『 BLUE 』
(4)
脳が芯から鈍く痛む。朝からずっと続いている。耐えかねるしつこさだ。頭を軽く振る。逆効果であった。胃がもたれ、吐き気が蘇った。
体質的に、決してアルコールに弱い方ではない。それにしても昨夜は飲み過ぎた。こんな日は、暮れゆく夕日の眩しさも疎ましい。
ダッシュボードの上の缶コーヒーに手を伸ばす。スチール缶の表面に伝わる熱に驚き、手が滑る。缶は運転席の下へと転がり、クラッチに当たって止まった。身を屈めようとすると同僚が手で制し、それを拾った。
「しっかりしろ。とっくに夕方だぜ」
「すまない。完全に二日酔いだよ」
手渡された缶コーヒーのプルトップを開け、男は口に運んだ。舌を痺れさせるほどの熱と、何の深みもない苦味だ。濁った意識をやや鮮明にする効果はあった。シートに身ををもたれながら溜息をつく。よりによってこんな日に、午前からの担当とは、ついていない。
同僚が背広の内ポケットから煙草を取りだす。視線を前方に向けたまま腕を伸ばし、こちらに勧める。飛び出したフィルターの先を摘みかけるが、首を振って男は断った。
「止めたんだ。禁煙一週間目だ」
「本気か?この職場じゃあ、無理だと思うが」
「最近走るときつくてな。それにお前、車内は禁煙が原則だろ?」
「守れないものもあるさ。もともと規則が多すぎるんだよ、うちの部は」
目を細めながら、確かにそうだな、と三隈ヒロキは思った。それを言い出したら切りがないくらいだし、昨夜のことも完全な規則違反だ。
部所属職員同士の、私的交遊は慎むこと。どうかしている。うちは綱紀粛正を常とする、ミッション系女学院ではない。それどころか、そんな世界とは全く正反対の観念を、信奉する職場だ。
建前と本音、表裏の使い分けを、過度に要求される職場。だからこそ、この奇妙な厳格さ、ということだろうか?
「おい、寝るな」
煙草の先をライターで焙りながら同僚が言った。実際、ヒロキは睡魔に身を任せる寸前だった。
「目がとろけそうな感じだ。ほんの五分でいいんだが」
「その五分で下校時間だ。合流する班の連中にも示しがつかん」
「ちくしょう。その当の連中が、昨日の乱痴気騒ぎの主催者じゃないか。もう一ヶ月以上たっているのに、今さら赴任歓迎会もないだろ。会の主役である人間は、女と約束があるとか言い出して、さっさと帰っちまうし」
「あいつは、つかみ所のない男だという評判だからな。まあ、向こうのパイロット担当班じゃないだけでも、ましだと思え。有給休暇、ほとんど使えないらしいぜ」
「うちの組織はあの娘の事となると、やけに緊張感が漂うんだよな。どうしてだろう?」
「さあな。司令のお気に入り、ってことなんだろ」
まだ痛む脳を、金属的な音が容赦なく震わせた。下校時間を告げるチャイムだ。後頭部をさすりながら窓の外に目を向ける。
どこもそうだが、中学校の校舎に建築美など見出せない。コンクリートの壁面を夕日がオレンジ色に染めている。校門の辺りには家路を急ぐ生徒達の姿が、少しずつ窺え始める。皆それなりに楽しげな、それでいて疲れた表情だ。
いい加減、子供のおもりにも飽き飽きだが。校門を少し出た所で、何事かを話し込む女学生達に目を向けながら、ヒロキは顔をしかめた。
あの三人に同情しないわけでもない。十四、五と言えば行うべき何かを感じ始めつつも、把握しきれない年頃だ。その焦燥は、当事者にしか推し量れるものではない。それが更なる焦りを生み出す。十年もたてば稚拙さを脱するための、通過儀礼に過ぎなかったことなど理解できる。しかし無駄なものでもない。
自分には、その頃の記憶に、笑って噛み締められるものは少ない。だが今の子供達は違う。そんな余裕を取り戻すための復興であったはずだし、俺の仕事もそれを維持するために、多少は役立っていると考えたい。そうでなければ無意味でしかない浪費が、多すぎる仕事だ。
三つ編みやポニーテールや、ショートカットの娘達が、車の横を通り過ぎてゆく。彼女達が着る制服も校舎と同じで、味も素っ気もないデザインだ。時折路上に駐車したままのこちらに目を向ける。車内の様子は窺えないだろう。興味を無くすと、友人達との会話にすぐ戻る。
目を逸らし、彼女達の笑い声に耳を傾ける。平穏でしかない時間。どこにでもある風景。皮肉なものだ。そんなものを享受するべき当の少年と少女に、それを守る役目が背負わされている。それが俺達の組織の実体だ。
あの三人の心中に思いを巡らすことなど、職務上必要な限りの範囲でしか許されない。それでも、使命感や義務感を求めるには、まだ幼すぎるぐらいは分かる。
特にあの少年は辛そうだ。彼の警護兼、監視担当の職務に就いて既に二年近くになる。あの年頃特有の、やり場のない感情そのままの行動に、手を煩わされたこともあった。分からない反応ではない。明確に拒否できない意志の弱さも、こちら側にとって好都合なだけだろう。
俺があの子達ぐらいだった頃と、今のあの子達と、どっちが幸福だろうか?
無駄な問いだと認識しながらも、考えることが稀にある。個人の幸福や不幸というものは、客観性が伴えば、他人からだって推し量ることは可能だ。とは言え、これはかなり難しい問題だぞ。
望みながらも手に入れようがない自由と、選択権がありながら制限される自由。
辛いのはどっちだろう?彼らには、どんな報酬が相当なのか?
「出てきたぞ」
同僚の声に、ヒロキは慌てて思考を切り替え前方を見据えた。どこか弱々しい感じの背中。夕闇に映える長い栗色の髪。少し遅れて続く、機械的な歩調。いつも通りの姿だった。少年と少女達は、揃って通りを歩いて行く。
「おい、別班の連中はどうした?」
「さっき連絡があった。合流するには遅れたらしい。先行して警護位置に着くそうだ。聞いてなかったのか?」
「聞いてたさ。なら、俺達は後方担当だな」
「昼寝でもしてたんだろうよ。示しがつかないのは向こうだったな」
エンジンを始動し、三人との間隔が開くのを待つ。遠ざかってゆく彼らの後ろに、長い影が伸びる。視線を向けながら、二日酔いとはいえ今日はどうかしてる、と首を振った。
保安諜報部の職務規程には、真っ先にこうある。職務上、対象となる存在に対しては如何なる感情も伴わぬよう、厳に戒める。よくある訓辞だ。別にこの職業に限ったものでもない。
だが、それは適切な忠告と言えるだろう。こちらにとっても、相手側にとってもだ。お互いに問いかけあったところで、生じるものは不快感でしかない。そのことは理解する必要があるのだ。
「なあ、さっきのコーヒー、なんでホットだったんだ?暑さを考えろよ」
「あれしかなかった。売れ残るといったら、今時ホットだと相場が決まってる。熱くなっても無意味なのさ。お前も気を付けるこったな」
黒塗りのセダンが静かに動き出す。警護時の制限速度は20キロ。これも規定の一つだ。こうも毎日回転数を抑えつけていたら、そのうちBMWエンジンも値を上げることだろう。
今週だけで二回の規則違反だ、気を引き締めないと査定に響くな。皮肉めいた笑みを浮かべ、ヒロキは座席に座り直した。
それにしても、あれだけの数の職務規程を、ちまちま考え出した奴の顔が見てみたい。相当神経質な人間に決まっている。でなければ、ただの暇人だ。
夕日が射し込む大部屋には、グレーの机が規則正しく並んでいる。卓上には何も置かれていない。入り口近くに設置されたホワイトボードも真っ白だ。時折流れ込んでくる微風とカラスの鳴き声のみが、室内の空気を震わせている。
部屋を以前使用していた不動産会社は、住民数の減少に伴い、事業から撤退した。職務上の痕跡もすっかり消していったようだ。後から入居してくる者を、不愉快にさせるような去り方はしなかったわけだ。机が残っているのは、リース会社が回収を怠っているからだろう。
このオフィスビルは全室が空だ。聞くところによるとこの街に、営業所を構えている大手企業はかなり少ない。繁華街の方はそれなりの賑わいだが、よく経済が成り立つものだ。
何にしろ、舞台は向こうで設えてくれてたってことだな。開け放たれた窓辺に立ち、アロハシャツは眼下の通りを見下ろした。
二車線の広い道路に、通行者や車両の姿は全くない。道路は彼の視界の右手でT字路になっている。北には都市中心部の高層ビル群が見える。左手には緩やかな下り坂が約200メートルほど続き、その先で国道と合流している。
腕時計を見る。午後五時三十六分。目標が到達するまで、あと六分だ。窓際から離れ、机の上に置かれた狙撃用ライフルを手にする。一昨日、海老名市郊外の大手自動車メーカーが遺した廃工場で、三十発の試射を行った。標準と引き金の調整は済ませてある。
放置されたままの回転椅子に腰掛け、ライフルを膝の上に置く。待機し始めてから五本目の煙草をくわえる。煙に目を細め、アロハシャツは子供の頃に見た、古い映画の一場面を思い出していた。
主人公はフランスの大統領を狙いながら、オルゴールの音色に耳を傾けていた。何のつもりなのか知らないが、確か曲はスコットランド民謡だ。結局狙撃には失敗する。原因についてはっきりと描かれてはいなかった。それがあの曲だというのなら、くさい演出だ。
笑みを浮かべ、上着の内ポケットから小型受信機を取り出した。無線傍受のために用意したが役に立つとは思えない。目標に付いているガードの連中は連絡に、守秘回線を使用している。盗聴をしても無意味だ。
警察の動きもあまり気にする必要がない。驚くべき事だが、この街には公安力と呼べるものが、ほとんど介在していないらしい。目標となる組織の性格上からか、または組織に対する信頼の現れなのかは分からない。どちらにしろ好都合なのには違いない。
