『 BLUE 』

 

                    (6)

 

 調子外れの歌声は廃屋が点在する草地に響き、止むことがなかった。

 雲間に隠れる月が弱々しい光を投げかけている。灯りと言えるものはその程度だ。生い茂る雑草と虫達の密やかな鳴き声。空を横切る渡り鳥の羽音。

 その中で、歌声は耳障りにしか感じられない。この場所でささやかながらも謙虚に、生命を主張する者達に対しての配慮を、欠いているばかりではなかった。かなり昔に流行った演歌は曲調も歌詞も、創りだした人間の自愛ぶりを窺わせるものでしかない。陳腐なメロディにのせて、生まれてきた孫に対する賛歌なのだと声高に主張はしている。だが命の誕生、行く末、終わりには、何ら敬意が払われていない。

 それは日々の生活に進んで埋没し、人として存在している事への根拠なき確信を持ち得た、幸福にして怠惰な時代の産物だ。いや、世紀は移ったが表面上は、この月夜の晩にも変化はないのだが。

 薄汚れた男の陽気さは当然そんな理屈と関係がなかった。密造酒による酩酊状態が原因だ。週二回、旧市庁舎跡地にて開かれる闇市の酒場で、今夜もちびちび口にした。アルコール度70パーセントというのも法外だが、含有する成分は一般では絶対認可されないものだ。この辺りに住み着く連中は誰もが、メチルアルコールの毒素によって、肝機能を低下させている。

 酒場ではいつものように、太った中年女がしなだれかかってきた。汚れたコップに注がれた酒を物欲しそうに見ていた。だが男は一杯ほどしか与えない。ここ数ヶ月でやっと根付き収穫出来るようになった、色の悪いトマトを数個与えれば、抱かれることを拒もうとはしない。だからといって、とても満足できる相手などではないからだ。

 女の腹部は脂肪でだぶつき幾重にも肉がせり出している。フランスだかどこかの、タイヤメーカーのマスコットキャラを思い起こさせる。それでいて肌は荒れはてざらついている。まるで600番の紙ヤスリだ。吹き出る汗は乾ききった干潟のような臭気を放つ。もっとも男の方だって大して変わりはしない。清潔さを保つ意志も感じ取れない。瞼にこびり付く目脂は、昨日今日の物ではないだろう。

 通り雨が降ったようだ。草地は夜露で輝いている。ねぐらと決め込んだ工場跡に向い一本道が伸びる。まるで獣道だ。胸元まで伸びきった雑草を踏み倒す。太い幹は、酒が沈殿しきった肉体に対し、強固な反発力で抵抗した。除草剤が必要だな、と目脂の男は毒づいた。

 ここにぶちまけたら清々するだろう。塩害で痩せきった土地から離れようとせず、飽きもしないで稲作を続ける農家どもから、拝借してこようか。くそ、俺のズボンにビッシリ種付けしやがって。このままじゃあ工場の中も、こいつらで一杯になっちまう。この土地は俺の土地だ。何が住み着いて良いかも、俺が判断すべきだ。

 足を止め下半身に付着した種を手で払う。痛みに呻く。中指の先に棘が刺さっていた。名も知れぬ草花の自衛手段だ。指を口に含み吸い上げる。微かな血の味。錆びた鉄のような味覚は、泥酔による吐き気を呼び覚ました。口元を抑え周囲の草を蹴り倒す。再びズボンの表面が種に覆われる。

 呪詛の言葉を呟きながら歩き出す。演歌を口にする気は失せた。あの演歌歌手は今頃どうしていることか?死んではいないはずだ。ずいぶん前に拾った女性週刊誌に、暴露記事が載っていた。演歌歌手は大災害の際、自分の孫を見捨てた。救助にやって来た漁船へ真っ先に飛び乗った。勢いで船は傾き、数人濁流へ沈んだそうだ。そうしたくなるほど、何かをため込んでいたのだろう。多分貴金属や宝石で、海外へと逃げ出し、若い女でも囲っているに違いない。

 この街が津波に飲まれるまでは、特殊印刷機の製造で、俺も羽振りが良かった。工作機械やら何やら財産と言える物は殆ど流された。従業員は溺死したか、俺の家族と同じように去っていった。薄情な奴等め。何よりも頭に来るのは出稼ぎに来ていた、日系の外国人どもだ。ふざけやがって、何で連中の面倒まで見なくちゃならない?退職金代わりだと、保管していた物資を持ち逃げしやがった。今ならキロ当たり数万になる代物だ。工場の再開を諦めたわけじゃない。だが元手も無しで何が出来る?俺に残ったのは結局、この邪魔でしかない、雑草だけなのか?

 廃工場が見えてきた。資材搬出用の開き戸は錆びにくいステンレス製だが、狂った気候の前に最早意味がない。酔った身体で開けるのは一苦労だ。その事が振り払おうとしていた感覚を増幅し、胃のむかつきを強烈にした。

 目脂の男はよろめきながら道を外れた。草むらにうずくまる。地面の泥で髪が汚れるが気にもならない。元々縮れきった薄い頭髪だ。喉の辺りまで異物感は昇ってくる。吐き出せない。胃の中は空に近い。空腹感より酒への欲求の方が、最近は強いせいだ。

 口を開け指を入れようとした。痙攣する腹膜のせいで呼吸するのも困難だ。喉を刺激してでも吐くしかない。だが、目脂の男の指は止まった。口元を何かで覆われたからだ。

「静かにしろ」

 低い声に振り向こうとした。手首に痛みが走る。もがくことしか出来なかった。両腕を羽交い締めにされ地面に押さえ付けられた。見開いた目に泥水が入り込み、視界を奪われる。

「危害は加えない。いいか、首を振って答えるんだ。イエスなら縦に、ノーなら横だ。分かったか?」

 目脂の男は首を縦に振る。苦しい。叫びたかったが、酒の効き目は抵抗の気力をも奪っていた。泥と砂利、草の根を踏みしめる音が周囲を取り囲む。複数の人間だ。

「ここの者か?」

 意味が分からない。

「お前はあそこの廃工場に住んでいるのかと、聞いてるんだ」

 苛立ったように別の野太い声がした。必死で頷く。頬が砂利で擦れ痛む。そうだ、あの工場は俺の物だ。

「よし。他に誰か居るか?」

 他に?居るわけがない。家族は俺を捨てた。従業員どもは権利だ義務だとほざきまくる、アカ野郎ばかりだった。あんな災害の後で、俺に何が出来たって言うんだ?恩知らずどもめ。日本人ならあって当然の、何かが欠けていやがる。それは、あれだ、お互い様、共同体意識、愛社精神か、とにかくそんなものだ。朝礼の時いつも訓示しただろ?家族みたいなもんじゃないか。

「本当か?あんた、どっかから帰ってきたところだろ。ここ数時間の事など、知らないんじゃないのか?」

 関係ない。この土地は俺の土地だ。俺の許可も無しに、如何なる奴の侵入も認めない。ここだけは奪われない。大体、こいつら何者だ?何の権利があってここに居るんだ?

 激しい呼吸で、糞が詰まった鼻の穴から笛のような音が響く。両肩も大きく上下する。背後の男はそれに、話にならないな、と口から手を離した。両腕の拘束も解かれる。目脂の男は喉を鳴らし息をした。身体を転がし仰向けになる。半身を起こすと、自分を見下ろす冷えた視線を感じた。

「ただの浮浪者です。民生局の職員が言うには、この辺りは溜まり場だそうです」

 男の一人が背後に向き直り言った。この蒸し暑さだというのにパーカを羽織っている。腰の辺りが不自然に膨らむズボンも含めて、かなり厚着だ。薄暗くてはっきりしないが、表面には茶や緑の模様が幾つも施されているようだ。似たような服を中学生の息子がよく着ていた。頬を殴りつけ、母親と共に去っていった時もそれを着ていた。

 目脂の男はぼんやりと周囲を見回した。取り囲んでいるのは五人ほどか。服装はどいつも同じだ。夜間なのにサングラスを掛けている。手には大小、月明かりを微かに反射する、何かを握っていた。それが何であるかは、目脂の男には分からなかった。

「民生だと?こちらの身分を明らかにしなかっただろうな?」

「そんな必要もありませんでした。リベラル気取りの奴でしたが、少し締め上げたら喋りましたよ。それよりどうするんですか。待機を継続しますか?」

「配置が済んで一時間以上経過した。犯行時に使用された車両も既に確認されている。これ以上待つ必要は無い」

「しかし熱源感知器や集音装置に、これといった反応が無いのです。三人や連中が中に居るかどうか。工場内の間取りは、こいつに聞けば分かるでしょうが」

 一瞬、男達の視線がこちらへ戻った。相変わらず見下した感じだ。中には明らかに、侮蔑めいた含み笑いを浮かべる者もいる。胃のむかつきは極限に達しようとしていた。何様のつもりだ?そう叫びたかった。

「本部からの連絡によると、交渉班は総司令に対し、要求内容の緩和は充分可能だと、意見具申したそうですが」

「逆探は成功し、連中のアジトは明らかになった。交渉継続の期待を持ち油断していることだろう。交渉班の役目は時間稼ぎに過ぎない。ここまで収穫があれば上出来だ」

「パイロット達の安全が保証しきれません。我々の班長も、現時の状況における強行手段には、反対していますし……」

「いいか、貴様たち特務戦術班は、今回のような事態に対処する目的で、編成されたんだぞ?職務放棄を企てたパイロットの拘束が主任務ではない。シュミレーション通り、スタン・グレネード(閃光弾)等の使用で確保は可能なはずだ。それをやるのが貴様らの職務ではないのか!」

 声は抑えながらも、苛立ちを隠すつもりはないようだ。会話の主は闇に紛れ分からない。目脂の男は、自分の意向や了解を伺おうともせず、訳の分からない話が続けられている事に我慢ならなかった。腰を浮かす。相手が誰であろうと、自分の意志は尊重されるべきだと確信していた。

 ここは俺の土地だ、俺の物なんだ。ふざけやがって!これ以上奪われてたまるか。俺はあの演歌歌手とは違うぞ。逃げたりなんかしない。

「最優先確保対象は零号機専属パイロットである。多少の犠牲は問わない。この件は保安諜報部単独で収拾する。以上が総司令の意向である。私は、捜索活動の全権を委任されている。貴様達の上官が何と言おうが、指示には従ってもらう」

 大股で雑草を踏み均し、目脂の男は唸り声を上げた。夜空に高く響いた。男達が慌てた表情を向けた。雑木林から激しい羽音がした。鴉の群が一斉に舞い上がる。その様は、痛快だった。

「ここはあ、ここはなあ!俺の居場所なんだよおおお!」

 重い痛みが走る。目脂の男は腹を抱え後ずさりした。開かれた口から反吐が逆流した。目の前の男が再び膝を叩き込もうと片足を上げた。咳き込みながらもそいつに殴りかかる。拳は空を切った。嘔吐物が飛び散り迷彩服に付着する。粗大ゴミ野郎が!汚ねえだろ!怒声と共に足が払われた。目脂の男は地面に転がり吐き続けた。鼻の奥に胃液と胆汁が詰まり眉間が痺れる。背中に蹴りを入れられ、何かをこめかみに押し付けられた。微かな金属音が鼓膜に届いた。

「よせ!発砲するな!」

 背後からの厳しい制止に、男は身を離し唾を吐いた。目脂の男の頬に当たり付着した。屈辱よりも高揚する気分に油を注がれた。膝は震えているが力は失せていない。泥まみれの革靴の紐を直し呟き続ける。ふざけやがって、ふざけやがって、ふざけやがってふざけるなあ!

