『 A bird is flying 』

 

 

 

[第四章]

 

 

 

(11)

 

 細い指が何度も左右に巡る。摘もうとしては震え、躊躇いと共に引っ込む。もう一分半程そんな単純な動作の繰り返しだった。

「迷っても仕方ないよ」

「うるさい!迷ってるんじゃなくて考えてんのよ!」

 指先で額を軽く叩きながら自分に言い聞かせる。落ち着け、集中しろ。苛立ってはいけない。そうなったら相手の思う壺だ。

 目の前の艶やかなそれを再び凝視する。高校に入学した頃から、顔立ちも少しずつ変化してきている。今の彼女は以前に比べると、若干切れ長気味の目だ。そのせいもあるが真剣な顔をすると大抵、他人は怒っているのかと勘違いするのが常だ。

 もっとも、今は激怒寸前ではあるが。

「…落ち着けよ。たかがさ」

「トランプよ!ババぬきなのよ!こんなもので負けっ放しなんて許せないわ!」

「連戦連敗だものねえ、ククククッ」

 車の振動のせいなのか、それともわざとなのか、二枚のカードはゆらゆらと揺れる。表面には無数の星のマークが印刷されている。もうどのくらい、この模様を目にしていることだろう。

 星。最近は、見上げることが多い。夜空というのは奇妙なものだ。何時間と眺めていても結構飽きがこない。一時期孤独な夜に耐えられず、飲酒癖がついたことがあった。意識することのなかった天空の美しさに目を向け始めた頃から、その悪癖は薄らいでいった。

 流れ星、いくつ見つけたことだろう?いくつ願い事をしたかな?そのうちいくつが、かなったのだろう?今夜見つけたら何を願おう。

「だからあ、迷っても仕方ないってば」

 ホントうるさい子ね!考えてるのよ!二者択一、この程度で迷うものか。

 星。星か……。星と言えば星条旗。ずいぶん前に間近で見た記憶がある。あれはいつだったか?そう、確か船の上。青い国連旗の下で、はためいていた。

 大きい船だった。船と言うより軍艦よね。油臭かったけど風は気持ちよかったな。海も空も真っ青だったし加持さんも、一緒だった。アイツとも初めてそこで出会った。そう、あたしにとっては思い出の、あの船の名前は……。

 ち、違う!アメリカなんて今はどうでもいい!それにここはドイツだ!

「いい加減引きなよ」

「分かってるわよ!」

 角を摘み取り上げる。裏返した瞬間、目眩がした。指先が震える。三角帽をかぶった醜悪なピエロが、思いっきり唇をひん曲げて小馬鹿にしていた。

「ククククッ!当たりい!アスカちゃん、十連敗!」

 眉をつり上げ、ジョーカーのカードをシートに叩き付ける。勢いがなく、全く迫力はない。

「シ、シンジのせいだからね……」

「どうして?」

「焦らせるからよ!あんたまで何ニヤついてるのよ!」

 睨み付けると、確かに彼は笑みを浮かべていた。だが少しも嫌味めいたものではない。それに気がつくと、この場のペースにはまっていたことをはっきり感じ、気恥ずかしくなった。

 白けた顔を装いアスカはそっぽを向く。ただこの気怠い疲労感は、決して嫌なものではなかった。

「飽きたわよ」

「うんうん、じゃあポケゲーやろうよ」

「シンジとでもやれば?」

「僕は駄目だ。すぐ車に酔うから」

 手渡された携帯通信ゲーム機の画面に目を向ける。ありがちな格闘ゲームだ。この種のゲームは得意のうちなのだが、アイには全く敵わない。的確に隙を突かれ、こちらの攻撃は完璧に防御される。嫌でも夢中になる。カー・ラジオから流れる音楽も、それに合わせるオイデのハミングも、鬱陶しかった。

『 僕らは歩き続け 日が照りつける砂漠に至る 子供達が水を売っている 

  君がユーロ貨幣を見せると 彼らは嘲笑と共に瓶を投げつけた

  ぶちまけられた水にトカゲが群がる トカゲは黄色 子供達の肌は褐色

  乾ききった唇で君は哀願したんだ 愛してる 愛してる 愛してる 

  そう開かれる唇は朱色 涙を流す瞳は青色 願いが通じることは無い  』

 数分もたたぬうちに勝負はついてしまった。屈辱的な結果には頭に来るが、この少女のことは嫌いではない。母の故郷、ニュルンベルクへの旅。知り合って間もない男女が、旅の道連れになることを受け入れたのはそのためだ。

 自分たちもその先に用があると、車への同乗を誘ったのはアイだ。オイデが八年ぶりに帰郷するとのことだった。そのどこか虚ろな姿からも、パンク・ロックのボーカリストという肩書きからも、帰郷とはあまり相応しい感じではない。

 二人とも自分の周りには居なかったタイプの人物だ。興味を引かれる部分がないわけでもない。何よりも、今のアスカは他人に対する第一印象というものを、あまり信用しなくなっている。それ程あてにならないことを知ったからだ。その一番の良例は、常に身近に居る。

 もっともこの相手の場合、どちらかと言えばその急激な変化に、印象を改めざろう得なかったというのが本当のところだ。外見だけでも今のシンジは、冴えない男とは言えない。

「あんたって、ゲームばっかりやってるんでしょ」

 苦虫を潰しながら、悔し紛れに精一杯の皮肉を効かせる。それにもアイの笑顔は絶えることはなかった。

「うーん、どっだろね」

「それはアスカだ。いつも僕をゲーセンに引っ張りこむだろ?」

「いちいちうるさい。あたしはこの子に聞いてるの」

 ニコニコと笑みを浮かべながら、アイの人差し指が顔の右横に立てられた。そして関節が曲げられ、こめかみを示す。

「きっとね、これのせいだよ」

 そこにはミミズのような傷跡が這っている。

「目立つ?」

「そんなことないよ」

 言葉に詰まっていると、慌てたようにシンジが代わりに答えた。

 同性として触れるべきことではないと思っていたが、気にはなっていた。自分も全身のあちらこちらに傷が残っている。胸の谷間のそれは特に大きい。その理由も、その数さえもよく知っているシンジでさえ、未だに気を使う。やはり目にされるのは良い気分ではない。

「ねえ、どうしてこうなっちゃたか、知りたい?」

「…別にいいわよ。あんたのことだから、転んだかなんかでしょ」

「あのね、私ね」

「ちょっと、いいって言ってるでしょ?」

 こめかみから指が離される。真上に上がり、開かれたサンルーフに向かって腕が伸ばされた。つられて視線を上げる。青い空を雲が流れて行く。太陽は真上だ。

「私、あの向こうから来た人達に連れて行かれたこと、あるよ」

「何それ?」

 エイリアンにだよお。

 ゆっくりと腕を下ろしアイは言った。どうして分かんないかなあ、といった感じの口振りだった。その表情は、どこかぼんやりとした笑顔だ。

 ラジオが切られ、オイデのハミングも止まっていた。

 

 よく憶えてないけど、たしか去年の事だったと思うんだよね。

 夏休み、あっ、夏も何もないけど、とにかくドイツに留学していたお兄ちゃんに会いに来たのね。お兄ちゃん、絵がとってもうまくてさ。絵描きになるのが夢だったんだ。だけど変な絵ばっかり描いてるもんだから、日本の学校じゃあ認めてもらえなかったの、気味悪がられちゃって。

 まったくもう、ホントにもう。そりゃ気味悪いったらないよ確かに。口からバラの花が生えた猫がもがいてる姿だとか、アイスピックが身体中に突き刺さってる象だとか、生ける屍達がエベレストの頂上で踊り踊ってる姿とか、地球と月の間、確かラグランジュ・ポイントとか言ってたかな?そこに唇だけの綺麗な天使がいっぱい飛んでる絵とかそんなのばっかし。