イヤホンを右耳に突っ込む。FM放送の周波数に設定した。周囲を山に囲まれているせいか感度が悪い。若い女性DJの早口が飛び込んできた。ずいぶんと濁った声だ。煙草の吸いすぎだろう。
気持ちは、分からないでもないけどねえ。でも、想いが伝わらない、そんなのありがちだって思った方が身のためだよお。もうさあ、純愛、なあんて構えてもストーカーだ!って、決めつけられかねない時代なんだし。言葉にしなくともいつか想いは伝わる、ねえ。きついけどさあ、そんな理解力、求めるのは身勝手かもよ。女の子が求めるそれって、ディープな気持ち、そういうんじゃないと思うけどなあ。
再び時計を見る。時間だ。
立ち上がり、窓際で身を屈めた。ライフルを窓縁と肩で固定し、スコープを覗き込む。狭い視野の中、黒塗りのセダンが鈍い速度で、坂を登り始めるのが見えた。先行するガード班だろう。
視野を右に移す。T字路を曲がる、ライトバンの姿を確認する。荷台がビニールの幌で覆われている。ウミの言うとおり手際が悪いな、少し早い。ライトバンは対向車線に入り、速度を徐々に上げてゆく。
ひとしきり、女DJは恋愛論を語り終えると、リクエスト曲の題名を告げた。再び視界を左へと移す。スコープの倍率を調整しセダンの姿を追う。車体の表面は過度に塗られたワックスで、夕日を照り返していた。
ややノイズ混じりの静かな曲調だった。英語の歌詞が流れ始める。
『 愛は真実 真実は愛
愛は感覚 愛を感じること
愛とは 愛されたいと望むこと 』
アロハシャツは唇を歪めた。古い歌を知っていやがる。
約二十メートル先に、長々と続く坂道を大儀そうに歩く、三人の姿がある。気弱な少年と栗色の髪の少女は、お喋りに夢中のようだ。
いつものことだが、二人とも穏やかな雰囲気とは言いかねる。特に少女の方はやたらと手が早いことから、同僚達の間で密かに物笑いの種と化していた。一方、赤い瞳の少女はあからさま無関心そうに、やや遅れて続いている。
三人の姿が坂の半分を過ぎた時だった。赤い瞳の少女が突然足を止めた。訝しげに振り返る他の二人を無視し、少女は首を巡らしている。その姿はまるで、危機を察した草食動物が、耳を立て周囲の気配を窺うかのようであった。
乾いた音が鼓膜を震わせた。残留するアルコールで濁った意識にも、異変を知らせるには充分な音量だ。
「今の音、何だ?」
「わからん。車のバックファイアじゃないのか?」
ヒロキは座席から身を乗り出し、視線を坂の上へと向けた。
セダンが一台、頂上よりやや下で止まっている。先行する警護班の車両だ。あれではガード兼監視の連中が常に張り付いているのを、あからさまに示すことになる。対象となる本人たちには、正式な説明はなされていない。
完全な規程違反だ。普通ではない。
「エンストでも起こしたのか?」
困惑する同僚の声を無視しウインドウを開ける。先程と同じ風船が破裂するような音が響く。回数は周囲のビルなどに反響し、正確には分からない。だが、最早何がそれを放っているのかは明白だ。
違う、バックファイアなんかじゃない、こいつは銃声だ!
「三人の横に付けろ!」
「どういうことだ?どこから撃ってきてるんだ!?」
「そんなの知るか!盾にならなきゃ、三人とも簡単に殺られる!」
アクセルが強く踏み込まれる。後輪タイヤの擦れる嫌な音が、脳の痛みを呼び戻す。ちくしょう!顔を歪め、ホルスターから銃を抜き取る。訓練以外で一度も撃ったことはない。その冷たく堅い感触には、ほとんど馴染みがない。
異変を完全に認識したのか、少女二人は後ずさりし始めた。だが、少年は立ち尽くしたままだ。恐らく身体が震え、足も竦んでいるのだろう。
ふざけるな馬鹿野郎!死にたいのか!思いっきり罵りたくなった。側にいたら殴り倒してやるところだ。坂から蹴り落としてやりたいくらいだ。
ヒロキの代わりは栗色の髪の少女が務めた。少年を怒鳴りつけ腕を引っ張る。坂の上に顔を向けながらも、少年は鈍く足を運ぶ。数秒後、彼らは坂を駆け下り始めた。
次の瞬間だ。発砲音が連続した。走る三人の数メートル後方の路面で、白煙が弾けた。跳弾だ。三人とすれ違う。気弱な少年と栗色の髪の少女は、恐怖に顔が引きつっていた。
「あのライトバンだ!くそ、五人、いや六人いる!」
ブレーキを踏み込み同僚が叫んだ。セダンは半回転しながら速度を落とした。ドアを開け、ヒロキは急停止したセダンから転がるように飛び出した。発砲音は今や間断なく続いている。先行班の同僚二人は車を盾に応戦を開始していた。襲撃者はライフルらしき物を連射しながら、次々とライトバンの荷台から飛び降りる。
路面を這い、開け放たれたドアの陰に隠れた。鋭い、空気を切り裂く音がした。頭上のウインドウに穴が空き、細かいガラス片が降り注いだ。右の頬が切れた。正気か?町中で銃撃戦をするつもりか?
身を起こし、ドアから半身を乗り出した。狙いも何もあったものではない。夢中で引き金を引こうとする。手応えがない。もう一度試す。軽すぎる。力がない。指先ではなく、引き金にだ。
背筋を悪寒が走り抜けた。どういうことだ?こんな時に故障か?
「馬鹿野郎!安全装置を解除しろ!」
同僚の怒鳴り声にヒロキは慌てて身を屈めた。セフティ・ロックを外そうとする。指先が震え失敗した。なんて様だ!自分を罵り、四回目で解除した。
再び身を起こす。その瞬間耳元で、通り過ぎる弾丸の風圧と、肉がうち破られる鈍い音、そして誰かの苦悶の声を感じた。反射的に顔が横へと向いた。
同僚が、眉間から鮮血を吹き出しながら、後方に倒れ込むのが見えた。ゆっくりとだ。その光景に現実感は全くない。まるでスローモーションだ。彼の顔に表情はなかった。能面だ。どす黒い顔料をぶちまけられた、能面のようだ。
ドアの影で路面に突っ伏し、ヒロキは身を震わせていた。膝に力が入らない。周囲に反響し幾重にも重なる発砲音も、遠いものにしか感じられない。何の感慨もない。激情も湧かなかった。認識できるのはただ、背中から全身を膜のように覆い尽くし、肉体の力を吸い取る、重みのようなものだけだ。
制御を失いかけた感覚が、微かな熱を感じ取った。それは激しいものではなく、心地よさをも伴った温かさだ。それを意識としてたぐり寄せようとした。獲得するまでどの程度かかったかは分からない。一分か、それとも数秒のうちか。
微かに力を取り戻した腕と両足で、身を起こした。呼吸を整え、あの温かさの元を探ろうする。下方だ。自分の身体の、下半身だ。視線をそちらに向けた。
それが何であるか明確になり、ヒロキは笑い声を上げた。銃声をかき消すほどの大声でだ。足を運び始める。つま先が滑り転倒しかけた。唇の端を歪め銃を握り直す。彼は失禁していた。
後方の銃声は散発的になりつつある。応戦する同僚達の状況は掴めないが、なすべき事は分かっていた。あの三人の保護が最優先だ。襲撃者は後ろの連中だけとは限らない。パイロット達が生き残れば、俺達の勝ちだ。
坂を駆け下りる。両足とも嘘のように感覚を取り戻し、下り坂も手伝って速度に乗った。生まれてこの方、一度も憶えたことのない、高揚感すら全身を駆けめぐる。
流れ去る光景の中心に、三人の姿を捉えた。立ち尽くしている。理由はすぐに分かった。彼らの前方で停止しているワゴン車。覆面のような物で顔を隠した連中が数人、車内から現れた。
距離は約50メートル。間に合わないか?ヒロキは顔を歪め、両手で銃を握る。三人が前にいては連中を狙撃するなど無謀だ。しかしこちらに注意を向けさせなくては意味がない。腕を真上に上げ、引き金に指をかけた。
彼の指は凍り付いた。視界の隅に、予期せぬものが現れたのだ。
民間人だって!?坂の終わり辺り、児童公園へと続く脇道から出てきたのは、白髪の老人だ。最悪だ、銃声が聞こえないのか?古びた自転車を不器用に操り、老人はフラフラと角を曲がり始める。
叫びながら頭上に向け発砲する。少年と少女達がこちらに振り向く。襲撃者も一斉に顔を向けた。だが白髪の老人は目前の光景に驚きつつも、下り坂にハンドルを取られ、止まることが出来ない。
襲撃グループの最前列の一人が、片腕を水平に上げた。その男は笑みで顔を歪めていたに違いない。覆面で表情は隠されているがそうに決まっている。数度、握られた銃から白煙が上った。
三人の注意をこちらに向けた事は正解だった。白髪の老人の後頭部が破裂した。血煙が後方に立ちのぼた。頭部が前後に激しく揺れ、脳髄が飛び散る。ハンドルを操る腕が折れ、ペダルから足が滑り落ちた。自転車の前輪が路肩に乗り上がる。老人は前のめりに宙へと放り出された。
自転車のベルが路面に当たり鋭い音を立てた。白髪の老人の身体はアスファルトに二度叩きつけられ、路上を滑った。反対側の路肩に激しくぶつかりうつ伏せに止まる。微動だにしない物体の後には、血潮が筋となり泡立っていた。
呪詛の声を上げ、ヒロキは銃を前方に構え放った。最早三人の姿など目に入らない。老人を撃った男の身体が硬直し、後ろに仰け反る。それでもヒロキは連射を止めなかった。
少年と少女達がこちらに駆け寄ろうとする。襲撃者の一人がアサルトライフルの銃口を彼らに向けた。側にいたもう一人が、手にした筒状の武器で、ライフルの銃身をはね除けた。
女?相手の服装は、ダークブルーのスーツとタイトなスカートだ。髪は肩の辺りで纏められていた。覆面だと思っていたそれは、ガスマスクであった。
銃口をまっすぐ女へと向けた。距離は20メートルほどまで接近していた。外すつもりなど無い。だが発砲には早い。三人がこちらに来るまで、時間を稼がなくてはならない。
そんな思惑など見通しているかのように、女は武器をこちらへと構え直す。もう躊躇っている有余は無い。だが三人の姿がちらつき、標準を困難にする。焦りで銃身が震えた。
くそ!どきやがれ!
