「なに、これは。誰かのいたずら?」 最初、そのメールを受け取った時、彼女はそう声をあげた。 無理もない。一見するとそのメールの中身は意味のない文字の並びに過ぎなかったからだ。 これが何か仕事中で非常に忙しいときに受け取ったのであれば、すぐさまそれは消去されしまってただろう。幸い、彼女は今、時間があった。信じていた男への不信感に憑かれ、委員会で言われた事をずっと頭の中で反芻していた。 一人きりで。 自分の部屋に閉じこもって。 そのメールの送信元が、「母」バルタザールだったことが、まず彼女の注意を引き付けた。MAGIシステムにはメールの送受信デーモンは組み込まれていなかった筈なのに。 次に彼女が気付いたのはその送信者名、『やさおとこ君』。かつて彼女は学生の頃に親友の恋人をそう呼んでいた。 (やるわね。MAGIにハッキングを仕掛けて成功するなんて) そのメールのサブジェクトは『The Last Judgement.』。 「最後の審判、ね。ちょっと簡単過ぎるわよ、加持君」 「今から解析を始めるより、実行した方が早いかしら。 致命的な罠をしかけてるって事もないわよね。 ここは加持君を信用してみましょうか」 その意味をなさない文字列はあるコンピュータ用のバイナリコードだった。かつて世界を席捲したこともある有名なウィルス。気付いてしまえば、実行形式にデコードするのは容易だった。学生時代に使っていた古いノート端末を探し出し、実行した。 「あら、ウイルスチェックはクリアしたの。多少は進歩してるってわけね」 ウイルスを発現させるのは簡単だった。日付を変更するだけで良い。そして冒頭の彼からのメッセージがそこに現われた。 「『三人の思い出』ね。あれのことかしらね」 しばらくして現われた古いOSのプロンプトにその言葉を打ち込んでみる。何の応答もない。ただエラーメッセージも出なかった。今も通常のプロンプトが現われている。メモリダンプを確認してみたが、ウイルスの形跡は残っていなかった。 「あら、これで終わり?期待外れね」 (『母さんが教えてくれる』っていったいなんのことだったのかしら) ウイルスは消滅する直前に端末から何かをどこかに送信していたのだが、それは一瞬のことだったので彼女は見落としていた。 突然、彼女の個人用サーバーにバルタザールがアクセスを開始した。 「マギ!バルタザール?母さん!母さんなの?」 しかし最初に送られてきたメッセージはまたも加持のものだった。
(メッセージ?母さんの) この部屋にも盗聴器が仕掛けられている可能性がない訳ではない。ここまでくるともう、誰も、碇司令でさえも信じられない。独り言を口に出すわけにはいかなかった。
(よく見つけられたわね。 たしかにMAGIには冗長コードが多く残されてるけど、 私もマヤも全然気付かなかったわ、そんなものが隠されていたなんて。 すっかりだまされていたわね。 所詮、私達はアマチュアに過ぎないのね、プロの情報屋さんの前では) 実際のところ、彼女がそう卑下する必要はない。彼女やマヤは十分に熟練したハッカーだし、プロテクト技術も特A級であるのは間違いない。ただ単に、加持がS級のエージェントだっただけである。
(私のこともお見通し、てわけ。まったくこの男は)
(気付いていたの、加持君)
(そう、私はいつも二番目だった) (赤木ナオコの娘。学生の時も、研究者になっても) (二番目の女。あの人にとっても、加持君にとっても) (だから泣くわけにはいかなかったのよ、私は) (他人の前では。彼の前では) (弱みを見せることはできなかったのよ、昔から。今も) (.....原因は違うけど、アスカと、同じね、私も)
(無理なのよ、もう。あの頃の私には戻れないの) (汚れてしまったから。そういう自分に気付いてしまったから)
