたしドイツに行くから」

 置いたカップが音を立てる。ブルーの瞳を見つめる。逸らそうともせず、アスカは再びカップを口元に運ぶ。カップの縁には赤いルージュが付着している。

「…帰るのかい?」

「そうとも言うわね」

「ずっと?」

 それに彼女は軽く微笑み立ち上がる。電話の横に置いてあった封筒を手にして、シンジの横に座る。カップを引き寄せてから封筒を手渡した。

「一時的によ。それ、読んでみて」

 日本についてからの消印は一週間も前だ。封筒の先は乱雑に破られていた。中から手紙を取りだし、相手の名前を見てからその理由に気がついた。四年間の努力で片言の理解が出来るようになったドイツ語の文章を、時間をかけて読む。その間、アスカは紅茶の匂いを堪能していた。

 手紙から目を離し、視線を戻す。彼の表情は堅かった。

「…どういうことだよ、これは」

「書いてあるとおりだと思うけど」

「今さらなんだよ!ずっと君を放っておいたくせに」

「あんたが怒ってもしょうがないってば」

 手紙の差出人はシンジも既に知っている人物であった。その男が、アスカにとってはどんな人物なのか。それは彼女の過去に答えがある。

 シンジは四年前、あのゼーレとの決戦で重傷を負い、二ヶ月間入院していたアスカから直接それを聞いていた。その時彼女は初めて、シンジの前で声を上げて泣いた。

 その人物とは、彼女の父親だ。アスカが日本に来日してから、いや、彼女の実の母親が死んでから、一貫して娘を無視してきた父親。その男が戻ってこいと言ってきている。

「行くことないよ」 

 片腕をテーブルの上に置きながら、彼女の顔を見つめる。何が可笑しいのか、アスカは笑みを浮かべながらカップを置いた。二人は向かい合う。

「僕が君の家族の事を色々言う権利なんて無い。でも、反対だよ」

「今後について話をするだけよ。する事なんて何もないけど」

「そう言う問題じゃないだろ?君が四年前、あんな状態になったのだって……」

 言葉が途切れる。キャビネットの上に置いてある、時計の秒針が刻む音。それがやけに大きく聞こえた。

「…ごめん。嫌なこと、思い出させて。あの時は、僕だって君のことを」

「気にし過ぎよ。シンジが全部、悪かったわけじゃないもの」

 両肘をテーブルに置き、顎を拳で支える。

 そして言葉を噛み締めるように、アスカは語り出す。

「ハッキリ言って、あたしは今でもあの二人が嫌い。顔も見たくないのが本音なの。ママがあんな事になってしまったのは、あの男だけが原因じゃない。それは分かっている。でも、ママを捨ててあの女を選んだのも確か。ママの全てが正しかったわけじゃない。それも、もう分かっているつもり。だからってあの男のことをパパと呼ぶ気には、もうなれないけどね」

「そう思っている相手に、会うことなんかないだろ?」

「シンジはどうだったの?」

 時計が時報を告げた。午後10時。その小さな電子音に合わせ、彼女の細い指が上下した。色のないマニキュアが室内灯の光を鈍く反射している。

「どうって、何が?」

「だから、シンジのお父さん。四年前のあの日、碇司令ときちんと話をしたのよね?」

 少し間があって彼は頷く。

「うん。それからは会ってないけどね。行方知れずだから」

「その時、分かり合えたと思う?」

「どうかな。あの時僕はとにかく必死だったから。父さんのやり方は、犠牲が多すぎると思った。そんなの嫌だったから、それを伝えた。それだけだよ」

「だけど、司令は分かってくれたんでしょ?シンジの言うとおり、その計画を途中で放棄した。そして全部終わった後に、ネルフの人達に害が及ばないように努力してくれた。あたしとあんたが、こんな風に生活できてるのって、碇指令のお陰でしょ?」

 二人の預金口座はスイスの大銀行にある。そこには一応、どの政治権力、組織も介入は不可能だ。日本の銀行で引き出すことにもまるで問題はない。現在二人の口座には、日本円で合わせて二億余りの残高がある。

 その準備をしたのは明らかにシンジの父、碇ゲンドウのはずだ。

「確かにそうだ。でも、それで父さんの全てを認める気にはなれないよ」

「でも前よりはどう?十四歳の頃、あたしはシンジのことファザコンだって思ってたの。あの頃に比べたらお父さんへの気持ち、少しは変わった?」

「変わったかな。実際会ったら分からないけど。少なくとも、もう憎しみなんてないと思うよ。どうしても認めて欲しいという気も、今はないね」

「そうよ……。多分、それでいいんだろうって思うの。本当はね」

 その言葉で、シンジはあることに気付かされた。自分もアスカも、そうは変わらないのではないかと。彼女の父親を直接知っているわけではない。自分の場合とは関係もかなり異なる。しかし、葛藤があったという事実には変化がないのだ。