その時だ。ヒロキは微かな、笑い声を聞いた気がした。この距離でありえるはずもない。しかし柔らかい、それでいながら冷たい笑い声は、明らかに女のそれだった。
左肩に熱を感じた。つい先程まで股の辺りに感じていたそれとは、比べものにならない、すさまじい熱だ。コンマ数秒後、激痛へと転じた。衝撃に銃を取り落とし膝を屈した。
前方からのものじゃない、狙撃担当までいるのか?痛みのみが鮮明になってゆく。乱れきった呼吸がさらに加速した。再び、あの膜のような重みが、肉体にまとわりつき始めた。
何かが近くで破裂した。白い煙が周囲を覆う。両目と喉にも痛みが走る。瞼をきつく閉じる。眼球が焼けるようだ。催涙弾か。路面に顔を押しつけそれから逃れようとする。無駄だった。
少年と少女達の姿は捉えることが出来ない。眉間の筋肉から力が失せた。瞼が緩んだ。意識は既に限界だ。
気を失う直前、ヒロキは全身を包み込む重みに、色彩を認めていた。
それは暗闇だ。暗闇としか形容しようのない、色彩だった。
(5)
スクリーンに映し出される映像に、誰もが見入っていた。
単純な原色の光景が連続していた。アスファルトの路面の黒。強力なタングステン・ライトの光を反射するガラス片の輝き。あちこちに染み込んだ朱色の血流。
医療班らしき姿の男が指で何かを示す。カメラのアングルがぶれながらそれに近付く。黒服の男が、路面に伏している物体を蹴り、転がした。カメラがズームした。
老人の顔が大写しになる。頭の三分の一が欠落している。見開かれた両目は半転し、虚ろな白色の眼球が突出していた。医療班の連中が死体を持ち上げ、担架に乗せる。半開きの口の端から舌が垂れ下る。青白く変色した舌は、海牛のような軟体動物を連想させた。
「大丈夫か?無理に見なくてもいい」
男は画面を見つめたまま、傍らに立つ女に小声で囁いた。目を背けていた女は慌てて視線を戻した。室内は照明が消され、二人の表情は画面からの光が映り込む、瞳の輝きしか窺えない。時折響く咳の音などから、観客は彼らだけではないようだ。
「…どうって事ない。凄惨な場面なんて、もう見慣れているわ」
「人間ってのは、そうないだろ」
「気遣いなら無用よ。にしても、民間人まで巻き込むなんて……」
「今までにもなかった事じゃないが」
冷静な声に、女は素早く顔を向け睨み付ける。室内の強い空調で女の長い、少しウエーブのかかった髪が靡く。
男は顎に手やる。そり残された無精髭の擦れる音が微かにした。
「この組織ではよくあることだ。君だってそう言っただろ?」
「意味が違うわ。今度の敵は、私達と同じ人間よ。こんな行為は無駄でしかない」
「その差、だけだ」
顔を突き出し女はなお反駁しようとした。その腕が強く握られ引き戻される。制したのは、眼鏡をかけた女だ。セミロングの髪は金色の光沢を放っている。眼鏡のレンズには映像が写り込み、瞳の動きを隠していた。
映像は現場の状況を淡々と伝えてゆく。音声はない。カメラのピントもずさんだ。それでも室内にいる者達に対し、憂慮すべき事態が起きたことを、充分に示していた。
「もういい」
抑揚のない声が響く。映像が消えた。室内は暗闇に包まれ、あちこちから咳ばらいが聞こえた。十秒後照明が輝いた。すぐに静寂が戻る。
部屋は思いの外広い。長机が寸分の狂いもなく長方形に並べらている。どうやらここは会議室のようだ。壁は全面が、無色といった方が適切な白色だ。一方の壁面に設置されたハイビジョン・スクリーンと、机の上に何台かある電話機以外、何の装飾もない。
広さとは逆に、人間工学を完全に無視した、閉鎖感を強く感じさせる部屋だ。
「パイロット三人の生存は確認できたか?」
部屋の奥側に位置した席に座る男が言った。短い髪と顎髭。度の強そうな、眼鏡のレンズが顔の中央で輝いている。
その問いに、大柄の男が慌てたように、手元の書類に顔を向ける。顔は彫りが浅く妙に平板だ。皺一つない上下のスーツ。全身黒ずくめの服装である。
「調査中です。遺体は発見されていません。現場の血液と組織片を採取し、医療部に分析を依頼しました。パイロット三人の血液型、及びDNAとの比較中です。ただ、数少ない目撃者への尋問等から、パイロットは全員、拉致されたものと推測されます」
「襲撃者の足取りはどうだね?この街は我々の庭だ、容易く離れられないと思うが?」
顎髭の男の横に立つ、初老の男が尋ねる。髪のほとんどは白髪だ。細面の顔は、普段は柔和な表情を浮かべていそうだが、今は目つきも厳しい。
「…それが、事態発生より約三分後、第三新東京市の道路管制システムの一部に異常が発生し、一時的にダウンしました。各所の交通が混乱を来し、都市周辺の通行車両の把握が困難となり」
「報告は手短に頼む。つまり連中は、既に逃走した。そういうことかね」
「はっ、事態発生より四十分以上経過しています。恐らくは」
苦りきった表情で初老の男は両腕を後ろに組んだ。やや俯き、何事かに思いを巡らしているようだ。その間、誰も言葉を発しようとはしなかった。
顎髭の男の表情に変化はない。握り合わせた拳で顔を支えている。この男には表情というものが、そもそも希薄な雰囲気がある。年齢も定かではない。やや暗い感じの目つき以外、これといった特徴がないのだ。
空調音のみが室内に響き続ける。ずさんな設計のせいか、初めから考慮もしなかったのか、騒音ともいえる音量だ。やがて初老の男は顔を上げた。
「加持君。やはり襲撃は組織的なものと、見てよいのかね?」
加持と呼ばれた男、無精髭の目立つその男は、姿勢を正そうとはしなかった。こんな場には似つかわしくない、軽い口調で彼は答える。
「でしょうな。襲撃は二班で行われています。片方は目を逸らす役目だったんでしょう。連中は、目標となる三人にガードが張り付いていることなど、先刻承知だった」
「計画的だな」
「極めて大胆かつ周到です。交通管制システムのダウンも連中の仕業でしょう。あれの管理はネルフからは外れています。市行政委員会の管轄だ。システムへの侵入はずっと容易です。パイロット達の、日常の行動ルートも、完全に把握していたようです」
「場所の選定もそこからかね」
「見事なものです。道路は緩い坂道。上から襲えば三人が駆け下り、ガードとの距離が開くと計算したんでしょう。銃撃戦は派手だったようですが、こちらの死傷者は三人。連中は、銃器の扱いには慣れていないようです。しかし目的を果たせば瞬時に逃走している。恐らく指揮をした者が、かなりの奴なんでしょうな」
「二人射殺したそうだな。身元の手がかりとなるような物は……、まあ残すまいな」
黒服の男が姿勢を正し、一切ありませんでした、と答える。
再度の沈黙。事態の重要さからすると、それは異常なほど続いた。彼らの誰もが何らかの道のプロであることは、一目瞭然である。誰もが、そういった人間にしか放ちえない、ある種の重厚さを漂わせている。
だが彼らは、明らかに困惑もしている。この種のテロ的行為への対処には、専門外であることを窺わせる。もっとも彼らの内、二人の男にはその混乱が感じられない。
捜索の方はどうなっている。その一人、顎髭の男が口を開いた。
「既に開始されています。第三新東京市周辺の交通機関、及び幹線道路等への、諜報部職員の配置は、二十分程前に完了しました」
「遅すぎるわよ」
天井の全面から照明が降り注いでいる。壁や床、机の表面で光が乱反射している。部屋中の影という影が希薄となり、コントラストが曖昧だ。
その色調に相応しい冷めた声に、何人かが顔を向けた。声の主はウエーブのかかった髪の女だ。怒りで目の端が吊り上がっていた。豊麗な肉体に相応な広い肩も、微かに震えている。冷静な声と美しい容姿とは裏腹に、かなり凄みがある。