(さて、どっちから読みましょうか。どっちにしろ、しんどいことになりそうね) ポットからお湯を汲み、インスタントのコーヒーをマグに淹れる。 (そうね、まずは彼の話を聞こうかしらね。 私の知らない補完計画の真相とやら、たっぷりと教えていただきましょう) ファイルを開くリツコ。データはかなり複雑な階層構造をとっているが、各セクションは簡潔にまとめられており、計画の全体像を把握し、なおかつ細部まで容易に理解する事ができるようになっていた。 (ふーん、さすがは加持君ね。よくまとめられてるわ。 それにしてもよくここまで調べあげたものね) 関心するリツコ。ここまでは、E計画の遂行責任者であり実質的にネルフのNo.3である彼女の知らないことは書いてなかった。それらはミサトにも知らされていない重要機密事項のオンパレードであったが。 (ちょっと、何、これ!どういうこと?) (タブリス!渚カヲル?どうして使徒が?) (えっ、母さん。母さんがレイを?) (ということは今のレイは二人目じゃなくて三人目なの?何故、母さんが?) (それにレイは何者なの?ただのクローンじゃないってこと?) (そう、リリス....。ミサト、そういうことだったのね) (これが、これが人類補完計画の真相....) (こんな計画のために、こんな物のために私達は、ミサトも、シンジ君も、) (みんな、みんな命を賭けて来たというの)
(ホント、無責任な言い方ね。私にどうしろって言うのよ) (こんな無理難題を押し付けて。自分だけさっさといなくなって) (私にも、ミサトにさえもサヨナラを言わずに) (ホント、勝手なんだから。あなたって男は...) 知らず知らずのうちに、彼女の頬が涙でぬれていた。 (どうすればいいの?) (加持君....) (ミサト....) (母さん....) (シンジ君を殺すことは私にもできない) (どうすれば、どうすればいいの) (私には無理よ) (どうすればいいのよ) 小型のノート端末をつけ、昔撮った写真を呼び出す。 ミサト、リョウジ、リツコ。三人で並んでとった写真だ。 三人の真ん中に立って、やさしく微笑んでいる彼。 (バカよ。こんなもののために死んだ、アナタは。そして私も) 少し泣いたあとで、彼女は我を取り戻した。 (フー。次は母さんの遺言、か) パスコードには彼女と母しか知らない認証番号が使われていた。 これを見つけるのはあの使徒でもない限り不可能だろう。これが母の手によって書かれたものだということははっきりした。もっとも、先の加持のメッセージを読んだ後では、疑う気は毛頭もなかったが。
(母さん) (ごめんなさい、母さん。私にもそれは遠い夢だったみたいね) (結局、わたしも女であることをやめられなかったわ) (母さんと同じね。愛した男まで) (あれ程、母さんのなかの女を憎んでいたはずだったのにね)
(そう、さっきまでは知らなかった。でも今は知っている)
そこからの話は、先程読んだ加持のレポートとほぼ同じ内容であった。使われているデータ自体は古いものであり、事実関係も2010年までのものに限られていたが。そしてその先数年後に対する予測は驚く程正確だった。
うまく行くと信じていたからこそ、リツコもゲンドウに力を貸したのだ。 だが、今となっては、その判断が果たして正しかったのかどうか、わからない。 ゲンドウへの信頼が揺らぎはじめた今となっては...。
リツコにもわからなかった。 いつだったか、レイを表して『素直なよい子よ』と言った事がある。 『碇司令に似て...』と言う形容詞をつけて。 そして、3人目のレイは、果たして、どうだろうか...?
衝撃の告白であった。 母の死と、時を同じくするレイの交代。 もちろん因果関係を疑わないではなかったが、 起動試験の失敗、そしてエヴァの暴走による事故、 そう言ったゲンドウの言葉を、彼女は信じていたからだ。
(母さん。ありがとう、母さん) (私、やるわ。いえ、やらなければならない) (母さんの話を読んで、できるような気がしてきたわ) (ありがとう、母さん) (ミサトより意思が強い少女....。彼女ならなんとかできるかもしれない) (あとはどうやってレイを、いえリリスを封じ込めるかだけど...)