「サイレンサーも装着しないで何のつもりだ?銃声を聞かれたらそれまでだぞ。貴様達、どういう訓練を受けているんだ?」

 顔を上げる。笑みを張り付けながらだ。自分に向けられた嘲笑を、返してやったつもりだ。だが彼の表情は、すぐにぼんやりとしたものになった。目の前に、太く長い筒が突きつけられていた。こりゃなんだ?俺の逸物より太いなんて、頭に来るな。

「今の騒ぎで勘付かれた可能性もある。一刻の猶予もない」

 灰色の雲から完全に姿を現した月。それを背にした相手の顔には、表情らしきものが窺えなかった。逆光のためではない。まるで平目のように平板な、顔のせいだ。

「全員に伝えろ。突入準備だ」

 一瞬、ガスが噴出するような音がした。眉間の辺りに急速に熱が広がってゆく。視野が真っ赤に染まった。目脂の男は背後へと倒れこむ。泥の中に沈み込んでゆくような感触を覚えつつ、最後に呟いた。

 その顔じゃあ、演歌は歌えないだろうな。

 

 視界の遙か先まで外灯の輝きが林立している。ハロゲン化銀の反射板に照り返され、薄汚れたガラスを透過し、湿った空気の中を拡散していた。本部地下施設の希薄な光源に慣れた目には若干きつい。

 高速に乗ってから約二十分。制限速度をオーバーしぎみなのは、事態の緊急性からだけではない。つい一時間程前に整備し終わったという、BMWエンジンは快調だ。ガソリンエンジンに触れられる機会なんて、滅多にないからな。趣味で公用車の整備を請け負っている技術部職員は、オイルで汚れた顔に笑みを浮かべていた。

 排ガス規制の厳しい現在、ネルフとてその流れに逆らおうとはしていない。石油価格自体、高騰しまくりだ。原油産出国の以前にも増した強気な態度には、さすがの国連も歯止めが効かないらしい。とは言え、諜報部は特別待遇だ。電気自動車は未だに、その構造上避けられない技術的欠陥を、克服出来ないでいる。バッテリーの過負荷を常に気にかける必要がある。職務性格上、採用できる代物ではない。

『どうだ弥次さん、まだ生きているか。青い顔で北八が尋ねると弥次さん手を合わせ拝みながら、なんまいだなんまいだ、ああ時に困ったことがある、もう小便が洩れそうだ。膝はガクガク、脂汗びっしょりってんで、どうにも御利益ありそにない』

 老人特有の乾いた、艶のない笑い声が続いた。寄席は随分と盛り上がっている。耳障りだ。そもそも落語を理解できるような、懐古的な洒落っ気などありはしない。事態への直接的な係わりを、充分に実感する事が出来ない自分にとって、堪能できる余興のはずもなかった。

 国営放送の枠埋め番組が車内に響き続ける。第三新東京市を離れてから、このチャンネルのままだ。苛立ちよりも馬鹿馬鹿しさが勝っていた。三隈ヒロキは、これはこいつの趣味なのか?と横目で運転席を窺う。

「何だ、さっきからジロジロと。気味が悪いな」

「あの、ラジオ消すか変えるかしませんか?」

 道路脇に続く照明に目を細めながら、加持はさも不思議そうに尋ねた。

「どうして?」

「何となく、落語なんて雰囲気じゃないでしょう」

「結構余裕なんだな。俺は耳に入らなかったぜ」

 明らかに皮肉だ。思わず声が上擦った。

「前にも言いましたが、自分は職務に余裕を持てるほど、器用ではありません」

「そうムキになるなよ。常に緊張していては、この手の任務ではマイナスさ。どこで一息つくかも人それぞれだ」

 ハンドルを操る加持は、ニヤニヤと笑みを浮かべている。どこか言いくるめられた気がした。こいつ、絶対趣味で聴いてるな。不愉快さが満面に出る。抑えきれないのは自覚している。ウインドウ越しの夜景に目を向けた。

 午後十時五十分。東名高速は通行車両が少なかった。時折、制限速度を歯牙にもかけない輸送トラックが、反対車線を走り去るだけだ。

 後方にもヘッドライトの輝きはない。御殿場から高速に乗った時、後ろについた車両は、先程沼津インターで降りた。バックミラーから時折窺えた乗客は、眠そうな目をした青年と、日に焼けた厚化粧の女だった。女が青年の首へ腕を絡める度に、赤いスカイラインはふらついていた。

 交渉担当班は加持とヒロキ以外、本部で待機している。勘が働いてね、念のためさ。自分が決めた措置を、加持はそう説明しただけだ。要は逆探の成果に疑問符を付けているのだろう。

 意外なのは、加持の趣味が寄席観賞(推測に過ぎないが)だった事だけではない。多弁そうに見えるが、本来は無口な男らしい。尋ねられれば如才なく答える。だが必要な場合を除いて、自分から語り出す事は少ない。

 こっちとしては清々した気分だった。不明確な魅力は認めるしかない、だがかなりの皮肉屋でもあるようだ。黙っていてくれれば、それに越したことはない。とは言うものの、居心地の悪さも強くなっていた。絶えることのない焦燥感は手持ちぶさたを実感させる。左肩を負傷していては、運転を代わるわけにもいかなかった。

 何よりも同乗する相手と会話が少ないなど、始末が悪い。

「予備の拳銃の携帯を許されたのは、意外でしたね」

 沈黙に耐えきれず言葉を発していた。子供じみた悔しさが湧き上がる。もう一つの任務のためでもあるんだ。そう納得しようとした。

「連中が潜伏している可能性がある場所に向かうんだ。規則だ規程だと、さすがに薄情なことも言えないだろうさ」

「やはり、撃ち合いは覚悟するべきですか」

「状況と時期次第だろうが、御免被りたいところだな。例の女なら、人質を危険にさらす愚は避けるとは思うが。まっ、先遣された特務班の班長は信頼できる男だ。先走ったりしなければ、そうは起きないさ」

 サービスエリアが近いようだ。タイトなカーブの向こうに、ネオンが幾つか見える。木々に隠され星のように瞬いていた。夜空は曇天だ。月も見えない。明日一杯は雨になるだろう。ハンドルが右に切られる。交換されたばかりのタイヤは、確かな手応えで路面を捉える。

「古い銃ですね」

 加持の背広の下で鉄塊が揺れていた。それを包み込むホルスターと同様に、光沢は殆ど無い。

「うん?ああ、使い込まれてるからな。数年来の相棒ってやつだ」

「それ、イスラエル製ですよね。ええっと名前は……」

「ジェリコだ。ジェリコ941」

「確か旧チェコ・スロバキア製のCz75を、イスラエルのIMIがコピーした物ですよね。しかしネルフにも正式採用銃はあるじゃないですか。原則として携帯できる拳銃は、それだけのはずです。予備で持っているのも、へッケラー&コッホのUSP・コンパクトタイプ。まさか、届出もしてないんですか?」

「あ?いや、こっちはドイツに居た時に支給された物だ。その様子だと知らないんだろうが、ドイツ支部には各種備品の選定において、独自の判断が認められている。地元企業との関係を優先しての措置って事だ。ジェリコの方はちょっと訳ありでな。そう堅いこと言うなよ」

「はあ。しかし、よく監査室の連中に睨まれませんね」

「睨まれっぱなしさ。何かと、あいつらとは相性が悪い。それにしても、お前ガンマニアか?職業柄ってレベルじゃないぞ」

 必要以上に熱がこもっていた事に気付かされた。昔の名残とはいえ、この手の話題に夢中になると際限がなくなる。悪い癖だ。詮索が過ぎると疑われては元も子もない。慌てて視線を向ける。加持は呆れた表情だった。

「す、済みません。ガキの頃、凝っていた時期があって」

「なるほど。男にとって一度は通過する、儀式なのかもな。映画か何かに触発されて、玩具店に駆け込んだ記憶があるよ」

「自分もその口です。アクション映画の真似なんかしたものです。両手にエアーガン持って、走り回ったりもしました」

 事実であったから澱みなく答えられた。くだらない思い出も、何かを隠す必要がある時は役に立つ。

「本物を握ることになるなんて思いもしなかったよな。不思議なものさ。物騒でしかない鉄の塊に対して、異性よりも先に惹きつけられるとは」

「自分の場合、初めは全然興味も湧かなかったんです。それが……」

 言葉が途切れる。車内には戯けた寄席の語りと、嗄れた老人の笑い声が響き続ける。サービスエリアのライティングが後方に流れ去る。一瞬窺えた駐車場に、車の姿は無かった。

 加持は先を促そうとはしない。職務を思い出しての沈黙でない事を、すぐに察したのだろう。それが逆に口を開かせる。計算からではない。まるで、牧師に対する告白のようにも感じた。

「済みません。友人の事を、思い出したものですから」

「子供の頃のか」

「はい」

「その先は聞くまでもないな。俺達の世代なら殆どが体験している事だ。気持ちの整理はついているだろ。あまり特別視しない方がいい」

 窓の外を流れる夜景は侘びしいものでしかない。人々の生活を示す街明かりは殆どない。過剰にすら感じる照明が高速道路を映し出し、それは客一人いない劇場の舞台を思わせた。星空も山も、河や海も溶け込んだ暗がりのカーテン。そこに、ぼんやりと笑顔が浮かび上がる。

