『 A bird is flying 』

 

 

 

[第三章]

 

 

 

(7)

 

(何、泣いてるの?)

 うるさい。あんたには関係ないわ。

(辛いのね)

 よけいなお世話よ。今頃現れて何の積もり?あたしのこと笑いにでも来たわけ?

(悲しいと言うよりも、悔しいのね)

 だったら何だって言うの?確かに、その通りよ。あたしはまた負けた、完璧に。捨てられたのよ、家族ってのから。こっちからやってやる、なんて勢い込んでいたのにさ。その上、散々拘っていた相手は実の父親でさえなかった。

 満足した?バカみたいでしょ?笑えるでしょ?

(笑えないわ)

 笑いなさいよ。惨めになるのよ、そんな顔で見られると。笑いなさいよ。

(ご免なさい。笑えないの)

 あんたって、どうしていつもそうなの?

 

 目を覚ますと部屋は暗がりに包まれていた。

 時折外の通りから入り込むヘッドライトの光が、室内をぼんやりと照らし出す。海岸を描いた絵がある。百合の花がいけられた花瓶。大昔のレジプロ戦闘機の写真。ティーカップ。置き時計。

 午後10時12分。それを見て、どこかに出掛ける積もりだったことを思い出したが、どこなのかは忘れていた。

 アスカは身を起こし、暗がりに目が慣れるのを待った。気配を感じていた。よく知っている気配だ。確かめるまでもないのだが、姿を目にしないことには不安だった。

 再び室内が照らされる。シンジの姿が浮かび上がった。椅子に腰掛け俯いている。動く様子がないので身を寄せてみると、寝息をたてていた。顔を覗き込んでみる。よく見えないが、あまり安らかな寝顔ではないようだ。

 また嫌な夢でも見てるのかな。そう思ったが、声はかけずにベッドに横たわる。眠気は醒めていて目を閉じる気にはなれない。

 彼女は自分がいつ眠りに落ちたのかさえ覚えていなかった。泣き疲れたのが眠気に支配された理由だ。瞼がひりひりしているからそれに間違いない。涙が溢れたのは、あの男との間に血の繋がりが無かったせいではない。むしろ歓迎すべきだ。

 母国に戻ってきた目的は果たされた。はっきりとしたのだ。自らの意志と行動によるものではないという一点を除いて。

 しかしその一点こそが、アスカを打ちのめしていた。

 顔を傾けシンジの方を見る。俯いたままだ。やっぱり彼と自分は違うんだ。今さらながら彼女はそう感じていた。

 シンジが父親との間の葛藤でずっと悩んでいた事は、十四歳の頃から知っていた。同情する気持ちはあったが苛立たしくもあった。そんなに嫌いなら、自分から縁でも切ればいいじゃない。そう思うことが多かった。

 自分ならいつでも出来る。アスカはそう確信していた。それが偽りでしかなかった事は、自分を壊した時に思い知った。自分はあんな家族にさえ依存し、怖れを抱いていたのかも知れない。もう母親は、存在しなかったというのに。

 その事をカウンセリングを受ける担当医から指摘された時、アスカは激怒すらした。何とか否定しようとした。だがその若い医師は冷静さを失わず、それでいて穏やかな笑みを浮かべた。

(家族と和解できない。確かに悲しいことかも知れない。でも、無理にそうすることもないよ。君は実のお母さんには、もう会えない。だから拘りすぎるのは良くないと思う。だけど父親は生きているのだから、君の思うところをすればいい。それがどんなものであれ誰にも非難は出来ないはずだよ。自分のこれからの事を、まず考えるべきじゃないかな)

 孤独が怖かったのは事実だ。だが少なくとも、他人は自分を受け入れようとしないと思うのは、錯覚だったかも知れない。むしろ自分の方からそうしていたのだ。その理由も彼女は理解できていた。捨て去られる事への恐怖。それが全ての根本だったのだと。

 それを理解できる助けとなったのはシンジだった。彼もまたそれに悩まされ、彼こそがもっとも身近な怖れの対象だった。

 その怖れを乗り越えてゆこうと決意したシンジの存在。不器用ながらも手を携えることを厭わなくなり始めた時、アスカにとってそれは大きなものとなっていた。四年の歳月は楽なものではなかったが、確実に彼を変え、彼女を変えた。

 だからこそ、シンジが徐々に父親との葛藤を乗り越えつつあると感じ、アスカはこのところ内心で気負い立っていた。

 シンジに出来て、自分になぜ出来ない?同じようには無理だろうけど、ケリの付け方は他にいくらでもある。それをやるんだ。いつまでもアイツに、迷惑かけられない。普通でいたい。出会った頃から嫌なところはいっぱいある。だけど離れるのも嫌だ。

 今や偽りとしか思えない家族というものに別れを告げる。その後だ。その後生じる自分の気持ちを、正直にシンジに伝えてみよう。何か生まれるはず、どんなものであれ。彼女が帰国を決意した理由だ。

 しかしその決意は、無駄に終わったらしい。

「…結局ダメだったなあ、あたし。情けないよね。これって向こうのシナリオ通りにやられたって事だよね、アハハ」

 ちくしょう……。

 唇を噛んだ。また目の奥が熱くなってきたが、素直に涙を浮かべる気にはなれない。それを許せるようになってから、自分は少し泣き虫過ぎるくらいだ。

 彼女は無理にそれを抑えつけようとした。瞼をきつく閉じる。逆効果だった。枕が濡れた。

 視線を感じ慌てて目を拭う。シンジが顔を上げていた。

「起きてたの」

「違う。今目が覚めた」

 向き合うことは出来なかった。窓の外に視線を送りアスカは言った。

「さっきね、ファーストに会った」

「えっ!?」

「久しぶりだけど、相変わらずだった。当たり前か、夢の中でだったから」

 言葉が返ってこないのでアスカは続けた。

「相変わらずだったよ、ホント。あたしのこと何でも分かってるって感じでさ。それでいてこっちの希望には、応えてくれないんだから。困っちゃうよ、ホント」

「……」

「あたし……、何言ってるんだろ」

 窓の外にぼんやりと光が見えた。通りを挟んだ共同住宅の一室の明かりだ。カーテン越しに人影がちらちらと動いている。クリスマスのパーティーでもやっているのかな?彼女はそう思った。

「アスカ、日本に帰ろう」

 穏やかな声だった。暗いので視線はどこを向いているかは分からない。それを確かめる気にはなれない。

「帰って、どうなるって言うの」

「分からないけど……、もうここに居るべきじゃないと思うよ」

「そうだよね。実際、この国に居場所なんてないし。でも日本には、あるの?」

 答えを待ったが彼は黙ったままだ。失望感が湧いたが何を期待しているのか自分でも分からない。彼女は自分の腕を軽く抓った。

 今の自分は、甘えすぎだ。

 明かりの中の人影を目で追う。踊っているのか、二つの影がユラユラと揺れながら離れたり近付いたりしている。ああいうのって悪くないよね。そう思い、アスカは少しだけその気になる。

「悪いけど、独りにしてくれない?色々考えたいの」

「うん」

「朝までには何とかするから。シンジに言いたい事、見つかるかも知れない」

 それが何かは聞こうとせず、彼は寝室を出ていった。視線を巡らせる。百合の花が目に入る。純白だ。しかし白という色は、どうも好きになれない。

 何とかしよう。何を?どうするべきかって何を?思いつかない。まずそこから決めなくちゃ。

 彼女は再び考えた。

 何とかしよう。考えよう。何を?どうするべきかって何を?だから日本に帰ったら、多分いつもの生活に戻るわけだけど、同じようにやっていけばいい。今までのように。それでオッケーよ。彼とだって、それで……。

 今までのようにシンジと接していくのだろうか。いや、自分は変化を望んでいる。だがどのような変化なのかは、はっきりしない。

 スッキリするというのは失敗に終わったが、結果は同じだ。家族は消え自分は独りになった。この気分が治まれば、少しは楽になれるのだろうか。

 でも独りは嫌。無条件で側に居てくれそうなのは今のところシンジだけ。だから結局は同じ。依存かもしれない。だけど見ていて欲しいと願って何が悪い?

 あたしを、見て欲しいのよ。今のシンジはそうしてくれる。だから多分、何とかなる。それのどこが悪い?

