第六話

あるいは「マヤからの第六の手紙」




『アスカ、久しぶりね。アナタの方から手紙をもらうのは』

その手紙は猫の絵がプリントされた可愛い便せんに書かれていた。

『シンジ君、アスカ。ご婚約おめでとう。
 まずお祝いを言わせてもらうわ。
 昔のけんかばかりしていた二人を思い出すと、
 とても信じられないわね』

『でも、私は知っているから。
 アスカのシンジ君への想いを。
 あのあと必死にシンジ君の看病とリハビリを続けたアスカを見ているから。
 あの頃は大変だったわよね。
 良かったわね、アスカ。
 シンジ君が元気になってくれて。
 アスカの想いに答えてくれて。
 心からおめでとうと言わせてちょうだい』



*         *         *         *



奇跡はおきた。
時が再び動きだしたそのとき、人類は再生した。

人の心はその瞬間つながっていた。

気になる人の、気にしてる人の想いは相手に伝わった。
人は他人の愛を知り、自分の愛を理解した。

争う相手の心も。憎んでいた相手の心も。
人は争いの哀しさを知り、破壊の虚しさを知った。

魂は補完された。



奇跡はさらに続けられた。

傷ついていた人々の体の傷は癒された。
傷ついていた大地の自然は浄化された。

そして地球に再び季節が巡るようになった。
かつての死の海は豊かな海となり、再び氷に閉ざされた。

だが、人類を救った少年。
奇跡をおこした少年の心も、
神の時間が終わったその時に、
再び閉ざされてしまった。



ただそれは自らの意思では無かった。









「ちょっとアンタ、それでも医者なの。
 何とか言って見なさいよ。
 なんでシンジは戻ってこないのよ」
「いえ、あの、その....、
 げ、現代の医学では人間の精神についてはまだわからないことが多く残されており...」
「ちょっと、もっとはっきり言いなさいよ。
 聞こえないわよ、何て言ってんのか」

アスカの剣幕に、医者はしどろもどろになって答えた。

「だ、だから...、
 人間に神の心を理解することなんて、できるわけが...、
 特別なんですよ、彼のケースは。
 はっきり言って、わからない。
 見た事も聞いた事もない症例なんです...」
「ああ、もう。役に立たない医者ねぇ。
 わかんない、なんて言ってないで、なんか考えなさいよ!」
「そりゃ、我々だって一応は学者のはしくれですから、
 仮説の様な物はいくらでも思いつきますし、実際検討もしましたが...。
 でも、全くの当てずっぽうですからねぇ...」
「いいから。当てずっぽうでも何でもいいからあるなら早く言って。
 それと言っておくけどシンジは神なんかじゃないわよ。
 ただの人間の14才の男の子なのよ」

彼女は『人間の』の『14才』の『男の子』を強調して言った。

「じゃあ、言いますよ。
 でも推測ですよ、推測。いいですね。
 はずれても保証はできませんからね」
「わかったから、もう。早く!」
「基本的に臨床的には全く何が起きているのか理解できなかったので、
 心理学的に見て普通の人間だったらどうなるか、
 ということを医師団で検討した結果として...」
「だーかーら、シンジは普通だって言ってるでしょ。このおたんこなす」
「アスカちゃん、黙って聞いて」
「ごめんなさい、おば様」
「え、そ、それで、まあ、根本的な問題点は機能障害の原因、
 これがどういった性質なのかという事に話は限られておりまして...、
 要は、物理的化学的な影響によるものか、あるいは精神的なものなのか、
 ということですな。
 あまりに膨大な情報が一気に流れ込んだことの副作用として、
 回復不能なまでの重大な損傷が脳にもたらされることは十分に考えられます。
 わかっている範囲では物理的損傷は認められてはおりませんが、
 大脳生理学というのはまだ発展途上の学問ですから。
 特に化学的損傷の発見はかなり困難なのです」
「で、その場合はどうなるの」
「破壊、または損傷を受けている場合、その程度にもよるのですが、
 一般的に言って悪くすれば一生植物人間、
 元に戻ったとしても、記憶、人格の喪失の危険性があります。
 運が良ければ記憶が多少混乱する程度で、すぐに回復するでしょうが」

