『 BLUE 』

 

 

                      (2)

 

 空気は強い湿り気を帯びていた。

 コンクリートの壁面にも汗のように水滴が浮かんでいる。だが不快感はそれほどない。日中の酷暑に比べ、嘘のように涼しいからだ。

 空気の流れは殆ど感じられない。冷房が効いているわけではなさそうだ。外からはいつの間にか、微かな雨音が流れ込んできている。腐食した鉄の香りが鼻の粘膜を刺激する。こうしてこの建物も、塵へと朽ちていくのだろう。

 前髪は湿気で重くまとわりつく。細い指先でかき上げる。眉毛の細さが際だった。

「説明して」

 鼻面を押さえながらニキビ面が立ち上がる。角張った顎の辺りから血が滴り落ちている。丸縁メガネは俯き、床に散乱するガラス片を見つめていた。透明な液体の薬物は、既にコンクリートに濾過され、浄化していた。

 ジャックナイフの刃をたたむ。スーツの内ポケットに仕舞う。最上ウミは、答えを待った。

「せっ、説明って、言われても、な、なあ」

「何をしようとしていたか、話しなさい」

 細い腰に手を当て男達を見渡す。唇はきつく引き締められている。だが、茶色がかった色合いの瞳に、感情の動きは読みとれない。彼女の左手には銃が握られたままだ。

 鼻の下を拭いながら、ニキビ面が戯けた調子で答えた。

「それもいいけどよ、まず物騒な物を仕舞ってくれねえか?」

「猛り狂った猿相手には、必要な物よ」

「ぼ、僕たちはさ、仕事をやりやすくしようと、しっ、しただけなんだよな。人質には、立場ってのを分かりやすく、教えてやらなきゃ、ね」

 男達は顔を見合わせ笑った。その卑屈な含み笑いは、最悪の気分を存分に逆撫でした。

「ヤク漬け、強姦、暴行。挙げ句に、意にそぐわなければ射殺。それが立場を教えることなの」

「常套手段だろ?まあ、最後は焦りすぎたかも、知れねえが」

 ウミの視線が鋭くなる。ニキビ面の顔から笑みが消えた。苦り切った表情で舌打ちをした。鼻の下を押さえる手の指先は、乾き始めた鼻血で黒く変色している。

「そんな指示を与えた憶えはない。あなた達がやるべき事は、別班として行動する準備よ」

 床に転がる人質達を横目で窺う。ウミは、追求に時間をかけるべきではないと判断した。気弱な少年は身体を折り曲げ、拘束された腕で腹を押さえていた。傍らで顔を覗き込む赤い瞳の少女にも、気付く余裕がない。栗色の髪の少女は顔を伏せたままだ。発育の良い身体は、ピクリとも動くことがなかった。

 溜息がもれそうになる。彼女はここ一時間ほど、ずっと考えあぐねていた。三人に、どう説明するべきか?どう納得させるべきか?経験も知識も積んではいる。しかし、これまでの相手とは年齢が違いすぎた。

 理解など必要ではない。現状を、まさに彼等が置かれている状況を、受け入れさせなくてはならない。無論、穏便な手段が最上だ。その結果こそが、今後の労力が減じることを約束する。

 目の前の男達はそれを、さらに困難なものとしたのだ。

「勘違いしているようね。確かに彼らは人質よ。しかし拉致した目的は、その辺の異常性欲者のような連中とは違う」

「目的?そんなもの理解の上さ」

 分かり切っていることだ。この男達にわきまえさせるのにも、手が掛かる事など。不可能かも知れない。結局こういう連中には、絶対的な力の行使しか手段はない。その前にしか屈服しない。それとて一時的に過ぎないのだろうが。

 一方である意味それは、チャンスとも言える。人質に多少の信頼感を植え付ける、数少ない可能性だ。処罰を望まぬ人間などいない。こちら側の事情など分かるはずもないが、自分達の身に降りかかったことならば尚更だろう。だが怯えを増し、非日常的な心理状態を強めることもあり得る。

 雨音に耳を傾け苛立ちを落ち着かせようとした。今は秤に掛け、計算するのが重要だ。

「理解が足りない。この子達は交渉の切り札よ。大切な客人、そう思いなさい」

「ハッ!おい聞いたか!?このガキ共が、客人だとよ!」

 雨音が静かに遠のき始める。天候の悪化は気紛れだったようだ。ここ数日、夜半になってからの断続的なスコールが続いている。多分、明日からは一週間程快晴が保たれる。この国の天候だ。今のウミにとってそれは、有り難くも何ともなかった。

「ガキ?それは、あなた達だわ」

「何だと!」

 顔中の腫瘍を震わせ、ニキビ面が身構えた。顎から首筋までドス黒く染まっている。丸縁メガネも身を小刻みに揺らし、ズボンのポケットを探る。どちらも愚かで滑稽な姿としか見えなかった。

「反体制派という肩書きは、こういう時のためにあるのね。なるほど、便利な物だわ」

「そんなの問題じゃねえ!俺はそこの娘に借りがあるんだ!」

「ぼ、僕だって、馬鹿に、さ、された」

 冷笑を浮かべる。雨に気を向けるのは、もうやめだ。

「怒りや欲望を制御できない。それはガキの特権よ」

 か細い腕を丸縁メガネは垂直に上げる。警棒のような物を振りかざした。ウミはベルトのバックルをずらしワイヤーを引き出した。なぎ払う。注射痕だらけの上腕部を、特殊ステンレス製の鞭が痛打した。警棒が離され床に転がった。獣じみた唸り声と共にニキビ面が拳を突き出す。振り返らず難なくかわした。

 よろめきながらもニキビ面は、グローブのような両手で掴みかかる。痛みに痺れる腕を庇いつつ、丸縁メガネは再度警棒を手にした。だが彼らは次の行動に移れない。

「言葉は不要ね」

 女性にしてはやや太い腕が伸ばされていた。真横に構えられた銃の先が、腫瘍の群生する額に押し付けられる。男達は硬直した。

「何をしているのか分かった時点で撃つべきだった。あの子達の前だから遠慮したけれど、こうなったら仕方ない」

「何?まさか、ずっと見てたのかよ!」

 唇の端をウミはつり上げた。それでも整った顔立ちに遜色はない。だが、酷薄な笑みだ。

「愚劣さを、存分に観察できたわ」

「雇われ人だろ!立場ってのをわきまえろ!」

「僕らを、きっ、傷付けたらさ、組織の連中黙ってないと、お、思うよ」

「どうかしら。あなた達の参加を承諾した時点で、はっきりさせてあるの。仕事の遂行上著しい害があった場合、処分は辞さないと」

 銃口が押しつけられた額の表面に、汗が滲み始める。ニキビ面は後ずさりする。許さず、一歩足を進めた。毛の生え際に膨らむニキビが圧迫され潰れた。白濁した汚液が銃口に付着する。事が済んだら、油でふき取らなくては腐食しかねない。そう心配した。

「か、庇うのかい?ひっ、人質、なんだよ?おかしいよな?な?」

「こいつらは敵の組織の犬だろ!どうせ始末する事になるんだ!何を躊躇いやがる!」

「私の契約相手はあなた達じゃない。人質の処遇について、あなた達に決定権はない。必要となった時それを行うのは、私よ」

 細い指先が引き金に掛かる。爪の表面は無色のマニュキアで艶めいていた。ニキビ面は目を見開く。瞳孔が広がる。言葉が出ず、ぬめった唇が激しく上下した。

 棒立ちで震える筋肉質の巨体。その様子にウミは思わず、クスクスと笑い声を漏らした。

「さっきとは、逆の立場ね」

「ま、待て」

「あなたとは同じ空気を吸う気になれない。感情と言うより生理的欲求なの。どういうことか、分かる?」

「た、頼む。なあ、頼むよ……」

 醜い懇願に、額から銃口が離された。大きく息を吐き、ニキビ面は歪んだ笑みを浮かべる。それはすぐに消えた。ウミの細い眉は一直線になっていた。切れ長の目は、排気ガスから眼球を保護するかのように、細められていた。

 クーガーが横に振られた。銃床が、ニキビ面の顎を捉える。骨が軋む音がした。右肘が脇腹を鋭く突いた。そこはちょうど、栗色の髪の少女が抵抗した際に、蹴りを決めた所だった。

「反吐が出るのよ、あんたみたいな男には」

 巨体が崩れ落ちた。一杯に開かれた口から吐瀉物が噴出する。もがく男の向うずねに、ハイヒールの先で蹴りを入れた。

 いっ、いてえ!右足を両腕で抱えニキビ面は転げ回った。汚物にまみれタンクトップが黄土色に染まる。それを一瞥してから、丸縁メガネの前へ歩み寄る。メガネの向こうの濁った瞳は、向けられる銃口を正視できない。メリーゴーランドのようにぐるぐる回転した。

「やっ、や、やめて、やめてよううう」

「さっき誰かが、そう頼んでなかったかしら」

 乾いた音が空気を震わせた。眼鏡が吹き飛び床に落ちる。瓶底のようなレンズに亀裂が走り、フレームが曲がった。メッ、メッメメッ、メガネメガネ。赤く腫れた頬を押さえながら、丸縁メガネは床を這う。