 お兄ちゃん、私の事とっても可愛がってくれてたの。どうしてかは忘れちゃったけど父さんと母さんがいなくなってからも世話してくれた。六歳も歳が離れているのにさあ、一緒にお風呂も入ってくれたしねえ。

 アイ、日本じゃ俺はもう見えないんだよ。何が?って聞いたら、空も月も星も太陽も花も海も鳥も魚も猫も犬もドブネズミも、クツワムシさえも、何もかもがまともに見えないんだって。

 見える物は目玉ばかりだ。いつもいつもそこら中にくっついている。天井、スピーカー、赤信号、ペットボトル、看板、CD、ハイヒール。どこにでもさ。誰もがみんな無関心な顔してるくせに失礼にも窺ってやがる。ギョロギョロギョロギョロ血走っていやがるんだふざけるな!分かるかい?もうこんな所じゃあ、絵が描けないんだよ。俺、目玉なんて描きたくないからさ。

 ミョーなところいっぱいあったけれどお兄ちゃんのこと、大好きだった。私、ウキウキしながらドイツまで来たのね。一年ぶりの再会ってやつ?

 空港まで迎えに来てくれたの。何か高そうな車乗って横にはとっても綺麗な、あっ、アスカちゃんほどじゃなかったけどね、女の人座ってたの。お前降りろよ!なんて叫んで、嫌がってるその人殴っちゃうんだもの。ビックリしちゃった。

 ベルリンからすぐに離れてどんどん山の方に行くじゃない。どこ行くの?って聞いたら山荘を借りて住んでるんだって。絵が売れるんだね、そう言ったら、いやそうじゃないって首を振るの。

 変なんだよ、アイ。俺の絵になんか誰も見向きしない。ここでも同じさ。だけど、大学のつまらん知り合いから貰ってる粉を一回あげると、どいつもこいつも今度は買いに来るんだ。どんな値段でも涙流して鼻水垂らして欲しがりやがる。くだらないよな、ホント。金が貯まって使い道困ってるよ。お前にもやろうか?

 私、砂糖なんていらないよ。そう答えたら笑って、だからお前は好きなんだよって言ってくれたの。そう言われたら誰だって嬉しいよねえ、好きだって言われたらねえククククッ!あれ?シンジ君、何渋い顔してるの?

 森の中に山荘があった。男の人と女の人、四、五人いたの。そこでさ、オイデにも会ったんだよね。やっぱりギターを持って独りでブツブツ歌ってた。

 友達なの?そう聞いたら、あいつは違うって顔をしかめてお兄ちゃんは言ってた。すぐにどこか行っちゃったしね。ねえオイデ、お兄ちゃんのこと嫌いだったの?あっ、こっち向かなくていいよ、事故っちゃうから。

 焼いた魚だとかピザだとか食べて、薬みたいな味のジュース飲んで、疲れてたのかな?何だか眠くなっちゃってフラフラしてね、すぐに二階の部屋で寝たのね。えっと、多分零時過ぎだったかな。外から急に光が射し込んできて目が覚めたの。

 カーテン閉め忘れたのかな。窓に顔を寄せて外覗き込んでみたら昼間みたいに明るいじゃない。でも何の光だろ?そうしたら、スーッと上から何か降りてきた。

 細い、足も腕もとっても細くて私よりもっと小さい人。でも人じゃないんだよね、大きい目でさあ、瞳も無くて真っ黒。何か蜂の目みたいだったよつやつや輝いてて。肌が灰色で鱗みたいなの見えたし。私のこと、じっと見つめてねえ、視線なんか分からなかったけどね。

 恐かったか?そりゃ恐いってば。すぐお兄ちゃん呼びに部屋から出ようとしたんだけど、扉が勝手に開くじゃない。

 煙がモクモク入ってきて光も射し込んできて、火事だあ!って叫びながら廊下に出たの。そしたら廊下中、小人でいっぱい!大きい黒い目でいっぱい!

 恐がることないよ、アイ。お兄ちゃん、小人の真ん中でニコニコ笑いながら立ってたの。連れて行ってくれるんだ、アイ。目玉なんかない、誰も彼も失礼にも窺ったりしない、粉なんかどこにもありゃしない所に、こいつら連れて行ってくれるらしいよ。なあ、お前も行くよな?

 お兄ちゃんがそう言うんだから、私、ついていくことにしたのね。

 外に出た。光が真上から射してた。見上げると、大きな銀色の円盤が浮かんでた。ぐるぐるぐるぐる回ってて、ああっ!これってもしかして!そう思う間もなく目が回っちゃったの。

 知ってる?空に浮くとさあ、気持ちいいんだよねえ。何か身体が溶けちゃうみたいで。

 知ってる?あの小人達ってさ、刃物なんか使わないんだよ。指でスーッと撫でられただけで私のこめかみ、切れちゃった。血がぴゅーって噴き出したけど痛くなくてねえ。スーツ着てサングラスかけた男の人達が慌てて拭いてくれたけど、気持ちいいくらいでねえククククッ!

 知ってる?私のこめかみに、何か埋め込まれてるの。それのせいで、アスカちゃんがムカつきながらもどっちのカード引こうか迷っていることとか、シンジ君がアスカちゃんのことをとっても大事に思っていることとか、オイデがギターで誰かの頭ぶん殴りたいって思ってることとか分かっちゃうの。

 妙な気分なんだよね。境目なんてありゃしない。お陰でアスカちゃんやシンジ君とお友達になれたからいいけどね。オイデとも知り合えたし。

 だけど、お兄ちゃんは消えちゃったの、その時から。どこ行っちゃったんだろう?やっぱりあの小人達と、どこかの星にでも行ったのかな?そこで絵を描いているのかな?

 今度は喜んでもらえると、いいねえ。いいよね?そう思うよね?

 

 身が離される。夜の冷たい空気を胸元に感じ、ほのかな暖かみが失せてゆく。

 胸に毛布が静かに掛け直されたが、その心遣いには意味がない。彼はずっと目を覚ましていた。

「どこに行くの?」

「トイレ」

 目を閉じずに彼女を待つ。客室には何の装飾もない。外からネオンの光が射し込んでいるが、目立つ物と言えば壁のポスターだけだ。ポスターは、古いSF映画のものだった。じっとそちらに目を配る。青い地球の上に、『I WANT TO BELIEVE』と文字が書かれていた。

 頭の中で秒数を数える。326秒を過ぎた辺りではっきりしなくなる。シンジは身を起こして、テーブルの上に置かれた腕時計を手にした。鉛色の秒針が時を刻んでいた。もともと軍用の物だから狂いはほとんど生じない。

 安かったからよ。プレゼントされた時、感謝の言葉に対して彼女は素っ気なくそう答えた。

 五分後、ベットから離れた。廊下の共同トイレに彼女の姿はなかった。モーテルの出口に向かう。年老いた従業員は深夜のポルノ映画に夢中で、玄関を出てゆく客に気付くことはなかった。低い音量で、女の喘ぎ声が聞こえた。

 外へ出る。建物の裏側へ回る。空き地が広がっていた。アスカは、放置された大型トラックのタイヤに座り、夜空を見上げていた。横に腰掛けたが視線は動かない。

「眠れない」

「アイちゃんが話していた事のせいとか?」

「まさか。気味は悪かったけど、あんなの信じられる?」

「どうかな。奇妙な物なら色々見たじゃないか。だから今は、何でも信じられそうだよ」

 星は多いが瞬きは少ない。明日も晴天だろう。やはり外気は冷たかったので、持ってきた上着を彼女の肩に掛けてあげた。一瞬、そのなだらかな線が強張る。

 上着の襟元を右手で軽く掴むと、アスカは言った。

「さっきは悪かったわね」

「何が?」

「そういう気遣いはやめて。意味無いわよ」

 きりきりと虫の音が聞こえている。広い空き地を草が覆い、冷たい風にそよぐ。所々に転がるコンクリートの破片が月明かりに白く輝いている。ドイツの気候は春と言うよりも、初秋のそれに近い。

