『 A bird is flying 』

 

 

 

[第二章]

 

 

 

(4)

 

 ドイツ連邦共和国首都・ベルリン。ここは、一度は壊れた街だった。

 二十世紀中頃、ドイツに現れた強力な独裁者は、この街を拠点として自らの野望を押し進めた。

 狂気の歓呼。憎悪の日常。血塗られた前進。それは諸大国が結成した連合軍に止められた。ベルリンの街は独裁者の自殺によって戦いが終わった時、瓦礫と死体に覆われていた。

 その後復旧が進められたが、約四十年にわたり資本主義勢力と共産主義勢力に分割される悲劇に見舞われる。街を分かつ厚い壁が崩され、統合が果たされたのは、前世紀の末だった。

 西暦2000年に発生した世界的大災害の洗礼。その多くをこの街は免れた。海岸線より離れた内陸部だったからである。ベルリンは現在、西ヨーロッパで最大級の都市である。

 テーゲル国際空港はベルリン郊外にある一大都市型空港だ。災害の惨禍からの復興が始まった年、空港の拡張工事も開始され、六年前に竣工していた。現在はドイツ各地のみならず、ヨーロッパ諸国への中継空港の機能も果たしている。

 クリスマス直前だがベルリンの空は春を思わせる、穏やかなものであった。この気候は年間を通じて変わらない。

 アスカの両親は、現在この街に住んでいる。

 

 空気が違うんだ。

 初めて降り立った海外の街についての印象を聞かれ、彼は少し高い声で答えた。

「世界中が夏ってわけじゃないわよ。湿気なんて日本に比べたら全然少ないし」

「そういうのじゃなくて、何て言うか雰囲気が違う。いや、何もかも違う。人の顔つきも違うし、言葉も違うし、色も違うし、匂いも違う。空の高さもここでは全然異なっているみたいだ」

 水色のタクシーは時折つかえる道路の流れに任せながら、都市の中心部に向かっていた。

 すぐ横を少年達が乗った自転車が走り抜けてゆく。通りの脇に店を構えている喫茶店。店の外に置かれたテーブルの席で、老婆が手鏡を見て化粧を直している。足下に控えているドーベルマンが、緑色の瞳をこちらに向けた。

「当たり前よ。ここ、海外なんだから」

「来日した時、アスカはどう感じたの?」

「……。あんたが今言ったとおりに、あたしも思ったわよ」

 信号に止められ、小太りの運転手が横顔を見せ何事かを尋ねてきた。早口と強い訛りに、ドイツ語の知識が充分でないシンジは戸惑う。アスカがそれに答える。母国の言葉での会話は久しぶりのはずだが、全く流暢だった。

 頭が禿げ上がった中年運転手は、彼女の答えに笑みを浮かべた。再び早口で喋り視線を前方に戻す。信号が青に変わる。

「僕は何を聞かれたのかな」

「日本人の少年よ、この街をどう思っているか」

「君は何て答えたの?」

「この少年は、極めて面白みのない街だと言っている」

「…そんな答えで、彼は笑っているのか?」

「世界中のどの街も人を楽しませるために造られ始めたわけじゃない。だから君の印象は当然だ」

 すぐ先の川にかかる橋の辺りで渋滞が起きているようだ。五年ぶりの母国の風景にも、彼女の態度に変化はない。速度に乗らない自動車の窓の外を退屈そうに眺めている。

 その横顔に、興奮気味だった口振りを抑えた。

「いつ会いに行く?」

「今日」

「今日って……」

「用件は一つだけよ。さっさと終わらせる。それからチェロが聴ける所にでも、連れていってあげるよ」

 交差点を曲がると前方に大きな劇場が見えてきた。

 信号を無視し、黒塗りの高級車が交差点を横切る。中年運転手は罵りながらブレーキを踏んだ。周りの車も抗議のクラクションを鳴り響かせる。

 その音に劇場の屋根にとまっていた鳩達が、一斉に飛び立った。

 

 バロック調建築の大きな建物の前でバスは止まった。ドイツ歴史博物館を見上げながらバス停に下りる。観光客がさかんにカメラのシャッターを切っている。息子夫婦に手を引かれた、アメリカ人老夫婦がぼんやりと周囲を見渡す。

 アスカの服装は普段とは異なり、さっぱりとしたものだった。彼女の外見は成長するにつれ、近寄りがたい美しさをも備えつつある。ワインレッドのジャケットとスカートはそれを強調しているに過ぎない。

 今から会う相手にはこれでも充分過ぎる。そう、彼女は考えていた。

 ウンター・デン・リンデンの大通りには、クリスマスを控えての様々な装飾がなされていた。昔、世界にはホワイト・クリスマスという言葉があったと聞いたことがある。博物館すぐ横の交差点で信号を待つ。

 日本人はクリスマスという行事を、完全に勘違いしているらしい。週末を控えた金曜日の午後五時以降と、たいして変わりないように受け止めている。バレンタインにしてもそうだ。チョコなんてあげたり貰ったりして何が嬉しいんだろう?恋愛相手にそんなに尽くしたいのなら、いつだって出来るじゃない。

 信号が変わり、フンボルト大学の学生達に交じって通りを渡る。長髪を垂直に立てた学生が友人を肘でつつきながら、アスカの方を見ている。無視。歩き続けた。

 では、シンジに毎年貰っている誕生日のプレゼントはどうなるのか?そう聞かれたら、彼女はこう答えるだろう。

 常時とはいかなくても、彼は尽くしてくれていると思う。それに誕生日が特別な日だっていうのは、もう分かっている。

 アスカは自分の生れた日を素直に喜ぶことは出来ていない。周囲の人々からの祝いの言葉やプレゼントには、過剰なまでに意識をして喜びを表す必要があった。疲れる一日だ。それを分かってくれているのは、彼女の担当医以外にはシンジだけだった。

 クリスマスの方がまだ気が楽よ、あたしの誕生日じゃないもの。

 日本に滞在するようになり、初めてのクリスマスらしいクリスマスは、十五歳の時に経験した。友人三人とシンジとでパーティーを行った。ケーキはシンジが買ってきた物だった。大きすぎて食べ残された。

 あの時、彼には悪いことしたよね。通行人をよけながら彼女はそれを思い出していた。

 友人達が帰った後、料理が置かれたテーブルをひっくり返した。皿を壁に投げつけ、グラスを握り割り、プレゼントを踏みつけ、残っていたシャンパンをカーペットにぶちまけた。そんな自分を黙って見ていたシンジも、蹴り倒した。

 割れたグラスで切れた掌の出血の手当を、彼は文句も言わず行ってくれた。しかしそれから三日間、二人は一言も言葉を交わさなかった。

 原因は、何だったのだろう?