 不思議だ。その人物は自分に、微笑みを向けてくれた事など滅多になかった。今や美化を通り越して、思い出せる残像はその程度なのだ。過ぎ去った年月がそうさせている。いや、それは自己弁護というものだろう。混乱しきった世紀の初め数年間が原因だったとはいえ、記憶の井戸に沈めたのは自分の判断だ。

 記憶力の良い方ではない。職務的には不的確な部分だ。しかし、忘れ去るという事と、しまい込むというのは、完全に異なる。そんな事実を痛感させたのは、まさにこの記憶だ。

 重く、角張った感触を覚えた。視線を向ける。膝の上に置かれたそれを手にする。傷だらけで、所々コーティング塗装が剥げ落ちていた。まるでその事自体が、何らかの自己主張であるかのようにも見える。

「そいつは、他人から譲られた物だ」

 視線を前方に向けたまま加持は続けた。

「数年前、中東に派遣された事がある。諜報部に所属してからまともな任務としては始めてだった。イスラエルで活動していた時、友人ができてな。よく喋る気の良い奴だった。旧式の銃だが大切にしていた。ジェリコの壁。こいつは俺達の民族を守るための武器だ、相応しい名だろ?誇らしげにそう言ってたよ」

 電子音が鳴り響く。携帯電話の呼び出しだ。内容次第では重い気分も振り払えるだろう。内ポケットから取り出し通話ボタンを押す。本部からだ。快活さを装い、加持に尋ねた。

「その人はどうしてるんですか?」

 スピーカーから洩れる同僚の声は苦り切っていた。どうやら期待していたような連絡内容ではない。直ぐに察しがついた。

「死んだよ」

 加持の返答は逆に、穏やかな調子だった。

「俺が撃った」

 

 作戦行動開始までには、さらに十五分余りの準備が必要となった。準備と言うのは正確さに欠けるだろう。既に保安諜報部所属、特務戦術班の現場への配置は完了していた。それにもかかわらず、突入実施は遅れたのだ。

 午後九時四十分、本部施設飛行場を飛び立った三機のHC−5輸送ヘリには、特務戦術班班員二十二名が搭乗していた。二十五分後、旧藤枝市の県立高校跡地に着陸。直ちに付近での情報収集と捜索を実施し、逆探の分析結果との比較が行われた。その過程で大井川に隣接した旧工業地区の工場跡地に、目標地点が絞り込まれた。

 当然、これらは隠密の内に行われた。駿河湾一帯は大災害による被害とその後の経済的混乱により、一部を除いて過疎化が甚だしい。それが彼等の行動に幸いした。少なくとも常時検討されていたシュミレーション通りに、事は進んでいたのだ。

 支障を来したのは現場での指揮系統だ。本来なら特務班班長の下、整然と機能するはずであった。想定されていなかった人物の同行が、それを鈍らせる結果となった。

「やはり突入は、時期早々と判断します」

 背は低いが頑強な肉体を正し、特務班班長は告げた。顔の輪郭も岩のように角張り実直さを際立たせている。一方で落ち着いた眼差しは、彼の聡明さを物語っていた。

「部下の者が報告した通り、工場内部の状況が皆目掴めていないのです。襲撃グループが潜伏しているとして、連中の人数、配置、武装がある程度把握できなくては、戦術のたてようがありません。唯一、内部の情報源となる民間人も姿を消しました。人質救出が前提である以上、投機的な行動は避けるべきです」

 淡々としながらも断固とした語り口だ。積み重ねてきた知識と経験に裏打ちされたものであった。同時に一抹の不安が、上司に対する強い主張を促していた。

 特務班班長は嘗て、SAT(警視庁特殊急襲部隊)に所属していた。人質救出を伴う作戦行動は、この時期に経験している。前世紀末に発生したバスジャックの際には、閃光弾の使用で片が付いた。又、三年前の高等学校立て籠もり事件では、現場指揮を担当し解決に奔走した。この時は犯人が極度に興奮したため、特殊ゴム弾によって制圧した。

 彼の功績と指揮能力は、警視庁のお偉方よりも、むしろネルフ人事部に注目されたようだ。ヘッドハンティングを受けたのは一年前のことである。それでも彼自身には微塵の慢心も無い。どちらのケースも、十代の少年犯が相手だった事が、作戦成功の一因と考えている。所詮、脇の甘さが甚だしかったのだ。

 今回の事態はそれらの比ではない。相手は稚拙さも垣間見えるとは言え、組織化されたテロ集団である。襲撃の際に使用された武器は、包丁やボウガンの類ではない。指揮を行った者の狡猾さも現場報告からみて明らかだ。

「交渉継続は、現段階では充分に可能なのです」

 上司は苛立たしげに、平目のように平板な顔を歪めている。その態度に気後れすることなく特務班班長は諭した。

「犯行グループの交渉担当者も、要求の譲歩には前向きのようです。これは我々にとって歓迎すべき傾向です」

「要求を受け入れろとでも?馬鹿げている!」

「その意志があるかのように思わせる事が、重要なのです。総司令の、交渉は時間稼ぎが目的である、との見解には私も賛成しています」

 突入行動による人質救出は、最後の選択でしかない。海外の公安機関は強硬手段を全く躊躇わないようにも報道されるが、それは違う。交渉や説得行為を重視している点は日本と同じだ。ある意味より徹底すらしている。

 人命尊重の意味合いはある。だがそれ以上に、犯行者の激昂を抑え、肉体的には疲労させ、隙を生じさせる効果を求めるのだ。それは危険な手段による犠牲を、最小限に留めるためにも欠かせない。

「現時点では、それが充分に成されたとは言えません。犯行指揮者と思われる女は、未だ充分に冷静なのです。奇襲を用いたとしても、効果的な戦術となるか判断がつきかねます。人質を盾にされれば事態は悪化するのです。又、交渉班からの連絡によれば、逆探が察知されている可能性が高い。下手をすれば空振りで終わるだけでなく、無用の犠牲を生じる危険があります」

 筋が通っているのは理解できるようだ。上司は黙り込んでいる。だが承服できない、というのは俯き加減の様子から明らかだ。諜報部の統括者にしては気弱な男だ、それでいてこの強情さは何なのだ?特務班班長は内心で困惑しつつ視線を逸らした。生い茂る草むらの中、周りを囲む数人の部下を見回す。誰もが緊張しきった面持ちで議論に聞き入っている。任務に対する責任感は充分に認められる。しかし、微かに漂わせる甘さも否定しきれなかった。

 それがもっとも不安な点だ。特務戦術班は正式に発足してからまだ日が浅い。この種の任務は、短期間の訓練で成果を期待できるほど、単純ではない。班員は現在四十名にまで増強された。だが大部分は鳥の雛といった状態だ。ここに居る連中とてその前歴から、一定の働きをなせば充分と選んだ者達でしかない。

 正直なところ、交渉班の適切な対応には頭が下がる思いだ。統率者である加持という男とは直接の面識はなかった。ただ耳にする噂から、単なる諜報畑の人物でない事には察しがつく。ともかく、今は彼等の働きと穏便な解決に期待する事も、無駄ではないはずだ。

 この上司は、そうは認識できないらしい。そもそも自らが統括する部のミスによって生じた事態だ。焦りがあるのは分かる。率先して編成を主張してきた、特務戦術班に対する期待も大きいのだろう。しかし早々に投入を決めた経緯も、現場指揮に直接介入する判断も、適切とは思えない。それが何者かに対する対抗意識や、政争的な理由から生じたものならば、不安要素を増すだけだ。

「ここはせめて、明朝まで待ちましょう。何らかの動きを示すはずです。突入よりも連中が移動を開始した直後を、押さえる方が安全です」

「分かっていないな」

 抑揚のない声と共に上司は顔を上げた。日頃見せている、のっぺりとした無表情さが戻っていた。逆に瞳の輝きが闇の中で際立つ。それは嫌な表情だ。以前に何度か見た覚えがある。特務班班長はそれを思い出した。追い詰められた犯罪者が、破れかぶれの抵抗を試みる直前に、よくこんな表情を露わにした。

「今回の事態は単にパイロット三名の確保で済む問題ではない。我々の組織に対する、挑戦なのだ」

「承知しています」

「ネルフの障害となる者は誰であろうと認められない。いかなる手段を講じても、叩き潰す。断固とした決意を示す必要がある。それが行えるのは、作戦部でも技術部でもない。我々保安諜報部だけだ」

 やはりそれか。心中で燻っていたもう一つの不安まで的中し、特務班班長は暗澹たる気分に包まれた。

 諜報部の他部に対する対抗意識の強さは公然の秘密だ。特に作戦部との間には険悪な空気が立ち込めている。諜報部側としてはネルフ設立当初より、その組織目標の前進を影で支えてきたという自負がある。それがここ数ヶ月ほどで、際立った活動を開始した作戦部に株を奪われた形だ。少なくとも諜報部職員の間には、そのような嫉妬や不満が広がりつつある。

 特務戦術班編成の裏で、様々な思惑が飛び交った事は認識している。組織内部の不一致や権力抗争は、警視庁所属時代にうんざりするほど目にした。今更興味も湧かない。しかし無縁というわけには、やはり済まされなかった。

「特務戦術班がそれを成すことに意味がある。事態収拾に成功すれば、今後反対勢力への抑止力となるのは明らかだ。パイロットの不安定な精神状態に依存し、時として制御不能に陥り、小回りも利かない特殊兵器には、所詮運用上の限界がある。使徒は強大ではあるが、狡猾さにおいて人間に敵わない。君達は万が一生起した対人戦闘時には、もっとも頼りにされる部隊となるべきなのだ」

 二ヶ月ほど前、保安諜報部と作戦部の間で諍いが起きた。新設された本部施設警備隊の指揮権を、諜報部が要求したのが事の始まりだ。作戦部部長はまだ若い女性だが、諜報部側からの難癖を歯牙にもかけず、冷ややかな態度に終始した。

 結局は総司令の方針が示され、警備隊は作戦部所属とされた。上司は腹の内が治まらなかったようだ。特務戦術班の編成を手直しし、武装、人員を大幅に増強しようと画策を始めた。

 当然、特務班班長はそのような方針転換には反対である。少数精鋭という当初の目的から外れることになるし、戦力や経費の無駄な投入であろう。日頃の言動から推察するに、上司の目指すところは総司令直属の、軍制に則す部隊への改編らしい。まるでナチスの武装親衛隊きどりだ。悪い冗談としか受け取れない。