「今回のこと、一体諜報部はどう考えているの。あの子達のガードは、全てそっちの責任でしょう。プライバシーの監視ばかりに血道を上げて、守るべき時に役に立たない。そんなのお笑いだわ」
「よせ、葛城」
「加持君、あなただってその中の一人なのよ。だから黙ってて。この場ではっきり聞きたいわ。諜報部は今回の事態に対して、どう責任を感じ、どう対処するつもりなの」
厳しい視線を浴びせられる黒服の男には萎縮も、悪びれる様子も無かった。瞳の動きはサングラスに隠されている。男は淡々と答えた。
「警護体制に不備があったかどうかは、内部調査終了後、回答を出します。責任者の処罰も行うつもりです。保安諜報部は今回の件に対し、全力を挙げて対処する所存です」
「当たり前だわ」
「しかし失礼ながら、葛城一尉はやや私情を挟みすぎのようですな。プライバシーの監視と申されますが、現に壱号機専属パイロットは、過去に職務放棄を企てております」
男の平目のように平板な顔が、僅かに変化した。唇の端が歪んでいる。皮肉混じりであることを、殊更に隠すつもりは無いようだ。
葛城と呼ばれた女もそれを受けて、吐き捨てるように言った。
「何が、言いたいの?」
「パイロットの精神面に対する管理は、我々の職務管轄外です。とは言え、組織の全体目的の前に、個人的事情は障害に過ぎないのです。我々は、その信念の元に行動しているだけです。お解りではあるとは思いますが、使徒に対する作戦責任者であるそちらにも、この点は御徹底願いたい」
「プロとしての心構えとでも言うわけ。そのプロが、この有様?よく分かったわ。今回の敵はとんでもない、やり手だってことがね!」
「二人ともいい加減になさい!」
険悪な、無意味でしかない争いに割って入ったのは、金髪の女だ。不服そうに振り向く葛城に女は言葉を続ける。軽く閉じられた目尻の下の、泣きぼくろが目立った。
「この事態への対処は、私達全員の責任よ。それを協議するのがこの場の目的だわ。あなたの気持ちも分かるけど、確かに情に流され過ぎよ」
「感情以前の問題だわ。私が言いたいのは、諜報部だけに任せてはいられない、ということよ」
「では葛城一尉、君の意見を聞かせてもらいたい」
顎髭の男が言った。その口元には、笑みらしきものが浮かんでいる。この状況を楽しむだけの余裕があるらしい。振り向き、葛城は務めて冷静さを取り戻しながら答えた。
「作戦部を代表して私は、当別措置A−44の発動を要請します」
彼女の言葉にこれといった反応は無かった。顎髭の男もまた、目で先を促しただけだ。
「日本政府、及び警察庁を初めとする公安機関への情報公開と、公式な援助を求める事に、リスクが伴うのは承知しています。しかし事態の緊急性は、それ以上のものと認識します。直ちに国内の主要交通機関、幹線道路等に、大々的な検問を実施すれば」
「行政委員会を通じ、非公式に周辺地域への検問実施は要請する。だが拉致の目的が特定し得ない現状において、A−44発動の必要性は認められない」
「し、しかし」
反論しようとする葛城を、金髪の女が遮った。
「ネルフはあくまで非公開組織よ。それにA−44は、日本政府と国連の間での、妥協の産物に過ぎないわ」
どこか生徒を諭す女教師のような感じだ。言葉をいったん切り、冷えきった視線を黒服の男へと向けながら、女は続けた。
「職務権限ばかりを尊ぶ、頭の固い官僚連中とのね」
「建前はそうでしょうけどね、少なくとも政府や行政機関の間では、ネルフの存在は公然の秘密よ!」
「エヴァのパイロットが全員消えた。このことは単に、使徒に対する有効な対抗手段を失っただけではない。私達には敵が多いのよ。今回のことが公になれば、どんな事態を招くか予測がつかない。それぐらい、あなたにも分かるはずよ」
その主張には迫真性があった。現に、ネルフはテロの標的になっている。
今回だけではない。約二週間前、第三新東京市の主要電力がダウンするという事件が起きた。ネルフ本部施設への電力供給に支障を来し、直後に現れた使徒に対する防衛戦は、苦戦を強いられた。
調査の結果から、人為的なものであったことは明らかだ。恐らく、電力の復旧過程を観察しようという意図があったと推察される。つまり、ネルフ本部のあるジオ・フロントの内部構造を、把握しようとする者がいたことになる。目的は何か?配電工事会社が新規営業用の資料を得るために、仕掛けたわけではあるまい。
他人の不幸は蜜の味とも言う。ネルフの現状を知れば、歓喜する者がいるはずだ。国連直属という肩書きなどあまり意味を持たない。この世界の誰もが、その大儀に従っているわけではない。
葛城は黙り込んだ。筋が通っているのは分かるだけに、反駁しようもない。それを確認すると顎髭の男は口を開いた。
「諜報部はパイロットの所在確認、確保に全力を挙げろ。捜索の範囲を中部、関東一円に広げるのだ。海外便の存在する主要空港、及び港湾施設への部員配置も急げ」
皮肉めいた笑みを浮かべ、身を僅かに逸らしていた黒服の男は、居ずまいを正し答えた。
「直ちに、実施します」
「広報部と協力し、各マスコミへの対応も準備しておけ。目的が反体制的なものならば、遠からず声名を出すはずだ」
「そのように処理します」
頭を下げ、黒服の男は部屋を出ていった。どこか活気に溢れた足取りだった。その姿が閉まるドアにかき消されると、初老の男は大きく溜息をつく。
「ああは言うが、失態であることに、間違はないだろ?」
「分かっている」
「どの道、今は相手の出方を待つしかないな」
「ああ。もしそのつもりなら、パイロットはあの場で、処分されていたはずだ。連中はいずれ我々に対し、何らかの要求を突きつけてくるだろう」
「くだらんことだ。使徒という全人類にとって、もっとも危険な存在が現れているというのに」
「危機の本質なんて、簡単に見えるものじゃありません。自分の身が一番可愛い。実際、そういう連中は多いものですよ」
大袈裟に肩を竦め、加持は冗談めかした言い方をする。どこまで本気で言っているのか飄々とした態度からは窺えない。別に厳しい表情をするわけでもなく、初老の男はそちらに目を向けながら言った。
「赤木博士。念のためだが初号機と弐号機は、いつでも稼働できるよう、手配しておいてくれたまえ」
金髪の女が頷く。
「零号機はどういたしましょうか?現在、神経回路のチャック中ですが」
「そうだったな。現状維持で頼む」
「分かりました」
「御苦労だった。葛城一尉と赤木博士は、配置に戻ってくれ」
金髪の女は背を向ける。だが葛城は、逆に一歩進み出て、顎髭の男に向かいあう。
「何かね?」
「司令、お願いがあります。私を捜索に加わらせて下さい」
「葛城……、無茶言うなよ」
横から加持が口を挟む。笑みを浮かべている。声の調子から、呆れているわけではないようだ。それを感じ取る余裕もないのか、葛城は再び怒りを露わにした。
「私の部下の事なのよ!シンジ君とアスカは、私が預かってもいるんだから!」
「およしなさい。あなたは職務を放棄するつもりなの?」
金髪の女も制止する。こちらは、心底呆れ返った様子だ。
「あの子達がいなければ、それも果たしようがないわ!」
「使徒が今、現れないという保証はどこにもないのよ。エヴァが動けない以上、私達は通常兵器で立ち向かうしかないわ。その指揮は誰の仕事?あなたの責任でしょう?」
「だけど!」
「許可は出来ない、葛城一尉」
顎髭の男が告げた。相も変わらず表情に変化はない。ゆっくりとした語り口だ。僅かにそれが、当然の事を言わせるな、とでも思っていそうなことを垣間見せる。
「君一人捜索に加わっても、大きな影響があるとは思えない。既に指示したとおり、これは諜報部が行うべき事だ。君は自分の職責を果たしたまえ」