 クラクションと中年の婦人二人が立てる笑い声と、どこからか流れてくるクリスマス・ソングに記憶の回復が妨げられる。はっきりとはしないが、発端はシンジが口にした少女の名前だったはずだ。

 死んだのだと思っていた同僚の少女。自分は四年前のあの日、確かに会った記憶がある。その後の彼女の事を直接シンジに尋ねた憶えはない。

 ではなぜ、彼はあの子の名前を口にしたのだろう?ファースト、いや綾波レイは、どうなってしまったのだろうか?今だったら、微笑みながら言葉を交わせそうなのに。嫌う理由なんてもう無いはず。そして、聞きたい事はたくさんある。

 小さな菓子店を過ぎたところでアスカは立ち止まる。金メッキのドア・ノブを握りながら横に顔を向ける。菓子店のシューウィンドーには苺とチョコの板だけで飾られた、デコレーションケーキが展示されていた。

 とは言え、あの子がこの場に現れたとしても、シンジに会わせる気にはなれないだろう。全く予想外のことだったが、アイツはただでさえ高校で、それなりに、もてるらしいのだ。わざわざライバルを、それもヘビー級クラスのライバルを、増やす必要なんてない。

 視線を戻し建物の中に入る。エレベーターを使おうとしたが点検中の張り紙があった。木製の階段を上る。十字形に格子の張られた窓の向こうに、薄い雲が流れてゆく。

 老人が上の階から下りてきた。輝きのない瞳と、染みだらけの皮膚がすれ違う。カビが放つような体臭がした。全くこちらに興味がないように、足下を確かめながら下りていった。その姿にプライドが傷付けられた。

 四階まで上がり一番奥の扉の前で立ち止まる。表札を確かめたが間違いない。一呼吸してノックしようとした時、気になることがあったはずと手を止める。

 約十五秒後に思い出した。

「あのケーキ、もったいなかったなあ」

 シンジが買ってきたケーキの残りは、カーペットの上で潰れていた。翌朝生ゴミと一緒にビニール袋に入れられ、捨てられた。

 ノックした。すぐに答えがあり、アスカはドアを開けて部屋に入った。

 

 電話での応対からも予想していたことだが、両親には歓迎する意思など全くないようだ。

 義理の母親は薄く化粧をした顔に終始微笑みを浮かべている。アイシャドーだけが妙に目立つ。その笑みが仮面でしかないことなど、とうに知っている。

 父親の方はもっとあからさまで、全くの無表情だ。ただ時折、瞬間的に熱のこもった視線をこちらに向けてくる。気味が悪い。

 紅茶も出されたがひどく甘く、口に合う代物ではなかった。

「女の子が生まれたって聞いてるけど」

「今年で四歳になるわ。最近、ピアノを習い始めたのよ」

 高級共同住宅の一室は華美な装飾で満たされている。作者の分からない油絵。銀色のゴブレット。市長からの感謝状。シャンデリア。

 必要など無いはずなのに暖炉まである。その上にはピンクの子供服を着た幼児の写真が飾ってある。デフォルメされ、歯をむき出しにした黒猫の人形を抱いていた。子供の顔に笑みはない。

 無駄話が延々と続く。アスカは苛立ちを隠せなくなりつつあった。壁に掛けられた年代物の時計に目をやる。事を済ませたらシンジを連れていこうと思っている、クラシックコンサートの開演まで二時間を切っていた。

 義母は日本での生活について、一切尋ねようとはしない。ただ自分達の事を一方的に喋るだけだ。

 勤めていた病院を辞めたこと。医科大の客員教授になったこと。夫がベルリン工科大学で主任教授となったこと。ワインがまた値上がりしたこと。スイスのスキー場に今年の初めに行き骨折したこと。友人が飼っているフォックス・テリアがコンクールで優勝したこと。

 くだらないことばかりだ。

 いい加減にしてよね。眉をつり上げ、例の件を突きつけようとアスカが思った時だった。父親が、初めて笑みを浮かべた。

「済まないが、この子と話がある」

 義母は笑顔のままで立ち上がり隣部屋に姿を消した。自分の役目はこれで終わりだ。そう言いたそうな足取りだった。

 ソファーに背をもたれさせ、父親が尋ねた。

「日本での生活は順調かい?」

「お陰様で。何も問題ないわ」

「そう言えば彼は元気かね」

「彼?」

「君の同居相手だった少年だよ。確か、元ネルフ総司令の息子だと聞いているが」

 笑みは絶やさないが口元がねじ曲がっていた。同居者と聞いてどんな想像をしているか、容易に分かる。そこまで知っているのなら、自分の娘がこの四年間どんな状態にあったのかも、当然把握しているだろう。

 アスカは話を切り出すタイミングだと判断した。

「そちらがどういう積もりで私を呼んだのかは知らないですけれど、こちらの用件は、一つよ」

「私もだよ。恐らく、君の期待にそえる事だと思うがね」

「そう。何であれ、時間があまり無いの。その彼との、約束があるから」

 父親は完全にその言葉を無視した。細い指で、スーツの内ポケットから封筒を取り出す。爪が鈍く光っていた。無色のマニキュアが塗られているのだ。表面の保護のためだろうが、その光沢は気分を悪くさせるのに充分であった。封筒はアスカの前に置かれた。

「読んでみてくれないかね」

「手紙と一緒に送ればよかったじゃない。ここに来る手間が省けたわ」

「その価値はあると思うが。君がお望みの物とも、私は確信しているよ」

 封は開いていた。表面には何の文字も書かれていない。彼女は中身を確かめなければならなかった。

 それは明らかに何かの契約書だった。医学的な事に関連がありそうなのは、ざっと見ただけで分かる。冒頭にある数文字が、契約の性質を端的に示していた。

「何……、これ」

「まさか知らないわけでもあるまい。既に大学卒の、君のことだからね」

「DNA鑑定!?これ、どういうことよ!」

 視線は戻らなかった。そんな娘を、笑みを絶やすことなく父親は見ていた。

 楽しそうな笑みだった。

「閉鎖されたネルフ・ドイツ支部には、君の医学的データは残っていた。だからこちらで全て行ってしまうことは不可能ではなかったよ。しかしどの医大も、民間の連中でさえも色々とうるさくてね。最近起きたある事件がらみの騒ぎで、こういった鑑定に対して倫理的と称する、極めてくだらない世論が高まっているためだ」

 言葉が返せない。流れるように書かれた父親のサイン。それを見ながらアスカは混乱しきっていた。沸き上がるのはただ、ある種の敗北感だけだ。

 隣室で子供の泣き声とそれを叱りつける義母の声がした。ドイツ語でだったが、それは肉親に向けるような言葉ではなかった。

 しばらくして泣き声は止んだ。

「もちろん、同意してくれるね?」

 男の細い指は、こめかみに当てられていた。

 

(5)

 

 悪夢にうなされていると聞き慣れた声がした。夢の中での悲劇的ヒロインの声だったので、彼は怯えながら目を開けた。

「ちょっとお、大丈夫なの?」

 ブルーの瞳が覗き込んでくる。微弱な振動で長い後ろ髪が揺れている。

「しっかりしてよね。時差のせいで調子がでないのは、分かるけどさ」

 渡されたコーヒーを飲むと、少しだけ気分が楽になった。窓の外に目を向ける。緑の森の中、煉瓦造りの家屋が取り過ぎてゆく。ふらつく頭を軽く叩く。旅行鞄は乗車の時に預けてある。酔い薬は手元にない。