「今後、この子達に近付く事は許可しない。半径五メートル以内に接近した場合、理由が何であろうと、撃つわよ」

 足下に転がる注射器を踏み潰しウミは告げた。

「あなた達の出発は二十分後よ。すぐに準備しなさい」

 探り当てた眼鏡をかけ、丸縁メガネは慌てたように身を起こした。腹を押さえ呻くニキビ面に近寄り、腕を取って引き起こす。たっ、高かったのにな、この眼鏡。そう言いながら肩を貸した。

 ふらつき咳き込みながらも、ニキビ面は肩越しに、ウミを見据えていた。瞳には暗い憎悪で、残り火が燻るような輝きをたぎらせていた。全身を這い回る視線を感じ取りながらも、ウミは銃を向け続けた。やがて男達の姿は、開け放たれた扉の先へと消えた。

 腕を降ろさず、一分ほど姿勢を保ち続けた。天井からの水滴がコンクリートに弾け、軽やかな音が室内を跳ねる。それに混じって、背後からの小さな呻き声が鼓膜に届いた。クーガーをスーツの下へ収め振り返る。無論、表情を必要以上に緩めることも、忘れなかった。

 要は、ある程度の演技が必要だ。ウミは先程からの計算に、そう回答を出していた。

 

「出口の方を見ていて。連中が戻ってきたら教えて頂戴」

 腰を屈めて言った。赤い瞳の少女は、ウミの微笑にも無表情だ。それでも軽く頷いた。

「彼の様子は?」

「苦しそう」

 片膝をつき気弱な少年の上半身を起こす。苦痛に歪む口元から乱れた息が吹きかかり、彼女の髪を揺らした。片腕で背を支え、少年の腹を掌で軽く押す。鈍い苦悶の声が漏れ出た。

「痛がってる」

「調べるの。内蔵が損傷していたら大変でしょう?」

 少女の顔が若干強張った。視線は入り口から伸びる逆光へと向けられたままだ。探るように少年の腹部を押す。息づかいは相変わらず不規則だが、苦痛を訴える声は鋭いものではない。皮膚の下にも異物感や極端な張りはなかった。

 既に確信はしていたが敢えて尋ねた。

「ここ、痛むかしら」

 気弱な少年は瞼をきつく閉じながら、少しだけ、と答える。線の細さは震える身体からも察せられた。

「ここは?」

「そこは、大丈夫です」

「吐き気はしない?」

「…しません」

 頷き、今度は下腹部の辺りをマッサージする。息づかいが徐々に落ち着き、表情も穏やかになっていった。最後に薄い胸板に頬を乗せ、耳を押し当てた。必要な措置ではなかったが無駄ではない。鼓動が早まるのが確認できた。別の意味で、ウミにとっては良い結果だった。

「大丈夫なようね」

 静かに少年の身を横たえる。冷え切ったコンクリートの感触に、細身の体が微かに震えた。

「内臓には影響が無いみたい。しばらくすれば楽になるはずよ」

「……」

「あなた、もう見張らなくてもいいわよ」

 そう言われてから初めて少女は顔を向けた。赤い瞳が真っ直ぐに注がれる。ほんの瞬間だが、自分の心中が見透かされるような感覚を、この少女に覚えた。探るようなものでも、あからさまに不信そうな目つきでもない。不可思議な色彩が、そう思わせただけだ。

 この子にはフェイクなど通用しないかも知れない。だとしても別に構わない。それぞれに対応の仕方が必要なのは当然だろう。ウミは目を逸らさず、前髪をかき上げた。相手は口を開くつもりはないようだ。それを確認し立ち上がる。

 少年の方へと向き直る。和らいだ視線を注ぐ。室内の湿った空気が年上の女性の笑顔を、ぼんやりとしたものにする。それに少年は落ち着かない様子だ。

「さっき、女の子達を庇おうとしたわね」

 少年の目が逸られる。戸惑いと怯えは充分に伝わった。気付かぬ振りをして、声をさらに和らげる。

「何を恥ずかしがっているの?立派だったわ」

「そんな……。僕は結局、何も出来なかったし」

 頬が赤らむ。口元も緩んでいた。何よりも投げかけられた言葉が、先程までの苦痛を忘れさせたようだ。

 下調べの際には、どこか複雑で暗い雰囲気の少年だと感じていた。十代初めの少年に珍しいものでもない。そして彼等の多くがそうであるように、この少年も、意外と根が単純なところがありそうだ。

 この子から信用を得るのが早道だろう。内心でウミは、そう値踏みしていた。

「だけど、彼女にも感謝した方がいい。連中の狂った興味を、敢えて引きつけたのだから。そうでなかったらあなた達、何をされていたか分からない」

 分からない訳がない。ヤク漬けと破瓜だ。

「そ、そうですね。綾波、助かったよ」

 心から感謝したように少年が微笑む。赤い瞳の少女は僅かな間、そちらに目を向けただけだ。恐らく、普段からこのような間柄なのだろう。その普段を取り戻させるのが重要だ。錯覚で構わない。

「どうでもいいのよ、そんな事」

 棘のある声が背後から響く。栗色の髪の少女だった。

「なんで、あいつらを行かせたのよ」

 顔は伏せられたままだ。肩を震わしている。怒りを隠すつもりがないことは、声を聞かなくとも理解できた。ウミは少女の傍らに歩み寄り、身を屈めた。

「あんな連中を許すなんて、さすが同じ穴のムジナね」

「許したわけじゃない。けじめは、つけさせるわ」

「けじめ!?ふざけないでよ。あの程度じゃ全然足りないのよ!」

 少女は上半身を反らし顔を上げた。目尻が吊り上がり、唇が噛み締められていた。青い瞳の奥では瞳孔が、これ以上にないほど際だっている。普段の快活で自信に溢れた表情はそこにはなかった。矛先は同じでも、怒りの源は自らに加えられた不条理からというより、それに対する無力さなのだろう。

 睨み付ける両目は充血している。それを正面から受け止め、ウミは言った。

「連中のことは私の責任よ」

「心にもないことを、平気な顔して言わないでくれる?あたしはあのゲス野郎に、汚されるところだったのよ!あんたに分かる?あいつの股に押し付けられそうになった時、吐きそうになったわ!」

 無理もあるまい。自分も十七の頃に経験済みだ。いったん鼻につけば、あの臭気は眼球まで浸透し感覚を麻痺させる。精子とは生命の塊だということを、嫌というほど思い知らされる。粘つく白濁した液体は、屍が凝縮したタールだ。

 やがて乾き、放たれる死臭とアンモニア臭のブレンド。最悪のものだ。

「こんな所に閉じこめられて、それだけでも不快なのに、全部あんたのせいだわ!責任!?だったら取ってよ。まずはあの二人を始末して!あんた言ってたじゃない、処分は辞さないって。なら、さっさと殺しなさいよ。そういう意味なんでしょ?あんたみたいな犯罪者なら、お手の物でしょ」

「アスカ、そ、そんなこと言ったらさ……」

 気弱な声がした。少女はそちらを睨んだ。途端に、少年は身を竦ませた。

「黙れ!少しいいとこ見せたくらいで、二人で得意になるな!ほら、とっとと答えなさいよ。あいつらをどうするの?殺すの!」

 脳を切り刻むような高い声だ。気弱な少年は毎日こんな調子で、怒鳴られているのだろうか?全く同情する。いっそのこと銃を手渡し、殺りたければ御勝手に、とでも言いたくなる。

「興奮し過ぎよ。体に悪いわ」

「答えてよ!殺しなさいよ!殺して!殺せ!」

 叫びが止まった。栗色の髪の少女は、当惑したように口を開け閉めしていた。柔らかく、豊かな感触が彼女の頬を包んだ。首の後ろに緩やかな締め付けを覚える。薄く、撫でるような芳香が鼻先をくすぐった。

「約束するわ」

 ウミは少女を抱きしめていた。神経質なスピッツ犬のような叫び声に、いい加減我慢ならなかった。

「あいつらを近寄らせることは、二度としない。その時は躊躇しない。それが今の私の責任よ」

「は、離せ!」

「約束するわ」

 腕が回された撫で肩から、震えが引いていった。少女の吐く息は荒かったが、やがて治まった。代わってウミは、衝撃と鈍い痛みを胸元に感じた。少女が前髪に覆われた額を打ち付けているのだ。大した抵抗ではない。身を離そうともしなかった。

 額は規則的に打ち付けられた。それは何かを抑えようとするかのようだ。豊かな髪に覆われた後頭部に、軽く手をそえてやる。動作は緩慢となり、そして止んだ。

 だがウミは、前方を見据えていた。逸らしてはならない理由があったからだ。そうしてしまえば、欺瞞の全てが、部屋中に拡散する気がしてならなかった。

 暗い視界に、微かな輝きを見出していた。その瞳は全く動くこともなく、こちらを見つめている。瞳の色彩は幾つかの記憶の断片を、呼び起こした。

 ウラル山脈の山中で遭遇した狼の目。イスラエル兵のサブマシンガンに取り付けられた、レーザー・サイトが放つ光線。十四歳の時、救助船の中で施された輸血用血液。

 どれも良い思い出ではない。赤い色など、嫌いだ。

 

                      (3)

 