「葛城、ここは任せてくれないか。これは本来、俺達が行うべき職務の範疇だ。俺だって三人のことは心配なんだ。諜報部に属す者として責任は感じている」
浮ついた表情を引き締め加持が言った。顔を上げ、葛城は彼の目を真っ直ぐ見据えた。彼女の大きな瞳が潤んでいた。それに加持は、柔らかい笑みを浮かべた。
「大丈夫だ。あの三人は、責任もって君に返すよ。自慢の不味いカレーでも用意して、待っていてくれ」
「…分かったわ」
葛城は顎髭の男に頭を下げ、金髪の女と共に出口へと向かう。約束よ。すれ違いざま、加持にそう告げるのは忘れなかった。
髪の毛は、相変わらず綺麗だな。彼女の後ろ姿に向かって片目をつぶりながら、加持はそう思っていた。
困った作戦部長だ。この男には珍しく苦笑混じりで、顎髭の男が呟く。
「無理もないですよ。仮にも、一つ屋根の下で暮らしているんですから」
「まあいい。ところで、相手が何らかの要求を出してきた場合、交渉役が必要だ。それは君にやってもらおう」
さも意外そうに加持は顔をしかめる。何かしらの本音を隠そうとしているのならば、それはずいぶん下手な演技だった。
「俺が、ですか?」
「数人、君の指揮下に人員を割く。無論交渉と平行し、捜索にも加わってもらう」
「はあ。と言うことは、独自の判断で動いてもいいんですね?」
「そうだ。交渉の際、飲める条件は飲んでも構わない。ただし、あくまで時間を稼ぐためだ。そう心得てくれ」
「まあ、やってはみますが」
「それから今回の件について、背後関係を洗ってもらいたい。組織的な敵対行動である以上、単にパイロットの救出のみで、済ませるつもりはない」
「次々と大役を任されたものですな。あまり買いかぶられても困りますが」
肩を竦めながら加持は溜息をついた。顎髭の男はそれに、口元を歪めた。皮肉が存分に効いている。言葉を続けようとはしない。代わって初老の男が、心持ち表情を緩め言った。
「得意分野ではないのかね?確か君は、クワンティコのFBIアカデミーに、一年間在籍した事があるはずだ。組織犯罪やテロ対策について、充分学んでいるではないか。諜報活動の経験も部の中では随一だろう。裏の世界には、顔も広いはずだ」
「なるほど……、よく分かりました。では、直ちに準備を開始します」
軽く会釈をし加持は背を向けた。ドアの前まで進んだとき、顎髭の男が彼を呼び止めた。
「もう一つ。パイロットの所在を確認した際、困難な事態が予測されたならば、救出は零号機専属パイロットを最優先としろ」
ドアの取っ手を握った。真鍮のノブの表面は、冷え切っていた。
「弐号機パイロットと、息子さんが危険になっても、ですか?」
「そうだ」
加持は振り返らなかった。
「一つ、質問があるんですが」
「何だ」
「今回の件、司令に心当たりはないのですか?狂言回しの役など、さすがに御免被りたいので」
若干間が開き、背後から返答が響いた。
「無いな。と言うより、ありすぎて特定しようがない。その役目を頼んでいるのだ」
会議室を後にした。ドアを閉めると辺りは暗がりに包まれた。経費削減などという方針で、地下四階より下の通路は、緊急時以外照明が落とされている。加持は出てきたばかりのドアに背をもたれさせ、目が慣れるのを待った。
十メートルほど先に非常灯らしき輝きがある。彼はそれに歩み寄った。硬質の床で足音が高く響く。非常灯ではなく、禁煙を示す警告灯であった。
無視し、煙草をくわえ火をつけた。ライターの火に顔が照らし出される。その表情は先程までとは全く異なった、厳しいものだ。煙を一息吐き、加持は呟いた。
「シンジ君もアスカも、所詮は予備ということか……」
ライターを仕舞い歩き出す。徐々に浮かび上がる暗い視野の中、嫌な光景が想像された。つい先程約束を交わした女の、涙で濡れた悲嘆の顔だ。それをうち消そうとはせず歩み続けた。
「踏み絵だな」
やがて彼の背中は闇に紛れ、消えた。
エヴァンゲリオン専属パイロット三名が拉致されてから、既に一時間が経過しようとしていた。
第二部
(1)
少女は先程から頬の辺りに、冷たい感触を感じていた。
それは断続的なもので、微かな痛みも伴っていた。目を開くことは相変わらず肉体が拒否している。痛みは頬のそれだけではない。閉じられた瞼の裏と、後頭部よりやや下、首筋の辺りにも鈍痛が付きまとっている。
頬への感触は止むことがなく、執拗だった。呼び覚まされてゆく意識にそれは鬱陶しかった。いい加減にしろ。憤りを抑えきれず、少女は気怠い瞼を開いた。
「目、開いたわ」
すぐ側で声がした。聞き慣れた声だった。目覚まし代わりには最適だ。しかし少女にとってそれは、よい意味でではない。
「大丈夫かい?」
視界は暗い。慣れるのを待てずに必死で目を凝らす。外気に当たると眼球の表面が、ジクジクと痛みを増す。そこに、液体が飛び込んだ。
「なっ、何?」
頭を振りながら何度も瞬きをする。眼球には若干の刺激しかない。むしろその冷たさが心地よいくらいだ。ただの水滴だ。ぼやけた意識を呼び覚ますにも、充分ではあった。
内心ほっとしながら再び両目を開く。見知った顔が二つ、心配そうに覗き込んでいる。
「あ、あんたたち……」
「よかった、意識が戻ったんだね」
微笑みを浮かべ気弱な少年が言った。あまり見たことがない、心底嬉しそうな笑顔だ。物珍しくはあったが一瞥しただけで目を逸らした。鼻を鳴らし皮肉を誇示してやった。それに少年の表情は、元の気弱なものに戻る。
「ここ、どこよ?」
「分からない。私達、目隠しされてたから」
暗がりでも目立つ赤い瞳を向けたまま、もう一人の少女が答えた。まるで兎ね、因幡の白兎。口元が緩みそうになる。それを抑え、身を起こそうとした。身体の節々に痛みが走る。バランスが崩れ、栗色の髪の少女は再び堅い床の上に転がった。
「な、何なのよ、これ!」
両手、両足首が何かで拘束されている。半端な力では外せない事は試すまでもない。だが簡単にそれを受け入れられるほど、この少女は素直ではなかった。
「ガムテープだよ。僕らもここに連れてこられた時、巻かれたんだ」
「連れてこられたって……。そうだ!あいつらは!?」
「それも分からないわ。車に乗せられてから、随分走ったみたい」
「あんたたち抵抗しようとしなかったの!あたし一人暴れ回って、挙げ句に首筋に手刀食らって大損じゃない!ちっくしょう、あの女今度会ったら、絶対許さないんだから!」
気弱な少年と赤い瞳の少女は、呆れ返った表情で顔を見合わせた。それを無視してもがき続ける。広さすらはっきりしない空間は、彼女をあざ笑うかのように、虚ろに叫び声を吸い込んでいった。
やがて栗色の髪の少女はうつ伏せになり、黙り込んだ。激しい呼吸に肩が上下する。その様子に、冷静な声が語りかけた。
「止めた方がいい。体力を消費するだけよ」
顔を振り上げ、赤い瞳を睨み据えながら声を上げる。
「うるさい!大人しく従うなんて、バカのすることだわ!」
「相手は何人もいたし、仕方ないじゃないか……。僕も綾波も、さっきまで目が痛くてどうしようもなかったんだ」
「あたしだって同じだわ!だけどあんたは、男でしょ!」
「抵抗したら、何をされていたか分からないわ」
「だからってこんな目に遭うなんて、屈辱よ!」
視野が急に明るくなる。三人は言葉を止めた。目を細め光が差し込んでくる方に視線を向ける。15メートルほど先の、鉄製の戸が開かれていた。人影が二つ、こちらに長く伸びていた。その主が、ゆっくりと歩み寄ってくる。白銀灯による強烈な逆光のため、表情などは分からない。
こちらの様子を確認すると、二人は顔を見合わせたようだ。濁った笑い声が響いた。嫌な笑い声だ。低く、まとわりつくような響きをしている。雨の早朝の満員電車内、湿度を70パーセント帯びた空気のようだ。
栗色の髪の少女は全身に、鳥肌が立つのを覚えた。幼い頃捕まえ、結局恐くなって捨てた蛇の肌が思い出された。原色に近い緑色の蛇だった。