「ちくしょう。嫌な夢だったよ」

 眉間を中指で揉み、シンジは再びシートに身を任せた。

「電車の中で見る夢なんて大抵そんなものよ」

「君のバイクに乗っていた方がまだ増しだ」

「あんたねえ、八つ当たりしないでよ」

 ベルリンを離れて三時間が過ぎた。列車は北西へと向かっている。

 この旅に誘ったのは、もちろんアスカの方からであった。昨夜の内にその理由を尋ねた。例の件が三日ほど先延ばしになりそう。それに、確認したい事が出来たから。彼女はそう答えただけであった。

 両親に対し、彼女は何を宣告するつもりだったのか。それは分かっていることだ。結果については不首尾に終わったことぐらいしか分からない。

 あからさまに不機嫌な顔をして、アスカはホテルに戻ってきた。その彼女に引っ張られ開演直後に駆け込んだコンサートも全く楽しめなかった。アスカは厳しい表情をしたままであったし、そのコンサートは、クラシック音楽のものではなかったのだ。ベースがきつい不協和音を鳴り響かせるロックのライブだった。

 目の下にくまを浮かべた痩せたボーカルは、死だとか、諦めだとか、孤独だとか、価値だとかいう英語の歌詞を柴色に染めた唇でがなり立てていた。ボーカルの男は美形だったが、その瞳は異様にギラついていた。

「ハンブルクって街に用でもあるのかい?」

 途中の駅で買い求めた音楽雑誌をアスカは開く。ヨーロッパの音楽界で活躍する、日本人作曲家の記事が載っている。

「言ってなかった?その近くにある町が、あたしの生まれた所だって」

 身を起こす。頭が再びふらつき、胃液の味を舌に感じた。答えた彼女は極めて無表情であった。しかしその姿に、安心など出来ない。

 アスカの実の母親は、彼女が幼少の頃に死んだ。自然死ではない。何らかの原因で精神を病んだ母親は、ある日自殺した。首を吊って死んだ。

 その事実は四年前に直接、アスカ本人から聞いている。

「ふーん、何も言わないんだね」

「…何て言ったらいいのか、正直分からない」

 視線を彼女からはずし、シートにうつかる。聞いたことがあると、彼は次のようなことを思い出していた。

 首を吊って死ぬのは汚い死に様だ。排泄物や内容液を垂れ流して死んでゆく。遺体の回収には手間がかかる。その姿は人目にもつきやすい。当然の事だが、それを見た者は良い気分ではない。

 他者に多大な迷惑をかける、死に方だ。

「止めるとか」

「それはしないよ。僕はただ、ついて行くだけだ」

 客室は広い。聞こえるのはレールが振動する音だけだ。隣室に若い男女が入っていくのを見かけたが、防音が充分にされているのか声は聞こえない。雑誌が閉じられた。口元を緩めて、アスカは顔を向けた。

「そう思っているのなら、お願いは聞いてくれるよね」

「うん」

「正直言って、あの家に帰って平気な自信はあんまりないの。もしも、あたしがおかしくなりそうだったら、何とかしてよね」

 膝に手が置かれた。

「頬を叩いてでも、何とかする」

「ふーん。報復は、覚悟してよね」

 終着駅まではまだ時間がかかりそうだ。彼女に断って目を閉じる。だが眠気は起きない。何かが起こってしまった時に対処する自信など彼には全く無かった。それ自体、あまり慣れたくはない事でもある。

「ねえ」

 断りの言葉をもう忘れたのか、アスカが声をかけてきた。

「さっき見た嫌な夢って、何?」

 目を開いてみると、彼女の表情はそれなりに真剣だった。天井に目を向けシンジは語り出す。

「大学の合格発表だった。僕は広い部屋に通された。結果が張り出されるのを待っていたんだ。しばらくして学長らしき年寄りが現れた。なぜだか知らないけれど、彼は昔あった演歌とかいうのを歌い出した。酷い濁声でね。俺と親父の海がどうとか、北国の酒場で待ち続けますだとか、どうでもいい詞だった。受験生はみんな不平を言ったけれど、彼はやめようとはしなかった。周りの教授とかがはやし立てていたからだと思う。結局僕はへたくそな歌を、延々と聴かされる羽目になった。そういう夢だよ」

 呆れ顔で、アスカは肩を竦めた。

「確かに、悪夢ね」

 嘘だった。彼女も気付いていることだろう。その夢は模試の前日の夜に見たものだった。本当は、中学三年の時に起きた出来事のリテイク版だ。展開はかなり変更されていた。

 カッターナイフで切られたアスカの手首。鮮血が流れ続ける。救急隊員はやっては来たが、オロオロしているだけだった。彼女の肌が徐々に柴色を帯びてゆく。やがて目が閉じられた。安らかな寝顔だった。

 次に憶えている場面は彼女の葬列だ。友人達、葛城ミサト、そしてそんな姿を見たこともない加持リョウジまでもが、涙を流していた。

 彼らと共に棺を担ぎ歩き続けた。葬列は小高い丘へと向かう。道の脇にはヒヤシンスの花が咲き誇っていた。

 レクイエムが流れる中、一人だけ笑みを浮かべる人物がいた。怒りに駆られてその女性に殴りかかる。彼女は避けた。そして名乗る。

 この子の実の母親です。本当に、本当にアスカに良くしてくれたそうで。

 いつの間にか、彼女の横に幼女が立っていた。手を握られ微笑んでいた。

 サヨウナラ。

 幼い少女はそう言って手を振る。振るたびに手首から赤い液体が飛び散り、ヒヤシンスの花びらを鮮やかに染めた。

「…ちくしょう」

 丘全体が真っ赤に染まった時、悪夢は終わりを告げたのだ。

『 飼い猫が姿を消したよ 死を目前にしたからさ 飼い主を思いやるなら

  お前だって消えろ 彼らは人知れずに 静かに死んでゆくのを選ぶんだ

  もう止めやしない 俺にはそんな価値もないだろ? 二度と姿を見せるな

  お前が消えても世界は回る ずっと回り続けるんだ 二度と姿を見せるな 』

 あのボーカリストの歌の一節。飼い猫は死を目前にして姿を消す。自分も誰かに聞いたことがある。

 アスカの母親はそれが出来なかった。彼女の幼い娘はその死を、確かに目の当たりにしたのだ。その必要があったとはとても思えない。

 君には悪いけど。再び雑誌に目を向けているアスカを見ながら、シンジは決心していた。

 またあの女が夢に現れたら、今度こそ殴り倒してやる。

 再び目を閉じる。脳裏に自分の亡き母親の姿が浮かんでいた。だが笑いかけることは、出来なかった。

 

