こおろぎ

by しのぱ


第七章

その日は会社を休んだ。

綱渡りのような仕事の流れをあっさりと放棄したとき、真司にはその縺れた案件の網
の目を、最早、思い描くことも出来なくなっているのに気付く。投げ出したのだ。と
言って、たかだか1日の番狂わせが、はっきりとその影響を現すまでには未だ時間は
あるだろう。
そして今、真司は通夜に向っていた。

それまでの時間をどう過ごしていたのかすら真司には思い出せなかった。

都心に向う車両は空いていた。車窓を流れる沿線の町の上に、先ほどから晴れてきた
西の方の空が赤黒く光って見える。その下を未だ残る薄明に紛れて、家路に急ぐ勤め
人や、買い物客を集めた店々が目まぐるしく映っていく。
師走に入っていた。年が改まろうと、別段何の感慨も無いのだが、何とはなく一つの
終りを前にした焦燥感を感じる。そして今は、確かに一つの終りなのだ。終りとは、
ついに直面することの出来ない何かだ。それは到来する前に意識され、到来しきった
後、初めて知られるもの。
そうして馨の死が、その終りが既に訪れたよ、と知らされても真司にとっては何も起
こっていないかのように感じられる。いや起こっていないかのように思い為そうとす
るのだろうか?。

車窓のジェラルミンの枠に手のひらを当てる。手から奪われた熱は、車外の冬の外気
に呑まれていくだろう、命が吸い取られるかのように。そうして手のひらがすっかり
冷たくなるまで、真司はじっと手を見詰めていた。

昨日、明日香に馨の死の連絡を告げられたときの自分の感情を真司は思いだそうとし
た。だが、今のぼんやりとして投げやりな気分が覆い被さって、はっきりとは思い出
せない。
ふと、子供の頃に、自分が寝入る瞬間を「見よう」として頑張って起きていた事を思
い出した。これもそれに似た様なものじゃないのか?。どうしてその時の感情を吟味
してみたくなるのだろうか?。
目を西の空にやる。明るい部分はもうほんの僅かしか残っていない。そこから微かな
光芒が天球に向って広がっていた。いつの間にか雲は大分晴れてきており、幾つかの
千切れ残った雲がゴミのように黒くあちこちに散らばっているだけだった。

真司は首から肩にかけて、ねっとりと纏わり付く疲れを感じていた。ここ数日、いや
もっと前からこの感覚が普通になってしまっている。
毎日少しづつ堆積していく、薄いベールのような疲れ。その一枚一枚は、しかし全く
色も匂いも無く不気味なのっぺらぼうの顔。
叫び出したい。だが何を叫ぼうと言うのか。真司には自分のそんな衝動を理解できな
かった。
さしあたって、馨の死は、真司にとって空虚でしか無い。
しかし、その虚しさこそが、親しい人の死の悲嘆の正体に他ならぬ事を真司は知って
いた。
やがて、それが悲嘆の形を取り、真司の心を痛めつけるには、もう少し時間が必要な
のだ。





************




丸いテーブル。ただ機能的に。
材質はマホガニーか。いや紛い物だ。
ただ、物を載せておくことも、そして伏す事も出来る。
酒瓶。内容は不明。多分、アルコール分含有。
グラス。氷はなく、単にぬるそうな琥珀色の液体が入っている。
テーブルについているのは男一人。
どことなく線の細そうな、柔らかい顔立ち。やや髪は薄くなっているが、もともと柔
らかい髪質のようだ。鬢には白いものが混じっている。
髭がだらしなく剃り残されている。目尻の皺には、うっすらと脂が浮き出している。
焦燥の果ての倦怠。
空ろな眼差しで男はグラスを口に運ぶ。
    『どうしたの』
テーブルの向こうの闇に白い顔が浮かぶ。水色の髪。紅い瞳。
「カヲルが死んだんだ」
    『辛いのね』
「多分。
でも分からない。これが辛いって事なのか。
ただ訳も分からず、胸が締め付けられるんだ。
何も手がつかないんだ」
    『これまでにだってあったでしょ』
「うん。
あったと思う。
でも良く思い出せない。
どうしてだろう。
・・・・・・
みんな居なくなってしまって、一緒に記憶まで持ってかれちゃったみたいだ」
    『だから、辛かったのよ』
「君も辛かった?」
    『ええ』
「君は泣いた?」
    『・・・・多分。あの時始めて涙って分かったの』
「そう」
    『いいえ、前の私はとうに知っていたのにね』
「そう」
    『あなたの為に泣いたのよ』
「そう。
・・・・・思い出せないんだ・・・」
    『何故?』
「悲しくて」
    『かなしくて?』
「ううん、違う。
泣きたくて」
    『どう違うの?』
「泣きたいから悲しいのに。
本当に悲しいんじゃなくて泣きたくなるから悲しいんだ」
    『何故泣きたいの?』
「分からない。
でもその気持ちは何時の間にかやってくるんだ」
    『カヲルが死んで、泣きたいのね?』
「分からない。
でも今は泣きたいけど、
泣けないんだ」
    『昔は泣けた?』
「わからない」
    『昔は泣きたい気持ちになった?』
「わからない。何時の間にか今の僕になった。
その前は良く分からない。分かってたと思うのに」
    『そう...』
「・・・・」
    『カヲルを愛していた?』
「!」
何時の間にか、部屋は暗くなり、テーブルの周辺のみを光が照らし出していた。
    『愛していた?』
白い顔は消えている。
男は、正面の闇をじっと見詰め続けていた。






************




通夜の会場は某霊園の奥にあると聞いていたので、真司はすっかり道については
頭にはいっている気になっていた。
午後6時から通夜だと言う。一般の弔問なら、適宜時間内に行って焼香を済ま
せ、遺族に挨拶をしてから帰ってくるだけのことだ。急ぐほどのことも無いだろ
う。通夜ぶるまいなんぞには出席する気にもなれない。
実際には遺族の親戚ということになってしまうのだが、この場だけ親戚面するよ
うな芸当は出来そうにない。
だからあくまでも一般弔問客として押し通すつもりで居た。
いざ、そう思ってみると斎場に近づけば近づくほど、気が重くなってくる。
7時ころに行けばいいだろう、まだ時間的に余裕がある。
そう言い聞かせ、真司は駅周辺の喫茶店で時間をつぶすことにした。

立ち飲みコーヒー店の奥、壁に向かって居心地の悪い椅子に座り、飲みたくもな
いコーヒーを啜る。店内は、そこそこに混んでいた。紫煙と喧騒と。
今の真司には、そうしたものが自分を隠してくれる様で心地よかった。
本でも持ってくれば良かったろうが、あいにくと新聞すら持っていない。
時間を持て余している。いや、例え持ってきていても読む気になれたかどうか。

時計を見る。
6時30分。
既に通夜は始まっている。
だが、7時には未だ間がある。

店のドアの開く音のする度に、入り口のほうに目を走らせるが、別に誰かを待って
いる訳ではない。
何かを恐れている訳でもない、筈だった。

恐れていないだろうか?。
突然、ドアを開けて入ってきた誰かが、通夜が始まってもこんなところで燻ってい
る真司を見つけてしまうことを。
だが特段それが不謹慎という事でもない。
誰もそれを責めはしまい。


・・・・・・・ざわざわするんだ。



第八章に続く。

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