「…君もそれを望んで」

「あたしには無理よ、和解するなんて。全部スッキリしたいだけ。ただ、それだけ」

 それっきり彼女は黙り込んだ。シンジもそれ以上は何も尋ねる気はない。ただカップの中身は既に空だったが、立ち上がる気にはなれなかった。

 アスカがテーブルの下に置いてあったリモコンを手に取りテレビをつける。古い映画をやっていた。白髪の老人が、若い弟子に向かって叫んでいる。

『知っとるかねえ?天国や極楽などというものは、近くもなければ遠くもない!ここではないどこかに、それはあるのだよ!それはどこかって?儂の脳にガラス状の物体を埋め込んだ、彼らによるとだなあ』

 白髪の老人はやがて微笑みを浮かべながら、拳銃で頭を撃ち抜く。飛び散った血潮の中には、小さなガラス玉が輝いていた。

「帰ってくれない?」

 画面に視線を注いだままアスカが言った。シンジは、動こうとはしない。

「ねえ、帰ってくれない?」

「…嫌だ」

 テレビのスイッチが切られる。エンド・マークが画面に吸い込まれ消えた。

 それでも、彼女の視線は動かなかった。

「勝手にして」

 

(2)

 

午前10時15分に目を覚ました。今日は雨降りらしく、雫がベランダの柵に跳ねる軽い音が聞こえてくる。起き上がり、床に脱ぎ捨てたままの服を手にして寝室を出る。

 居間で服を着ていると、寝室の方でシーツのすれる音がした。

「どこか行くの?」

「今日、ちょっと約束があるから」

「ふーん。傘、一本持っていっていいよ」

 頷いて、玄関を開け外に出る。湿気が強かった。

 

 大学の構内は静かだった。講義中の時間のようだ。木々の多い構内は広く、目指す研究室はそのもっとも奥の校舎にある。

 傘を玄関のかごに入れて校舎に入る。階段を上る。クラブ活動のポスターが壁に貼られていた。アインシュタインの頭が、金槌で殴られている図柄だ。

 二階にその研究室はあった。表札には物理電算室と書いてある。ノックすると、中から早口で答えがあった。ドアを開けて中に入る。

 その女性は書物やメモが散乱する机の上に置かれた、モニター画面を見つめコーヒー・カップを手にしていた。部屋の奥で冷蔵庫よりも大きい汎用コンピュータが低く唸っている。

「いらっしゃい。久しぶりね」

「半年ぶりですね、教授」

「その教授というのはやめてくれる?誉め言葉にならないから」

 赤木リツコはそう言いながらも、微笑みを浮かべてシンジに椅子を勧めた。

 椅子に座り大きめの封筒を手渡す。中の文書に目を通しながら、彼女はカップを口元に運ぶ。

 リツコの髪は金髪ではなかった。四年がかりで、本来の黒髪に戻していた。目の下の小皺が多少彼女の年齢を感じさせる。

「今のところ精神状態にはさほど問題ないようね。四年間でここまで回復するというのは、極めて順調だと思うわよ」

 文書を封筒に戻しシンジに手渡すと、彼女はシガレットケースから煙草を取りだし火をつけた。一息吸い込むと横を向いて煙を吐き出す。天井に向かって白い煙がのぼる。

「先日もアスカの担当医のコンピュータに、ハッキングしてみたの。カルテとか見てみたけど、最近はカウンセリングと言うより単なるお喋りね」

「済みません。そんな事までさせてしまって」

「いいのよ。全てを担当医に話せるわけではないのだから。あなただって、アスカには話していないのでしょう?」

「怒られますから」

 微笑みながら椅子を回して向き直る。胸には猫を形取った銀色のブローチが揺れている。どこかで微かな鳴き声がした。リツコは三毛猫をここで飼っている。

「あなたの前でも過剰な情緒不安定になること、もうないのよね?」

「ええ、ここ一年ぐらいはほとんどありません」

「少し寂しくない?」

「まさか」

 アスカは以前ほどシンジのことを怒らなくなった。殴ったりすることもほとんどない。癖だったセリフも、最近はあまり口にすることがない。それでも待ち合わせに遅れたりすると、露骨に不愉快な表情をして以前のように口走る。

 戦傷が癒えて退院した後にしばらく目立った、極度な情緒不安定は今はない。五分以上にわたって罵り続け、皿やコップを壁に投げつけ、突然支離滅裂な事を言い出して泣きじゃくり、ドアを蹴り開けて外に飛び出したりはしない。 

「あなたの選択、間違いなかったようね。ミサトも言っていたけど、あの子にはあなたの存在がとても大きいのよ」

「そうでしょうか」

「そうよ。その点には自信を持ってもいいと思うけど」

 中学三年当時の9月11日。アスカは手首をカッターナイフで切った。

 その曇天の金曜日、風邪気味だと言って彼女は学校を休んだ。薬局で薬を買い求め帰宅した。彼女の部屋に入ると、ベットのシーツを真っ赤に染めてアスカは横になっていた。なぜか制服に、着替えていた。