「方針の確認はこれまでだ。直ちに、突入を命令したまえ」

 平目のような顔は汗まみれだ。両目はこちらを見据えながらも、夢見るようにぼんやりとしていた。それでいて瞳の輝きは増している。端からこちらの意見に耳を貸す気などないのだ。これ以上諭したところで無駄だ。一息吸って答えた。

「拒否します」

「君の指揮権を剥奪する」

 驚く風でもなく、まるでその答えを待っていたかのように、上司は告げた。

「突入行動は私が指揮を取る。心配しなくても良い。今回だけの特例だ。私のサポートをしてもらおう。君の経験については、私も買っているのでな」

 そこまで言うと上司は笑みを浮かべた。思惑通りに事が運んだ。そう満足しているのは歪んだ唇からも読みとれた。

 特務班班長は微かに溜息を漏らした。こうなる事はある程度予想していた。特務班は未だこの男の私兵とは化していない。自分の統率が無くては班の行動はままならない。それには変わりがないのだ。救出か空振りか、どちらにせよ結果を出し、その上で総司令に直訴する。今は職務に最善を尽くす。そう腹を決めた。

「ただ、君は決断が遅すぎるな。日本の警察力が落ちたのは、そのような優柔不断も一因だったのではないか?」

 侮蔑めいた視線を向け、上司は背を向けた。思わず腰に手が伸びる。起こしかけた銃の激鉄が、普段よりも軽く感じられた。

 平目を料理するのは包丁でだ、銃じゃないだろ?自分に言い聞かせ撃鉄を戻す。鉄塊は、忌々しいほど素直に、それに従った。

 

 生い茂る草むらの中、彼等は腕時計を見つめていた。厚みを増した雲に隠れ月明かりは絶えている。ほぼ完全な闇の中で、その行動は一見、無意味としか受け取れない。

 突如として、そして一瞬だが液晶画面が点灯した。廃墟を取り囲む草地のあちこちで一斉に輝いた。ゴシック体の数字が時刻を告げる。午後十一時半ちょうど。全員のそれがぴったり一致していた。

 特務戦術班班員十五名は、廃工場への接近を開始した。距離にしておよそ200メートル。だが工場内部の間取りすら明確でない以上、目標までの実際の距離は考慮しようがない。

 工場は規模は大きいが出入り口が少ない。警戒を固めるには絶好の条件のはずだ。しかし見張りらしき人影はない。襲撃に使用された車両と同一車種のワゴン車が、工場北側で発見されているが、ここ一時間は人の出入りは確認出来なかった。

 今や指揮官気取りの諜報部部長は、これらの報告から奇襲は可能であると判断し、一斉突入を決定した。特務班班長は早計だと訴えるが耳を貸そうともしない。それでも班員の配置に関しては譲歩した。

 突入班は四つの隊に分かれ、工場各棟の通用口から侵入を試みる事とされた。南北にある大型資材搬出口は避けられた。犯行グループが車両や強力な火器を使用した場合、対処が困難となるためだ。同時に、相手が逃走ルートとして選択した際に備え、班員四名が狙撃担当として各正面後方に配置された。

 事務棟らしき、東側の建物から突入を実施する三名は、特務班班長がもっとも信頼する部下達である。いずれも前歴は陸上自衛隊の空挺部隊隊員であり、実戦経験は無いものの訓練期間が長い。彼等はサブマシンガン、ショットガン、特殊ゴム弾が装填された擲弾筒を携え、低い姿勢で草地を走り抜ける。

 暗視ゴーグル特有の緑色に揺らめく視界を、蛾や羽虫が横切る。光学的に増幅されたそれらの姿はまるで蛍だ。やがて事務棟の影がはっきりと浮かび上がった。先頭の班員が手で制し、彼等は腹這いに地面へと横たわる。視野を左右に振った。建物の窓ガラスは風雨で汚れきっている。その先の闇を窺うのはゴーグルをもってしても困難だ。危険は嫌でも認識させられた。

 チームリーダーを務める班員が携帯無線で指示を仰ぐ。頬の大きなほくろを撫でながら待つ。返答に、彼は軽く舌打ちした。各個の判断で突入を開始せよ。声の主は当然、例のにわか指揮官であった。

 片手を挙げ身を起す。他の二名も続いた。通用口に近付く。銃撃の一つも覚悟の上でだ。しかし発砲は無かった。サイレンサーでも使用していれば別だが、とにかく耳障りな程の虫の音をかき消すような、物音はしない。

 アルミ製のドアには窓が無く、密生した雑草に隠れ所在なげに佇んでいる。表札には品質保証部入り口と書かれていた。ほくろの班員ともう一人がドアの左右に取り付く。別の一人は草むらに残り周囲を警戒する。

 ドアノブに手をかける。軽く回す。ほくろの班員は眉をひそめた。正面に立つ同僚が目で尋ねてくる。首を振って答えた。くそ、御丁寧にも施錠されてやがる。

 困惑した様子に気付くと、同僚は自信ありげに笑みを浮かべた。腰のポーチから針金のような物を取り出しドアの前で屈んだ。鍵穴に通し解除作業を始めた。こいつ、これを副業にでもしてるんじゃないだろうな?どことなく場違いな行動に、思わず笑みが洩れる。

 一分もしないうちに同僚は腰を上げ、どうぞ、と手招きした。軽く肩を叩いて頷き、ノブに手をかける。待機していたもう一人も背後につく。ノブを回した。

 その時だ。遠くで、しかも明らかに工場内部で銃声が響いた。唐突に一発。直後に複数。

「今の銃声は?確認を求む」

『何が確認だ!戦闘が始まったに決まっているだろう!』

 にわか指揮官の怒声に急かされ、蹴り破るように飛び込んだ。鼓膜に届く、叫び声と苦悶の声。だがこれは、突入班相互連絡用の、無線を通してだ!

 暗視ゴーグルを上げ、サブマシンガンに装着されたライトを点灯させた。こうなっては視界を広く確保するのが先決だ。銃声は絶え間なく続く。その間隔は狭い。やはり相手の武装はかなりのものなのか。

「聞こえるか!お前ら何班だ!」

 返答はなかった。激しいノイズと共に、同僚達の呻きがヘッドホンを震わせる。廊下は一本だがドアが幾つも点在している。戦闘が起きているのはさらに奥のようだ。位置が把握できない。銃声を頼ろうにも反響を重ね方向が特定不能だ。

『第一班、貴様ら何をやっている!工場の北棟に向かえ!』

 平目部長め!確認するのが遅すぎるんだ!身を翻し廊下を走る。慌てたように同僚達も突き当たりへと向かった。アルミ製のシャッターが行く手を阻む。押し上げようにも取っ手がない。完全な電動式だ。電力が途絶えている以上破るしかない。銃声は既に止んでいたが、最後の数発は明らかに、この向こうから聞こえたのだ。

 鍵開け名人の同僚が又も頷く。今度は笑顔はなかった。方法も小細工ではなく簡潔だ。ショットガンを構え連射した。強力な12ゲージ・マグナム散弾が厚みのないアルミを切り裂く。全弾撃ち尽くし亀裂を広げた。蹴り破り室内へと躍り込む。鋭く尖った金属の縁で頬が切れた。低く罵り銃口を左右に振る。ライトの光線が室内を這う。遺棄され錆び付いた工作機械が映し出された。元は倉庫か、それとも製造ラインの一部か。

 掠れるような声がした。嗚咽だ。それは小女のそれのようにも聞こえた。期待と焦燥に突き動かされ駆ける。不用意な行動だが迷いなど無かった。まずいぞ、負傷しているのか?泣き声は消え入るように悲痛だ。

 足が止まる。人影だ。いつの間にか戻っていた月明かりの中、壁にもたれ掛かるように座っていた。慎重に歩み寄る。ライトを向けた。相手は、片手で目を覆い、もう一方の腕をこちらに伸ばした。銃が握られていた。

「おい!そいつは第三班の奴だ!」

 同僚の制止を聞くまでもない。向けられた銃はネルフ正式採用銃、ベレッタM92CQBだ。良く知っている男だった。まだ二十代前半の、特務班編成時に新規採用された若者だ。本来は技術畑の人間で、今回の任務にも通信担当として加えられた。

 若い班員はこちらに気がつくと銃を降ろした。左腕から出血していた。近寄ってみると顔一面が汗と涙と鮮血で濡れていた。視線が宙を彷徨い、全身が小刻みに震えている。股の辺りからコンクリートの床が湿り、湯気が立っていた。

「どうした、何があった」

 答えはない。嗚咽だけが続いた。ほくろの班員は屈み込むと、頬を張り飛ばし詰問した。

「答えろ!敵はどこだ!お前の班の連中は?パイロットの所在は確認したのか!」

 しゃくり上げながら、若い班員は握った銃の先で部屋の出口を示した。背後に立つ同僚に負傷者を任せそちらへと向かう。擲弾筒を持つ班員がバックアップとして後方に待機する。出口の開き戸は開放され、向こう側は深い闇だ。月明かりは、その奥に存在するものを無視するかのように届かない。壁に身を寄せ、半身を乗り出し窺う。幾重にも重なる呻き声が鼓膜に届く。こういう時に唱えるべき祈りの言葉は、何だ?思いつかなかった。奥歯を噛む。サブマシンガンを握りしめ、駆け入った。

「敵なんて居ません」

 背後からの声に、彼は反応できなかった。

「敵味方識別信号が、機能しませんでした。工場内の機械類に、強力な磁気を発する伝導体が、残ってたみたいです。特定の周波数を、妨害するらしくて。…僕が気付くべきだったんだ」

 浮かび上がる光景。遅蒔きながらも質問に答える班員の姿と似たものが、幾つも横たわっていた。さらに酷かった。ある者は吹き出る鮮血の中で、腿を抱え藻掻いていた。ある者は弾丸が頬を貫通し、喉の奥からゴボゴボと鈍い音を発していた。

「何かが動いたんです。僕の班の人が確認しようとしたら逃げ出して。後を追ってその部屋に飛び込むと、発砲が始まりました。僕たちは応戦しました。仕方なかったんです」

 何かに躓く。足下にライトを向ける。嘔吐物か、腐ったピザのような物が床に散財していた。寒気が走る。ぶちまけられた脳髄だった。その上に破壊された頭部が転がっていた。傍らに横たわる骸。腹部が八つ裂きになり、流れ出た直腸が手に握られている。彼等の目は見開かれ、何かを求めるように上方へと向けられていた。その二人は、既に絶命していた。

