我々は死と契約を結び、陰府と協定している。

    洪水がみなぎり溢れても、我々には及ばない。

    我々は欺きを避け所とし、偽りを隠れがとする。

               (イザヤ書 28章15節)

   

    わたしは 天空に羽ばたく翼 

    海原の上を舞い飛んだ スペインの上を滑空した

    自由だった 誰をも必要としない

    素晴らしかった 最高だった

               (パティ・スミス)                

 

 

 

                    『 BLUE 』

 

 

 

「ずっと昔だ、ずっと昔のことなんだ……」

 サングラスをはずし瞼を指先で揉む。剃り残された髭の硬い感触を掌に感じた。ベットに横たわっている少女は当前として、その傍らでパイプ椅子に腰掛けたまま寝息をたてる少年の横顔にも、そんなものは見当たりはしない。

 歳だな、俺も。唇を曲げ、男は笑みを浮かべた。三十前で?以前は一度も、そんなことを感じたりはしなかった。

「彼女の祖父母は、そこに住んでいた。港が見える木造の一軒家だ。キュウリやトマトを栽培していた。底に穴があきそうな小舟で湾外へと乗り出し、魚を捕ったりしていた。冬には、干し柿が軒下に吊された。変わらない日常、毎日。そんな老夫婦だ」

 二人が聞いているはずもない。特にこの少女には、誰が語りかけたとしてもその声が届くことは、恐らく無い。

 病室は薄暗い。聞き取れるのは微かな寝息と、心電計や脳波計が立てる電子音だけだ。構わず男は続けた。

「一度だけ、そう、一度だけ彼女と訪れたことがある。夏休みに、無理を言って俺はついていった。保護者気取りでね。でも実際あそこへ行くと、何もかも彼女の方が知っていて、俺は教えて貰うばかりだった。魚釣り、トンボの捕まえ方。俺は不器用だった。彼女は、教えるのが面倒だったに違いない。イナゴってバッタが食えるというのも、その時初めて知ったよ」

 椅子が軋み音を立てた。少年が、僅かに身を震わせたのだ。言葉を切り男はその様子を見つめた。

 この少年との付き合いは(もっとも相手はこちらの事など、記憶に残ってもいないだろうが)、もう二年になる。立場を考えれば適切ではないだろうが、いつの頃からか男は少年に、同情とも言える感情を懐いていた。それは今やこの少女に対しても同じだ。だからと言って自分と、そしてあの女の幼き頃に、二人の姿を重ね合わせることも出来ない。

 自分達とは違う意味でこの二人の今は、過酷すぎる。

「海岸は広く遠浅で、波も静かだ。でも、泳げないんだよな。俺も彼女も、残念で仕方なかった。遠くから見ると水面はキラキラ輝いて見える。砕け散ったガラスのようだ。それが実際に砂浜に立ってみると、一面緑色なんだよ。爺さんが言ってた。もっともっと昔は、平気で泳げたんだってさ。半島の住民たちが、豊かになっていくのと逆に、汚れてしまった」

 先日、男は明らかな職務上の規程違反を犯し、あるテープを手に入れた。少女の絶叫と、泣きじゃくり言葉にならぬ声。はっきりと聞き取れたのは、最後に呟くように漏れてきた言葉だけだ。

 あたし、汚れてしまった。

 男にはその言葉の意味するところまでは、分からない。だがあの幼き日、期待に突き動かされ駆けて行った先に見えた、毒々しい緑色の渚に比べ、それはどれ程の汚れなのだろう。

 この少女を、ここまで追いつめるものなのだろうか。

「気を取り直して俺は、夜になると花火に誘う。波の上に広がる星空は美しい。だが彼女は退屈そうだ。あの頃彼女は、泳ぎが一番の得意だったからな。海や湖や川が大好きだった。あの海岸、あそこで、泳げていたらなあ。次の年だったからなあ、例のセカンド……」

 携帯電話が鳴った。スピーカーの部分を掌で押さえ、男は病室を出る。廊下もまた薄暗かった。

「はい。……。今のところ問題なしです。ええ、確認済みです、二人とも病室に居ます。……。はあ?また逃げ出すかも知れない?どっちがです?…両方とも?それは無いですよ、大人しいものです。……。はあ、もちろん注意はします、そう何度もしゃれになりませんから。……。承知しています。その時は、拘束します」

 携帯を切り廊下脇の堅い長椅子に座りながら、馬鹿言いやがる、と男は思った。一方は肉体を動かす意志すらない。もう一方にも、逃げ出す気力などあるまい。あの二人は既に壊れているのだ。壊したのは、この組織じゃないのか。

 そう、今や不愉快でしかない組織。だが俺もその一員だ。男は、あの女の言葉を思い出していた。胸元を赤く染め、喉に血を絡ませながら、女は微笑みこう言った。それは知り合って以来初めて見た、柔らかい笑顔だった。

(あの子達を、守って)

 だが俺に何が出来るのだろう。瞼を揉みながらその姿に向かって呟く。

「俺はネルフの、犬だ。そんな俺が……」

 携帯が再び鳴り出していた。迷うことなく電源を落とし、男はその場を離れた。希薄な月明かりが窓越しに差し込んでいる。病棟のあらゆる物が青白く照らされ、清潔さが満ちていた。

 それは、空虚にしか感じられなかった。

 

 

                      第一部

 

 

                      (1)

 

 中年男は上機嫌だ。キープしていたボトルの中身も、今夜で空にするつもりでいた。

 以前から狙っていた土地の買収に、彼は成功していた。二束三文の値段で契約書に捺印させられた時、中華料理店を営んでいた華僑の夫婦は涙を流していた。中年男はそれを冷ややかに見下ろし、二日以内の立ち退きを命じた。その土地にはテナント・ビルが建築される。彼の愛人が経営するブティック店は、その一階に店を構える予定だ。

 店の女達に下世話な冗談を言いながら、中年男は酒を飲み続ける。まだあの夫婦の泣き顔が目に浮かぶが、それは酒の肴でしかない。

 中年男は表向き、不動産会社の社長で通っている。経営手法は法律すれすれの強引なものだ。実際、犯罪紛いの事にも手を染めている。今回にしてもそうだ。中年男はその筋に依頼し、土地の売却を頑強に拒否していた夫婦の一人娘を、拉致したのである。

 娘が若い男数人に強姦され、泣き叫ぶ姿が映ったビデオを見せると、夫婦は抵抗を諦めた。口元に幼さの残る、十七歳の少女は撮影後、左腕の整脈にアンフェタミンを注射された。純度が最低レベルの代物をだ。恐らく、それに溺れてゆく事になるだろう。その事実をあの華僑夫婦は知らない。

 横浜市の復興事業が開始された頃、中年男は会社を構えた。一貫して強引な土地取引で富を稼いできた。当然だが裏社会の連中との繋がりも強くなる。懐柔するための金は惜しまない。彼は自分の家族も既に捨てている。養うべきは己のみだ。

 俺には失うものなど無い。中年男の口癖だ。陳腐なセリフだが、自分にこそ相応しいと思っている。

 やくざ崩れの部下二人は盛んに店の女を口説いている。派手な服装と厚化粧。味と不釣り合いな値段の高級酒。店内の装飾も含め全てが過剰だ。そんなところが中年男は気に入っていた。

 中年男が三杯目の水割りを口にした時だった。男女二人の客が店内に入ってきた。すぐに彼は警戒した。どう見ても男の方は、こんな店に相応しくない出で立ちだ。髪の毛も眉毛も銀色に染め、鼻にはピアスを埋め込んでいる。アロハシャツと青のジーンズ。高い酒を飲むタイプにはとても見えない。

 部下の二人も、それに気付くと鋭い視線を向ける。だが男は連れの女に、にやけた顔で何事か呟き、店のトイレへと姿を消した。勘違いだったかと頬を緩め、中年男は視線を戻そうとした。しかしすぐにそれを改めた。

 よく見れば美しい女だ。連れの男に比べ、ずいぶんと質素な服装をしている。その横顔は決して華やかとは言えず、目立つ感じではない。だが分かってしまえば急速に侵食してくる。そんな雰囲気の女だった。