少女はそれを、踏み殺していた。
「お目覚めのようだな」
三人の前まで来ると男達は足を止めた。
呼びかけたのは右側に立つ男だ。背がかなり高い。2メートル近くはあるだろう。髪型はクールカット。胸板が筋肉で膨れ、緑のタンクトップを張り切らせていた。何よりも目に付く特徴は、ニキビだ。下卑た笑みを絶やさないその顔中に、朱色の膨らみが寄生している。
対称的にもう一人の男には清潔感がある。長袖のシャツを着込んだ身体の線も、病的に細い。牛乳瓶の底のような、丸縁メガネをかけている。その奥の瞳は、神経質そうに左右していた。
腰に手を当てニキビ面の男は、栗色の髪の少女を見下ろした。両腕は少女の首周りほどもある太さだ。右腕の表面には、ガラガラ蛇のタトゥーが彫り込まれていた。
「おい、あん時の蹴りは、結構効いたぜ」
「あんただったの?こっちは催涙ガスでフラフラだったのよ。それを食らうなんて、身体に似合わない有様ね!」
「くっ、く、口の効き方に、気をつけた方が、いいよ。そいつキレると、な、何をするか分からない、からさ」
辿々しく喋る丸縁メガネの男は、薄ら笑いを顔に貼り付けている。青白い肌は引きつり、まるでビニールの仮面のようだ。
「それはお前だろ?薬のやり過ぎなんだよ」
「ぼ、僕はさ、あれ無しでは、いき、生きていけないんだ。仕方ないじゃ、ないかよ」
煙草を持つ手がひっきりなしに震えている。光を反射するレンズの向こうの目も、見開かれたままだ。その視線には酷く力が感じられない。
男達の異様な雰囲気に、少年と少女達は黙りこんだ。年の頃は二十代中頃ぐらいか。三人が今まで身近に接してきた、同年代の大人たちとは、外見も態度もかけ離れている。体格も性格も対称的なようだが、二人は共通するものを醸し出していた。
息をすることすら苦痛になる、暗い空気だ。
この二人は、自分達と全く異なる世界で生きている。十代初めの三人にも明確に認識できた。それも、かなり危険な世界だ。
「それにしても分からねえ。ただのガキじゃねえか。こんな奴等誘拐して、何になるってんだよ」
「ガ、ガキですってえ!」
栗色の髪の少女が頬を紅潮させる。唇を歪め、ニキビ面は身を屈めた。無遠慮に少女の整った顔を覗き込む。男の酢のような体臭が、鼻の粘膜を突いた。思わず少女は顔を逸らす。吐き気すら憶えた。
「違うってか?」
「当たり前だわ!」
「どうだかな。これからじっくり調べてやるさ」
若干距離をとり、ニキビ面は少女の全身に視線を這わせた。ずり上がったスカートから覗く太股の曲線に、目を釘付けにし瞳を輝かせた。やけに鮮やかな朱色の、唇の表面がてらてらと光る。
両目の輝きの意味を悟った少女は、眉をつり上げ怒鳴りつけた。
「き、気持ち悪いのよ!肌が腐るわ!」
「口の減らねえガキだ。おい、例の物、見せてやれよ」
目尻の辺りをひくつかせながら、丸縁メガネは背を屈めた。ベルトにつけたセカンド・ポーチから何かを取りだし、三人に示す。細い筒丈の物体だった。
「これ、な、何か分かるかい?分かる?分から、ら、ない?」
逆光を透過し輝く筒丈の物体は、ガラス製のアンプルだ。無色透明の液体が小刻みに波立っている。
「分かるわけねえだろ。説明してやれ」
「そ、そうだね。う、うん、そうする」
丸縁メガネはニキビ面の方へと向き直り、照れ笑いを浮かべた。
その瞬間かいま見えたものに、気弱な少年と栗色の髪の少女は身を竦ませた。丸縁メガネの首筋には、青黒い痣のような斑点が、幾つも浮き出ていた。注射痕であることは一目瞭然だ。
引きつった顔が再び向けられる。落ち着きなく揺れる瞳が三人を見回し、ニッコリと笑った。
見るからに無邪気で、楽しそうな笑みだった。
これ、僕が自分で造った、く、薬なんだ。名前も自分で、つけたん、だ、だよ。
ゴ、ゴーゴーヘブンって、言うんだよ。素敵な名前だろ?む、昔さあ僕が、まだ子供だった頃に、デビューした、お、女の子、よ、四人組のボ−カル・グループが歌っていた、きょく、曲から名前を、貰ったんだ。
そ、そうだ。君達と同じぐらいの歳の子たち、だっ、だった。僕はまだ、子供で、オ、オナニーだって憶える前だったけど、夢中になったよ。可愛かった、よなあ。特に、は、端っこで踊ってた、長い髪の子が、子が、最高だったなあ。
「思い出話なんかしてどうする。それにお前の喋り、何とかしろ。苛つくんだよ」
あ、あっあ、ゴメン、ゴメン。えっと何だっけ?そ、そうだ、薬だよね。自分で造ったんだよ自分で。
LSD、知ってるかい?し、知らない?LSDってのはさ、リゼルギン酸ジエチルアミド、ド、の略なんだ。麦とかに、き、寄生している麦角菌がつくる菌核、から、分離される科学物質なんだよ。
こ、こいつは、脳の中の神経伝達物質、セ、セロトニンの作用を押さえ、込むんだな。んで、セロトニンは、しょ、松果体でのメラトニン合成などに作用し、の、脳の活動を高めると。そこに、作用しちゃう、わ、わけ。
それとLSDの、こ、構成は、ドー、パミンに、よく似てるんだ。偶然な、なんだろうけどね。だから本来、脳神経のレセプターに入るべき、ド、ドーパミンを阻害して……。
あっ、あれれ?わ、分からないって、顔だね?わ、分かる?
「分かるかよ。だいたい、こんなガキ共に理解できるわけねえだろ」
そ、そうかなあ。この子達って結構、あ、頭良さそう、なんだけどなあ。まあいいや。
簡単に言うと、げ、幻覚剤の一種なんだよ。麻薬?か、覚醒剤?まあ、そう思ってくれても、いいさ。色々とあるんだけど、き、効き目は大体、同じなんだ。
つ、月の裏側にあるクレーターで、ひっ、髭を全部抜かれた猫が、踊り狂ってる様子だとか、夕方の電車の中で、ぼう、坊主と肥満体のおばさん達が、す、すしずめで、やっちゃってるとことかが、み、見えちゃうわけ。も、もちろん見えるだけだよ。だから幻覚剤なんじゃないか。あ、当たり前でしょ?
そうは言っても現実感は、あ、あり過ぎなんだけどね。だから、小学生の子を四人路上で追っかけ回して、さ、刺しまくった─君とか、時速180キロで町中を車走らせまくって、ト、トカレフ撃ちまくって、警官に射殺された─さんみたいに、な、なっちゃうんだよ。あ、あれ?また、しっ、知らないって顔だなあ。
「古いんだよ」
ち、ちえ、つまらないな。僕、そんなにジジイじゃ、な、ないけどなあ。
えっ、えーと、要はだ、LSDってのは、そ、その幻覚剤の中でも、特に強力な、物なんだ。当然、って言っても僕には、ば、馬鹿馬鹿しいけど、違法なわけ。
どうして強力か、分かるかな?も、もちろん、LSD自体の特性でもある、わけだけど、精製過程にも原因が、あ、あるんだよ。か、科学的に、充分な処理をしているから、じゅ、純度が高いんだな。不純物、少ないんだ。ま、まあ、わざと薄めて売るような、酷い人達も、いるけどね。
ところが、さあちょっとLSDには、も、問題あるわけ。ネガチブ、じゃないや、ネガティブな感覚に陥ると際限が、な、ないんだ。うん、そう、バッドトリップってやつね。げ、幻聴幻覚にキレて、人殺しなんていい方さ。下手したらじ、自殺もんなわけ。手首剃刀でスパッ、なわけね。
嫌だよね?そんなの。き、気持ちよくなるのが、も、目的なんだからさあ。松果体に悪影響を与えちゃうのも、困りもんだね。下手したらさあ、イ、インポテンズだよ。や、やだねえ、困るよねえ。
「小難しい話は止めろ。こいつらだって退屈するだろが」
い、いいじゃ、ないか。僕はね、詳しいんだよ、こういう事に。い、以前、ちょっと有名な、だ、大学の薬学部に、いたんだよ。き、君達、信用してないって、顔だね。な、なあ、そうだよな?
「お前がどこの大学にいたかなんて、知らねえよ」
あ、あれ?話してなかったっけ?