「何とか、なるよ」

 そう呟くとアスカは再び目を閉じた。

 あの部屋の明かりも、やがて消えた。

 

 誰かに呼ばれた気がしたので目を覚ましてみる。室内は月明かりのみで暗い。しかし目は完全に慣れていて、時計の針さえも正確に読みとれた。日の出にはまだ時間がありすぎる。

 何でこんな時間に起こすのよ。当然、そう責めるべき相手は分かり切っていたので、遠慮なく不機嫌な顔をする。しかしそれは勘違いだった。

 ここはホテルの客室のはずだ。アスカはそう自分に言い聞かせなくてはならなかった。目の前に立っている人物がそうさせた。

 幼女がいた。あの屋敷で会った時とは違い、青い瞳を濡らして激しくしゃくり上げている。泣き声は聞こえない。

「何?どうしたの?」

 精一杯意識し柔らかい調子で尋ねる。正直なところ女の子の泣き顔には、同情や憐憫よりも拒否感を憶えた。その理由はもう分かっている。

 女の子が盛んに何かを示すので、それを受け取る。ふかふかとした手触りと、鼓動と、震えを感じた。生き物の発する暖かさだ。しかしこの身体の震えは尋常ではない。

「ちょっと、待って。そんなに、せかさなくても、見るから」

 女の子の必死の様子に応えられないのには訳がある。脳に痛みを感じ始めている。視野が狭くなりつつある。と言うよりも、ここにあるべき光景が、何か別のものにすり替わっていくのだ。べったりと視野の周囲から色素が滲み出し、定着してゆく。

 それは原色と中間色とセピア色と、白黒の部分の境界がはっきりと区別された映像だ。

 嫌な感じだ。この感覚には絶対に慣れることは出来ない。どうしよう?アスカは身を震わせた。女の子のことにも構っていられない。構うこと自体、深入りすることであるのが目に見えている。

 シンジを呼ぼう。アイツなら多分、何とかしてくれる。ここ四年間何度かこの感覚に襲われた。それから覚ましてくれたのは大抵、彼だった。

 その名を口にしようとして彼女は気がついた。もう自分の居る場所は、あのホテルの部屋でさえない。喉の奥が渇いている。舌が口の中で張り付きそうだ。毛が逆立ち、鳥肌が腕に生じる。体温が急速に奪われていく。

 ここは見覚えのある場所。ずっと昔、自分はここに居た。

「…何とかしてみるよ」

 無理に笑みを浮かべて呟いた。頭痛に耐え、心を奮い立たせようとした。あれに関連した記憶の再現ならば、独りでも何とかなるだろう。もう母親の事は受け入れられる。四年間の努力と、ハンブルクまで足をのばした成果だ。

 あたしは大丈夫。そう言い聞かせたが、これは何かが違う。その不安を彼女は拭えない。

 この子って、あたしが何歳の時の自分だろう?

 泣いているということは母親が生きていた時だろうか。特定できそうだったのは十四歳を過ぎるまで、それを抑えつけていたからだ。母の死後、幼い自分がこんなに激しく泣いたことなど記憶にない。泣かないと決めたのは彼女自身だった。

 いい加減女の子が不憫でならない。手にする物に意識を向ける。不安の種は明らかにこの生き物の震えだが、対処してやると決めた。

 シンジに頼ってばかりなんて最低。そういうのはやっぱり自分らしくないはず。いつまでもそんな事では彼を、疲れさせるだけ。嫌われちゃうかも。

 両手を開く。羽が見えた。

「この子、あたしが飼っていた……」

 小鳥だった。真っ白で、あまり鳴くことはないが自分には懐いていた。どんな名前をつけたかは憶えていない。しかし黒い嘴、たてがみ、長い尾、艶やかな羽毛、よく動く瞳、その全ては記憶にある。

 女の子が涙を浮かべたまま唇を動かす。声は相変わらず聞こえない。何か一つの言葉を訴えていることは分かる。それに合わせて自分の唇を動かしてみようとするが、うまくいかなかった。小鳥の震えがさらに酷くなる。

 アスカは焦りを感じていたが、この感覚に襲われる時は決まって身体が動かせなくなってしまう。全身の関節の筋が硬直し、痛みすら感じる。それでいて視線は動かせる。首を巡らせることも出来る。五感も、奇妙なほど研ぎ澄まされるのだった。

 掌に熱を感じた。熱い。液体の感触だ。目を向けてみて、女の子が何を言おうとしているのかが理解できた。小鳥は、尻から血尿をたれ流していた。

 そうだった。この子、病気になっちゃったんだ。そして……。

「どうかしたのかい?」

 その声に悪寒が走った。誰のものかなど嫌でも分かる。だが視線は向けざろうえない。

 あの男だった。扉を開けて、部屋に入ってきた。

 

「うん?その子はどうやら、もう駄目のようだね」

 そいつに近付いたらダメ!アスカはそう叫ぼうとしたが無理だった。舌が硬直していた。女の子は彼女の手から小鳥を取り上げると、胸元に押し抱いて一歩下がった。鼻をすすり上げ涙を必死に止めようとしている。男は、その様子に笑みを浮かべながら歩み寄る。

 楽しそうな笑みだった。

「見せてごらん。パパが、何とかしてあげるよ」

「…何とかって、どうするの?」

「楽にしてあげるんだよ。そのまま苦しんでいたら、可哀想だろ?」

 まだ潤んでいる瞳を小鳥に向けて女の子は迷っている。そいつの言うことを信じちゃダメ!アスカはまた叫ぼうとしたが喉に鈍痛を生じさせるだけだった。

 さらに男が歩み寄る。もう一メートルもない距離だ。肉体の硬直に苦しむ彼女の方に見向きすることもなく、男は女の子の前でかがみ込んだ。その瞳に一瞬異様な輝きが走るのを、アスカは確かに見た。

「さあ、渡してごらん。楽にしてあげるから」

「じ、自分で出来るもん。教えてくれたら、独りでやれるもん!」

 頑ななその言葉にも男の顔から笑みは消えないが、唇はねじ曲げられた。

「その子を助けられるのかい?」

「う、うん!」

「その小鳥はね、もう駄目なんだよ?苦しむだけなんだよ?どうしようもないんだよ?飛べないんだよ?死んじゃうんだよ?君のママと、同じなんだよ?」

 ふざけるな!硬直しきった身体を震わせアスカは睨み付けた。それに気付くこともなく、男は女の子の肩に手を置く。女の子の身体が強張った。その大きな目がパチパチと、素早く瞬きを繰り返す。

 触るな!あたしに、触るな!

「教えてあげるね。その子を楽にしてあげる方法は、ママが君にしようとした事だよ」

 なだらかな肩に指を這わせ男は言った。その長細い指は幼虫を連想させた。

「なあに?パパ、何言ってるの?アスカには分からないよ」

「ほら、分からないじゃないか。憶えてないじゃないか。パパに渡しなさい」

 嫌よ!渡しちゃダメ!そいつはパパなんかじゃない!

 女の子は俯いた。ややあって、か細く、驚くほど冷たい声で呟いた。

「…イヤ」

 醜い笑顔を張り付けたまま、男の右腕が垂直に上がった。振り下ろされた。掌が女の子の頬を襲った。乾いた音がした。女の子は倒れた。細い腕から小鳥が転がり落ちた。カーペットが、血尿で汚れた。

「我が儘はいけないな」

 冷ややかな言葉と共に男の顔から笑みが消えた。代わって能面のようなその表情に、汗がのっぺりと光っていた。油でも塗っているかのようだ。

 低い泣き声が響き始める。それを耳にすると、男の下半身が電気でも走ったかのようにガクガクと震えた。表情も激変していた。それとよく似たものをアスカは何度も見たことがある。その記憶を汚される不快感に胃が締め付けられた。

 男の表情は、彼女との行為の最後にシンジが浮かべるそれと、酷似していた。

 違う!シンジはこの男と同じなんかじゃない!

「約束通り、この子を楽にしてあげるよ」

 男は床に転がる小鳥を手にする。その気配に、女の子は涙を浮かべたまま身を起こした。頬が真っ赤だ。今、女の子の表情は悲痛よりも恐怖のそれが勝っていた。震える声で女の子は言った。

「やめて……、パパ、やめて」

 やめろ!

「思い出したのかい?だけど、やめて、はないだろ?楽にしてあげるのだから」

 男の親指と人差し指が小鳥の首に回された。爪が鈍く輝いていた。人差し指の第一関節と第二関節が徐々に山なりになっていった。

 女の子が男の足にすがりついた。男はそれを無視し、指に力を込めてゆく。小さな拳が膝を叩く。表情を変えず、男は女の子を蹴り倒した。小鳥がか細く鳴いた。血尿と内容物が垂れ落ちた。

「悪い子だ」

 動け!あたしの身体、動け!アスカは関節の痛みを無視して腰を上げようとした。無駄だった。足下が滑り、ベッドの上に仰向けになった。

 動け!こんな時に動けなくてどうする?あたしは武術を身につけている。テコンドーと空手、その両方の基本を来日前の数年で指導員が驚くほど早く修得した。過密なスケジュールの合間をぬっての練習は辛かった。でも、あたしは耐え抜いた。それは何のため?

 戦うためだ!

 指先が微かに震えている。拳を握りしめようと彼女は試みていた。 

 演舞のみとは言え、合気道も高校三年間だけで全国クラスになった。だから、今なら絶対負けない!負けるはずない!

「パパ!お願い……、その子を殺さないで!」

「お願い?お前が私にお願いとはね。それにしても、分からない子だなあ楽にしてあげるだけだよママも、お前にそうしようとした私は知っているんだよ?しかし出来なかった自分だけで死んだ人形など道ずれにして全く、愚かな女だ、お前だってこの鳥と同じなんだよおアスカかあアハハハハッ!あの女も飛ぶ鳥とはおもしろい名前を与えたものだ!」

 早口でまくし立てる男の口は、ろれつが回らなくなっていた。薄い唇の端から唾が垂れていた。あの陶酔したような目つきも戻っていた。再びその下半身が前後に揺れ始める。男の片方の手がズボンのファスナーに向かった。

 動け!動け動け動け動け動け、動け!あいつのすねの辺りにローキックを決める!態勢が崩れたら顎を蹴り上げてやれ!倒れたところで顔面に正拳を見舞え!肘を叩きつけろ!目を突け!鼻を潰せ!関節をはずしてやる!骨を砕いてやる!

