こおろぎ

by しのぱ


第弐章

カウンターの隅に二人は座っていた。
壁に架けられたアンティークなランプの橙の灯かりが薄暗い店内に、申し訳程度の光
を供給していた。

「・・・・栄転だね」

そう言いながら真司はグラスを持ち上げ、馨の瞳を覗き込む。少し意地悪の一言も言
ってやりたい。そんな気分だった。
一口すすり、顔をしかめる。といって真司には酒の味は分からない。水割りを、と言
って出されたものを口にするだけのことだ。
「栄転と言うんだね。君も」
馨は、両の手で包むように持ったグラスを見詰めていた。
「ああ。これを栄転と言わない訳には行かないだろう。
あちらじゃ社長だもんな」
なんとなく浮かぬ表情の馨を盛り上げようと、真司は少しおどけた表情で言葉をかけ
る。
いずれにせよ馨は、同期の中でも出世頭であるには違い無い。
真司としては、友人を誇らしく思わずには居られないと同時に一抹の寂しさも感じて
いた。
だがそんな言葉にも、馨は反応を示さない。
「馨、どうしたんだよ」
馨はようやっと顔を上げた。
真司の方を向く。
澄んだ瞳。
謎めいた微笑み。
「そうか。
君も歳を取ったんだ」
真司は顔を顰める。
冗談のつもりなのか、と思い真司は思わず馨の顔を見直す。
だが相変わらず何を考えているのか伺いしれない。
「歳は取るさ。
それは君だって同じだろう」
真司は馨の質問の意図を忖度しないことに決め、当たり障りの無い答えをした。
「大変だねぇ。」
と言って、馨はグラスを一気に煽った。
他人事のように言う馨の口調には微かに意地の悪いものが含まれていた。とは言えそ
れは真司に向けられたものでは無いらしい。
真司はもどかしさを感じる。

店内を低くジャズらしき音楽が流れている。とは言え、大方は客達のざわめきにかき
消されて聞こえない。

「で、話をもとにもどすけど」
真司はしつこく渡豪の話に拘ってみせた。
「や、やっぱり解放してくれないんだね」
と馨は苦笑した。
「そんなに解放されたい話題かな」
ストレートにそんな言葉をぶつけてみるが、馨は乗ってこない。
グラスにはまたバーボンが注がれている。
気まずさを紛らわそうと、
「ま、お約束って事で」
と真司は道化てみせる。
「確かにね。
NW・オーストラリアの社長に転出って言ったら栄転だろうな。
普通」
実際、責任ある立場で海外への赴任は、プレッシャーも大きいのだろう。
とは言え、これまでの馨からすると、その程度の事で弱音は吐きそうにない。
「何か投げ槍だな」
馨はふっと皮肉な微笑みを浮かべた。
「投げ槍じゃないさ。
ただ命ぜられるがままに動くだけの事だよ」
「不本意なんだね?」
真司も多少心配になる。流石に、もう以前のような無茶はしないだろうが、馨は、『会
社なんて所詮そんなもの』流の考え方には組みしそうにない事には変わりはない。
「いや、これは僕が望んだ事だからね」
少々意地の悪い馨の物言いに真司は少し腹が立ってきた。
「じゃあ、話題を変え・・・」
「真司」
馨は真剣な顔で言った。
「なに?」
「・・・・・・
ずっと日本に帰って来ないって言ったらどうする?」
唐突な問に真司は言葉に詰まる。だがこれを真剣に受け取る必要が真司には分からな
い。
「別に今生の別れでもあるいまいし。
その時はこっちから遊びにいってもいいよ。
というより、長くなりそうなのかい?」
「さあねぇ。上の考えることはさっぱり分からない」
「通常は任期はどれくらいなのかな」
「まぁ2年ほどだねぇ」
「なんだ。
2年なんて長いようで短いぞ」
「そうだね」
そういって馨は疲れた笑みを浮かべる。
「いつ行くんだい」
「来週。日曜発。着いた翌日にはもう仕事だよ」
「ハードだな。重役出勤も出来ないとは」
「全くだね」
馨は、飲み干したグラスを揺らしている。氷とグラスが微かに触れ合って音をたてる。

「バルトークやろうって言って、やらずじまいだったね」と馨。
「随分前の話だなぁ。それは。
僕なんて、もう腕は錆付いちゃってるから、ますます遠のいてるよね」
「そりゃお互い様。
でも一度は弾いてみたい気もするんだな」
「あまり心休まらぬ選曲な気もするけど」
「そこがいいんじゃないか」
「最近は弾いてる?」