「…同士討です。ここには、居なかったんです。パイロットも、連中も」

「分かった。もう喋るな」

「誰も居なかったんです。いや、居るには居たんだ。何だったと思います?僕たちを敵だと思って逃げ出した別班の同僚は、それを捕まえようとしてたんだ。保護しようとしたのかな。彼から聞いた事があるんです。飼いたいけどアパート住まいだろ?禁止なんだよな。しかも近所の主婦が偏屈野郎でさ、農薬入りの竹輪をばらまいたりするんだぜ。口から泡を吹いて死んでいるのを、何匹か見たことがある。頭に来て注意したんだが、生活環境を守るためには当たり前だ、って顔で睨みやがる。酷いよな。子供の頃さ、例の災害のせいで、一時的に母親の実家に疎開してたんだが、そこで飼ってたんだよ。俺にも慣れてくれたけど、新しい住居が見つかって、離れることになったんだ。その時そいつは、俺の別れの言葉にも振り返らなかったよ。お前なんか知らない、って感じでな。冷たいと思うか?でもな、あいつがいつものように足下にすり寄ってきたら、俺は泣き出していただろうぜ。あいつらはクールで、なおかつ優しい。あやかりたいもんだよ。そんな風に笑っていたっけ。ねえ、何だったと思いますか?」

「それ以上喋るな!」

 若い班員は再び泣き崩れた。負傷を気遣って発した言葉ではあったが、それだけではない。ライトに照らし出された室内に、自分達の失策を明確にする物があったからだ。床の血糊に足を取られながら歩み寄った。木製の机が部屋の真ん中に残っていた。いや、残されていたと言うべきか。

 その上には高感度受信機と、車両搭載用と思われる電話が置かれていた。受話器はない。受信機の出力端子に直結されている。そして両方とも床に転がるバッテリーに結ばれ、電源が入りっぱなしだった。

 電話の通話記録ボタンを押す。表示された番号は、ネルフ広報部のものだ。

『状況を報告しろ!連中はどうした!?パイロットは確保したのか!』

 携帯無線から響くにわか指揮官の声に、ブラフだ、とほくろの班員は答えた。周囲を照らしぼんやりと見回す。目の前を影が横切る。ライトをそちらに振る。茶色の虹彩が細められていた。冷ややかな視線を向け、忌々しそうにそれは高く鳴いた。

『ブラフだと?何のことだ?説明しろ!』

 唸り、無線機を床に投げつけた。ケースが割れ半導体と液晶板が四散した。壁の一点に、ほくろの班員の視線は釘付けになっていた。

「ここに来て、自分で確かめろ!」

 そこには薄汚い文字が踊っていた。

―御苦労さん!アディオス!

 

 僅か十分程度の作戦行動で、ネルフ特務戦術班は主力となる班員の四分の一を失った。

 負傷者三名。いずれも職務復帰には一ヶ月以上はかかる重傷だ。死亡した二名の遺体は、回収に手間取るほどの損壊ぶりであった。恐らく、遺族とは対面させられまい。

 犠牲の末に彼等が確認できたのは、逆探撹乱を目的とした機器類と、工場の操業再開は不可能だという事実。そして、一匹の野良猫に過ぎなかった。

 

                     (7)

 

 店内には落ち着いたピアノの調べと、流れるようなアルトが満ちていた。時折ノイズが混じる。それすらこの曲の演出と感じられる調和ぶりだ。

 高ぶり続け疲労しきった神経と肉体。それが癒されるような感覚は、多分認識できているはずだ。とは言え、十代前半の彼等が堪能するには、若干懐古的すぎる曲であるのも確かだ。実際、二人の少女は眠気を呼び起こされたに過ぎないらしい。一方は人目も憚らず欠伸をし、もう一方も軽く目を閉じ椅子に身を任せている。

「君は興味があるみたいだな」

 パスタが盛り付けられた皿をテーブルの上へ置き、男は尋ねた。答えず、少年は目を伏せる。相手の身なりの毒々しさも理由の一つだ。

 その光沢から染めていると分かる短い頭髪は、剣の山のように立っている。弱々しいタングステン光に艶めくアロハシャツ。アフロヘアーの黒人の男女が舌を絡ませている。原色に近いブルーのシャツの上で、その絵柄は浮きまくっていた。

「どうした?これはジャズって言うジャンルだ。それぐらい分かるだろ?」

「ぼ、僕は、あまり聴いた事が、無いですから」

「そうか。だが自然とリズムをとってたな。何か楽器をやってるだろ?指がそういう動きしてたぜ」

 向かいの席に腰掛け、アロハシャツの男は笑いかけた。片手でビール缶を玩んでいる。相変わらず伏し目がちだが、少年は若干落ち着きを取り戻し答えた。

「チェロを、習ってました」

「おっ、クラシック派か!話が合いそうだな。俺も最近はよく聴くぜ。君らと同じぐらいの年頃には、頭から馬鹿にしてたもんだが。で、好きな曲は?」

「特には無いですけど……。練習でいつも弾いていたのは、バッハの曲でした。そうですね、落ち着いていて、何となく優しい感じだし、どちらかというと好きです」

 少年は顔を上げる。親しげな態度に安心したのか微笑んでいた。唇の端を曲げ、男は缶のプルトップを開けた。泡が飛び散り少年の顔に付着した。一口呷り、気怠げに椅子へともたれる。

「どうりで乗りが悪いと思った」

 笑顔が凍り付く。

「ワグナーはどうだ?聴かないのか?なるほど。それじゃあ、ジャズはともかく、パンクは理解できまい。せいぜいポップスか和製ロック止まりだろうなあ。何が言いたいのか、分かるかい?」

「い、いえ」

「バッハは確かにバロック音楽を集大成した、偉大な作曲家だ。宗教音楽の大家であり、彼の曲は神と人間の間での、無限の愛情関係を表現している。施しと癒しに対する限りない感謝の意志表示さ。けどな、それは甘えの表明とも言えるものなんだよ。潔いほど、臆面も無くな。主よ、人の望みの喜びよ。あの曲なんてそれの典型だ」

 気弱な視線が左右に揺れる。離れた席に座る二人の少女へと、交互に向けられる。どちらも気付かない。救いの求めを無視したのかも知れない。テーブルの上のフォークが、皿に触れて微かな音を立てる。怯えによる震えの余韻だ。

「うん?何だ、全然手をつけてないじゃないか。パスタは既製品だが味は本格的だぜ。食えよ。ではワグナーは何が違うのか。奴の音楽は、御世辞にも上品とは言えない。大袈裟で陶酔が強すぎだ。例のチョビ髭独裁者が好んだのも頷けるな。だが、問題は題材なんだ。その多くは北欧神話から取られている。分かるか?キリスト教に迫害され、歴史から淘汰された古代ゲルマン宗教さ。北欧神話は、神の愛なんてテーマじゃない。神と人間との葛藤が物語の根本だ。そう、戦いさ。愛の無力、英雄達の死。お決まりのように終末を描いているが、キリスト教の黙示録的世界観とは違い能動的だ。愚劣な神の欲望と、人類による反抗の結果に過ぎない。どうだ、リアルとスリルが満ちているだろ?まあ、別の意味で甘えている、とも言えるが……」

「虐めすぎよ」

 

 カウンターの席に座り、最上ウミはカードをシャッフルしていた。

 くわえ煙草の煙が空調の風で靡く。その薄荷の香りは、すぐ横に座る少女にとって、さらなる眠りの世界へ誘われる指標となるらしい。栗色の髪に覆われた頭が前後に揺れる。頬杖が危なっかしかった。

 苦笑交じりで窘めるウミに、アロハシャツは肩を竦めて見せた。

「虐める?俺がか?勘違いは困るぜ、コミュニケーションを図っているだけさ。今時の少年と音楽について語り合える機会など、そうは無いからな」

「無茶な音楽論ね。それとも、あなたが主張したいのは宗教論なのかしら」

 カードの裏は無地だ。黒曜石のように艶やかな、黒色で染め抜かれている。椅子を回して振り向く。食い入るような視線を一瞬感じた。救いを見出した瞳だ。あまり気持ちの良いものではなかった。

 偽り、微笑みを返す。単純にも少年は頬を赤らめた。

「ジャズは黒人達の生んだ音楽よ。満ち足りたバッハのそれと、どう繋がるのかしら。迫害と差別に耐え、悲しみと希望を込めた音楽。愚劣極まる人種観による支配の中で示した、精一杯の意志表示。それは甘え?」

「ああ分かった、分かったよ!悪い、凝り初めると熱くなる質でな。いい加減な事を言っちまったよ。勘弁してくれ」

 片手で拝みながらアロハシャツは頭を下げた。別にいいです、と気弱な少年は目を逸らす。微かに震える指先でフォークを取り、パスタを絡める。口に入れ顔をしかめた。

「口に合わないか?ああ、唐辛子入れすぎたか。いやな、この店の常連は辛党ばかりなんだよ。悪いな、未来のチェリストさん」

 皮肉めいた笑みを浮かべビールを呷る。不満そうにそれを窺いながらも、少年は黙ってパスタを口にし続けた。コップに注がれたコーラは直ぐに空となった。

 煙草を灰皿で押し消しカードをめくる。皇帝の絵柄。配下に恭しく祭り上げられ、不遜な表情で座を占める男。カウンターの上に置く。華奢な指がそれを押さえ、つまみ上げた。

「余裕かましてるじゃない」

 透かすように、栗色の髪の少女は硬質の札を見つめていた。ブルーの瞳が底意地悪そうにクリクリと動く。

「何なのこれ?トランプじゃないみたいだし」

「タロット占い。知らないかしら?」

「知らない。占いなんてどれもくだらないわ。クラスの連中がやってたのに、付き合いで参加したことはあるけど。十円玉の上にみんなで指を乗せて、お伺いをたてる。紙の上に書かれた文字を示すのよね。嘘ですとか、本当は好きなんですとか。あれって何のつもり?誰かがわざと、動かしてるだけでしょ?」