 身体が僅かに動く。指先も感覚を取り戻していた。拳を握りしめる。

 そうよ!立ち上がれ!戦え!今なら出来る!あの子を助けられる!

「飛べない鳥、そんなものに意味はない。ただの獲物だよ」

 微かな高い音がした。彼女は確かにそれを耳にした。それは何かが砕け、折れる音だった。その瞬間、両膝から力が抜けた。ベッドから転がり落ち床に叩きつけられた。前頭部を痛打した。

 アスカは視線を上げた。揺れる視界には、首を逆方向にねじ曲げられた、小鳥の骸があった。その羽には白く濁った液体が付着し、ぬめっていた。

 男は部屋を出ていくところだった。一度だけ振り向く。笑みを浮かべていた。

 この笑みにも、見覚えがある。朦朧とする意識の中で彼女はそれを思い出した。自分にとって最悪の敗北をきした時の記憶だった。

 その笑みは、あの白い羽を持った敵達が浮かべていた忌まわしい笑みと、同じであった。

 

 眠りが妨げられたのは、恐らくそれが浅いものだったからだろう。

 何かに意識が呼び覚まされるのを感じながら、もう少し寝かせてくれないかと彼は願った。時差の関係でこのところずっと寝不足だ。昼間には嫌なこともあった。そのことで強い疲労感を憶えている。

 足音が微かに聞こえ自分の横で止まった。気配を感じ、それが誰のものなのかもすぐに理解した。

「殺されちゃったの」

 だから、もう少しだけでいいから寝かせてくれ。大したことは出来ない、それは分かっている。けど、朝が来たらいくらでも話を聞くし、僕なりに精一杯頑張ってみる。

 彼は寝返りをうつ。力のない、平板な声に答えなければとは思うのだが、睡眠を妨げられるのはひどく苦痛だった。

 僕は君の側に居たい。それを許してくれるなら何だってする。稀にあるように突然僕を押し倒し、裸にして、乳首や耳たぶや指先を噛んで、出血させ、舐めながら微笑んでも文句なんて言わない。

 でも、今は寝かせてくれよ。疲れているんだ。

「汚されちゃったの」

 何のことなのか彼には分からなかった。汚された?何を?いつ?誰に?僕に?目をきつく閉じて考えたが、もやのように晴れない眠気に思考が低下している。

 頬に柔らかい感触を感じた。冷たい。それで眠気が引いていく。瞼を通して光を感じる。ドアが開かれ、直ぐに閉じられる音がした。どこへ行くというのだろう?自分を置いて、どこへ行くというのだろう?

 行かないでくれ。僕を、置いて行かないで。

「どこへ行くんだよ」

 身を起こした。ソファーから離れ、寝室のドアを開ける。ベッドの上に彼女の姿は無かった。窓のカーテンは開けられたままだ。血の気が引くのを感覚として捉えた。頬の暖かみも完全に失せた。

 すぐに客室を飛び出す。ホテルの玄関が開いているわけがない。チェックインの時間はとっくに過ぎている。部屋に連れ戻そう。だけど不用意に声をかけてはいけない。慰めようとか、力づけようとか思ってはいけない。抱きしめてもいけない。

 もう分かっている。そんなのは逆効果だ。ただ、側に居るしかない。黙って受け止めるしかない。自分に出来る事は、その程度だ。

 階段を駆け下りロビーに向かった。玄関は開いていた。ホテルの従業員とブランド物のスーツを着た若い男が、困惑した顔で扉の方を見ていた。チェクインが遅れることを事前に連絡していた客がいたのだ。何かを伝えようとする従業員を無視して外に飛び出した。

 街灯が路面を照らし出していたが、アスカの姿は見当たらない。

「ちくしょう!」

 シンジは声を張り上げると夜の通りを走り出した。彼女の行き先など思いつかない。それでも走るしかない。雲の切れ目から月が見え隠れしていた。それを目にして喘ぎながら彼は呟いた。綾波、僕は、どうしようもない、大馬鹿野郎だ。

「ちくしょう!」

 もう一度叫んだ。自分を殴りつけたいと思った。

 

(8)

 

 時刻は午前二時を過ぎていた。

 シンジにとって幸いだったのは、アスカが行くかも知れない場所を一時間ほど夜の街を走り回ってから思いついたことだ。だからといって確信などあるわけもない。ただそこに、彼女と二人で出掛けたことがあるという事実だけが頼りだった。広すぎるベルリンの街を当てもなく探し回るよりは遙かに増しだ。

 幸運は続いた。クリスマス明けの深夜だというのにタクシーをつかまえられたことだ。見るからに人当たりの悪そうな運転手は、彼の辿々しい英語を聞き取ることが出来た。地理にも詳しく、うろ覚えだった店の名前だけで行き先を理解した。

 ついてるぞ。堅いシートに身を任せ何度も呟く。運転手がバックミラー越しに気味悪げな視線を送ってくるのも気にならない。

 あの店に居るはずだ。三日前にあそこへ連れて行かれた時、アスカは厳しい表情をしていたけれど、帰る頃には少しだけ機嫌も直っていた。暗い歌だったけど、あのボーカルは結構いい男だったわね。そう笑みを浮かべてもいたじゃないか。だから、あそこに居るはずだ。

 そう言い聞かせ彼は笑みを浮かべようとした。頬が歪んだだけであった。すぐに目が潤み、腿を何度も拳で叩く。ちくしょう、ちくしょうちくしょう。呟き続けるシンジの方を、運転手は不機嫌そうに盗み見ていた。

 タクシーが止まる。料金を支払い彼は車から降りた。閉まりかけたドアを押さえて、ここでしばらく待っていてくれと運転手に頼む。男は眉間に皺を寄せて何事か抗議の言葉を発したが、それを無視してタクシーから離れた。当然のように車は走り去った。

 シュプレー川に架かるマージャル橋の近く、細い街路の奥にそのライブハウスはあった。ひびの入ったレンガの壁に『ENIGMA』という文字のネオンサインが光っている。Aの部分は切れかかっているのか輝きが鈍く、点滅を繰り返している。

 店の入り口の横には青年が座り込んでいた。頬に鱗の入れ墨が彫られ、鼻にはピアスが埋め込まれている。シンジの方に目を向けた。虚ろな、澱んだ瞳だ。ネオンの点滅に一瞬その腕が照らし出された。やせ細った腕の表面には、注射の跡がいくつも浮き出ていた。

 重い鉄製の扉を開ける。すぐに閉める。通路の壁は張り紙だらけだった。半透明のアクリルで出来た扉を前にして立ち止まる。店はまだ開店しているようだが、歌声などは聞こえず静かだった。やや躊躇ってから扉を開けた。

 店内に入ると同時に何かが割れる音がした。視線を向けると、銀髪の男が倒れ込んでいた。床にはガラスの破片が散乱している。呻き声を上げる男の横に若い男が立っている。タンクトップから露出する肩が痩せていた。唇が柴色に塗られている。

 あのボーカリストだった。左手には割れた緑色のビール瓶が握られている。欠けて鋭く尖ったガラスの輝きに足が竦んだが、シンジはすぐに歩みだした。店の隅のテーブルに探し続けていた姿を見出したからだ。

 呻き声を上げ続ける銀髪男の横を通り過ぎる。靴底が破片を踏み脳を引っかくような音を立てた。ボーカリストの視線が彼の方に注がれる。

 テーブルの上で顔を伏せているアスカに歩み寄る。向かい側の席には幼い顔立ちをした少女が、ニコニコと笑みを浮かべて頬杖をついていた。肩までの黒髪を指で玩ぶその少女は、日本人のようだ。

 アスカは目を閉じていた。テーブルの上には数本の発泡酒の空き缶が転がっていた。顔を寄せて名を呼びかけた。答えはない。鼻先に彼女の息づかいを感じる。くすぐったかった。

「やめなよ」

 

 少女がそう言ったのでシンジは顔を上げた。自分に向けられた言葉かと思ったが、少女の視線は背後に注がれている。振り返ると、ボーカリストがビール瓶を握ぎりしめてまっすぐ振り上げていた。

「この子の知り合いみたいだよ」

 ボーカリストは瓶を降ろそうとせずシンジの顔を見つめた。がなり立てるように歌っていた時とは違い、その瞳にはひどく力がない。頬がこけ、目の下は青黒く鬱血している。彼の唇は乾燥しきったようにひび割れていた。

「そうだよね?」

 シンジは少女に向かって頷いた。それに微笑む少女のこめかみには、一目で分かる古い傷跡があった。ミミズのような赤黒い直線だ。右耳のすぐ側まで伸びている。

「この子、さっき酔いつぶれちゃった。泣いてたよ」

「酔いつぶれたって、酒を飲んだのか?」

「そうだよ」

「…酒なんて、飲むところ見たことがない」

 アスカが目を覚ます様子がないので椅子に腰掛ける。少女は黒く光沢を放つ革ジャンのポケットから煙草を取り出すと、薄い唇でくわえて火をつけた。煙に目を細めるが、それでもその瞳は目立つほど大きかった。

