こおろぎ

by しのぱ


第四章

夕暮れの光が真司の背後からさしている。
真司の前には長い影。
その伸びて行く向こうに道は雑木林の中へと折れ曲がって行く。
日暮らしの声がその暗い木々から染み出してくる中、真司はじっと道の消える辺りを
目を凝らして見ていた。
まだ日中の炎暑の名残がアスファルトに残り、風は止まっている。
だが日が落ち暮れかけていくこの時を真司は寒々しく感じていた。
服を剥ぎ取られたような、無残な思いがした。


そこは本間家の門の前。
そして真司が見詰めている方向に道に沿って隣に洋館風の家が建っている。

ふと気付くとその家の門の前に女の子が立っている。
レモン色のワンピースは強烈な色合いながら、その子の顔立ちには似合っている。
俯いて、腰の辺りに握った拳。

真司はその横顔に思わず見惚れてしまう。

栗色の髪の子自体、初めて見る。外人だ。まるで人形のようだ、と陳腐な形容詞しか
思い付かない。もっとも5歳の真司が陳腐な形容であることを気に病むことは無いだ
ろうが。白い肌に微かに雀斑。
こんなに可愛い子っているのか、という驚き。


「なに見てんのよ!」


女の子は何時の間にか真司に向き合っている。
青い瞳。光彩は内側から光を放っているかのよう。それがどこか眩しいものに感じら
れ、そして真司は惑わされて表情を掴み損ねていた。
だが、その目は泣いていた目だった。

「なーに?!」

真司が自分の目を見詰めている事に気付くと女の子は赤くなって言った。

「なんか用なの!」

女の子がこんな風に怒るのを見るのも真司には初めての経験だったので、却っておど
おどする事もなかった。ただじっと女の子を不思議そうに見ているだけだった。

「あんた、ここん家の子?」

と彼女は顎で本間邸をしゃくるように指して言った。

「ううん」

「じゃ、何?」

「・・・・ここ、おじさんち」

「えーっと、どこに住んでんのよ」

真司は、自分の家に帰りようが無い事に気が付く。
途方に暮れて涙が込み上げてきた。

女の子は腰に手を当て、突然ベソをかきはじめた真司を呆れた顔で眺める。

「そう。何でもいいや。
あたし惣流明日香」

そう言って、明日香は手を差し出した。
真司はその振る舞いに聊か戸惑った。

「僕は碇真司」

そういいながらも真司は明日香の差し出した手を握る決心が付かなかった。


*




丁度、真司が本間家に来る直前、明日香は母を亡くしていた。
本間のおじはずっと後まで、迂闊にもそのことに気付かなかった。何せ近所付き合い
の殆ど無い家だったのだ、惣流家は。



*



「んー、もー、なんで泣いてるの?」

「・・・・置いてかれちゃったの」

「えっ?」

「お父さんに捨てられたの・・・」

「そっか、じゃあんた捨て子なんだ」

それを聞くと真司は本気で泣き始めた。


だが、そんなことに頓着せず明日香はしばらく考えていたが、やがて嬉しそうに目を
輝かして言う。

「じゃあさ、あたし拾ってもいいんだよね?」


「僕を拾うの?」

「そうよ。捨て子なんだから。
だからあたしがあんたを拾うの。
いいでしょ」


「・・・う、うん」

「じゃあんたは私の拾ったものだからね」

「え?」

「なに、文句あんの?」

どうも納得はできないのだが、それを言葉にできない。

「ううう・・・」

『情けないやつ・・・』
そうではあっても明日香からすれば、それが自分の所有物と思えば、なんとなく可愛
くも思えてくる。とにかく、コイツは拾ったものなのだから。

「よしっ。それじゃ、おばさんに言いに行こうっと」

「えええ!!!」




*



本間のおばは、明日香の珍妙な物言いに面食らった。
玄関口で、突然、真司を後ろに控えさせて、青い目の女の子が「この子もらってくわ」
と宣言したのだから。



隣の惣流さんちの明日香ちゃん、という事は知っていた。大層、聡明な子だとは近所
の噂で知っていたのだが殆ど言葉を交わしたことは無かった。

しかし、捨て子なので真司の合意の上、自分が引き取るという主張は何とも無茶な話
だ。しかも、それを当人のおばに対して強弁しようというのだから。
ただ、この娘と言い争うのは面倒だということも見て取れた。
それに、本間家にとって聊か持て余し気味の真司に、近所の相手が出来た事は損な話
では無い。
もっとも、「拾ったものだから家に持ってかえる」という主張はさすがに却下。