「…悪いことは言わないわ。その遊びには、二度と付き合わない方がいいわよ」

 眠気は覚めたようだ。恰好の標的でも見定めたつもりなのだろう。タフなのは認めるが、無意味な強情さだ。この娘は暇つぶしには適している。付き合うことにした。

「飾りのようなものよ。そのカードのデザインは、私の副業における成果の一部」

「飾りねえ。なるほど、確かにぴったりだわ。本職の方でも、飾りとしか思えない物、持ち歩いてるし」

 前髪をかき上げる。直ぐに目元に落ちる。ウミは、しげしげと少女の姿に視線を這わせた。

「何よ」

「そうしていると、誘われそうね」

「はあ?」

「髪型も変えたせいかしら。カウンターで座る姿が様になっている。後姿でなら、だけど」

 途端に大きな目が細められた。眉毛がつり上がる。手首が振られ、磨きぬかれた木目の上をカードが滑った。指先で受け止める。積まれた山へと戻した。

「それ、誉めてるつもりなの?」

「もちろん」

「何が、後姿でなら、よ!前からじゃ話にならない、とでも言うわけ!?」

 グラスを口に運ぶ。透明なカクテルに浮かぶ氷が揺れる。口にし、目前に掲げる。混血特有のどこかアンバランスな面立ち。それがプリズムを透過するように、グラスの表面へと浮かび上がった。

 美と醜悪の境界線で、辛うじて保たれる華やかさだ。もっとも今は、でたらめな光の屈折と当の本人の激情で、偏ったものになってはいたが。ウミは率直な評価を下した。

「誤解を招いたようね。ノーマルな男性ならあなたの顔を見た瞬間、口惜しそうに退散するしかないでしょう。最近は、世論も厳しいのよ。この県の条例も強化されている。未成年の女の子に手を出せば、社会的に抹殺されかねない」

 グラスを置き微笑みかける。栗色の髪の少女はそれなりに、納得した表情にはなっていた。

「だけど抜け道はある。両者合意の上で、金銭授受の事実が無く、そして同性であること」

「ちょ、ちょっと」

「別に特例として規定されてるわけじゃない。行政が面倒臭がって、動かないだけ。異性間の性交渉とは異なり微妙な問題ですから。もちろんリスクはあるけど、試すだけの価値はあるわ」

 思わずウミは、クスクスと笑い声をたてた。まるで信号のように少女の顔色が変化したからだ。身を離し、おぞましげに目尻を震わせている。しかし頬にさす赤みの意味合いは、今までとは異なるだろう。

「と、鳥肌立った……」

「クーラーが効き過ぎかしら」

「誘ってんだったらお断りだからね!い、いっさい興味無いし、心に決めた男性もいるんだから!」

「それは残念。でも興味などというものは、時と状況で移ろいやすい。当てにならないわ」

 膨れっ面で少女はそっぽを向く。その姿には可愛げがあった。からかいと誘惑と、計算。三分の一ずつ混ぜ込んだ言葉だった。

 勿論、実際にこの娘と深い関係を結ぶとなると、考えものだ。普段の生活でもセックスでも、手が掛かり過ぎるのは目に見えている。ハルカは、滅多に我侭を言わない。向けられる慈しみを受け入れ、それに応えるだけだ。彼女の望みはささやかでしかない。悲痛な程に。

 仕事の対象として知り合ったのでなかったら。それでもウミには、やはり残念に思えた。

 知り合いの、レズ・バーのバーテンに紹介してあげるのに。彼女には会う度に言われる。あなたは隙が無さ過ぎ。アタシが入り込める余地なんて、これっぽちも無いわ。残念、外見は好みなんだけどね。

 アタシは強気な娘が好みなの。同性愛など全く興味が無い、嫌悪さえしている子ならなお良いわ。教えがいあるもの。肉体と心理への痛覚、恥辱。唐突な愛撫と労わり。その持続は、人の心を真っ白に染め抜いてゆく。吹き荒れる雪に視界を奪われるように、迷走へと陥る。人間は、常に意味を求めているわ。生きてゆくこと、そんな自然の基本的作業にさえも。だけど意味なんて獲得したと思い込んでも、他者から擦りこまれたものが大抵よ。なぜそうなると思う?楽だからよ。開拓者は孤独で、傷つき疲れ果てるのが常だわ。甘い実を齧るのは追従者の特権。分かる?拘りを捨て、従順になること。人形よ。人形のようになれば、労せずして得られる。快楽という、意味を。そう教えてあげればいいのよ。 

 この娘が相手なら、喜び勇んで仕上げようとするだろう。さしずめ西洋人形といったところか。

「心配しないで。職務権限を乱用してまで、あなたと仲良くなる気は無いから」

「いいわよ、もう。結局、外見はまだ子供だって、言われてるようなもんじゃないのよ」

 外見だけだろうか?

「そんな事より、あんたが身につけてるアクセサリー」

「アクセサリー?」

「その頼りなさそうな、飾りよ」

 何が言いたいのかはとっくに気付いていた。余程腹に据えかねているのだろうが、しつこい。

 三本目の煙草をくわえ、ガスライターで炙る。プラチナ地の表面に月桂樹の模様が刻まれている。横須賀の青空市で見つけた掘り出し物。一万六千円。

「それじゃないわよ」

 無視した。漂う煙に少女は咽せて咳き込む。懐から取り出す。無造作にカウンターへと置いた。

「これのこと?」

 目の前の銃に、栗色の髪の少女はやや怯んだ様子だった。

「とりあえず、人ひとり黙らせる効果は、望めると思うけど」

「だったら何で、あのニキビ野郎を黙らせなかったのよ。意外と、ああいう男が好み?」

「言ったはずよ。けじめはつけさせると」

 壁に掛けられた時計を見た。午前零時十分。あと二十分か。想像力皆無の猿相手なら、気付かれる心配はあるまい。悪運が強ければ別だが。

 こめかみに堅い感触。それは懐かしかった。灰色の風景の国。支配欲をたぎらせた若いロシア兵の目。掌に伝わるナイフの、冷えた質感。筋肉組織が断ち切られる音。顔に降りかかる男の鮮血。それらが脳裏をよぎった。

「バーカ。こうも簡単に挑発に乗るなんて、幻滅しちゃう」

 くわえ煙草で顔を向ける。クーガーは、少女の手の内に収まっていた。窮屈そうだ。

「頼りにならないのではなかったの?」

「実際、簡単にあたしの物になっちゃったじゃない。あんたが言ってた事を実践したまでよ。どう?本当に、黙らせてあげましょうか?」

 椅子がずれる音がした。立ち上がったのは二人。一人欠けているが、誰であるかは想像出来る。お見通しと言うわけか、全く興味が無いのか。どちらにしろ大したものだわ。少し好感を覚えた。

 片手を上げて制止する。少女の背後から歩み寄ろうとしたアロハシャツは、足を止めた。

「オーケー、そっちも黙っている事ね。そんなセンスの悪い服装、見たくもない」

「驚きね。その姿も様になっていてよ」

「他の二人と違って、色々訓練を受けてますから。必要なのよ、アレを操縦するには」

「そう。では落第ね。習わなかった?残弾は常に、確認するのが基本よ」

 やや濃いめの整った眉がひそめられる。不安がよぎったのではない。理解できていないのだ。この娘に訓練を施したと称する教官も、どうやら失格だ。

「弾、入ってないわ」

「嘘」

 スカートのポケットから弾丸を取り出す。指で摘み示した。足下に放る。フローリングの床で弾み軽やかな音を立てた。

 銃が降ろされる。細い手首を軽く握り、クーガーを包む指を剥がす。抵抗は無かった。

「とっさに思いついた思考の速さ。実行する決断力。敬服するわ。けれど、詰めが甘すぎよ」

「…あんた、こうなること分かってたわね」

「まさか。他人に銃を渡す必要がある時、弾丸は抜いておく。恩師から教えられたマナーよ。臆病なくらいでいいの、私の職業は」

 答えず、少女は俯いていた。降ろされた前髪に隠れ瞳は窺えない。噛み締められ、微かに震える唇から本気だった事は分かる。敗北の屈辱。これほど表に出すのは幼さ故か。単に経験の無さか。扱いやすいのには変わりがない。

 それに、そろそろ黙ってもらう時間だ。

「もう遅いわ。シャワーだったら奥にあるわよ。ベットも用意したから」

 背後から床が擦れる音が響く。赤い瞳の少女が腰を上げた。視線を向けることもなく、出口へと姿を消した。少年も声をかけようとはしない。居心地悪げにフォークを玩んでいる。意識してというより、単に言葉が見つからないのだろう。

 力が失せた肩に、声をかけてやった。

「眠れない?それなら、占ってあげましょうか?」

 顔を振り上げ、少女はカードをめくった。そのままカウンターへと叩きつけた。

「少なくとも今は、最悪のはずよ!」

 足早に立ち去る少女。一瞬、長い後ろ髪が靡き鼻先をくすぐった。やや遅れ、少年も立ち上がる。こちらに瞳を向けていた。抗議とも懇願とも受け取れる。要求が過大だ。知ったことではない。

 ジャズの調べが途切れる。アロハシャツが口を開く。

「無茶なお姫様だぜ」

「認めて欲しいだけでしょう。そうしてあげたつもりよ」

「だが気を許しすぎだ。大体、その銃は引き金を軽くしてある。下手すれば血の雨だったかも知れないぜ」

 ウミは答えなかった。煙草の煙に目を細めながら、札をめくり続ける。アロハシャツは銃を手に取るとマガジンを抜く。拍子抜けしたように、溜息をついた。

 弾丸は入っていなかった。

「ブラフじゃなかったのかよ。落ちがこれでは、お姫様が惨めすぎる」

「暇つぶしよ。そんな事に命をかけるほど、誠実ではないから」

 最後のカードを置くと、ウミは席を立った。クーガーを受け取りホルスターへ戻す。軽く欠伸をし、肩越しに微笑んだ。

「お先に」

 アロハシャツは、しかめっ面で札に手を伸ばす。摘み上げ裏返した。口元が緩む。椅子に腰掛け呟いた。

「初っ端からこれとは。全く、あの娘には同情するよ」

 ハイヒールの堅い音が遠ざかる。間隔は均等だ。それに混じり、外からは雨音が聞こえ始める。定番通り天気予報は外れた。

 カードの絵柄は雷に打たれ倒壊する、塔だった。

 

 見なかったなあ、み、見たかったなあ。見たかっ、た、よなあ。

 止むことのない呟きに苦い顔でハンドルを操る。年代物のライトバンはサスペンションにもガタが来ているのか、僅かな路面の凹凸にも激しく反応する。胃の辺りにむかつきを覚えている原因は、勿論それだけではない。

 ライトバンは湾岸道路を走っていた。もっとも、元から湾に接していたのではない。港区と呼ばれていたこの辺りに、今や港湾施設などありはしない。ヘッドライトに浮かび上がる光景は廃墟そのものだ。