 しばらくして、女がこちらに向いた。長い髪だ。目が合う。

 中年男は精一杯の上品な微笑みを浮かべようとしたが、出来なかった。女の笑顔は美しかったが、その切れ長の目はあまりに冷たかった。

 部下に声をかけようとした瞬間、女はバッグから光沢のない黒い物体を取り出しこちらに向けた。本能が避けることを要求したが、すぐ胸に燃えるような感覚を覚え、ソファーからずり落ちた。胸に手をやる。実際熱い。そして、流れ出る液体の感触。

 乾いた発砲音が連続する。部下の一人が眉間を打ち抜かれ仰向けに倒れた。飛び散った血と皮膚と脳髄と毛髪が、店の女の足に付着し悲鳴が上がる。女は銃を横に構え発砲を続ける。いつの間にかアロハシャツの男もその横に立ち、銃を向けていた。

 残った部下がテーブルに身を隠しながら銃を取り出し、発砲した。弾はそれ、カウンターの後ろで呆然と立ち尽くす、バーテンの胸に当たった。ボトルを床に落としバーテンは倒れた。横にいたバイトの女学生が、逃げ出そうと店の裏口へ向かった。アロハシャツの男が駆け寄り、銃床で女学生の頬を殴った。折れた歯を吐き出し女学生は気絶した。

 何でこっちの弾は当たらないんだ?中年男は部下を叱責しようとしたが、喉に何かが絡まって呻き声にしかならなかった。彼はそれを吐いた。ゲル状の痰がカーペットを汚した。いつもならヤニ混じりで黄土色のはずのそれは、真っ赤であった。

 やがて、部下の男はソファーに座り込み動かなくなる。それを見届けると、女と男は全く無表情なまま背を向けた。店の女達の微かな泣き声が聞こえる。助かった。中年男はそう確信すると、床に顔を伏す。苦痛に顔が歪んだが、笑みを浮かべずにもいられなかった。

 しくじりやがったな、そうそう死ぬものか、だが一ヶ月は病院暮らしだな。

 鈍い靴音がした。耳元で止まった。泣き声も止んだ。視線をそちらに移した。黒いハイヒールの先が、光沢を放っていた。後頭部に熱を感じた。鼓膜が振動した。硝煙が鼻を突いた。

 次の瞬間、中年男の意識はブラックアウトした。

 

 黒塗りの小型車が繁華街を走り抜ける。時速39キロメートルをきっちりと維持していた。ワックスが充分かけられた表面にネオンの光が反射する。午前零時。街の賑わいはまだ終わらない。

 車内にはドイツの著名な女性ボーカリストが歌う、最新ナンバーが流れている。電子音と共に響く宗教音楽のような声楽。男はハンドルを握りながら、曲に合わせて指を上下させる。

「汚い仕事になっちまったな」

 答えはない。女は、窓の向こうの街明かりを見つめている。構わず男は続ける。

「出る杭は打たれる、か。しかし見せしめが目当てだったとはいえ、依頼主から文句言われそうだぜ。残りの報酬を全額払うの、渋るかもな」

「そんな権利は無いわ」

 パトカーがすれ違う。まだ若い警官の緊張した横顔が見えた。視線を動かさず、女は頭に手をやる。カツラを外し、後部座席に投げた。女の髪はセミロングだ。

「あいつらは、泥を被らない」

 女の答えに、男は肩をすくめてアクセルを踏み込む。車は繁華街を抜け国道へと入る。

 曇天の夜空だ。視界に巨大なタワー・ビルの影が浮かび上がる。それに目を向けながら、女は前髪をかき上げた。

 

                      (2)

 

 十五年前。西暦二千年。八月十六日。十四歳。逃げまどう人々。泥水の渦。真っ黒な空。降り続く雨。涙を浮かべた母。力づけようとする父。近づいてくる救助の船。不安だった自分。震える自分の腕を握る温かい手。幼なじみだった少年の笑顔。嫌いだった、笑顔。

 彼女の悪夢の始まりは、いつもそこからだった。

 

 一ヶ月後、横浜市。

 

 全てが水に呑まれた日の、夢の余韻に身を震わせながら、最上ウミは目覚めた。

 この夢を見る度に、自分にこんな名を与えた両親を本気で恨みたくなる。そして一層気が滅入るのだ。額を押さえながら身を起こす。全身に汗が滲んでいる。昨夜飲み過ぎたワインのせいでないことは分かっていた。

 カーテンの隙間からは既に強い日の光が差し込み、室内を舞う細かい埃を照らし出している。窓縁においてある小さな観葉植物が、緑色に輝いている。ベットから出てキッチンに向かう。白く引き締まった裸体が、光を受けて映し出される。

 脳の痛みに耐えながら、コップに水を注ぎ口元へと運ぶ。この行動すらこんな朝には苦痛が伴う。ウミは、水が嫌いだ。

 不快さに耐えきれず、コップの水を捨てた。渦を巻き、排水パイプに流れ込んでゆく。冷蔵庫を開ける。牛乳パックを取り出したが空だった。顔をしかめながら寝室へと戻る。

「おはよう、ウミ」

 膝を抱え、ベットの上でシーツにくるまり、少女は微笑んでいた。腰まである黒髪がシーツの上に波立っている。

「起きていたの」

「ウミ、うなされてた」

 軽く頷き、テーブルの上のケースから煙草を取り出し、火をつける。苦い。喉に絡まる。咳き込み、灰皿に押しつけて消す。漂う煙の向こうで、少女は俯きながら声を絞り出した。

「嫌な夢、また見たんだね」

「いつものことよ」

 右目にかかる前髪をかき上げて、ベットの端に腰掛ける。寝癖がひどい。身支度には時間がかかるだろう。背中に感じる冷たい掌の感触。腕を回し、それを軽く握った。

 振り向く。ハルカが大きな瞳で見つめながら、首筋に口づけしてきた。唇は微かに濡れていた。頭痛が少しだけ和らいだ。

「今日、お仕事なんだよね」

「ええ」

「忙しくなるの?前みたいに一週間以上も、居なくなるなんて事、無いよね?」

「分からないわ。お客に会うだけよ」

「やだな、また居なくなったりしたら。ハルカ、そんなの寂しいよ」

 ぼんやりとした表情に涙が流れる。ハルカは再び身を預けてくる。彼女の瞳はひどく澄みきり、そして虚ろだ。

 可哀想な子。その事は承知している。しかし今朝は、とても彼女に優しくできる気分ではない。腰に回された細い腕を解き、ウミは立ち上がる。

「夕方には戻るわ」

「うん」

「今日は、病院に行く日だったわね」

「あまり行きたくない。あの先生、ハルカのことを、病気みたいに言うんだもの」

「医者はみんなそう言うものよ。あなたには、治さなくてはいけない所がある。それは分るわね?」

 ハルカは口元に手を当て、クスクスと声を出した。微笑が蘇っている。

「クスクス……、そうだよね。ハルカは病気じゃない、だけど、おかしいんだもんね」

 本当に可笑しそうに笑う。ウミも微笑みを浮かべてタオルを手にする。

「学校に、戻りたい?」

「うん。だから治さなくちゃ。またクラスの男の子、ハサミで刺したりしたらいけないものね」

 痛かったんだろうね、きっと。目をつむり無邪気にハルカは笑い続けた。その笑顔は、ウミには天使のように思えた。純粋無垢な子供のような天使で、どこかが確実に壊された、天使。

 唇を重ね、舌を軽く絡めた。両手を置いたハルカの肩は極端な撫で肩だ。十秒ほど続けた。頬を撫で、そして身を離した。

「外出する時はカインを連れていくのよ」

「そうする。カイン、ハルカを守ってくれるから」

 浴室へ入る。自分には他人を守ることなど、出来るはずもない。だから、あの子にはカインがついているのが一番いい。シャワーのコックを捻る。雫の音に思わず唇を噛む。

 ほとばしる湯。あの日の雨。少年の笑顔が目に浮かぶ。それは夢の残像だ。僕が守るよ、何があっても。嫌いだった少年は、そう言ってくれた。その通りにしてくれた。

 そして彼は消え去った。

 目を背けながら、ウミは流れ落ちる水滴の下へと、身を進めた。

 

 昼過ぎ。ウミは横浜市郊外にある、自然公園へ向かった。相鉄線で約二十分。バスで十五分ほどの行程だ。

 土曜日の午後。市営バス車内の乗客は数人ほどだった。高校生くらいの男女が、盛んに唇を重ねている。浅黒い顔をした中年女が無関心さを装いながら、非難めいた視線でそれを窺っている。こちらと目が合うと同意を求めるかのように頬を歪めた。化膿しているかのような、赤黒いほくろが目立った。ウミは無視した。