 同時刻。正確には午後八時十五分。第二新東京市。

 某大手新聞社、社会部編集長の下に、一通の郵便物が届けられた。

 ごくありふれた茶封筒だ。早朝からの仕事に疲労しきった様子の、アルバイト学生が配送した。地方支局、関連団体、及び個人から送られてくる郵便物の仕分けと、各部署への配送は、その学生の定期的な職務の一つだった。

 直接本社裏口の郵便受けに投函されたらしく、封筒には切手も消印もなかった。表には新聞社の社名、そして社会部宛と書かれていた。裏側には送り手を示すらしき団体名、『亜細亜大同団結同盟』とだけあった。

 正規ルートを経ていないため、封筒は事前に金属探知器で調べられていた。だが不審物は発見されなかった。アルバイト学生の身元もはっきりしており、彼には政治的活動を匂わす兆候は見当たらない。

 社会部編集長は抗議文の類だろうと推測した。その新聞社はリベラルな論調で売っており、右よりの政治思想を持つ個人や団体からは、目の敵にされがちだった。前世紀末には、地方支局がテロ被害に遇い、局員二名が猟銃で射殺されている。

 念のため指先で表面をなぞる。不審な感触はない。彼は慎重に開封した。中身は、折り畳まれたA4サイズのワープロ用紙だけだった。

 一目で分かる長文だ。次のような内容であった。

 

『我々はアジアの現状、及び未来を、深く憂う者である。

 中国南西部及びインドシナ半島各国に発生した飢餓は、深刻なものがあり、餓死者が二十万を越えるのもそう遠くはない。朝鮮半島における南北の経済格差は拡大する一方であり、内戦の危機は現実のものとなりつつある。十五年前に発生した世界的大災害の被害を、もろに被った東南アジア諸国の復興も、未だ遅々として進まず、イスラム過激派組織の反政府活動が勢いを増している。インド、パキスタン間の和平協定は崩壊の瀬戸際にあり、カシミール地方での衝突は再度の全面戦争に転じかねない。又、イスラエルにおけるパレスチナ自治政府への抑圧、アフガニスタン内戦、ロシアと中央アジア諸国の紛争、中国における犯罪組織と軍部の癒着によるクーデター未遂、チベット自治問題、さらには我が国を含めた、東シナ海周辺諸国間での南沙諸島帰属問題等、アジア諸国には問題が山積しているのが現状だ。

 一方、国内に目を転じれば、災害復興の名を借りる官僚、及び大企業による支配体制は未だ継続し、政府は無益な政策を乱発し続けるのみで、国民の声なき声に応える責任感は毛頭感じ取れない。

 次に挙げる、ごく最近起きた衝撃的事件を、無論マスコミ諸子は忘れていまい。痛切な義憤も覚えたものと、我々は確信している。

 昨年十月、尼崎市で十代の少年グループによる、連続少女誘拐事件が発生した。本年二月、同事件は家庭裁判所から検察官に逆送され、主犯格二名が起訴された。しかし残る加害者六名は対象外とされた。三月、六名を少年院・教護院送致及び保護観察とする、保護処分が家裁より下された。世論はこれらの甘い対応に、司法への不信を強めた。

 五月、インターネット上に、被害者女性一人の物と銘打たれた、裸体写真が流出。同月末、十五歳の少女が大手デパート店屋上より投身自殺を図り、頭蓋骨陥没、全身複雑骨折で即死した。調査の結果、少女は裸体写真の女性と、同一人物と判明した。警察は写真流出に関して、保護観察処分に済まされていた加害者数名を追及。しかし証拠不充分として起訴は見送られた。同写真は明らかに陵辱行為が撮影された物であり、出所は明白なはずであった。後に一部週刊誌の報道により、取調べを受けた少年の内一名は、某外務政務次官の次男であったことが判明している。

 七月、警察側の措置に対し義憤の念を抑えきれず、自殺した少女の父親が、精神科への通院義務を怠る、加害者少年二名を刺殺した。同月末、高知県・中村市に潜伏していた父親が、同県警捜査員に発見され、警官隊に包囲された。彼は説得を受け入れず投降を拒否。結果、無惨にも射殺された。父親は朝鮮系の人物で、前世紀末に日本への政治亡命を果たしていた。

 彼は我が国に、自由への希望を抱き、渡航してきた者であった。その希望、そして築きあげた家庭は、加害者少年グループの不埒なる刹那主義と、警察及び司法の無理解、責任回避の所行に踏みにじられたのだ。これは対外的にも対内的にも、国辱行為である。その責任の真の所在は、語るまでもないだろう。

 以上は一つの例に過ぎない。政府の愚劣なる無策振りは、数え上げれば切りがない。本年六月、アゼルバイジャンのバクーにて締結された、カスピ海油田の採掘権に関する国際協定において、我が国はアメリカ、ロシア、ヨーロッパ諸国からの資本的、政治的圧力に抗する術もなく、無惨な後退を余儀なくされた。その一方、先月開催されたアジア経済復興会議での年次報告から読みとれるように、日本国政府及び財界は、己の経済進出のみを優先し、アジア諸国への援助には消極的でしかないことは明白だ。

 さらに付け加えれば、日本国憲法の強硬なる改憲により、我が国は戦略自衛隊なる恣意的軍事力を保有するに至った。本来国防の要たるべき自衛隊は、世界秩序安定の名を借りた西側諸国の支配する、国連の意のままになり果てている。

 こうした事実は、本来盟友足るべきアジア諸国の、我が国に対する不信感を煽る結果となり、保身のみを優先する政界人、官界人は、これに何ら打開策を講じることもなく、国連の差別的世界観、及び形骸化したバレンタイン体制に追従するのみである。彼らは思考停止しているのだ。

 我々は一つの結論に達している。これは既に、自明の理である。最早合法的手段のみで、この腐敗した現状の回天は不可能である。我々は、我が国の民衆、さらにはアジア同胞を利用することしか考えぬ日本政府、及び国連の支配を認めない。その改新のためには強硬手段を行うことも躊躇わない。

 その表れとしての行動を、今回我々は決意した。目標は国連直属機関である。その組織とは、わが国にありながら、行政権の介入を拒み続ける、特務機関ネルフである。

 ネルフこそは、我々アジア諸国の困難なる現状を顧みない国連が、巨額の予算を投じ造り出した、支配体制確立への先兵である。彼らは今や日本国内にありながら、行政、民間を無視し、血税を浪費し、不遜なる闊歩をなす、日本国民及びアジア諸民族の敵であると、我々は認知するのである。

 我々は、本日午後六時、第三新東京市某所において、ネルフ重要人物の身柄を確保した。我々の要求は、ネルフの組織解体である。この条件が達成されぬ限り、彼らの身の安全は保障できない。

 我々は日本政府の無為無策、国連支配体制の進行、ネルフの我が国における独走が続く限り、闘争を止めることはないと、ここに宣言する。

                            亜細亜大同団結同盟   』

 

 社会部編集長は困惑した。

 送り手の団体名は、その筋に多少は詳しい彼にも初耳で、文章の趣旨からも何を理念としているのか分からない。例示だけはやたらと多いが、それに対する分析は浅いものでしかなく、結論に至る手法は甚だしく偏狭的だ。むしろ稚拙ですらある。

 十五年前の大災害後、言論、思想界には右も左もないのが現状である。絶対的な自然活動を前にして、文明の無力さを思い知った人々にとっては、イデオロギーなど既に懐古的なものになりつつある。極右極左関連の団体も、思想的区分がはっきりしないヤクザ紛いのものが殆どで、企業相手の恐喝行為等に、血道を上げているのが目立つ程度だ。

 だがこの文面は、明らかに犯行声明だ。しかも送り主が主張するところの標的は、あのネルフであった。

 非公開組織とはいえ、ネルフの存在はマスコミの間でも公然の秘密だ。しかし国内にありながら酷く不透明なこの組織に対し、敢えて首を突っ込む者は、少なくとも団体としては無かった。

 ごく稀にネルフ所属の広報部から、断片的で説明めいた情報がもたらされる事はある。それすら限られたものでしかない。組織名でさえ報道の場で表れた事は、数える程度なのだ。だからといって正式な報道協定などが、結ばれているのでもない。

 各報道機関の上層部に、政府筋から圧力がかかっている事は、報道畑の連中の間で周知の事実だ。実はそれが国連の意を受け行われているのも、分かっている。しかし何よりも、マスコミ各社がネルフに関する報道に神経質なる理由は、彼らの間で囁かれる黒い噂によるものだ。

 黒服の男達の存在。正体が明確ではない、それが故の恐怖の対象だ。

 何もマスコミ全てが、ネルフの存在に無視を決め込んできたわけではない。血気盛んな記者魂を備えた者。特ダネに生活を賭けるフリージャーナリスト。彼らのような者にとってネルフというニュース・ソースは、格好の標的だ。

 しかしその意欲はやがて、萎んでいくのが常だった。徹底した秘匿主義に覆われる、ネルフに対する取材は得る物少なく、見えざる壁は厚く高すぎた。

 特殊な大型兵器の存在。操縦者が十代の少年少女らしいこと。使徒と呼称される謎の敵対存在との戦闘が、第三新東京市を中心に繰り広げられている事実。それなりの苦労を厭わなければ掴むのは可能であったし、今やマスコミの一部でも知られつつある。