 いったいどこの国が放り込んだのか、責任の所在さえ不確かな兵器の破壊力は、災害により半ば機能を失っていた首都を遺跡へと変えた。浸食が進み遠浅になりつつある海岸。月明かりを受け輝く水面と、立ち並ぶコンクリートの白壁。ある種幻想的な風景でもある。数百年後にでもなれば、名誉欲旺盛な考古学者に再発見され、愚かな所行の遺産として奉られる価値はある。

 しかし未来に思いを巡らす理由も情緒も、この二人には欠けている。せいぜい盗掘者がお似合いだろう。

 残念だよなあ、おっ、惜しいよなあ。み、見たかった、よなあ。指先に摘まれた煙草がひっきりなしに口元へと向かう。鼻からの煙は、開け放たれた窓から流れ出ることもなく、車内に充満していた。

 カーラジオから響く、人気ボーカリストの甘ったるい歌声。恋、愛、癒し、夢。言葉の安売りだ。その美形も売りにしている男性ボーカリストが、ニキビ面は嫌いだ。

「さっきからうるせえぞ!」

 眼鏡の奥の瞳を左右に振りながら、丸縁メガネは身を縮めた。

「そ、そんなこと、言ったってさあ。残念じゃ、ないか、よ」

「俺だって頭に来てんだ!さっさと犯っちまうんだったぜ」

「く、くっ、やしいよなあ、あの大人しい子に、薬を、うっ、打ってみたかったなあ。どんな声で、喜んで、くれたん、だ、だろ?」

 アクセルが踏み込まれる。道路の傷み具合が直に伝わってくる。シートのクッションは薄い。スプリングとフレームの感触が煩わしかった。

「くっ、悔しくないの?悔しい?悔しく、な、ない?」

「だから頭に来てるって言ってるだろ!」

 くそ、あの女ども!奥歯を噛み締める。横っ腹の痛みが思い出したように疼いた。片手でさすり、ニキビ面は荒々しくハンドルを切る。

 あの小生意気な栗毛娘には、捕獲の際に回し蹴りを食らった。油断の結果だ。小娘に蹴り技の心得があるなど思いもしなかった。雇われ人の足長女から叩き込まれた肘打ちは、さらに強烈だった。銃を突きつけられた状態で抵抗するなど無理な話だ。しかし明らかに格闘術を体得した身のこなしには、圧倒されたのも事実だ。

 だが、もう一度機会があれば。顔面のニキビが蠢く。脳裏には女達を責め苛む、濁った光景が浮かんでいた。

「頭に、来るよねえ。あ、あれだけの女の子たち、そうは、いないもの、ね、ねえ」

「ガキだったのは不満だがな。楽しみがいはありそうだ」

「でもさあ、わっ、分からないんだよなあ。あんな生意気で失礼な子、ど、どこが、いいんだい?」

「だからこそだ。そういう奴が泣き叫びながら、抵抗の気力をなくしていく。何よりの趣向ってやつだ」

「うーん、分からない、なあ。やっぱ僕には」

 ニキビ面は女を憎んでいた。特定のそれではなく、全てをだ。まともな関係を築いた事など一度も無い。その意志も皆無だ。だが絶えず燻り続け、脈動する欲情を発散しなくては、気が狂いそうになる。

 商売女には手を出せない。横浜周辺にあるその手の店では、ブラックリストに登録され済みだ。無理に入ろうとすれば、裏で仕切る連中が店員の通報で駆けつけてくる。そう何度も商品を壊されては、奴らにも我慢の限界があるというものだ。相手が地元ヤクザならば、ある程度顔も効く。中国系のマフィアではそうもいかない。連中の強暴さと冷酷さは折り紙つきだ。

 排泄対象は素人の中から探すしかない。合意など考慮の埒外だ。金、暴力、薬物、弱み、欺瞞、裏社会への顔。何でも利用する。こっちの方が元から性に合う。手加減は要らないからだ。性欲処理というより、力ずくで女の自我を破壊することに、いびつな快楽を見出していた。

 子供の頃から、いや生まれ落ちた瞬間からかも知れないが、女達から向けられる視線を意識していた。その意味とて早い時期に把握した。

 醜い。それでしかない。はっきり口に出された事は幾らでもある。ニキビ面には、偽りもなく自慢できることが一つある。記憶力だ。その力によれば、言葉を最初に浴びせかけたのは母親だ。

 いつからか悲嘆は感じなくなった。そんなものにすがるには、あまりに日常的であったし、精神が摩耗しきっていた。残ったのは萎縮と、憎悪だった。

「俺だって分からねえ。あの無愛想で無表情な娘のどこがいい?あれじゃあ、人形だ。と言うよりダッチワイフだな」

「ダッ、ダッチワイフ!?ひ、ひどいなあ、それ」

「殆ど無反応だったじゃねえか。ムカツクんだよ」

「う、うん、それはそうなんだけどさ、な、何だかさ、声が、声かな?凄く優しい感じでさ」

「はあ?」

「お、同じだよ。表情と同じさ確かに。誘拐、されたんだよ?犯されちゃうかも、し、知れないんだよ?こ、殺されちゃうかも、知れないんだよ?普通ね、もっと必死になるよあの失礼な子みたいに。それなのに全然、そ、そんな感じじゃ、なかっただろ?」

 何を言いたいのかは分からない。そもそもヤク中の言うことなど無茶苦茶だ。だが、話の雰囲気が変わりつつある。好みではない方向にだ。丸縁メガネの陶酔しきった表情から、それは認識できた。

 シートに身を預け股を広げた。不愉快さよりも気怠さが勝っていた。

「関係ねえってことだろ。要するに」

「い、いや、それはね違うと思うよ、失礼だけど。僕にはね、か、彼女のそんな姿が、より切実に、思えたんだな。う、嘘がないというのかな?う、うーん、どう言ったらいいのかな。あっ、あ?自分でも、よ、よく分からない、や」

「お前、全然理解できねえよ」

「そ、そうだね。や、優しい声、だった、よね。前にさ、ど、どこかで、いつか、聞いた憶えが、あるんだよ。どこだろ?いつ?どこで?何時?」

 ニキビ面は鼻で笑いハンドルを握り直す。そろそろ旧千代田区に入る。海岸線もこの辺りまでだ。歓迎すべき事だ。海は、昔から好きになれない。

 女の優しさ?そんなものは嘘だ。男を支配するための方便でしかない。本当は女ほど、残酷なものはない。奴等は自分にとって必要か不要か、それだけで判断する。必要じゃない相手には尻を向けない。向けるのは、侮蔑の視線だ。

 そうだ、あれは高二の時。ニキビ面自慢の記憶力が、ヘッドライトに照らされる光景に、二重露出のような映像を定着させる。

 中間色のない、どぎつい原色の映像だ。

 

 そうだ、あれは高二の時。

 告白というやつをした。最初で最後だ。相手は、クラスどころか学年でもっとも人気のあった娘。ウエーブのかかった黒髪、水泳部のエースという肩書き。均整のとれた肉体の線も無論魅力だったが、誰にでも懐きやすいその性格が、実行を促した。信じた、と言うのは適切ではない。その基準も知らない。ただあれが希望というものであれば、それだったのかも知れない。

 方法を決めるのには二ヶ月かかった。誰にも相談などしなかった。当たり前だ。友情?糞くらえだ、そんなものは。周囲を取り巻く連中は、全て敵でしかなかったのだ。胸糞悪い話だが、警戒というより怯えてさえいた。

 雑誌を買いまくった。見ただけで脳が腐り出しそうな、恋愛ドラマも我慢した。気弱な雰囲気の優男が、小狡い顔をした女優にCDを渡す。嬉しいわあ、この曲好きなのよお、ヒーリング系の典型って感じで。やたら長い足と豊満な肉体。過剰に飛び出た睫毛。まるでダチョウだ。

 CDはエンヤとかいう外国人歌手の、古いアルバムだった。書店のメディアコーナーで手に入れた。金は母親が草津の温泉地に旅行しようと、貯め込んでいた中からちょろまかした。レジ係の若い店員が胡散臭そうにこっちを盗み見ていた。整った口元を微かに歪め、色白の男は嘲笑していた。

 自宅に帰りプレーヤーに入れた。前振りなのか最初の曲はインストロメンタルだ。瞬間、娘の姿が目に浮かぶ。盗み見た部活での姿だ。ダークブルーの競泳水着が細身の身体に張り付いていた。背中でクロスする肩紐は純白。水滴が這い下りる肌を締め上げていた。

 下半身をまさぐり取り出した。握りしめる。地上を焼く太陽の輝きに、ナイロン地の表面が艶めいている。その色調に、濁った白液はさぞ相応しいだろう。ぶっかけてやりたい。

 女性ボーカリストの甘い歌声が響き出す。吐き気がした。陰茎が一気に、萎えた。

 呼び出した。放課後、プールに。空は曇天だ。浄化槽の改修のため、水泳の授業も部活も暫くはない。水面には藻が漂い腐臭を放っていた。娘はやって来た。信じられなかった。きっちり三メートル先に立ち、子犬のように怯えた瞳を向けた。歩み寄り、無言でCDを渡す。娘の頬が微かに弛んだ気がした。全身を血が駆けめぐる。答えなど求めずその場を離れた。押し倒したいという衝動も、簡単に立ち消えた。満足だった。

 翌日、体育教師から呼び出しを受けた。柔道部顧問で生活指導担当だ。体格はもとより柔道の腕前も確かで、逆らえる奴はいない。唇を曲げ机の上に何かを放る。見た瞬間、瞬時に理解した。CDのケースには、明らかに踏みつけられたような割れ目が入っていた。ショートカットの女性ボーカリストの写真も皺だらけだ。

 お前、マジで馬鹿か?─が、本気で受け取るわけないだろ?何をした?脅したのか?泣きついたのか?知ってるか?そういうのをストーカーと言うんだぞ。迷惑だったろうなあ、よく考えろよ自分って奴を。柄にもないぞ、全く。襲いかかったというならまだ理解できるぞ。窺っているだけでは我慢できんか?なるほど、恋は盲目とはよく言ったものだ。いやスマンスマン、そんな甘いもんじゃないわな性欲だよなハハハハッ!それにしてもあれか、結局お前は、女相手にも、無力というわけか。

 教室に戻った。昼休みだった。足がふらつく。席に座ると、周りの風景もクラスの連中のざわめきも、どこか曖昧でぼんやりとしていた。空気の質感も違う。薄く、それでいて弾力に富む膜のような物に、取り巻かれている気がした。そんな中、笑い声だけは鮮明だ。いつものように薄ら笑みを浮かべてみた。そうすれば少なくとも、この場所に居る事への違和感は減少する。だが、無駄だった。

 何を笑っていやがる。何が可笑しい?なあ、そんなに楽しいことが、何かあったのか?