 午後一時三十五分。木々に囲まれた公園内の野外コンサート会場は、観客がまばらであった。ステージの上では、アマチュアのジャズバンドが演奏を披露していた。黒人の女性ピアニストが熱心に鍵盤を叩いている。小鳥の鳴き声がそれにかき消される。他のメンバーは少ない観客と気のない反応に、あまり熱意も湧かない様子だ。

 ウミは会場の最後列の席で、音楽情報誌を開き眺めている。黒のワンピースにタイトなスカート。肩までの髪は後ろで纏められている。質素な出で立ちだが、彼女の冷たい美貌には調和していた。

「あんたがそんな若者向けの音楽に興味があるとは、こりゃ意外だな」

 どぎつい配色のアロハシャツと短パン姿の、いかにも軽い雰囲気の男が笑いかけてきた。瞳は青い。鼻にピアスを埋め込み、髪の毛も眉毛も銀色に染めている。目で促すと男は隣の席に座った。

「私達がまるで年寄りのようね」

「実際、若くもないだろ。その手の音楽にもついていけないんだ。信じられるか?この俺が、最近買ったCD、ジャズとクラシックばかりだぜ」

 アロハシャツの男は笑いながら煙草をくわえる。ライターを取りだし火をつけてやると、美味そうに煙を吐き出した。

「それはあんたの趣味じゃない。あの子のかい?」

「このバンドの曲ばかり聴いてるわ」

「未だにビジュアル系オンリーの風潮なのに、渋い趣味だねえ。その彼女、元気してる?」

「お陰様で。あなたが寄りつかなくなってからは一層ね」

 アロハシャツは煙に目を細めながら、真顔できついこと言うなよな、と唇を曲げた。彼のシャツにプリントされた柄は、ニューギニアに生息する極楽鳥の絵だ。その下にはなぜか、不機嫌そうな顔をした尾長猿も描かれていた。

「初対面で嫌われたもんなあ、俺。しばらく立ち直れなかったぜ」

「男性には誰にでもそうよ」

「そりゃ残念だ、可愛い子なのに。異性を知るってのは、いい事なんだがね」

 あの子は既に知っている。知らなくても構わない歳に、もっとも酷い形で。ハルカの担当医の言葉が脳裏に浮かんだ。

(彼女は極端な情緒不安定、男性不信、そして自傷癖も有しています。それは幼少期より受けていたと思われる、性的虐待が主な原因と推察されます。催眠療法による記憶の回復には、信頼性の点で批判もありますが、どうやら肉親によるものらしい。その上での、今回の件ですからな)

 降りしきっていた雨の中、ハルカは地面に座り込んでいた。生気のない視線を自分の方に向けていた少女の衣服は、無惨に引き裂かれていた。迷うことなく、少女を犯した青年をウミは殺した。両目を突き両肩の関節を外した。痛みにもがく青年の股間に、十五発の弾丸の全てを撃ち込んだ。濁った精液が、鮮血に覆い隠された。

 仕事がらみでなく人を殺したのは、それが二度目だ。

「うん?どうした?」

「別に。仕事の話、お願いできる?」

 浮ついたアロハシャツの表情が一瞬引き締まる。鋭い目つきで辺りを素早く窺う。すぐに軽薄な笑顔に戻ると、小脇に抱えていた雑誌をウミに手渡す。雑誌はSM専門誌だ。

「真ん中のページだ」

 指示通りにそれを開く。手錠で吊された全裸の女のグラビアがあった。肌の表面にミミズのような赤い筋が何本も走っている。そしてページには、三枚の写真が挟まれていた。

「依頼の目標は、そいつらだ」

「子供を殺るの」

 平板な声の調子だ。細い眉が真ん中に寄っただけだ。それも付き合いの長いアロハシャツだから、読みとれた程の僅かな変化でしかない。

「いや、依頼主は殺害を望んではいない。今のところは、かもしれないけどな。そいつらの身柄を確保すること。それが望みだ」

「誘拐ね」

「平たく言えばそうだ」

 再び写真に目を向ける。写真にはそれぞれ一人の少年と、二人の少女が写っている。歳の頃は十四か十五ぐらいだろう。

 微笑んでいる少年。どこか気弱なその笑みには、陰りさえ感じる。それとは対照的に活発そうな、栗色の髪の少女。瞳が青い。外国人のようだ。もう一人の少女は全くの無表情。驚いたことにその瞳は、赤みを帯びている。色素細胞に異常でもあるのかも知れない。

「三人とも十四歳だ。通っている中学、クラスも同じらしい」

「身元は?」

「裏に名前が書いてある」

 裏返すと、汚い字で名字と名前が書かれていた。少年と赤い瞳の少女の名は、明らかに日本人のそれだったが、栗色の髪の少女にはミドルネームがある。その名から、どうやらハーフかクオーターらしいことが分かる。

 目で促されページをめくると、写真がもう一枚あった。制服姿の三人が並んで歩いている。隠し撮りしたのかピントが甘く、画像にぶれもある。遠距離からズームレンズで撮影したのだろう。栗色の髪の少女が少年を叱りつけている。赤い瞳の少女はやはり無表情だ。

「依頼主の目的は?ただの身代金目当て?言ってあるはずよ。その手の仕事なら他に回してくれないかしら。適任者はいくらでもいるわ」

「依頼主がどうする積もりか、まだ詳しくは聞いていない。だが、単なる営利目的じゃないようだな」

 アロハシャツは再び辺りに目を配り、ウミの肩に腕を回した。恋人同士でも装っている気のようだ。お世辞にも、似合いの組み合わせとは見えない。

「ネルフ。この名を、聞いたことはあるよな?」

 軽く頷く。ウミの職業の世界でも、耳にする事は稀な名詞だ。

「国連直属の非公開組織。本部が第三新東京市にあるという話ね」

「俺なりに調べてはみている。今のところ情報と言うより単なる噂話程度だ。表向きは、復興援助団体などと装ってるようだが、きな臭さで一杯だな。ところでそいつらが住んでいるのは、第三新東京市だ」

 もう分かっただろ、とでも言いたげにアロハシャツは笑みを浮かべた。だが、この程度の情報で納得出来るはずもない。

「この子達、そのネルフの、関係者の子息か何か?」

「らしいね。しかし、それは依頼者に会った時に直接聞いてくれ」

「そんな組織が相手なら、単に金目当てじゃないわね」

「遙かにリスクの少ない相手なんて、他に幾らでもいるからな。まあ、依頼主はこうも言っていた。我々の反体制活動における重要な作戦になるだろう、とね。やけに誇らしげだったよ」

 依頼主は反体制的な組織のメンバーのようだ。一見、十五年前に起きた世界的大災害以前よりも、ある意味で秩序立ち、安定しているかのような今の世界。こんな時代にも、そういった連中はやはり存在している。ウミはその方面の活動に、仕事として係わったこともある。

 だが、それはすべて国外に居た頃であったし、今回の目標は全く異なる。国連直属の、しかもほとんど実体が明らかではない組織が相手とは、さすがに厳しい表情にならざろう得ない。

「やばそうな依頼だが、それだけの見返りは保証するってことだ。もちろん、今からなら断ることは出来るがね」

「断れば、次に狙われるのは私達ね」

「俺はまた潜っちまえばいいだけさ。だいたい奴らも、こっちのことを調べた上での依頼だ。君みたいな危険人物に手を出すほど馬鹿じゃない。そんな骨のある奴が、この国に居るとも思えないよ」

 苦笑しながら煙草をくわえる。確かにそういった連中なら、自分の事をそう認識していてもおかしくはない。裏切りには慣れている。その都度報復は返してきた。与し易いと思われたら、この職業で生き抜くのには致命的だ。

「連中も必死らしい。こんな世の中だ、自分達の存在をアピールしたくて躍起になっている。忘れ去られる事には、我慢ならないんだろうな」

「無意味よ」

「同感だね。しかし俺達もあいつらの事を、どうこう言える立場じゃないぜ」

 十五年前のあの日、両親と幼なじみの少年に命を託された。それを自分は、こんな形ですり減らせている。選択肢は他になかった、などという自己弁護が通らない事など、とっくに認識している。無論、鼻からそんな気もおきはしない。