 だが、そこまでなのだ。その先に踏み込もうとする者、数少ないながら充分に興味を引きそうな事実を公表しようとする者は、不可解にも直ちに転向する。彼らの多くは黙して語らない。そればかりか、突如失踪した者すら何人かいるとの噂が、一種の怪談話になってすらいた。

 こうした捕らえ所のない、不気味な噂にちらつく影。それが黒服の男達であった。連中の正体が何であれ、ネルフとの関連は明らかである。組織防衛のためならば手段は問わない、という姿勢の表れであると認識されるのは、自然であった。

 溜息をつくと、社会部編集長はワープロ用紙を封筒へと戻した。とにかく、上の連中に報告しなくてはならない。だが答えはすぐに出るだろう。社運を賭けてまで、この事態に立ち入ろうとする、腹が据わった奴などいやしない。自分だって同じだ。

 一人娘の結婚が決まり、今彼の家庭には明るさが満ちていた。それを敢えて、暗がりに包む気など起きはしない。

 誰だってそうに決まってる。そう納得しようとしながら、彼は席を立った。

 社会部編集長の予想は、ほぼ当たっていた。マスコミ各社の声明文への対応は一様であった。せいぜい遠慮がちにネルフ広報部へと問い合わせ、否定の言葉に頷くのが関の山だった。

 ネルフ保安諜報部による威圧的で徹底したマスコミ対策。そして虚実織り交ぜての、広報部による情報操作。それらは少なくとも大手報道機関に対し、有効に働いたのである。

 

                      (4)

 

 最上ウミから手渡された物を、三人はしげしげと見つめるばかりだ。真空パックされたそれが、何を意味する物であるかは分かるが、理由が分からない。

 まず協力して欲しい事は、それよ。腕を組み、指先で肘を軽く叩きながらウミは言った。

「あの、どうしろって言うんですか?」

 気弱な少年が困ったような表情を向けた。拘束をあっさり解かれた事も含めて、ウミの丁寧な対応に戸惑っているようだ。それと共に若干の安堵からか、質問は率直だった。

「分からないかしら。着替えてほしいの」

「それは分かりますけど……」

「朝から制服のままでしょ」

 遮るように鼻を鳴らす音がした。行儀の悪さから、誰であるかは明白だ。敢えて無視した。

「不快だろうと思ってね」

「そんなのが理由じゃない事ぐらい、あたしたちだって分かるわよ」

 栗色の髪の少女は、ウミから見れば、大袈裟な身振りを示した。胸を張り不敵な笑みを浮かべている。だが尊大で皮肉な態度は、鼻につくというより違和感が強い。何しろウミの胸元には、少女の額による鈍痛が微かに残っていた。あの時の反応は、いくらかでもこの娘の本質を、窺わせるものだったのか?それともタフな精神でも、緊張感の持続の前には弱さを見せる事の、表れに過ぎなかったのか?

 把握する必要がある。一瞥しただけで再び無視する。

「念のためよ。簡単にあなた達の居場所を確認されたら、面倒だわ」

「どういう意味ですか?」

「知らないだろうけど、発信器の類の小型化は極限まで進んでいるの。極小チップサイズの物なんて、ざらにあるわ」

「そんな物が僕たちの服に、仕込まれているって言うんですか?だとしたら、まるで監視されているみたいじゃないか」

 もちろん嘘だ。対策済みに決まっている。拉致直後、携帯機器を使用して、三人の全身に電磁波を照射した。逃走中の車内でだ。車両への影響は無い程度だが、集積チップの類なら充分破壊できる量だった。人体にも影響があるかもしれない。もっとも、現れるのはかなり先の事だろうが。

 俯き加減の少年の眉間には、細い皺がよっていた。だがよく見ると、瞳は落ち着きなく動き回っている。何を気にしているかはすぐに分かった。視線は揺らぎながらも、常に一方へと集約するからだ。

 その先には、極めて不愉快な表情があった。青い瞳が交互に、ウミと少年とを睨み据える。同年代の異性ならば、こんな瞳を向けられるのは、別の意味で耐えがたい事だろう。だがウミにとっては、判断材料として適当なものだ。

 横目で少女の顔を見つめた。冷ややかにならないよう注意した。目が合うと、青い瞳が見据えてくる。なるほど、金払いの悪い客に対する、風俗嬢並の迫力だが。ウミは内心で苦笑した。

 お望みは、分かったわ。

 目で促してやる。噛み締められていた少女の口元が、微かに緩んだ。道に迷った子犬が、背後から飼主に名前を呼ばれ、振り返った時のような表情だ。無論、それは一瞬だった。

「そんなら益々、従うわけにいかないわね」

「困るわ。私達は今、お互いに協力し合う事が必要で、これがその一歩よ」

「協力!?脳シナプスふっ飛んでんじゃない?何で犯罪者なんかに、協力しなきゃならないのよ!」

 理屈は正しい。憤りも当然だ。だが、こんな状況下で挑発めいた言動が無益なぐらい、分からないのか?他の二人も呆れ果て、迷惑そうな顔をしている。

 要するに常日頃から、自分が事態の中心に位置していないと、我慢できない質なのだろう。年齢相応の我侭かもしれない。しかしエキゾチックな容姿も手伝って、不条理な劣情を引き付けやすいタイプの娘だ。あのニキビ男は、それに触発された口だろう。

 とりあえず、こちらにとっては関係ない。一定の満足感を与えていれば十分だ。いざとなれば事態は完全にそちらの手から離れたと、思い知らせばいい。先程のように、たちまち無力となるだろう。

「あんた、自分の立場分かってんの?」

「それはお互い様、と思うけど」

「何よ、脅し?あのゲス野郎達みたいに、立場をわきまえろとでも言うわけ?」

「方法はともかく、少しはお願いしたいわね。反抗したところで、今は打つ手無しなことぐらい、あなた達なら理解できるはずよ」

 痛いところを突かれれば、黙るぐらいの理性はあるようだ。少女はそっぽを向いて腕を組んだ。そうしてみると、可愛げは充分にある仕草に見える。自分の趣味を抜きにしなくてはならない事が、ウミには少し残念に思えたほどだ。

 煙草を取り出しくわえる。湿気で薄荷の匂いが増していた。ライターで炙り一息吐くと三人に尋ねた。

「それで、協力してくれるかしら?」

「着替えるだけでいいんですか?」

「今のところは。でも尋ねているのは、これからも含めてよ」

「それなら説明してください。なぜ僕達は、こんな目に会ってるんですか?知る権利ぐらいあると思います」

 なるほど、その通り。もっとも知ったところで、当の本人達はある意味において、部外者に過ぎない。それは変えようもないし、可能だと思われるのは面倒だ。

 事実を率直に伝えるだけで充分だろう。事実と本質は、違う。この子達には理解できまい。強い煙草にやや咳き込みながら口を開く。

「ウッ、ウウン!ええっと、私がこれから行う事を見ていれば、自然と分かるはずだけど。お望みなら簡単に説明するわ」

 少年の耳元に顔を寄せ、あいつ肺ガンで早死によ、と栗色の髪の少女が呟く。赤い瞳の少女には際だった反応は全くない。自分達の境遇にすら、関心がないように見える。

「本日午後五時五十二分、非合法な手段で、あなた達の身柄を確保したわ。その後第三新東京市を離れ、旧小田原方面に逃走。国道一号線を東上し、午後七時十分、藤沢市に入る。そこからは国道は避けた。又、高速を利用しなかったのは、万が一の検問を避けるため。逃げ道がないからね。綾瀬市方面に向かい、現在の廃工場跡地に着いたのは、午後七時……」

「細かいことはどうでもいいわよ!わざと言ってんの?」

「あら御免なさい。拉致した目的は、あなた達の属する組織との交渉のため。要するに人質ね、申し訳ないけど。実行したのはある組織、と言うより営利団体。私は雇われて拉致計画の検討、指揮、その後の交渉を任されたわ。少しは理解できたかしら?」

 理解はともかく、納得した様子ではない。薄笑いを浮かべながら、栗色の髪の少女が胸を反らした。拘束具のような制服のせいかもしれないが、胸元は誇示するほどではない。

「詳細な説明は有り難いけど、あんたこそ全然分かってないじゃない」

 既に短くなった煙草を咥え、肩を竦めてみせる。普段はやらない仕草だから、自分でも大袈裟なのが目に見えた。

「ケンカ売る相手を間違えてんのよ!ただで済むと思ってんの!?」

「一応、調べた上だけど。それにあなた達に付いていたガードは、護衛に失敗したわ」

「確かにあの連中は間抜けだったかも知れないわ。だけどねえ、うちの組織にはあたしのためなら命を張ってくれる、頼もしい男性もいるんだから!あんたなんかその内捕まって、首チョンパで御陀仏よ!」

 きっと助けに来てくれるわ!両手を握り合わせ、夢見るような表情で少女は身をよがらせた。傍らに立つ少年は溜息をつき、赤い瞳の少女は付き合いきれない、とでも言うように目を逸らす。それはウミとて同じだ。構われるのが余程好きな子、とは思ったが。

 煙草を足下に落とし、苦笑しながら尋ねた。

「その人、あなたのナイト様?」

「古い言い方ねえ。まっ、そんな感じよ」

「よほど素敵な男性のようね。ネルフ保安諜報部も、捨てたものじゃないわ」

 