 黙っていると、彼女は夜空から視線を下ろした。

「あんたって、ずいぶん無口になったわね。もともとお喋りな方じゃなかったけど」

「そうかな」

「無口と言うより、あたしが何か言っても無理に言葉を探さない。意識してそうしてるの?」

「違うよ」

 シンジは高校のクラスの中でも、あまり喋る方ではない。男女とも友人は何人かいるが、自分から話題をふることはほとんど無い。それでも常に微笑みながら話を聞いているから、周りの人々は聞き上手なのだと思っているようだ。

 本当は違う。僅かながらも本音を語り合える相手は、アスカぐらいなのだ。それすら、限られたものではあるのだが。

「意識してるわけじゃないさ」

「そう。でも、そっちから求めようとしないのは、そうなんでしょ?」

「……」

「自分の方から求めたくせに、またシンジのこと拒んだ。殴っちゃったしね、前に一度」

 頬を張り、覆い被さる身体を押しのけた後、アスカはトイレに駆け込み嘔吐した。その時の事は憶えている。だから確かに意識はしている。それ以来一度も、自分の方から行為を求めたことはない。逆に求められればどんな時でも、疲れ切っている時でも、彼はそれを受け入れる。

「それでいて、一日中側に居ろって強要することあるし。高二の終わりの頃、お互い出席日数危なくなったものね」

 シンジの手が軽く握られては開かれる。その癖はずっと以前からのものだ。握る度にその掌だけが、微かな熱を帯びる。

「面倒な女でしょ?あたしって。原因は、今なら何となく想像着くけど」

「……」

「何とか言いなさいよ」

 空き地の向こうに伸びるアウトバーンを、リムジンが通過していった。必要もないのにクラクションを鳴り響かせた。目でそれを追い続ける。無意味な逃避だということは分かっている。そしてアスカは、それを許さない。

「何とか言いなさいよ!」

「アスカ、僕は常にそれを望んでいるわけじゃない」

「嘘ね」

「こんな言い方はしたくないけど、別に不満なんて感じていないんだ」

「あたし前に言ったよね。あんたのこと、嫌な時は嫌だって思えるって。今のシンジがそれよ。今さら非難する積もりなんてない。だけど、あたしが何も知らないとでも思ってるの?」

 顔が歪むのをシンジは必死に押さえようとしていた。しかし憤りは、はっきりと感じてしまう。君は知らない。そう思っているだけだ。知られたくもない。そう叫びたかった。

 欲望がないわけではない。時としてそれは、暴力的ですらある。想像の中で何度犯し、苛んでしまったことか分からない。そんな夜が明けた朝食の席では、彼女の顔をまともに見ることにすら罪悪感が湧いてしまう。誰かに言われるまでもなく、結局自分は偽善者に過ぎないのではないかと、疑うことにもなる。

 では、どうすればいい?僕にどうしろと言うんだ?そんなことが出来るわけが無い。傷つけたくないんだ。そう思うのは、間違っているのか?

 無言が続く。俯く彼の姿をアスカはじっと見ていたが、やがて顔を背けて立ち上がる。肩に掛けられた上着が地面に落ちた。白い砂ぼこりが立つ。

「シンジが悪いわけじゃない。あたしが悪いのよね」

 肩に指先の感触を感じたが、それはすぐに消えた。アスカは呟いた。

「でも、今みたいなシンジは、嫌い」

 踏み出したヒールのつま先が空き缶を掠める。溜まっていた泥水がコンクリートの路面を濡らした。君は間違ってなんかいない。そう言いたかったが、乾いた唇がそれを許さない。水が飲みたい。

 独りこの場に残されると、微かな風が頬に凍みた。しばらくして上着を手にし、シンジは腰を上げた。部屋に戻る勇気が湧かず立ち尽くした。

 空を見上げる。視界を光の線が横切る。流星だ。その光が消え去った後も視線を下ろせなかった。そのまま、空き地の真ん中へと歩みを進める。アウトバーンぞいに立ち並ぶ白銀灯の輝きが暖かく思えた。

 今日は嫌なことが多すぎた、明日には良いことがありますように。口から微かに漏れる白い息を見つめながら、彼はそう願った。

 

「最低よ」

 客室のベットに腰掛けながらアスカは呟く。最低だと思っているのはシンジのことではなかった。彼は彼なりに、自分の事を考えてくれている。昔のような単なる逃げなどではない。それはよく分かっているのに、苛立ちをぶつけることしかできなかった。

 シンジの気持ちに応えられない。その方法も分からない。それは未だに過去に縛られている事が、主な原因だ。苛立ちは、自分自身に対するものだ。どうしようもない無力感から来るものだった。

 胸の辺りに軽く痛みが疼いている。古傷のほとんどは既に何の感触も起こさせない。しかし湿気が多い日などは、胸の谷間に残るそれだけは、思い出したように痛覚が生じる。その度に嫌でも思い知らされる。

 傷だらけだ。自分は、傷だらけだ。そう改めて思い微笑むが、それは自虐的な笑みでしかない。

 右手で顔を覆い、片目で壁のポスターを見る。I WANT TO BELIEVE.その文字だけが読みとれる。しかし、何を信じろと言うのだろう?信じるべきもの、それは何なのだろうか?

 ぼんやりとその答えを探しながら待ち続ける。シンジは戻ってこない。このまま消え去るなどという事はないだろう。確信と言うより、今はそう信じたかった。

 しかし、ここ数日の自分は、以前のそれに戻りつつあるようにも感じていた。マイナス思考に足を取られ、もがき、脱したかと思えば再び泥沼へと入る。その繰り返しだ。結局、自分は根本的には、何も変化していないかもしれない。不安と言うよりもそれは、アスカにとって絶望にさえ通じるものだ。

 どのくらいそうしていただろう。突然、悲鳴にも似た叫び声が聞こえた。弾かれたように立ち上がると、彼女は部屋を出た。悲鳴は続く。外からではない。隣室からのものだった。アイとオイデが泊まる部屋だ。

 ドアに歩み寄ると、僅かに開いていた。やや迷ってから中を窺う。室内は暗い。月明かりに照らされ浮かび上がっているものは、あの二人の姿だけだ。

「大丈夫だよ。オイデは悪くないよ」

 アイは、呻きながら身を震わすオイデを抱きしめていた。はっきりとは窺えないが、少女の表情は慈しみに満ちているようだった。二人とも全裸で、月の発する青い光にその肌が染まっていた。

「オイデは悪くないよ。悪くないんだよ」

 言葉が繰り返される。それにオイデは、嗄れた低い声で呟くだけだ。ドイツ語だった。その呟きの意味を理解すると、アスカは二人から目を背けてその場を離れた。彼の背中に無数の傷跡があるのを、彼女は確かに目にした。

 隣室からは呻き声が続く。ベットに横になり枕に顔を預ける。急速に眠気が押し寄せてきた。それに身を任せながら、自分はあの子のようにシンジを抱きしめられるのだろうかと、彼女は考えていた。

 

(12)

 

 ニュルンベルクの街は霧に覆われていた。空は青く太陽も出ていたが、その朝日は蒸気を透過して弱々しかった。

「お別れだねえ」

 アイはそう言って前髪をかき上げる。言葉に似合わず、少女はいつもの朗らかな笑みを浮かべている。

「世話になったね」

「そんなことないよ。シンジ君もアスカちゃんも、面白かった」

「そのちゃんづけ、結局やめなかったわね」

「だって可愛いんだもの。ククククッ」

 青色のステーションワゴンは、アイドリング状態のまま道路脇に止められていた。洗車もろくにしないのか表面の光沢はくすんでいる。それを気にすることもなく、アイは背中をボディに預けている。