高校の時にさ、雑誌で読んだんだ、そ、そういう薬があるって。その頃、僕はもう、ちょ、ちょっと薬とかに興味があって、ね。色々、た、試したよ。風邪薬、大量に飲んだりとか、ライターのガス、ビニール袋に、た、たくさん入れて吸ったりとか。
あ、あっ、シンナーやトルエンは、やってないからね。あれはさ、ダメだよ、やったら。口臭が酷くなるし、は、歯がボロボロになって、顔つきもみ、醜くなるって話だよ。き、君達、そんなに可愛い、か、顔してるんだからダメだよ、やったら。第一、確実に、頭が、悪く、なるんだ。
脳がね、ち、縮んじゃうんだよ。そう、乾燥したレタス、みたいに。
「お前なあ、サツの講習じゃねえんだ。説教たれんなよ」
だ、だってさあ、心配なんだよ、道を誤っちゃわないかって。
「いいから、早いとこ自慢の薬の効き目ってやつを、教えてやれ」
わっ、分かってるよ。うん、分かってる。LSDの体験、ば、話ってのを、読んだんだよ。あ、あこがれたなあ。確か、確か有名なインテリア・デザイナーの、か、語りってやつだったよ。もちろん、某ってついてたけどね。あ、憧れたよ。
そ、それで僕も欲しくなった、ん、だけどさ、簡単に手に入るもんじゃ、ないよね。き、規制も障害だったけど、その頃この国の状態、ぼ、貿易も海外渡航も、くそも、なかったから、ね。
それに、やっぱ、バッドトリップってのが、こ、恐かったんだな。あ、当たり前でしょ?僕は、極めて普通の、高校生だったからね。しっ、死ぬのは嫌、だもんねえ。な、長生きしたい、もんねえ。百年二百年三百年、十億年でもさ。
で、考えた、わけ。僕自身で、つ、作っちゃえってね。ネガティブな感覚なんて、こ、これっぽっちもない、ひたすら上り詰める、た、多幸感だけの薬をさ。着眼点が、ち、違うだろ?与えられるだけなんて、が、我慢できなかったわけだ。ね?すごいっしょ?
「ああ、凄いよ。偉いよ」
それで、また考えた、わ、わけ。まずは、せ、精製器具だよね。あるとこなんて、か、限られてる。もっとも手っ取り早いのは、そう、医科大さ。うん?医科大学なんて、か、簡単に入れない?そ、それがさあ、一発合格だったよ。僕は、とっても頭、良かったからさあ。し、知ってる?IQが、ひゃ、150近く、あるんだ。
そ、そうは言っても、苦労は多かったよ。材料の、ばっ、麦角集めるために北海道まで、行ってね、麦畑を、さ、探しまくってさ。やたら広いんだよな、あそこの畑、は。農場の、クソジジイにも、み、見つかっちゃうし。鍬だかシャベルだか振り回されて、追っかけられたよ。あっ、ああ全然オッケー。黙らせたからさ。喉、かっ切って。
精製の基本は、すぐ解ったんだ。し、知ってる?ネットでさ、アメリカとかの、か、海外のホームページを探すと、意外と参考になる情報あるん、だよ。爆弾の、つ、作り方なんかも、すぐ見つかるよ。僕は、きょ、興味ないけどね。
「それで、作っちまったんだろ?」
そ、そうなんだよ!やっと、で、出来たんだよ!それが、こ、これなんだ。ゴーゴー、ヘ、ヘブン。大学は途中で、お、追い出されちゃったけど、苦労したかいが、あったよ。お金も、儲かったしさ。僕にとっては、し、失敗作でしかないのを、高く売る知り合いが、いてね。
そいつが言うには、効き目は、え、LSDを確実に、越えてるし、バッドトリップも、ほとんど、ないってことなんだ。う、嬉しかったよ、本当に。作り方?そ、それは教えられないなあ。うーん、ど、どうしようかなあ。ヒント、は、ドーパミンに、似ていることを逆に、り、利用して、生理活性アミンと、としての……。
「説明はいいって。それで、試したんだろ?」
う、うん、やってみようと、思ったわけ。で、でもせっかくだから、誰かと一緒に、楽しもうと思ったんだ。女の子が、い、いいなあ、そう考えたんだ。でも僕は、とても、内気だから、女の子の友達なんて、い、いなかったんだな。
「ちなみに紹介してやったのは、俺だ。結構、苦労したんだぜ。知り合いのチンピラに頼み込んでな」
か、感謝してるってば。可愛い、高校生、だったもんね。確か華僑の娘、だったっけ?既にシャブ漬け、壊れぎみってのが、不満だったけどね。で、でね、とりあえず僕はその子に、ご、五万円払って、一緒にホテル、行ったんだ。
安いさ、あんまり綺麗じゃない、ホテルだったな。ひ、昼間に行ったんだけど、掃除してる薄汚い、おばさんが、ジロジロ僕らの方を、う、窺っていやがるような所、だったよ。女の子も、嫌がったけどさ、高いホテルって、き、嫌いなんだよ。従業員がさ、やったらと丁寧だろ?何だか、そ、そういうのって馬鹿に、されてるみたいじゃないか。嫌なんだよな。
と、とにかく女の子には、すっごく気持ち良くなる薬、あげるって、い、言って説得したんだ。ぼうっとしながらも、き、機嫌直してくれたよ。それで、へ、部屋に入って、僕は注射器で薬打って、その子にも打ってあげたんだ。
ちょっと、あ、焦ったね。なかなか、効いてこない、んだよ。女の子もさ、どういうこと?みたいな、か、顔するし。焦ったね。ぼ、僕は謙虚だからね、頭を下げて、あ、謝ろうとしたんだ。
その瞬間、だ、だったよ。訳が分からなく、なったよ。な、何もして、ないんだよ?まだ、してないんだよ?なのに、気がついたら、ぼ、僕は、射精してたんだよ。
あそこが、痛いほど、た、立っちゃうし、精子も、止まらない。気持ち、よ、良くてねえ。あんなに気持ちよかったのは、初めてオナニーした時、い、以来だったね。
すげえすげえ、ねえ、み、見てよって女の子の方向いたら、あっちも凄いことなってやがんの。よ、涎を口中から垂らしまくってさ、自分の胸、も、揉みまくってるんだ。身体中ガタガタガタガタガタ、ガタ、震わせて、オシッコまで漏らしてたんだ。
ビックリ、したよね。こんな効き方、す、するなんてさ、予想外だったんだ。そ、それからお互い、無我夢中で、や、やりまくっちゃったわけさ。翌朝までね、し、尻の穴まで、な、舐め合っちゃったよ。
す、すごかったよなあ。ほ、本当、ゴーゴー・ヘブン、だよなあ。ゴ、ゴーゴー・ヘブンだよ。ゴーゴー・ヘブン、ゴーゴー・ヘブンゴーゴー・ヘブン、ゴーゴー・ヘブン、ゴーゴーゴーゴー……。
丸縁メガネの呟きは終わらない。
物音一つしない室内に抑揚のない、掠れた声が響き続ける。血色の悪い唇の端からは涎が垂れ、顔面も汗だらけだ。俯き、壊れたラジオのように同じ言葉を繰り返す彼を、ニキビ面は面白そうに見ている。
少年と少女達は言葉を発しようとはしない。気弱な少年は唖然とした顔をし、栗色の髪の少女は頬を赤く染めながらも、苦り切った表情でそっぽを向いている。ただ赤い瞳のみが、引きつった笑みを浮かべる丸縁メガネの方を、じっと見つめていた。
ニキビ面は苦笑しながら丸縁メガネの肩を叩く。
「おい、こいつら全然分かってねえみたいだぞ」
「あ、あっ?あれ?おかしいなあ、き、きちんと説明したのに、なあ」
「よく分かったわよ。要するにあんたは、変態だってことが」
冷ややかな声に、丸縁メガネの顔から少しずつ笑みが消えていった。ゆっくりと屈み込み、栗色の髪の少女と正面から向かい合う。彼の瞳は、波間に打ち上げられた魚の死体のように、灰色に濁っていた。
「他にどう表現しろって言うわけ?」
少女は嘲笑を浮かべていた。可笑しくて仕方がない、歪められた口元がそう語っていた。丸縁メガネの瞳の濁りが、ドロリと回転した。細い腕が真っ直ぐに横へと伸ばされる。少女の頬に平手が襲いかかった。
「な、何すんのよ!」
丸縁メガネは無視した。振り下ろされた右手を跳ね上げる。手の甲が、反対側の頬をとらえた。鋭い痛みが脳の芯まで届く。少女の身体は半回転し、床に突っ伏した。衝撃で髪を纏めていた、赤い髪飾りの一つが床に転がった。
「そのぐらいにしとけ」
なおも振り下ろされようとする腕をニキビ面は掴んだ。丸縁メガネの全身が小刻みに震えている。滴る汗は床に落ち、コンクリートを所々湿らせた。
「だ、誰が、変態だ」
「俺が悪かった。こいつらに説明したって、分かるわけなかったよな」
「僕はただ楽しみたいだけなんだ、他の人にも僕と同じ楽しみを気持ち良さを快感をあ、味わってもらいたい、それだけなんだ。それを変態とは変態とは、最低の女だ。殺すぞ、クソガキ」
「つまらねえだろ、いきなりそれじゃあ。分からせてやればいいだろが。お前の薬で」
気味が悪いほど穏やかな声に、乱れた呼吸が整ってゆく。腕から力が抜け、丸縁メガネはその場に座り込んだ。頬を抑えながら顔を伏す少女に、力の失せた視線を向けている。
