こおろぎ

by しのぱ


第参章

オフィスの片隅に仕切られたコンパートメントで、真司は部下から、担当プロジ
ェクトの進行状況を聞いて居た。
スケジュール表、担当表等を見せながら課長は現在、ほぼ予定どおりの進捗であ
ると説明している。どうして、この男はこう、首を竦めるようにして上目遣いで
物を言うのだろうか。真司は聊か卑屈にも見える課長の態度に嫌気する。
「営業の方から、バグ修正の進捗率が思わしくない、という話を聞いているんだ
けどね。バグ管理表見せてくれないか」
「は?」
一瞬、課長の目が宙をさ迷う。
「当然、顧客からのバグ指摘って何かで管理してるんでしょ?。
だから、それ見りゃ、どんなバグがどのくらい出てて、どのくらい今直ってるの
か分かるから」
「は、はぁ。いやそんな細かい所までは次長には、アレですんで、ちょっと何な
んですけど」
課長は薄笑いを浮かべて切り抜けようとする。
「ふーん、前の三上君ってそういうの見なかったの」
「はぁ。まぁ」
「でもやってるんでしょ、管理表での管理」
着任以来、真司はこの部署の連中のこうした態度に苛立っていた。勿論、それに
拘泥していては負けなのだが、負けても構わない程度に腹は座っていた。自分の
着任自体、そもそもこの部署に問題があるという証拠なのだから。
真司の問に対して、課長は下を向いたまま押し黙っている。
「じゃ石田君呼んでよ」
真司は、実際のプロジェクトリーダーの名前を挙げた。自分でプロジェクトチー
ムの席にまで出向いて石田に言えば済む話ではあったが、さすがに課長を前にそ
れも出来まい。
「は、あ、分かりました。ただいま」
明らかに課長は動揺していた。どうせ大して報告など受けていないのだろう。中
間管理職はしばしば問題が無いことを期待して、問題の指摘すら止めてしまう者
も多い。真司には課長がそうしたタイプの一人の様に思えた。しかし、こんな調
子でやっていては早晩、部員を敵に回すかもしれんな、と真司は苦笑していた。
暫くして石田が課長に連れられてきた。昨年結婚したばかりの27歳の主任だが、
技術力の高さに加え、調整能力には定評があった。それゆえに今回もプロジェク
トリーダーに抜擢され、新婚家庭にも関わらず殆ど家に帰れない日々が続いてい
る。
それだけでも労務管理上の責任を問う必要があるな、真司はそんなことを考えな
がら、彼に着席を促した。
石田は持参した資料のコピーを真司に手渡した。
「実は、バグ管理表と言ってもそんなものしか無い状況で」
見れば、それは顧客側が自分達で指摘したバグを表にまとめたものでしか無い。
その上に鉛筆や朱筆でごちゃごちゃと書き込まれて薄汚くなっている。どうやら
番号に黒丸がつけられているのが対応を完了したものらしい。
「何だい、これ。これってどんどん新しいバグ出てきたら、お客さん送ってくる
んじゃない?。その度に差し替えてんの?」
「はぁ、まあそうなんですけど」
真司は呆れた。今時、紙でしか管理してないと言う事自体、論外なのだが、その
上、顧客との間のインターフェースすら碌な考慮はしていないとは。
これは石田の管理能力の低さを示しているのだろうか、それともこれほどまでに
状況は逼迫しているのだろうか?。
「それで、対応の完了率はどのくらい?」
「はぁ、やっと50%くらいって所ですかね」
「ちょっと待てよ、テスト期間てどのくらい残ってる?」
「今丁度半分くらいです」
真司は、一つこれは叱らないと駄目だと思った。感情的になる理由も無いし、実
際、怒りの感情すら湧かないのだが、ここは感情を表出しておく方が効果がある
だろう。
「何やってるんだ!、それじゃはっきり言って実質遅れてるんじゃないか!
いまごろになってなんだ!」
「は、はい」
石田と課長がうな垂れる。
真司は平静な口調に戻り、早速、管理票の作成と、指摘された「バグ」の切り分
けのし直しを命じた。顧客からの仕様変更もバグも見境無く対応している状況で
はどうにも調整の仕様が無い。
こりゃあ顧客のところに頭下げに行かなきゃならんだろうな、と真司は暗澹たる
思いになった。原因追求は後回しだ、とは言えなんと無く察しは着いた。この会
社の病気みたいなもんだな。そう思うと乾いた笑いが込み上げてくる。社長がら
みか、この案件も。その前に部長に釘を刺しとかないとな。


真司が自席に着くなり、
「次長、渚さんとおっしゃる方からお電話ですが」
「お、そうか」
馨からか。一時帰国してるのか、まさかオーストラリアからじゃないだろうな。
そう思い、机の上の電話で受けようとした。
「女性の方です」と取り次いだ者が付け加える。その声に微かに非難の色が感じ
られる。
真司の手が一瞬止まる。玲から?。
真司は、受話器をゆっくりと耳に押し当てた。


「碇君」


受話器の向こうから、抑揚の乏しい独特の声。もっとも年相応には声が低くなっ
た様な気がする。
遠い昔からの声。忘れたくても、馨を挟んで常にそこに居ることを互いに意識せ
ざるを得ない人。
だから、その一言が痛みを齎す。

「やあ、お久しぶり。
君はオーストラリアには行かなかったんだ」
努めて明るく答える。友人の細君。明るく友好的で、なお節度を保った応対。
だが、その言葉の陰で自分が身構えているのが分かる。
「ええ」
玲は相変わらず話の接ぎ穂の仕様が無い相槌を打つ。


「碇君?」
「なに?」
昔と変わらない。
まるで会話を始めるプロトコルの様だ。
何故か真司は、そんな懐かしい応答にほっとしている。
だがそれはすぐに切ない痛みに変わる。互いに何も知らなかった頃に戻れる訳で
は無いのだ。
「馨、今日本に居るの」
「え、彼、帰ってるのかぁ、何だ水臭い」
「違うの」
「違うって何が」
「・・・・入院。
病気なの」
「・・・そ、そうか。でも大した事無いんでしょ?
少し無理し過ぎただけ、とか」
「碇君。
お見舞いに来て欲しい。
彼の為に」
「・・・そんなに・・」
「・・・本当は、あたし碇君には来て欲しく無い!
でも・・馨はあなたじゃなきゃ駄目なの。
・・・・・お願い。
・・・来て」
「・・・・」


*



電話を切った後、重苦しい脱力感が真司を襲った。
玲からの話では、馨の病状については何一つ分からなかったので、どれほど深刻
な事か皆目見当もつかない。
ただ、嫌な予感がした。

しかし、なんだってこんな時に。
真司は、先の件の客先に往訪する日時や、その前に社内で行うべき調整等のスケ
ジュールを頭の中で計算し始めていた。
荒んだ気分が真司を仕事に向わせている。



第四章に続く。

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