「明日香ちゃん、子供の世話って大変よぉ。
おばさん、預かって変わりにお世話してあげる。
それでいいでしょ?。
その代わり、いつでも見に来てくれていいから」

青い目の女の子はちょっぴり不服そうだったが、真司と、おばさんの顔を交互に見比
べ、ようやく引き下がることにした。

「わかったわ。
じゃ、おばさん、ちゃんと世話してね。
頼んだわよ。
じゃっ」

そう言うとドアをさっと飛び出していった。



本間のおばは顔を引きつらせながら言った。

「シンちゃん、大変な子に会っちゃったね。
どう、嬉しい?」

後半は半分皮肉なつもりだったのだが・・・・

「うん、僕嬉しい」

思わず、真司の顔をまじまじと見るが、どうにも本気らしいのを確認すると、おばは
深いため息をついた。


こうして真司は明日香の拾い物となった。




*




おじさん、とおばさん。
真司は自分の保護者をそう呼んだ。

母は、真司が5歳の時に死んだ。
その直後、真司は本間家に預けられたのだ。以来、父とは数回しか会ったことは無い。

本間家は父、玄堂の実家筋の親戚ではあるらしかったが、続柄から言えば全く他人と
いっても良いほどの関係でしかない。
そんな所へ5歳の子供を委ねてしまうのは尋常とは言えないだろう。


*



おじ、おばは確かに真司を丁寧に扱ってくれてはいる。
だが自分達を「お父さん」「お母さん」とは呼ばせようとしなかったし、真司を養子と
して引き受けようと考えた形跡すらない。
一通りの家族らしい処遇。一家団欒を装った食卓。世間並みに買い与えられる玩具や
文房具。しかも欲しいものでも一応の我慢をさせるという配慮までさせた上での与え
方まで。


*



真司は捨てられた、と思っていた。それが彼の原点。






5歳の真司は、訳も分からずここに連れてこられ、何の説明も無く置き去りにされた
のだ。
立ち去っていく父は振り返らなかった。
おじ達も、説明はしなかった。その日の事をなるべく口にしないようにしていた。
だからやがて真司は悟った。ここに連れてこられてきた事自体、口にしてはいけない
恥ずかしい事なのだ、と。
そうして、彼は、捨てられてしまった子供として自我を出発させたのだ。
「自分」が彼にとって痛いほど実感された最初の体験。
今後、彼は、何をするにも、まず自分が捨てられた子である事から考え始めるだろう。
捨てられた子の眼差しで世界を見るだろう。





*





明日香。

隣の惣流家の長女。

本間のおじは、大層、「偉い人」に弱かった。
『あの人は偉い。何しろ会社では部長さんだそうだ』とか、『あの人は偉い。なんせ大
学の先生だそうだから』などというのが彼の口癖だった。
そしておじの基準からすれば、惣流氏は「偉い人」なのだ。なにせ、数学の分野では
世界的な学者であり、それこそとなりに住まわして頂くだけで光栄なことだった。も
っともおじは、惣流氏の研究が何についてものなのか全く理解できなかったのだが。
また、もう一つ、本間のおじが気に入っているのは、惣流氏が日独の混血で碧眼金髪
の見るからに日本人離れした容姿であるせいもある。彼も、外人に弱い、しかも白人
にのみ選択的に弱い、というこの国の人間の一人だった訳だ。

さて、こうした「偉い人」に自分の預かっている子供と同い年のお嬢様が居る、とい
うことは本間氏にとって尚のこと満足この上ない事であったのは言うまでもない。
惣流のお嬢様が毎日真司の部屋に訪れるのも、おじにとって歓迎こそすれ警戒すべき
いわれはなにも無かった。
夫がこうした有り様であることに、おばも何の異存も無かった。何故なら、おばにす
れば、これだけ夫の評価が確定しているのなら敢えて自分の頭脳を煩わせる必要が無
いだけ歓迎すべき事だったのである。
真司は惣流のお嬢様に任せておけば良い。これが碇真司についての本間家の基本的方
針となっていたのだ。


第伍章に続く。


「やおい」宣言しておいて、これぢゃ・・・と思われた方。
・・・・・・・だってねぇ(ポッ)。
いや、気を取り直して、先を進めましょう(笑)。


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