 自分には、今の世界に対し、他人に対し、非難をする権利など無い。

 吸いかけの煙草を携帯用灰皿に納め、ステージの方へとウミは目を向けた。演奏が終わり、バンドのメンバーが申し訳程度に頭を下げた。一人、ピアニストの女だけが手を振っている。それに応えてまばらな拍手が起きる。

「最低の演奏だ。満足に譜面通りにも出来ないで、スイングもくそもあるかよ。ジャズは大衆音楽だ。確かにその通りかも知れないが、カラオケとは違う。チャーリー・パーカーがこんな演奏を聴いたら、どんな風に嘆くと思う?」

「考えてみるわ」

 軽く拍手をしながらウミはそう告げた。

「相手が相手よ。情報が少ないし、依頼主の覚悟も疑問だわ。いつ会えそう?」

「いつでも。向こうは急いでいるみたいだが」

「そう。だったら明日、場所は……」

「それは指定されている。氷川丸公園だ。史跡巡りが趣味だとさ。あの船ってレプリカなんだろ?まったく、反体制が聞いて呆れるよな」

 アロハシャツは立ち上がり、おどけた調子で肩を竦めた。

「時間は決まり次第、連絡するよ。目標についてはもう少し調べてみる」

「分かっているでしょうけど、私の携帯に直接よ」

「あの子、君の本職に感づいていないよな?」

「…当たり前よ」

 近くの広場で子供達が犬を追いかけ遊んでいる。犬は嬉しそうに吠えている。ベンチの上で眠っていた三毛猫が、迷惑そうに欠伸をした。ウミはそちらに目を向けていた。だから、アロハシャツには彼女の表情は窺えない。

「大切なんだな、あの子のことが。だけど、あまりそういうのは増やさない方がいい。俺の親父も言ってたろ?身動きが取れなくなるぜ、こういう職業はな」

「そう思うのなら、もうハルカには近付かないでね」

「へいへい」

 頭を掻きながらアロハシャツは去って行く。彼の姿が木立の向こうに消えると、ウミは再び写真に目を向けた。

 少年と、少女。十四歳。あまり関わり合いたくはない単語だ。

(僕が守るよ、何があっても)

 片側のページでは数体の裸体が絡み合っている。その肌は汗と唾液にまみれ鈍く輝いている。醜悪だ。写真を取り出し音楽雑誌に挟んだ。

 SM雑誌を捨て、ウミは席を立つ。

 

 マンション近くの通り。背後からの自分の名を呼ぶ声に振り返る。にこやかな笑みを浮かべながら、ハルカが手を振り走ってくる。その横にはドーベルマンのカインが、舌を出して従っている。

「お帰りなさい!」

「ただいま」

 人目を憚ることもなく少女はウミに抱きつく。その足下にカインは控える。初老の婦人がこちらを見て、穏やかに微笑みながら歩いて行く。仲の良い姉妹とでも思っているのだろう。その誤解に、ウミは皮肉めいた笑みが浮かぶのを抑えられなかった。

「病院からの帰り?」

「うん。途中で本屋とか服屋とか寄ってきたから、遅くなっちゃった」

「最近は、人の多い所でも大丈夫なようね」

「男の子が近寄って来るとね、カインが吠えて追い払ってくれるもの」

 ねっ、カイン。ハルカはかがみ込み、カインの顔を撫でる。目を細め、カインは一声吠えてそれに答えた。その姿に苦笑は浮かぶが、悪い傾向ではないだろうとウミは思う。退院した直後は若い男と見れば誰であろうと、身を震わせ自分の背後に隠れていた。あの頃に比べればずいぶんとましだ。

 太陽は傾き、遠く窺える箱根の山々にその姿を隠しつつある。強く差し込んでくる夕暮れの光が、通りを歩く人々の影を伸ばしていた。この国にも季節と呼べるものは既にない。それでも暑さが和らぐ時期は、終わりを告げようとしている。

「先生、何か言っていた?」

「今日は色々お話しをしただけ。カインの事が話題になったの。…クスクス、先生はね、犬がとっても怖いんだって。小さい頃に、よく追いかけられたからだって言ってた。ずいぶん歳を取っているのに、何だか変だよね」

「そうね」

「息子さんのことも話してくれた。若いけれど、自分と同じ仕事をしているって言ってたな。第三新東京市の大きな病院で、働いてるらしいよ」

 第三新東京市には一度だけ、滞在したことがある。無論仕事でだ。あの頃街は、まだ建設ラッシュの最中であった。

 ある地区の建設事業を受注した大手企業の重役を、拉致し脅迫した。少なくとも国内では、まだ駆け出しと言えたウミにその仕事を与えたのは、ライバル企業の営業部長だ。重役は要求を拒んだ。だが、中指と薬指の爪を剥ぎ、自白剤の副作用について説明すると、要求を呑んだ。

 エレベーターを降り自宅へ向かう。都市部の中心からは大分離れたこのマンションは、造りもいたって平凡なものである。もっと条件がよい場所に住む余裕はあるが、金回りが良いと疑われたくはない。それに、金の使い道は他にある。

 自室に入るとウミは夕食の支度を始める。ハルカはリビングのソファーに寝そべり、カインの手を取って何かを話しかけている。彼女がウミ以外に心を開いているのは、この緑の瞳を持つドーベルマンだけだ。

「ねえ、ウミ。例のクルーザー、いつ頃から造り出すの?」

「業者には、もう設計は依頼してあるわ。船体の建造はまだ先になりそうね」

「始められないの、ハルカのパパのせいだよね……」

「気にすること無いわ。私だけ乗っても仕方ない。もしもの時は、あなたとカインも乗せる約束でしょ?」

 ハルカの父親はウミを相手取り、半年前に訴訟を起こした。それは彼女に少なからぬ出費を強いていた。養育権に関する家裁での裁定は、一度は彼女の側が勝訴している。父親にはその責任能力も、正当な意志も無い。親権もこの場合は適用には値しないという、ウミの弁護士の主張が認められたのである。

 しかしハルカの父親は諦めるつもりがないようだ。その後も何度か家裁に対して訴えを起こし、認められれば来月中にも再度の審理が始まる予定だ。

 原告側の席で、異様に輝く瞳でこちらを睨み付けていたその男は、大手銀行の元重役である。定年で得た退職金の全てを、再び娘を欲望のはけ口とするために、つぎ込む積もりらしい。

 二年前の雨の夜。暴行の犠牲となったハルカを救った時には、連絡しても引き取りを拒否してきたというのにだ。当時父親は、娘と同じぐらいの年頃の少女を、金で囲っていたことが判明している。父親の側に有利な裁定が下る見込みは、ほとんど無い。

「でも、ハルカがまだ小さかった頃に起きた大洪水って、また起きるのかなあ」

「どうかしら。でも、備えあれば憂い無し、とも言うでしょ?」

「もし、また起きたら……。パパや嫌な男の子達、みんな流されちゃうのかなあ」

 あの豪雨と濁流の日。自分を救うため、水没しつつあった家屋の屋根に残った両親と少年。彼らの姿を前に一人救助の船に救われたウミは、無力だった。今はただあの少年の、嫌いだった笑顔のみが彼女の記憶を時折震わせる。

 一方でその日同じように死を免れたハルカは、父親の劣情の犠牲になり続けてきた。彼女はもう一度洪水が起きて、父親が波にさらわれ消え去ることを、願っているのかも知れない。全てが洗い流され浄化された世界。そこではウミとカインのみが側に居れば、彼女は満足なのかも知れない。

「ねっ、カイン。猫さんの肉球も大好きだけど、カインのも気持ちいいよね。人間には無いんだよね。足の裏にはあったって、いいと思うけどな」

 果たして、自分とハルカのどちらが、不幸と言えるのだろう?