 抱き起こすと、あれ?帰ってきたんだね、と意外そうな顔をして呟いた。

 葛城ミサトは、当時既に国連軍の士官として海外に長期出張していた。シンジは救急車を呼んだ。幸い傷は動脈までは達していなかった。

 跡が残るから、切ったりするのは止めなさい。救急隊員が手首に包帯を巻きつけながら注意する。彼女はそれに眠そうな声で、はあい、と答えた。

 バカな事したよね、死にたくなんてないのに。翌日の朝、いつものように朝食を取るアスカの唇は、少し紫色がかっていた。シンジがどこかにいってしまう、また自分は独りになる。それ、嫌だったから。それが手首を切った理由だと語った。

 ナイフって実際に扱ってみると、うまくいかないものなんだよね。そう言って笑顔を向けてきたが、瞳は濡れていた。

 シンジが現在の高校を選んだ理由は、彼女の側に居たいと思ったからだ。

 国際電話でミサトにその事を相談すると、すぐに賛成してくれた。さすがに今度は別々に住んだ方がいいとは注文されたが、アスカが受けているカウンセリング等のデータ評価を、リツコに直接頼んでくれたのも彼女だった。

 来月、ミサトは日本に一時帰国する予定だ。

「ただ少し問題があって、相談したいのですが」

「何かしら?」

「彼女、来週ドイツへ帰国すると決めてしまったんです」

「帰国?何のために?」

 昨夜アスカが語った事を、ほぼそのまま話す。罪悪感はあったが躊躇しても仕方ない。少なくともアスカの事について相談する相手としては、この女性のことをシンジは信頼していた。やや理論が先行しすぎるのが難ではあったが。

「そう……。父親がね」

「お解りでしょうが、今の彼女を会わせていいのかどうか、心配です」

 賭になるかもね。そうリツコは呟いて、再び煙草を唇にくわえる。

 いつの間にか三毛猫が机の上で丸くなっていた。尻尾が振られている。その向こうの窓のガラスには、水滴が流れている。

「賭?どういうことですか」

「シンジ君、とても失礼な事を聞くけど」

「何でしょう?」

「あなたとアスカの間には、肉体的な関係はあるの?」

 

 三毛猫が鳴いた。舌を見せて欠伸をしている。しばらくして、シンジは尋ねた。

「それは、どういう意味ですか?」

「セックスの事よ」

 さすがに表情が堅くなる。だが、リツコの態度には何の変化もなかった。それを話す必要があるということは、それだけで理解できた。

「…あります。一年ほど前からです」

「その最中に、彼女の情緒が極端に乱れた様子はなかった?」

「いえ、特に目についたことは。何を基準にしたらいいのかは分かりませんけど」

「それを先に求めるのは大体どちらから?」

「僕からは無理です。その、一度だけ僕の方から頼んだことはありました。彼女も同意はしてくれたのですが、途中で押しのけられてしまって。その後数日は、顔を合わせることさえ拒まれました」

 腕を組んでリツコは話を聞いていた。眉間に皺が寄っている。指先で腕を軽く叩きながらしばらく彼女は考え込む。

「もう一つだけ。彼女が必要以上にそれを求めるか、あるいは異常に乱らな姿を見せたことはある?」

「…基準が分かりませんが、ごく稀に一日中側にいてくれと、せがまれることはあります」

「そう……。嫌な事を聞いてごめんなさい」

 ガラス窓が音を立てて揺れる。雨が強まりだしたようだ。講義が終わったのか、廊下の方から学生たちの笑い声が聞こえてくる。研究室に彼らが来そうな様子はない。

「これから言う事は、全て私の判断による推測よ。ネルフの時に目にした、アスカの個人記録には全く記載されていない事だし、私はそれほど臨床心理学の方には詳しくないから。それを前提に聞いてね」

 頷く。それを確認すると、彼女は少し声を落として語り出す。

「アスカにとってあの父親は、単に冷たいだけの親ではない可能性があるの。あなたは、幼児虐待という言葉を聞いたことあるかしら?」

 研究室は室内灯も灯らず薄暗い。モニター画面の発する明かりが、人影を照らし出す。

「ええ。子供が親またはごく近い関係の大人に、何らかの暴力的行為を受ける事ですよね。直接的に振るわれること、間接的に言葉などで行われることもあると聞いてます」

「その通りよ」

 彼は、それに気付いた。険しい視線を年上の女性に向ける。リツコはそれを表情を変えずに受け止める。やや伏し目がちではあったが。

「まさか、彼女もそうだと言うんですか?」 

「私はそうではないかと、考えているの」

「そんな……」

「仮にその事実があったとしても、記憶として意識はしていない可能性の方が強いわね。母親の自殺についても、アスカは何とか心の奥底に沈めようとしていたのだから。人間というのはね、極度に不安で不快な経験、あるいは自己の存在に危機を憶えかねない恐怖体験に関しては、忘れようと努力するものなの。完全には不可能よ。だから井戸に沈めて蓋をするの。意識の表面に記憶として、蘇らないようにね。でも、それにも限界がある。そして臨海点を越えた時、人がなし得ること。その一つが、現実からの完全な逃避よ」