 丘に向かう道を二人は歩いている。ハンブルクから三十分ほどバスに乗った小さな町が、アスカの故郷であった。町のはずれにはエルベ河が流れる。途中で振り返ると、その水面は淀みながら輝いていた。

 ヒヤシンスの花が咲き誇る丘。なだらかなアスファルトの道には、あちこちにヒビが入っている。空には雲が多い。しかし弱々しく注いでくる日の光は、額に汗を浮かべさせるのに充分なものだ。

 丘の頂上の手前辺りに数軒の住宅があった。風が通り抜け、開け放たれた郵便入れの蓋を揺らす。どの家にも人の気配は感じられない。

「この奥よ」

 家々の前には舗装が施されていない。足下を覆い隠すほどの丈の、草が茂っている。マツ林に入る。頭上からは小鳥達の囀りが聞こえてくる。しばらく歩くと、葉の隙間から白い建物が見えてきた。

 木々の間を抜け足を止める。二人は目の前の屋敷を見上げた。

「あたしが生まれた家」

「大きい家だな」

「あの男が受け継いだ財産だけどね」

 誰も住んでいないのだろう。一目で敷地内の荒廃ぶりが窺える。屋敷の窓という窓には板が打ち付けられていた。すぐ脇にある小屋は既に半壊している。

 置き去りにされたブランコの横を通り過ぎる。支柱が錆び付いている。彼女の瞳が、一瞬だけそちらに向けられた。

 当然だったが玄関のドアは開かなかった。鍵など持っていない。片足を上げて蹴り始める。シンジもそれを手伝う。軋む音がして、十回目でドアは開いた。埃とカビの臭気がすぐに鼻を刺激する。躊躇することもなく屋内へと進む。

 屋敷の中にはほとんど何もない。広い居間には蜘蛛の巣が張ったシャンデリアと、変色したソファーだけが残されていた。食堂のテーブルの上に皿が一枚置かれている。その上で灰色の蜘蛛が身じろぎもせず、横たわっていた。

「君が居た部屋は?」

「二階よ」

 階段は頑丈な造りではあったが、所々に傷みが目立つ。白蟻に食われたのだろう。足下に注意しながら上る。二階の壁が見えると思わず歩みが止まる。この先には、あの忌まわしい部屋もある。

 シンジが腕を取り、戻ることを目で促した。それに笑みを浮かべて答える。

「行くの。確認する事、見つかるかも知れないから」

 軋む床を踏み二人は廊下を進む。腕は軽く握られたままだった。東側の、一番奥のドアを開けた。子供部屋にしてはずいぶんと広い。何も残されていないから、そう感じるだけなのだろうか。

「この屋敷は売却されるはずだったの。だけど、買い手はつかなかったみたい。無理もないよ。あんな事があった家じゃね」

 塞がれた窓に歩み寄る。その近くの壁に顔を寄せて、じっと見つめる。掠れた絵が残っていた。

「鳥と……、これは人かな?」

「サル。下手くそだったのよ」

 小鳥は木の上で羽を広げ空を見ている。サルはそれを捕まえようとしてか、木の幹を登っている。なぜか悲しそうな目をしていた。

 指先で線をなぞる。クレヨンの茶色い顔料が付着する。

「小鳥は、あたしがここで飼っていたのを描いたの。病気か何かで死なせちゃったけどね。…フフッ、笑っちゃうけど、そのサルのモデルは」

 背後で物音がした。振り向く。吹き込んだ風で、開け放たれていたドアが壁に当たったようだ。弱い光の中で埃が舞っている。

 次の瞬間、彼女は確かにそれを見た。

「…今」

「うん?」

「子供が、出ていったよね?」

「…いや、僕には見えなかったよ」

 廊下に出る。幼い女の子は角を曲がってゆく。長い髪が二つの飾り物でまとめられていた。ニコニコと、笑顔を浮かべていた。

「そっちは、行かないほうが、いいよ」

「……」

「そんな目で見ないでよ。あたしは、まだ大丈夫だよ」

 なるほど、どうしてもあの部屋に行きたいのね。そう納得して子供の後を追う。進むにつれ暗がりが濃くなる。しかし女の子の姿ははっきりと見えていた。廊下の突き当たり、一番奥のドアの前で立ち尽くしている。顎に指をやり、困ったなあ、という表情をしていた。開かないらしい。

 歩み寄り、ドアを押してみる。やはり鍵がかけられていた。腰辺りまでの背丈をした女の子は、こちらをじっと見上げている。笑みを浮かべてその子に向かって頷いた。

 ドアを蹴る。開かない。一歩下がり、肩で体当たりをする。軋んだ音を立てるだけだった。

「ダメ!」

 手伝おうとするシンジを厳しい声で止めた。

「あたしがやるの!これは、これだけは独りでやらなくちゃいけない!」

 彼は後ろに下がった。体当たりを繰り返す。鈍い痛みが肩と、脳に疼き始める。構わず続ける。腰を捻り背中の、肩の下辺りを叩きつけた。

 何かが弾かれるような音がした。ドアが開く。埃が舞う中で女の子は、感謝の笑みを顔一杯に浮かべていた。

「さあ、入ろう。大丈夫だよ。あたしが、ついていてあげるからね」

 視線を部屋の中に向け、彼女は進んだ。

 

「不思議だよね」

 椅子に腰掛け、アスカは視線を床に落す。

「この部屋に入るの、もっと抵抗あるかと思っていた。入ったら自分がどうなっちゃうかも心配だった。それが実際そうしてみると、少し頭痛がするだけ。どうって事ないんだもの」

 部屋の中には埃をかぶった椅子とキャビネットしかない。この部屋の窓も打ち付けられてはいたが隙間が大きく、日の光が差し込んできている。俯いたままの彼女の姿が、その伸びる光に照らし出されていた。

「それでいて、あの時の光景は、しっかり目に浮かぶの」

 女の子の姿はもう見えない。母親が居ないと分かると部屋を出ていった。寂しそうではあったが、手を振ると笑顔を浮かべてそれに応えていた。

 今ここにいるのは、アスカとシンジの二人だけだ。

「ママはここで揺れていた。ユラユラ、揺れていた」

 壁に身を任せシンジは室内を見渡した。どこにもかつての惨劇の跡は見いだせない。何もない、薄汚れた部屋でしかない。

「その横にもう一つ、揺れているものがあったの。ママが可愛がっていた、人形。そこにはね、多分あたしが揺れているはずだったのよ」

「君が?」

「そう。あの日ここに来た理由もそれだった。誰にも、シンジにも話してなかったけどね。人形はあたしの代わり。ううん、ママは自分の娘だと、本気で思い込んでいたみたい」

 やわらかい鳴き声がした。打ち付けられた板の隙間から、小鳥が顔を覗かせていた。こちらに目を向けながら小首を傾げている。

「首を絞めながら、ママはこう言ったの。アスカ、一緒に死んで頂戴」

 純白の羽を持つ小鳥に視線を向けて彼女は続けた。

「どう答えたと思う?ママと一緒なら、いいよ。あたしはそう答えたの。怖くはなかったし、抵抗感もなかった。当然だよね、死ぬって事がどんなことか分かるわけなかったもの。今だったら、拒否しちゃうだろうけど」