かなりショッキングな事実を、その医者は告げた。

「先生、何か私達にできることはあるのでしょうか」
「いえ、残念ながら。この場合、何もできる事はありません。
 せいぜい、損傷が軽いことを神に祈るぐらいですね。
 申し訳ありませんが」
「そうですか。では、もう一つの方はどうなんでしょうか」
「精神的な障害の場合ですね。
 これは別の言い方をすれば、拒否反応を起こしている、とも言えるのですが、
 拒否している主体によってさらに2つに分けられます。
 意識的ものか、そうでないのか、です」
「どういうこと」
「意識的なもの、つまり、彼が自分で戻るのを拒否しているということですが、
 要するに逃げ出した訳ですな、現実から」
「そんな筈は...」
「無い、ですか。本当にそう言い切れますか。
 普通の心身症の例から考えると、
 いちばん有りそうなのは知りたくないものを知ってしまった、ということでしょう。
 あるいは知られたくないことを知られてしまった、そしてそのことを知ってしまった、
 というパターンもありますね」

ドキッとする少女。
彼と心が通じたあの時。彼の想いを知ったと同時に彼の行為も知ってしまった。
夜にひとりでなにをやっていたか。
あのとき病室でなにをしてしまったか。
少女に、まだ14才の乙女に、それを受け入れろと言う方が酷であろう。
そして彼女のそういう反応は、明らかに少年にも伝わったはずだ。

「いえ、あの子に限ってそんな事は有り得ませんわ」

力強く、きっぱりと言い切る。母親の息子への信頼。
少女もそれに励まされるように前を見据える。

「では、彼の意志で無いとすると、
 与えられた情報の膨大さに脳が完全についていけなくなった、
 肉体的な動作や反応を同時にこなす余裕がなくなったということですか」
「つまり、過負荷を与えたコンピューターが見掛け上応答しなくなるようなもの?」
「ええ。そういうことになります。
 ただ、人間にはリセットボタンはありませんが」
「そんなのわかってるわよ。で、どうすればいいの」

アスカの問い、医者ではなくユイが答えた。

「もしそう言う事なら、答は簡単よ、アスカちゃん。
 待てば良いの。今はひたすら、ただ待つの、忘れるのを。
 忘れることができれば自然ともとに戻るでしょう」
「もし彼が、神がものを忘れることができるならば、ですがね」
「そんなの、当ったり前じゃない。
 人間ってのは元々忘れるようにできてるのよ。
 バカシンジの場合は特にね」
「もう一つ、問題が有ります。
 つまり忘れることができたとして、何を忘れるか、ということですが。
 昔の記憶をなくしている可能性だけでなく、
 場合によっては完全に別の人間の記憶を持っていた、なんて事も有り得ます。
 無論、神の力を持ったまま目覚めてもおかしくはありませんし」

再び少女に動揺が走る。

「大丈夫よ。人は確かに忘れる事で生きていけるわ。
 でも、最初に忘れるのは、『悲しみ』と『さびしさ』。
 そういった心を『思い出』の中にしまい込んで忘れていくの。
 そして最後に残るのは『希望』と『未来』。
 楽しかった事、嬉しかったことはいつまでも忘れないものよ。
 信じましょう。
 シンジは私達を忘れたりなんかしないって」

二人で連れだって病室をでる。

「結局、待てってことよね。シンジが戻ってくるのを」
「そうね、アスカちゃん。気長に待つ。待っていればいつか必ず...」



(いえ、待ってなんかいられないわ。そんなの私に似合わない)
(絶対に、ぜぇったい、このアスカ様が叩き起こして見せるわ)
(待ってるのよ、バカシンジ!)









その日から少女は毎日少年の病室に通い詰めた。文字どおり朝から晩まで。

少年に呼び掛けた、話しかけた、囁いた。
いかに少年が必要とされているかを。
いかに少年のことを大事に思っているかを。
この美少女、惣流アスカ・ラングレーが。

少女の戦いの日々は幾日もつづいた。

無論、少年の母親もほとんど毎日通い続けた。
ただ、少女のように1日中いるわけにはいかなかったが。

彼女には少年に対する深い思いだけでなく、残された人類に対する債務があり、それは果たされなければならなかった。災厄の後処理は遅々として進んでいなかった。それでも必ず夕刻までにはやってきて、病室で少女の姿を確認すると、そのまま病室の隅にある椅子に腰掛け、静かに少年の安らかな寝顔を見守った。