 研究室のドアがノックされた。リツコは鋭い声で入室を拒否する。ドアの向こうで、数人の女学生の不満そうな囁き声がした。

「その一つの例が、アスカが四年前に経験した、精神崩壊」

「でもあれは、使徒の攻撃による精神汚染のせいじゃないですか!」

「あれはね、引き金に過ぎないの。憶えているわよね?アスカはその後すぐに壊れたわけではなかったわ。それに、彼女のエヴァ・パイロットという立場への極端なプライドと依存。それはもっと早い時期からだったのよ。それが崩された時に、アスカの自我は揺らいでいったの。自己の存在に、心理の奥で強い危機感を持ったためにね」

 シンジは顔を伏せていた。拳を握り膝の上で震わせている。彼は、絞り出すような声で言った。

「僕が……、原因だったんです。あの時、彼女の居場所を奪ったのは、この僕だ……」

「それは否定はしない。でも、やはり一番悪かったのは私達よ。理由はどうあれアスカの心の傷を利用していたのだから。それはあなたに対しても、だったけれどね」

 そう言って窓の外をリツコは見る。眼下には色とりどりの傘が流れてゆく。シンジの顔は上がらない。その腕に巻いている時計は、国連軍からの払い下げ品でメーターがたくさんある。今年の誕生日にアスカからプレゼントされた物だ。

 湿度計は70パーセントを示していた。

「さらに追い込むような事を言ってしまうけど、アスカの場合単なる暴力的な虐待とは思えないの。まず間違いなく、心理的虐待はあったはずよ。彼女が一番辛い時期に、それを支える行為を放棄したのは父親だから。母親と同じ役割は無理でも幼いアスカを抱き寄せて、自分が居るから心配しないでもいい、と言う事ぐらいは出来たはず。しかし彼は娘の心情を無視してすぐに再婚してしまった。それは彼女の徹底した対人関係への不信に結びついた。そして、それだけではない可能性もあるの」

 次の言葉を口にするのは、同性として辛いことだった。

 アスカは既に十八歳の立派な女性に成長している。今年の初め頃、アスカはシンジと共にここに挨拶に来た。角は取れたが、相変わらず強気な態度で接してくる仮女の容姿は、リツコが羨むほどに美しくなっていた。

 それを思えば、なおさらだ。

「最悪の想定としては、性的な虐待」

「…嘘、ですよね?」

 三本目の煙草にリツコは火をつける。 

「嘘じゃないわ、仮定よ」

「あり得ません」

「どうしてそう言いきれるのかしら?」

「僕が……、彼女とそういう関係になった時、彼女は……」

「処女だった。でもね、分かると思うけど何もそれを奪うことだけが、性的な虐待とは言えないわ。身体に残さずに行う方法は、他にいくらでもあるのよ」

 言葉を失うシンジを一瞥してから、吸い始めたばかりの煙草を灰皿に押しつける。そして努めて冷静な声でリツコは続ける。

「以前、担当医が作成したデータ・バンクをハッキングしていた時、気になる部分を見つけたの。あなたには話さなかったわ。私も確信が持てなかったし、やはり信じたくはないという気持ちもあったのね。そこにはこうあった。被験者には極端に、性的表現等に過敏な反応を示す傾向がある。否定的にも、時として肯定的にも。さらにそれを表面に出さないよう、無理をする傾向も強いとね。あなたとアスカの関係について尋ねたのは、それを考慮してよ」

「どう、なんですか?」

「……」

「リツコさん、教えてください」

「正直、何とも言えないわね。この件に関しては判断材料が乏しすぎるから。ただ、これまでそれを窺わせるような事実がなかったとしても、トラウマ的記憶の再体験はきっかけ一つで突然起こることも多い。アスカの父親に対する感情は、無視と憎悪の間で、極端に揺らぐ傾向がある。彼女の性的なものに対しての反応は異常とは行かないまでも、かなり偏りがあるようね。その二点はデータとしてはっきり出ている。それらを考慮した上での、私の現時点の判断としては、…やはりその可能性は高いと思うの」

 床に雫が落ち始める。フローリングされた床は、それを吸い込むことはない。

「昨日……、彼女は、言っていました。母親の全てが正しかったわけではない、もう自分はそれが分かっていると。その言葉を聞いた時、僕は、少しだけ安心できたんです。あれだけ苦しんでいた母親の事を、そんな風に話せるようになった、彼女に。それなのに……」

 嗚咽が室内を満たし始めた。リツコは、そんなシンジの姿から目を逸らして再び窓の外を見つめた。

「酷いよ……。そんなの、酷すぎるよ……」 

 普段は冷静な彼女にしては珍しいことだったが、目の前の青年のことが本気で不憫でならなかった。しかし、彼女は言葉を止めない。

「もう一つ。もし今までの仮定が正しいとすれば、アスカが父親に関する体験を思い出す可能性がこれからは高まるわ。あの子は母親の事を克服しつつある。それは、蓋がはずれる事をも意味するかも知れない。より過酷な記憶を隠すための蓋がね」