「私、アイ。アイラブユーのアイ。アイコンタクトのアイ。藍色のアイ。この子の名前はアスカちゃん、君はシンジ君」

「どうして知ってるの?」

「教えてくれたもん。聞いちゃったって言った方がいいのかなあ。つぶれちゃう前、ぼんやりした目をして、泣いて、時々喋ってた。君の名前、何度も言ってたよ」

 店内にギターの音が響き始めた。ステージの上のパイプ椅子に座りボーカリストが譜面を見ていた。柴色の唇が動くが、歌声はしない。そちらに目を向けてアイは言った。

「ここら辺、夜危ない人がいっぱい来る所。アスカちゃん一時間ぐらい前にフラフラ入ってきたの。すーぐ色んな男の人に絡まれてたけど、全然抵抗しようとしないんだもの。まったくもう、ホントにもう、彼が居なかったらアスカちゃん、やばかったと思うよ」

「あの人が、助けてくれたのかい?」

 ボーカリストはギターを引く手を休め、足下の瓶を手にして口に運んだ。片手にはペンが持たれ譜面の上を走っている。かなりの速度だ。

「さっき見たよね?三人ぐらい、そこの人いれて四人目か、瓶で頭を殴って追い出しちゃった。あっ、一人は私がやったんだけどね、ククククッ。結構簡単に割れるんだよねえ、ビールの瓶って。いい音するんだよねえ」

 ククククッ!ククククッ!とアイは身をよじらせて笑った。シンジはじっとアスカを見ていた。何度見ても愛らしい寝顔ではあったが、少し頬の辺りが痩せたようにも感じる。

 そんな彼の様子にアイの顔から笑みが消えた。大きな瞳で覗き込んでくる。

「アスカちゃん泣かしたの、誰?」

「……」

「こんな可愛い女の子、泣かせるなんてカマドウマ以下だよ」

 嫌なんだよねえ、あの虫。そう言ってアイは大袈裟に顔をしかめた。ボーカリストの奏でるギターの音が再び店内に流れ始める。今度は聞き取りにくい、しゃがれた歌声も聞こえてくる。鼓膜にザラザラした感覚を覚えさせるような声だ。

「バッタなんだよね一応。キリギリスやコオロギの近縁なんだって。でもあの色といい長い触覚といい、見てるだけで気持ち悪くなっちゃうよ。やたらピョンピョン跳ね回るし。おまけに出てくる所って大抵じめじめした台所とかトイレでしょ?それだけで気分悪いって言うのにまったくもう、ホントにもう」

 当然シンジは視線を向けようとはしなかったが、それを気にもせず少女は語り続ける。言葉を発する度に、こめかみの傷跡がうねるように歪む。

「小学生の頃にさあ、下駄箱掃除をしてたらいたのね、カマドウマ。うわあ、いるうって思ったんだけど目は離せないのね。怖いもの見たさってやつ?何か全然動かないから、死んでんのかなあって思って近付いてみたらガクンッ!って横に倒れるじゃない。あれれ?って見てたら尻の辺り?よく分かんないけどその辺りから、何だか白くて細い物がニョロニョロ出てきてさあ。うひゃあって逃げ出したんだけどあれって線虫だったんだね。まったくもう、それが頭に残っちゃってて、カマドウマ出る度にオイデに頼んでぶっ潰してもらってるの、ブチッと」

 まくし立てられる高い声にもアスカは反応しない。仕方なく、オイデって?とシンジは尋ねた。

「うんうんオイデってね、彼の名前だよ。本当はオイディプスって名前っていうか芸名っていうかなんだけど言いにくいじゃない?だから縮めて呼んでるんだけど、あんまり嬉しくないみたいなのね。日本語少し分かるの彼。オイデオイデなんて犬みたいだものねえ猫みたいだものねえ、ククククッ!あっ、後ろ。危ないよ」

 身体をずらして視線を向けると、あの銀髪男が額に手をやり立ち上がっていた。半乾きの血が銀髪にぬめっている。男は低い声で汚い言葉を吐くと、アスカの肩に掴みかかろうとした。シンジは思わず肘を出す。脇腹を捉え、男は仰け反った。

「あらら、優しい顔して結構やるねえ」

 だがそれほど効いたわけではないようだ。銀髪男は目を怒らせてシンジの襟を掴んだ。シャツのボタンが弾け飛ぶ。こんなことなら技の一つでも、アスカに教わっておけばよかった。足の指先に力を込めたが徐々に浮き上がってしまう。

 その様子に、オイデという名のボーカリストは足下の瓶を掴み立ち上がった。銀髪男の背後に歩み寄り横殴りで頭に叩きつけた。割れた瓶の破片が飛び散りシンジの頬を切った。襟元をから手が離れる。銀髪男は床に伏し再び呻き声を上げる。

 脇腹に鋭い蹴りを入れると、オイデは銀髪男の両足を掴んで床の上を引きずった。痩せた身体に似合わない力だ。そのまま店を出ていく彼の表情には、まったく変化がなかった。

「ねえねえ大丈夫?」

 目を開くと、アイが大きな瞳で心配そうに覗き込んでいた。

「とっとと放り出しとけばよかったよ、失敗しちゃった」

「…礼を言わないと」

 声が震えてしまうのが抑えられない。それが恥ずかしくて彼は視線を逸らせた。

「オイデに?やめといた方がいいよ、君を助ける積もりじゃなかったと思うから」

「やっぱり彼女を?でも、なぜ?」

「うーん、そうとも言えるかも知れないけど要するに彼、自分の歌を聴いてくれる人、大事にするから。それに歌作ってるの邪魔されると、いつもああするんだよ。あっ、私が相手だとどっか逃げちゃうんだけどね、ククククッ」

 身をよじらせながらアイはテーブルの上の布巾を手にし、シンジの頬に浮き出る血を拭った。その幼い唇から漏れる息が開いた胸元をくすぐる。身を引こうとしたが、少女はシャツの袖を掴みそれを許さなかった。

 布巾からは酒やら何やらの酸っぱい臭気がしたが、少女の微かな香りがそれを消し去った。

「シンジ君ってさあ、アスカちゃんの恋人?」

「…どうだろう。そう思ってくれていると嬉しいけれど」

「ならさあ、泣かしちゃ、駄目なんじゃないの?」

 その言葉に弁解する気は起きない。原因は別にあるにしろ、自分が無力だったのは事実だ。それにシンジには、この少女が自分を責めているわけでは無いようにも思えた。何となく、アスカの辛い状態を理解しているようにさえ感じたのだ。

「あの、君はどうしてアスカを助けてくれたの?」

「へっ?」

「だから……、君も彼女に絡んだ男を追い出してくれたんだろ?ひょっとして、知り合いなのかい?」

「まっさかあ!完璧初対面だよ。アスカちゃんってどう見ても二十歳ぐらいだよ?私、十五だもん。全然知り合いじゃないよ」

 笑みを浮かべたままアイは身を離した。店の入り口が開きオイデが入ってきた。彼はこちらに目を向けることもなく、ステージに戻るとパイプ椅子に腰掛けた。譜面をじっと見つめギターを手にする。

「いやあ、オイデが瓶で殴るの何度も見ているからさ、一度やってみたかったんだよねえ。ガシャン!っていい音してホント気持ちいいよねえ」

 微かな呻き声がした。アスカの肩が僅かに震えた。その寝顔は苦痛に満ちている。

 こりゃまだ起きそうにないよ。アイは顔を寄せるとそう言って彼女の頭を撫でる。その目は、驚くほど慈しみに満ちていた。

「それにね、何となくね、似てるのね。アスカちゃんと私」

「似てるって……」

「んもう!そんな変な顔しないでよお。外見なんて足下にも及ばないの重々分かってるってばあ、でも若さはこっちが上だけどねえククククッ!要はね、好きなの、この子のこと。あっ、変な意味に取らないでよね、妄想したら駄目だからねえ」

 ククククッ!ククククッ!そう小さな笑い声を立てながらアイは栗色の髪を撫で続けた。ギターが奏でられ、再びしゃがれた歌声が響き始める。

 そのどちらも止める気にはなれなかった。アスカの寝顔が少しだけ、安らいだものになっていたからだ。

 

(9)

 

 締め切られたブラインドの隙間と、ゆっくりと回転する換気扇の合間から朝日が流れ込んでいる。店内は薄暗い。窓は三つしかないのだ。経営者に電気料のことで文句を言われると、照明は二時間ほど前に切られていた。

 弱々しい日の光を受け床の上に散乱するガラスの破片が輝いている。シンジは、モップでそれを片づけている。掃除を手伝うと言う彼にアイはあっさりモップを渡したが、オイデは渋い顔をしていた。ともかく何かをしていなくては間が持たない。

 アイはこの店でウェイトレスの仕事に就いている。十五歳だから違法だ。慣れているのか、目を覚まさないアスカの脈を取るなどしてウンウン唸りながら調べてくれた。アル中なんかじゃないよと言ってくれたが、シンジはアスカの側を離れる気にはなれなかった。そうはいっても四時間以上じっと椅子に座っていれば、退屈になるのも無理はない。

 オイデは無口な男だ。差し入れの積もりかビールとサンドイッチを置いていった時も、感謝の言葉に答えることはなかった。彼は明け方まで譜面を睨み、ギターの弦を弾き、ペンを走らせ、しゃがれた声で低く歌っていた。

『 その男はこう言ったんだ 水になれってね だけどあんたや俺の場合

  花にもならなくちゃいけないし 鳥にもならなくちゃいけないのさ  』

 酒を口にしたのは二度目だった。十四歳の頃、同居相手だった葛城ミサトが山とため込んでいたビールを隠れて飲んだことがある。興味本位の行動だが、350ミリ・リットル缶の半分ほどを飲んだところで目が回り、あっさりつぶれた。

 キッチンの床で倒れていたところを見つかった。ミサトには大笑いされ、アスカはガキのくせにと鼻で笑った。ぐるぐる回転する世界の中、そんな彼女たちが妙に輝いて見えた。

 君が酒を飲むなんて、本当に知らなかった。栗色の髪が広がるテーブルの上の空き缶を片づけながら彼はそう思った。結局、貰った缶ビールは空に出来ない。アルコールに弱い体質であることを思い知らされる。

 ライブハウス『ENIGMA』は本日休業である。イブとクリスマス当日の騒ぎで食材と飲み物は底をついていた。アイは僅かに残っていた材料で朝食を作っている。

 目が覚めたらアスカちゃんに目玉焼き食べてもらわなくちゃね。ベーコンを敷いた目玉焼きと、きつね色のトーストと濡れたまんまのレタスにレモン入り紅茶。二日酔いにはこれが一番だからねえ。あっ、ケーキ残ってるよ、食べる?

