こおろぎ

by しのぱ


第九章

住宅街の中の霊園は結構広かった。

霊園の門をくぐってから、もう既に5分程歩いている。園内の道には時折、街灯が立
っていて細細とした光で通路を照らしているが、それを除けば辺りは墓石が黒々と立
ち並んでいるだけだ。線香の匂いが夜を浸している。
通夜の会場となっている斎場は、奥の方にぽつんと弱々しい灯かりを見せていた。

7時。

通夜は始まっている。大方の一般参列者は既に焼香を済ませ、三々五々帰路について
いた。その人の流れに逆らって真司は歩いている。

「渚課長って、やっぱ、あれ、だよな」
前から歩いてきたサラリーマン風の3人連れの会話が耳に飛び込んでくる。辛気臭い
雰囲気から解放され、傍目にも興奮して見える。その内の1人のコートは斎場を出て
から歩きながら着たのだろう、襟の部分が捲くれあがっている。

「そうらしいな。
部長も来て無いみたいだし」

「ひゃー、やっぱそりゃ来れんでしょうが」

「だなぁ、花輪も無かったし・・」

そんな会話が真司の脇を通り過ぎていく。
そして真司の背後でくぐもった笑いとなって消えて行った。














*
















斎場の玄関口には受付が設けられていた。電球が弱々しい光を投げかけている。広い
霊園が国道の自動車の喧燥を遠避けている。
一般受け付けで記帳を済ます。毛筆の字が震える。ここに来たことの痕跡を出来れば
真司は消したかった。
受け取った受付の男は慣れた手つきで何通かの香典を束ねて揃え、足元の箱に投げ入
れる。
記帳を終えると受付脇で、年配の女性から引き換え件だといって、みすぼらしいカー
ドを手渡される。帰りに品物と引き換えてくれ、と言う。
マイクを通して変成された読経の声。馨が仏教徒だというのは聞いた事が無い。宗派
とかについては、玲はどうしたのだろう。そんな話を馨はしたことがあるのだろうか。









*









祭壇の両脇に用意される親族の席は殆どが空席だった。
馨は、そう言えば両親を早くに亡くし、親戚も殆ど居ない天涯孤独のような生い立ち
だった。
喪主の席には玲。
その横には、どことなく寂しげなところのある上品な感じの婦人が居た。
かって真司が初めて会った時には、金に染められていた髪も、すっかり白くなって居
る。不思議と彼女には何の感慨も湧かなかった。
玲の後ろには彼が憮然とした顔で座っている。
真司を捨てた男。
父。
当然、居ると予想されて然るべきだった。



*



「真司・・・・」

真司の姿を認めると、立ち上がって入り口までやってきた。
髪は既に白髪が交じり灰色くなっていた。顔を縁取る濃い髭は相変わらずのスタイル
だが、こちらも疾うに色褪せていた。だが、人を上目遣いに冷たく見据える眼だけは
以前と変わらない。とは言え、かつての人を威嚇するような印象は薄れている。歳月
が穏やかさのみを残し、それ以外のものを削り取ったかのようだった。
その人の容貌に自分の見知ったものを見出すとき、真司は懐かしさを禁じ得なかった。
と同時に自分をあれほどまでに苦しめた男の果てかと思うと、悔しい思いがこみ上げ
て来る。

父は、真司に向かい合って立っていた。
その表情には笑みは無いにせよ、険しさは微塵も見られない。
不幸な席に、久しぶりの親族に出会ったものの当然の顔。
だが、その表情故に誰にも償われない真司の心の痛みも大きくなった。

「良く来てくれたな」

真司は顔を背けて答える。

「馨は僕の親友だったからね」

父は、人差し指で眼鏡の鼻のところを押し上げながら言った。

「そうだったな。

だがお前が来てくれたことは私も有り難いと思っている」

「そう・・・」

「玲も・・・」

「・・し、焼香させてもらうよ」

そう言って真司は父の脇を摺り抜け、祭壇の前に進んだ。
正面に馨の笑顔が白い花々に囲まれている。
その笑顔には見覚えがあった。
引き延ばされた白黒写真が、実際にはどう言う光の下だったのかを真司ははっきりと
覚えている。だが、それが何時どこであったのかが、どうしても思い出せなかった。
焼香して、親族席に一礼する。
玲は顔も上げず、ただ機械的に黙礼を返した。
その青い髪はどこかこの場には不躾な感じがした。
白い顔は、無残にも憔悴しきっている。
そして玲の目は誰も見ていない。
居たたまれない痛みを胸に感じながらも、玲を癒すことは真司には出来ないのだ。
顔を背け部屋を出ようとすると、父は、相変わらず先程の場所に佇んでいた。