 無意味な問いだと認識しつつも、そう考えることが希にある。しかし幸福も不幸も、結局は客観的に量れるものではない。誰もが不幸であり、一方で幸福なのだ。いや、そんな概念自体がまさにくだらない。時として悲劇は、他人にとって喜劇でしかない。ウミの答えは、いつもそれに落ち着く。

 だが、彼女はその度に決心する。その時は今度こそ、自分にとって身近なものを水に溶け込ませないのだ、と。

 ハルカの父親の執念は、ウミの生活にも影響を与えている。本業を隠すために行っている装飾デザインの仕事を、これまで以上に力を入れる羽目になった。家裁の調査はともかく、あの男が複数の探偵社に彼女の素行調査を依頼したためである。

 もっともいっこうに、ウミの影の部分を掴むことが出来ぬ探偵社の連中は、今や調査に対する熱意を失っている。彼らの目を逸らすことなど、ウミにとってはわけもないことだ。

 ハルカが家裁の審理に出廷することは、ウミの弁護士の主張により免除されていた。ハルカの精神状態は極度に悪化していた。その原因が、日常的に向けられていた父親の舐めるような視線だけでないことなど、家裁の調査でも早期に判明したからだ。

 ウミ、ハルカを守って。パパから、私を守って。

 病室のベットでハルカはそう言いながら、いつも泣きじゃくっていた。

 明日家裁において、再審理が必要なのかどうか、双方の弁護士立ち会いのもと検討が行われる。家裁側にはこれ以上、この件に対して熱心に取り組む気はないようだ。再審理が避けられないとなれば、何らかの和解案を勧告する可能性が高い。無論、父親の側にも、ウミの側にも、それを受け入れる気は無い。

 あの男に、ハルカを渡すわけにはいかない。裁定の結果次第だが、機会があり、適切な時期であるならば、ウミはハルカの父親を殺す意志すら固めている。

 方法は何が適切だろう?パスタの束を鍋に入れながら、彼女は考え込んだ。

 死体の処分が一番の問題だ。発見されれば、嫌疑どころで済まなくなるのは目に見えている。一度仕事がらみで助力したことがある、あの始末屋に頼もうか?やけに恩に着ていた感じだったから大丈夫だろう。

 始末屋が自慢する処理の仕方は適切だ。彼の実家は栃木の農家で、養豚が主な収入源だ。死体をミンチ状にするのは、精肉用の大型機械があるので難しくない。豚は雑食だから砕かれた骨まで喜んで食べる。消化され、排出されれば、それは付近の畑の肥料となる。そして何も残らない。

「ねえ、ウミ」

 キッチンでトマトを切っていた彼女の腰に、細い腕が回される。

「ねえ、ウミ。…しようよ」

「食事が先よ」

「ハルカ、今したい。ウミに、優しくされたい」

 手を休め、笑顔を浮かべて振り返る。

「わがままね」

「だってウミのこと、大好きなんだもん」

 天使のような笑顔で、ハルカはトマトの汁に濡れたウミの指先を口に含む。その甘い感触と少女の笑みは、情欲を存分に刺激するものだ。頷くと、ハルカの華奢な身体を抱え上げ、リビングのソファーの上に運んだ。

「ハルカは、ウミのことが大好きなんだ。パパなんかよりも、他の男の子達よりも、誰よりも好きだよ」

「なぜ?」

「優しいから……。ハルカに、優しくしてくれるから」

 身体に覆い被さり、ブラウスのボタンに指をかけた。肌に指先が触れる。ハルカは身をよがらせながら微かな笑い声を立てた。

 クスクス、クスクス……。

 二人の姿を身を伏せたままカインが見つめていた。それから約一時間ほど、彼が吠えることはなかった。

 パスタは、茹で直すことになった。

 

                      (3)

 

 初老の男は左腕の肘から先が無かった。頬には古い裂傷が這い回り、首筋には爛れた火傷の跡が目に付く。サングラスに隠された左目も、非常に精巧な義眼であった。

「そうか、目標の補足を始めたか」

「はい」

「だがこの依頼、若干危ういな。面倒な相手だ」

 週末の夜、中華料理店は満席だ。何種類かの方言の中国語が飛び交っていた。焦げる豚肉や鳥肉、青野菜、何よりも大蒜と腐敗し始めた卵と汗の臭気が、鼻を突く。

 ここに来るたびにウミは、微かな吐き気を催さずにはいられない。しかし義眼の男はこの臭いが好きだという。若き頃、任地として赴いていた国を思い出させるのだ。そうでなければ終日、この店の一席で余生を送ることなど出来まい。

 義眼の男は紹興酒を口にする。後味が嫌いだ、と言いながらもこの酒しか飲まない。白髪交じりだが見事な金髪の口髭をティッシュで拭く。中国系の客ばかりの店内では、嫌でもその姿は目に付く。だが、あえて注視しようとする者はいない。積極的に関わりあって得のある相手ではないことは、この辺りの住人なら大概知っているからだ。

「報酬は?」

「二億。息子さんは交渉次第で、もう半分は上乗せできそうだと言っています」

「相も変わらぬ強欲さだ。依頼人や目標に対する調査も、こんな程度では信用できるものじゃない。あいつのずぼらな性癖のせいで、君は何度か不必要な危険を背負い込んだことがあるはずだ。よく仲介者として扱っていられるものだよ」

 流暢な日本語を操る男の表情は、言葉とは裏腹に冷静だ。店内は空調が不足気味であった。額に汗が浮かぶ。やや湿って張り付く前髪をかき上げ、ウミは首を軽く振った。

「いいパートナーだと、私は思っています。その度に息子さんも、共に背負ってくれましたから」

「それは当然のことだ。当然のことだが、我々のような立場の人間にとっては、そのこと自体問題だ」

 義眼の男は顔をしかめて肩を竦める。酒で赤みの増した男の顔を見ながら、以前に比べて表情が豊かになったな、とウミは思った。

 十二年前、横須賀で安いホテルに連れていかれた時、男はずっと無表情だった。ずっと無言で、ウミを抱きながらも、瞳は彼女を見ていなかった。ほとんど動かぬ瞳に、義眼ではないのかと思ったものだ。だがその時はまだ、男の両目は本物だった。

 男と出会ったのはウミが十七の時だ。両親を亡くしてから預けられていた親戚の家を飛び出し、一人で暮らしていた。高校に通うのも止めていた。理由は単純だ。自分は疎まれている。そう感じたからだ。

 何度かバイトを転々とした後、風俗店に勤め始めた。甘い言葉に判断を誤った結果であったが、拒む理由も見当たらなかった。

 店は裏で売春の斡旋もしていたが、ウミが指名されることはなかった。容姿はともかく、あからさまに義務的で無口な彼女の態度に、惹き付けられる客など多いはずもない。彼女を初めて指名したのが、義眼の男だ。

 面倒な相手だ。男は指先で箸を玩びながら再び呟いた。

「ネルフという組織については、私もそれほど知らないのだ。名は耳にしたことが多い。軍に所属していた頃の知人に、探りをいれたこともある。だが実体について把握しているものは、ほとんどいない。それでいて機密扱いというわけでもないようだ。どういうことか分かるか?」

「いえ」

「その必要がない、という事だ。明らかに命令系統が普通の国家組織とは異なるらしい。国連直属というのも名目だろう。胡散臭い、という意味では我々と同じだ。しかし意味合いが違う。何というか、世界観の違いを感じる。依頼主はそれが分からないほど愚かか、あるいは十分知った上での標的なのか……」

 言葉が途切れた。義眼の男は、玩ぶ箸を見つめている。象牙製だ。店主の拘りなのか、既製品揃いの食器類の中でそれだけが浮いた存在だ。

 箸の扱いは出会った頃から上手かった、とウミは男の言葉を待ちながら再び思った。あの夜も男は、こんな風に箸を玩びながら、身を震わすウミの話を聞いていた。それは彼女が初めて、両手を血で染めた夜のことだ。

 相手は珍しく彼女を指名した客だ。長身で痩せたその中年男は、肛門性交を強要した。数十秒程の抵抗の後、ベットに抑えつけられた。男の強い腋臭と激痛に目が眩む。拘束用のゴムバンドで塞がれた口元からは、唾が溢れ出した。涙と混じりカビ臭いベットのシーツを濡らした。

 出血した器官に射精された。その熱に、ウミは自分が汚されるという感覚を初めて憶えた。

 行為の後、シャワーを浴びる男の背中に果物ナイフを突き立てた。刺す度に鮮血で手が滑り、最後には刃で自分の掌も傷つけた。その痛みは不明瞭だった感覚を鋭敏にした。すえた血の臭気が胃を刺激し嘔吐した。口は塞がれたままで、危うく窒息しかけた。

 二十分後、彼女はそのビジネスホテルから逃げ出した。頼れる相手は一人しか思い浮かばなかった。確証があったわけではない。だがその相手は少なくとも、拒めば指一本触れぬ程度には、自分の人格を尊重してくれていたからだ。

 義眼の男はそうしてくれた。まず、外せずにいたゴムバンドの拘束具をナイフで切り離してくれた。顔を拭くようにとタオルを渡し、こいつはスイス製だ、と言ってゴムバンドを捨てた。