ある日、泣き疲れ、ベットにもたれて眠る少女にカーディガンを優しくかけると、少年の枕許に顔を寄せそっと囁いた。

「いつまで寝てるの、シンジ。
 あなたは女の子を泣かせるような子じゃないはずよ」



雨の日も、雪の日も、少女は休むことなく病室に通い続けた。
晴れた日には動かぬ少年を車椅子に乗せ、日光浴をさせた。
木漏れ日の中、新緑に囲まれた小道を二人で散歩した。
少年の下の世話も、入浴もまったく厭わなかった。
(最初は少年の母親や看護婦に手伝ってもらったが)
少年の自分への愛を知っていたから。
自分の想いに素直になる事が今はできたから。





そしてついに、少女は戦いに勝利をおさめた。





最初の勝利は小さなものだった。





涙。









ある日突然、少年は自分の傍らで少女が泣いているのに気が付いた。
その囁くように呼び掛ける、あの少女の声に。

「シンジ、シンジ。起きて、起きてよ。お願い」

(今日も、駄目なの)

「アタシはアナタがいないと駄目なの。愛してるのよ、シンジ。好きなのよ」

(いえ、あきらめちゃダメ。頑張るのよ、アスカ!)

「お願いよ、起きてよ、シンジ」





(ア、アスカ。何故泣いてるの、アスカ。泣かないでよ、アスカ)

だがしかし、少年はどうすることもできなかった。
彼の意志に反して、彼の体は動かなかった。

最初にそれに気付いたのはユイだった。

「アスカちゃん。シンジが涙を」
「えっ」

少女は最初、自分が流した涙が少年に落ちたのだと誤解した。
だが少年の目からははっきりと涙が流れていた。
その目は依然閉じられたままであったが。





その日以降、少年の回復ははっきに目にわかるようになっていった。
まず、ぴくぴくと筋肉を引きつらせる事からはじまった。
やがて、まぶたが開き、口があき、手が、足が動くようになっていった。

それは非常にゆっくりとした、何日も何日もかかる進歩であったが。

それから毎日、少女は再び不安な日々に襲われた。
少年が再び話せるようになったその日まで。

「自分のことをおぼえているだろうか」
「あの楽しかった日々を忘れてないだろうか」
「自分の想い、伝わったのだろうか」
「少年に嫌われてはいないだろうか」





そしてその日は訪れた。
少年が口を開き、必死に何かを話そうとする。
少女は耳を少年の口元に近づける。
最初はそれは意味もないただの音に過ぎなかった。
やがて少しずつ、音は声になっていく。

「あーあ。あーーーーー」

周りの人間にはそうとしか聞こえなかったであろう。
だが、少女にははっきりと聞こえた。

「アスカ。愛してる」

と。
少女は涙を流しながら、少年の唇に自分の唇をそっとあわせた。
それは自然な、少女の感情の吐露であった。

少年と少女の心が再び通いあった瞬間でもあった。





少年は順調に回復していった。
少年の精神になんら問題はなかった。
少年の肉体も長いリハビリの末、もとに戻った。

そして、あの日から1年程がすぎたある春の1日、少年は退院した。
少女の肩に寄り掛かりながら、自分の足で病院をあとにした。









少女はあの日から、ネルフのオペレーターであった伊吹マヤの実家で暮らしていた。
そしてその第2東京市にある彼女の家から毎日病院に通っていた。

伊吹マヤは暫定的に設けられた国連本部ビル内の一室で、時には松代のネルフの実験施設で、ネルフの解体作業にあたっていた。毎晩少女が疲れて帰ってくると、少女に優しく話しかけ、慰め、力付けてくれた。たとえどんなに自分が仕事で疲れていたとしても。

それは少女が同性からうけた初めての優しさだったかもしれない。友人としての、同性としての、姉としての愛。あるいは母親の愛であったかもしれない。少女は次第に心を開き、彼女の前で素直になれる自分に気が付いた。

かつて自分を助けてくれたもう一人の少女、同級生だったその少女にも話せなかったことが今はマヤに話すことができた。そして泣くことができた。昔の彼女には絶対みとめることができなかったことが今では許せた。

少年の心の自由を求めて戦っているあいだに、少女の心も成長していた。

やがて少年が回復していくと、少女も以前の活発さをとりもどし始めた。少女が明るくなっていくにつれ、二人の関係は姉妹のものへ、親しい友人のものへと変わっていった。そして少年が完全に回復してからも、その関係は崩れることはなかった。