「帰るのか」

「ああ、明日も早いからね」

その言葉に何とはなく不謹慎なものを感じる。馨には明日はもうないのだから。そし
て玲はこれから先、果たして明日というものを信じて行く事ができるのだろうか。疑
わしい。

「体に気を付けた方がいい。

お前も、そろそろ無理が効かない歳だ」

「心配してくれるのか」

自分の言葉にどうしても刺が含まれる。
それはまた微かな罪悪感となって真司を苛む。

「子供の体を心配するのは当然だ」

「子供?。じゃあ未だに父親であると思っている訳だ」

「ああ」

相変わらずの無表情に真司は父の感情を読み取ることは出来ない。
だが冷たい怒りが背筋を走る。

「・・・父さんは、・・・」

対峙する二人の横を弔問客が通り過ぎて行く。無言で黙礼し、焼香し、静かに帰って
行く人々。
多くは真司の知らない人々だ。
その人々の振る舞いを眺めながら、馨と自分との間を隔つ時の流れを改めて感じざる
を得なかった。
これらの人々との間に、馨はどのような時を過ごしたのだろうか。

「じゃあ、これで帰るよ」

真司は、そう言うと振り向いて、玲の方を見る。
玲は相変わらずロボットのように弔問客への礼を返していた。
誰にも顔を合せない。背筋を伸ばしたまま、体を前に倒し、そして起き上がるという
単調な動作を繰り返す。
蛍光燈の照明がいやに明るい。
光は不躾なまでに克明に玲の姿を照らしている。

「玲・・・・」

真司はその姿に、思わずこみ上げてくるものを感じた。

「真司・・・・私は・・・」

「父さん・・・やめてくれ。

何を言われても・・・」

「真司・・」

二人は、そのまま黙って立ち尽くしていた。

「真司・・・・お前がどう考えているかは知らん。

・・・恐らく私にはそれを知る資格は無いだろうが・・・

だがこれだけは言っておく。

お前は、私とユイの過ごした時間を継ぐものだ。

・・・・・・それだけは分かって欲しい」

違う。父さん。どうして・・・・

「・・

何で!、

なんでこんな時に・・・」

「・・・すまん・・・」

真司ははっとする。

「父さん・・・・」

確かに父の声には謝罪の色があった。それは一度として聞いた事のない調子だった。
真司は何度、その言葉を聞きたい、と思ったことだろう。憎しみつつも何時かは、と
心待ちにしていた、絶望しながら求めていた、そんな年月も、もう心は涸れ果てた今
となっては、何の切実な感覚も戻っては来ない。
父は、そうなって初めて謝罪の意を示したのだ。
それは余りに場違いであり、いや相応しいのかも知れないのだが、だが余りに自分勝
手な謝罪でしか無い。
その父の背後で玲は単調な動きを繰り返している。






*







真司は背を向けたまま、曖昧に右手を上げてみせながら、斎場を出ていった。
来たときと同じく、暗い墓地の中の道を抜けていく。冷たい空気は動いてはいないけ
れど確実に肌を刺してくる。真司は右手でコートの前を、首の辺りで押さえている。
息がコートの縁にかかり、そこから吐息の暖かさが首筋を回ってくる。
真司の靴音と、そして遠い唸りとなった国道の喧燥と。
空には星が凍えている。
















*

















一人、歩く。足元の冷たいアスファルトに街灯に従って影がさまざまな方向に伸びる
のを見つめながら。
革靴が寒々しく、道を噛む音がする。
その音を一つ一つ、心にしまいこむようにして真司は歩いていた。
自分の感情に対する嫌悪。
父を憎む感情も、それをいとも容易に正当化して対峙しようとする姿勢も、そしてそ
の感情の矮小さに辟易しながらも、ただ感情の動きに委ねてしまう意志の無さも全て
厭わしいものだった。
父の演奏を始めて聞いたときから、勝負は付いていた。
どうあがいても碇真司は所詮、ちっぽけな碇真司でしかなく、そんな息子を切り捨て
てでも、六分儀玄堂は六分儀玄堂でなければならなかったはずだった。
あの時から真司は、この事では一つも変わって居はしない。もつれた糸のままに放置
されたままだ。
父の今の言葉に嘘は無いだろう。それだけに空振りに終わらざるを得ない怒り、とは
いえ最初から対象すら不明の憤りは、胸に燻り、自分自身を焦がし続ける。
父が誠実であろうとすればするほど、真司は突き放されるのだ。自身の矮小さの中へ。