「今の君なら拒否するよ」

「そう思う?」

「それで構わないはずだとも思う。幼い子供が母親にそう言われたら、多分受け入れてしまうよ。正しいかどうかなんて関係なくね」

 顔を上げる。天井を通る支柱。薄暗くて、表面まではよく見えない。

「だから、幼かった君が母親にそう答えたのは、間違ってない。今の君がそれを拒否したとしても、間違ってない。間違っていたのは」

「ママだって言うの?精神を、病んでいたとしても?」

「…僕はそう思うよ。少なくとも、君が間違っていたわけじゃない」

 椅子の縁に手を置いて足を揺らしながらアスカは微笑む。揺れる度に床に雫が落ち、吸い込まれていった。

「やっぱり間違ってるんだよね、それって。でもさあ、そのママがいなかったら、あたしもいない。そう思っちゃうと怖くて仕方なかった。ママが最後に選んだのは、あの人形だったのかなって。あたしは捨てられたんだってね」

「僕も君と同じ事をずっと怖がっていた。もちろん、違った意味でだけど」

「分かってるよ。シンジとあたしは、違う。でも、どこか似ている気がした。それがとっても嫌でさ。まるでここにいたかも知れない、もう一人の自分を見ているみたいで。だから、大嫌いだって。…バッカみたい」

 立ち上がると彼女は歩み寄ってきた。瞳が少し潤んでいたが拭おうとはしない。そのまま壁に手をつき、シンジの目を覗き込む。

「今は違うの。そんなの関係なく、あんたのこと嫌な時は嫌だって、思えるから」

「僕のこと、やっぱり嫌なのかい?」

「当然!」

 腕を取ると彼女は思いっきり引っ張った。転びそうになるのをシンジは何とか堪えた。

「行こ。もうここには、用はないから」

 腕を引いたままアスカは歩きだそうとした。だがシンジは動こうとしない。振り向くと、彼は色あせたキャビネットに視線を向けていた。

「何やってんのよ」

「分からない。でも、何かあるんだ」

 手が離されると、彼は壁に押しつけられたままのタンスに歩み寄る。身を屈めて壁との隙間を覗き込んだ。しばらくそうしてから床に這いつくばる。

「服、汚れるよ」

「ここに、何かがあるんだ」

 背後から覗き込んでみる。確かにキャビネットと壁の隙間から、紙片のような物がはみ出していた。シンジの指が何度もその上をなぞる。その動きが執拗だったので、アスカは黙って見ていた。

 黒いシャツの袖が真っ白になる。しばらくして、彼は指でそれを摘みだす。軽く振り、埃を落としてから彼女に手渡した。

 それは便箋だった。少しだけ黄色ばんでいた。丁寧に折り畳まれていたが、すぐに中身を確かめる気にはなれなかった。最近この類の物には不機嫌にさせられるばかりだ。それにこの部屋にあったというのも、躊躇させるのには充分な理由であった。

 小鳥はそんな二人の方を見ながら、相変わらず小首を傾げていた。

 

『先日、君が送ってくれた写真が届いた。

 アスカと言う名前は日本語で表すと、飛ぶ鳥のことを指すのだろうか?

 それとも、「袖吹きかへす明日香風 都を遠みいたづらに吹く」という古き歌の、風の名を示すのだろうか?どちらにしても美しい響きだと思う。

 ありがとう。もう会えないだろうけれど、写真は大切にするよ』

 便箋にはそう書かれていただけだった。送り手を示すような部分は何もなかった。

 丘の頂上には、大きな樫の木が立っている。落ち葉の積もった木の下に手紙を埋めた。これはママに宛てられた物だから。それが理由であった。

 ここには、あたしが飼っていた小鳥も埋まっているんだよ。

 彼女は去り際にそう教えてくれた。

 丘を下る時、雲は晴れ太陽が西に傾いていた。

 

(6)

 

 中央アジア某国で発生していた民族対立は武力衝突に発展した。

 国連安保理事会は国連軍の派遣を検討。周辺の協力国に、F−25ステルス戦闘機を主力とする空軍部隊を展開。紛争当事者双方に警告した。だがその国の政府は無視し、反政府勢力の拠点となっていた南部の都市を爆撃した。

 反政府勢力のスポークスマンからの発表によると、爆撃に巻き込まれた民間人の死傷者は二百人余りにのぼり、医療施設が破壊されたため犠牲者が増え続けている模様である。

 オーストラリアのキャンベラで開催されていた国際環境復興会議は、新たな条約を何一つ取り決められず閉会した。参加各国の一部の間に、成層圏外での放射性物質使用規制案に対する反発が強かったためである。

一昨年、軌道をそれ成層圏内で部分爆発した人工衛星の一部から、プルトニウムが流失した。その量についてフランスの研究機関は悲観的な見解を発表している。

 ワイマールの街でここ一年間発生していた、連続殺人事件の容疑者が逮捕された。その三十二歳の男は幼女ばかりを狙い犯行を重ねていた。現時点で明らかなだけでも三名の殺害、六名の行方不明に関与していると警察当局は見ている。

 子供達の死に、特別な意味を持たせるのが私の務めだ。男は逮捕直後にマスコミに向けて叫んだ。

「暗いニュースばっかりね」

 ベルリンの共和国広場においてネオナチ団体の集会が開かれた。クリスマス・イブには恒例のものだった。カトリック教会に死を!外国人を追放せよ!お決まりのアジ演説と翻る鍵十字の旗に、スキンヘッドの若者達は歓声を上げていた。

 ネオナチは、今世紀に入って衰えるどころか、逆にその勢力を伸ばしている。

『IMF、国際通貨基金は、中南米諸国の経済復興事業の停滞に……』

「つまんない」

 

 リモコンを手にし、アスカはテレビのチャンネルを変えた。ケーブル放送も入っているホテルのテレビはやたらとチャンネル数が多い。彼女は興味を引かれる番組を探すためにボタンを連打する。

 シンジは留守だ。満足に言葉も喋れないよ、などと言って躊躇する彼をお使いに叩き出したのは、もちろんアスカである。

 動くのが大儀で仕方がない。これが起こる日に絶対に必要な物。彼女は日本から、それを持ってくるのを忘れていた。臍の下辺りが痛む。吐き気も少しする。その苦痛を和らげるためベッドの上に寝ころんでいる。解かれた栗色の髪がシーツの上に広がっていた。

 頼んだ生理用品を、アイツはどんな顔をしてレジに持っていくのだろうか。彼女は生理への不快感を紛らわすために、加虐的な笑みを浮かべて想像した。

 シンジを虐めるのは、快感だ。

 その事をアスカはずいぶん前から自分で認めていた。最近は、さすがに直接的な暴力を振るうことは控えている。だが言葉によるものなどは時折意識して行っていた。それはどうしようもない欲求なのである。