 答えはない。顔も上がらない。

「そしてその時はあなたの身も、危険になることがあり得る」

 瞳を濡らしたまま、シンジは顔を上げた。その顔には悲痛のみではなく、はっきりと恐怖のそれが浮かんでいた。その表情に、彼女は一瞬だが躊躇した。

「…憶えているわね?四年前、あの最後の戦いの時、初号機と弐号機が一時的に量産型エヴァ・シリーズを撃退した直後に」

 再び彼は俯き、微かに呟く。

「…やめてください」

「アスカは、あなたのことを」

「やめてよ!」

 雨音だけが室内を満たした時、その言葉は響いた。

「殺そうとした。そしてもしかしたら今度も、ね」

 

 校舎を出ようとした時、傘はなくなっていた。

 シャツに染み込む雨が冷たい。濡れた髪が額に張り付く。

「もしそれが、あの苦渋の日々の結果なのだとしたら。本当に、救われないわね……」

 猫の背を撫でながら、リツコは彼の後ろ姿を窓越しに見つめていた。

 

 テレビの画面にはシリコンで胸を膨らませ、醜い女性の姿を装っているボーカルが率いる、ロック・バンドのコンサートが流れている。曲調だけは妙に静かで宗教音楽のようにも聞こえる。

 その日三本目の缶ビールを手にしながら、彼女は電話の向こうの相手に答えた。

「…そう、そんな風に言ってたの。確かに、そう言う見方も出来ると思うわね。正直言ってあの時は私も、この子は狂ってしまったのかと思ったから」

 濡れた髪の毛をバスタオルで拭く。電話の相手は、嗚咽を抑えつけながらたどたどしく言葉をつないでいる。この青年がこんな状態で電話をしてくるのは、ここ二年程全くなかった。

 葛城ミサトはそれに眉をひそめながら、缶のプルトップを開けた。

「気持ちは分かるわ。でもね、あなたも知っているでしょうけど、碇司令の進めていた計画は結局失敗だったのよ。発動の後それに気がついた司令は、さらに過激な行動をとろうとした。あなたの説得は、その無意味を悟らせた。……。うん、だからね」

 彼女はその青年の姿を思い浮かべていた。最後に会ったのは去年の中頃だ。立派に成長していた。そして、今や彼の恋人と言って差し支えないあの少女も元気で、互いに仲むつまじくも見えた。

 それだけに、彼女にも今回の話は容易ならざる事だという認識がある。

「そうよ。私達が思っていた以上に、人間の心って複雑だったのね。だからアスカの心の底に隠された過去の記憶、その全てがあの時現れていなくても、多分不思議じゃないと思うの。……。ええ、そう言うことよ。もしそうだとしたら、今あの父親に会うのはやはり危険かもね」

 今度会う時は、ひょっとして結婚式でかなあ。そんな風に彼らをからかった。ミサトは半分本気で、そうなってくれればとも思っている。もちろん二人は慌てながら否定していたが、以前のそれとは反応もかなり違っていた。それだけに、期待も膨らんでいたのだ。

 しかし四年前に憶えたあの懸念は、消えることがなかった。

「…ちょっとお。ダメよ、そういう風に全部自分のせいにしたら。あなたは彼女の保護者じゃないのよ?してあげられることにだって限界があるわ。……。しっかりしてよお。そうは言っても、一番アスカの力になれるのは、あなたなんだからね。だいたい、それってあくまでも推測でしょ?知ってのとおり、リツコのそういうのって結構あてになんないからねえ」

 微笑みが浮かんだ。少しだけ、相手の声が力あるものになってきていた。

「そうよ、それでいいの。四年前に決めた事を、今回も実行すればいいのよ。無理に理解し合おうとする事ないんだから。まだね、時間が必要なのよ、きっと。……。迷うことないわよ。確かにリツコの言うように、これはアスカにとって一つの賭になるだろうと思うから。後は、あの子次第なんだから。……。うん、頑張ってね。もうシンジ君には、それが出来るはずだからさ」

 受話器を置いてビールを一口飲んだ。水滴を身体に付着させたままベットの端に座る。前髪を指でほぐし、じっとテーブルの上を見つめる。あの二人と自分が並んだ写真が飾ってある。青い空を背景に、三人とも笑顔だ。

 しばらくそうしていた後、ミサトは本棚の隅に隠すようにしまってある磁気ディスクを取りだした。テレビの前に歩み寄る。再生デッキの電源を入れるが、躊躇する。決して気分のいい内容ではない。

 ディスクをスロットに入れると自動的に再生が始まった。ソファーに座り映像を注視する。音声は入っていない。

 いつ見ても好きにはなれない姿だ。エヴァ初号機と弐号機。そしてもっと忌まわしい姿の、翼を持つエヴァ。その凄絶な戦いの記録。

 血しぶきをあげながら倒れる敵達。吹き出る内蔵。血潮を全身に纏った弐号機。その戦いぶりは尋常のものではなかった。殺戮を、楽しんでいるようにさえ見える。初号機はそのサポート役に徹している。