*
















「おい、真司」

と呼び止める聞き覚えのある声が真司を現実に呼び戻した。

「あっちで呼び止めよう思たけど、なんやお前ら深刻な会話しとるようやったし」

「あっ・・・」

鈴原柊二は、喪服にベージュのコートを羽織った、極普通の姿だった。
(もっともこの歳で黒のジャージで通夜に来たら奇人を通り越して狂人だが)。

「柊二。久しぶりだな・・・・

 5年ぶりくらいか」

「そうやったかいな」

「碇君、お久しぶり」

更に背後からの声、鈴原の妻、光だった。
やはり喪服の上にコートを羽織っている。

「大変ね」
と光。

「え、何が?」

「奥さんが、よ」

光と柊二は、中学卒業後、違う高校に行った為、玲に会った事はない。

「そうだね」

と真司は曖昧に答えておく。

「今日、明日香は来なかったの?」

と光は意外そうな様子で聞いた。

「うん、まぁ明日香は馨とはそんなに親しくなかったしね」

玲や馨と明日香の間の確執については、光は知らないのだ。

「あらぁ、まだ明日香ってそんな事に拘ってるの?」

光が言っているのは、中学時代の話だろう。まぁそれでも一応の理由にはなっている。

「え?。あ、まあ・・・」

「寂しいもんやろな」
と柊二。

「子供おれへんかったんやろ?。馨」

「ああ」

胸が痛む。

「おったらおったで、そら大変かもしれへんけどな」

「ああ、そうだな」

柊二夫妻は子煩悩だった。盆暮れの挨拶には必ず子供の写真を送ってよこす、まぁ多
少傍迷惑と言えないこともない悪癖を持っては居たが、一方で真司には夫妻と、その
近況がとても微笑ましかったのだ。

「碇君?」

考え込んで居ると、光が心配そうに声をかけてくれた。

「大丈夫?」

「あ、ああ。大丈夫だよ」

「そう、それならいいけど」

光は真司と馨との付き合いの深さから心配しているだけなのだが、真司にはどうして
も、見透かされた様な惧れを感じてしまう。馨のことで自分が心配されるのは居心地
が悪い。
しばらく3人は街灯の間隔も間遠な夜道を、一言も口をきかず歩いていた。革靴がア
スファルトを噛む音が、夜気を伝って行く。
なぜ、この音なのか。真司は再び父の思い出に帰って行く。あの日、真司が捨てられ
たと思った日。いや、むしろ真司がはっきりと覚えている最初の光景はあの日なのだ。
それ以前は御伽噺のようにデフォルメされた記憶しか無い。
自分のこれまでの時間がすべて、長い夜道を、この靴音につき纏われながら一人歩い
てきただけだ、という気鬱になりそうな考えが浮かぶ。

「なあ、真司」

柊二が不意に口を開く。

「あれ、馨なんやろ?」

「・・・何が?」

柊二は言い澱む。

「いや、そ、そのなんちゅうか・・・・

例の利益供与なんたら言うやつ」

「はぁ?」

今一つ真司は何のことか見当が付かない。

「柊二・・」

光が困ったように柊二を呼ぶ。

「すまん、せやけどわし、どうしても納得いかへんのんや。

なあ、おまえなんや知らんのか。

例の事件で、白状したっちゅうのが馨や、言う噂、知っとんのやろぉ?」

そう言えばニュースでやっていた事に漸く真司は気付く。

「いや・・・

何も聞いてないよ」

柊二は残念そうな顔をした。

「そうか。真司も知らんのやったらしゃーないなぁ。

せやけど、どうも馨、

そんなことしそーな奴ちゃうやろ?

少なくともわしにはそう思えるんや。

馨っちゅう奴は、悪いことせえ言われたら黙っておる男やない。

せえへんたら殺す言われたら、

へらへら笑って殺される方選ぶ男やでぇ。」

確かに柊二の言うとおりだ。
馨は常に、人生に対しニヒルと言うのは不適当かもしれないが、どこかどうでも良い、
と言ってしまえそうな醒めた態度を取っていた。
だからたとえ生活が懸っていようが居まいが、嫌なものは否と言う筈だった。
真司の知らない馨がそこには顔を覗かせている。一体、もしそうだとしたら最後の時
間を馨はどう過ごしたのだろう。

3人は、市内電車の駅に辿り着いて居た。ここから先はお互いに反対方向になる。

「じゃあ、明日香によろしくね」と光。

「また、今度呑もや」と柊二。

そして改札のところで別れた。

ホームに向う喪服を着ていない人の群れの中で真司は、黄泉の国から生者の世界に、
たった今戻ったかのような感覚を味わっていた。




第拾章に続く。

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