 後部座席の後ろには古びたギターが置かれている。表面には擦れた傷跡が目立っている。車の反対側に立つオイデの表情は、ここからでは窺えない。

「彼にも礼を言いたいんだ」

「前にも言ったよね。それはやめた方がいいよ。苦手だから、そういうの」

 そう言ってニンマリと笑うと、アイは助手席のドアを開ける。オイデの姿は既に運転席にあった。その力無い灰色の瞳はやはり、こちらに向くことはない。

「あっ、いっけない。忘れるところだったよ」

 そう言ってウインドを開けると、少女は身を乗り出した。

「これ、受け取ってくれないかな」

 細い指で摘まれているのはDATのカセットテープだった。

「オイデの歌。デモテープだけど、役に立たなかったから捨てるって。それくらいなら君たちにあげるよ」

 むき出しのカセットテープは青く透明だった。ラベルには何も書かれていない。シンジがそれを受け取ると、嬉しそうにアイは何度も頷く。

「いつかどこかで、またね」

 その言葉に、旅行鞄を置くとアスカは背を曲げてアイに語りかける。

「一つ聞くけど、彼のこと、好きなの?」

「オイデ?もちろん!」

「そう……。でも大丈夫?」

「大丈夫だってば。オイデは大丈夫。私も大丈夫。シンジ君も大丈夫。アスカちゃんも、大丈夫だよ」

 身を離すと、車は急発進した。アイが何度もこちらに手を振っている。霧の中に消えてゆく少女の微笑みを二人は見つめ続ける。クラクションが一度だけ響き、青いワゴンは白い壁の向こうにその姿を消し去った。

「殺してやる、か……」

「えっ?」

「俺は奴を殺す、絶対に。彼がそう言ってたの」

 背を向けてアスカは歩き出す。揺れる長い後ろ髪は、霧に微かに濡れて光沢を増していた。

「嫌な言葉よね」

 シンジは霧の向こうを見つめ続ける。野良犬がふらふらと通りを横切る。10メートル程先まで歩いた城壁の横で、アスカは立ち止まり振り返った。

「こら。何をボサッとしてるのよ。その鞄、あんたが持つのよ。約束したでしょ?」

 あからさまに不愉快そうな顔だった。彼は口元を緩めてそれに従う。

 霧が晴れつつある。

 

 通りの脇に位置するカフェテリア。店の前に置かれたテーブルで、シンジは遅い朝食を取っていた。

 ロールパンと炭火で焼いたソーセージと、ポテトサラダにチーズ。口に含むコーヒーはやや冷めかけている。テーブルの片側に置かれた料理には、まったく手がつけられていない。鳥の囀りに視線を上げると、木々の隙間に円形の塔が伸びていた。カイザーブルクの城塞跡はこの近くにある。

 正面には木製の電話ボックスが見える。受話器を手にしたアスカの姿がその中にある。朱色のリボンで纏められた長い髪が、時折左右に揺らめく。

 邪魔になることないのかな?時々そう感じるが口には出さない。そう言われたところでどうすることもないだろう。しかし万が一、切られてしまったら残念だ。シンジは彼女の栗色の髪が好きだ。初めて出会った時も、その輝きに目を奪われた記憶がある。

 美容院って、退屈なのよね。いつだったか、髪を伸ばしている理由を彼女はその一言で表していた。

 電話ボックスの扉が開かれる。握り拳で軽く肩を叩きながら、向かい側の席に腰掛ける。その表情には心配していたような陰りはない。

「またもやこんなメニュー!?慣れ親しんでいた物とは言え、いい加減飽きがくるわね」

 不満げな表情でパンを囓る。ニスが幾重にも塗られたオーク材のテーブルの表面に、白い屑が落ちる。それに気付かぬのか、アスカは肘をつき掌で頬を支えた。

「シンジが作る和食が懐かしくなるわよ」

「それで、実家の人は何だって?」

「歓迎ムードって感じだった。ママの葬儀の時に一度会ったらしいけど、叔母の顔なんて、あたし憶えてないのよね」

 そう答えてコーヒーを口にする。相も変わらず大きな音を立てながらすする。隣の席に座る中年太りの男が、それに顔をしかめて新聞に目を移した。

 中央アジアの紛争が激化。国連軍の空軍部隊、初の爆撃。キャンベラの国連軍本部が、地上軍の展開と陽電子砲の投入を検討中。ロシア、中国、インドシナ諸国連合の代表はこれに強く反対。合衆国代表はオーロラ偵察機が収集したデータを元に、紛争当事者の核使用の可能性を示唆し対抗の模様。

 ミサトさんの帰国、延期にならなければいいけど。たどたどしくも読みとれる新聞の記事に、ぼんやりとそう思った。

「夕方には訪ねる。そう言っておいたわ」

「お母さんの墓がある所、そんなに遠いのか?」

「すぐ近くの教会よ。ドイツまで来たのに、観光どころじゃなかったでしょ?いいんじゃない、たまにはそうゆうのも」

 食事を済ませると、二人は街並みに見え隠れする尖塔を目指して歩き出す。柔らかに差し込む午前の日の光に、その煉瓦造りの塔は黄色く照らされていた。

 家族に関連する単語が絡むと、自分も彼女もあまり良い思い出はない。二人とも母親は既に居ない。父親も、今となっては両方とも行方知れずだ。アスカが親戚に会うのは幼少の時以来らしいが、シンジとてそんな人々は居ないに等しかった。

 姉のような存在は居る。葛城ミサトだ。しかし、やはり彼女は他人だ。かつては上司と部下の関係であったし、一時的だが、シンジはミサトに異性を意識したこともある。それとは別の意味でだが、アスカも同じように彼女の存在を受け止めているだろう。

 アスカも違うな。やや先を歩く後ろ姿を見ながら彼はそう思った。緑色の長いスカートを靡かせるその姿は、家族と呼ぶには眩しすぎる。ただ、そうなれれば間違いなく嬉しい。ごく稀にだが、それを願う自分に気付く事が最近はある。

「アスカ」

「何よ」

 振り向かれると、とんでもないことを口走りそうになっていたのを思い知った。この願いをかなえる方法は一つだけだが、まだ十代ということからも、それにはあまりに現実味がない。不審そうな目つきに慌てて口をつぐむ。

「だから何よ」

「そ、その、まだ歩くのかい?」

「はあ?あんたってそこまで軟弱だったの?だからすぐそこの教会よ。言っておくけど、荷物は絶対に、持たないからね」

 ニュルンベルクの街の中心からやや北側に、聖ゼバルドゥス教会はそびえ立っていた。黄色い煉瓦の壁と赤土色の屋根。鋭い尖塔。ゴシック様式の建築物には、この国特有の機能美は感じられるが、教会と呼ぶには威圧的ですらある。

 庭には緑の葉をいっぱいに被った木立が並んでいた。開け放たれた教会の入り口からは、パイプオルガンの音色と共に賛美歌が流れてくる。ミサの真っ最中のようだ。

 その美しい声楽には、アスカはあまり興味がそそられないようだった。木の葉の合間から望める空に目を向け歩き続ける。彼女にカソリックやプロテスタントの信仰心があるのかどうか、シンジは知らない。

 教会の裏手に回ると広い敷地に墓石が立ち並んでいた。地味な装飾が施された十字架が林立している。花束を抱えた老婆が、足下のおぼつかない様子で小さな墓を見つめている。微かに聞こえる音色に合わせるかのように、しわがれた小さな声で聖書の一節を口ずさんでいる。すぐ側を通り過ぎる二人にも気付かない老婆の目尻には、痛々しいほどの皺が刻まれていた。

