こおろぎ

by しのぱ


第壱章

 
焚き火の匂いがする。
暮れかかった曇り空の下、雨の為、冷たく黒く湿った畑の土の上を、焚き火の
白い煙が薄く横に流れている。
 
 
アスファルトが惨めに黒く濡れている道を真司は歩いていた。
くすんだグレーのコート。手には使う間も無かった雨傘が握られている。勤め
帰りのサラリーマン。この歳になれば、それなりにくたびれもする。
バスを使えば、15分ほどで家の近くまで辿り着くのだが、今日は敢えて駅か
らバスの通る国道を外れて歩いている。
 
朽ちた葉や木切れを燃やした匂いが鼻腔を刺激し、微かな記憶を呼び覚まそう
とする。子供の頃の想い出?。だが思い出されるものに碌な物はなかった。
ただ喪われたものに対する郷愁のような感情が残っただけだ。
 
道端の、朽ちかかった小屋の傍らに朽ちかけた看板が落ちていた。錆付いて文
字が微かにしか読めなくなっていたが、そこには元気そうな男が強壮剤の瓶を
手にして微笑んでいた。
 
歩む靴は、アスファルトを噛みしめるような音を立てていた。
真司は、小さいころ、父の歩くときの靴のたてるこの音が好きだった。父の横
を歩くとき、いつも、この音が気になって父の足元ばかり見て歩くことになる
のだった。
と言っても、そんな記憶はほんの僅かしか無い。あの日、父が真司を捨てた日
も、真司は靴音をずっと追い続けていた。
 
 
暑い日だった。
泣き続ける真司を残し去る父の靴音が恨めしかった。
 
 
「ふう」
真司はため息をつく。右手を持ち上げる。
握ったり開いたりする癖は、相変わらずだ。何気なくそんな動作をする手に気
付いて苦笑する。
敢えて何も考えまいとしている。
自分の心の動きにそんな注釈を加えてみる。だがそれで何かが解決する訳では
無い。そうこうしている内に手がつけられないほどに事態は動いていってしま
うのだ。

考えたら、壊れてしまう。全ての注意が自分の思考をすりかえる事に集中され
ているのが分かる。

真司の横を、中学生くらいの歳の男の子達が自転車に乗ってすり抜けていく。
何事かを話しているのを聞きそびれる。
ただ、声の調子だけが耳に残る。
そして聞きそびれた話が気になっている。
何かを置き忘れたかのように。

こうして辛うじて保っている事にも耐えられなくなり始めている。
 
大きな欅の木がある家の横を曲がり自宅のある分譲住宅地に入る。整然と瀟洒
な白い壁の家が建ち並ぶ。
午後5時少し前。いつもなら会社にまだ居る時間だ。
勤めからの帰りには未だ早い。
早退して、病人の見舞いの帰り。
日常のサイクルからのささやかな逸脱。
そんな開放感の蕩尽の仕方が散策のような帰宅だというのも侘しいが、と真司
は苦笑する。苦笑できる自分を自分に印象づけようとしている。
そう。なんでもないことなんだと。

通りかかった家から、ピアノの音が聞こえている。薄暗くなってきた街路に、
その音が寒々と渡っていった。
 
 
*
 
 
黒いスチールの門扉はいつも、埃をかぶっていた。
あまり手入れが行き届いているとは言えない殺風景な庭。
花壇だった場所には1本だけ白い菊の花がひょろりと立っている。
しおれた葉が醜い姿を晒していた。
 
その門扉が少し開いたままになっている。
『もう、帰っているのか?』
時計を見る。
5時を少し回っている。
今日、明日香が帰宅するのは7時の筈だった。微かに嫌な予感がする。
新聞受けには夕刊と、何通かのダイレクトメールが入ったままになっていた。
人通りは無い。幾つかの家には灯かりがともり、その中での人の気配が通りを
浸している。
嘆息しながら、新聞受けから、夕刊と手紙の束を取り出す。こうした事が真司
には気になるということを、明日香は一向に意に介さない。時偶、真司は怒鳴
り付けたいほど我慢ならなくなる。しかし言った所で、彼女には結局分からな
いだろう。もっとも、それこそお互い様と言うものだったのだが。
かつては明日香が自分に対して感じる、そうした苛立ちに何とかしようと思っ
たものだったが、今や真司もすっかり居直っている始末だ。そうやってこれま
でを過ごしてきたのだから、今更どうと言うことも無い。
二人で居るということは、こうした些細な傷を蓄えて行く行為なのかもしれな
い。その行方を真司は考えたくは無かったが。
 