 栗色の髪の少女は黙り込んだ。別に驚いたわけではないようだ。慌てたように気弱な少年がウミを見つめた。

「ネルフを、知ってるんですか?」

「あんたバカあ?そんな事も知らないで、誘拐なんてする奴普通いないわよ。調べちゃいるんでしょうよ、それなりに」

「その通り。ネルフは国連直属の非公開組織。復興援助、新技術研究と開発、国際情勢や自然環境復元等に関するシンクタンク、それが活動内容。表向きのね。真実の目的は」

 口元が歪み言葉が途切れる。真実。口にするにも愚劣な単語だ。特にこの場では。

「真実の目的は、現在国連及び世界各国と敵対関係にある、謎の存在との戦闘。主な作戦内容は第三新東京市の防衛。国連軍極東方面第四軍と共同で担当。敵対存在は関係各機関の間で、使徒と呼称されている。ネルフは各種地対地、地対空ミサイル、無反動砲、最新型レールガン等の通常兵器の他、大型特殊人型兵器を使用し対抗している。兵器名、エヴァンゲリオン。現在三機の可動が確認されている。専属操縦者は各機一名で計三名。操縦者名、碇シンジ、綾波レイ、惣流アスカ・ラングレー。非公式ながら国連軍尉官クラス扱いと、待遇を受けている」

 今度はそれぞれの視線が釘付けになるのを感じた。再び肩を竦めてみせる。意識して戯けた調子にした。子供の頃ファンだった、香港のアクション映画俳優の仕草が参考になった。やたらと二丁拳銃で撃ちまくるのが、彼の演技の売りだった。実際に試したこともあるが、有効な射撃方法ではない。

 ウミの仕草に応えようとする者はいない。気弱な少年も栗色の髪の少女も、かなり怯んだ様子だ。目を丸くして顔を見合わせている。赤い瞳の少女は、言うまでもないが、視線をこちらに向けているだけだ。それでも幾分不思議そうに、瞳を動かした。

「今度こそ分かってもらえたようね」

「ど、どうして、そこまで知ってるんですか?」

「あなた達、一部の間では有名人なの。その事はもう少し認識するべきよ。公表されたらアイドル並の騒ぎになりそうね。残念ながら、色々と制限されてるらしい。ある程度洩れてしまうのは、そちらの組織も覚悟の上だろうけど」

 実際、ここまでの情報を得るのも、大した苦労ではなかったようだ。情報屋への十数万ほどの謝礼。休業中の軍事アナリストの身柄確保。自白剤と向精神薬の使用。ハッキング屋による、国連軍三沢基地データベースへの侵入。アロハシャツの言うところでは、かかった手間はその程度だ。

 栗色の髪の少女が顔を向けた。先程までの尊大な態度は消え、唇を引き締めている。ただの犯罪者じゃない、といった程度には認識したようだ。

「なら話は早いわ。勝ち目がない、考えるまでもないでしょ?今すぐ、あたし達を解放することよ」

「その結論には達しないわね。少なくとも、これから始める交渉に何らかの進展があり、私を雇っている連中が、それなりに満足しないことには」

「困ります!僕たちがエヴァを動かさないと、使徒は倒せないんです。そんなの嫌だけど……」

 顔を歪めながら俯く少年の頭が小突かれる。よけいなことを言うな、そんな表情で栗色の髪の少女が睨み付けた。反論する気力はないのか、少年は気弱に、ブツブツと小声を発した。

 ウミは黙ってその様子を見ていた。微笑ましくはある。だが少年の臆病さには辟易していた。ずいぶん昔に、似たような人物が身近に居た記憶がある。少なくとも好ましい相手ではなかったはずだ。

「確かにこのバカの言う通りよ。あたしもネルフも、あんた達の我が儘に付き合ってられるほど暇じゃない。いい?そっちが考えてる以上に、使徒ってのは手強いの。あたしが居なくちゃ対抗しようがないのよ。どういうことか分かる?」

「さあ。この国が、滅ぶのかしら?」

「この国どころか、世界中ヤバイのよ!文明の危機!滅茶苦茶になるわよ!」

 腕時計を見た。若干、予定時間を超過している。いつまでも気の良いお姉さんを、装っていても仕方ない。話が通じる相手だと思わせれば、それで充分だ。切り上げるべきだろう。

「関係ないわね」

 背を向けて告げた。室内が静寂に包まれる。反応を待ったが、息づかいしか聞こえない。歩きながら続けた。

「私には関係ない。少なくとも私が行うべき事には、殆ど影響しない。それはあなた達の組織が考えることでしょう。真剣に案じているというなら、交渉の結果は目に見えている。その程度ね」

 いったん足を止め、振り返る。暗がりの中で三人の表情は窺えなかった。気弱な少年の名を呼ぶ。

「男の子の前で着替えるのは、さすがに気が引けるでしょう。あなたには別の場所でお願いするわ」

 しばらく間があったが、コンクリートを踏みしめる音がし始める。引きずるようだった。重い足取りは、微かな期待を裏切られた失望を表していた。だが、何を期待していたというのか?一定の信頼感はともかく、自分に何を期待するというのか?

 錆び付いた開き戸を押し開いた。照明の光は既に無い。雲間から洩れる弱々しい月明かりが、廃墟を青白く照らしていた。少年が背後に立つのを確認し、外に出た。

 卑劣女!鋭い叫び声が室内から響く。自分の意志が通じない事のみに、憤っている。甲高い声の震えから、それは容易に窺えた。スピッツ犬の喚きとは、我ながら適切な喩えだな。そう思った。

「早めにお願い。交渉を開始するわ」

 戸を閉め歩き出す。少年がついてくる様子はない。立ち尽くしているようだ。何かを、納得できる何かを言葉として、与えられるのを待っているのか。それは身勝手というものだ。

 構わずウミは、雨に濡れた地面を踏みしめ続けた。

 

                      (5)

 

 完成当初から本部施設内は所定場所以外、全館禁煙だ。

 一部の者を除いてそれは、今でも忠実に守られている。これといった罰則があるわけではない。忌み嫌われている、保安諜報部三課・内部監査室の連中も、同僚達を槍玉に上げる材料にはしていないらしい。

 決してストレスが少ない職場ではない。しかし暗黙の了解を守ることにかけては、うちの組織の職員達は、並の日本人以上だ。言葉は悪いが、まさに飼い馴らされている。自分の禁煙もそれに引きずられた形だが。

 三隈ヒロキは不愉快だ。理由はこの場で、自分一人そんな原則に固執している、という腹立たしさだけではない。

 確かに本部棟四階の第六会議室は、空調が追いつかないほど、空気が澱んでいた。ここに待機し始めてから、既に一時間は経過している。おまけに状況が状況だ。無理もない。禁煙の伝統を誰もが率先して破っていた。

「遠慮したって仕方ないだろ?」

 軽い調子で男が再び勧めてきた。灰皿の上には既に数本の吸い殻がねじ曲がっている。しかし苛立ちや、手持ちぶさたで、吸っているわけではないらしい。嫌になるほどくつろいだ様子だ。

 しつこい野郎だ。内心そう思いながら、示される煙草の箱に目を向ける。群青色の表面に白色の英文字が映えている。平和?銘柄まで皮肉めいていやがる。禁煙開始から一週間の奴が、こんな強いのを吸えば、殆どマリファナ並だ。

 第一印象からして、男の軽薄な態度は気に入らなかった。だが職務上の実績については色々と噂に聞いていた。傑出している、そう言って良いものだ。表向きは礼を保とうと、ヒロキは努めていた。

「自分は禁煙中です」

「他の連中を見てみろよ。こんな時まで職場の原則もないだろ?」

「関係ありません。自分の意志でやっていることです。だいたい真っ先に吸い始めたのは、加持さんじゃないですか」

 顎の無精髭を撫でながら、そうだったか?と加持はとぼけた。噂通りのつかみ所がない男だ。酒の席でならそれも我慢できる。だが指揮下に入ることには、承伏しかねていた。

 無視して手元の書類に視線を注ぐ。専属パイロット三名の顔写真が張られた、略歴だ。保安諜報部三課に所属してから、何度目を通したか分からない。暗唱が出来るほどだ。全く無意味なのは承知だが。

 書類の表面は、微かだがオレンジ色に染まっている。ブラインドから差し込む外光が、部屋全体を同色に塗りつぶしていた。ネルフ本部のあるジオフロント内部は、無数の光学機器による人工光で、擬似的に時間の流れが再現されている。外界とは数時間の時差がある。理由は分からない。今はあの襲撃時と同じ、夕暮れの設定だ。

 ヒロキが座る席は悪いことに、空気清浄用ファンの近くだ。嫌でも流れてくる煙草の煙が鼻を刺激する。特に加持の吸う銘柄は、甘ったるい匂いで苛立ちを増した。室内の連中に聞こえるのを承知で、強く咳払いしてやる。

「何だ?昨日の歓迎会を早引きしたこと、怒ってるのか?いやその女ってのが、結構身持ちが堅い女でな。さんざん頼み込んで……」

「状況を考えて下さい。そんな余裕無いですよ」

 視線を上げると加持は笑みを浮かべていた。意識してそうしているとは思えないが、どこか皮肉めいた表情なのは相変わらずだ。

 再び書類に目を通そうとしたが止めた。待機し始めてから一字一句、二度も読み通した。いい加減、飽き飽きだ。何よりも、襲撃事件の現場報告書を見るのは苦痛だ。負傷した左肩が疼く。