(気持ち悪いんだよね)

 その言葉は、鼓膜を突き抜け内耳を侵食し神経を爛れさせ、脳の表面にベッタリと張り付いた。寄生した。それ自体が生命を持ち、叫び、脳全体を震わせた。

 気持ち悪いんだよね。

 それに呼応するものが、前葉体を食い破り顔を出した。

 結局お前は、女相手にも、無力というわけか。

 防衛能力を失った免疫システムをすり抜け、嘲りという毒素が全身に広がり、二匹の虫の糧となった。アハハハ!気持ち悪いんだよねヒヒヒヒッ!お前は女相手にもウヒャヒャヒャ無力というわけかククククッ!

 俺の中で交わるのはやめろ!立ち上がった。包み込み、圧死させようとする膜をかき分け進む。視界の中央に虫の片割れを見つけた。笑顔が凍り付いていた。ぶっ潰してやる!数本の触手が絡み付き邪魔をする。腕を振るった。手の甲に軽い痛みと、何かが砕ける感触を覚えた。

 驚いた。数人の男子生徒が倒れ伏していた。折れた歯が転がり、口の端から流れ出るドス黒い血が、クリーム色の床を染め抜いていた。一瞬の怯え、だが直ぐに沸き上がる喜悦。俺は、何を迷っていたんだ?いや、分からなかっただけだ。対抗する手段。簡単じゃないか。憎悪をぶつければいい。償わせればいいんだ。内に秘めたところで、全ては無駄だ。

 女に歩み寄る。止める者はいない。腕を伸ばした。顔が歪み、冷や汗で薄い化粧が剥げ、口元を汚していた。思いっきり笑い飛ばす。醜い、お前だって醜い。だがよく分かったぜありがとよ。俺が求めていたのは、正にその顔だ。

 何をしている!教師どもが教室に駆け込んで来た。あの体育教師も居た。楽しそうにこっちを睨め付け胸を反らした。ここは任せて貰えませんかな?こいつは前から危ない奴だと思っていたんですよ。こういう輩は甘やかすと調子付くだけです。股関節でも外してやりましょう。なに、PTAやら教育委員会には私が……。

 椅子を顔面に振り下ろした。めり込む感触と鈍い音が心地良い。だが、男じゃな。振り向いた。女は逃げ出していた。教師どもを振り払い後を追う。体内の奥底から沸き上がる凄まじい熱が表皮を焦がす。顔面に密集する膿の山々から汚液が滴り落ちた。

 これはマグマだ。俺が生まれ落ちてから今まで、ずっとため込んできた、マグマなんだ。分かったぞ、おい。俺は貴様達に騙されていたんだ。あらゆる言葉で、欺瞞で、視線で、嘲りで、アイドルでプレイボーイでグラビアでAVで競泳水着で、洗脳されていたんだ。多分、他の男連中も同じなんだ。だが俺はもう、そうはいかないぞ。気付いたからにはマグマに蓋をしようとしたりしないぞ。クレアラシルを毎晩、顔面に塗りたくりもしないぞ。お前らの中に注ぎ込んでやる。あの白濁した液体と混ぜて、ぶちまけてやる。汚しつくしてやる。

 退学になった。屁とも思わなかった。自由を手に入れたからだ。それを満喫する手段も、既に掴んでいた。その通りに行動した。

 娘を見舞いに行ってやった。ボロボロになって入院していた。処女膜どころか肛門まで引き裂かれて。娘の表情は虚ろだった。何も見えていない。個室のドアに鍵をかけ、なぶり尽くした。退学になってから三日後の夕方、児童公園でそうしてやったように。

 血色の衰えた肌に放出する。精液と、マグマを。気の遠くなるような悦楽の中、確信した。

 これは俺に許された、リベンジだ。

 

「おい、戻るぞ」

 ライトバンが急停止する。丸縁メガネの細い身体が前のめりになる。額をダッシュボードの角にぶつけた。

「い、痛いなあ。戻るって、ど、どこに?」

「引き返す。このままちんたら浦和まで行けるかよ」

「けどさあ、い、一応上からの、命令だしい」

「お前なあ、分かんねえのかよ。俺達はどう考えたって囮だぞ。検問なんかに捕まってみろ。車が手配されてたらそれまでだ。元が盗難車なんだし、誤魔化し効かねえぞ」

 車内灯を反射するレンズの奥で、神経質な瞳が小刻みに揺れる。だが、灰色に澱んだ眼球は湿っぽく光沢を放ち始めた。涙とは違う。期待の表出だ。

「そ、そうだよね。やっ、ばいよね」

「上からの命令だ?このくだらない芝居を演出したのは、あの足長女だぞ?奴が何のつもりで俺達を別班にしたのか、想像つくじゃねえか」

「そ、そうだよね。きっと、あの子から、ぼ、僕を引き離そうと、したん、だ。許せないなあ」

 ニキビ面は鼻を鳴らし頬を歪めた。このメガネ野郎はつくづく楽しめる奴だ。ひっきりなしに表情が変化しやがる。きっと肌も筋肉もラバー製で、弾力で引きつりまくっているんだろう。それがブルブル震えるわけだな。変わった仮面だぜ。

「でっ、でもさ、あの子がどこに連れて、い、行かれたか、僕知らないよ?」

「上の連中を締め上げて聞き出すさ」

「えっ、ええ!護衛がたくさん、つ、付いてるはずだよ」

「桜木町に島張ってるな、台湾人の幇(組織)に顔馴染みがいる。ため込んでるハジキの数が、日本のヤクザと比べて半端じゃねえ。やばい連中だが、金の話なら直ぐに乗るからな。協力させるのさ」

「なら安心だ。あの女も、こ、怖くないね。邪魔だからとっとと、始末しちゃおう、よ」

「つまらねえだろ、いきなりそれじゃあ。生かしておいて、ボロボロにするに決まってるだろうが。幇の連中にも楽しませてやればいい。俺達だけってのは、まずいしな」

「な、なあるう。それなら注射も、打ってあげよっか?お、面白そうだよね、あのアイスノンみたいな女に、薬、薬やるのも。あっ、でもまずはあの子が、先だよ」

 簡単に利用できる男だ。ヤクでイッちまってる奴なんて単純なもんだよな。まあ、あの人形娘とは楽しませてやるさ。俺はああいう女は好みじゃない。いや、犯る気にもなれない。

「交渉相手への要求は金に絞ればいい。連絡先はガキ共があの女か、なぶりながら聞き出すだけだ」

「て、手配されちゃったら?この国に、い、居られなくなる、かも?」

「気が小さい奴だなあ。海外に出りゃいいだろ?こんな糞狭い国に、未練なんてあるか?世界は広いんだ。何ならあの娘も一緒に、連れていったらどうだ?」

「い、いいなあそれ。いいよ、それ。モルジブなんて、よさそう、だよな。あれ?あの国、ま、まだあったっけ?そっかあ、一緒かあ。気持ちよく、して、あげたいなあ」

「決まりだな」

 一緒かあ、一緒かあ、いっ、一緒かあ。き、気持ちいい?良くない?気持ち、い、い?

 薄ら笑いを張り付け、丸縁メガネは指先まで短くなった煙草を、窓から投げ捨てた。唇の端に泡が溜まり出す。呟きは止めどなく続く。

 こんな奴、どうせ早漏だ。直ぐに終わっちまうだろう。その後、相模湖にでも沈めてやるか。ダッチワイフと一緒に。本望ってもんだろ?俺はああいう女は好みじゃない。いや、犯る気にもなれない。

 今度こそ、ぶっ殺してやる。

 ギアをバックに入れ、ハンドルを切る。ライトバンが反転する。乾いた笑みが浮んだ。こんな気分は、あの高二の時以来だった。栗毛娘と足長女が注いでいた侮蔑の視線。それを記憶に蘇らすと、皮膚を膨らませるマグマが存分に熱っせられ、たぎった。

(い、嫌……。絶対に嫌!)

 そうだろうよ。拒むだけ拒めばいい。逆らえないと悟った時、無力だと思い知った時、お前は壊れるんだ。汚してやる。その栗毛を白く染め抜いてやる。

(反吐が出るのよ、あんたみたいな男には)

 なら本当に吐かせてやる。その上で這いずり回してやる。尻の穴に、ねじ込んでやる。

(それがあんたに、出来ることなの)

 その通りだ。お前達が絶対受け入れたくないと思っている相手に、支配される絶望を味合わせてやる。

 分からせてやるぞ。俺はそうする事を許されているんだ。当然の権利なんだ。なぜなら俺は。

「あっ、ああ!思い出した!」

「何をだよ」

「あの、あの子の声、いつか、ど、どこかで聞いた事があるって、言ったよね?あれね、似てるんだよ、あ、ある人に!」

「誰だよ」

「あ、あれはねえ、あれはねえ」

 次の瞬間、強烈な熱と痛覚に、ニキビ面は呻いた。首の筋肉から力が抜け視野が下方に向かった。その先に、二本の肉塊が転がっていた。膝下が失せていた。太いホースのようになった腿から、赤い液体が放出され、吹きあがる炎に降りかかっていた。だが、炎は油を注がれるように勢いを増していった。

 頭髪が焼け皮が融解してゆく。どうなってんだ?俺の中のマグマが、噴火したとでもいうのか?何が起こっているのか理解できず、答えを求めようとした。頭は動かなかった。眼球だけが微動した。

 丸縁メガネが微笑んでいる。眼鏡のフレームは溶け落ち、鼻や唇と同化していた。いつものような、引きつった笑顔ではなかった。幸せそうだ。唇がゆっくりと動いている。何かを告げようとしている。読みとれなかった。

 あいつ、何がそんなに嬉しいんだ?

 煙と炎に包まれたライトバンは、惰性で道路を外れ海岸へと向う。渚まで10メートル。再度の爆発と共に燃え上がった。波は届かず、業火を洗おうとはしない。

 午前零時三十分。旧東京湾は、静かに凪いでいた。

 

                 [  続く  ]

 

 

 


瀬戸さんの部屋に戻る/投稿小説の部屋に戻る
inserted by FC2 system