「ほら、アスカ。料理くらいできないとシンジ君にバカにされるわよ」
「うるさいわね。そんなことわかってるわよ」
「ほら、そこ。弱火にして。ちゃんと灰汁をとるのも忘れないでね」
「うー」

「ふーん。マヤもお化粧するんだ。普段は全然しないのに」
「あら、身だしなみですもの。毎日やってるわよ」
「そりゃ、そうだけど、いつもはかるーく済ませちゃうじゃない」
「そうね。でも、彼にはやっぱり奇麗な自分を見せたいから。
 それが女心ってやつよね。アスカだってそうでしょ」
「ま、まあね。でもアタシは元がいいからね」
「そんな事言ってないで。今度教えてあげるから。
 シンジ君にも見せてあげたら?」

「今日、シンジとキスしたの。
 あたし、もう少しで自分を抑えられなくなるところだった。
 シンジが欲しいって。
 アタシって変、なのかな。女なのに」
「そんなことはないわ。好きあった男女なら当然のことよ。
 多分シンジ君もそう思っているんじゃないの、
 彼は自制心が強いから言わないだけで」
「そうかしら」
「そうよ。いっそ、アスカの方から誘っちゃえば。
 多分シンジ君、自分からは絶対言わないと思うわ」
「なんか、マヤらしくない事言うわね。
 変わったわね、あの人と付き合ってから」
「そ、そう?」
「そうよ。昔マヤがなんて噂されていたのか知ってる?」
「ちょっとドジな可愛い娘。ネルフのアイドル」
「うー。自分で言うかしら。
 それにアイドルはアタシよ。
 アンタじゃなくてね。
 あなたの場合は『潔癖症』、『鋼鉄の処女』、それに『百合2号』よ」
「潔癖性、はわかるわ。先輩にも言われたし。
 鋼鉄の、はやっぱりみんなの誘いに乗らなかったからかしら。
 みんな見え透いてるんだもの。
 でも、百合って。百合の花の様に美しいって事かしら」
「レズよ、レズビアン」
「えー。そ、それは、先輩は尊敬してたけど。  それに奇麗だったし。(先輩とならいいかなって、違う違う)。  私達、そんな不潔な風に見られてたの?」
「なんでそこでリツコが出てくるの。
 私は何も言ってないわよ。(まあ実はそうなんだけど)」
「だって、アスカ。2号って言ったじゃない。
 でもそれだけは納得できないわ。
 事実じゃないもの」
「だから噂よ、噂。むきになんないでよ、マヤ」
「でも、だって。それに先輩は、碇司令と...」
「えー、そうなの。それ、ユイさんは知ってるの?」
「多分。あの時に気付いたはずよ」
「あの夫婦も結構やっかいなことになってるわね」
(ユイさんって怒らせると恐い人なのよねー。
 顔はニコニコしながらきつい事を平気で言うし。
 キレるとやばいタイプね。
 何をやるかわかったもんじゃないわ)


伊吹マヤ。ネルフで生き残った人々の中で、この女性ほど忙しい思いをしていた者はいなかっただろう。暫定的に司令に任命された冬月コウゾウですら、彼女ほど仕事はなかった。

赤木博士の亡き今、ネルフ技術部の残務処理が全て彼女の双肩にかけられており、技術情報の公開および移転、民生利用、MAGIの再構成、仕事は山ほど残されていた。その激務の合間をぬって家に帰り、少女と遅い夕食をとると、また深夜まで仕事を続けた。

こんな生活を続けた後、仕事がようやく一段落した頃、見合いをし、交際をしばらく続けてから結婚を決めた。同時に、書きためた論文を発表し、博士号も見事に取得している。



少年の、少女の友人達は彼らの消息を知らされていなかった。

あの日、彼らも少年の心と一緒になった。少年が何を思い、そして最後に何を選択したかを知っていた。だが、その後の情報は重要機密として隠蔽されつづけていた。

彼等の家族はみなネルフの関係者だった。そこでみなは再び第2東京に呼び寄せられた。そしてみな、同じ中学校で再会した。しかし、人類のために戦ってくれた3人の少年少女の姿は、そこに無かった。