『 この世の国は われらの主とそのキリストとの国となった

  主は世々限りなく支配されるであろう アレルヤ     』

 肩を竦めてアスカが溜息をつく。

「こりゃ参ったわね。一つずつ確かめないと」

「お母さんの墓、どれなのか知らないの?」

「最初に埋葬されたのはここじゃないのよ。ハンブルクにある教会の墓地だったわ。一年も経たない内にここへ移されたって聞いてる。理由、説明して欲しい?」

「いや……、何となく想像はつくよ」

 しかめっ面で彼女は手近な墓石の表面を覗き込む。

「日本と違って火葬なんかじゃない。それをわざわざ運ばせるなんて、手の込んだ事するわよね」

 僅かに背を丸めながら二人は歩く。少しヒビの入った物、表面の材質が容易に窺える物、苔とカビが付着した物など様々な墓石を確認してゆく。しかしその名は容易には見出せなかった。

 風に運ばれてくるパイプオルガンの音色と、ほのかな日の光の暖かみが、単純な作業に埋没することを助長した。その男の存在に気付かなかったのは、そのためなのだろう。

「何を探している」

 突然の日本語にも、シンジは作業を止める気にはなれない。ただ思考の奥で、この声には聞き覚えがあるはずだ、そうだろ?と感じただけだった。

「彼女の母親の墓を、探しています」

「そうか。キョウコ・ツェッペリンの墓は、一つ向こう側の列だ」

 顔を上げると、目を見開いて自分の後ろを凝視するアスカの顔があった。こんなに意外そうな表情はあまり見たことがない。その瞳に促され、彼は声の主について思い立つ。

 ゆっくりと振り向く。予想は間違ってはいなかった。彼女が驚くのも無理はない。そんな納得をしながら、シンジは男に呼びかけた。

「父さん……」

 碇ゲンドウは、眼鏡の奥から息子の姿を見つめていた。

 

 墓地のはずれにある白塗り壁の物置小屋。その階段に父と子は腰掛けている。壁に立てかけられたシャベルの先が錆で変色している。少し離れた木の幹にうつかり、墓堀職人が昼寝をしていた。

 視界の向こうには、母親の墓の前で佇むアスカの姿がある。祈りは終えたようだがその場を動こうとはしない。その横顔は、ここからでは目を閉じていることしか窺えなかった。

「元気なようだな」

 そう言って父は眼鏡を指先であげる。頬と顎には、特徴的だった髭が無い。

「アスカのことですか?」

「ああ。あの状態から、よく回復したものだ。お前が選択した事については聞いている。間違ってはいなかったようだな」

「彼女は、ずっと努力してきました。僕は何もしていません」

 息子の答えに、ゲンドウはやや皮肉めいた視線を向けた。しかしシンジはそれに戸惑うこともなく、ただ正面を見つめている。父は目を逸らした。

 眉間の上で分けた前髪が、風に靡き目にかかる。それを指で払いながらシンジは言った。

「少し意外です」

「私がここを訪れた事がか?」

「それもありますが、あなたの口から彼女の事が出たことです。僕らがエヴァに乗っていた頃、あなたはアスカに対して、まったく関心が無かったように見えました」

「その通りだ。必要が無かったからな」

 抑揚のないその声に、初めて表情が強張る。父親の横顔を彼は見据えた。ゲンドウはそれに応じようとはしない。

「ここは彼女の母親が眠る場所です。何の為に訪れたのですか」

「キョウコ・ツェッペリンは、ここには居ない」

 射し込む日の光を眼鏡のレンズが反射している。それが向けられた先では、アスカが屈み込んでいた。何を語りかけているのか、朱色の唇が微かに動いている。

「それは、どういう意味ですか?」

「言葉通りの意味だ。ハンブルクから輸送された棺の中には、既にその遺骸は無かったのだ。墓の中は空だ」

「…母さんと、同じですね」

「そうだ。異なるのは、キョウコ・ツェッペリンがそれを望んでいたわけではないことだ。エヴァ弐号機は本格的な量産タイプの雛形とされていたが、それは名目上に過ぎない。制御及びパイロットとのシンクロには、彼女の肉体その物も必要だった。精神だけでは不十分だった。その点は初号機と同じだ」

 多弁な父親がとても意外だった。四年ぶりに再会した父との会話。その話題がアスカの事であるのが何よりも不思議でならない。それでいてこれが必然であるようにも感じられる。

「アスカから聞いたことがあります。母親が精神を病んだ要因の一つは、研究作業中に起きた何らかの事故だったらしいと」

「あれは事故とは言えない。提供だ」

 眼鏡の奥の瞳は動かない。ゲンドウは墓の前で俯く少女の方を見つめ続けている。アスカの母親の墓には、他の物と比べて際だった違いはない。周囲のそれに容易に紛れてしまうだろう。

「提供を申し出たのは彼女の夫だ。私に直接交渉してきた。娘を含めての、提供をだ。母親が直接計画の重要要素となった以上、やがて娘もそれに係わる事は必然だったがな。恩でも売った積もりなのだろう」

「なぜですか?そんな事まで僕に教えるのは」

「真実を知りたくないか?お前にとっては大切な、女性の真実をだ。それとも受け入れるのが恐ろしいか?」

 親子の視線がまともにかち合った。父のそれはやはり皮肉めいていたが、息子はそれを正面から見据えていた。一瞬、レンズの向こうの瞳が左右に動く。

 教会の方からざわめき声が聞こえる。ミサは終わりを告げたらしい。

「恐いかと聞かれればそうに違いありません。そうしなければとは思います。ただ……」

「ならば問題あるまい。惣流・アスカ・ラングレー、彼女は選ばれた子供だったとは言えない。仕組まれた子供だ。それはお前もレイも同じだったが、一つだけ特殊な点がある。エヴァ・パイロットとしての適正という意味に置いて、彼女はかなり劣っていた。旧ドイツ支部に保管されていた幼少期の医学データに、それははっきりと表れている」

「待って下さい」

「A−10神経の伝達機能に、計画上での著しい障害があった。神経自体に問題があったわけではない。側頭葉の一部に起因したものだ。ある原因で十代初期を向かえるまで、その活動が不活発だったのだ。A−10神経は他者に対する感情面での情報を伝達する。側頭葉はそれを影響下に置いている。彼女が脳に疾患を患った事実はない。医学的に考えられる原因は一つだ。幼少期に体験した、著しい情緒的成長への抑圧だ」

「聞いて下さい!」

「母性への強烈な渇望。その点は満たしていても、エヴァとのシンクロを行う神経自体が機能不足では意味がない。我々は処置が必要だと判断した。特殊な薬物の投与などだ。将来的に情緒面への副作用が激しい、医学チームの中にはそう警告する者もいた。父親はそれを無視した。原因の一つは、自分であったのにも拘わらずだ。私も人のことは、言えないが」

 立ち上がると、シンジは階段を降りる。背を向けた息子にゲンドウは無機質な声をかけた。

「やはり逃げるのだな」

「どう思われても結構です。ただ僕には父さんの言う、真実というものの意味が分からないだけです」

 父も立ち上がる。表情に変化はないが、発する声はやや高くなった。

「目を背けてはならないものだ。偽りの無い、忘れてはならない、事実だ」

「昔、母さんの墓を一緒に訪れた時、父さんはこう言いましたね。人は忘れることで生きていける、しかし忘れてはならないものもある。そう母さんに教えられたと。それを否定する気はありません。だけど、僕はアスカを見ていて分かった事がある。忘れたくても、忘れられないことだってあるんだ」