 ひょっとしたら、いや恐らくは確実に、自分はサディズムの傾向が強いのだろう。

「ハンッ!だったら何よ。アイツは徹頭徹尾のマゾヒスト。お互い様よ」

 そうは言ってもここ数年で、シンジが自分に接する態度は変わっている。以前のように怯えや、鼻につく気遣いがあからさまではない。どことなくこちらの、その時々の真意を把握しつつあるようにも見える。

 アスカとしてはそれが少々気に入らない。だが一方で、彼と一緒でも苛つくことが少なくなったことも事実だった。出会ってから既に五年。何だかんだと言いながら、彼との付き合いは長い。

 もう、そっちの関係にもなっちゃってるし。

 リモコンを放り出し、彼女は枕に顔を埋める。その頬は赤らんでいた。

 去年の六月。それを初めて経験した。とても不思議な、そして不可解な過程を経てであった。何しろその週末、アスカは最悪の気分だったのである。事もあろうに直前にあったシンジの誕生日を忘れていたのだ。

 時々、自分にとって重要な事をど忘れすることがある。後から気付いて後悔はするが、その原因は自分が持つ天才的思考回路の副作用だと、納得することにしている。そしてその後悔をきちんと外に出すことは得意ではない。

 その時もやはりそうだった。当然、シンジは不満を露わにする事などなかった。だが内心ではかなり気にしていることなど容易に窺える。それが彼女を苛つかせた。はっきり口にされる方が、まだ増しであった。

 悪いことは連続するものなのである。さらに、彼女の神経を逆撫ですることが起きた。

 土曜日の雨の夜、夕食を取りにシンジのアパートを訪れた時だ。いつものようにチャイムも押さず部屋に入った。彼は狼狽しきった顔で何かを背後に隠した。無理矢理奪い取る。

 CDだった。人気ボーカリストの最新アルバム。その女性ボーカリストは知っていた。十代の少女を特に刺激する、甘く、華美な恋愛ネタの詞で売れていた。

 まさか本人が買った物ではないだろうし、テーブルの上に丁寧に広げられていた包み紙は、どう見てもプレゼントの類になされる物だ。なお悪いことに、アスカはその女性ボーカリストの歌が、大嫌いなのだ。

(こ、これは、違うよ)

 違うも何もない。本人の気持ちがどうであれ、相手はそういう意図で送ったに決まっている。結局、その事で二人は言い争いになった。要するに痴話ゲンカだ。

 あの時のあたしって……、完璧にガキだったよね。

 そんなくだらない原因での喧嘩は本当に久しぶりだった。それ以前によくあったものは、喧嘩と呼ぶには陰湿すぎた。自分の不安定な精神状態が主な要因でもあった。そして当然、それは気分を落ち込ませるだけのものに過ぎなかった。

 アスカは遠慮なく怒りを露わにした。精神の高揚に充足感さえ憶えた。これもまあ、コイツとのコミュニケーションの一つだろう。そんな風に、シンジと出会った頃の事を思い起こしていた。

 加虐的欲求に突き動かされ、彼女は罵声と皮肉の限りを尽くす。例のセリフも何度も口から飛び出した。シンジの焦りと戸惑う様子も久しぶりのもので、それに心が浮き立つ感じすらあった。

 その程度で済ませておけば良かった。喜悦と怒りに我を忘れたのが、まずかったのだ。

 突然、彼の表情が激変したのである。それは十四歳の頃、稀に見出したものによく似ていたが、それよりも遙かに激しいものだった。

「あたしって、何を言ったんだろう?」

 全く憶えていない。少なくとも、普段口にする悪態程度のものではなかっただろう。その程度ならば彼はとっくに慣れていたはずである。その時は気付かなかったが、彼が表に出していたもの。

 それは絶望だった。

 やがて、シンジは笑顔を浮かべた。無理にそうしているのは、その虚ろな瞳を見れば明らかだった。そして彼は言った。

(…そうだね。もう君は、大丈夫だろうし)

 何の事だかアスカにはさっぱり分からなかった。

 彼はそのまま寝室へと向かった。じっとしていられず、その後を追って部屋に入ってみると、服などをまとめ始めていた。要するにここから出てくつもりらしいが、どこに行くと言うのだろう。このアパートの部屋が彼の住まいなのだ。他に行く所などないはずだ。

 そうか、あの男の所に行くつもりなんだ。

 その男とはシンジの高校での友人だ。ロックバンドを組んでいて、耳にピアスなどをして、やたらと軽い感じの青年だった。一度紹介された時など、あろうことか彼女に言い寄って来たのである。アスカはそれに、張り手で返礼した。

 それなら数日もすれば戻ってくるだろうと、彼女は何となくホッとした。部屋を出ようと背を向ける。しかしその歩みはすぐに止まった。微かだが、嗚咽が聞こえたのだ。

 振り返り、彼に歩み寄る。声をかけたが答えはない。俯いた顔を両手で挟んで、無理矢理向けさせる。まだ笑顔を浮かべていたが、涙を流していた。

 こんな顔、ずいぶん前に見たことがある。そう思い、そして彼の意図が分ったのだ。その時アスカは慌てるよりもはっきりと、恐ろしくなった。

 彼の唇が動きかけた。それを、止めなくてはならない。方法は一つだと、脈絡もなく思いついた。

 瞬間、彼女はそれまでに何度目かの口づけを行い、そのまま彼を押し倒していた。一分間それを続けた。どういうわけか正確に、秒数を頭の中で数えていたのである。そして唇を離し呟いた。

 ダメだよ。シンジはあたしのものなんだからね。あたしのもの、あたしのもの、シンジはあたしのもの……。

「ああ!嫌だ嫌だ!」

 臍の下の鈍痛も忘れて、アスカはベッドの上で身を転がした。気恥ずかしく、どうしようもない。その後の行為はあの時以来何度も行っているが、やはり性質が違うのである。

 シンジとそれを行ってしまった事が嫌なわけではない。それならとっくに止めている。いや、実際のところは、何だってこんなヤツと?そうも思った事も一度や二度ではない。ただ何よりも納得しかねるのは、あの時の状況でそうなってしまったことだ。

 シンジがどこかにいってしまう、また自分は独りになる。それ、嫌だったから。

 それが理由だったことは認識している。それは、自分が愚かにも手首を切ってしまった時と、同じ理由ではないか。

「依存……、ってやつよね」

 テレビの画面はまたニュース番組になっている。眼鏡をかけた、どう見ても不景気な顔をした日本の首相が映っている。首相は外国人リポーターの質問に、困惑しつつ答える。

『あー、バット、しかし我が国の学校教育は、最終的には文部省の判断が優先されるべきであり、よって、あー、ネガチブ、ネガティブなこの種の報道は……』

 一度もそれを口に出したことはないが、彼女は既に思い知っている。恐らく自分は、あの青年と完全に離れることなど、もう出来ないのだろうと。その理由が適切なものであれば、まあ仕方あるまいとも、今のアスカは納得していた。問題はその理由だ。