彼らが少年の、少女のことを知ったのはシンジが退院してからさらに1年後。少年が彼ら通う高校に一年遅れて新入生として入学して来た時だった。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん。大変、大変」
「あら、どうしたの。廊下は走っちゃいけませんっていつも言ってるでしょ」
「そ、そんあことよりさあ、今日、同じクラスにさあ..」
「お、ノゾミちゃんやないか、どうしたんや。
 かっこええ男でもおったんかいな」
「え、うん。かっこいいことはかっこいいんだけどさあ、それよりも..」
「おーい、大変だ。トウジー。洞木さーん」
「なんや、ケンスケまでも。どうしたっちゅうんじゃ」
「シ、シンジが」
「シンジがどうしたんや。転校してきたとでもいうんか」
「それが、今日新入生のチェックをやってたらさ..」
「アタシのクラスなのよ。シンジさんは」
「えー」「なんやてー」

だが、その傍らにいつも見慣れた栗色の髪の少女はいなかった。
蒼い髪の寡黙な少女の姿もなかった。

そして少年の話を聞いた時、みな驚いて叫び声をあげた。

「えー。シンジ君。アスカと同棲してるのー」
「なんやて、シンジ。ホンマか、それ」
「いやーんな感じ」
「不潔、不潔よ、アスカ。見損なったわ」




少年が退院してからの一年の間、少年は自宅でなおもリハビリを続けていた。そしてその間、一年遅れの、中学3年の授業を自宅に教師を呼んで受けつづけた。

少女は相変わらず、マヤと一緒に暮らしていた。しかし、少女は次第に忙しくなって来た。あの事件の事後処理のため、色々な作業や法廷での証言に駆り出された為である。

次第に少年の顔を見る機会が減っていく日々。
少しずつ耐えられなくなってくる少年への想い。

マヤが結婚を決め、家族に、アスカに報告したその日、ある晴れた晩秋の一日に、少女は少年の元に行くことを決めた。

少年の母親は喜んで少女を受け入れてくれた。それどころか、

「じゃあ、おじゃま虫は消えるわね」

と言って家を二人に明け渡した。

「私達はその方が都合がいいの。上田にいけば、いつでもあの人に会えるから」

そう。少年の父親は今、上田にいた。
正確にはそこにある刑務所のなかに。





その男は自らの意思で裁判を起こし、被告として法廷に出頭した。
そして自らの行いをすべて告白した。
同時にゼーレのしたことも。日本政府や内務省のしたことも。

途中から裁判は完全にアンダーシールで進められた。
検事も弁護士もいない、裁判官と証言者だけの法廷。
世界中からあつめられたのべ21人の裁判官。
事件の異常性、重大性がその手続きを正当化した。

裁判の進行は停滞した。

証拠がほとんどあの事件で消失したためでもある。
ほとんどはその男の、あるいは他の男や女の証言にかぎられたせいでもある。
だが、それは真の問題では無かった。
みなが、その証言が真実であると知っていたからだ。

その男を、人類のために非情の決断をした男を裁くことをためらったからである。

男は業を煮やして、自ら刑務所に入り、囚人として暮らしはじめた。
誰もその男の決意を止めることはできなかった。

男はその息子を見舞いにはいかなかった。ただの一度も。
自分にはその資格が無いと考えていたから。
責任を果たすまでは、罪を償い終えるまでは。
少年が目覚めたという知らせを受けても、何も言わなかった。
少なくとも誰も聞かなかった。
壁に向かって一人小さく呟いたその声を。



4年あまりの月日が流れた後、裁判は結審した。
判決が言い渡された。

「被告人、碇ゲンドウを4年の懲役に課す」

一月後、その男の釈放が決まった。


その男とその妻は、再び自分達の息子達のもとに戻り、一緒に暮らしはじめた。
近い将来、娘となる少女と共に。
家族5人の愛につつまれた生活が今はじまった。





退院が決まったその日、少年は妹について知らされた。
「碇レイ」
という名が与えられた自分の妹について。
少女に初めて会ったのは、リハビリも半ばを過ぎて。
少年の体力もかなり回復した頃だった。

やさしい母に見守られて、少女の新たな人生はスタートしていた。

新たに少年の家族となった妹は、少年が栗色の髪の少女といるのを見つけると、
トコトコとやってきていつも邪魔をしようとした。
そのやさしい、一見頼りなくみえる少女の兄は、彼女の一番のお気に入りだった。
少年が自分を見ているのに気がつくと、彼女は微笑む。
それに少年は最高の笑顔で微笑み返してくれる。