「もう少し肩の力を抜いたらどうだ?」

「パイロット三名が拉致されたのは、護衛に失敗した自分の責任です。同僚二人も死亡しました。自分はあなたのように、任務に余裕を持てるほど器用ではありません」

 辛辣な言葉を抑えられなかった。それに加持は気を害した様子もなく、肩を竦めた。どう見ても真剣味があるとは受け取れない。犯行グループとの交渉役に、この男が指名された理由が、ヒロキには計りかねていた。

「だいたいお前さんは、まだ安静中の身だろ?それを任務に志願して抜け出して、外科の看護婦たち怒ってたぞ」

「弾丸が左肩を貫通しただけです。適切な治療のお陰で、痛みは殆どありません。無理をすれば腕も上がります」

「心意気は買うけどな。それにしても……」

 溜息をつくと加持は室内を見回す。その気持ちはヒロキにも理解できた。

 交渉担当班として、加持の指揮下に入ったのは五名。ヒロキ以外は全て二課の職員だ。一目で、現場とは縁遠い連中であることが分かる。どいつも身体の動きに切れがない。眼光にも鋭さが無く、デスクワーク中心で席を温めているのが、容易に察せられる。

 そもそも三課所属のヒロキが、二課の指揮下に入ること自体、特例のことだ。許可されたのには事情がある。それについては、黙っているのが賢明だろう。

「人員を決めたのは司令だと聞いています。どういうつもりですかね?」

 小声で語りかけると、加持は面白そうに視線を戻した。

「おっ、上層部批判か?やっと本音が聞けたな」

「ち、違いますよ。加持さんだって疑問に思っているはずです」

「否定はしないがな。まっ、与えられた職務には最善を尽くす。俺もあいつらも同じってことさ」

 本気で言っているのか?

「重要任務ですからね。パイロット達の生死が直接、係わりますから」

「心配か?」

「当たり前です。加持さんは違うんですか。特に弐号機専属パイロットとは、ドイツ支部からの付き合いのはずですが?」

「俺は一応、アスカの保護者だからな。それにしてもやけに詳しいじゃないか。お前まさか、彼女に気があるとか?」

 思わず睨み付ける。ふざけるにも程がある。年齢の事を差し引いても、あの手の異性は願い下げだ。高飛車で我が儘、その上に手が早い。まるでサドの女王様だ。ある種の人間ならば歓喜してひれ伏すだろうが、俺は御免だ。

「冗談だよ。本気にするな」

 悪質な冗談だ。

 不愉快さを満面に表しながら、報告書に視線を移す。だがこの男、他人との会話に妙な手練れを感じるのはさすがだ。諜報二課の実力者、というのは伊達じゃない。

 何にしろ、今の任務を続けたいならば、こいつに張り付いている必要がある。もう少し付き合うか。

「警護相手に情が芽生えるのもおかしくはない。いや、恋愛感情なんかじゃなくてな」

「情というか、稀に重なって見える事はあります。あの三人と、自分が同年代だった時とが」

「重なる?」

「比較と言った方が適切かも知れません。自分が十四歳だった頃とは、かなり異なっていますから」

 加持は吸い殻を灰皿に押し付けた。フィルターの先まで火が届いていた。軽い調子は消え、どこか和らいだ声で尋ねてくる。

「お前、幾つだ?」

「二十九です」

「なるほど。十四の時にセカンド・インパクト、か……」

 あいつと同じだな。そう呟くのが聞こえた。誰のことかは無論分からない。加持の年齢は三十歳らしい。らしい、というのは、出生関係の記録に改竄があると、疑惑を持たれているからだ。彼の過去には不明確な部分が多い。そのため内部監査室は、潜在的な危険人物と見なし、マーク対象にしている。

 上司からの説明を反芻しながら、無精髭の目立つ顔を盗み見る。気付く素振りもなく、加持は何かに思いを巡らしている。不可解な男なのは確かだ、しかし一方で。ヒロキは渋々認めた。

 説明しにくい魅力がある男なのも、確かだな。

「同じぐらいの時に、俺もあれに遇っている。分からないでもないが」

「承知しています。任務に情を持ち込むつもりはありません」

「その方がいい。度が過ぎると、いつか身動きが取れなくなる。俺だって、アスカにしてやれる事と言ったら」

 電子音が鳴り響く。加持は口を噤んだ。ヒロキも視線を移す。ブラインド越しに差し込む夕日は、徐々に弱まりつつある。澱んだ空気を透過することも、ままならない程にだ。

 机上の電話機が鳴っていた。待機開始から、最初の連絡だった。

 

「広報部からです。パイロット三名の身柄を預かっていると称する者から、外線が入っているそうです。三名の氏名も挙げているようです」

 口元を引き締め、加持は座席に座り直した。

「こっちに回すように言ってくれ。三隈、逆探の開始を指示するんだ」

 緊張しきった面持ちで部下の男が頷く。ヒロキは自分の前の受話器を手にし、逆探始めて下さい、と通信管制部に伝える。

 十秒後、加持の席の電話が鳴った。三回電子音を待ち受話器を取り上げた。部下の一人がヘッドホンを耳に当て、端末を接続したレコーダーの録音ボタンを押す。光沢のある焦茶色のテープが回り始める。

「第六会議室だ」

「司令は不在だと聞いたわ。あなたが交渉の責任者かしら?」

 外部スピーカーから流れ出た声に、室内の者達は一様に驚きを見せる。明らかに若い女の声だ。

 この女だ。間違いない、あの時の笑い声と同じだ。唇を噛み締め、拳を握りしめる。微かな痛みが左肩を走る。何が面白いのか、加持は微笑みながら電話口に答えた。

「そうだ。交渉役に任命されている。さっそくだが、そちらが身柄を預かっているというのを、証明して欲しいが」

 この声って、加持さん!?別の甲高い声が遠くからした。喜悦を隠そうとしない声は、ここにいる連中には聞き慣れたものだ。唖然としながらヒロキは視線を上げた。加持はそれに肩を竦めながら頷いた。慌てて書類をめくる。惣流アスカ・ラングレーの経歴書に、ボールペンで二重丸を書いた。

 電話の相手は苦笑混じりに続けた。

「彼女の知り合いのようね」

「そうみたいだ」

 あっさりと認める加持に、いいんですか?と目で聞く。仕方ないだろ、とでも言うように、加持は片目を瞑って見せた。

「なるほど、あなたがナイト様ね」

「何のことだ?」

「横でお姫様が代われって、凄い形相よ。従った方が身のためのようね」

 大きなノイズ音が連続した。ヘッドホンを耳にする部下の男が顔をしかめる。もしもし、加持さん!?今度は特有の高い、上擦った声が響いた。男は掴んでいるヘッドホンを遠ざけた。

「よう、元気してたか?」

「加持さんが交渉の責任者だなんて、感激!これで一安心だわ!」

「御信頼いただいて光栄なんだが、俺の名を口にするのは止めて欲しかったな」

「あっ……。ごっ、御免なさい!」

「まあいいさ。ところで他の二人も無事か?」

「う、うん。バカシンジもファーストも無事よ。シンジはさっき、腹を蹴られてたけど」

 どうでも良さそうな言い方だ。話題が自分からそれた事が、面白くないようだ。嫌な娘だな。内心、ヒロキは本気で憤慨した。

「蹴られた?そこにいる女にか」

「ううん、手下だか部下だか、そんな男に。あたしも酷い事されそうになったけど、とりあえず大丈夫よ。ほら!あんた達も何か言いなさいよ!」

 戸惑った様子で、今晩は加持さん、と気弱な少年の小声がした。残る少女からの答えはない。もともと無口な少女だ。この反応も危惧を増すものではない。室内にはとりあえず、安堵感が広がった。

「女の人は何もしないんだな?」

 相も変わらず場を仕切っている、馴染みの少女に苦笑しながら、加持が目で促す。三人の安全は今のところ確定と見たのだろう。ヒロキは頷き、碇シンジの経歴書に二重丸を、綾波レイの経歴書には丸印をつけた。

「でも嫌な奴よ、ニヒリスト気取りのさ。おまけに、あたしとファーストに向ける視線が、どうも怪しいのよ。早く助けに来てくれないと、貞操の危機かも!」

「何だそりゃ?」

 苦笑混じりの声が代わって疑問に答える。同性愛者に対する、偏見ね。女は会話を楽しんでさえいるようだ。ふざけやがって、余裕しゃくしゃくか?人質交渉にしては違和感がありすぎる。ヒロキは歯噛みする思いだ。

「よく分からんが、彼女の言うことにあまり逆らうなよ」

「うん、加持さんが言うならそうするわ。だから早く助けに来てね」

「もちろんさ。そろそろ彼女と代わってくれ」

 受話器が渡される音がした。少女は素直に従ったようだ。惣流アスカの護衛任務は、この男が適任じゃないのか?苛立ちながらペン先で書類を引っ掻く。安物の再生紙はあっさり破れた。