「……」

「忘れられない。それならどうしたらいいのかは分からない。でも、父さんが教えようとしていることが、良い方向に導くためのものとも思えない」

「それを決めるのはお前ではない。彼女だ」

「確かにそうでしょう。過去というものは誰にだってある。それがあるから今の自分もある。僕にだって分かりますよ。だからと言って、真実が全てですか?僕がそれを知ったとしてもアスカに伝える気はありません。どう思われようともその点だけは、譲りません」

 昼寝から目覚めた墓堀職人が、欠伸をしながらシャベルを手にした。彼が去っても親子は無言のままだ。墓を離れ、アスカがこちらに向かってくる。シンジはそれ気がつくと背を向けたまま歩き出す。

 再び眼鏡を指で上げ、ゲンドウは階段を下り息子の背中に呼びかけた。

「シンジ。今の世界は、醜いと思うか?」

「えっ?」

「私が進めていた計画は失敗に終わった。ゼーレと呼ばれた連中の考えていたものも、結果的にはお前に阻止された。世界は何も変わっていない。だが、私は自分が間違っていたとは思わない」

「……」

「ユイが、いつだったかこう言っていた。人の言葉だと断ってな。世界は醜い、それでも時々美しい。私はその言葉を信じる気にはなれない。ただ……」

 戸惑った息子の視線に、彼は苦笑した。俺は何を言いたいんだ?言葉を切り、ゲンドウは口元を緩めたまま背を向けた。

「正しいのかどうか、それは分からない。しかしお前が望むならば、そうすればいい」

 それだけ言うと父は去って行く。シンジはそれを見送り続ける。父の姿が木立の向こうに消えても、背後にアスカの気配を感じても、彼は目を逸らそうとはしなかった。

 

 バックミラーに青年と少女の姿が映り込んでいる。エンジンの振動は続いているが、黒塗りのベンツは動きだそうとしない。

「ユイ。やはり私は、あの言葉を信じる気にはなれないよ」

 開かれたダッシュボードのボックスの中に、鈍く光るベレッタ拳銃と古びた写真が置かれていた。写真の中では、女性が赤子を抱え微笑んでいた。やや逆光ぎみで、ピントも甘かった。

「お前の望みは叶った。シンジも、自分のそれを成そうとしている。私は取り残されたようだな。だが、これも間違ってはいないのかも知れない。あの時お前が、私に言ったように」

 アクセルが踏み込まれ、ベンツは静かに進み出した。ボディの塗装が鈍く輝き、バックミラーに乱反射していた。

 その輝きの中、少女が奪うように青年の手から旅行鞄を取り上げる。歩み出す彼女の後を、青年は首を捻りながら続く。その光景に思わず苦笑を浮かべ、ハンドルを切る。

 教会の鐘が鳴り響き、午後の訪れを告げていた。

 

(13)

 

 予想していた通り、決意を聞かされ叔母は驚きを隠せない様子だった。

「もう、決めたのね?」

「ええ。迷いはありません。ずっと考えていたことですから」

 夕闇が広がる窓の外には、街灯に水面を輝かすペグニッツ川が望める。蜻蛉の群が橋の上を飛び回り、ヘッドライトに照らされる。車の風圧に彼らは煽られ、落ち、水面へと消えてゆく。

 庭ではシンジを相手に叔母の息子が花火をしている。花火は日本の知人から送られた物だという。青い瞳の少年は、手持ち花火を振り回しながら年上の青年を追い回している。当惑げなシンジの顔がこちらに向けられると、それに微笑みを返した。

「感じの良い青年ね」

「そう見えますか?」

「優しそうだわ。見ず知らずの人には、次男はあまり懐かないほうなのよ」

「彼は……、気弱なだけです」

 笑みを浮かべたまま視線を戻すと、叔母は穏やかな目を向けていた。その瞳もやはり青い。

 これは完全に、血筋ってやつね。そう感心しながらティーカップを手にした。さすがに音を立てるのは控えて口にする。適度な甘みに、旅の疲れが癒される。

「キョウコがあんなことになって以来、彼女の夫とは音信が途絶えていたわ。こちらからの連絡にも、応じてくれなかった」

「想像はつきます」

「それでも、私があなたのために、妹の娘のために力を尽くさなかったのは事実。謝罪しようもない、事実」

 カップを置くと、アスカは視線を逸らす。木目が目立つ壁にかなり古びた写真が飾られている。機首が太いレジプロ戦闘機。その前で、端正な顔つきのパイロットが笑みを浮かべている。先祖の人だろうか?微かに起こった苛立ちを紛らわせるため、それを見つめた。

 叔母は温かい人柄のようだ。自分の親族には珍しい。好きになれそうな気もする。こんな人だからこそ、言うべき事は言っておくべきだろう。落ち着きを取り戻すと、彼女は写真から目を外す。

「叔母様、あたしは謝罪の言葉を聞きたくて来たわけじゃないんです。ママのことは、やはり忘れられませんが、今は色々と尋ねたい気持ちです。ただその前に、許可を頂きたいのです」

「戸籍のことかしら?」

「ええ。惣流とラングレーの姓は、捨てます。手続きは日本に戻り次第行う積もりです。それで、ツェッペリンの姓を名乗らせてもらいたいんです。構いませんか?」

 目尻に皺を寄せ、叔母は微笑み頷く。

「もちろん。ただしその名は、変えたりしませんね?」

「アスカという名はママが与えてくれたようです。あたしも気に入っていますし、響きが良いと言ってくれる人もいます。変える気はありません」

「喜ぶでしょうね。キョウコも、それに……」

 何かを言いよどむ叔母から視線を離し、テーブルの上に置かれたアルバムに目を向ける。若き日の母の姿。記憶にない、華やかな笑みを浮かべていた。その中の一枚。そこに焼き込まれたものが、次に問うべき疑問だ。

 外で鋭い笛のような音が響く。星が瞬き始めた夜空に向かう火線を、シンジと少年が見上げていた。ハッキリさせなくてはいけない。自分のためにも、彼のためにも。

「この男の人、ママとよく一緒に写っていますね。誰なんですか?」

「…キョウコの恋人だった人よ。大学時代からのね」

「率直に聞きます。あたしの実の父は、この人ですか?」

「……」

 身を乗り出し、鋭い視線を向けた。叔母は目を逸らそうとはしなかった。

「もう知っているんです。あの男は、あたしの父じゃなかった。とっくにそう呼ぶ気はありませんでしたが、DNA鑑定で血縁が無いことも分かったんです。叔母様、あたしは、実の父親に会いたいんです」

「会って、どうする積もりなの?」

「それは……、今は何とも言えません。どんな理由でママとあたしを捨てたのかさえ、知りませんから」

 叔母の表情が若干険しくなる。彼女はティーポットの柄を持つと、アスカの前に置かれたカップに紅茶をつぎ足した。湯気が立ち上り、鼻先を湿らせる。

「アスカ、それは誤解よ」

「誤解?何が誤解なの?この人は、パパじゃないの?」

「確信があるわけではないけれど、あなたの考えている通りだと思うわ。一つだけを除いてね。彼は、キョウコを捨ててなんていない」

 俯いて目をきつく閉じる。涙を見せたくはない。母親の葬儀の時、誰かに泣かないことを誉められた記憶がある。今思えば、それはこの叔母ではなかったのか?