少女は父の、母の、兄の、そして(未来の)姉の愛情を感じながら、
優しく愛らしく、成長していくことだろう。
人間らしく、女らしく。幸せに包まれて。





少年はついに法廷に呼ばれることはなかった。
神となった少年は人々にとって不可蝕の存在だった。

少年と少女は3年あまり二人の日々を過ごした。
少女は少年の前では素直になることができた。
少年は少女を常に想い、優しく接することができた。
ときに口喧嘩はするが、お互いそれが本心ではないことがわかっていた。

少年は高校に進学した。
少女は進学しなかった。

「わたしはもう大学でてんのよ。いまさら高校なんかいってられないわ。
 でもバカシンジはだめよ。
 ちゃんと高校に行って大学を出て、ワタシを養っていかなきゃあね」

少年と少女の生活費は十分過ぎるほど国連から支給されていた。
しかし少女の生来の精神はそれにあまえることを許さなかったのである。

少女はネルフのから技術部が分離して作られた先端技術研究所の第2東京研究所に研究助手として働くことがきまった。分野が多少違っていたとはいえ、もともとドイツで13才で大学を卒業することを許された天才少女である。本来の少女が持っていた闘争心に火がつけられた時、彼女の行く手を遮るものはなかった。

少女が正規の研究員として認められるのにそう時間はかからなかった。



今、少女は昼間は少年と会うことはできない。

しかし帰ってくればいつも少年の笑顔を見ることができる。
夜になれば少年と同じベッドで愛を確かめることができる。
今の少女にはそれで十分であった。





少女は幸せを手に入れた。



*         *         *         *



『ちょっとささやかだけど、婚約記念に私からのプレゼントを送るわ。
 私の趣味で選んだけど我慢してね。
 でも結婚記念のプレゼントは期待してていいわよ』

同時に送られて来た箱にはお揃いのマグカップが2つ入っていた。

片方には青い猫が、もう片方には赤い猫の絵が、
カップを並べた時に向き合うように書かれていた。

マヤの結婚の時は、アスカはお揃いのティーカップを二人に贈った。
彼女が厳選した紅茶の葉をセットにして。

紅茶に関しては彼女は相当な目利きだった。自分で葉のブレンドまで手掛けるほどの。そして当然シンジはそんなアスカに鍛えられた。彼女の好みのおいしい紅茶を淹れる技術を。

シンジは二人に古いロマンス映画のサントラが納められたレコードを贈った。

その旧式のレコードは彼が古物屋を探していて見つけたものだ。30年程前につくられたそのジャケットだけでもなかなかの価値がある。そしてどこから聞きつけたのかマヤの夫となる人もそういう趣味を持っていることを知っていたらしい。

『それと、仲人の件だけど、引き受けることに決めたわ。
 最初は子供達のことがあるからどうしようか迷っていたんだけど、
 司令(あ、いっけない。家ではコウゾウさんって呼べって
 いつも言われてるのよね。他の呼び名は絶対するなって。
 あの白髪を気にしていて子供達に「おじいちゃん」なんて呼ばれた日には
 卒倒ものね。くすっ)に会場のことを教えてもらったんで決心できたわ。
 二人が出会い共に戦ったあそこで式を挙げるなんてロマンティックよね。
 仕事の方は問題無いわ。
 研究所は2、3日なら私がいなくても問題無いし
 彼の方も毎日講義があるわけではないから』

『来週の日曜なら彼も家にいるって言ってるから、ぜひ訪ねて来てちょうだいね。
 それと、あまり堅苦しいのは勘弁してね。
 仲人なんて古臭い伝統は今時はやらないから。
 ただの立会人として、人生の先輩として参加させてもらうわ。
 いいでしょ』

自分の時は互いに家同士の問題があり、きちっと仲人を立てて古風に式を挙げたマヤ。 だが、あまりにも古臭い慣習や作法、気持ちの伝達よりも形式を重んじるその伝統には嫌気がさしたようだ。

『じゃあね、アスカ』

『追伸。手紙は短く簡潔に用件を伝えるのが第一よ。
 長電話みたいに長々と書くのはあんまりよくないわよ』



少女の人生で最高の日が、もうすぐ訪れようとしている。



(つづく)




【 次号予告 】

少年に再び奇跡は訪れた。
少女は幸福を手に入れた。

そして二人の心は一つになった。


次回 「心、永遠に重ねて」


「ねえバカシンジ。私と一つにならない?心も体も一つにならない?」




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