 受話器の向こうから女が語りかけた。

「あなたのお姫様、つくづく大した子ね」

「相変わらず元気そうで安心したよ。しかし人質に交渉内容が聞こえるのを許すとは、君は変わってるな」

「私はこの子達の協力が必要なの。人質と言うより、大切なお客様よ。知る権利ぐらい保障するわ」

「そのお客様達に、酷い事がされたそうだな。それはどういうことだ?」

 責めるような口調ではない。はっきりさせるべき事はそうさせる。人質を取られている状況においても、毅然とした態度だ。少しは見直す気になる。

「全面的に謝罪するわ。仕事内容への認識が欠けた連中がいてね。女の子達に愚劣な欲情をぶつけようとした。庇おうとした男の子も、暴力を受けたわ」

「救ったのは君のようだな」

「彼等の身柄を安全な状態に保つのは、私の責任だから」

「なるほど。シンジ君、よくやった。女の子を庇うのは、男として見上げたもんだぞ」

 有り難うございます。照れたような明るい調子で、少年の答えが返ってくる。ウンウン泣き喚いてたくせに。不満げな小声が被さる。誰のものかは、考えるまでもない。

「要求の提示を、始めていいかしら?」

「その前にはっきりさせておきたい。君は、マスコミに声明文を送りつけた連中とは、どういう関係だ」

「直接はないわ。雇われの身よ」

 プロの人間だな。襲撃の手際の良さは、痛いほど実感済みだ。この女が指揮者だったとして、交渉役まで任されているとなれば、かなりの大物だろう。しかしその自信からくる余裕が、墓穴を掘ることになるかも知れないぞ。

 自分の前に置かれた内線電話を見つめながら、ヒロキは唇を歪める。そろそろ逆探の成果が表れても良い頃だ。通信管制部からの連絡はまだなのか?

「よし、要求を聞こう。ただしここから先、こっちの会話内容はオフレコだ。理由は分かるだろ?」

「そうね。あの子達が知るべきではない事もあるでしょう。スピーカーを切るわ」

 受話器の向こうから微かな電子音がした。それを確認し、加持は足を組み直す。

「始めてくれ」

 

 女は淡々と語り始めた。

「要求は次の六つよ。第一は、以下に挙げる条件を一般国民に公表すること。第二は、民間で組織された調査委員会による、ネルフへの実態調査の実施。調査結果については全て国民に開示されること。第三は、ネルフの保有する軍事力を日本政府管轄下に移し、民間による監視の下へ置くこと。第四は現在、ネルフと軍事的敵対関係にある勢力との、和平努力を早急に実施すること。第五、国連におけるネルフへの非公開予算を公表し、今後三ヶ月以内に現行予算の約20パーセントにまで縮小する。第六、今後一年以内に以上の条件を完遂し、結果を踏まえた上で国民投票を実施。ネルフの日本国内における活動が否決された場合は、開票実施後五ヶ月以内にネルフ本部施設を解体、国外へ撤収させること。ただしアジア諸国への移転は認められない。以上よ」

 誰もが唖然とし顔を見合わせた。言葉も出なかった。そうする必要もない。誰もが、この交渉の結果が目に見えていることなど、瞬時に認識した。

 そんな事出来るわけないじゃない!バカげてるわ!外部スピーカーを震わせる少女の怒鳴り声に、ヒロキも頷く。当たり前だ。まさに馬鹿げた要求としか、言いようがない。

「お姫様はあのように仰っているわ。そちらも同意見かしら」

「少なくとも、本気で言ってるとは思えないな」

「どうかしら。私を雇っている連中は、この程度の努力で世界中の諸問題が、好転すると考えているようだけど」

 女の語り口は存分に皮肉が効いていた。絶対に受け入れられるわけないですよ。ヒロキは小声で呟き眉を上げた。それを手で制し、加持は受話器を握り直す。

「まさか君は、こんな要求が完全に飲まれるものと、考えてはいないよな?」

「無理でしょうね」

「その通りだ。この条件では声明文の通り、まさにネルフ解体を意味する。総司令が受け入れるわけがない。いや、その前に国連が許さないだろう」

「正直ね」

「誰にでも分かることだ。そうなってしまえば、あの三人は……」

「処分、と判断されるでしょう。それには私も従うつもりよ」

 女の声はひどく平板なものだ。部下の一人が、何て身勝手な要求だ!と拳を机に叩きつける。相手に筒抜けなのを考えれば、誉められた行為ではない。しかし憤りはヒロキも同じだ。

 絶望的じゃないか。腰から下の力が抜けそうな気分だった。頼みの綱は二つのみだ。その一方に目を向けた。通信管制部からの連絡を示す表示は、電話機の液晶画面にまだない。午後九時十二分。ただそう告げていた。

「だが君は、それを望んじゃいない。そうだろ?」

 もう一つの頼みの綱である男が、呟くように言った。一瞬、液晶画面から目を逸らしそちらを窺う。表情に焦りはない。いや、余裕すら感じ取れる。

「もちろん。結果がそれでは、ビジネスとしては失敗よ」

「交渉の余地はあると、捉えて良いわけだな」

「連中は甘い期待を抱き過ぎてるだけ。猛り狂った猿ばかりじゃない。結局、双方の譲歩次第ね」

 加持は受話器を掌で押さえ、長期戦ってことさ、とニッコリ微笑んだ。沈んだ空気の中、それに応える者は誰もいない。だが次の瞬間、ヒロキの顔には喜悦が満ちていた。お待ちかねのものがやって来た。受話器を取り上げ結果を仰ぐ。もちろん声を抑えてだ。

 加持もその様子を注視する。ヒロキが手にするペンの先が、メモ用紙の上を滑り始める。それを確認すると再び受話器を耳に当てた。

「一つ疑問がある。要求としては、何かが抜けてないか」

「金ね」

「うちも決して豊かな台所事情じゃない。経費削減とうるさくてね。しかし一番取っ掛かりやすいのは、それだからな」

「正式な要求としては、私にも明示されていない。ただし、そちらにその気があるならば、日本国民とアジア同胞に対する謝罪金として、受け取る用意があるそうよ。一時的に預かる、そうも言っていたわ」

 いかにも可笑しそうな調子で、女は言った。どうやら、これまでの交渉が茶番に過ぎなかったことを、暗に伝えているつもりらしい。加持も笑みを浮かべていた。立場は異なるが、糸口を確かめた事を周囲に知らせるという意味では、同じだった。

「金額はどうだ?それも指示されていないのか?」

「今のところは。誠意の印というのが建前ですから」

 机を軽く叩く音がした。目を向ける加持に、ヒロキはメモ用紙を手渡した。

 逆探成功。発信先は静岡県・旧藤枝市近辺。位置をさらに特定中。ただし、分析作業にこれ以上の通信接続は必要なし。

 強い筆圧で殴り書きされた報告に目を走らせ、加持は頷き了解を伝えた。

「とりあえず、要求内容については上に報告する。事が事だ、うちの組織だけの問題ではなくなるだろうが」

「時間がかかるのは覚悟しているわ。でも、退屈はしないで済みそうね。あの子達は面白い子達よ。それにネルフ保安諜報部のナイト様は、お姫様の言う通り、優秀な男性のようだし」

「おいおい、そこまでバレてるのか?」

 あたしの加持さんに、ちょっかい出さないでよ!耳元で響く少女の怒鳴り声に苦笑しながら、加持は中指を立て示した。ヘッドホンを耳に当てた部下が頷く。録音を止め、テープを高速で巻き戻し始めた。

「次の連絡は、明日の午前中になるはず。そちらも外出する事が多いでしょうけど、交渉相手はあなたしか認めないわよ」

「分かった。出掛ける時は、俺の携帯に直通できるようにする」

 録音テープが片方のリールに巻かれる。惰性で回転し続けるそれを掴み、部下の男は出口へと向かう。

「こちらに来るのなら、急いだ方がいいわよ。陰気で湿気も強い、最低の場所だわ。いつまでも落ち着く気はないから」

 部下の男が、ドアの前で打たれたように足を止めた。他の者達も顔を見合わせる。暗澹たる気分に落ち込んでいくのを、ヒロキは実感していた。

 バレていやがる。くそ、当然といえば当然か。

「まったく、大した自信だ」

 一人、加持のみが感服しきった表情で答えた。

「クスクス……。交渉相手が、あなたのような人で良かった。話は通じそうね。また連絡するわ」

「そこまで自信があるのなら、少し待ってくれないか。言い忘れていた事がある」

 回線が切られた様子はない。加持は続けた。

「襲撃の際、犠牲者が出ている。知っての通り無関係な民間人だ。うちの広報部の連中は、遺族にどう説明するべきなのか、苦慮している」

 加持の真意が計りかねた。ヒロキは唾を飲み込み耳を澄ます。女からの返答は、変わらず冷静なものだった。

「こちらから弔辞でも送るべきかしら?」

「必要ない。だがこの上に犠牲を重ねる無意味を、認識してもらいたい。そこに居る三人は、まだ十代前半の少年と少女だ。本来なら、大人同士の馬鹿げた葛藤に巻き込む自体、愚かなことだ。俺が言いたいのはそれだけだ」

 相手は黙り込む。スピーカーからは何が原因なのか、パイロット二人の言い争う声が、微かに漏れていた。険悪というより、コミュニケーションのための口喧嘩、といった感じだ。それは重く濁った室内の空気の中、現実離れしていた。

 何のつもりだ?理屈は正しい。怒りを憶えるのも当然だ。しかし、相手は所詮テロリストなのだ。何を言ったところで、逆効果なのが分からないのか?