 同年代の少女達が特定の異性に対して憶える心理。学校のクラスメートの間でもその事が話題にならない日は無い。くっだらないと思いながらも、それを無視することは出来ない。そして自分にとってはその対象が、シンジであることは明白だ。

 しかし、これまでの経緯があまりにも普通ではない。シンジとの間にはとても一言では表せない葛藤がありすぎた。そしてその多くが、自分の過去に繋がっていることは否定しようがない。

「嫌だなあ……」

 孤独などというものは誰だって嫌に決まっている。しかし自分は、それが甚だしすぎる。その事実を受け入れ、原因を認知することで、アスカは少しずつ四年前に陥った最悪の状態から抜け出してきた。その助けとなった存在。それは間違いなくシンジだったし、正直感謝もしている。

 だけど、ずっとそのままで良いのだろうか?彼と一緒に居るための、もっと別の理由。それが必要ではないのだろうか?最近、彼女が密かに悩み始めた問題だ。

 それを早く、なるべく早く見つけださないと、自分と彼はいつか離ればなれになりかねない。でも、やっぱり独りは嫌。だから身体を重ねている?そんなの、絶対にイヤ。

 依存。嫌な言葉だ。 

「シンジって、あたしと一緒に居て疲れないのかなあ?嫌になることないのかな?傷ついて、ないのかな?」

 憂鬱な表情が一瞬で消えた。ダメだこりゃ。そう呟き、アスカは自分一人の部屋でニヤニヤと笑みを浮かべた。一時とてシンジの事を考えずにいられない自分が不思議だった。日本に来日する以前にはあり得なかったことだ。

 十四歳の頃はそれがとてつもなく苦痛で嫌悪すら憶えた。今は代わりに笑みが浮かぶ。これもカウンセリングの成果の一つだとしたら、妙な成果だ。

 これは例の理由の一つと、なり得ないのだろうか?

 時報が鳴った。午後5時。シンジがお使いに出てから、既に一時間が過ぎ去っていた。

「遅いなあ。アイツ、何やってんのよ」

 外からはパレードの歓声が聞こえてくる。ベルリンのクリスマス行事の一つが、クーダムの大通りで行われている。下腹部の痛みと吐き気が治まったら、シンジを連れて催し物を見に行こうと思っている。

 野外劇を見に行こう。天使と王様の、悲しい恋物語を見に行こう。そして映画も見に行こう。海に覆われた星で亡き妻に出会う、悲しい男の物語を見に行こう。

「退屈」 

 まったくもう。あたしをこんな風にしたくせに、何やってんのよ。でも焦ることもないか。どうせ向こうから離れていくなんてこと、多分あり得ないのだから。アイツには無理よ。たとえ出来たとしても。

 そんなこと、絶対許さないもんね。

 ニヤニヤと笑みを浮かべたまま、アスカは再びリモコンを手にした。指先がその上を何度も巡り、カット割りのように様々な人物の顔が画面に映るのだった。

 

 ホテルの階段を上る彼は不機嫌だった。

 十分ほど前に叫んだ怒声の余韻がまだ残っている。あんな事を言うとは、自分自身でも信じられなかったが、それだけ怒りが湧いたのも当然だった。

 彼女に、二度と近付くな!

 陳腐なセリフだ。しかしその時の自分の感情を表すには充分なものではあっただろう。それをぶつけられた相手は、明らかにそれまでの余裕を失った。侮蔑と妬みのこもった目で睨み付けてきた。

 その反応にある種の勝利感を覚えた。しかし相手の次の行動は、それを塗りつぶすほどの不吉な予感を、シンジに与えるものだった。

(…フフッ、そうだな。そこまであの子のことを想っているなら、君がもっとも適役だろう。鳥の飼い主は、今や君だからな)

手渡された物は上着の内ポケットの中にある。男もそこから取り出した。同じ場所に納めるのは生理的な嫌悪感を憶える。しかしこれを彼女に渡すべきかどうか、まだ決心はしていない。と言って、この封筒の中身が何なのかなど、シンジには見当もつかない。

(あの子への、クリスマス・プレゼントだよ。恐らく最後のね)

 ドワイゼン・ホテルは古風な建物で、エレベーターもなかった。三階建てのホテルには客室が十室しかないが、一室の広さはかなりのものだ。内装は質素ではあったが落ち着いた雰囲気である。最上階に宿泊している部屋がある。

 部屋では苛立ちながら、アスカが待っていることだろう。頼まれた生理用品は近くのドラッグ・ストアで何とか手に入れていた。やはり女性店員には妙な顔をされた。しかし、そんなことは問題ではなかった。

 アスカの父親から受けた不快感に比べれば、それは遙かに増しであった。

 あの男に会った事は話さないわけにはいかないだろう。決して笑顔で報告できる内容でもない。それを思うと、このホテルにエレベーターが無かったことが幸いだった。所詮、一時しのぎの時間の浪費ではあったが。

「遅かったわねえ。どこほっつき歩いてたのよ」

 部屋に入るなり、アスカはそう非難してきた。いつものことだ。ただ今回は彼女の言う通りだった。

 彼はそれには答えず紙袋を手渡した。大儀そうに起きあがり中身を確かめると、彼女はさっそく不審そうな目を向けてくる。やはり誤魔化しきれるものではないと覚悟した。

「あのさ」

「何?話なら後よ、後。もう、ずっとやばかったんだから」

 そう言って紙袋を手にし、彼女はトイレに入っていった。シンジは椅子に腰掛ける。買ってきたミネラル・ウオーターを口にしながらテレビに目を向けた。ニュースのダイジェストが放映されている。

 どこかの国で戦争が始まった。幼女が何人も殺された。成層圏にばらまかれたプルトニウムの量が報告されている。南米諸国の経済状態が崩壊寸前だ。宇宙開発の協調体制が崩れつつある。抗生物質に対する強力な耐性を備えた、新種のエイズ・ウイルスが発見された。新興宗教団体の教祖が判決を鼻で笑った。旧サンフランシスコ沖に墜落した飛行物体は、新型偵察機のテスト機だと発表された。日本の十代の少年少女が、何人も自殺した。

 暗い話題ばかりだ。

「暗い話題ばっかりよ」

 トイレから出てくると、アスカはそう言ってベッドの端に腰掛ける。幾分落ち着いた表情になっていた。テーブルの上に置かれたペット・ボトルに視線を向けているので、手渡した。躊躇することもなく彼女はそれを口元に運んだ。