 時折プラグ内部のパイロットの姿が映像に混じる。弐号機のそれが映る度に、思わず目を背けたくなる。それ程アスカの表情は陰惨で、醜かった。とても同一人物とは思えない。

 量産型エヴァの全てが地に伏した時、悪夢が始まる。突如初号機に躍りかかる弐号機の赤い姿。足を払い、馬乗りになり、その手にはナイフが振りかざされている。何度も胸の装甲板辺りに叩きつける。刃が砕け散る。それでも弐号機はその動作を止めない。

 再び映るアスカの姿。血走った目。瞳が真ん中に寄っている。血が垂れるほど噛み締められた唇。額に刻まれた幾本もの筋。

 だがその顔には、笑みが浮かんでいるのだ。こんな笑顔、ミサトはあの時まで一度も見たことはなかった。笑顔などと呼ぶにはあまりに異様で、歪みきっていた。

 唇が動く。音声などなくてもその意味するところは、もう分かっている。

『コロシテヤル』

 そう何度も呟いている。明らかに、シンジに向かって。

 正視できない。涙で視界がぼやける。だがこの後に希望と、さらなる惨劇が待っている。

 攻撃を受けながらもシンジは何事かを必死に叫び続けている。抵抗せず、ただアスカに呼びかけている。やがて、弐号機の執拗な動きが徐々に緩慢になってゆく。そして動きを止め身を離す。初号機が立ち上がる。座り込んだ、弐号機の手を取って。

 次の瞬間だ。アスカの、あのいつもの愛らしい顔が映ったのは。だが彼女はすぐに必死の表情で顔を横に振る。彼女が見つめるその先に、復活した量産型エヴァの忌まわしい笑みがあった。白い歯をむき出しにし、二人を嘲笑している。

 弐号機が初号機を押しのけて動く。そして、その胸に突き刺さる槍。仰向けに倒れる弐号機。容赦なく、上空からの槍がその赤い巨体を撃ち抜いてゆく。

 血流に染まる弐号機プラグ内の画面。シンジの呆然とした顔。そして、初号機の絶叫。

 そこで映像は終わっていた。

 瞼を揉みながらミサトは俯いていた。沸き上がるのはただ自責の念だ。あの二人を、あそこまで追い込んでいた罪悪感は今も消えない。保護者としても上官としても、彼らを支えるべき大人としても、自分はあまりに無能で無力だった。その思いが今さらながらに痛感させられる。

「だけど……」

 そう呟くと彼女はビデオのリモコンを手に取り、やや映像を戻す。ストップする。そこに映るものに彼女の、あの青年と少女の希望が凝縮されている。

「加持君、大丈夫だよね?あの子達は、きっと大丈夫だよね」

 立ち上がり受話器を手にする。旧友の番号をかける。いつものように長々と待たされてから応答があった。かなり不機嫌そうな声だった。

「ああ、リツコお?悪いんだけどさあ、ちょっち頼みがあんのよ」

 静止したままの画面。

 そこには、とても穏やかな瞳に涙を溜めた、アスカが映っていた。

 

(3)

 

 中央自動車道のインターを下りると、深紅のバイクはすぐに甲府市街に入る。その後ろを警報音を鳴らしながら白バイが追っている。

 午前6時半。国道には幸い対向車はほとんどいないが、メーターは軽く100キロを越えていた。

 こっちには同乗者がいる。これ以上のチェイスは危険だ。そんなこともあのポリ公は理解できないのかと、アスカは自分のことを棚に上げて腹を立てた。

 やってやろうじゃないのよ。そう呟くと彼女は高い声で背後の同乗者に呼びかける。

「いい?しっかり掴まっててよ」

「あ、ああ。でも構わないのかい?」

「こんな時に嫌がっても仕方ないでしょ!」

 交差点を前にしてギアを一気にチェンジさせた。思いきり身体を傾けてハンドルを切る。すぐにブレーキング。タイヤが擦れる嫌な音が響く。滑りながら急角度で曲がるバイクを、必死に制御する。長い後ろ髪が横に流れる。レーシング・スーツの上から腰に力強い締め付けを感じた。

 その動きに意表を突かれた白バイが背後を猛スピードで走り抜ける。アクセルをゆっくり開く。国道を抜け、そしてすぐに住宅街に入り、スピードを落として細く曲がりくねる路地へと進んだ。接触したポリバケツから、生ゴミがぶちまけられた。

 乱立する民家の間の路地を通り抜け、電信柱の横でバイクを止める。木製の塀の上で寝ていた猫が逃げてゆく。しばらくの間、後方を二人は見ていた。白バイはやってこない。

「ここまでは来れないわよ。あんなでかくて幅があるのじゃね」

「でもさ、要は謝ってしまえば良かったんじゃないのかな?」

 シンジがヘルメットを脱ぎながら視線を向けると、思いっきり不愉快そうな顔が目の前にあった。眉をつり上げている。この表情をする時は、昔のように頻繁にではないが、あのセリフをよく叫ぶのだ。

 実際、した。

「あんたバカぁ!?ノーヘル、二人乗り、おまけでスピード違反!あたし前にもう切符切られてんのよ!?捕まったら免停確実なのよ!この貴重な足が奪われたら、どうしてくれんのよバカ!」