 早口で喋りながら調理をする少女は、本当に楽しそうだ。

 アスカが目を覚ましたことに気がついたのは、店の入り口のアルミ・バケツにガラスを捨て、店内に戻ってきた時だ。アイが背中にかけてやった革ジャンを膝の上に置き袖口を指で撫でていた。調理場から出てきたアイはその姿を見ると、おおっ!起きたよ起きた朝食すぐだよ、などと言い楽屋で仮眠を取るオイデを起こしに行った。

「おはよう」

「…おはよう」

 答える彼女の顔は、お世辞にも爽やかなものではない。目はうっすらと充血していた。解かれたままの長い髪の毛は乱れ、その栗色の輝きも弱々しく見える。

「何、やってるの?」

「掃除」

 モップをカウンターに立てかけ向かい側の席に座った。アスカは相変わらず革ジャンの袖をいじくっている。無色のマニキュアの下は、血の気が少なく白っぽい。シンジは捲り上げていたシャツの袖をおろしテーブルの上に腕を置く。

 ベルリンの早朝は若干肌寒い。

「酔いつぶれるなんてまるでミサトね。あたしがお酒飲むこと、知らなかったでしょ?」

「うん」

「飲み始めたのは去年の春ぐらいからかな。独りだと眠れない夜、よくあったの」

 微笑んだがその瞳には力がない。ここ一年ほど、彼女のこんな表情は見たことがない。シンジは一度だけ訪ねたことのある、アスカの担当医から受けたアドバイスを思い出していた。

 無理に力づけてはいけません。励ましは時として苦痛になります。なぜなら、行動を強いることになるからです。答えを早急に求めても無意味ですよ。

「また、迷惑かけちゃったね」

 出来る限り側に居てあげることです。彼女の言葉に、黙って耳を傾けてあげなさい。何かを語る、それだけでも立派な自主的行動なのですから。

 シンジはその通りにした。自分は彼女のためにしてあげられる事などほとんどない。出来る事といったらこのぐらいだ。この四年間で、それを痛感していた。

「いつになったら、こういうこと終わるんだろう。楽になれるんだろう。昔の事に縛られるの、嫌なのに」

 アスカはそこまで言って黙り込んだ。答えが返ってこないからだ。外からはエンジン音とクラクションが微かに聞こてくる。ベルリンが動き始めた。

 目を逸らすことなく、シンジは俯いたままの彼女を見つめている。

 

 四年前の戦いの直後。戦傷の療養中だったアスカに、退院したらもう一度僕と生活してよ、とシンジは頼んだ。絶対に嫌、あんたに何かが出来るとは思えない、もう引っかき回されたくない。そう言って彼女は拒否し続けた。

「…可愛がっていた小鳥のこと、思い出したの。病気にかかっていたのは確かだけど、助けられたかも知れない。なのに……、殺されちゃったの。汚されちゃったの。あたし何も出来なかった。嫌になる」

 同情?哀れみ?それとも好きだとでも言うわけ?何だって同じよ。要するに、あたしのこと思い通りに出来るチャンスとでも考えてるんでしょ?妄想だけじゃ我慢しきれなくなったわけ?吐き気がするわ。あたしが何も知らないとでも思ってるの?視線が汚らわしいのよ!

 罵りだけが病室に響く。見舞いの品を投げつけられた。無理に起きあがる彼女の胸部の傷口が開いた。血圧計などが警報音を鳴らし、看護婦が慌てて駆けつける。

 まとわりつかないで!あんたの存在自体が苦痛なのよ!出来ることなら記憶から完全に消去したいわ。消えてよ!

 白いパジャマの胸元を真っ赤に染め、苦痛に顔を歪めながら睨み付けてくる。青い瞳は濡れて充血していた。病室を出るシンジの背中に、医師と看護婦に支えられながらアスカは叫ぶ。

 あんたなんか、生まれてこなければよかったのよ!

「言ってくれたよね。あたしが間違っていたわけじゃないんだって。ママのことは、そうかも知れないって思える。だけど、あたしもあの小鳥と同じだったかも知れない。同じ目に、あったことがあるかも。そうだとしたらシンジとこうやって一緒にいることは……、間違ってるかも知れない」

 その後一週間、アスカは面会謝絶の状態となった。もっとも、その間シンジは彼女の下を訪れることはなかった。出来なかった。彼も別の病院に入院していたのだ。

 アスカに罵声を浴びてから三日後の夕方、商店街の薬局に立ち寄った。店頭にはデフォルメされた大きなカエルの、古びた人形が置かれていた。それを見て、いつだったか頭痛気味だと訴えていたアスカのために、その店で薬を買ったことを思い出したのだ。初老の女性店長はにこやかに客を迎えた。

 何をお求めですか?優しい声に、ここ三日間満足に眠れないと答えた。笑みを浮かべたまま女性店長は錠剤の入った小瓶を取り出す。白い錠剤が詰まっていた。

 一回二錠ほどです、楽にお眠りになれますよ。女性店長のかける眼鏡の縁は、艶やかな鼈甲製だった。

 帰宅して自室のベッドに横になる。ミサトはネルフ解体の事後処理で忙しく、留守が続いていた。何度も寝返りをうつが眠気は起きない。日が落ちるとクーラーの唸る音だけが自分の部屋であることを教えてくれた。

 脳裏に、胸を抱え苦痛に身を震わせるアスカの姿が浮ぶ。全裸だった。頬を歪め、右手を下半身に伸ばす。ズボンのファスナーを下ろし性器を握りしめる。僕は、僕はこの程度の奴なんだ。熱を帯びる。背中をおののきが走り抜ける。

 次の瞬間、あの言葉が聞こえた。

 あんたなんか、生まれてこなければよかったのよ!

 両手で耳をふさぐ。声は消えない。一時間ほどそうしていて薬のことを思い出した。キッチンでコップに水を注ぎ、寝室に戻って薬を二錠飲んだ。効果がない。あれ?あの店員は何錠って言ってたかな?思い出せず、さらに二錠口にした。

 楽にお眠りになれますよ。その言葉を信じてさらに薬を飲む。意識は鮮明なままだ。外からガタンガタンと微かな電車の音が聞こえてきた。交通機関が復帰しだしたことを思い出した。微笑むが、再び耳をふさぐ。徐々に大きくなってゆくレールの音に混じり言葉が聞こえたからだ。

 ガタン、あんたなんか、ガタン、生まれてこなければよかったのよ!ガタン、生まれてこなければガタン、よかったのよ!ガタン生まれてこなければ、ガタンガタンよかったのよ。ガタンガタン、生まれてこなければガタンよかった。ガタン生まれてこなければ、アスカに。ガタン生まれてこなければ、許して。ガタン。

 視野が急に明るくなり、まるでアルトのように穏やかな女性の声が響いた。らあくにいいお眠りいになあれますよおおお。涙を浮かべてそれに頷く。もっと飲むんですね?掌に錠剤を振りかけ頬張る。軽い甘みが心地よく、舌でゆっくりと溶かしながら水を飲んだ。

 五分後、彼の意識はブラックアウトした。

「最近、シンジと一緒に居るのって、依存じゃないのかって思うことあるの」

 頬に何度も鈍い痛みを憶えて瞼を開く。目の前にミサトの顔があった。涙を流し何かを叫んでいる。お帰りなさい。そう言ったが、凄まじい吐き気と目眩を覚え再び目を閉じた。

 次に意識が醒めたのは病室のベッドの上でだ。朝日が窓から射し込み、眩しかった。ミサトが椅子に腰掛けじっとこちらを見つめていた。

 あれ?アスカはどうしたんですか?とシンジは尋ねた。その言葉にミサトの表情が一気に強張る。変だな、どうして僕が彼女の代わりに寝てるんだろ?彼女は立ち上がり腕を振り上げた。おかしいですよね?掌が彼の頬をとらえた。

 どこまで甘えれば気が済むの!アスカがあなたのことをどう思っているか、そんなこと知らないわ。だけど死んだらね、死んじゃったら、シンジ君は楽になるかも知れないけど、それを知ったあの子はどうなると思うの!?

 僕がいなくなればアスカだって楽になれますよ、違うんですか?そう微笑むと激痛が頬を襲った。ミサトの瞳には再び涙が浮かんでいた。

「それとっても嫌だけど、シンジが悪いわけじゃない。それでもいいかなって思ったりもするし」

 だってそうでしょ?そうなんでしょ?アスカの居場所を奪ったのは僕だし、いつも苛つかせていたし、辛いのを知っていて何もしなかったし、まとわりついたし、殴られたし、酷い事してたし。僕は、酷い事してたんですよ、ミサトさん。汚してたんですよ、アスカを。僕は消えちゃえばいいんですよ、何も出来ないから。違いますか!