ニキビ面は鼻を鳴らし、床に胡座をかいた。光沢を放つ長い髪を掴むと、起きろ、と言って顔を上げさせた。少女の頬は朱色の染まり、床に付着した煤で微かに汚れていた。痛みに目を閉じつつも、呆然とした表情だ。
「俺はこの娘に借りがある。きめちまうのは、俺が先だ」
「そ、そうだね。そうだよね。ぼ、僕だってこんな失礼な子、願い下げだよ。僕は、こ、この静かな女の子の方が、いいなあ」
ビニールの仮面のような、引きつった笑みが蘇る。丸縁メガネは立ち上がり、顔面の汗を拭った。右手をブラブラと揺らし、赤い瞳の少女を食い入るように見つめる。
「本当に、し、静かな子だよ、なあ。今時珍しいよ。く、薬打ったら、どんな風になって、くれるんだろ?」
無表情だった少女の顔が僅かに強張る。
「おい、こいつに打つのは後だからな。ヤク漬けなんて好みじゃない」
「な、何を……」
唇を噛み締め、栗色の髪の少女は睨み付ける。しかしその青い瞳は、最早怯えを隠せず落ち着きがない。それを見て取り、ニキビ面は髪をさらに掴み上げた。か細い呻き声が口元から洩れる。
「さっき言ったろ?調べてやるのさ。お前が本当に、大人の女なのかな」
「誰が、あんたなんかに」
「お前、ハーフだか何かなんだろ?そういうのは初めてだな。その辺のアイドルより、ましな顔つきしてるぜ。性格は最悪だが、気の強い女ってのは好みなんだよ。楽しみがいがある」
「い、嫌……。絶対に嫌!」
「そうだろうよ。だがその格好じゃあ、得意の蹴りもできねえしな」
ぬめった唇を細めニキビ面は唾を吐いた。少女は危うく顔を背けた。白く濁った唾液が制服の襟に付着する。這うように垂れ、胸元で止まった。丸縁メガネは震える指先で、必死に腰のセカンドポーチを開けようとする。
「な、なあ、その子には薬、やらないのかい?」
「抵抗しない女なんてダッチワイフと同じだ。俺の後に、好きなだけやってやれ」
「つまらないなあ。げ、ゲロ吐くぐらいに、壊しちゃいたいのに。まっ、いいや。まずはこの子から試そうっと」
セカンドポーチが開けられた。小型の注射器をつまみ出す。丸縁メガネの口がすぼめられ、アンプルの先に針が刺された。注射器に、透明な液体が満たされてゆく。
さて、お楽しみだ。ニキビ面は両足を広げると、無理矢理少女の頭を引き寄せようとする。もがく少女の栗色の髪が数本切れた。後頭部を掴む。山の頂のように膨らむ股間へと、押しつけようとした。
「やめて下さい」
震える、微かな声がした。発したのは、それまで黙り込んでいた気弱な少年だ。表情は怯えきっている。だが視線は揺れながらも、目の前の男達を見据えていた。
「なんだ?おい、今なんて言った?」
「アスカと綾波に、酷いことしないで下さい」
注射針を引き抜くと、丸縁メガネは意外そうな顔で少年を見た。
「へ、へえ、大人しそうな顔してるのに、はっきり物を言う子だね」
「震えまくってるじゃねえか。小便でも漏らすんじゃねえのか?」
「やめて下さい!」
筋肉質の巨体が立ち上がる。少年の側に近付いた。右足が浮く。
「これでも言い続けられるのか、えっ?おい」
足が前に突き出された。汚れきったブーツが脇腹にめり込む。低い呻き声が響き、少年の背が屈曲した。
「レバーに入っちまったな」
めり込んだブーツの先が脇腹を踏みにじった。無惨な叫びが少年の口から漏れる。痛みに歪む顔面に汗が光り始めた。徐々に鋭さを増す苦悶の声。それに栗色の髪の少女は再び顔を伏し、震えた。
「よく考えろよ、よく考えろ!お前に何が出来るってんだ。体の自由は奪われてる。言葉とは逆に、腹の中は怯えきってるだろ?俺の足の下でもがくことしか出来ない。お前は今、そういう奴になってんだよ!」
苦痛に閉じられた瞳から、涙が零れた。
「黙って見てろ。お前だってきめる、きめない、そんな事に興味がない歳でもないだろが。生きて帰れたら、オナニーのネタにでもするんだな」
「あ、ああ、痛そうだねえ。でもさ、大丈夫だよ。き、君も後で気持ちよく、し、してあげるよ。薬で痛みなんてさ、ふっ、吹っ飛んじゃうよ?大人しくしてなよ、ね?」
足下に唾を吐きニキビ面は足を離す。再び獲物に定めた者の側へ歩み寄る。ブーツが小石を踏みしめる音に、少女の身体から震えが失せた。
丸縁メガネは呻き続ける少年を、気の毒そうに窺っていたが、注射器の尻を押し空気を抜いた。赤い瞳の少女の横に座り込み、その白い腕を軽く握る。こ、これで我慢、してよね。そう言いつつ、指先を唾で濡らし少女の肌にのばそうとした。
「私に注射したら、満足なの?」
赤い瞳の少女が言った。まるで電話機の向こうから聞こえる時報のように、平板な調子だった。
「えっ?えっえ?」
「好きにすればいい。その代わりあの二人には、何もしないで」
動きの少ない赤い瞳が真っ直ぐ向けられた。逃れるように目を逸らし、ぼ、僕に言われてもなあ、と丸縁メガネは気弱に答える。彼の身体が蹴り飛ばされた。危うく落としそうになるアンプルと注射器を両手で掴む。
「くだらねえな」
ニキビ面が赤い瞳の少女の横に立っていた。気怠そうに首筋を撫でている。
「私は構わないもの。代わりがいるから」
鼻で笑い、背を逸らす。唇を歪め中腰になる。右腕を背中に回す。ベルトに挟み込んでいた物を握りしめた。
「なら死ぬか」
銃口が少女の額に突きつけられた。灰色の、やや青みがかった銃だ。
「でなけりゃ、きめさせろ。二つに一つだ、選んでみな」
赤い瞳の少女は無表情なままだ。唇も動かない。瞳を、ニキビ面の顔面の中心に向け続けている。
遠くでコオロギか何かの、虫の鳴き声が響いている。既に時間帯は夜間のようだ。室内の暗さを割り引いても、差し込む照明の光は眩しかった。それを受け、深く不可思議な色彩の瞳が輝く。
二十秒たった。ニキビ面の顔がにわかに歪む。頬のとりわけ大きい腫瘍が潰れ、先端から膿が絞り出された。少女の短い髪が握りしめられる。口元に銃身が強く押しつけられた。
「ちょっ、ちょっとダメだよ!こ、殺し、たら。自分で、い、言ったでしょ!?」
「黙れ!」
目立った抵抗はなかった。ただ唇は強く閉じられ、物体の侵入を拒もうとする。ニキビ面は節くれ立った腕を少女の首に回し、細い顎を掴む。薄い唇の表面が切れ血が滲んだ。
口がこじ開けられる。銃口が横向きに突っ込まれた。
「キ、キレちゃった。こ、こまったなあ、こうなると止められ、な、ないんだよなあ」
それでも赤い瞳は逸らされなかった。しかし微かな、打ち合わせるような音が連続していた。少女の歯が震え、銃身に当たっているのだ。ニキビ面は満足げに笑った。
「いい音だな、おい。何にも出来ねえだろうが。この売女が思い知れ!てめえは無力なんだよ!無力なんだ!無力だ!」
太い指が引き金にかかる。少女の両目が閉じられる。歯の震えが止まった。銃声が響く。薬莢が床で弾む金属音が、連続した。
放たれたのは、ニキビ面の持つそれではなかった。口から銃を引き抜き、背後へと振り向く。
「それがあんたに、出来ることなの」
照明の逆光に人影が浮かび上がっていた。女だった。真上に向けていた腕を降ろし、こちらへと向けた。ゆっくりと歩み寄ってくる。靴音が室内に高く反響する。
「銃を渡しなさい」
ニキビ面は体勢を直そうとしたが出来なかった。女の左手には、光を受けながらもほとんど光沢を発しない、黒い物体が握られていた。ニキビ面は銃を置いた。女は腕を降ろそうとはしなかった。置かれた銃が床を滑り、女のハイヒールの先に当たった。
女は膝を折り銃を手に取る。再び立ち上がり、素早くマガジンを抜いた。親指で弾薬を抜き床に落とす。それを蹴り飛ばすと、ニキビ面の正面に立つ。背が高く長い足だ。頭を傾け、冷え切った目で見下ろす。肩までの黒髪が頬を覆った。
両手を挙げて、ニキビ面は腰を浮かした。笑みを浮かべている。卑屈な笑みだ。女の細い眉が吊り上がる。
女は腰を素早く捻った。すさまじい掌打で鼻面を叩き上げた。よろめくニキビ面の足をはらう。巨体が仰向けに倒れ込む。馬乗りになり、女はスーツの下からジャックナイフを取り出す。剣先を床に叩きつける。火花が散った。
「その子達から離れなさい」
最上ウミは、鈍く輝くナイフを首筋に当て叫んだ。銃を握る左腕は丸縁メガネの方へと向けられている。メガネのやや上、眉間の辺りを銃口が正確に捉えていた。
丸縁メガネの震える指からアンプルが滑る。床に落ち、砕け散った。
[ 続く ]