 耳鳴りにも思わず笑みがこぼれる。出会った頃にはこのセリフ一つで萎縮したものだ。だが今のシンジにとってのそれは、彼女の魅力の一つとしか受け取れない。

 当然自分の苛立ちが通じないことで、アスカの怒りはさらに増した。

「何が可笑しいのよ!怒鳴られて喜ぶなんて、あんたってやっぱりマゾね!」

「君だからだよ。他の人に怒鳴られて何が楽しいものか」

「…き、きっ!気持ち悪い!それこそ、マゾそのものよ!」

 怒りが治まらない。最近では滅多にないことだ。それでもシンジは笑みを止めない。それどころか、とても穏やかな目で顔を赤くしている少女を見つめる。

 全く手応えのない反応に、アスカは徐々に白けた顔となっていく。

「な、何よ。今日のシンジ、何か変よ?」

 それには答えず手を伸ばす。ハンドルを握る、彼女の手の上に置く。皮手袋のざらついた感触を掌に感じた。戸惑いながらアスカは目を逸らす。

 手は離されない。

「ねえ、どうしたの?変よ?」

「何でもないんだ」

 手を離し、彼はヘルメットを被る。アスカはしばらくシンジの方を見ていたが、スターターを蹴ってエンジンを始動させる。

「もう、高速には乗らないからね」

 アクセルをふかし両足を離す。バイクは走り出した。

 ドイツ渡航の前日、二人は高校を休んだ。

 今日は晴天だった。

 

 その墓地は緑に覆われた山の中腹にあった。曲がりくねる道路を標識通りの速度で走る。白い墓石の立ち並ぶ広場に着いた時、時間は午前8時半を過ぎていた。

 墓地のあちこちには並木があり、中央にはひときは目立つ広葉樹が立っている。そのすぐ横に、二人がよく知る人物の名が刻まれた墓がある。白い大理石のアーチ型の石柱だ。

 両手一杯に持っていた花を墓石の前に置く。すぐ近くの野原で摘んできた物だ。三角形に切られラップにつつまれた西瓜を、シンジはその横に置いた。山の下の農家で貰った。気のよい笑みを浮かべていた老婆は、謝礼を受け取ろうとはしなかった。

『RYOUZI KAZI』

 木漏れ日を反射する大理石の表面に、その名はある。

 二人は並んで目をつぶり祈る。アスカは手を握り合わせ、シンジはただ黙祷する。

 この墓には遺体も骨も無い。加持リョウジは現在も行方不明扱いだ。警察などがその捜索に動いたことはない。今や彼の経歴は事実上、抹消されている。

 墓を建てたのは葛城ミサトだ。四年前、海外に出る直前にそれを済ませていた。墓の中には、彼女が生前の加持から貰った品が入っている。それが何なのかは、シンジもアスカも知らなかった。

 彼はもう、生きてはいないと思う。ミサトはその時はっきりとシンジに告げた。シンジからそれを聞き出した療養中のアスカは、それから二日間を泣き暮らした。

 だが、二人の目にはもう涙はない。

 加持さん、僕は間違っていませんよね。涙の代わりにシンジは心の中で呟く。

 祈りを済ませた二人は、墓地のはずれにある草むらに座る。眼下には林立するビルと湖が見える。復興のなりつつある、第三新東京市である。

「珍しいね。ここに来るのを誘うなんて」

「もう一年も来てなかったからね。気になっていたんだ」

「そうね。加持さんのことは、忘れたくはないから」

 第三新東京市の街並みはかなり変化していた。その一部には、未だに復興の遅れている所が見受けられる。エヴァ零号機が自爆した際に破壊された地区と、ネルフ本部のあったジオ・フロント直上に当たる地区である。四年前、N2爆雷が投下され大穴があいたその場所は、既に埋められてはいたが荒れ地のままだ。

 ジオ・フロントは、内部の機能などを四年前の戦闘直後に、ネルフ自らの手で破壊されていた。再利用の目途も立たないまま現在も放置されている。

 二人は必要がない限り、十四歳の頃の事を語り合うことは少ない。忘れられること、その必要があることは忘れようと努力していた。もちろん、全てをそうすることは不可能である。