「結局は何にも変わってない、ってことよね」

「…何が?」

「世界が、よ。と言うより人間かも。ネルフがやっていた事って、何の意味も無かったのかな?」

「どうだろう。僕には分からないよ」

「あたし達が戦っていた事も無駄だったのかもね。使徒なんて現れなくても、サード・インパクトなんて起きようが起きまいが、人間も世界も自分で崩れていく存在なのかな」

 こういう事を彼女は滅多に話題にしないが、表情は暗くなかった。だから何?そう言いたげな口振りでもあった。実際、十四歳の頃の苦難は、常日頃脳裏に浮かぶものではなくなってきている。もちろん一部を除いてだが、それにすら深い意味を見いだそうとする気持ちは今やほとんど無い。

 しかし先ほどの出来事を思い起こすと、シンジには彼女の何気ない言葉が、酷く重く感じられてならなかった。

「どうかしたの?」

 アスカはそれにすぐ気がついたようだ。ペット・ボトルをテーブルに置き、顔を覗き込んでくる。

「さっきから、何を不機嫌な顔してるのよ」

「君の父親に会ったよ」

 間が開いたが、表情には別に変化はなかった。再びベッドに腰掛け彼女は尋ねた。

「ふーん。どこで?」

「ドラッグ・ストアの前で。喫茶店で話をした。偶然だったと思うよ」

「どうだか。あんたの顔知ってるなんて変じゃない。それで、何か言われた?」

「色々聞かれたよ。君の事とか、僕の事とか。どういう関係なのか、とか」

 苦笑しながら彼女は腕を組んだ。唇の端をねじ曲げて、どんなことかは予想がつくわよ、と言った。半分くらいは当たっているだろうとシンジは思った。

「その様子だと、キレたみたいね。珍しく」

「怒鳴りつけてしまったよ」

「へえ、結構やるじゃない。侮辱でもされたの?」

「多分、そういう積もりだったと思う。僕の事はともかく、君の事もそんな感じで言っていたから、頭に来た。…許せなかったんだ」

 テレビが消された。リモコンをシーツの上に放り投げると、アスカは立ち上がりシンジの背後に回った。肩に腕が回され、頭に柔らかい頬の感触を感じた。

 部屋には明かりは点いていたが、窓の外で弱まりつつある日の光が夜の訪れを感じさせる。日没にはまだ時間があるが、街明かりも容易に見出せ始めている。

「気にすること、ないよ」

 ほとんど耳にしたことのない、穏やかで慈しむような声だった。

「どうだっていいよ。もう親だなんて思えないし。ずっと前は確かに怖かったよ。ママが居なくなってからは、一応家族と呼べるのはあの男と、義理の母親だけだったもの。だけどもう、そう呼ぶ気にはなれない」

 声に震えはなかった。身体にも震えはなかった。指先が自分の口元をなぞる感触だけを、シンジは感じていた。

「ママのことも、あの家に帰ってみてスッキリしたと思う。あたしがここにいるのはママのお陰。それだけでいいの。それだけで、ママはママだから。一応、あの男の協力もあってのことだけど、その本人があの有様だからね。お終いにしてくるよ、明日ハッキリとね。鑑定の結果なんて、どうでもいいや」

 鑑定だって?

 初耳だ。興味が湧いた。彼女に係わりがある事なら、それは当然であった。

 本当に、それだけだった。

「そっか、話してなかったよね。ちょっと頭来てたから。あの男、あたしが自分の娘じゃないかも知れない、なんて言い出してさ」

「どういうこと?」

「そのまんまの意味でしょ?あいつはママのことを、信用さえ出来なかったのよ。自分でも分かってるのよ、きっと。実際、嫌な奴だもの」

「アスカ、済まないけどよく分からない」

 彼女は身を離した。シンジの前に来ると、呆れた顔で肩を竦めた。

「つまんない話よ。要するに、ママが浮気でもしてたと思ってたんじゃない?それで親子鑑定を承諾しろって、この前会った時に言われたの」

「君は、それを承諾したのか?」

「したよ。ふざけるな、とは思ったけどね。縁を切る、なんてこっちのセリフよ。向こうから言う権利なんてないわ。もしもだけど、もしあの男が考えていた通りでも、それはそれでいい。要はあたしの気持ちの問題だから。結局、こっちから先に言えばいいのよね」

 シンジは、はっきりとそれを感じた。もしもこの世に明確な悪意が存在するとしたら、自分は先程それに出会ったかも知れないのだと。

(鳥の飼い主は、今や君だからな)

 身が震えた。あれほど落ち着きのある場所だと感じていたこの部屋が、急速に居心地悪くなってきた。窓の外の街明かりも輝きが失せていくように思えた。

 いや、落ち着かなくちゃいけない。だって、今自分の懐にある物が、それに関係あるかどうかは分からない。そうだとしても、あの男が願っていた結果とは違うかも知れない。そうじゃないと、アスカの意志は、その決意は、全て無意味になってしまう。

 そんなこと、あってはならない。

「…どうしたの?」

 彼女の声に何とか笑顔を浮かべようとする。失敗した。顔の筋肉が、萎縮していた。

「……。シンジ、ひょっとしてあいつから、何か聞いたの?」

「何も、聞いてない」

「何か、渡された?」

「…いや」

 無駄で、愚かな答えだとは分かっていた。既に彼女は気付いている。そしてあの男の去り際の態度。言葉。恐らく、結果は明らかだ。

(あの子への、クリスマス・プレゼントだよ。恐らく最後のね)

「見せて」

 アスカはそう言って右手を突きつけた。思わず身が震えるほど、険しい瞳をしていた。こんな目で、見られたことがあった。まるでデジャブのようにそれを感じた。

「見せて」

 手が自然に上着の裏を探り始めていた。どこかに落としていればいいと願ったが、そんなはずもなかった。

 

 アスカと父親の親子鑑定は、ベルリン近郊の国立医科大学で行われた。義理の母親が籍を置く大学だった。

 ABO式血液型による鑑定の結果には、問題はなかった。

 アスカの血液型はA型。実の母親のそれはO型である。この場合、父親の血液型はAA、AO、ABの三種類の型に限られる。結果はその通りであった。父親はAB型だった。

 しかし、これだけでははっきりしない。子の血液型によっては、複数の組み合わせが存在するためだ。この場合がまさにそれだった。

 DNA鑑定はヒト染色体、いわゆるゲノムの二倍体を元に、DNA多型を識別することで行われる。1ローカスに2個の対立遺伝子が存在し、それぞれが父親由来のものと母親由来のものである。その遺伝形質を検査することで、親子間の遺伝の是非が判定される。

 遺伝形質は多種類存在し、その多くを検査する必要がある。偶然の一致もあり得るからだ。今回の鑑定は、サザン・ブロット法、PCR法、PCR−RFLP法、PCR−SSCP法、ASPA法の五種類の判定法で行われた。

 検査方法の説明と難解な数式の羅列の後に、単純な見解が示されていた。

 どの検査方法によるものでも、アスカと父親の間の遺伝形質に明確な一致点は見出せなかった。逆に極端な差異ばかりが目立った。

 結果は明らかだった。

 親子関係は完全に、否定されたのである。

 

[ 続く ]

 


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