「割の良い仕事ではない」

「不可能でしょうか?」

「いや、どんな相手にもつけ込む隙はある。特に大柄な組織ともなればな。君ならやり遂げるだろう。そのために教えた術を、充分に飲み込んでいる。君は自分の何かを守るために初めて他人を害した。この危険な依頼を行うだけに見合うものが、今はあることも知っている」

 閉店時間が近い。午後十時を過ぎている。客達は、誰からともなく席を立ち始める。誰もが酒に酔い、虚ろな目をしている。誰もが疲れた表情をしている。そして、顔を上げ自分の方を見つめる男の表情に、ウミは少し驚いた。義眼の男も、明らかに疲労しきっている。それが何に対してのものかまでは、窺えない。

 ただ、男は老いを隠せなくなりつつある。そう彼女は感じ目を逸らした。

「守るべきもの。理由にはなる。だが、それはもっとも危険だ」

「分かっています。ハルカは、今の私にとって唯一のそれです。私達には大金が必要です。今回の話も報酬の魅力が全てです」

「弁護士に聞いた。家裁は、再審理の要請を認めない方向のようだな。あの弁護士は腕は立つし、守秘義務も守る。法を利用する必要がある時に、我々にとって彼以上の適任者はいない。だが、かなり値が張る」

「法的に父親を近づけなくするのが、ベストだと思います。それに……」

 船、か。義眼の男はそう呟き、立ち上がった。ウミの答えに満足したという感じでは無かった。しかし疲労した雰囲気は消えた。

「下へ行こう。品を用意してある」

 ウミも席を立った。眠そうな目をした店員が、テーブルの上を片づけ始めた。グラスには半分ほど紹興酒が残されている。

 背を向ける義眼の男の首筋で、酔いで赤みの増した火傷の跡がうねっていた。

 

 中華料理店の地下は、湿気は感じるが店内よりも涼しい。むしろ肌寒いくらいだ。地下室の半分は、食材を保管する大型の冷凍庫が占めていた。上気し、肌を濡らしていた汗はすぐに引いた。

「今日は、見本って事だから、これだけだ。リストに書かれていたの、揃ってる」

 老人は、鈍く輝くアサルトライフルを両手で抱え上げ言った。とても背が低い。既に七十を過ぎていて腰も曲がっている。まるで古びた置物ようにも見える。アラブ系の褐色の肌には無数の染みが浮かんでいる。

「しかし、この国では、珍しい注文だね。革命でも、始める気かね?」

「まさか。こけおどしよ」

「だろうね。この国、主義も宗教も皆無。テロとは縁遠い。それでいて、変に苛立って、子供、女、虐げる者いる。理解できない。けど、まだ幸せだね」

 手渡されたライフルをウミは構えた。見かけよりは軽い。有名な銃器メーカー、HK社製の品だ。部品の多くが剛性が高く軽量な、特殊ポリマーで構成されている。国連軍の正式採用銃の一つだ。

 義眼の男もライフルを手にした。右腕だけで構え、肩と顎で固定し引き金を引く。微かな金属音が地下室に響く。

「上物だな。すぐに数を揃えられるのか?」

「今週中、オーケーね。新しい横流し相手、見つけた。この国の税関、チェックも甘いしね。貿易の回復が最優先、まだ続いてるらしい」

「大災害以前とはえらい違いだな」

 ライフルを木製の箱に戻すと、ウミは他の品をざっとあらためた。セミ・オートマチックガン、ステアーS9。狙撃用ライフル、バレットM82A1。ガスマスク、催涙スプレー。無線機の類は、アロハシャツが用意する手はずだ。

 さらに奥を覗き込む。灰色のボールのような物がいくつか転がっている。手榴弾だ。こんな物までリストには入れていないはずだ。

 輝きのない目を細め、そいつはサービスだよ、と老人は笑った。キツネのような、狡猾な目だ。言葉とは逆に料金には加える気だろう。取り引きするのは今度で三度目だから、そのくらい分かる。

「それより肝心の物がないわ」

「グレネード(擲弾筒)かね。あれはちょっと、時間も、値も張るね」

 義眼の男と顔を見合わせると、彼は軽く首を振った。なるべく穏やかに交渉しろ、とでも忠告しそうな表情だ。

 溜息をつくと白い息が口元から洩れた。強い湿気が冷気を含み、肌にまとわりつく。惨めさすら感じさせる地下室の陰気さが耐え難い。僅かに身を震わせ、ウミは吐き捨てるように言った。

「足下を見る気?」

「アメリカ製の特殊火器、それも警察仕様の特注品なんて、結構難しいね。あの国、昔より、武器の流通、うるさい」

「何でも手に入る、そう自慢しているのは誰?FBIや、SWATに頼み込むわけでもないでしょう。弾頭も特殊な物はいらない。ゴム弾と催涙弾でいいのよ」

 褐色の老人は、いかにも意外そうに肩を竦める。下手な演技だ。血色の悪い唇はねじ曲がり、その端には唾が溜まっている。

「殺傷兵器。欲しいの、それだろ?」

「ここは中央アジアとは違うわ。相手を押さえ込めれば充分よ。事前にシュミレーションを何度か行う必要もあるの。今週中に用意して」

「厳しい注文だね。やってはみるけどね、料金30パーセント、上乗せ。それで手を打つかね」

 軽く舌打ちする。つまらない交渉事に時間を割きたくはない。自宅ではハルカが自分を待っている。恐らく、来週から一週間以上は一緒に過ごせない。それに、戻ると約束した日には、ハルカは自分が帰るまで寝ようとはしない。眠れないのだ。こればかりはカインに任せるわけにもいかない。

 だからといって、依頼主からの必要経費を無駄に消費する気は、ウミには毛頭無い。

「あんたの母国での仕事の時は、ずいぶん世話になった」

 厳しい目つきで口を開こうとするウミを制し、義眼の男が言った。

「ウミの面倒もみてもらった。あの頃は、もう少し話の通じる相手だったはずだが」

「歳、考えて欲しいね。この国、老いぼれでも金、容赦無し。来てみて、幻滅した」

「老後の事まで持ち出すとはな。多少でも平穏な余生を望むなら、今すぐこんな商売から離れるべきだろう」

「脅す、かね」

 別に怯えた風でもなく褐色の老人は呟いた。笑みは消え、極めて無表情になった。キツネ目がさらに細くなっている。母国の寒村で、額を打ち抜かれた孫の死体を埋めていた時も、こんな顔をしていた。あの少年にもらった銃は、とウミは思い出した。老人が孫に、十二歳の誕生日を記念して贈った物のはずだ。

 明るい少年だった。純朴と言ってもいいくらいに。東洋人の女の人なんて始めて見たよ。そう言って喜んでいた。ウミを慕っていた。初恋だったのかも知れない。気の利いたプレゼントが思いつかなくて、大切にしていた拳銃をウミに譲った。そんな少年だ。

「脅しじゃない。あんたが手に入らない、そう言えば他の取引相手を捜すまでのことだ。ただ、こんな事でつまらない仲にはなりたくない。片腕も左目も、あの土地に置いてきてしまったが、世話になったあんたはここに居る」

 渋い顔をして褐色の老人は黙り込んだ。どの道、大事な顧客を失うわけにはいかない。この国で彼の取引相手は少ない。規制はなし崩しに弱まっている。だが一部を除いて風土的に、銃器類が広まりやすい社会ではない。無関心さを装いつつ、覗きと密告好きな国民性は相変わらずだからだ。

「商売なのは分かる。だが貸し借りで言えば、そっちもゼロではあるまい」

「…15パーセント。これ、限界ね」

 苦り切った声ながら老人は妥協した。ウミは頷いた。

「いいわ。来週の月曜日までに、所定の場所へ届けて」

 腕時計は十時二十分を回っていた。まとわりつく冷気に、軽いくしゃみが出た。何よりも蘇った記憶が、ここに居ることを一層耐え難くしていた。

 あんたの、銃。足早に地下室を出ようとするウミを、褐色の老人は呼び止めた。

「まだ、あれを使ってるのかね」

「ええ」

「あれも、もう十年以上物だ。いいの、手に入る。ニュー・ナンブ、最新式。この国の警察の、最新式だ。装弾数ちょっと少ない、だけど小型で、目立ちにくい。反動も少ないね」