 だが視野に写る加持の表情に、非難めいた焦燥は立ち消えた。驚くほど冷静で、それでいて厳しい目をしている。軽い気持ちで発した言葉でないことは理解できた。

「了解したわ。思うところは、こちらも同じよ」

 通話が切れる。無味乾燥な電子音が、後には続くだけだ。

 そう、所詮は犯罪者だ。だが少なくとも、プライドは感じ取れた。たとえそれが歪んだものだとしても。

 ヒロキは自分に、そう言い聞かせていた。

 

 薄汚れた窓ガラスに弱い雨が打ち付ける。水滴は流れ下り、僅かにずれた窓枠から、煉瓦の壁に浸透してゆく。

 壁面には幾つもの亀裂が走っている。このアパートも倒壊は免れまい。住民は知っている顔で四人ほど。どいつも前歴は、海抜零メートル以下に沈んだ旧マンハッタン島の、元ホワイト・カラーだ。着用するシャツも汚れきり、もはや純白からは程遠い。

 エンパイアステートビルの頂上に、立ってみたことがある。その日に限って、ハドソン河(今や湾と言った方が適切だ)の水面は澄み切っていた。眼下に広がる海底の廃墟は美しかった。腰から折れ、倒れた女神の像が、緩い海流にヘドロを洗われ微笑んでいた。

 色とりどり、美しいものから醜いものまで、様々な熱帯魚が泳いでいた。それに混じって大型のアリゲーターが、波に洗われるビルの屋上に住み着いていた。気候の変動で南部から生活の場を北上させたのだろう。淡水と海水の境目は色の違いで分かる。奴等も、それを目安にテリトリーを決めているに違いない。

「ねえ。昨日食べたラザーニアの残り、冷蔵庫に入れなかったかしら?」

 振り返り、男は微笑みながら顎でテーブルを示した。10インチ以上もある円形の皿に、原色が混じり合った料理の残りが、山盛りになっていた。

 かき混ぜられたパスタは絡み合って乾燥し、汚れた陶器にこびり付いている。それは嘔吐物を思い起こさせる。この街の住民が、強い酒とドラッグと、絶望に酔いしれ吐き出す、胃液混じりの汚物だ。夜半路上にばら撒かれ、日が昇ると一気に上昇する温度で腐り、乾ききる。

 虚ろな目をした下着姿の女が、困ったような顔をしてテーブルの席に座る。フォークを取り上げ盛りつけられたラザーニアの真ん中に、突き刺した。そのままクルクル回転させる。輝くブロンドの髪が腰まで垂れている。それで惹き付け淫行に誘い込む。しかし昨夜とった客の事も、はっきりとは憶えていまい。女は、自分のしたことをすぐに忘れる。

「ねえねえ。あなたと一緒に住むようになってから、もうどのぐらいかしら?」

 七ヶ月と七日と七時間。再び窓の外に目をやりながら、男は和らいだ声で答えた。ガラスに映り込むその顔は端正なものだ。鼻梁は高いがすっきりとしている。顔の彫りも深い。それは野暮ったいほどではないし、眉毛の線も整っていた。

 髪の色はブラウンだ。瞳は緑がかったブルー。しかし国籍や人種を特定するには、男の顔には特徴が少なすぎる。アングロ系、ユダヤ系、スラブ系、どうとでも取れる。

「そろそろ家族に紹介したいな。パパもママも、あたしの事が心配でしょうがないのよ。東部の生活に馴染めないんじゃないかって。どうって事ないわよね?同じアメリカじゃない。サンフランシスコに比べて、少し寒いぐらいよ。心臓病の患者さんが多いのは、そのせいかしら?急患が入ったら、また休日がお流れになっちゃうな」

 女の家族から連絡が入った事は、少なくとも昨夜はなかった。サンフランシスコは海の底だ。ここは充分すぎるほど暑い。心臓病などより飢餓による死者の方が多い。今時、看護婦などに働き口はない。この街には、癒しを求めてもなそうとする者など、誰もいない。

「あなたも家族を、紹介してくれる約束だったよね?」

 振り返らず男は頷いた。眼下の通りでは雨の中、赤いカマロが炎をあげている。タイヤもエンジンもラジエターも持ち去られている。ジャンク屋に売りつけにいった少年達が、意味もなく火を放ったのだろう。

「今日にでも連絡があるのかしら?ここの場所は、教えてるんでしょ?」

 頷く。居場所だけは連絡するように言われている。もっとも、そうする必要があるほど、向こうの情勢は差し迫っているかどうか。

「いきなり訪ねてきたらどうしよ?身繕いだけはしとかなくちゃね。一緒にシャワー浴びようよ。でも、どうしてそんなに汗かかないの?暖房が壊れているのかしら?」

 テーブルの上の電話が鳴った。振り向くと、あたし出るよ、と言って女が受話器を取る。右肩を揉みほぐしながら壁にもたれる。電話の相手と言葉を交わす女の顔が、興奮したものになってゆく。男は軽く背伸びをし腰を回した。筋肉質の肉体だが、無駄な肉は一切ない。人目を意識して鍛え上げたものでは、なさそうだ。

「大変、あなたの弟さんだって!会いに来るのかもね!」

 歩み寄る。手渡された受話器を耳元に寄せながら、男は女に頷いた。白痴のような笑顔を浮かべ、女はタオルを手にし浴室へと向かう。ブラジャーを外し床に投げ捨てていった。痩せ細り、肋骨が浮き出た身体に、そもそも必要とは思えなかった。

 確かこちらを確認する取り決めが、あったはずだが。芝居がかったやり方を好むものだ。

「ハロー」

「悪霊どもは主に願って言った。もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群の中につかわして下さい」

 唇が歪む。前歯が覗く。それは磨かれた大理石のように、純白だ。

 留まれ。

 男の答えに相手は黙り込んだ。シャワーの水滴の音と共に、女のリズムが狂った歌声が流れてくる。

『   天使の呼び声が 天使の呼び声が聞こえてくるの

    燃えるような空に 微かな雷鳴と虹

    ここに居ることは苦痛でも 幸福でもない

    私はどこへだって旅立てる あなたを連れて旅立てる   』

 聖書の一節を汚され、電話の相手は不快そうだ。それを隠そうとせずに言った。

「あなたに出番をお願いすることが、許可されました。状況について説明したい。こちらにはどのくらいで、来ていただけますか?」

 処理すべき事がある。

「それが済んでからで結構です。情勢は切迫している、という程ではありません。品物はこちらで用意しています。持ち込みは禁止されていますので」

 電話が切れる。男は受話器を置き、寝室へと向かった。ベットの上で子猫が丸くなっていた。寝息と共に柔らかそうな腹が伸縮している。前足が鳩の死骸を押さえ付けている。純白の羽毛の上に、どす黒い液体が付着していた。

 近寄り、頭を撫でてやった。硬直したように猫の動きが止まる。そのまま抱え、床に転がるクッションの上へ寝かせる。猫は目を覚ましていた。ベットに置かれたレインコートを手にする男へと、視線を向けている。琥珀色の瞳は魅入られたように微動だにしない。

 ズボンを履き、コートを素肌の上に羽織る。浴室へと向かう。シャワーの音が続いている。引かれたビニール製のカーテン越しに、女に語りかけた。どうせすぐに忘れてしまう。理由は適当に言った。

「…どうして?どうして会ってくれないの?なんであなたまで、出てっちゃうの?」

 浴室を出る。女は泣き出した。嗚咽は流れ落ちる水滴の音でかき消されがちだ。出口へ向かう。ふと、胸の辺りに堅く、冷ややかな感触を見出す。確か持ち込みは厳禁だと向こうは言っていた。

 レインコートの裏ポケットからそれを抜き出す。キッチンに戻る。腐り始めたラザーニアの臭気が鼻を突く。マガジンを抜き弾薬を抜いた。一発だけ残し装着し直す。スライドを引き弾薬を装填する。

 皿の上に置く。黒光りする鉄塊。コルト・ガバメントは、この国でならごく普通に見かける、四十五口径の銃だ。

 立て付けの悪いドアを開け外に出る。女の泣き声は止んでいた。コンクリートが所々剥がれ落ち、鉄筋が露出する階段を降りる。誰の物か分からない傘が、壁に立てかけてあった。手にしてみたが穴だらけだ。

 通りに出ると大粒の雨が顔を打った。傘を捨て歩き出す。廃墟の続く風景に目を凝らすと、遠くの空に晴れ間が覗いていた。雲の間からは日の光が降り注ぎ、地上を這いずる人間達を焦がしている。

 銃声がした。振り返り視線を上げる。部屋の窓ガラスが割れている。ガラスの汚れが増していた。朱色の血液が滴る。付着した脳髄とブロンドの毛髪が、吹き込む雨に洗い流されてゆく。

 子猫が割れた窓から顔を覗かせた。口には鳩の死骸をくわえている。男に瞳を向け、放した。羽毛が飛び散る。骸は、男の足下へ落ちた。

「感謝してるよ」

 笑みを浮かべ、男は宙を舞う純白の羽根を掴み、握りつぶす。

 鳩の死骸は洗い清められた。羽ばたくことのない羽が、水流に揺らめき、上下する。

 

        [  続く  ]

 

 

 


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