*

それからは専ら音楽の話に終始した。互いに聴いた演奏に関しての感想、曲の善し悪
しに関しての蘊蓄の披瀝、そして決して実現することの無い演奏の計画。
時間はもうあまり残されていない、ふとそんな思いが心を過ぎった。
『何をバカな』
大袈裟に過ぎる感慨を真司は持て余した。
それが何を意味しているか、から逃れるように首を振る。
馨は、そんな真司を見つめていた。
柔かな微笑み。





巨大な手が人間を掴んでいる。

「さあ、君の手で殺してくれ」
そう言っているのはカヲルだ。
それを見下ろす視点は、明らかに、この巨大な手の持ち主のものに違いない。
それは目の前の全方位に開けたスクリーンのようなものに写されている。
シンジは操縦席のようなところに座っていた。


・・・・これは・・・


記憶が重なる。
シンジは、カヲルを倒さなければならない。
それが人類の為だから?。

何時もはミサトの声が耳元でがなりたてる回線も沈黙している。だが、シンジはその
向こうに居るはずの大人達の焦燥のようなものを感じていた。というよりも、その焦
燥感を自分の中に取り込んでしまっていたのだ。焼け付くような責め立てるような、
「やらなければならないこと」。それとの対比での自分の心許なさ。

カヲル君はシトだから?。
だが、今自分の操縦するこの巨人の手の内にいるのは一人の少年に過ぎない。


カヲル君!。何故?!。
ウラギッタナ。ボクヲウラギッタナ。


手の届かない存在になってしまった。その事にシンジは傷ついていた。その傷を認め
たくなくて憤っていた。
感情が、認識が、狭窄して行く奈落の底。セントラルドグマとは正しくそうした場所
として設えられている。
シンジは脅えていた。しかし何に?。
カヲルがいつ攻撃するか分からないから?。シトとの戦いはシンジに、そうした反射
的恐怖を植え付けている。攻撃される前に、まるで殴られるのを避ける為に腕を前に
掲げるのと同じ感覚で、敵を攻撃する。そうして一瞬、ほっとする。
シンジの戦いとは、そんなものでしかない。
カヲルを相手にしてすら、シンジはその感覚に脅える。叱られるのを恐れる幼児のよ
うな感覚。

コロスンダ。
イマナラコロセル。
コロセ。
シトハミナコロサナクチャイケナインダ、ソウシナイトボクモコロサレルン
ダ。

正当化する論拠をシンジはいつのまにか数えている。
だが、カヲルを殺すことは、それとは何も関係無い様に思えてきてしまう。


「さあ!」


カヲルが促す。

・・・・・ボクヲハジメテスキダトイッテクレタ

カヲルへの思いが、シンジの喉を詰まらせる。

・・・ナノニナンデコマラセルンダ


それは次第にこの状況に対する子供っぽい怒りのような感情に変わる。

「ミサトさん、他に手はないんですか?。もうカヲル君は無抵抗だし、話し合うこと
だって出来るのに。拘束するだけじゃ駄目なんですか?!」
そう訊ねることも出来たはずだ。あるいはカヲルを握ったまま、安全なところへ移動
する事だって出来た筈だ。ATフィールドはもう中和されている。カヲルが敢えてそ
れを振り切ってまで反抗するとは思えない。

だが・・・・・


そんな選択肢よりもシンジは自分の周りに立てられた切迫感に圧倒されていた。

     コロセ。
     シトダ。
     ヤラレルマエニコロセ。

やめろ!。僕の心を急き立てるのは!。


     ハヤクカタヲツケチャエヨ。
     ラクニナルンダ。
     コンナコト、ハヤクカタヲツケチャエバイインダヨ
     メンドウクサイコト、ムズカシイコト

やめろ!。

     ヤメヨウヨ。ダカラ。コレデオワリ。



終り。これで。




巨人の手が握り締められる。
肉が潰れ骨の砕ける音がしたように思った。
肩口が裂けて、骨が覗く。
頚椎がちぎれて首から血が勢い良く吹き上がる。
頭は、微笑んだまま首から離れ、転げ落ちていく。



・・落ちて・・・


落ちた辺りの水面に波紋が広がっていく。
 
関節が疼いていた。
自分がニヤニヤと笑っていたことに気付く。
安堵の、小狡い笑い。
膝を抱えて呟く。
「カヲル君」







救いなど、もう願うべくも無い。


第参章に続く。

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