 振り向くと老人は笑顔に戻っていた。商売人の顔にだ。しかしキツネ目の下の鬱血が疲労を隠せないものにしていた。それは義眼の男が先程見せた雰囲気と、やや似ていた。

「いらないわ」

 老人から目を逸らし、ウミは背を向けた。

「充分な優れ物よ」

 老人の孫はロシア兵に殺された。ウミに銃を渡した次の日、丸腰の所を捕らえられ、射殺された。死体の目は見開かれたままだった。瞼を閉じさせようとしたが、硬直しており無駄であった。

 血色を失った皮膚は、その国の冬の風景と同じように、灰色だった。

 中華料理店を出て、通りに駐車していた車に乗り込む。アスファルトの路面から立ちのぼる熱気が、すぐに肌をべとつかせた。何度も言うようだが、と義眼の男が開け放たれたウィンドウ越しに言う。

「今回の相手は、私がかつて居た世界に通じるものを感じる。油断するな」

「はい」

「必要な処置ならば、それを躊躇するな。信じる者は自分だけにしろ。私がその世界で生き残った、つまらない教訓だ」

 頷いて、ウミはアクセルを踏み込んだ。十字路を曲がるとき、ドアミラーに男の姿が映り込んだ。義眼の男は肘から先が欠けた腕を上げ軽く振っていた。

 そんな彼の仕草と以前にはなかった多弁さが、ウミには心配であった。

 

 ハルカは以前のように、泣き出すことはなかった。

 連れていって、置いていかないで、独りにしないで。そんな言葉で、五分以上も泣きじゃくりながら訴えかけ、気を重くさせることもなかった。着替えや身の回りの品を車に運ぶのも、笑顔で手伝っていた。

 閉まるマンションのドア越しにハルカは手を振っていた。とは言えその姿はやはり寂しそうだった。カインが側にいるのは、彼女にとってせめてもの救いのはずだ。

「それで、連中はどんな感じだ?」

「良くないわね」

「シュミレーションは?素人に毛が生えた程度の連中だ、みっちり仕込んだんだろ?」

「十五回中、七回失敗。失敗時の死傷者は平均で六人。それは構わないけど、目標も巻き込まれて全員死亡」

 顔をしかめるウミに、そりゃバイオレンスな結果だ、とアロハシャツは笑った。

 二人が乗るRV車は、国道脇のパーキングエリアに駐車されている。午前七時四十分。既に日の光は射すように強い。街路樹の影に隠れ直に晒されてはいないが、クーラーは二十度に温度設定されていた。

 アロハシャツは運転席で前方を見つめている。視界を、交差点を行き交う車と、通勤者や学生の姿が時折横切る。どちらも大都市にしてはまばらだ。この街全体が過疎だというのは、あながち噂ではないようだ。

「難癖付けるつもりはないんだが、確保方法が手荒くないか」

「短時間で済ませたいの」

「ここは敵地みたいなものだからな。しかし運任せの面が強いし、反撃は必死だ。下手したら町中で大銃撃戦だぜ」

「係わる人間が増え過ぎたわ。私達二人で、実行は可能だと言っているのに」

 後部座席に座るウミは銃の整備していた。スライド部を取り外し、可動部に機械油を差す。光沢のない銃身の所々に傷が目立つ。デザインは無骨だが、計算され尽くしたフォルムにはある種の美しさも感じられる。

 ベレッタ、M8000・クーガーF。十年来の愛用の銃だ。

「無駄な措置だわ」

 バレル部を布で磨きながらウミは言った。

「全部こっち任せってのは気に食わないんだろ。奴等なりの、大義名分ってのがあるしな」

「あまり感じなかったけど」

「イスラムの原理主義者とか、そういう連中と比べちゃいけない。よくある言い方だが、連中にとって今度の事は、一種ゲームの積もりなんじゃないのか?お題目は必要だよ、どんなゲームにもな」

「私にとってはビジネスよ」

「俺だってそうさ。それ以外に何がある」

 ハルカのことは義眼の男に任せてある。いつものことだ。仕事が終わるまで、あの中華料理店の二階に住み込む。初めの頃は義眼の男に対しても警戒心を抱き、嫌がっていた。最近はそれもないようだ。

 自分がずっと世話になっている人だから、信頼できる。そんなウミの言葉を、ハルカは受け入れようと努力している。

 あの男の人は恐くないよ。一昨日の夜、ウミの腕の中でハルカは笑みを浮かべながら言った。

(私に興味なさそうだもの。カインのことばっかり構ってる。それでいて頼むと、中華料理の作り方、教えてくれたりするの。不思議だね、そういう人の方が、全然安心できる)

 口元を緩めながら腕時計を見る。目標が現れるのが、報告されている時間より五分遅れている。ここから通学している中学までは十五分ほどの行程だ。そろそろ通過しなくては、今日は遅刻だろう。

「しかし子供三人に常時ガード付きとはな。まるでVIP扱いだ」

「彼らの立場を考えれば当然よ」

「あの歳で軍人並の待遇とはね。調べてみて驚いたよ。報告のメール、読んでくれたか?」

「ええ。標的としては、最適かもね」

「追加がある。依頼主についてだ」

 アロハシャツはダッシュボードを開けると、中からA4用紙を数枚取り出し、ウミに渡した。銃を組み立てる手を休め、ざっと目を通した。海外のホームページを印刷した物のようだ。

 かなり人を選ぶサイトであることは一目で分かった。古めかしいと言ってもよいマークが、これ読みがしに、用紙の半分を飾っている。

「右翼系の組織、活動し始めたのはごく最近だ。前世紀末に、その筋では名が売れていて、政界の一部にも食い込んでいた活動家が組織した。そこまでは話したよな。この男、大災害後は落ちぶれてヤクザ紛いの総会屋なんかで、食いつないでいたらしいが」

「海外の極右団体との繋がりもあるようね。このマークからすると、ネオナチ?」

「ああ、本場ドイツ生粋の団体だ。奴等が東洋人の活動家と組むとは意外だけどな。苦しい現実を前に誇りを棚上げにするくらいの、忍耐はあるんだろう。アメリカの、有名なミリシア(民兵組織)とも関係があるらしい。組織を立ち上げた資金は、その辺りからの援助だな」

 軽く鼻を鳴らすと、ウミは再び銃を組み立て始めた。つれない反応にアロハシャツは、気落ちした表情で振り向く。

「一応さ、調べたんだぜ。と言っても、ネットで数時間だが」

「お陰で安心できたわ。支払いが滞る、そんな事は無さそうね」

「これだ。興味本位で見れば笑える情報なのに。人の事は言えないが、主義、思想、宗教、いっさい興味なしか」

「愚劣なだけよ」

 溜息をつき、アロハシャツは視線を前方へと戻した。昨日、夜通し降り続いた雨が熱せられた路面から蒸発し、街並みを霞ませている。

 歩行者用の信号が青に変る。視界を横切るものを認めると、アロハシャツはウミの名を呼ぶ。銃を置き、ウミは後部座席から身を乗り出す。

 双眼鏡が手渡される。無色のマニュキアが光る指先で摘み、覗き込む。激しく揺れる通学用鞄。後方に靡く栗色の髪。必死の表情で走る少年と少女。目標だ。

「今日は寝坊でもしたかな」

 キーを回し、アクセルを踏み込みながらアロハシャツが呟く。双眼鏡を左に振る。黒塗りのセダンが交差点を横切って行く。制限速度をかなり下回る速度だ。ウインドウは灰色一色に染められている。外からは乗客の様子は窺えない。

「実際、普通の子供だろ?」

「女の子の方は、かなりの顔立ちだけど」

「おいおい。あんたの趣味を知らないわけじゃないが、仕事優先を頼むぜ」

「ガード、少し甘いようね。近付いてみて」

 三車線の道路上に通行車両は少ない。RV車は楽にセダンを追い抜く。若干速度を落とし、歩道を走る目標と併走する。バックミラーで後方を確認する。セダンの速度には格別の変化はない。鈍い反応だ。

 赤信号にRV車は停止する。目標の二人も、横断歩道を前に足を止めた。どちらも顔が汗だくだ。栗色の髪の少女は、見るからに苛立たしげに、左足の先で路面を踏みならしている。少年の方は肩で息をし苦しげだ。