玄関のドアに手をかける。鍵は、かかっていない。
 
と、ドアが開き見慣れた栗色の髪が現われた。
「...ただいま」
真司は明日香に視線を合わさずに玄関に入ってドアを閉める。
「シンジ!」
語気に訝しんで真司が顔を上げる。
「なんで携帯のスイッチ切ってんのよ!!。
あんたに連絡が付かないからあたしの職場まで連絡が来て...。
仕方が無いから早退して待ってたんじゃない!」
「あ、ごめん」
いきなりの罵声に、真司は唖然としながらも反射的に答えていた。
だが、何かがおかしい事に気付く。
怒声を発した筈の明日香の顔には怒りの色はない。気遣わしげな、いや哀しげ
な表情と言った方がよいだろうものが浮かんでいるだけ。
その表情から真司は、ようやく何が起こったのかを察した。
「・・・・いつ?」
「シンジが病院を出て数分して急変したって」
「そんなに急に...」
言葉はそれ以上には出て来なかった。
 
真司は、脱いだコートを手にしたまま、立ち尽くしていた。
 
明確な感情は湧かなかった。
味も匂いも、色も無い時間が経過する。
薄暗い玄関ホールの冷たい空気の中を、時計の音だけが進んでいく。
「大丈夫?」
明日香は顔を覗き込むようにして、声をかける。
真司には明日香のそうした気遣いが妙に遠く感じられた。
長い確執の一つの終局。明日香にとっては、既に決着していたことなのだろ
うか。むしろ決着している、そう思い込もうとしていたのは真司の方ではな
かったか。決着したかのように見せる労苦を知らずに負い込んでいたのは、
真司自身が選んだ事ではなかったか。
真司を気遣う明日香は、真司のそうした思考には全く関係していない様に見
える。

後ろめたさ。どこか煩わしい。

そんな感情を打ち消そうとして、真司は明日香に微笑んだ。
だが真司を見た明日香は、思わず両の手で口を覆う。
「なに?」
真司は怪訝そうに訊ねるが、明日香の視線に気が付き、自分の頬を触ってみ
る。

涙が止めど無く流れ落ちていた。

そうして鳴咽が知らずのどを突き動かし漏れた。
泣いている自分を真司の意識は世界から外れた冷たい場所から眺めていた。
ようやく悲しみが湧きあがってきた。
いや、正確には、今感じている「これ」が悲しみというものだと言う認知に
過ぎなかった。


 
数分後、真司は、ようやく落ち着きを取り戻したように見えた。
だが、真司自身の心の中の状態はいささかも変わってはいなかった。感情は
肉体を捉え、そこにはっきりとした表現を齎しながら退いて行っただけだ。
 


明日香は通夜と告別式の場所と時刻を告げていた。
 
真司は気が付くと、スケジュールの遣り繰りを考えている。例の件で客先に
行くアポ、その前に部長にネゴって置く必要、等など。
それが妙におかしかった。

第弐章に続く。

ども(~_~;)。お久しぶりでございます。しのぱです。
えーっと、あの〜、これ新シリーズになります(笑)。
っつーか、ほんの寄り道のつもりで短編として書き始めたら、
『膨張した』(*^^*)
ってぇわけで、結局、全部書き上げるのを断念して連載にしたという(汗)。

そんで、一応、「やおい」ものになる予定です。その手のものに抵抗力の
無いかたには、ちとアレかも知れません。

あのぉ、『神話』の方は・・・ちゃんとやりますんで、お待ち下さいm(__)m

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