 そう。この人だって、あたしのことを全て分かってくれている訳じゃない。そう思ってしまうこと自体が、どんなに嫌で苦しいかなんて分かるものか。

 発する声が厳しくなるのを、アスカは押さえられなかった。

「捨てたのよ……。他に言いようもないわ!」

 ティーポットがテーブルに置かれた。小皿に触れ、微かな高い音を立てる。叔母は黙ったままだ。

「ママが酷い状態になった時、その人は現れなかった。あたしがあんな男を父親だと思い込んだのは誰のせい?こんな人の存在なんて、最近まで知りもしなかったのよ。何が誤解なの?どんな理屈でそんな事が通るのよ!」

 意志に反して、膝に置かれた手の甲に雫が跳ねる。止まれ、この泣き虫!そう自分自身を罵るが、それを抑えつける頑なな力は無い。自我の迷宮から脱した時、彼女は代償としてそれを失っていた。

 客間は静かだ。ただ川のせせらぎと、庭で弾ける火花の音のみが流れ込んでくる。叔母が立ち上がる。花のような香水の香りが、むせる鼻の粘膜を軽く刺激する。

「私はキョウコの姉です。姉として、家族として、彼女を愛そうと努力した。それだけの価値がある女性だったと、今も信じているの。ただし、一つだけ認められない事があったのも事実よ」

 涙に濡れた手の甲に、掌が重ねられた。暖かく、荒れた肌の感触がくすぐったい。言葉は続けられたが厳格さはなくなり、柔らかい調子が戻っていた。

「ある意味、私が話そうとしている事は、あなたの母親にとって不名誉なことかも知れない。辛い事よ。それを受け入れる用意は、ある?」

 俯いたまま頷いた。シンジの穏やかな笑い声が聞こえていた。

「あたしは……、パパに会わなきゃいけない。彼は、シンジはそれを教えてくれた」

「そう。それなら見せたい物があるの。一緒に来てくれる?」

 顔を上げると叔母は微笑んでいた。目尻の皺が深かった。

 再び頷き、アスカは腰を上げた。

 

 手に取ると、ニスの滑らかな感触が心地良い。薄く塗られた塗装に透ける木目が美しい。目の部分には磨かれた大理石が埋め込まれている。その奥に室内の明かりが透過し、屈折している。

「彼がキョウコに贈った物よ。趣味で制作していたようね」

 母の部屋は、家を出る前のままで残されていた。今でも掃除は欠かさないのだろう。机の上にもテーブルの上にも、埃一つない。その上に置かれた彫刻をアスカは手にし、見つめている。

 白鳥の彫刻だ。

「彼は医学生だったわ。この街の郊外にある医科大で学んでいた。キョウコは医学の分野にも興味があったから、それで知り合ったようね」

 白鳥は羽を広げていた。木製でありながら、羽の細部まで表現されている。細やかな彫り込みが見事だ。

「正直言って、初めは彼の学識に興味があって近付いたようね。彼女にはそういうところがあったの。人格以上に、他人の価値を判断基準にするところが」

「…冷たい人?」

「そう見えてしまう部分はあったわよ。両親は私達に厳格な態度で接していたし、必要以上の期待を子供に押しつける人達だった。私はそれにすぐ音を上げてしまったけれど、キョウコは応えようとしていた。抑えつけなくても良いものを、抑えつけてまでね」

 キャビネットに歩み寄ると、叔母はその上に置かれた化粧箱を開ける。軽やかなオルゴールの音色が響き始める。彼女はその中から一枚の手紙を取り出すと、アスカに手渡す。

 開いてみると、ドイツ語と日本語が混じり合った文章が書かれていた。インクは微かに変色し、青みを増している。

『空を飛びたい。以前僕がそう言った時、君は笑っていたね。呆れたのだろうか?子供じみていると思ったのかも知れない。それでも、鳥を見る度にそう思ってしまう。

 人は何かを造り出す時、大抵は未来を感知するような目的意識はないものだけど、航空機を発明した人達は、真から純粋だったのだと思う。

 ただ飛びたい。その一心で、彼らはそれを創造したのだから。真心というものがあるとしたら、そういうものを言うような気がする。

 空を飛ぶ夢をよく見る。君は僕にそう教えてくれた。識者の人々は色々と解釈するだろうけど、僕は正直羨ましい。僕は、空を飛ぶ夢を見たことがない』

 文面に思わず笑みがこぼれた。要するに、分かって欲しいのね。子供めいているとも感じるが、充血した目が緩むのは皮肉ではなかった。

「とても無口な人だった。キョウコの前では特にね。今時手紙なんて古風すぎる。そう言っていたけど、いつの間にか彼からの手紙を全て保管していたの。そんな妹は、初めてだった」

 人からもらった物でも、使い古したらすぐに捨ててしまう。そんな自分とはずいぶん違うな。アスカは母の一面をそう捉えたが、自室に置かれたタンスの中身を思い浮かべて苦笑する。十六歳の誕生日に贈られたプレゼント。そのブローチは全く好みに合う物ではなく一度も着けたことはない。しかし、なぜか捨てる気にはなれなかった。

 贈り主は、シンジだ。

「キョウコはこの街を離れたけれど、彼との間は続いていたわ。あの子は私には本音を話してくれたから分かるのだけど、結婚も考えていたようね」

「だけど、しなかった。なぜ?」

「夢を選んだからよ。いえ、夢とは言えないかも知れない。両親の望みにそうものだったから。学者としての権威。ある研究機関での地位よ」

 オルゴールが止まると、母の部屋は静寂に包まれた。階下から叔母の次男の笑い声が聞こえてくる。シンジの声は聞こえないが、一瞬脳裏に彼との出会いの時の風景が思い浮かんだ。

「接近したのはどちらからかは分からない。でも、目的が感情に先行していたのは明らかね。キョウコはあの夫を選んだの。悩んでいたとは思うけれど」

「でも、あたしは」

「そう、あなたはキョウコとあの夫との間に産まれた子供じゃない。可能性があるのは、彼だけ」

 ありがちな話だ。陳腐な悲劇ドラマのストーリーのようだ。しかし自分はその結果で生まれてきた子供だった。笑い飛ばすことなど出来るはずもない。

 ずっと恐れていたことが、やはり真実だったのかも知れない。暗い思考が沸き上がるのを、アスカは認識せざろう得なかった。

「…望まれて生まれてきたわけじゃないんだ。あたしって」

「本気でそう思う?」

「ママが居たからあたしはここに居る。そう思いたい。だけど、あたしはママの笑顔なんて虚ろなものしか記憶にない。パパの、実の父の事なんて全く知らない。過去に拘る自分が嫌で仕方ない。だからって、そう思ってしまうのは間違ってるの?」

 視線を逸らさぬ叔母の目は厳しいものだった。ただ威圧感はない。テーブルに置かれた彫刻の羽を撫でながら、彼女は言った。

「本当に空を飛ぶ鳥を、いつも見つめているような人だった」

「分かってる。会わなくちゃいけない。それは変わらないの。そうしないと、結局このままだと思うから」

「判断するのはそれからでも遅くないはずよ。彼はあなたが生まれる直前に、医師としてドイツを離れたわ。詳しい赴任先は医科大で尋ねれば分かると思うわ」

 彫刻から指先を離すと、叔母はアスカの頬を撫でた。柔らかい眼差しが、しばらくここで考えなさい、と諭しているように見えた。頬からくすぐったい感触が無くなると、彼女は再び手紙に視線を落とす。

 もし、パパに会えたら確かめたいことがあるはず。それは、何なのだろう?