(そう、私はこれを使う。使わざるを得ないところにきているわ) (ゴメンね、母さん。でも死ぬ時は私も一緒よ) すべてをふっ切った彼女は顔をあげ、前を見上げる。 もう涙は流れるのをやめていた。 (その前にやっておかなければならないことがあるわ) (そうね。確率を少しでも上げる為には彼にも見せておくべきね) (つらいけど。彼にとっても、私にとっても。でもこうでもしないと...) (少しでも彼女からシンジ君を遠ざけることが必要なのよ) 「そのまま聞いて。あなたのガードを解いたわ。今なら外に出られるわよ」 カシャッ。ピーピーピーピーピーピーピ−。 「えっ」 「無駄よ。私のパスがないとね」 「そう、加持君の仕業ね」 「ここの秘密、この目で見せてもらうわよ」 (ミサト。あなたはどこまで知ってるの?) (加持君はどこまで教えたの?) (あなたはどこまで知りたいの? (ここから先はつらいわよ) 「いいわ。ただしこの子も一緒にね」 「アンタ!何やってるかわかってんの!」 「ええ。わかっているわ。破壊よ。人じゃないもの。人の形をしたモノなのよ」 「でもそんなモノにすら私は負けた。勝てなかったのよ」 「あの人の事を考えるだけで、どんな、どんな陵辱にだって耐えられたわ。 私の体なんてどうでもいいのよ」 「でも、でもあの人、あの人」 「わかっていたの。バカなの、私は。親子揃って大馬鹿者だわ」 (これは、私の本心?そう、女としての私の本当の気持ち。母さんと同じね) (冷静さを装った判断を隠れ蓑に、女としての復讐を果たしただけだったのね) 「私を殺したいのならそうして。いえ、そうしてくれるとうれしい」 「それこそバカよ、あなたは」 その場に崩れ落ちるようにして、リツコは号泣しはじめた。 ミサトは独りつぶやいた。 「エヴァにとりつかれた人の悲劇。私も、同じか」 (久しぶりね、あんなに泣いたのは。少しは素直になれたのかしらね) ドアが開いて男が入ってきた。 「碇司令!」 (今更私に何の用なの。必要無いならとっとと切り捨てればいいじゃない) 「何故ダミーシステムを破壊した」 「ダミーではありません。破壊したのはレイですわ」 「今一度問う。何故だ」 「あなたに抱かれても嬉しくなくなったから。私の体を好きにしたらどうです!」 「君には失望した」 「失望!最初から期待も望みも持たなかったくせに。私には何も、何も、何も!」 (駄目、感情を、女の私を抑えられない。もう、今は) 「うっ、うっ、うっ。どうしたらいいの、母さん」 (わかっていた筈なのに。わかっている筈なのに) 「よく来られたわね」 「聴きたい事があるの」 「ここでの会話、録音されるわよ」 「構わないわ」 (あなたは構わなくても、わたしは構うのよ) 「あの少年の、フィフスの正体は何?」 「おそらく、最後のシ者」 (そう、彼が来たのね。もうその時まで時間がない) それから10日間が過ぎた。審判の時が迫っていた。 「お待ちしておりましたわ」 (私はこのままサードインパクトを起こさせるのも、 あなたの計画に素直に従うわけにも、いかないの。 たとえそのために、どんなことをしてでもね) 「ごめんなさい。あなたに黙って先程MAGIのプログラムを変え させてもらいました」 (MAGIの自律防御を活性化させるためとはいえ、 私を自由にしたのは随分と迂闊でしたわね、碇司令。 モジュール Z-999。バルタザールの封印されていたコードを起動したわ。 あとはこのリモコンを押すだけ。それですべてが終わる) 「娘から最後の頼みよ。母さん、一緒に死んで頂戴」 「作動しない、何故?」 「ああ、カスパーが裏切った」 バルタザールが発した即時自爆の提議に対し、カスパーのみが反対していた。 だが、それはカスパー単体の反対のみでは覆らないはずのものであったはずだ。 少なくとも彼女がMAGIを理解している範囲では。 (これは....。どういう事?) (そう....。あの使徒の影響ね) (あれのせいでカスパーの力が相対的にあがったの) (三者の均衡は崩れていたのね、私の知らない間に) (今までずっと、隠してきたのね。この時のために。カスパーが) 「母さん、娘より自分の男を選ぶのね」 「赤木リツコ君。本当に....」 「うそつき」 ターミナルドグマに響き渡る一発の銃声。 彼女の体はそのまま、LCLの湖に崩れ落ちた。 彼女の死は、結果、無駄死にだったと言われるのかもしれない。 最終的に、人類は救われたのだから。 彼女の努力の結果ではなく、少年の選択によって。 ただ、彼女の、彼の、彼女の母親の予測は的中していた。 予想通り、碇ゲンドウの計画も水泡に帰し、サードインパクトは起きてしまった。 だから、それを防ごうとした彼女らの努力に意味がなかったとは誰にも言えまい。 たとえ、結果が失敗だったとしても。 「やれるだけのことはやっておきたいのよ」 そう、彼女はやれるだけのことをやったのだから。 (外伝1、了) |