 シンジも涙を浮かべていた。言葉を発する度に掌が頬をとらえたからだ。ミサトはそれを無視してもう一度殴り叫んだ。

 死ねば存在が消せるとでも思ってるの!?本気でそう思ってるの!?もうシンジ君とアスカは出会っちゃったのよ?記憶に刻まれてるのよ?あの子の前から黙って姿を消して二度と会わなければ、いつかは薄れていくかも知れない。でも死んでしまったらね、消えることなくなるのよ!消せなくなるのよ!あの子の、アスカの心の傷を増やすだけよ!自分の存在の滅却なんて不可能よ!そんなことも分からないなんて……、このバカッ!バカ!

「でも、離れた方がいいかも知れない」

 泣きじゃくり自分の胸の上に突っ伏していたミサトに、僕に出来ることを探してみますと約束した。

 彼は退院後、アスカの下に通い始めた。そうすることが自分を変えていくための始まりだと確信していた。そう確信できたのは、全身血みどろだったアスカをかき抱いた時のことを思い浮かべたからだ。槍に串刺しにされたエヴァ弐号機のエントリー・プラグから、彼女を救出した時だった。

(離れてよ)

 アスカはそう言って意識を取り戻した。その冷たい言葉は悲しかったが、それを発した彼女こそが今の自分に必要なのだと気付いたのだ。

 リリス。あの巨大な彫像の白い手の内に囚われていた時、絶望と虚無感で混沌としていた意識の中、確かにアスカの存在を感じた。それは決して甘いものばかりではなかった。だがもしそれがなければ自分は、世界と人類への呪詛を口にしていただろう。その結果は想像しようがない。

 アスカの存在は僕だけでなく、結果的に世界さえ救ったのかも知れない。だから、次は僕がやらなくちゃいけない。何も出来ない。力になるなんて傲慢だろう。でもそうしたいと思うことがあれば、やってみるしかない。

 僕は、僕を好きになりたいから。そしてアスカのことも。それを、許されたい。

 病院に通い始めて一ヶ月半後の日曜日。生暖かい午後だった。いつものようにアスカは顔を向けることもなく黙り込んでいた。立ち去ろうとした時、突然差し入れのリンゴを床に投げつけた。そして彼女は声を上げて泣き出す。それは初めて見る姿だった。

 あたしに……、あたしにどうしろって言うのよ。

 君のことが知りたいんだ、少しだけでも。そう答えると彼女は、自分の過去をうち明けてくれたのだ。辿々しい告白は日が傾き夕日が射し込む頃まで続いた。

 涙を流しながら、一つだけ約束できるならシンジの言うとおりにしてみる、とアスカは告げた。床に転がるリンゴに目を向けていた。熟し切っておらず、半分くらいが青いままだった。約束するとシンジは頷く。

(あたしを、見ていて欲しい)

 濡れた瞳を上げたアスカの要求は、それだけだった。

「もう、離れた方がいいかも知れない。あたし、シンジに何をするか分からないよ」

 アスカは膝の上の革ジャンを見ながらそう言った。彼女が何を言おうとしているのかはすぐに理解した。二度と思い出したくはない事だ。しかしシンジは見つめ続けた。約束だからだ。

「あの時みたいに傷付けるかも知れない。…殺そうと、するかも知れない。そんなこと無いって言える自信、今は全然ない」

「あのお、お話中に悪いんだけどお」

 

 何だよ。

 ぞんざいな言葉に、アスカは少し驚いて顔を上げた。シンジは険しい表情をしている。明らかに話を遮られた事が不機嫌なようだ。しかし相手はどう見ても年下の少女だ。普段から物腰の柔らかい彼には、考えられない態度である。

「ゴメンゴメン、食事できたからさあ」

「…ありがとう」

 そう答えてアルミ製の皿を受け取るシンジの表情は、柔らかいものに戻っていた。皿の上にはきつね色に焼けた食パンと、目玉焼き、レタスが乗っていた。少女は紅茶が湯気を立てるカップをアスカの前に置くと、にこやかに笑みを浮かべて一礼した。

「邪魔しちゃったね。食べれば少し元気出るよ、アスカちゃん」

「ア、アスカちゃん!?」

「んじゃあ、ごゆっくり」

 ステップなど踏みながら少女は歩み去る。離れたテーブルの席に腰掛け、向かい側に座る男に早口で何事か喋り始めた。男は明らかにそれを聞き流しながら、フォークで目玉焼きを突き刺し柴色の唇でくわえた。

「…あの子、誰?」

「アイちゃんっていうんだよ。君の事を色々世話してくれたんだ。あのボーカルの人は君を助けてくれた。憶えてないよね」

「全然」

 水になれねえ。難しい事言うよねえ、その格闘家の人も。でもオイデの歌みたいに花になれ!風になれ!鳥になれ!ってのもねえ。花になったらチョウチョに引っ付かれて吸われちゃうよ?鳥になったら飛ばなきゃいけないし、風になったら雲の向こうへ行かなきゃ。私、高い所って苦手なんだよねえ。

 相変わらず早口でまくし立てるアイに、ハア、フン、ホウ、ヘエとオイデは妙な発音の日本語で答える。指先でフォークを玩びながら彼は俯いていた。

「変わった子ね」

「ああ、相当変わってる。僕らが言えた義理じゃないとは思うけどね」

 少しおどけた調子で言うシンジに、アスカは笑みを返す。二人はしばらくの間朝食を片付けることに専念した。トーストは若干焦げ目が尽きすぎ、レタスはやや干涸らびていて、目玉焼きは半熟というにはかなり水っぽかった。

 紅茶を一口飲むと、目にかかる前髪をかき上げてアスカは言った。

「離れた方が、いいと思うの」

「嫌だ」

「柄じゃないけど、もうシンジのこと傷付けるの嫌だもの。…蹴ったりとかはたまにしちゃうけど」

 思わず吹き出すシンジを、やや強張った目で睨む。それでも彼はしばらく笑いをかみ殺していたが、急に真顔に戻って視線を逸らす。

 ブラインド越しに差し込む日の光が強まり始めている。今日も快晴の空のようだ。

「もしかすると今の僕の気持ちも、依存ってのかも知れない。けど、君の言ったことが、僕にとって離れる理由にはならない」

「どうして?」

「僕には嫌なところがいっぱいある。それは確かだから、そうなっても仕方ない。そうなるのが嫌だって事には変わりないけどね。だけど、アスカが僕の事を心配する必要なんて、ないんだ」

 アイの甲高い声が聞こえてくる。だからあ、猫になっても駄目なんだってばあ。飼い猫になっても近所のイヤーなおばさんが青酸ソーダを仕込んだお団子を食べて泡吹いちゃうし、野良猫だと環境課だか衛生局に捕まってガス室送りだよ。猫だって大変なんだから。ニャアニャア鳴いて転がってるだけじゃないよお。

 大きな音を立てて紅茶をすする。カップの底に溶けきらなかった砂糖が残っていた。甘みが喉にきつい。

「その音を立てる癖、十四歳の頃は知らなかった」

「意識して我慢してたから」

「どうして、今は我慢しないんだい?」

「どうしてって……、単に面倒くさいだけ。朝食はいつもシンジと取るから、いちいちしてられないじゃない」

 だからだよ。そう呟いてシンジは視線を戻した。その表情に、彼女はさらに堅くなる。この唇を引き締めながらもあくまで目尻は柔らかい表情をする時、彼は絶対に考えを曲げなくなる。アスカはそれをよく知っている。

「僕は君と約束したことがある」

「…憶えてない」

「構わないよ。ただ、その約束を守るのは楽じゃなかった。僕の知らなかった君を色々知ることにもなったから。正直言って、苦しくて疲れて、何度逃げだそうとしたか分からない。前の僕だったら、とっくにそうしていただろうね」

 視線を落とすと膝に置いたままの革ジャンの表面に、トーストの屑が散っていた。彼女はそれを指で払いながら思った。当たり前だよね、あたしの相手をしてたら。

「だけど、今はそんな気にはならないんだ。だから離れるのは嫌だ」

「嫌なこと何度も言わせないで!あたし、汚されていたかも知れない。あんたを殺そうとするかも知れない。嫌よ、そんなのもう絶対にイヤ!」

 視線を落としたまま鼻をすすり上げる。自分は以前に比べずいぶん泣き虫になったが、一度そうなり始めた時の対応に慣れることはない。目をきつく閉じると、涙を必死で抑えようとしていた幼少の自分の姿が浮かんだ。

「もう一度言うけど、君が間違っていたわけじゃないと思う。それに君は汚れてなんかいない。少なくとも僕にはそう見えない」

「…知らないだけよ」

「もしも君が恐れていることが起きたら、その時は逃げるよ。死にたくはないから」

 まったくもう、ホントにもう。食器を手にしたアイが二人の横を通り過ぎる。この少女は常に笑顔を浮かべている。調理場に彼女の姿が消え、シンジが再び語り出すまでの間が、アスカにはとても長く感じられた。