 運転席のアロハシャツが一瞬身を固くした。少年が、こちらに振り向いたのだ。ウミと目が合う。信号が青に変わる。アクセルが軽く踏み込まれた。

 動き出すRV車の窓越しに、ウミは微笑みを返す。少年の顔が赤らんだ。

「勘付かれたか?」

「いいえ。でも、今日はこれぐらいで充分よ」

 バックミラーに写り込む少年は、ぼんやりと立ち尽くし、こちらに目を向けている。そんな彼の後頭部を、栗色の髪の少女が通学用鞄で叩いた。頭を抱えながら少年は再び走り出す。

 ハンドルを操りながら、おかしなガキ共だぜ、とアロハシャツが笑う。

「報告したとおりだ。ガードの連中は明らかにプロだが、少し慣れすぎだ。残りの一人に付いている連中には、もう少し緊張感があるようだ。三人が一緒の時は前後40メートル間隔で、二つの班が常時付いている」

「あの二人には、警護されている意識が少ないようね」

「付け目の一つだな」

 先週から行っている監視からの情報で、襲撃計画はおおよそ練ってある。目標のガードには付け入る隙が充分あるようだ。依頼者側から送られてきた連中の、手際の悪さを含めて考慮しても、個別に襲撃を行う必然性は認められない。

 目標の三人が揃って外出する時間は限られている。一気に事を片付けるならば、そこを狙うしかない。ウミの腹は決まった。

「依頼者側とハッキング屋への連絡は、すぐにつくわね?」

「いつでも。向こうは焦れているくらいだ」

「いいわ。今夜、召集よ」

 RV車の速度が上がる。長々と続く街並みには、やっと活気が満ち始めていた。

 その日、第三新東京市の気温は、二カ月ぶりに三十度を超えた。

 

 数時間後。長野県茅野市郊外。

 戦略自衛隊・中部方面軍所属、一等陸尉某は、茅野駐屯地所属の補給参謀である二等陸佐と会見していた。

「しかし電話やFAXで済む程度の後方処理ではないか。方面軍の参謀本部も、所属陸尉をわざわざ派遣することもないだろうに」

「何分にも、重要事項でありますので」

「定期演習に備えての、部隊移動だろう?君も損な役を回されたものだ」

 一等陸尉某は、任務でありますから、と姿勢を正した。

 新規任官組、それも士官学校卒となると妙に謹厳で困る。二十代前半の青年将校は、活力と使命感に溢れた雰囲気を、臆面もなく露わにしている。それにいささかうんざりとなりながら、補給参謀は書類に目を通した。

「機甲大隊を二、歩兵連隊を三か……。まあ分かる編成だが、補給大隊を二つも随伴させるとは、少し大袈裟ではないか?それほど長期の演習になるのかね?」

「はっ、今回の編成につきましては、確かに演習が第一義であります。しかしそれとは別に、国内情勢不穏の向きを鑑みて、不測の事態に備える措置でもあると、方面軍より承っております」

「…使徒の事かね。しかしあれに対しては、我々戦略自衛隊に、作戦行動の義務はないはずだが」

 こめかみを指で叩きながら、補給参謀は投げやりな調子で言った。若干だが一等陸尉某の顔が紅潮する。それを窺いながら、やはり若いな、と補給参謀は内心舌打ちをした。

 戦略自衛隊が、憲法の改正を行ってまで編成されたのは、確かに国防が大目的であった。

 大災害後、混乱を来した世界情勢を打開するため、国連がかつて無い指導力を発揮し始めると、各国の軍の指揮系統も国連軍に統合された。前世紀、日本の防衛を担っていた自衛隊もまた、例外ではなかった。

 だが、極東アジア諸国間の緊張関係には依然先鋭なものがあった。特に2002年に発生した中国海軍による、南沙諸島海域封鎖事件は、日本政府に強い危機感を与えた。国連の指揮下より独立する、国益に直結した国防軍の編成は、急務とされたのである。

 だが現在、国防上最重要課題であるはずの、謎の敵対存在への対策に、戦略自衛隊は正規投入されることがない。国連は、使徒と呼ばれるその存在について、非公式ではあるが全世界的な危機を招きかねないものと判断している。

 したがって、使徒に対する軍事行動については、国連軍及びその外郭団体である、直属の特務機関に一任されている。国内の作戦に関する指揮権についても、既に日本国政府との間で合意がなされていた。

 政府は国連に借りがある。南沙諸島周辺海域の資源について、強硬な態度を示す中国側を譲歩させ、日本に対する採掘権の一部を認めさせたのは国連である。

 その見返りとして日本に求められたのは、極東の安全保障体制の要である。かつてそれを担っていたアメリカに、昔日の勢いはない。戦略自衛隊はその代役となりうる存在だ。国連の立場にしてみれば、使徒対策はこちらに任せておけ、というわけだ。

 つまり、戦略自衛隊には自分の家で起きている火事であるのに、バケツ一杯の水を注ぐ程度の事しか認められていない。大っぴらには手出しできないのである。

「参謀本部の苛立ちは理解できる。しかしこういった措置を、中央は喜ぶまい」

「独断専行するわけではありません。実際、国防省職員の多くが、野党の一部から非公式な追求を受ける政府の状況を、憂慮しているわけでありまして」

「それも承知している。だがこの問題に関しては、高度な政治的配慮が必要だ。憲法の改正と、防衛庁から国防省への組織再編。既成事実とはいえ、近隣国の理解を得るには程遠いのが現状だ。第一、かつての旧軍に準じたと誤解されかねない、我が軍の編成に対する反発は覚悟すべきだろう」

 最後の方には存分に皮肉を効かせた。こうして自分の前に立っているこの男からして、その反発の主目標になりかねない人材だ。

 最近、戦略自衛隊発足後の任官将校達に、何かと発言力を強めようとする動きが目立つ。時に居丈高な態度を示す、国連に対しての不満からの行動のようだ。自衛隊からの転属組が多い上位階級者達は、それに反感を持っている。影では軍刀組などと呼んで、蔑視している者も多い。

 だが一等陸尉某は、皮肉に気付いた素振りも見せず重ねて言った。

「ともかく、これは方面軍の決定事項です。承認していただかなくては、私は任務を果たせません」

「分かっている。誰も承認せんとは言っておらん。私にはそんな権限など無いしな。まあ、不測の事態には上手く立ち回ってくれ、そういうことだよ」

 大体、政府の連中や省の御偉方にしても、本気で使徒対策に手駒を投入する腹づもりなどあるまい。補給参謀は承認印を押しながら唇を歪めた。

 大規模な作戦行動となれば、民間の被害も無視できなくなる。そうなれば政府が責任を持って、これまで以上の救済に乗り出す必要が生じる。そんな事は誰も望んでいない。

 国連主導の下、国連軍と直属の特務機関が当たる、局地的な対策ならば、こちらには火の粉は飛んでこない。相も変わらず大言が目立つ政府関係者にしても、本音はそんなところだろう。

 無論、自分もそんな組織見解に逆らうつもりなど毛頭無い。

「参謀本部に戻るのは、明日でよかろう」

 書類を受け取り退出しようとする一等陸尉某に、補給参謀は声をかけた。

「諏訪市まで足を伸ばせば良い温泉もある。体を休めていったらどうかな?」

「いえ。報告を早急に、との事でありますので」

 姿勢を正し敬礼を行うと、一等陸尉某は退出した。

 白塗りの事務棟を出ると外は小雨であった。レインコートを羽織り、駐車場に止められた公用車へと向かう。薄暗い風景の中、遠方の雑木林近くを十二式戦車が泥を跳ね上げ前進していた。足を止め、彼はそれに見入った。

 午前中の訓練を終えた兵士達が、一列になって一等陸尉某の横を通り過ぎる。皆ずぶ濡れであった。誰もが敬礼をしながら行進を続ける。彼はそれに敬礼を返しつつ、呟いた。

「俗官が」

 雨音にかき消され、その言葉を耳にする者は無い。

 

 この日、同様の兵力移動についての通達が、中部方面の各駐屯地に出されていた。いずれも中部方面軍参謀本部からのものだ。部隊の移動先は第二新東京市、第三新東京市、横浜市などの、都市圏に近接した駐屯地、演習場が多かった。

 しかしその事に気を止める者は、ほとんどいなかった。

 九月十七日。午前十一時三十分の事である。

 

 

         [  続く  ]

 

 


瀬戸さんの部屋に戻る/投稿小説の部屋に戻る
inserted by FC2 system