 無言で西瓜の残りを口にする。とても甘かった。

「ここに来る度に、シンジに謝りたくなる」

 膝を抱えてアスカが言った。足下でタンポポが風に揺れている。

「謝ることなんか、何もないよ」

「そうやって、いつも止めちゃうんだもの。あたし、四年間ずっと言えてないよ」

「もう何度も話したじゃないか。高校に入る前に」

「いつもシンジが謝っていたじゃない。何だか、ずるいよ。そういうのって」

 彼女は顔を膝に埋めた。肩が少し震えている。

「一番、謝らなきゃいけないこと、残ってるのに……」

「そんな必要ないんだ」

 西瓜の皮をビニール袋に入れて彼は立ち上がった。黒髪が風に乱される。

「あの時、あたしは……、ママによく似た、あたしの中の自分に」

「アスカ、もうその話はいいよ」

「言われるままに、あなたを……」

 かがみ込み、彼女の頭に手を置いて顔を上げさせた。抵抗はなかった。瞳に涙がある。

 その唇が動きかけた。それを、止めなくてはならない。その方法は一つしか思いつかなかった。それを彼女の肩の震えが止まるまで、彼は続けた。

 身を離すとシンジは笑みを浮かべて、ジャケットの内ポケットからそれを取り出した。

「君に頼みがあるんだ」

「…何?」

「君は明日ドイツに行く。もうそれを止める気はないよ。観光旅行なんかじゃないことも、よく分かっている。だけど……」

 アスカは目の下を拭った。そして無理に笑顔を浮かべながら、いつもの口調に戻った。

「あんたが何を言いたいか、分かっちゃったよ。一緒に行く、そう言いたいんでしょ?」

 頷く。

 それを見て彼女は立ち上がる。視線を街並みに移す。空に雲はない。

「ダメ」

「…そう言うと思った」

「だいたい、あんた海外になんて出たこと無いから、パスポート持ってないでしょ?明日出発の予定変更は、しないわ」

 彼は手にしていた手帳をアスカに渡した。それを受け取った彼女は、表紙を見てあからさまに驚いた表情になる。

「それ、本物じゃないんだ」

「……。ま、まさか、偽造旅券!?」

 事も無げにシンジは頷いた。悪戯っぽい笑みを浮かべている。ページをめくり中身を確かめる。どこにも怪しむところは見受けられない。

「ミサトさんが手配してくれた。三沢の国連軍に専門の人がいて、無理言って作ってもらったらしいよ。来月一時帰国した時にデートするのが条件だったって、ぼやいてた」

「だ、だけど席がもう空いてないはずよ」

 シャツのポケットから紙を取りだして示す。ルフトハンザ航空412便のチケットだった。予約の席は、アスカの隣だ。

「これはリツコさんが手に入れてくれた」

「手に入れたって……」

「航空会社のコンピュータにハッキングしてくれたんだ。もちろん、お金は僕の口座から支払ったけどね。ミサトさんが頼んでくれたよ」

 アスカは唖然とした顔で目の前の青年を見た。助けを借りたとは言え、普段なら考えられない行動力だったからだ。

 しかし考えてみれば、彼は全く無力な男というわけでもない。散々悩み、迷った挙げ句に一度こうと決めると、何者にも動かされないところが彼にはある。この四年の間にはそれが目立つ。

 特に、あたしの事に関しては。アスカはそれを思い出していた。

「これ、犯罪よ」

「リツコさんが呆れてたよ。一般人になったというのに、まさかこんなテロリストまがいの事をさせられるとはって」

 そう言いながらも、今のシンジには全く罪悪感が感じられない。アスカはそれに厳しい目になった。

「ハッキリ言って、お節介よ」

 彼の顔から笑みが消えた。

「言ったはずよ。今度のことは、あたし自身でケリを付けることなんだって。シンジがついてきたって、何にもならないのよ?それくらい分らないの?」

「僕もはっきり言うよ。君の側に居たい。それだけだ」

 最近にはない、本気で威圧的な視線をアスカは向ける。しかし、シンジには怯えなど無い。真摯な表情だった。

 風が吹き抜ける。足下で草花がざわめく。向き合ったままの二人。

「絶対イヤって言ったら?」

「それでも僕はついていくよ。今度ばかりは君の迷惑なんて、いっさい考えない」

「…勝手ね」

「そう、僕の勝手だ」

 向き合ったままの二人。風が止んでいた。

 先に敗北を認めたのは珍しいことにアスカだった。顔をしかめて肩を竦める。

「しょうがないわねえ!荷物持ちぐらいにはなるか!」

「もちろん、僕が全部持つよ」

「ああ、もう!充分に分かったからさあ。その顔は止めてよ。ホント、シャレにならないから!」

 笑顔に戻る彼を無視して、溜息をつきながらアスカは歩き出した。バイクに戻る途中、一度だけあの墓の方を見る。木漏れ日は相変わらず大理石を照らしていた。

「加持さん。実際、苦労してるのよ。アイツにはね」

 そう呟いて、彼女は微笑んだ。

 墓石の上に置かれたままの西瓜に、蟻が群がっていた。

 

 翌日の午前11時30分。

 ルフトハンザ航空412便、第二新東京市国際空港発ベルリン直行便は、定刻通りに発着した。乗客乗員合わせて162名である。

 機体はドイツ・アラド社製四発ジェット旅客機、Ar712B。第二次世界大戦後、唯一存続を許されたドイツの老舗航空機製造会社の最新旅客機だった。

 成層圏を音速で飛ぶその航空機は、約六時間でドイツのテーゲル国際空港に到着する予定である。

 

[続く]

 

(作者より)

 本作品はテレビ版最終話以後に、変更した映画版二話分の展開を加え、さらにそれから数年後の話としたものです。

 従って本編の展開とは矛盾する部分などがあります。御了承下さい。

 


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