「死にたくない。今は本当にそう思えるんだ。朝になると、僕が用意した朝食を君が食べにくる。音を立ててみそ汁とかをすする。悪いけど、未だにそれが笑えてしまう。十四歳の頃と同じようだけど少し違う。それがいいんだ、今の僕には」

「それだけじゃ、済まないはずよ」

「僕は何も出来ないかも知れない。だけど君と約束したんだ。いや、もう約束とかじゃない。僕だってそれを望んでいるから。だからアスカは自分のことを今は考えればいいんだよ。僕のことなんかは二の次で……」

「あのお、またお話中に悪いんだけどお」

 何だよ!苛立たしげなシンジの声に、アスカは涙に濡れた顔を上げる。やはり今度も彼の表情はいつものそれに戻っていたが、少しだけ意外そうな目もしていた。彼の目の前に小皿を二つ持つアイが立っていた。

「んもう!そんなに怒らないでよお!いい物持ってきてあげたんだからあ」

 二人の前に皿が置かれる。その上には、へたくそにカットされたせいで形が崩れた、ケーキが乗っていた。苺だけで装飾されたケーキには細いロウソクが無造作に刺されている。オレンジ色の炎が蝋を溶かし揺らめいている。

「昨日の残りだよ。一日遅れだけどお、アイからのクリスマス・プレゼント!そのロウソクはオイデからの気持ちだよ」

「ねえ、あなたとあたし、前に会ったことでもあるの?」

「ないよお。全然初対面だよ。あっ、髪の毛がとっても柔らかいのは既に知っているからもう初対面ってのも変かな、ククククッ。あっ、そこのシンジ君。変な想像はしないように!君からアスカちゃんを取る気なんてないからねえククククッ!」

 アッヴェリィメッリ、クリィッスマァァス!アンドォ、アハッピニュッイヤー!などと歌いながらアイはテーブルに戻った。そんな少女に向かい、ヘタクソだ、と言いたげにオイデは顔をしかめた。

「変な子」

 そう言いながらも、アスカは笑みを浮かべるしかない。金色のスプーンでケーキを崩し口に運ぶ。生クリームの匂いが一杯に広がる。スポンジの部分は乾燥して粉っぽかった。その舌触りで、気になっていたことを突然思い出した。

「シンジ。あのケーキ、潰しちゃってゴメンね」

「何の事?」

 答えずに苺ごと頬張る。その甘味が、彼女の涙を止めた。

 

(10)

 

 男はその細い指をこめかみに当て、目の前の青年を一瞥した。青年は俯いていて表情は窺えないが、その姿を目にするのは心地よかった。

「全てこちらで処理する。そう言っていたのかね」

「正式な手続きについては、日本に戻ってから済ませるそうです」

「面倒だとは思わないかな?こちらに任せてもらえれば、戸籍の改定などすぐ終わるというのに。日本とドイツ、両政府に届け出が必要になるよ?」

「…彼女の望みです。そのぐらい、任せてあげてください」

 鼻を鳴らしながら頷く。男はこの青年に生理的嫌悪感と嫉妬心を覚えていた。それは初めて会った時からだ。愚かで、偽善的で、軟弱で、それでいて無礼極まる罵倒をしたことを忘れてこうして会いに来る無神経さ。それが許される若さ。

 何よりもかつては自分の手の内にあった飼い鳥を、今はかごの中に囲っているのだ。この青年を男は憎んでさえいる。

「それにしても伝言役まで仰せつかるとはね。余程あの子のことが気に入っているようだな、君は」

「僕から申し出たことです。こうなったら一刻も早くはっきりさせたい。そう言っていましたから」

「それなら、本人がもう一度ここに来ればいい」

 青年の顔が上がる。強張っている。睨み付けるその目に、男は余裕に満ちた笑みをかえした。何の威圧感も感じられない視線だ。

「前に言ったはずです。彼女には、二度と会わせません」

「そんな権利、君にあるとでも言うのかね?私はあの子の父親だ」

「分かりません。これは僕の気持ちです。それに、あなたは彼女の父親ではない」

 本当にくだらない奴だ、議論にもならない。男はそう思い指でこめかみを撫でた。

 客間は静かだった。昼下がり、外の通りで遊ぶ子供達の声が聞こえてくる。この笑い声は耳障りだ。何度怒鳴りつけたくなったか分からない。許されるなら尻を蹴り上げてやりたいくらいだ。それとも窓から植木鉢でも落としてやろうか?いや、ハサミがいいだろう。痛みに転げ回るその姿はさぞ愉快に違いない。

 この青年と二度と会うことはないと男は思っていた。それだけの打撃を与えた積もりでいた。充分に練り込んでいた演出に突然飛び込んできた人物ではあるが、適当な配役は与えてやった。愚かなピエロの役目をだ。

 忠実にその役をこなしたらしいことを知り、嗜虐心は満足させられた。しかし飼い鳥を奪われた妬みは消えることはない。

「それだけが、ここに来た理由かな?」

「いえ、尋ねたいことがあります。一つは彼女の実の父親についてです。ご存じではないのですか?」

「私には君の言う、実の父親という意味が分からないね。法的にも父親は完全に、私だよ」

「あなたは父親ではない。しばらくすれば法的にもそうなります。僕の言う父親とは、血を分けた人のことです」

 知らないね。唇を曲げて告げる。もちろん大方の予想はついているが、それを教える義務などない。そんなもの自体、男は何の意味などないと確信してもいる。

 しばらく無言が続いたが、無駄だと悟ると青年は落胆した表情を改め質問した。

「もう一つですが、僕にはどうしても分からない。なぜ、彼女にあんな仕打ちをしたんですか?」

「仕打ち?本当に失礼な男だな、君は。親子鑑定、もっとも明快で合理的な方法だよ。あの子の希望にも添うものだったはずだが」

「彼女が望んでいたことは、あなた達の責任でしょう。その望みをせめて素直に通させてあげればよかったではないですか。宣告する権利は彼女の側にあったはずです」

 また身勝手な主張だ。他人のためなどと思いながら自分の偽善を満足させたがっているだけだ。偽善とは要求と同質だということが分からないのだろうか?この青年には要求を突きつける権利など、微塵もない。

「君の言うことは本当に分からない。不明確にして愚劣極まる。過度に感情的だ。理解力も推察する能力も欠けている。世間一般の慣例や無意味なヒューマニズムに支配され本質が見えていないようだ。何度も言うが、私はあの子の父親なんだよ」

「あなたは彼女の父親じゃない」

 隣室から子供の泣き声が響いてきた。昼寝から目が覚めるといつもこうだ。それを止めるべき女は留守だ。代わりに枕でも押しつけて黙らせたいところだが、今はそうもいかない。男は泣き声から気を紛らわせるために講義を行うことにした。やや専門外の事も含まれるが、この愚かな生徒には充分だろう。

「理解できないだろうが教えてあげよう。親子の本質とは要するに、所有の関係だ。親は幼い子を養う必要がある。それはなぜだと思うかな?子供を所有しているからだ。子は親を満足させる義務が生じる。所有されているからだ。必要と、義務。この二つは明確に異なる。子供は親の希望に逆らうことは許されない。家族という枠組みを望む以上、当然のことだ。そして私はアスカの父親だ」

「あなたは、アスカの父親なんかじゃない!」

「私はアスカの父親だ。私はあの子の所有者だ。この言い方では分からないかね?では、こう考えたまえ。ペットを飼っているかね?何を飼っているかな?まあ、猫でも犬でも熱帯魚でもトカゲでも何でもいいのだが、ここでは小鳥とでもしておこう。そう言えば知っていたかい?アスカという名は、漢字で表すと飛ぶ鳥ということにもなるらしい。名付けたのは私ではない。しかし、私はアスカの父親だ」

「父親なんかじゃない!」

「小鳥を飼う時、普通は鳥かごに入れておくね。逃げられないためだね。そう、常にその行動を把握する必要がある。観賞物だからだ。小鳥は常にその役割に答える義務がある。かごの中という狭い世界で羽ばたき続ける義務がある。空を望む権利はない。その自由はない。当然だ。養われ、所有されているからだ。さて、かごという枠組みを家族に例えてみると良い。見えてくるだろ?飼い主、これは親に例えたまえ。はっきりしてくるじゃないか。私はアスカの父親だ。アスカは小鳥だ。飼い主は私だ」

 違う!青年が立ち上がる。全身を震わせている。眉間には数本の皺が刻まれている。醜い顔だ。

 無理解極まる態度だ。男はその低脳振りにやや呆れたが、笑みが絶えることはない。楽しいからだ。子供の泣き声が止んでいることに気がつく。そうだ、それでいい。この余興にお前の存在は、邪魔だ。

「何が違うのかね?分かるように、具体的に述べて欲しいな」

「あなたはアスカの父親じゃなかった。その役割を果たそうともしなかった。血の繋がりなんて問題じゃない。彼女が辛い状態に陥っていたことは知っていたはずだ。その原因は実の母親の死だけではない。あなたにもある。責任がある。償う義務を放棄したのは、あなただ!そんなの肉親でも何でもない!それなのに所有者だなんて……、普通じゃない!誰にもそんな権利なんかない!」