「アスカ。彼の行き先は、日本よ」

 その言葉に顔を上げると、叔母の姿は既に無かった。

 彫刻の鳥の羽が、照明で艶やかな輝きを発している。それを手にしながら決めた。

 帰ろう、日本に。

 

 目に映るもの全てが赤く染まっている。掌にベッタリと、粘つく液体の感触を感じている。この感触は不快だ。すぐに洗い流せ。しかし、水道は止められているようだ。蛇口は既に捻ってみたが、水は一滴もこぼれなかった。

 少女はぼんやりとした瞳を自分に向けている。こんな時でも彼女は笑みを絶やさない。なぜ、笑えるんだ?何がいつもそんなに楽しいんだ?彼はそう尋ねたくなった。しかし舌も唇も乾ききり、嗄れた呻き声が洩れただけだった。

「ペンキみたいだね。こうなっちゃうと、壁に向かってぶちまけたペンキみたい。あっ、絵の具の方が合ってるかな?壁はキャンパス。絵の具は油性じゃなくて水性のね。お兄ちゃん、あんまり赤は使わなかったなあ」

 誰かに見られた。あれは誰だ?若い女だが、鼻の曲がった醜い奴だった。痛めつけられていたのかも知れない。それなら誰にも喋らないだろう。俺のように。

 沈黙の中で震え続けなくてはならなかった俺のように。だけどそれも終わりだ。こいつは死んだ。もう闇を塗りつぶしたくなる気持ちを抱え、くだらない詞を歌う必要もない。俺は俺の感じたものを、感じたように歌えるはずだ。

 目を上げて思考の中を探る。今この子に、聞かせるべきフレーズがあるはずなのだ。ただ慈しむことのみで自分に接してくれた、この少女に。

「赤い、赤い、赤いねえ。赤と言えば、アスカちゃんの着けてたリボン、可愛かったなあ。可愛いんだよねえ、そりゃシンジ君も夢中になるよねえククククッ!私もあんな風になれるかなあ。口まねだけでもしてみよっと。あたし、あんたねえ、はあ?ふーん、バッカじゃないの?アスカちゃんが言うと、ホントに馬鹿って感じ」

 浮かばない。鼻を突く血の臭いが妨げている。死んでも、殴っても、切り裂いても潰しても、こいつは俺の邪魔をする。苛む!消えろ!俺の中から消えろ!

 手にした鉄パイプを振り下ろす。冷え切った感触は不快だが、ギターでは気絶させることしかできなかった。何度も何度も割れた顔面に叩きつけた。食い散らかされたピザの残りかすのように肉片が散らばる。

 撲たれる気分はどうだ?骨を打ちのめされる気分はどうだ?何も出来ない気分はどうだ?お前がしたように俺もしているだけだ。今度は貴様が、闇の中で黙り込めばいい!

 血に濡れた手元からパイプが滑り抜け、食器棚のガラス戸を砕く。床一面に破片が広がる。血と混じり合う。その煌めきに、嘔吐した。

「疲れてるんだね?無理もないよ、ずっと運転しっぱなしだったし。それにいつも一時間ぐらいしか眠らないんだもの。知ってる?魚だってきちんと眠るんだよ?だから眠っちゃいけない訳なんて、無いよ」

 背中をさすってくれる少女に彼は必死で礼を言った。ア、アッ、アア、アリガ、トウ。彼女が教えてくれた最初の、異国の言葉だ。

 気分が良くなると骸の両足を持って引きずった。廊下に朱色の線が伸びてゆく。

「筆みたい」

 玄関を開けてくれた。階段を下りる度に、割れた頭がコンクリートに打ち付けられ鈍い音を立てる。楽器としては最低の部類だろう。

 どこに捨てる?沼に沈めようか?森の中に放置しようか?川に流してしまおう。いや、どれも駄目だ。そこに住む者に迷惑なだけだ。こいつは腐敗しても自然のサイクルに戻るわけもない。産廃のような物だ。いっそのこと、成層圏の向こう側の暗闇に放り出してしまえたらいい。

 後部座席の後ろに放り込む。エンジンをかけると暖房の風圧と共に、血の臭いが運ばれてくる。夜の冷気にも構わずウインドウを開く。この少女だって気分が悪くなるだろう。

 ヘッドライトの先にカラスが数羽見えた。輝く瞳をこちらに向けている。

「でもさあ、どうしてパイプなんかで殴っちゃったの?この人が飲んでいたビールの空き瓶あったじゃない。それにオイデのお父さん、笑ってたよ?楽しそうだったけどなあ」

 楽しそうだった。確かにそういう笑みを浮かべていた。いつもだ。母を犯す時も、俺を苛む時も。何が楽しいっていうんだ?なあ、君は、どうしていつもそんな風に笑っていられる?

「うん?楽しくって笑ってるだけじゃないってば。笑えば、楽しくなるんだよ?」

 その答えに、オイデは笑みを浮かべようとした。乾いた唇の裂け目が痛むだけだった。

 俺には無理だ。

 アクセルを踏み込むと、カラスは夜空に舞い上がり姿を消した。

 

 視界の先で、白と青の色彩が明確に分かれている。雲海とはよく言ったものね。アスカはそう感心しながら窓の外を見つめ続ける。

「君がそれを望むなら、そうすればいいと思うよ」

「また迷惑かけちゃうかもね」

「約束しただろ?僕はついていくだけだ。君の旅が終わっていないのなら、そうするだけだよ」

 日本からの途上の時にに比べ、シンジは大分飛行機に慣れたらしい。吐き気も治まっているようだ。時折思うのだがある意味に置いて、彼は環境への適応が早い方ではないのだろうか。何だかんだと迷いながらも、状況を受け入れてしまう能力は自分よりも上かも知れない。

 父を捜す事。協力を遠回しに求めた時、シンジは笑顔を浮かべていただけだった。

「こうやって来てみると、雲の上っていいものよね。いつも晴天だから」

「前から聞きたかったんだけど」

「何?」

「君の名前、漢字で表すとどうなるの?飛ぶ鳥の方かい?それとも、明日に香るって方なのかな」

 尋ねながらも彼の視線は窓の外に向けられていた。アスカは肩を竦めてそれに答える。

「知らない。だいたい、本来はアルファベットで表記されるべきなのよ?どっちにしたって当て字よ」

 素っ気ない答えにも瞳は動かない。何となくそれが不愉快で、視界を遮ってやる。

「あんたってガキ?夢中になって、何が見えるっていうのよ」

「空を飛びたい。時々そう思うことがあるんだ」

「は、はあ?」

「小さかった頃、空はどこまで行っても青いものなんだって思っていた」

 若干眠気が起き始めていた。疲労が溜まっていても自分では気付かない事が多い。彼の言葉に耳を傾け、顔を見つめているとそれを認識する。そして、眠りに落ちていける。無理なく、安らかに。

 そんな自分に気付いたのはごく最近のことだ。

「本当はそうじゃない、その向こうには想像もつかないほど広い闇がある。それを知った時、少し悲しかった。けど、こうやって雲の上に来てみると考えてしまうんだ。僕らはこの青空に包まれているんだなって。いつかは、飛び出さなくてはいけないかも知れないけど」

「…やけにお喋りじゃない。要するに、何が言いたいわけ?」

「飛ぶ鳥。綺麗な言葉だと思うな」

 思考がぼんやりとし始めていた。いっそのこと、おやすみと告げたかったが、微睡みの中で見るシンジの表情に、心地良さを感じていた。顔を見る度に苛立ちを覚えた頃が嘘のようだ。ホント分かんない奴、と再認識した。

「だからあ、そう表すのかどうか分かんないって言ってるじゃないのよ」

「鳥は好きだよ。自由に飛んでいるから」

「自由?好きで飛んでいるのかどうか、どうして分かるのよ」

 重い瞼を支えるのも限界だった。首を傾けて目を閉じようとする。しかしすぐに改めた。青と白の色彩の中に、それを見たような気がした。風に滑空し、どこまでも上り詰めていくかのようだった。

 鳥になれ。でもそうなったら、雲の上へ行かなきゃ。そんな事を誰かが言っていたような気がする。包み込んでくる眠気に、それを思い出そうとするのはやめた。

 音速で飛ぶ鳥なんて冗談、ぞっとしないわね。

 軽く欠伸をして、彼女は目を閉じた。

 

<続く>

 


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