「償う義務だって?分からないな。私は具体的に述べてくれと言ったはずだよ」

 青年の腕が伸びる。胸ぐらを掴まれる。見かけに似合わない腕力に男の腰が浮き上がる。しかし、歪んだ笑みは消えない。

 楽しいからだ。予想通りの展開だからだ。

「無知で論理的でない人間は、最後に暴力に頼る。典型的だな。では尋ねるが、君はどうなんだね?私とは違うとでも言うのかね?」

「僕は、アスカを所有したいなんて思ってない」

「そう思っているだけだろう?そう認めるのが不愉快なだけだろう?くだらない倫理観に頼っているだけだろう?誤魔化しているだけだろう?同じなんだよ、君も私も。方法が偽善的であり、非合理的なだけだよ」

「僕は……、僕は、彼女のことを」

「その後に続けようとしている言葉は容易に予測がつく。しかし、頼むから発しないでくれたまえ。もっとも無意味な概念だし、それを持ち出したら議論にならないよ?よく言っておくが、そんなものは世界のどこにも存在しないんだ。紀元前の時代にはそんな概念はなかった。あの男が言い出すまではね。まあ、その後も同じだ。歴史を少しはかじってみたまえ。専門外の私にも理解できる。これは真理だ」

 強い衝撃と共に男の身体が仰向けに倒れた。青年は拳を握りしめていた。舌に苦い味を感じる。殴られるなど、いつ以来だろう?記憶をたぐるが、男には思い出せなかった。

 それにしても行動が予想しやすい奴だ。やや面白味にも欠ける。もっと支離滅裂な行動などで、楽しませて欲しいものだ。

「それを認めるのは正直言って不愉快極まるが、小鳥の今の飼い主は君だ。所有者は、君だ」

「違う」

「君はあの子の力になっているそうだな。世間一般の連中が見れば、感心することだろう。微笑ましいとも思うかも知れない。馬鹿な話だ。私は知っているんだよ?その見返りは、充分受けているかね?どんな形でかね?やはり、肉体でかね?美しいからなあ、今のあの子は」

 低い唸り声と共に青年の拳が叩き込まれた。頬を、鼻を、顎をとらえた。だが男は痛みには無感覚だ。いつからかは忘れたが、そうする術を体得している。神経からの伝達を意識の底に沈殿させるのだ。

 肉体的な痛覚を克服すると、それを強いるものが愚かしく見えて仕方がなくなる。思考には混乱はなく恐れもない。かえって澄み切っている。この愚かしく無駄な行為をもっと行え。そして後になってそれに気づき、自己嫌悪に陥るがいい。

「…フフッ。感情にまかせて他人を傷つけるのはどんな気分かね?」

「黙れ」

「君はそれをあの子にすることも許されている。もっとも、今では無意味なほど抵抗の術を知っていて不可能だろうが。私は利益を充分に得たが、ネルフにあの子を提供したのは若干失策だったかな。かごから逃げ出す機会を与えてしまった」

「何だって?」

「提供だよ。あの子は選ばれたなどと、まだ思っているかも知れない。しかし事実はね、提供に過ぎなかったんだよ。あの子の事だけではないがね」

「どういうことだ?」

「本当に、分からない男だな。まあ、この話は大して重要じゃない。機会があれば君の父親にでも聞けばいい。さて、もう一つ教えてあげようか。君と私には一つ明確な差がある。それは君が知っているあの子の事と、私が知っているあの子の事。その違いだ」

 唇の辺りに液体の感触を感じたので拭う。血だが、それに対しても男は大した感慨は抱かない。ただ、赤い色というのはどうも好きにはなれない。その一点すら前妻とは相容れなかった。それを考えれば、ああいう結果になったのも当然だ。

「君はあの子の事をどこまで把握しているかな?知り合って五年になるはずだね?どこまで観賞したかな?しかし、君の知らない事もある。十四歳以前の事については特に不明確ではないかな?」

「アスカは、僕に辛いことも話してくれた」

「それで全てかな?あの子は女性なんだよ?特に君が相手となれば、離しづらい事もあるだろう。それが何を意味するのか分かるかな?結論から言うと、法的にあの子との間が無関係になったとしても、私は父親であり続けるんだよ。飼い主であり続けるんだよ。君以上のね」

「何を言いたいのか、分からない」

「記憶の消去は可能だと思うかな?薄れることはあるが、完全には不可能だよ。私はね、あの子に、与えて、やった、のだよ。私という、父親の、存在を、消去、不可能な、記憶を、ね。今回の、演出も、それだよ。理不尽、にも、あの子が、消去を、望んだとしてもそれは、不可能だ。私は、あの子の記憶の中に存在し続ける生涯に渡ってだ素晴らしいだろ?父親としてはこれは完全だ」

「アスカに、酷いことをしたんだな!」

「酷いこと?何のことか分からないが君も同じだろう?君もそうしたがっているのだろう?それが所有でなくて何になる?君も同じだ」

 再び振るわれる拳。よく飽きないものだ。そこまで突き動かすものは、一体なんだ?男には理解が出来なかった。それを考えると顔中の痛みを憶えてしまうことに気付く。

 しかし、私に分からないことなど、あるわけがない。この青年の事など、全て把握は可能だ。考えてみよう。それは何だ?

「僕に何が出来るかは分からない。何も出来ないかも知れない。でも、あなたの存在なんか、アスカは忘れ去ることが出来るはずだ、いつかは」

「無理だよ」

 しかし、それは何だ?

「無理じゃない!」

「無理だよ。証拠を示そうか?私はねあの子が八歳ぐらいの時にああよく憶えているよ、身が震えるよ心地よい日々だったからなあ」

 これは苦痛だ。この展開は予想外だ。顔面が痛い。無意味な行為だというのに、この痛みはかなりのものだ。これほどのものを与えられるとは、なぜだ?この脆弱にしか見えない青年の力は、何だ?

「聞きたくない!知る必要なんてない!」

「ハハハハッハァ!知るのが恐いんだね君には、到底受け入れられないだろうなあそれでいい。その差こそが決定的なものだから示してあげよう、私は、あの子をあの小鳥を」

 男は言葉を続けられなかった。今までにない、強い衝撃を顔面に受けたからだ。骨の軋みが脳を直接震わせた。

 焦点の合わない視界の中、青年が部屋を出ていくのが見えた。涙を浮かべていた。私の勝利だ、そのはずだ。そう男は確信するが、例の答えが導き出せない。それが唯一不満だった。

 青年の姿が消えると、代わりによく知っている気配を感じた。現在手にしている飼い鳥の気配だ。激痛が走り回る顔を上げてみる。やはり自分の子供だった。ドアを半分開けてこちらを覗き込んでいる。

「お前に、分かるはずもないが、答えてごらん。あの力は何だと思うかな?」

 幼女は黙ったままだ。感情のこもらない瞳を、倒れ伏す父親に向けているだけであった。

 男は笑い声でそれに応えた。ただ、笑い続けた。

 

 拳の痛みを堪えながら、シンジは俯いている。そんな彼を乗せたステーション・ワゴンは完全な等速度で通りを走り抜ける。

「…許せなかったんだ、知るのも怖かったんだ」

 指の関節の辺りの皮膚が破れ、血が滲んでいる。傷口に涙が落ちるたびに彼の身が震える。

「無駄な事だって分かっていたのに。殴ったって、惨めになるだけだって分かっていたのに」

 運転する男はただ前方を見つめている。力の無い瞳はミラー越しにもシンジの方に向くことはない。それにも構わず呟き続ける。

「何も出来なかった。あんなの制裁なんかじゃない。彼女の過去の真実を知ることを、誤魔化しただけなんだ。怖かったんだ……、僕はただあの男が」

 ナクナ。

 その妙な発音の日本語に、シンジは顔を上げる。涙は止まってはいないが、表情には驚きが宿っていた.この男が自分に向かい語りかけたのは、これが初めてだ。

「ナクナ。マチガッテイナイノナラ、ナクナ」

 ハンドルを切りながら、オイデはしゃがれた言葉を続けた。その言葉に感謝はしたが、納得したわけではない。だがシンジはその通りにした。

 潤んだ視界に、旅行鞄を手にしたアスカの姿が現れたからだ。横に立つ少女が語り掛けているが、アスカはあからさまに面倒くさげにそれを聞き流している。

 ワゴンが止まり、彼女がこちらに視線を向けた時には涙を拭いきっていた。アスカの前では、もう絶対に泣かない。シンジはずいぶん前にそう決めていた。

「どうしたの?目、赤いよ」

「何でもないよ」

「あたしたち待たせてどこ行ってたのよ。この子の相手、独りじゃ疲れて仕方なかったわよ」

 ひっどいなあ。身をよじらせながら声を張り上げるアイに、しかめっ面でアスカは応えた。そんな姿に微笑みながら、黙ってあの男に会いに行ったことは話さないでおこう、とシンジは改めて決めた。その必要はないはずだ。

 ドアを開けて、彼女を座席に迎え入れた。

「行こう。君のお母さんの所に」

「縁起が悪い言い方ね。正確には、ママの眠る所によ」

 いやあ、こんな大人数で旅行なんてアイ初めてだよ。楽しみだなあ。あっ、トランプとポケゲーあるよ。アスカちゃん、後でやらない?

「そのアスカちゃんっていうの、いい加減やめてよね!」

 助手席に座るアイに身を乗り出して怒鳴りつける彼女の姿に、シンジは少しだけ救われる思いだった。

 アスカは、飼い鳥なんかじゃない。

 その確信は揺らぐことはない。ただ、目の奥に再びわき起こる熱を、彼は抑えつけなくてはならなかった。

 

<続く>

 


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